ウェスリーン王国英雄記②

きなこもち



~あらすじ~
 双子の兄弟であるジェームズとジャックは、兄であるギルバートと三人で平凡に暮らしていたが、ギルバートが魔法使いであることが見つかり、王都で暮らすことになる。ジェームズとジャックは、魔法が使えることを隠しながら貴族の学校に通い、ギルバートは、魔導師として王宮に勤めていた。そんなギルバートはアルフィーと共に秘密裏に何かを始めようとしているようだった。

~主たる登場人物~
・ジェームズ
 魔法使い。赤き竜が使い魔。青色の瞳の少年。
・ジャック
 魔法使い。ユニコーンが使い魔。水色の瞳の少年。
・ギルバート
 ジェームズとジャックの兄。王国の魔法使いが所属する直属軍のトップである魔導師。兎、鷹、ペガサスが使い魔。青色の瞳の青年。
・アルフィー
 ギルバートが信を置く人物。直属軍の副魔導師。
・シャーロット
 王国のテイラー公爵家の娘。義姉に虐められているところをジェームズに助けられて親しくなる。金に近い栗色の髪にキラキラの翠色の瞳(ジェームズ談)の少女。

~ざっくりした設定~
・魔法
 一部の人間だけが使える力。
「魔法は誰かを、何かを願う心」ギルバート談
・杖、詠唱
 なくても魔法は使えるが、あった方が威力や安定性が増す。杖は誓いの際にも使われる。
・使い魔
 魔法使いが呼び出すことのできる精霊。呼び出せない魔法使いも多い。








第二章
「行きたくない! 俺はここでギャリーと留守番する!」
「ジェームズ、いい加減にしろ! 俺だって行かなくていいなら行きたくないが、今日ばっかりは国王に出席を命じられているから諦めろ!」
「そんなの無視をすれば良いじゃないか! いっそのこと魔導師なんて辞めてしまえばいいんだ!」
 埒の明かない怒鳴りあい。とっくに着替え終わってあとは出発するだけの僕はまた始まった喧嘩に呆れるしかない。
「もうすぐ時間もなくなっちゃうのにねえ。どうしようか、ジョイ」
 ジェームズが我儘を言って、兄さんを困らせる。これが三人揃った時のいつもの流れだ。
 兄さんが気づいているかは分からないが、ジェームズは兄さんに構ってほしくて反抗しているだけだと僕は知っている。
 これを仲裁するのもいつの間にか僕の役目だ。
 僕は心配そうに頭を擦りつけてくるジョイを撫でながら、ため息をついてから、二人に魔法をかける。
「【落ち着いて】。【お菓子でも】」
「「んっ」」
 二人の口の中には何かが放り込まれたらしく、もぐもぐと口を動かしている。
「ジェームズ、今日の味はどうだい?」
「美味しい。これってあれだろう。東の島国の砂糖だけで作ってあるお菓子」
「そうそう。この前、学校でもらったんだ。お父上がヤーハン国を中心とした貿易商らしくて東の国のお菓子とかいっぱいあるんだって」
 ニコニコとした笑顔で話す僕にジェームズが食いつく。
「え、どうして俺はもらってないの?」
「ジェームズは教室が違うからじゃないかな......」
 ギャーギャーと騒ぐジェームズを横目に、兄さんに尋ねる。
「兄さん、お味はどうですか?」
「ああ。美味しいよ。砂糖だけで作られている割に、そこまでしつこくないんだな」
「はい。こういったお菓子を作る専用のお砂糖で作られているらしく、向こうでは高級なお菓子とされているみたいですよ。ところで兄さん。そろそろ時間が迫っていますよ」
 懐中時計を兄さんに見せれば分かりやすく眉を顰めて、ジェームズに着替えを促すと僕に礼を告げてからジェームズの髪を整えていく。その時のジェームズの顔が満更でもなさそうなのは僕だけの秘密だ。
 ジェームズの準備が終わると、兄さんはジェームズと僕を並べて満足気に微笑む。
「うん。俺の弟は男前だな」
 そういう兄さんこそ、燕尾服を着こなしている。直属軍の制服であるマントは流石に今日は着ないのか、胸元に直属軍所属であることと階級を示す徽章が光るだけだ。
「さ、行くか。流石に魔法で行くわけには行かないからな。王宮の大広間までは徒歩だ。時間的には余裕だろ」
 僕たちの家は王都の中でも王宮から比較的近い。これは国王が僕たちを監視下に置きたかったからだけど。王都は広いので、このパーティには馬車で王宮に訪れる者も多いようだ。僕たちが王宮に着くと、馬車や人で大分賑わっていた。
 兄さんが入り口の役人に招待状を見せれば中に通される。そこそこな人数が現時点で集まっており、兄さんの姿を見ると燕尾服を着た中年の男性や陸軍の徽章をつけている若い男性、兄さんと同じ様に胸元に直属軍の徽章をつけた女性が近寄ってくる。
「ギルバート君。来てくれたんだね。陛下も君に会うのを楽しみにしている。陛下がいらっしゃったら謁見するといい」
「魔導師殿。今日は無礼講で、後で一緒に乾杯しようじゃないか」
「ギルバート様。今日こそは一曲踊ってくださるかしら」
 多種多様な声をかけられ、それに一つ一つ丁寧に返事をしていく。兄さんの後ろをついて行くジェームズと僕にも適宜大人たちから声がかかる。僕たちは兄さんに教えられた通り、少し戸惑いながらも丁寧に返答する。
「本当にそっくりなのね。お名前を伺ってもよろしいですか」
 豪奢なドレスで身を包んだ女性が多い中で、飾りの少ないコバルトブルーのドレスに身を包んだ女性が声をかけてきた。兄さんではなく、僕たちに真っ先に声をかけてきたのは彼女が初めてだったから驚いた。僕は兄さんの顔を見てから、返事をし、それにジェームズも続いた。
「私はジャックと申します」
「私がジェームズです」
 僕たち双子のぎこちない敬語に女性はくすりと笑う。
「私の方がギルバート様よりも身分が下なのです。そのように畏まった話し方をする必要はありませんわ」
 そう言ってから、女性は漸く兄さんに一礼する。そんな彼女の肩を抱いたのはアルフィーさんだ。
「ギルバート。彼女が例の従妹だ」
「初めまして。ギルバート様、ジャック様、ジェームズ様。オースティン伯爵家のマイラと申します。お会いできて光栄です」
 マイラ様の挨拶に兄さんも答える。
「初めまして、マイラ様。ギルバートと申します。以後、お見知りおきを」
「どうして俺たちに先に挨拶をしたの?」
 兄さんが言い終わるか否かのうちに、ジェームズが被せ気味に口を開く。しかも、砕けた口調で。
 いくら相手が許可をくれたとしても、公式な場で年上に対して敬語を使わないのは周りに何を言われるか分からないのに。
 兄さんはそんなジェームズに容赦なく拳骨を落とし、すぐにマイラ様に謝罪をした。
「申し訳ございません。礼儀がなっておらず。ジェームズ、ご令嬢に対してその口の利き方はなんだ」
「だって、彼女が敬語じゃなくて良いって言ったんじゃないか」
「社交辞令だ。それくらい理解しろ」
 多くの人が集まる場での兄弟喧嘩は人目を引く。人がいないなら僕がなだめるが、ここでは魔法が使えない。どうしたものかと悩んでいると、クスクスと小さな笑い声が聞こえて上を仰ぎ見る。
「マイラ様? どうなさいました?」
「ふふっ。仲が良いと思いまして。いつもこういった感じなのですか?」
「そう、ですね。いつもこんな感じです。僕、あ、私が仲裁できればいいんですけど、ちょっと無理そうですね」
 苦笑する僕にマイラ様も困ったように笑う。
「ギルバートはいつもいつもお説教ばっかり! 普段ろくに家に帰ってこないくせに何なんだよ!」
「いい加減にしろ。今、言うことじゃないだろう!」
 ますます白熱していく喧嘩に会場のほとんどの人が注目していた。その視線に耐え切れなくて、僕が思わず口を開こうとしたときに、アルフィーさんに口を手で塞がれる。彼を見やれば、人差し指を口に当てていた。何も喋るなと。
 自分がしようとしていたことに気が付いて、僕はさっと青ざめた。僕が自分のしてしまったことにしょげているのが分かったのかアルフィーは僕の頭をそっと撫でてくれる。
「二人とも、注目されているからそろそろ黙ろうか。もうすぐ国王陛下もいらっしゃる。ギルバート。お前も立場を自覚しろ」
 兄さんはばつの悪そうな顔で素直に謝罪を口にする。
「すまなかった。ありがとう、アルフィー」
「礼はマイラとのダンスで良いぜ。一曲目で踊ってやってくれ」
 マイラ様の肩を抱いてその場を去ろうとしたアルフィーさんを引き留めて、簡潔に礼だけを述べた。彼は破顔して先ほどのように僕の頭を撫でてから、離れていった。
 兄さんは僕にアルフィーさんへの礼の意味を尋ねようとしたようだったが、丁度、国王の入場を告げる音楽が流れる。相変わらず趣味の悪い下品な装飾で身を固めやがって、と兄さんの悪態が聞こえてくるし、ジェームズは整いつつあるテーブルの料理のことしか見えていない。ジェームズは今にもテーブルに吸い寄せられそうな表情だが、国王が話している間に物を食すのは不敬に値するので、兄さんがしっかりとその腕を掴んでいた。
 国王の挨拶が終わると、皆が国王に挨拶をしようと歩き出す。その順は暗黙の了解で決まっており、直属軍のトップである兄さんは比較的早い。
「陛下。本日はお招きありがとうございます。愚弟のジェームズとジャックです」
「ギルバートの弟のジャックと申します。お会いできて光栄です」
「同じくジェームズです」
