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二〇二一年度第二回リレー小説 櫻田琥雪 他五人 あわきし そら 櫻田琥雪 (ハクスイ) (なんでこうなっちまったんだ......?) 固い床に倒れこみながら、そう思わずにはいられなかった。 視界の中には、黒い塊――毛に包まれた何かがいた。人より一回りくらい大きいそれは、地面につくほどの髪の毛?をゆらゆらさせて、こちらを見ているように感じる。 ......それ、何かと言いながら、俺はそいつのことを知っていて、だからこそ疑問に思わずにはいられなかった。 なぜ俺だけが、この人喰いの化け物の前で生きていられているのだろうと。 昔の話だ。祖母からこの化け物の話を聞いたのは。 「山の化け物?」 「ああ、昔っからの言い伝えさ。あんな小さな山から帰ってこれなかった奴は、黒い化け物に喰われてるんだと」 「危ないやつなんだね」 「ただ、あいつが出てくるのは夏冬のほんの数日だから、それだけ気ぃつけりゃいい。そのあいだだけ、喰える物を喰っちまうのさ」 「そうなの?」 「帰ってこない奴がいたのは、その数日のときだけだったからねぇ...まあ、信じてか信じなくてかわざとその日に入ってくやつもいたけど、みんなかえってこなかったね」 ――だから、しっかりその日は覚えとき。 (まさか会ってから思い出すとはなー......) () 俺は横に手を伸ばして湿った壁をつかみ、何とか起き上がる。振り返って駆けだす。化け物の髪が後ろに振った腕を撫でる。祖母の家に置いてあった、汚れたシュロ箒の毛先ような感触だった。悪寒がしながらも、走る。走るのをやめてはならない。入り口の光を求め、足が勝手に動くようだ。濁流のように混乱した頭で、なんとか考える。この洞窟を出たら、右へ。石の階段を下りると......右手に大きな岩があったな。あの影に隠れる?いや、リスクが大きすぎる......考えていると、目の前に光が見えた。その次の瞬間にはもう洞窟を飛び出していた。一瞬止まり、息を大きく吸い込む。後ろに目を流す。耳を尖らせる......いない?しかし、油断できない。すぐに走り出し、階段を駆け下りる。岩の前で再び立ち止まる......いない。撒いたのか?念のため岩の裏に身を隠し、階段の上への注意を保つ。もう少し行ったところを曲がったところにある神社。そこへ避難しよう。人がいるのかどうか確認してないが、助けてもらえなくても一休みくらいはできるだろう。手水を飲んでやる。そうして俺は小走りで神社に行った。 行くと、変なおじいさんが楽譜を食っていた。 (きなこもち) 「なんで楽譜を食べているんですか」 俺が尋ねれば、おじいさんはゆるりと振り向いてから、にんまりと口角を上げた。 「お前、これが楽譜ってよく分かったなあ」 「だって、五線譜と音符がある。いくら俺が音楽に疎いと言っても、楽譜であることくらいは分かります」 「普通の人にはこれはただの紙にしか見えないはずなんだがなあ。まあ、良い。ここで会ったのも何かの縁だ。お前、協力してくれよ」 そんな暇はない。逃げなければ殺されてしまう。そう思っていたのに、後ろからは何の気配もしなかった。 「ああ。化け物から逃げてきたんだろう。あれはちと厄介でなあ。ここにいれば、あれに襲われることはない。まあ、ここから出れば襲われて死ぬだろうけど」 俺の第六感が告げている。この人は確実に、この化け物の関係者だ。なんなら、打開策を知っている人だ。 「協力してくれたら、お前を逃がしてやるよ。協力してくれないなら、勝手に出ていけ」 やっぱり。協力するしかないのだろう。 このおじいさんが嘘をついている可能性もあるけれど、他に何かをすることはできない。仕方がない。 「何をしたらいいんですか」 「簡単だ。笛と鈴を探してほしい。この神社のどこかにある。かなり昔になくなってしまってなあ。それからさ、あの化け物が現れて、人を喰うようになったのは」 随分と適当な依頼だ。神社のどこを探せというのだ。 「お前であれば、笛も鈴も見えるだろうし、触れるだろう。俺はこの楽譜を食うのに忙しくてな」 いや、食ってないで探してくれよ。 俺は本音を飲み込んで、仕方なく散策をすることに決めた。 (走ル高麗人参) 「おじいさん、一応確認です。化け物が入ってこれないのはこの神社の敷地内、つまり境内の中ってことでいいんですよね?建物の手前までは入れまーす、とかないですよね?」 「ああ、そうだ。やつは鳥居の内側には入ってこれん。笛と鈴があるのも境内の中だ」 「その笛と鈴はどういうものなんです?というか、化け物と何の関係が?」 おじいさんは無心に楽譜を食べている。蛇腹折りの楽譜は、おじいさんの口から垂れ下がり、床にニ、三回山折り谷折りを繰返して途切れている。 