「Mellow Dream

青衣沙雪



1

「佳苗はいいな、あんな彼氏がいて」
 由依が言う「あんな」彼氏とは、誰もが思う理想の彼氏である。イケメンで背も高く、成長可能性も十分にあって、自分の恋人を愛しよそ見なんてせず、またその愛が重すぎもしない、そんな彼氏のことを指す。
 要するに、明はあんな彼氏だった。
「そんなに欲しければ、作ればいいでしょ、彼氏」
 由依は明らかに顔を顰めた。助言のつもりが、冷やかしのように聞こえたのかも知れない。悪いと思って笑って見せると、由依は普段と違う遅い口調で言った。
「私は作ってできる彼氏は嫌だな」
「そう」
 その言葉は、少し分かる気もしたが、やはりどこか可笑しいと思った。付き合うということ事態が奇跡に近い行為なのだ。自分のことすら完璧に理解できない人間二人が、お互いを理解し合おうとする行為。そんな奇跡のようなものを努力もせず得たいなんて、おこがましいのにも程がある。
「明は、佳苗のことをすごく愛しているじゃない。それこそ奇跡だよ」
 私の考えを読んでいたかのようにm由依がつぶやいた。また遅い口調で。何かを考えながら同時に話しているのかも知れない。
 しかし、由依の考えていることは前提からして間違っている。愛しているのは私の方だ。明は私のことを大事にしていて失くしたくないと思っているけど、愛してはいない。
「実はね、気になる人がいるの」
 私は、私と私の彼氏に関する考えを止めた。やはり、由依は最初から自分の話をしたかったのだ。それで私に映画を観に行こうなんて誘ったのだ。私も由依もあまり興味のない、穏やかなアクション映画を。
「誰? うちの学校?」
「うん。私と同じ学科に同じ寮」
「運命だね」
 実は運命だとは思えなかった。好きの人と学校や寮が一緒だと言えば運命だが、学校や寮が一緒だから好きになったと言うとそれは日常だ。しかも、それは計算でもある。道で会った知らない男よりは、何らかの関係がある人を好きになる方が成立の可能性が高いから。
 明もそうだった。私と同じ授業を聴き、最後の授業日に告白した。その愛情は、きっと時間が迫っていることからできた愛情だ。五百円もする夏季限定アイスを買ってしまう、そんな類の愛情。でも、私にその愛情を断る理由はなかった。
「だから手伝ってくれる?」
「何を? どうやって?」
「大したことはしなくていいよ。一緒に行って、私と彼が話すとき横にいてくれれば」
「それって手伝うって言える?」
「言えるとも」
「話は由依の方が上手でしょ? 一人で話した方が上手くいくんじゃないかな」
「そういう問題じゃないの」
 じゃあ、どういう問題だ、と由依を見ると、目を避けられた。
「緊張するから」
 それは私にとって些細なショックだった。由依も緊張なんかをするのだな、と。思えば私もよく緊張をしていた。遠くから明の声が聞こえるとき、明の腕が私の肩に触れるとき、唇が触れ合うとき、胸と胸がくっつくとき。毎日、毎瞬間。
 でも、私が覚えている限り、明は一度も緊張なんてしていなかった。少なくとも私にはそう見えた。
 外は雨が降っている。私は由依の傘を一緒に差して家まで送ってもらった。