 僕たちは何度も兄さんに復唱させられた挨拶を一言一句違わずに言い切る。兄さんはほっとしたように息を吐き出してから、張り付けた笑顔で国王に向き直る。
「これからの陛下と我が国の益々のご発展をお祈り申し上げると共に僅かながらではありますが陛下のために尽力いたします」
「ギルバート、そんな堅苦しい挨拶はよさんか。お前のおかげでこの国は負け無しだ。これからも頼むぞ。ところで、ダンスの相手は決まっているのか。もしよかったら、私の娘とだな......」
「申し訳ございません。相手は決まっておりまして」
 兄さんの言葉に国王はピクリと眉をあげる。
「私の娘がお前と踊りたがっているのだが、それでもその令嬢が優先か?」
 明らかに苛ついている国王に対して、兄さんは笑顔を崩さずに答える。
「王女様からのお誘い、大変嬉しく思います。ですが、私がやっとのことで誘うことのできた女性でして......。今回ばかりは見逃していただけると......」
 少しばかり照れたように、まるで十代の少年が初恋でもしているかのような表情で話す兄さんの演技力に僕はぞっとした。ジェームズも苦い顔をしていたから、同じ思いなのだろう。僕たちとは反対に、国王は舌打ちでもせんばかりの表情で兄さんと僕たちを下がらせた。
 国王の前から辞して、料理のテーブルの近くに行くと、兄さんに食べていいと促される。ジェームズはよほど楽しみにしていたのか、早足でテーブルを回る。
 兄さんはテーブルの近くの給仕にワインを頼むと、一気に煽っている。胃の中に何も入っていない状態でのアルコールは良くないと聞いていたし、兄さんは特別お酒に強いわけではないはずだけど、好きでもないパーティで笑顔を張り付けるのは相当なストレスだから仕方がないのかもしれない。
「おーい、すきっ腹に酒ってのは危ないらしいぞ」
「うるせえ。お前は挨拶終わったのかよ」
「まあ、俺は別に長ったらしい挨拶は必要無いからな。結婚もしているから女性の紹介とかも無いし」
 俺にはウォッカね、と給仕に頼んだアルフィーさんはテーブルの上の料理を嬉しそうに選んでいるジェームズを見やる。給仕から渡されたウォッカの入ったグラスをゆらゆらと揺らし、少しずつ飲み進めながら、兄さんの近くで軽いものをつまんでいた僕を見た。
「お前さあ、喧嘩するのは良いけど、もう少しジャックの方にも気を使ってやれよ」
 いきなり僕のことを言われて、僕は驚いてアルフィーさんを見た。
「ああ? お前に言われる筋合いねえよ。ってか、ジャックは手がかからねえし」
「それがダメなんだろ。お前たちの喧嘩を仲裁するのはジャックだろ。こいつ、さっきもいつもと同じ方法で仲裁しようとしていたぞ。ギリギリで止めたけど」
 そう、ギリギリで止めてもらえた。あのままだったら僕は魔法を使ってしまっていただろう。できれば、兄さんには言わないで欲しかったが、アルフィーさんは僕の気持ちを分かった上で兄さんに伝えているんだ。
 兄さんの様子を伺おうとした時だ。
 ガッシャーン。
 ある程度賑わっていたため、さして注目はされなかったが、近くの給仕が慌てて近寄ってくる程度には響いたらしい。音の出処は兄さんの足元だった。
 中身が空だったのが不幸中の幸いか。燕尾服は汚れずに済んだらしい。
 呆然とアルフィーさんを見つめる兄さんは給仕の声かけで漸く我に返り、給仕に礼を言ってその場から少し離れた。
「それは、すまなかった。ありがとう」
 兄さんは動揺を隠せない顔でアルフィーさんに礼を告げる。
「良いって別に。ただ、気をつけろよ。俺はいつもいるわけじゃねーし、ジャックも大人びているとは言ってもまだ十二歳だ。お前が守ってやらないといけないだろ」
 ああ、僕のせいで兄さんが怒られた。僕が悪いのだから、兄さんは怒らないでほしいのに。
「アルフィーさん。兄さんは悪くないです。僕が浅はかだっただけですから」
「お前は何も悪くない。今回悪いのは確実にギルバートなんだ」
「でも、兄さんにはいつも言い聞かせられているんです。それを破ろうとしたのは僕です」
 僕の反論にアルフィーさんは口を噤んだ。
「お前は可哀想だよ」
 口を噤んだはずのアルフィーさんから聞こえてきた言葉に僕は絶句した。
 可哀想。絶対に人からは言われたくなかった言葉。言われないように、思われないようにしていたはずなのに。
 優しい兄さんがいて、いつでもそばにジェームズがいて。僕は恵まれている。可哀想なんかじゃない。
「僕は可哀想なんかじゃないです。先ほどのことは感謝しています。ですが、そうやって、兄さんを貶めるのはやめてください」
 アルフィーさんは逸らすことなく僕の目を見つめていた。
 この人の見透かすような瞳は初めて出会った時から苦手だ。僕のことを可哀想なんて言ったのも、僕のことを見透かしているからで。
「俺は可哀想なんて言ったつもりは無いが......。だが、まあ、貶めようとなんてしてないよ。むしろ、貶められそうなのは俺の方だ」
 口を開こうとした僕の肩に手が置かれる。手の主を振り返れば、兄さんが困ったように笑っていた。
「ジャック。ごめんな。さっきは止めようとしてくれてありがとう」
「でも、僕......」
「お前は優しいからな。気にしなくていいよ。俺たちを止めるためだって分かっているから。それに、安心しろ。こいつに貶められるくらいなら、俺がこいつを半殺しにするから」
 兄さんの言葉にアルフィーさんはうんうんと大げさに頷く。僕は癪ではあったけど、このやり取りをちらほらと見ている人がいるのも気が付いていたので、アルフィーさんに頭を下げた。
「無礼な行い、お許しください」
 下がったままの頭を乱暴に撫でながら、アルフィーさんは優しい声を出す。
「お前は本当にいい子だなあ。本当にギルバートの弟なのか。俺の弟に欲しいくらいだ」
 ダンスの音楽が流れ始めると、僕は漸くアルフィーさんに解放される。
「ほら、弟たちは俺が見ているから、お前は約束を果たしてくれ。陛下にも先約があるって言っちまったんだから、ちゃんと踊ってこい」
「ああ。悪いな。ジャック、いい子でな」
 兄さんがマイラ様を探そうとすると、彼女はジェームズと談笑していた。兄さんは恭しく手を差し出すと彼女をダンスに誘う。
「マイラ様。私と踊ってもらえますか」
 そんな兄さんの手を取り、綺麗に微笑む。
「ええ、喜んで。それでは、ジェームズ様、失礼いたします」
 いつの間に打ち解けたのか、ジェームズは行ってらっしゃいと手を振っていた。ご令嬢への態度がそれで良いのかと僕が思うのだから、同じように思っているだろう兄さんはそれでも表情に出さずマイラ様と共にダンスを踊る輪の中に入る。
 兄さんが公式の場で女性と踊るのが初めてということで、驚きの声がちらほらと聞こえる。二人を射殺さんばかりに睨みつけているのは第四王女だったはず。
 女性との噂がほとんどなかった兄さんと、突如として副魔導師が連れてきた深窓のご令嬢。二人の間に流れる雰囲気に、周りがひそひそと噂をする。
 一曲目が終わり、踊る相手を変えるタイミングで兄さんは再びマイラ様の腰を抱く。二曲続けて踊るのは相手が己の結婚相手または婚約者の場合のみで、独身の兄さんは本来であればマイラ様とは別の女性と踊らなければならない。内輪のパーティならまだしも、国王もいるこのパーティで兄さんがマイラ様に二度目の踊りを申し込むのは、婚約を申し込むのと同義で扱われるはずだ。
 二人は綺麗に笑って、次の曲でも踊り続けた。その様子に見惚れていたのは僕だけではないはず。
「うーん、踊ってやってとは言ったけど、婚約までしろとは言ったつもりはまだ無いんだけどなあ」
 今日は踊らないと決めていたのだろうアルフィーさんは新しくもらったワイングラスを口につけながらぼやく。
 アルフィーさんの両脇を陣取っていた自分たちに彼の視線が落とされたところで、ジェームズが口を開いた。
「マイラとギルバートは結婚するの?」
「あー。そうなるかもな。ていうか、こういう場では敬語くらい使え」
「ギルバートみたいでうるさいなあ。うーん、まあ、マイラだったら優しそうだし別にいいかな。でも、一緒に住むのはちょっとなあ。君も分かっていると思うけど」
「そこに関しては心配いらないぜ。マイラもお前らと一緒だからな」
 ジェームズが家でも魔法が使えなくなるのは不便だということを隠しながら言うと、アルフィーさんは驚くようなことを言ってくる。
「一緒って?」
 僕が尋ねれば、アルフィーさんは兄さんたちから目を離さずに答える。
「そのままの意味だよ。お前らと同じ境遇ってことだ。そうでなければ、いくら従弟だからってお前らの兄貴に彼女を紹介したりしねーよ」
「それなら、俺はマイラと一緒に住んでもいいよ!」
 嬉々として声を張るジェームズは本当にマイラ様のことが気に入ったらしい。ジェームズとは対称に僕は少しだけ、自分でもよく分からない不安に駆られる。
「ジャックは、マイラが気に入らないか?」
 困ったようにアルフィーさんに問われて、僕は慌てて首を横に振った。
「あ、いや。マイラ様は素晴らしい方だと思います。先ほどお話した時も、優しかったですし。ただ......」
 言い淀んだ僕の言葉をアルフィーさんが待ってくれていると、ジェームズが口を挟んだ。
「ジャックはただ不安なだけなんだよ。どーせ、俺なんかよりすぐ仲良くなっちゃうくせに」
