眠り姫

スニラ



 私はおばあちゃん子だった。私を叱るのも褒めるのもおばあちゃんだけだったから、そりゃあおばあちゃんのこと、大好きになるよな、と思う。父親は物心ついた時からいなくて、母は仕事場の近くに部屋を借りていたので忙しい時は帰らずにそこで寝泊まりしていた。小さな頃におばあちゃんに預けられてから、大人しい私は人見知りをして母にさえも気恥ずかしくてうまく口を聞けなかった。私はそれでも母を楽しませたくて何度も布団の中で繰り返し練習したとっておきのおもしろ話を披露するも、母の口から「ふぅん」と一言がこぼれ落ちた瞬間に何一つ面白みのない粗雑で野蛮な話に思えて、次第に声を落としながらもなんとか話のオチまで言い切ると自分で笑って誤魔化すのだった。想定していた母からの笑顔を私が母に向ける。母からすれば、ボソボソと話した面白みのないそれに大笑いしていたのだから気味悪かっただろうなと今になって思う。昔、私は話し方が上手くないせいで母は長い間一緒に過ごそうとしてくれないのではないかと思っていたが、ただ私が母にとってそれほど可愛くなかっただけであれらはそれほど意味のない努力だったのかも知れない。誰も私を愛してくれないと、私の中でどこかで悲劇のお姫様が嘆くのはおばあちゃんが側にいてくれたおかげで防がれたけれど、私は次第に母のことが好きではなくなって、でも好きでいたくて、随分と悩んで、そしてそれは真っ黒いモヤになって、頭の理解では掻き出せない奥に収まってしまった。
 それは残念な副産物だけど、福島の山にあるトタンと瓦でつぎはぎのようになった屋根のあの家で過ごした中学二年生までの日々は今もふと、何も関係ないときなんかに思い出したりするぐらいに煌いている。めぐる思い出の最後には必ず夏の終わりのあの日のことが蘇る。あの頃はまだ、夏と秋の間には隔たりがあって、それはいつ来るとはわからないけれど必ずその日になると昨日とははっきりと違う秋の空気が体に触れるのが分かった。足の裏で感じる畳の目もどことなくひんやりとしていて、夏の間にすっかり忘れていた寒いという感覚を取り戻すのだった。
 その日は珍しく祖母は畑に出ておらず、居間からもトイレからも近い六畳の祖母の部屋に私は足を運んだ。真ん中が丸くあみあみのレースになった布団カバーがかけられた布団と、年季の入った茶箪笥、長く重ったるい黄ばんだカーテンの隙間から零れ落ちる頼りなく白い光。カーテンの反対側の壁の隅にまだ新しい神棚が備えられている。おばあちゃんの部屋にはあまり物がない。私はふんわりした布団を覗くと、そこに口を開けて仰向けに寝るおばあちゃんを確認した。少し考えて、おばあちゃんが起きるまでの間は一日が始まるまでのボーナスタイムだということで私は布団の横に真似っこをするように仰向けになって目をつむった。音のない部屋からツーンという無音が聞こえて、どっくんどっくんと心臓が動いているのを感じる。それから静かなこの場所で私だけがうるさいような気がして、目を開けた。天井。私は私の中に微かな眠気も無くなっていることを知っていた。けれど眠りたかった。なんだかもったいないような気持ちになっていたからだ。同じ時間を過ごすのが心地よくて、それは一緒にご飯を食べたりだとか、お風呂に入ったりだとか、テレビを見たりだとかとはどこか違っている。もし言葉にするのなら安心だと思う。深い、深い安心感。放っておかれるのは寂しかった、けれど隣で同じように眠りにつけばお揃いだと思った。すっかり眠り込んでしまって私がそばにいることもわからない相手だからこそ、私は透明人間になったような気分になって自分の表情も声色も言葉選びも気にすることなく好きという感情の心地よい部分だけを切り取って味わいながら、真っ暗になって何も考えない脳みそをそのままに眠りに落としていくことができた。何か気持ちが満たされる訳ではないけれど、胸の奥で死んだように動かない、どこに動かすこともできない、誰もを嫌っている私の部分をそっとそのままにしていられる時間が私には必要だった。私は随分と怖がりな子供だった。だから私は、ただの私のままで誰かを一方的に好きでいられることに安心をしていたのだ。一緒に寝る相手は誰でも良いというわけではなくて、いや、一緒に眠る相手など当時他に母ぐらいしかいなかったから、気付くのは大人になってからだけれど、好きな相手じゃないと絶対にダメだ。......当たり前かもしれない。
 私はあの時もおばあちゃんの方を向いて体を丸めながら、もう一度目を瞑った。頭を空っぽにして、肩にも眉間にも入った力を抜いてみる。考えない。考えない。考えない。しかし、やはりどうしても眠れなかった。私はひどくがっかりした。何にがっかりしたんだろう。こんなに好きなのに。と思ったのを覚えている。私はきっと眠りを共に出来る時間が好きの証明になると思ったのだ。私は、こんなにあなたのことが好きなのよ。好きの気持ちを伝えたかったのではない。ただ私が誰かを好きでいたかったのだろう、と、思う。それから、ずっと一緒に眠り続けることは出来ないのだなと寂しい気持ちになった。そんなことは十分知っているはずなのに、こんな気持ちになってしまって冴えている目がさらに冴える。ゴロンとまた仰向けになって、手のひらを目の上に乗せて、ため息をついた。首だけをおばあちゃんの方に向けて指の間から覗く。おばあちゃん、白い布団カバー、奥には茶箪笥、その上には赤べこ。赤べこ?