 彼はナミという名前だった。本名は李昊天(りはおてぃえん)で、ナミは日本で留学しているときに着けた名前だった。波のように柔らかく流れて柔らかく崩れる人になりたいらしい。
 名前の由来を除けば、ナミは平凡だった。良くない方に近い平凡だった。日本で大学を卒業し、韓国で大学院に通っていると言う珍しい経歴にも関わらず、講義室の古い椅子ぐらいに平凡だった。丸顔に、少し高い身長。
 私は由依が好きだと言う男と二人きりで廊下に立っていた。狭く、よく響いて、あちらの隅からこちらの隅の話が聞こえてしまう廊下。
「こ、こんにちは」
「ナミくん?」
「はい、ナミです。東アジア文化を研究しています」
「日本語上手ですね」
「ありがとうございます」
 会話が重かった。十キロの重りが付いたサンダルを履いて歩くような感じ。日本語が上手なのと会話が上手なのの間には大きい差がある。大洋ほど大きい差が。
 ナミもそれを知っているのか、すぐ話題を切り替えようとした。お互いが軽くなれる第三者の話に。
「あの、由依ちゃんは?」
「ちょっと遅くなるらしいですよ」
 これは由依の計画だった。私が先発隊になって話を開始すると、不意を打って由依が切り込んで強烈な印象を残すという計画。男は突発的で不確定的なものに魅かれるらしい。
「ナミくん、由依と仲いいんですね」
「いや、講義のとき隣に座ってただけですよ」
 ナミの顔が赤く染まった。好きになるのと好かれるのは、実はほぼ同じものだ。いつも同時に行われる。作用と反作用の法則みたいに。
「由依、かわいいですよね? 優しいし、サバサバしてて」
「いえ、その、佳苗さんも可愛いですよ」
 ナミがどもりながら言ったセリフは、世の中に存在するどのお世辞よりもお世辞みたいに聞こえた。あまりにも嘘っぽくて、逆に本心じゃないかと疑った。
 「ありがとう」と笑い流すと、廊下のあちらから足音がした。由依がトイレから出る音だった。
「遅れてごめん。待ったよね。ナミ、佳苗とは仲良くなった?」
 ナミが何も言わず笑っていたので、私が代わりに答えた。
「そんなに待ってないよ。あまり話してもないもん。ね?」
「は、はい」
 褒められたかのような照れた笑み。私はその笑みがとても嫌いだった。

 外は今日も雨だった。普段は晴れた日にも折り畳み傘を持ち歩く由依は、今日に限って忘れたらしい。私はむやみに傘を貸してあげたりはしなかった。
「ナミに彼女いるか聞いてくれる?」
 大学生が行くには少し高級なレストランのトイレで、由依が言った。
「まだ聞いてないの?」
「聞けるわけないでしょ。聞いたらすぐバレるから」
 バレるって、何を。
 みたいなバカな質問はできなかった。何なのかは私も分かっている。でも何でバレたらいけないのだろうか。皆、何でそれを隠そうとするのだろうか。お金を使うところはどんな手を使ってでも見せびらかしたがる人々は、何で心を使うのは隠したがるのか。
「でもさ」
 私は鏡に映る由依に向かって、ふと気になったことを聞いた。
「もしナミに彼女がいたら、どうするの?」
 由依は鏡の中の自分を見ながらメイクを直している。熱心に直し過ぎている気がするぐらいだ。
「諦める」
「諦めるのか。好きって言ったくせに」
 由依は不思議そうに自分の姿を凝視している。毎日見る姿だろうに、まるで韓国の芸能人を初めて生で見たときのように。
「諦めるのも恋の一つだから」
 私はそんな由依を、もっと不思議そうに見つめる。由依はたまに、雪が解けて消えるように綺麗な表情をする。

 席に戻ってたわいもない話をし、適切なタイミングで質問をした。自分のことじゃないから恐怖も緊張もなかったけど、少し嫌な感じがした。蚊をティッシュで押し殺すときの感覚。
「ナミくんは恋人とかいるんですか?」
 ナミの顔が分かりやすく赤くなった。生まれて初めてそんな質問をされた人みたいだった。
「いないです。いたこともないし」
「そうなんだ」
 役目をはたして、由依の表情を覗いた。しかし、由依は何らかの表情をする前に既に話していた。強くて決断力のある、元々私の手助けなんか必要ない人だ。
「意外だね。モテそうなのに」
「冗談いうなよ。モテるどころか、バレンタインデーにチョコ一つもらったこともないから」
「じゃあ、作りたい気はあるの? 彼女」
 由依が平然とした口調で聞いた。ナミはどこか遠いところを見つめていた。私でも、由依でも、いつの間にか晴れた空でも、雨臭い街でもない、どこかを。
「もちろん」
 由依は少しも嬉しそうにしなかった。ずっと頬杖をついているだけだった。しかし、その頬杖に隠された表情がどんなものか、私は知っていた。私までも嬉しくなった。