 ジェームズの言葉に僕は苦笑いをすることしかできず、それっきり閉口するしかなかった。そんな僕にアルフィーさんは何も言わなかった。
 曲が終わり、兄さんとマイラ様が腕を組みながらこちらに歩いてくる。
「お前、遊びじゃないだろうなあ」
「なっ。そんなわけないだろ」
 演技でもなく、素で照れているのは兄さんの耳を見れば誰しも分かる。その様子に満足したのかアルフィーさんはほっと息を吐きだす。ジェームズがどこか嬉しそうにこちらを見てきたので顔を見合わせてそっと笑う。ずっと自分たちのために生きてきてくれた兄が幸せになるのであれば、僕たちだってとっても幸せなのだ。
「近いうちに、お父上にご挨拶に伺います。仕事を放ってでも必ず会いに行きます」
「ふふ。仕事が終わってからで構いませんわ。仕事を放棄するのは駄目ですよ」
 朗らかに笑いあう男女に口を挟む者はいないだろう。ましてや、片方は歴代最強と謳われる魔導師だ。誰だって馬には蹴られたくないはず。
 兄さんを狙っていた女性がハンカチを噛む気持ちであろう中、二人を見ていると、ジェームズが口を挟んだ。
「ねえねえ。マイラはいつから俺たちの家に来るの?」
 何故、一緒に住む前提で話を進めるのだろう。そんなことを言ったら、マイラ様が嫌がるかもしれないのに。
「ちょっ、ジェームズ。一緒に住むとは限らないよ。兄さんだって別邸を持ったっておかしくないんだから」
「え、じゃあ。ギルバートは俺たちと一緒に暮らさなくなるってこと? そんなの、俺は許さないよ。そんなことするなら、俺は二人の結婚を認めない」
 偉そうに腕を組んで主張するジェームズを呆れたように困ったように見つめた。それを見て吹き出しそうになっているアルフィーさんと、ジェームズの気持ちは嬉しいのだろうがマイラ様になんと声をかけていいか分からない兄さん。
 そんな中、クスクスと綺麗な笑い声が降ってくる。
「ご心配なさらないでください、ジェームズ様、ジャック様。お二人のお兄様と結婚させていただいたら、私は皆さまのお家で一緒に暮らしたいと思っております。お父様も賛成なさってくれるはずです。お二人は許してくださいますか?」
「もちろんだよ! 一緒にご飯食べてくれる人が欲しかったんだ! ジャックもだろ?」
 ジェームズの問いに対して、僕は自分が何を答えたのか覚えていない。ただマイラ様の声色は酷く優しくて、余計な音が聞こえなくて、記憶にも残っていない母の声とはこういうものだったのだろうかと思うと、先ほどまでの不安がすっとなくなっていくようだった。
 こうして、僕たちにとっての初のパーティは兄さんの婚約騒動となったのだった。
※※
「女性と踊るのは初めてでして。ご不便をおかけしたらすみません」
「いいえ。私こそあまり得意ではないのです。ギルバート様のリードは踊りやすいですわ」
 上品で立ち振る舞いのしっかりとした女性だと思った。魔法の扱いも長けているのであれば、隠し通すこともできるだろう。魔法を使うことさえ我慢できれば、もっと身分の高い家の子息とも結婚できるに違いない。己の今後を考えて、彼女とは結婚しない方が良いと思った。
 ひょっとしたら犯罪者になる身だ。弟たちのために失敗はできないが、万が一の時、弟たちを逃がす算段くらいはつけてある。しかし、今、彼女と婚姻を結ぶとなれば、彼女はどうする。彼女の実家は。
 守るものが多いと身を亡ぼすのは分かっているのだ。だからこそ、彼女とは何もないままにした方が良い。
 そう思っていたら、彼女は俺の耳元で囁いた。
「今後のこと、お兄様から聞き及んでおります」
「アルフィーが?」
 俺の返事に彼女は小さく首を振る。
「ギルバート様を社交界で初めて踊る相手として紹介していただいたときに教えていただきました。もし良ければ、ギルバート様の手を取ってあげてほしい、とも」
 あいつは余計なことを。もしオースティン伯爵がこちらの敵だったらどうするつもりなんだ。
「そうでしたか。そうであれば、貴方はこの手を離した方が良い」
「そうおっしゃるだろう、ともお兄様は教えてくださいました。お兄様の言葉も貴方様の言葉も関係なしに、私が決めて良いとお兄様はおっしゃってくださったのです」
 彼女はクスクスと笑いながら、話を続ける。
「私は、ギルバート様の手を取りたいと思っています。貴方の夢を私も見てみたい。私はもう覚悟はしてまいりました」
「ですが、貴方だけではなく、貴方のお父上は......」
「お父様も覚悟の上です。ご安心ください。もし、ギルバート様が私の手を握り返してくださらなくても、決して他言はしません」
 覚悟をしている、というのは嘘ではないのだろう。その栗色の瞳の中には迷いも怯えも見られなかった。
「あと、ご存じだとは思いますが、私には弟が二人います。私は、あの子たちを一番に優先している自覚もあります。それでもいいのですか」
「それでも構いませんわ。無理に愛を囁く必要はございません」
 丁度曲が終わり、本来であればここで相手を変えなければならない。だが、俺はもう一度彼女の腰を抱く。
「もしよろしければ、もう一曲お相手願えますか」
「意味をお間違えでなければ喜んでお相手いたしますわ」
「願わくは、これからも末永く踊っていただけると嬉しいのですが」
 俺の言葉に彼女は笑った。
 そのまま二曲目を踊るのは、なんだかくすぐったいような幸せなような不思議な気分だった。
※
「それでさ、俺、嬉しかったんだよね。ギルバートって俺たちのことばっかりだったから、ギルバートが自分のことで幸せそうなのは初めて見たからさ」
 初めて彼女が俺に笑ってくれた日から、俺とシャーロット嬢は授業後に少しだけ話す関係が続いていた。俺はジャックと帰るし、シャーロット嬢も遅くなると家族に怒られるから、あまり長居はしないと決めていた。
 家族のことは心配だったけれど、他人が首を突っ込んでも良いことは無いことくらいは分かっている。ちなみに、ジャックのところにイザベラ嬢が来たらしくて、俺はしこたま怒られた。
「ジェームズ様はお兄様が大好きなのですね」
「なっ、そんなことないよ。......、ただ、まあ、感謝はしているかな。俺たちを育ててくれているし。それに、ジャックにも」
 彼女は何が面白かったのか、クスクスと笑う。
「そういえば、ジェームズ様のお兄様は王国の歴史上、最も優れた魔法使いだとお聞きしました。ジェームズ様はお兄様と違い魔法は使えないのですか?」
 魔法が使えるのがバレたらここにはいられない。彼女はそれを知らないのだろうか。それとも、親に何かを探ってこいとでも言われたのだろうか。
 シャーロット嬢のことは好きだけれど、テイラー公爵家はギルバートが率いる直属軍とは対立する位置にあるってジャックに言われた。仲良くするのは構わないけれど、弁えろって。
「もし俺に魔法が使えたなら、俺はここにいないよ。魔法使いは年齢関係なく徴兵の義務が課されているから。でも、俺はギルバートとかジャックを守るためなら、軍に入ったって良いのにな」
 半分嘘で半分本当。
「あ、そうですよね。すみません、無知なもので」
「ううん、気にしないで。ここに編入した時なんて、魔法使いの血縁がどうして、とか、こいつらも魔法が使える戦のための人間だ、とか、この学校には相応しくない、とか散々言われているから、悪意が無くて聞かれるなら、全然気にしないよ」
 俺が笑えば、彼女はほっとしたように笑った。シャーロット嬢は何処かいつも相手の機嫌を伺いながらビクビクと怯えている節があった。家庭環境を考えれば分からないでもないのだが、そういう態度もイザベラ嬢の意地悪に拍車をかけていそうだなと思っていた。
「ねえ、シャーロット嬢。君はもっと自信を持って良いと思うぞ。出自に負い目があるのは分かるけど、それは君にはどうしようもできない。だったら、もっと胸を張って生きていくべきだよ。君はそうやって生きていく権利があるのだから」
 俺たちとは違って、彼女はもっと胸を張っていいんだ。貴族はそんなに優しい生き物ではないけれど、それでも、彼女の父親は確かに公爵で、彼女は養女としてきちんと貴族教育を受けている。何も恥じることは無いはずなんだ。
「俺は、そろそろ帰るね。また明日」
「ええ、また明日」
 ニコニコとしながら振られた手には、俺があげたリボンが付けられていた。彼女はあのリボンを毎日どこかに付けてきてくれるから、俺は嬉しい限りだ。
 教室に帰れば、ジャックがいて、今日はいつもの分厚い本ではなくて何か手紙のようなものを読んでいた。
「何それ、手紙?」
 俺が後ろから声をかければ、彼は声もなく驚いたようで慌てて手紙を折りたたんだ。ちょっとだけど見えてしまった手紙には、ちょっと丸まった字で、可愛らしく気持ちを伝える文章があった。
「ひょっとして、恋文かい?」
「あ、えっと、うん。そうだね」
 しどろもどろに答えるジャックは明らかに動揺していて、少し面白くない。
「それ、どうするの?」
 どうするかなんて聞いたところで何にもならないのに、ジャックがどうするのかどうしても気になってしまった。
「どうもできないよ。だって、手紙の主はご令嬢だもの。家が相手を決めるのが筋さ。これだって、気持ちを知っていてほしかっただけで返事はいらないって書いてあるしね。貴族っていうのは、可哀想だなって思うよ」