 ああ、そうだ。赤べこだ。小学生の時の遠足で私が真っ赤に色付けた赤べこ。おばあちゃんは大事に大事に持っていてくれたのだ。懐かしい。
 だから思い出したんだと私は排水溝に流れていく綺麗な赤を見ながら思った。赤黒くて肌に吸い付くような血が、いくつもの筋を作りながら肌を伝いシャワーからのお湯と混ざり合った末に色水になって吸い込まれていく。汚れた手のひらから腕にかけて少し洗った。今や透明なお湯だけを飲む排水溝を見るとシャワーを浴びる気がなくなったので、私は全裸で手だけをシャワーしている面白人間になってしまった。真っ赤だった手は嘘のように綺麗になった。鼻を近づけてみても匂わない。シャワーを浴びないのは正しかったと、その時に思った。風呂場から出て、腕をブルブルと犬のように振りながら脱衣所に用意したパジャマに着替える。彼と一緒に買ったお揃いのパジャマだ。流行りだと言っていた女の子らしいピンクにサテン生地。いつもはまっさらな体で袖に手を通すのに、整髪剤の不自然な甘さと彼の生臭い血をまとったままだと、すごく変な感じがする。地味な顔にはピンクが浮いて見えて、鏡に映る自分を本当に透明人間が着ているようだと思っていた。それなのに今日は私のために仕立てられた上等のドレスを着ているような気持ちで、これから眠るだなんてきっと脳みそ思っていない。私は眠るんだ、彼の隣で。そう思うと少しだけ口元が緩んだ。
 私はそれからキッチンの方へ彼が横たわるリビングを通って行き、背の低い冷蔵庫の上に置かれたカゴの中に雑に詰め込まれたクッキーや乾燥わかめなどの食料品の中から、白と青色のパッケージの箱を五つ取り出す。未開封の箱を一つ開けて、その中から四枚のシートを取り出して、そこに閉じ込められた薄橙の粒を一粒ずつ銀の薄紙を押し破って箱の中に戻した。一箱分を出し切った後、箱を傾けて全て口の中に放り込んで、水で流し込んだ。二十八粒。彼が今の私を見れば、ズボラをするなと叱っていたのかもしれない。けれど一粒ずつなんて飲んでいられないし、彼はもう叱れない。
 同じことをさらに四回繰り返した後にはお腹はいっぱいになって、リビングや私から少し香る血の匂いが吐き気を呼んだ。開封済みの箱には二シートと半分しかなかったけれど、これだけの量の睡眠薬を飲めばぐっすり眠り込むことができるだろう。私はとても静かな気持ちだった。いつもと変わらないと思いつつ、こんなにはっきりと見えている現実を現実だと感じられていないことに自覚はあった。いつもになりきるようにリビングで眠る彼に向かい合って横になる。フローリングの床は硬いし、血が脇腹を濡らして少し気持ち悪い。彼が寝苦しくなるのが心苦しかったけれど仕方がない。ベッドに運ぼうと足を持ったり、脇を抱えたりしたけれどできなかった。ごめんなさい、と言った。彼はじっと私を見つめている。濁った彼の目はもう私を見てはいない。一体、いつから私のことを見てくれていなかったのだろうか。私はまた、上手くやれなかったのだろうか。それとも。いいえ、彼は私のことを本当に。彼の目を、まぶたで蓋をしてやって、私はその胸の中に収まってみた。彼の胸、私の肩に乗る腕、触れる太もも。かつて一緒に眠った時よりひんやりとしている。暖かさが好きだったのに、突き放すようなその冷たさが、あの時どうしても眠れなくて祖母を起こそうと触れた時に感じたものと同じだと気づいた。それでも私はどこか安心をしている。だって、私があの熱を奪ったのだから。彼を盗ろうとしたピンクの似合う女でもなく、死神でもなく、卑しい有象無象でもなく、この私がこの手で柔らかな腹を裂いたのだから。
 彼がもう私を好きでなくなってしまっていた事実もいつか枯れる愛情のそのいつかが来てしまったことも、一生の愛を捧げても私は一人残されてしまうことも、もう後悔しようとも回避しようともどうしようもできない現実として私を強く強く抱きしめた。
 気づけば私は彼の前で泣いていた。彼は何も言わずに胸を貸してくれた。彼の前で泣いたのも、声をあげてしまうほど泣くと体が熱くなるのも初めて知った。私は彼をぎゅっと抱きしめたけれど、彼は抱き返してはくれない。血に濡れた彼のシャツは私の涙でも濡れる。重い腕と固まった体に埋もれて暗い中で、意識は朦朧とし始める。最後に顔を合わせようとしても涙でぼやけた視界では彼の顔はうまく見えず、それでもいいかと諦めてしまうと頭もぼんやりと曇りだして、今度はひどく眠たくなった。今度こそずっと一緒に眠れる。そう思うとまた涙が溢れた。頬の一筋は燃えるよう。拭って堪えなければと思ってすぐに、もうその必要はないと気づいて何粒も何粒も数え切れないほど伝うのを止めないでいた。ぼんやりと、夢を、誰かに強く抱きしめられて、離さないでいてもらう夢を見ていたけれど、誰のことも抱きしめようとしなかった私にとってそれは、目覚めたらおしまいの夢に過ぎなかった。けれど、太陽とも思えた、温かくて唯一無二の貴方を、悲しくて胸が痛くなるほどに抱いた私の大きく育ったこの好きは本物の愛で、他にはもう何も望まない。だから今度こそ、ずっと一緒に眠り続けられますように。
 おやすみなさい。



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