「質問の多いやつだ。お前は助かるために、笛と鈴を見つける。それだけだ」 ひとこと言い終わるか否か、おじいさんはまた楽譜を食べ始めた。 しょうがない、腹をくくろう。 俺は改めて境内を見渡した。鳥居から本殿へまっすぐに石畳が伸びている。本殿の両脇には石灯籠が立っており、その胴体には『**神社』と彫り付けられていた。その他には、本殿に向かって右に何かよく分からない建物があり、左には小さな鳥居と祠があった。 とりあえず、神社で落とし物っていったら、本殿の下の空間にあることが多い。(俺調べ) 俺はしゃがみこんで本殿の下を覗き込んだ。 「いや、お前さっき境内を見回したのはなんだったんだ」 おじいさんが楽譜を食べながら冷静に突っ込みを入れてくる。手伝わないなら口出ししないでほしい。 ......あれ、おじいさんが食べてる楽譜、全然減ってなくないか? 慌てて顔を上げようとして、縁側の裏に思いっきり頭を打ち付けた。 「おお、今のは痛そうだな、大丈夫かぁ〜」 やっぱりおじいさんは楽譜を食べながら話している。 触っただけで分かるくらい腫れあがった頭をさすりながら、おじいさんの膝元を確認する。 楽譜ははじめて会った時と同じ、床に二、三回山折り谷折りを繰返して途切れていた。 (あわきし そら) 本殿の瓦屋根の上(よじ登った)から石畳の石と石の隙間(這いつくばった)まで、「どこだどこだ」と探しまくった。 だが、探し物は見つからない。 東から西へ、深い紺色の空がじわじわと広がっていた。 早くしないと。 夜が来てしまう。 おじいさんは、俺の様子に目もくれず相変わらず楽譜を咀嚼していた。 もう、黒い化け物の存在よりもこのおじいさんの方が気味が悪い。何を考えているんだろう。何のために楽譜を食べているんだろう。 〈笛と鈴〉を見つけない限り、化け物に襲われる心配はないが、俺はこの気味の悪いおじいさんと神社の中に閉じ込められたままなのだ。 どうしたらよいのだろう。 夜が来て、朝が来て、次の日になっても、俺はこのおじいさんと神社でいるんだろうか。 おじいさんの、緩慢に動く口元を見つめる。 「あ」 その時、俺は一か所だけまだ調べていない場所があることに気が付いた。 速足でおじいさんに近づく。 そして、食べかけの楽譜を取り上げた。 「むうぅ」 と、おじいさんがうなる。 だが、俺の行動に抵抗はしない。 楽譜は、五線譜と音符の記されたごくふつうのものだった。 けれども、それを見た瞬間、俺の頭の中にあるメロディが流れてきた。 知っている。 この歌を、知っている。 (櫻田琥雪) その瞬間、頭の中に旋律が溢れだす。さっき、洞窟の中で聴いた音だった。 このメロディは、あの化け物の近くから聴こえていたもので、それが記された楽譜を食らい続けるこのおじいさんは――それまで不思議に思っていたことが線となって繋がっていく感覚が気持ち悪い。戦慄した。 楽譜を取り上げられたおじいさんはずっと唸っている。喋り声だったそれはだんだんと耳障りな音に変わる。そして、食べていた(というより、噛んでいた?)楽譜に記されていたメロディが俺の頭を駆け巡る。おじいさんの声と化け物の声が混ざって、揺れる。 ああ、俺はどこで間違った。 笛と鈴を探す、というのはきっとおじいさんが俺を引き止めるための罠だった。笛と鈴など最初からなかったのだ。つまり、俺が助かる方法など最初からなかったのだった。 視界が眩む。誰かに頭を掴まれて、揺らされているようだ。音も光も匂いも温度も、もう何がなんだかわからない。 おじいさんと化け物の声はもう区別がつかなくなった。今残された思考もいったいいつまで持つか。 そんな頭で、祖母の話の続きを思い出していた。 「ああ、でも、たった一人だけ、帰ってきたやつがいたねぇ。そいつは洞窟から出たところの神社でお参りをして帰ったらしいね。その間に人に会ったけれど、見ないふりしていたって言ってたっけ。夕暮れ時にいないって気づいて探し回ったんだけど、そいつが帰ってきたのは、」 八月三十一日の、二十時過ぎた頃だったね。 今日はいつだったか。夏の終わり、まだ蝉がうるさいと感じたのは覚えている。明日から学校が始まる、なんて話していた今日は............八月三十一日だ。 日が暮れて少しだけ経った気がする。二十時にはなっていないはずだ。 今から逃げればまだ間に合うかもしれない。 そう思い、動かなくなっている体をどうにか動かそうとしたそのとき―― 「少し遅かったな」 さっきまでとは違って、はっきりとした低い声が、耳に飛び込んだ。 歪んだ視界の中に見えたのは、音符が消えた五線譜と、微笑みを浮かべて楽譜を貪る俺の姿だった。
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