 ジャックの横顔は何故か、酷く寂しそうだった。自分のことでもないのに、まるで自分が悲しんでいるみたいな。それとも彼には好きな人がいるのだろうか。
「ジャックはさ、好きな人とかいるの。俺たちは貴族じゃないし、貴族よりは好きな人と結婚しやすいはずじゃないか」
「いないよ」
 ギルバートだったら騙されたかもしれないけれど、俺には分かる。本当に好きな人がいるかどうかは分からないけれど、ジャックは今、確かに動揺している。
「そんな顔して言われても信用できないよ」
「そんな顔ってどんな顔だい」
「動揺していますって顔。他の皆が騙されても、俺は騙されてはやらないよ」
 ジャックは困ったように笑った後、
「でも、本当にいないんだよ」
 と言った。今度は嘘をついているようには見えなかった。
「帰ろうか。今日は兄さんがマイラ様の家に挨拶に行くって言っていたから、どうなるか楽しみだね」
「そうだった! マイラが一緒に住むのは楽しみだなあ」
「だから、まだ決まったわけではないんだって......」
 ジャックの呆れた声を聞き流して、俺はジャックの手を引いて走るようにして帰路についた。
 家に帰れば丁度ギルバートも帰宅をしたところだったらしく、軍のマントを羽織ったままだった。
「お、二人ともおかえり」
「ねえ、ギルバート。マイラはいつからここに住むの?」
 俺はギルバートに駆け寄って真っ先に尋ねた。後ろで、ジャックが、ただいま帰りました、って言っているけれど、俺は挨拶なんかよりマイラの方が気になる。
「お前は、本当に彼女を気に入ったんだな。そんなに話をしていた訳じゃないだろう」
 ギルバートは不思議っていう感情と嬉しいっていう感情が混ざったような顔をしながら言う。
「うーん。なんでだろうね。何となくかな」
 俺は誤魔化すように笑ったのに、それはジャックのせいで簡単に水泡に帰す。
「素直じゃないなあ、兄弟は。素直に兄さんを幸せにしてくれそうだからって言えばいいのに」
「ジャックはいちいち五月蠅いよ!」
 俺がわざと誤魔化したことなんて分かっているだろうに、ジャックはわざと気が付かない振りをするのだ。
 ジャックに掴みかかろうとすれば、ひょいと首根っこをギルバートに掴まれる。振り返れば、ギルバートは笑みを零している。
「俺は今の時点で十分幸せだよ。マイラ様とは戦争が終わったら正式に婚約をして式をしようと思っている。だから、一緒に住むのは次の戦争が終わってからだ。彼女のお父上もそれが良いだろうって。うちの中であればいつでも魔法が使えるし」
「そうなんですね。マイラ様はお料理をするのでしょうか。僕、誰かと一緒に魔法を使ってお料理をしてみたかったんです!」
 ジャックが嬉しそうに声を上げれば、ギルバートはその頭を撫でていた。
 それにしても、ジャックがこんなにすぐに他人に懐くなんて珍しい。ジャックは普段は大人しくいつでも笑顔だから人には好かれやすいけど、彼自身はいつも上手に他人と距離を取っているはずなのに。
 マイラは確かに優しそうだったし、話していて実際に優しかった。俺とジャックからギルバートを取り上げる存在ではないのだろう。でも、ジャックがすぐに懐いたのは少しだけ不思議だった。
 ジャックの質問にギルバートは嬉しそうに答える。
「料理はあまりしないそうだ。まあ、俺たちと違って生まれた時からのご令嬢だしな。だが、お菓子の類は自分で作るそうだから、料理も一緒にしてくれると思うぞ」
「お菓子! 本当ですか! 僕、手の凝ったお菓子とか作ってみたかったんですよ! 学校の子たちにはよくもらってばかりですし」
 まあ、俺もマイラは好きだから、どうでもいいや。
※※
「全てご存じだと聞き及んでおります」
 俺が言えば、オースティン伯爵は首を縦に振った。
「アルフィー様から聞いております。私も妻も、この子が幸せになる可能性があるのであれば、そちらに賭けたいのです」
「ですが、私が失敗したら、マイラ様も伯爵様も死刑は免れません。やはり、破談とした方が......」
 悪い未来に怖気づいている俺の言葉に伯爵は小さく呟いた。
「今も死んでいるようなものではありませんか」
「え......」
「普通の貴族や平民であれば家柄や圧力はあれど、基本的には軍に所属するかどうかは自由ではありませんか。魔法が使えるからと言って、性別年齢問わず強制なんて。しかも、死ぬまで戦わされ、騎士と違って名誉も無い。それに、魔女は魔力の強い魔法使いの慰み者にされていたと伺っております。そんな死んだような人生を送らせることなんて、私にはできない。それだったら、私は死んだって良い。娘やその子どもたちが笑える国を作ろうとする人に手を貸したい。娘のためなら、私は人を殺めることだって、死ぬことだって怖くはない」
 その手は震えていて、伯爵夫人がそっと上から手を重ねた。その優しそうな顔には、確かに意思を持った瞳がある。
「魔導師殿。私たちは、貴方様に手をお貸しします。人脈、場所、お金、必要な物は何だっておっしゃってください。尽力いたします。ですので、一つだけ約束をしていただけませんか」
「なんでしょうか」
「もし失敗したら、マイラだけでいいのです。どこか安全なところにこの子を逃がしてくださいませんか」
 伯爵夫人の瞳は踊った時の令嬢と同じだった。なるほど、彼女の性格は夫人譲りか。
「はい。必ず彼女の命は守ります」
 俺の言葉に伯爵夫妻は頷いてくれた。
「正式な婚約はクーデターの後にしようと思うのです。私は一ヵ月後のアカナ連邦共和国との戦争に参加しなければならない身。戦争後に婚約をする、と言えば周りが不審に思うことは無いでしょう」
「ああ、それで良いと思います。ギルバート様、どうかお願いします。この国も、娘も」
 オースティン伯爵が頭を下げると、同じように夫人も頭を下げてきた。
「やめてください。頭を下げるのはこちらの方です。私も、尽力いたします」
 俺も頭を下げ、その場はお開きとなる。伯爵邸を出ても陽は高く、あの子たちよりも早く帰れそうだった。
 家に帰って、マントを脱ごうとしたところで、家の扉が勢いよく開く。
「お、二人ともおかえり」
 と声をかければ、挨拶もなしに矢継ぎ早にジェームズが質問をしてくる。ジャックはお行儀よく帰宅の挨拶をしてくれた。二人とも伯爵令嬢のことが気に入っているらしく、そのことが気になって仕方がないらしい。自分と婚約する予定の女性を弟たちが好いてくれること自体は嬉しいが、何をもってして好いているのかが分からないから、ジェームズに聞いてみた。
 すると思っていたよりも嬉しい答えが返ってきたから、俺の顔は締まりのないものになっていただろう。ジャックに掴みかかろうとするジェームズの首根っこを掴んで、今後の予定を話した。すると、ジャックが嬉しそうに声を上げるので、ジェームズを掴んでいる反対の手でジャックの頭を撫でた。
 この二人がこんな風に誰かをすぐ気に入るのは珍しい。
 そう、俺が伯爵令嬢を婚約者にすることが嫌ではなかったのは、これも大きな理由だった。
 ジェームズは誰にでも人懐っこいように見えるため、よく人に囲まれるが、実際は警戒心が強い。本人は無意識だろうが、初対面で誰かと打ち解けることはほとんどし、無い打ち解けるまでに時間がかかる。本人の明るさと対話能力でそれが露見していないだけだ。
 対してジャックは、大人しくいつでも笑みを湛えているのでジェームズとは違った意味で人に囲まれやすいが、適度に距離を保つのが上手い。
 ただ、良くも悪くも一度気に入ってしまえばすぐに懐くジェームズに対して、ジャックは中々懐かない。ジャックは未だにアルフィーにさえ懐いていないのだから。
 そんなジャックがすぐ懐いたというのは、個人的に嬉しい限りだった。
 俺はこの普通の幸せを守りたい。
 そのためにもクーデターを成功させなくては。
※
 いつも通り帰るつもりだった。
 ジェームズと一緒に学校を出て、話をしながら家に向かう。多くはないが、兄さんも可能な限り早く帰ってきてくれる。
 もうすぐ戦争が始まり、兄さんが参加するからこそ、そんなどうということのない日常が僕には幸せで、続いてほしいと願うものだった。
 帰り道の途中、ジェームズが急に立ち止まった。
「今、何か聞こえなかった?」
「え、そう?」
 僕は首を傾げてから、少し耳を澄ましたが何も聞こえなかったから、すぐに首を横に振った。
「何も聞こえないよ?」
「うーん、俺の勘違いかなあ」
 帰ろうか、と言いかけたとき、その悲鳴はしっかりと僕たちの耳に届いた。
「ほら!」
 ジェームズは僕の制止も聞かず、声の方へ走った。
 僕たちが通って帰るのは大通りだが、大通りから一本細い道に入ると暗く人通りが少なくなるのがこの街の怖いところだ。そういった道では、強盗や暴行などの事件が少なからず起きている。私欲の渦巻く王都ならではの、貴族が裏で糸を引いている事件も多いと兄さんに聞かされていた。
 大通りから路地に入ったところで、それはあった。
 同じ学校の制服の女の子だった。男に口を塞がれ、足を縛られている最中、涙目で僕たちを見つめ、必死に助けを求めている。
「何してるんだい!」
 ジェームズは大声で叫ぶ。
「その子は嫌がっているだろう! 離してくれよ!」
 男たちはヒソヒソと話したあと、にんまりと笑った。
「お前たちは魔導師の弟か。ちょうど良かった。収入が増える」
 ジリジリと近寄って来る男たちに対して、僕たちは身構える。
 走って大人を呼んでくるか。でも、魔法使いが混ざっているから、その間に逃げられてしまう。
 どうしようかと考えている間に男はそばまで来ており、あっという間に二人は捕まってしまった。必死に抵抗をしている時に、隣から聞こえた言葉に背筋を凍らせた。
「【俺たちを離せ!】」
 本人は意図せずに発した言葉だろう。しかし、それは確かに魔法の詠唱の意を担っていた。
 ジェームズの言葉に男たちは弾き飛ばされ、驚いた顔をしている。
「はは、君、魔法使いだったのか」
 後ろの方から聞こえた声に僕たちはびくりと体を硬直させる。
「魔法使いであれば多少手荒にしても大丈夫だ。そのまま捕らえろ」
 声の主は兄さんと同じ直属軍のマントを羽織っている男だった。明るい場所であったらキラキラと光ったのであろう金の髪。
 どこかで見たことがあるような気がした。
「なんでギルバートと同じ魔法使いの君がこんなことしてるんだい! 魔法は人のために使うってギルバートは言ってたぞ!」
「こうして人のために使っているじゃないか。私は、頼まれたからこの少女を捕らえただけだ。人のためだろう」
 金の髪の男に気を取られていて、僕がまずいと思ったときにはもう遅かった。隣からぶわっと溢れる魔力に冷や汗を流すしかない。
「違うよ。ギルバートは、魔法は人を守るために、人を幸せにするために使うって言ってたんだ。お前のそれは違う」 
「ダメだよ、ジェームズ!」
 虚しくも僕の制止は届かなかった。
「【来て、ギャリー。俺たちを助けて】」
 ジェームズの呼び掛けで来てしまったのは赤き竜。それも、初めて僕たちが出会った時の可愛らしい大きさでも、部屋で出てくるときの調節された大きさでもない。もう大人を乗せて飛べるような立派な成竜の大きさ。
 そんな竜に竦み上がらない人間の方が少ないわけで。
「う、うわ......! 逃げろ!」
 マントを羽織った男以外は脇目も振らずに逃げていった。
「ちっ。使えない。まあ、いい。こいつは返してやる。だが、君も、君の兄もこのままでいられると思わない方が良い。君が魔法使いであることは陛下に報告する」
 それだけを言い捨て、マントの男はその場から消えた。ジェームズは女の子に近寄って縛っている紐をほどいていく。
「大丈夫?」
 ジェームズの問いかけに女の子は怯えたようにジェームズ、ギャリーの順に視線を動かし、再びジェームズを見た。
「貴方は、魔法使い、なの?」
「え......」
 その視線にジェームズはたじろぐ。まるで、罪を犯した人間を蔑むかのような目だと少し後ろから見ていた僕は思った。
 伸ばされたジェームズの腕を、自由になったその手で女の子は叩き落とした。
「触らないで、汚らわしい! 魔法が使えるなら、軍に所属するのが義務でしょう! どうして同じ制服を着ているのよ!」
 女の子は唖然とする僕たちを置いて走り去っていった。僕は動こうとしないジェームズの肩に手を置き、声をかける。
「ジェームズ、帰ろう。ギャリー、ありがとうね」
 そうすれば、ひきつった笑顔を浮かべてジェームズは振り返り、ギャリーは姿を消した。
「うん、そうだね。ていうか、助けてあげたのにお礼もないとか、酷くないかい?」
 痛々しいな、と口に出さずとも思った。
 ここまであからさまな嫌悪は久々だもんね。
「ジェームズ、君は正しい。君のしたことは正しかったよ。間違っているのはこの国だ」
 笑っているのに、泣きそうなジェームズの手を引いて僕は家に向かう。
 僕は確信していたんだ。
 これまでの平穏は終わるのだと。
 家に着くやいなや、ジェームズは部屋に引きこもり、僕は慌てて帰ってきた兄さんに事の顛末を説明した。
「ジャック、明日は普通にジェームズと一緒に学校に行ってくれ。悪いが、ジェームズを守ってやってくれ。俺もできる限りのことはするから」
 僕を抱き締めた兄さんの腕は震えていた。
「任せてください、兄さん。僕がジェームズを守るから」
 僕自身、声が震えないようにするので精一杯だった。
 次の日、僕たちが学校に行けば、僕たちを見る目は前日までとは違っていた。ジェームズは僕の手をぎゅっと握りしめる。
「ジャック......」
「大丈夫だよ、ジェームズ。僕がいるでしょ」
 僕はジェームズの手を握り返すと、手を引っ張って彼の席にたどり着く。ジェームズが席に着いたのを見計らって話しかけてくる生徒が二人。
「なあ、ジェームズ。お前、魔法使いなんだって?」
 びくりと肩を震わせるジェームズは可哀想なくらい怯えながらも笑顔を張り付けて答える。
「そうだけど、だから何なんだい? 俺は確かに魔法が使えるみたいだけど、魔法は人のために使う素晴らしいものだろう?」
「何言っているんだ、お前。魔法は軍に所属するぐらいしか使えない穢れた力だ。そんなの常識だろう。やっぱり、魔導師の弟ってことか」 
 馬鹿にしたような目だった。自分より下を見つけて喜んでいる目。何が常識だ。自分に無いものを恐れた貴族が勝手に言い始めただけだろう。
 苛立ちを必死に抑える僕とは逆に、ジェームズの顔からはどんどん血の気が引いていく。
「おかしいと思ったんだよ。歴代最強と謳われる魔導師様の弟であるお前たちが魔法使いじゃないなんて。お前たち双子なら、ジャックも魔法使いなんじゃねーの?」
 ジェームズの拳が振り上げられて、馬鹿にしてきていた二人が驚いた顔をする。僕はジェームズの腕を掴んで彼を止める。
「落ち着いて、ジェームズ」
 僕は極力落ち着いた口調でジェームズと少年たちの間に立った。
「残念ながら、僕には兄さんやジェームズのような才能はないんだよね。ところで、僕たちは直属軍トップである魔導師ギルバートの弟なんだ」
 僕の唐突な身の上話に、少年二人は顔をしかめる。そんなものは構わずに、できる限り優しげな笑みを浮かべて話を続けた。
「直属軍と陸軍、海軍のここのところの実績は国民でも知っているし、陛下もご存知だ。意味分かるよね、陸軍総帥のお孫さんと海軍総帥の甥っ子さん?」
 ヒュッと空気を吸ったのは誰だったか。
「直属軍のおかげで、陸軍、海軍ともにほとんど死者も損失も無いそうじゃないか。それに、兄さんは陛下に大分信頼されている。陸軍総帥も海軍総帥も兄さんに頭が上がらないそうだよ」
 少年二人は顔を真っ青にしてその場から去っていった。 
「僕は直属軍トップの魔導師、ギルバートの弟だ。ジェームズもすぐに直属軍の上層部に行くだろう。君たちが僕に対して権力を行使するというのであれば、僕も使わせてもらうよ。そうでないのなら、仲良くしてくれると嬉しいな」
 にっと年相応に笑ってみせると、教室の空気が緩むのが分かる。ヒヤヒヤとしながら見守っていた子どもはそれでもジェームズや僕に話しかけようとはしなかった。
「ジャック、ありがとう」
 泣きそうな笑顔で礼を言うジェームズに対して、僕も笑顔を作って答える
「大丈夫だよ、ジェームズ。今日は授業が終わったらすぐに帰ろう。休み時間は僕がこっちに来るから心配しないで」
 そうは言っても、教室の空気は僕たちには優しくなかった。昨日まで笑顔で話しかけてきてくれていた子も誰も話しかけようとはしない。
 上層教育の賜物だな、と僕はため息をついた。
 魔法は穢れた力である、と言い始めたのはいつの時代かの国王。不思議な力を持つ者を恐れたのだ。それを徴兵という形で管理することにした。
 兄さんが徴兵されてからずっと疑問だった。なぜ、あの小さな村で、長い間兄さんが魔法使いであることが発覚しなかったのか。
 簡単なことだ。村の人は黙っていてくれたのだ。そして、兄さんも素知らぬ顔で、魔法で村を助けていた。しかし、国の役人に見つかっては村の人も助けてはくれない。黙っているのが発覚すれば死刑だからだ。
 ねえ、ジェームズ、兄さん。
 この国は変えなければならないはずだ。そうでしょう。
 僕は自分のすべきことが、分かった気がした。
※※
「お前の弟が魔法を使ったそうじゃないか、ギルバート」
 玉座の前で跪いていた俺は内心で舌打ちをする。
「私も大変驚いております。そのような予兆はございませんでしたから。状況が状況だったようですので、いきなり魔力が暴走したのだと考えております」
「して、どうするつもりだ。ドラゴンを従えているそうじゃないか」
 顔を上げることなく淡々と答えた。
「少々、職権乱用ではございますが、ジェームズには私と組んでもらいます。赤き竜の力は計り知れないものがあり、ジェームズが赤き竜を使役できるのであれば、莫大な戦力となるに違いありません。攻撃部隊に置いておきたいものです」
 俺が魔導師の立場に就いてからは、直属軍を大分変えた。年功序列は鳴りを潜め、俺が全ての編成を考えるようになっていた。結果が結果なので、余程でなければ王も口出しはしない。
「まあ、良いだろう。お前の弟の晴れ部隊、楽しみにしているぞ」
 そう言って下がるよう指示を出されたので、俺は振り向くことなくその場を辞した。
 王宮の長い廊下を歩き、自身の執務室に入るやいなや、腹いせに壁を思い切り蹴りつけた。
「くそがっ」
 怒りに任せたせいで魔力が同調したのか、調度品のいくつかが床に落ちる。引いてあった絨毯のおかげで破損は免れたが、むしろ壊れた方が気が紛れたかもしれない。
 思い切り舌打ちをすると静かな部屋には妙に響く。そんな俺を一切気にかけることなく、ドアが無遠慮に開き、緩んだ声が響いた。
「おーおー、荒れてるなあ」
 ノックもせずにこの部屋に入ってくる人間はたった一人しかない。
「何の用だ、アルフィー」
「おいおい、落ち着けよ。お前の言っていた魔法使いには尋問して正当に処罰してきたさ。その報告、聞きたくないか?」
 俺は再び強く舌打ちをしてから、二人掛けのソファーにドサッと腰を下ろしてから脚を組む。アルフィーは対面のソファーに座る。座るとすぐに持っていた書類の一枚を俺の目の前に浮遊させる。それを手に取り、目を走らせながらアルフィーの報告に耳を傾けた。
「依頼者は貴族院の元老らしい。最近は陸軍、海軍共に直属軍依りだから、空軍だけは確保しておきたかったそうだ」
「襲われた少女は空軍総帥の姪っ子、ねえ......」
「ああ。空軍総帥の子どもは男だけで、血縁で女性はその姪っ子だけだから、大層溺愛しているそうだよ」
 紙をアルフィーに返して、脚を組み直す。
「それで、貴族院の爺とあの金髪野郎はなんだって?」
 アルフィーは別の紙を数枚、再び俺の前に浮遊させる。
「口を割らない。さすがに、貴族院の人間と王の側近を尋問することはできないからな。自分の配下の人間に尋問するのとは違うさ」
「はー、使えねえなあ」
「え、酷くない? 俺、昨日の今日で寝ずに働いたんだけど」
 アルフィーの目の下にうっすらと隈ができていることに気付いていないわけがない。それを労うことができないほど今の状況が不服なだけだ。
「おい、これは」
 アルフィーが提示した数枚のうちの一枚に目をとめた。
「ああ、面白いかなと思って持ってきた。ここ何年かの行方不明者や誘拐のリストだ」
 そこには行方不明になった者、誘拐された者の名前と所属や地位が書かれていた。
「魔法使いばかりだな」
 俺がぼやけば、アルフィーも頷く。
「そうなんだよ。爵位持ちの人間が誘拐されるってのは分からない話じゃねーけど、遺体すら見つからない行方不明者は魔法使いが多いんだ」
 書かれた名前の一覧を見ながら、俺は一つの名前に気が付いた。
「おい、これ。アラスターさんも行方不明なのか?」
「ああ、お前はアラスターと仲が良かったもんな。軍の内部では、諜報活動の最中に命を落としたと伝わっているが、実際のところは突然の行方不明だ。というよりも、王に会いに行ったその日から姿を消している」
「そういえば、王に呼ばれていると言って、しばらく姿が見えないと思ったら死んだと知らせが入ったな......。あの人は魔法の扱いも長けていたし、なによりケルベロスを従えていたのにおかしいと思ったんだよ」
 アラスターさんは俺を可愛がってくれた数少ない先輩であり、魔界の番人とも呼ばれるケルベロスを従えていた実力者だった。何度かアラスターさんを家に招いたこともあり、ジェームズやジャックはアラスターさんに魔法を教わることもあった。
「このリストに載っている魔法使いたちは、行方不明になる数日前に王に呼ばれている。全員だ。仮にも王国の軍で、行方不明になったのは魔力の高い魔法使いばかりだというのに、この人数の死体が戻ってないなんてあり得ない。それに、だ」
 アルフィーの勿体をつけるような言い方が癇に障る。
「何だって言うんだ」
「お前が魔導師になってからは、魔法使いの行方不明者は一人もいない。おかしいと思わないか?」
 その問いかけにしばらくの沈黙が流れる。
 俺が直属軍のトップである魔導師という立場に就いてから、軍の魔法使いを一人で王の目の前に立たせることがあっただろうか。軍の内部での報告は義務化させ、王に呼ばれた魔法使いがいれば、どんな理由でも付いていった。
 人の上に立つ者の義務であると思っていたからだ。
「確実にあの糞国王が関与しているな」
 一つ大きく息を吐いて、背凭れに行儀悪く凭れかかると天井を仰ぎ見る。
「本当に腐っているな、この国は」
 俺の呟きとともに、少しばかりの沈黙が流れる。
「ギルバート」
 沈黙を破った声の方を向けば、アルフィーは書類を纏めて帰る準備をしていた。
「ジェームズから目を離すなよ。言ってくれれば俺もあいつのそばにいるようにするから。開戦は近い。あまり無理するな」
 それ以上は何も言わず、アルフィーは執務室から出ていった。自分一人しかいない執務室で、静かに両手で顔を覆った。
 あと少し。あと少しの辛抱だったのに。
 そうすれば、あの子たちが怯えることなく笑って過ごせるようになるはずだったのに。
 今日はこれ以上、ここにいても何もすることは無いのだ。せめて、あの子たちよりも早く家に帰らなければ。
「父さん、母さん。ごめん」
 声が届くはずはない。分かっている。分かっていても、言わずにはいられなかった。
 もっと早くに隣国へ逃げていれば。自分がへまをせずに徴兵されていなければ。せめて、もっとあの子たちと一緒に過ごしていたら。
 本当は、徴兵されてからある程度金が貯まった時点で、あの子たちだけでも隣国に無理矢理逃がしておくべきだった。自分がどうなったってそうすべきだった。分かっていたのにできなかった。何だかんだと理由をつけてでもあの子たちにそばにいてほしかったのは自分の方だったのだ。
 自分の過ちばかりが浮かんでは消えていく。
 頬を濡らすものを乱暴に手の甲で拭い、立ち上がる。
 泣こうと喚こうと事態は変わらない。だったら、命に代えてでもあの子たちを守ろう。
 俺がすべきことはそれだけのはずだ。
※
 結局、その日は誰と会話をすることもなく俺たちは家に帰った。家に帰れば、先に帰っていたギルバートが俺たちを抱き締めた。
「二人に話さないといけないことがある」
 震えているギルバートの声に、俺は体を固くした。
「ジェームズは直属軍として」
「いやだ!」
 ギルバートの声を遮り、俺は叫んだ。
「俺は嫌だ! なにが、魔法は人のための力だ! 汚らわしいって皆に嫌われる力じゃないか! 俺は、こんな国のために魔法を使いたくなんてない!」
 勢いよく部屋から飛び出して、俺は自室に籠った。
 嫌だ。行きたくない。怖い。誰かを殺すために魔法を使いたくない。俺は、守りたかっただけなのに。
 しばらくしてからドアノブに手を掛けられた気配がしたが、魔法で開かないようにしている。とはいえ、ジャックでもギルバートでも開けることは可能だっただろうが、扉の外の人物はそれを選ばなかった。
「ねえ、ジェームズ。開けてよ。僕と二人で話そう」
 俺がすすり泣いているのは分かっているだろうに、扉が開く気配は無い。
「じゃあ、ジェームズが開けてくれるまで僕はここにいるね。言ったでしょ、ずっと一緒って」
 ドアに背を預けて床に座り込む音がする。家全体がギルバートの魔法に包まれているから寒いといったことは無いだろうが、そうすれば俺が扉を開けることが分かっているのだからずるい。
「ジェームズ。僕はずっと味方だよ。僕がジェームズをずっと守ってあげる」
 俺は扉を無遠慮に開いた。
「やっと出てきてくれた」
 ジャックは笑っていたが、俺はしかめ面で、目を腫らしたままだっただろう。
「話ってなんだい」
「とりあえず、部屋に入れてよ」
 しぶしぶといった体でジャックを部屋に入れた。
 部屋の真ん中にぺたりと腰を下ろすと、ジャックは両手を広げた。
「おいで、ジェームズ」
 俺は耐え切れず、ジャックの腕の中に飛び込み、大声をあげて泣いた。
「いやだ、行きたくない。怖いよ。俺、どうなっちゃうの。どうせ、汚らわしいとか言われるだけなのに。こんな国の人のために魔法を使いたくなんてない。誰かを殺したくない。守りたかっただけなんだ。ギルバートは何のために戦ってるの。いやだ、いやだよ」
 俺の涙がしとどにジャックの服を濡らす。
「俺、ジャックとずっと一緒にいたい。ギルバートも。俺はただ、三人で過ごせればそれで良かったのに」
 結界も防音魔法も無い。声はギルバートに筒抜けだろう。俺の叫びを聞いて、ギルバートは何を思うのだろう。
「聞いて、ジェームズ。僕がおまじないかけてあげる。これは僕の我が儘だから、ジェームズは何も悪くないからね」
 ジャックの言うことの意味が分からず顔を上げた俺の目をジャックは片手でふさぐ。
「【君には空を。僕には海を】」
 手が外されたのを感じ、恐る恐る目を開けて、俺は固まった。
「ジャック......」
「大丈夫だよ、僕が君を守るから」
 そう言ったジャックの瞳は、確かに強い色をしていて、俺が何を言っても、もう無駄なんだろうと思った。
 
 この時を、俺は一生忘れられないのだろうと思う。

第三章
 ああ、風の音が凄い。これだけ風が強いのなら、声は聞かずに済むだろうか。いや、きっと聞いてしまうのだろう。聞こえすぎてしまうのも考えものだが、僕のこの能力は確かに役に立っているし、これからもこの能力を捨てることはできないのだろう。
 真下に見える赤を眺めながら耳を澄ませる。
「これは終わりじゃない」
 そう、僕の罪はきっとここから始まる。
※
 徴兵されてすぐギルバートから聞かされたのは、この戦争の真実だった。
「俺たちがするのは戦争ではない。クーデターだ」
 兄の静かな声はやけに自分の耳に残っている。
 一緒にクーデターに参加するか。それとも、何も知らなかったとして、一部の兵士とともに形ばかり戦線に出るか。
「どうする。お前が好きな方を選んで良い」
 何も知らなかったと言ったところで、クーデターの首謀者の家族が生かされるはずがない。クーデターが失敗した時点で、自分の死は確定だ。だとすれば、クーデターが少しでも成功するように戦力になった方が良いに決まっている。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「俺は、ギルバートと一緒に行くよ。ギャリーが力を貸してくれるから、戦力にも目眩ましにもなってみせる」
 何も言えないギルバートに、畳み掛けるように言った。
「ギルバート、俺を使えばいい。俺は、この国を変えるためなら、身命を賭す覚悟もできている」
 俺はこの時、確かに聞いていた。兄の心の声を。
 ギルバートはそれを知ってか知らずか、心の声と全く同じことを口にした。
「どうして、俺についてきてくれるんだ。俺は、お前たちが離れて一人になるのが嫌で、ずっとそばに置き続けた臆病者なのに」
 ギルバートは拳を握りしめ、とても悲しそうな顔でこちらを見つめた。
「本当は、お前たちだけ逃がすことだってできたんだ。お前たちだけ隣国に送ってしまえばよかった。俺は、お前たちが幸せならそれだけで良かったはずなのに」
 それと同時に言葉にされなかった、しかし、確かに俺には届いた兄の本音。
『俺も、お前たちと一緒に笑っていたかった』
 ギルバートは優しすぎる。
 子どもながらに思った。
 クーデターは成功するだろう。ギルバートは抜け目なく準備をし、アルフィーもそのために動いている。陸軍と海軍にも根回しが終わっていて、唯一敵に回る可能性がある空軍では地上におけるクーデターには対処のしようが無い上、空軍はギルバートのペガサスを強く恐れていた。
 クーデターが終われば、ギルバートの治める時代がくるのは確実だった。
 その時に、ギルバートの優しさは枷となるだろう。
 俺が、ギルバートも兄弟のことも守らないと。
 俺は決意して、ギルバートに真っ直ぐと向き直る。
「ギルバート。俺もギルバートと一緒。俺はギルバートと兄弟が笑って暮らせる国が欲しい。だから、俺は戦う。俺は、最後まで杖を握ってみせる」
 これは魔法使いとして戦い続けるという俺の意思だ。
 杖を専用のホルスターから抜き、その持ち手をギルバートに向け、俺は宣言した。
「魔導師ギルバート殿。俺は最後まで貴方と共にあることを、この杖に誓います」
 ギルバートはそれを聞いてから、静かに杖の持ち手を握った。そうして、彼と俺の契りは成ったのだ。
 あれから一ヶ月。
 俺はギルバートだけでなくアルフィーにも魔法を教わり、剣を教わった。また、その期間、多くの声を聞いた。人の心の声が分かるのは、使いこなせば随分と役に立つ物だった。
 裏切りそうな者がいたら、それとなくギルバートかアルフィーに伝えてはいたが、そういう人間は少なかった。直属軍の人間は無理矢理に徴兵された者がほとんどで、王に心からの忠誠を誓っている者はいなかった。
 俺はクーデターにおいて、ギャリーに乗って空から攻撃することになった。とはいっても、攻撃をする可能性は少ない。ギルバートのペガサスと城の上に滞空することで空軍への抑止力になること。そして、多くの人間に、今回のクーデターは竜が味方するものと印象付けること。この二つが俺の主な役割だった。
「ギャリー」
 己の隣に立つ成竜に声をかけた。呼び声に答えるように、竜は首を傾げる。
「ごめんね、戦いの道具にして。君は今日から、俺たちの友ってだけではなくなってしまう。権威の象徴になってしまうんだ。本当にごめん」
『君が謝ることじゃないよ。俺を呼んだ願いのためなら、俺も何だってするよ』
 兄弟によく似た話し方は、背中を押されているようで自然と自分の心を軽くする。
 ギルバートのペガサスがやってきて、己の出陣を告げる。俺は一つ頷いて、しゃがんでくれていたギャリーの背に飛び乗った。
 ギャリーは俺が乗ったのを確認すると、翼を広げ、大きく羽ばたいた。砂ぼこりを巻き起こしながら、ギャリーの体は上昇する。思わず目を閉じ、しばらくして目を開けると、そこには小さくなった森、その先には王都が広がっていた。
『ペガサスについていけば良いんだよね?』
 ギャリーの問いかけには、うん、と短く答える。
 特注の鞍のおかげで落ちる心配は無いとは言え、体に当たる風は強く、俺は息をするのがやっとだった。
 もっと乗る練習をしておけば良かったと後悔したところで遅い。それに練習などする余裕もなかったと言うのが本音だ。
『王宮が燃えてるよ。あそこに行って良いの?』
 ギャリーが不安げに問いかける。
「大丈夫」
 そう言いつつも、赤く光る王宮を見て不安に駆られるが、ペガサスは止まる気配が無い。もし何か不具合があるのであれば、ペガサスが何かしら動きを見せるはずなので、計画どおりに動いて良いのだろう。そもそも、国王を殺すためのクーデターで城に何も無いはずがないのだ。
 城に近づくにつれてギャリーが減速し始めたおかげで、俺はなんとか言葉を紡げるようになった。
「城の上空にどのくらいなら待機できる?」
『うーん。城の上空って言っても、少しは動いて良いんだろう? だったら、半日くらい平気だと思うよ』
「一時間飛んでくれれば十分だよ」
 ギャリーは城の真上に着くと、ゆっくりと旋回し始める。城のあちこちから火の手が上がっており、上から見える範囲だけで多くの人が倒れているのが分かる。兵士や直属軍の他にも巻き込まれた者は多くいるようだ。
 赤き竜が現れたことでざわめき立つ城内をよそに、俺がギャリーに指示を出そうとしたときだ。
 ペガサスが雄叫びをあげ、雷が落ちる。
 雷の下には箒に跨がった男が数人おり、そのうちの一人が杖で雷を防いでいた。
「貴方は......」
「久しぶり、魔導師ギルバート殿の弟君」
 俺がここに来る原因となった金の髪の男だった。
「どうして、ここに。貴方は処罰された身だろう」
「私は直属軍ではあるが、君の兄君の配下ではないんだ。だから、魔導師殿が俺を裁く権利は無い。裁かれたのは他の魔法使いたちさ。ここに来たのは、もちろん、国王陛下をお守りするためだ」
「国王に、忠誠を誓っているとでも?」
 金の髪の男はニコリとわざとらしく笑う。
「ああ、そうだ。君は本当に私のことを知らないのかい」
 金髪の男をじっと見つめて漸く気が付いた。
「王の側近か」
「ご名答。私は陛下の側近を務めさせていただいている、タカミツと申します」
「その名前、ヤーハン国の出自では。ヤーハン国の者がなぜあんな王に忠誠を誓う」
 俺の言葉は届いていたであろうに、彼はそれには答えず、質問で返してきた。
「君も、魔法が使えなかったら、忠誠を誓っていたのではないかい?」
「は......?」
「君は魔法が使えるから結果として差別を受けて、徴兵され、陛下を恨んでいる。でも、魔法が使えなかったらどうだろう。兄は直属軍のトップ。陛下は兄を重宝しており、人並み以上の生活が保証されている。恨む理由があるか?」
 俺は押し黙るしかない。そこに畳みかけるように彼は続けた。
「陛下の統治で、幸せに暮らせている人間だって多くいるんだ。それはどの人間が上に立とうと同じだ。君たちがやっていることだって、所詮は陛下と同じで自分のためなんだよ」
 何も言わない俺に、タカミツはニコリと笑って杖を向ける。俺も警戒して杖を構えた。
「そのくせ、君には人を傷つける覚悟も無い。そんな君に誰かを責める資格なんて無い」
 図星だった。人を殺すのは怖い。自分の手は汚したくない。でも、それではダメなことだって分かっている。
 俺は杖をぎゅっと握りしめる。視界に入ったタカミツの後ろにいた別の男が杖を振るよりも早く、俺は杖を振り男の杖を弾き飛ばした。
「そうだよ。俺は、俺の家族が笑って暮らせる国が欲しいだけだ。あの王となんら変わりは無い。でも、俺は杖を取った。俺は、俺の正義のために杖を振るうんだ!」
 詠唱もせず、杖を振るうこともなく、魔法を発動した。それは確かに相手の命を奪うものだった。すんでのところでタカミツには躱されたが、その後ろにいた男は避けることができずに、そのまま落下していった。
 タカミツは一瞬驚いたような顔をするも、すぐに俺を見る。
「君は......、ああ、そういうことか」
 タカミツが言わんとすることは分かったけれど、そんなのは関係無い。
「俺は今日から、ジェームズ王としてこの国の王になる」
 俺はにんまりと口角をあげた。
「さあ、戦おうよ。俺が殺してあげるから」
 すっと息を吸う。できるだけ相手を死に近づける魔法を頭に思い浮かべる。
「【燃え尽きよ】」
 俺の杖から放たれた魔法は、男たちのうちの一人に命中する。パニックを起こし、何もできずに箒も杖も燃えてしまった男は地に叩きつけられる他無い。
「狼狽えるな。私がこの少年を相手する。数人を残して残りは先に行け。魔導師ギルバートを殺すんだ」
 タカミツの指示通り、男たちの半数以上が俺たちの脇をすり抜けて先に行こうとする。それを妨げようとすると、残った人たちから攻撃を受けて失敗に終わる。俺は素早く鞍を外しながらペガサスとギャリーに指示を出す。
「ペガサスは、あいつらを先に行かせないようにして。ギャリー、君は俺と一緒に、残りの奴らの足止めをしてくれ」
 俺はギャリーから飛び降り、杖を箒に変えてその上に立つ。ペガサスは俺が箒に立ったのを見届けると、くるりと体を回し、先に行った男たちを追いかけていった。
「さあ、貴方たちの相手は、赤き竜と俺が受け持とう。どこからでもかかってくれば良いさ。貴方たちなら、杖なしで十分さ」
 箒に立って、俺は丸腰のまま男たちを見据えた。杖がなくとも、使える魔法は十分にある。それに、俺の隣には赤き竜がいて、口の中で炎を燻らせている。
「ギャリー」
 俺がギャリーの名を呼ぶだけで、ギャリーは男たちに向かって勢いよく炎を放つ。
「【堕ちろ】」
 ギャリーの炎を避けた男の一人に向かって魔法を放てば、それは命中し、男は凄い勢いで地面に落ちていった。竜に恐れをなし統率が取れていない敵に対して、俺は無慈悲であらねばならない。
「【風よ、彼らを捕らえよ】」
 風が竜巻のようになり男たち数人を取り囲む。彼らの上方にはギャリーが滞空し、男たちがギャリーに気づいたときには手遅れであった。ギャリーは勢いよく炎を吐き出し、男たち数人を一気に燃やしつくす。焦げた炭のようなものがバラバラと地面に向かって落ちていく。
 タカミツは落ちていった男たちを見ても、表情を変えることはなかった。至極冷静にギャリーの炎と俺の魔法を避け続ける。ギャリーと俺が同時に攻撃をやめたのがまずかった。
「【竜の口を封じよ】」
 その魔法によってギャリーは口が開けなくなったようで、口の隙間から煙が漏れ出ている。
「使えない奴らだ。こんな子ども一人に、傷一つ付けることができないなんて」
「貴方だって同じじゃないか。俺に傷一つ付けてなっ」
 俺は目に見えぬ気配を感じて箒から落ちる形で魔法を避けた。落下しつつすぐさま箒を手の中に呼び、勢いを付けて箒に跨がる。
「今のを避けるのか。見えていなかっただろうに」
 心底驚いたといったような表情で男は呟いた。その表情に、当てる自信があったことを悟る。
 この人だけは力量が違う。
 それが分かった途端、唐突に死を隣に感じた。相手の魔法が当たれば怪我をするし、この高さから落下すれば死に至る。先ほどの魔法も、まともに食らっていれば俺は確実に死んでいた。
「俺が落ちていった奴らと同等とでも思っていたか? 舐められたものだな。......、ああ、それとも」
 怖くでもなったか。
 男の発言に、俺は睨みつけるしかできない。
「そうか、お前は死と隣り合わせになったのは初めてか。それはそれは、なんと滑稽な」
 戦闘とは関係の無い言葉を発しながらも、男は的確に俺を狙う。
 タカミツの魔法は杖を振るっているとは言え、早く、精度も高い。人を一発で死に至らしめる魔法はどうしたって難易度が高くなるし、消費する魔力量だって増えるはずなのに、彼はずっとそういった魔法ばかりを繰り出してくる。
 彼には人を殺すことに対する躊躇いが一切無いのだ。
 それに対して、自分は躊躇いが捨てきれていない。そのせいで俺ができる攻撃はどうしたって相手より劣る。
 このままでは確実に押し負ける。ギャリーの拘束をどうにかして解かなければ。でも、タカミツがかけた魔法を解くのも容易ではないし、ギャリー自身が解くことのできない拘束を自分が解くことができるとは思えない。ギャリーの背に戻れば、箒を杖に戻せるから、もう少し難しい魔法も使えるが、それにしたって決定打にかける。
 攻撃を放っては、己を襲う魔法から防御し、追い打ちのように迫りくる魔法を箒から落ちるようにして避け、落下しながら竜巻を巻き起こすも相手の魔法で霧散する。ギャリーが盾になってくれたり、突進してくれたりするも、男がどうとなる気配は見られない。
 このままでは経験の無いこちらが圧倒的に不利だ。
 そう察し、一か八かの賭けに出ることにした。失敗したとしても、ギャリーが止めを刺してくれる確信を持ちながら。
「【閃光】」
 その瞬間、すさまじい光が辺りを覆う。男が咄嗟に目を瞑ったのを見て、俺は思い切り上昇する。タカミツが首を回して俺を探そうとしたところに、上から攻撃を仕掛ける。
「【硬直せよ】」
 俺が言い切るより前にタカミツも応戦してくる。
「【堕ちろ】」
 俺の魔法はタカミツに命中し、タカミツの魔法は俺の箒に当たる。男は微動だにせず地面に向かい落ちていくが、俺も箒が杖に戻り、飛ばなくなったせいで男と共に落ちていくしかない。
 この高さから落ちたら助からないだろう。目をつぶり衝撃に備えようと思ったところで、予想よりも軽い衝撃が体を襲う。目を開ければ、大きな翼が羽ばたくのが真っ先に目に入り、ギャリーが助けてくれたのだと分かる。
「助けてくれたの?」
『うん』
 バサリと翼の羽ばたく音が響く。その後すぐに、聞きたくはなかった水が弾けるような音と小さく木が割れる音を聞いた。水の音が何なのかは考えたくない。木の方はおそらく杖が折れたのだろう。せっかく兄が自分のために作ってくれたものだったのに。
『ごめん、途中からろくに戦えなくて』
「そんなことない。ギャリーがいなかったら、俺は死んでいたよ」
 鞍にきちんと跨がり、ようやく息をついた。
「拘束は大丈夫?」
『うん。あの男は死んだからね』
 ギャリーのなんてことない言葉は思っていたよりも突き刺さった。杖が折れる音よりも少し前に聞こえた水が弾ける音は、やはり聞き間違いではなかったらしい。
 覚悟はしていた。ギルバートがそれを望んでいないと知りながら、自らの手を赤く染めたのだ。一人殺めたのなら、後はもう進むしかない。自分が正しいと、自分が正義であると信じて進むしか、俺には許されない。
『どうしたの?』
 何も言わない俺を心配そうに伺うギャリーに兄弟の面影を見ながら、俺はギャリーの首筋を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。ギャリー、ちょっと予定が狂っちゃったけど、頼んだよ」
 ギャリーは前もって聞いていた通りに動く。天高く炎を吐き出し、遠くに響くように声をあげる。
 これだけで、国民に竜を印象付けるには十分だ。
 ギャリーの声はよく響く。風の音も凄い。それなのに、声は確かに聞こえてくる。
 王反対派の兵や国民の歓喜の声が響いてくる。逆に、親王派の人間の絶望も聞こえてくるようだった。
「これは終わりじゃない」
 これは、俺にとっての罪の始まりだ。
 これから、俺は多くの人の命を握ることになる。それでも、皆が皆、俺のためではなく、何かしらの思いを抱えて、命を散らせていく。たとえ敵であろうと変わらない。何かに身命を賭した者を軽んじることは許されない。
「ギャリー、少し手伝ってくれないかな?」
『何をすれば良いんだい?』
「魔力を分けてほしい」
『何のために?』
 その声は俺を試すような低い、威厳のあるものだった。普段からは想像もつかない。
「皆を送ってあげたい。俺は、この命を全て背負う義務があるから」
 それだけ言うと、ギャリーは特に異論は無いのか一つ頷いた。俺は、魔力が流れてくるのを感じながら詠唱を始めた。
「【皆に賛辞を。生ける者に安らぎを。廻る魂に祝福を】」
 城の至るところから金色の光が現れる。
「【皆が愛する者のところに帰れますように】」
※※※
 優しい魔法だった。
 敵味方関係なく、安寧を与えてくれる魔法。
「......」
 隣で戦っていた男が、弟の名前を呟いた。
 そこで漸く俺は気がついた。隣の男と、今、竜に跨っている少年が抱える罪に。
 その罪が許されるか否かなんて些細な問題でしかない。今この瞬間、竜に跨る少年は、赤き竜に認められた権威の象徴になってしまったのだから。
 王は逃げた。本当は殺した方が良かったのだろうが、逃げられてしまったのだから仕方ない。王にはまだ子どもがいなかった上に、王の親類は皆捕縛した。だから、王位を継ぐ者もいない。
 今日この日をもって、この国は俺たちのものだ。いや、国民からしたら、竜に認められた新たな英雄王の時代になったという認識だろうか。
 これは新しい時代の始まりだ。だが、ギルバートとジャック、そしてジェームズにとっては地獄の始まりでもあるだろう。
 彼らはいつか後悔するのだろう。彼らの抱える罪に。
 でも、俺は、これは正しかったと思う。
 この魔法は竜に跨る少年にしかできなかったはずだ。これは魔力と才能だけあっても無理だ。心が綺麗でないと、本当に誰かを思っていないとできない魔法。この魔法はきっとギルバートにもできない。
 あいつは優しい。優しいからこそ、ギルバートを支えようとしている。
 彼らはいつか気づくのだろう。自分のしてしまった過ちに。それで責めるのは自身か、それとも兄弟か。どちらにせよ、皆、この瞬間を悔いることに違いは無い。
 俺は、俺だけは、彼らの罪を肯定しよう。正しかったと言ってやろう。
 多くの魂が空に還っていく様子を、何も言うこと無く見つめていた。


 


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