2

 大きい木が居る。夜中に降った雪を全部背負って真っ白に見える木。
 私は彼女と一緒に大きい木の下に座っている。木陰は使い切った長靴みたいな灰色だ。
 思い出の陰に隠れ一生を過ごすのは私だけだろうか。いや、違うだろう。思い出は我々を振り向かせる過去であり、我々を構成する現在であり、我々の進む方向を定める未来でもある。
 つまり、我々は皆、思い出の陰に隠れ生きている。
 つまり、思い出は我々そのものである。
 空も地も真っ白だが、暑いほど暖かい。なぜ雪が解けないのか、私はずっと気にしていた。
「寒い?」
 彼女は真っ赤な唇だけを動いて言う。私は彼女の横顔しか見れない。
 私が首を横に振ると、彼女は繰り返す。
「寒い?」
 私は知っている。私の夢に出てくる彼女は、寒いかと聞く以外には何も言わない。しかし、それは彼女なりの愛の表現である。他のどの表現よりも定かな。
「寒い?」
 聞かれるたびに私は首を横に振る。しかし、実は、首を横に振るほどの価値もない無意味な質問だと知っていた。私が寒くないのは彼女がいる故であり、彼女がいなくなったらそれでやっと私は寒くなる。だから彼女自身に「寒い?」と聞かれることには、何の意味もない。
 彼女はその事実を知っているのだろうか。
「寒い?」
 私は我慢できず、つい彼女を抱きしめてしまった。竹日を抱きしめる感じがした。燃えるような頬と胸、腹が私の体に触れた。
 しかし、彼女は依然前だけを向いている。
 吸い込む空気がどんどん熱くなった。彼女の体のせいではない。いつの間にか雪が止み、太陽が顔をさらしたのだ。世界のすべてのようだった雪は、ため息のように空しく溶けてしまった。
 ああ、抱きしめてはいけなかったのに。
 もう何度目かも分からないほどの後悔だった。私は何度も彼女と彼女が出てくる世界を、私自身の手で溶かしてしまったのだ。
 太陽は直線的で情熱的で、彼女の体なんかよりもずっと私を暖かくしてくれた。花が咲き鳥が歌いだした。世界はエデンの園のように希望で満ちている。
 しかし、私は太陽もエデンの園も、そして希望も、憎くて憎くてしょうがなかった。

 暖かい息に目を覚ました。明(あきら)が私の目の前で寝ている。明の顔は正面から見ると疲れた天使のようだ。善と祝福で満ちているけど、どこか不幸そうな。
 私は枕元にあるヘアピンで前髪をどかした。日焼けしたような赤色のダイヤモンド型。遠い昔にプレゼントされたものだ。
 人は何を悪夢だと言うのだろう。形のない化け物に追われる夢、果てのない空から永遠に落ちていく夢、それとも、愛する人が消えてしまう夢。
 しかし、私はそのどれよりも酷い悪夢を知っている。私が死ぬまで終わらない夢を。現実という夢を。
 ベランダから外を見下ろした。ソウルは夜も明るい。絶えない騒音で、静かな私と明を包んでいる。

3

 黒石洞(フクソクドウ)という街には高層マンションが街路樹のように並んでいる。建てて五か月も経ってない、巨大な赤んぼみたいなビルたち。一年前は日本の伊豆を思い出させるおんぼろな町だったのに。
「十年後にはあそこに住もう。佳苗が望むなら」
 明が私の視線を追ってマンションの天辺を見つめた。私は明と手を繋いだまま歩いている。
「お金もないくせに」
「今はないけど......頑張って稼ぐよ。インターンが終わって正式に就職できれば」
 明は一言一言に慎重だ。間違えることを酷く嫌うのだ。冗談を言うときすら、ガラス瓶の中で折り紙をする職人みたいに真剣だった。私はそんな明のことを愛している。
「いらないよ。高い所に住むのは怖いもん」
 本当にそうだ。高ければ高いほど、落ちたとき痛いから。私はそれが怖くて怖くて仕方がなかった。私が欲しいのは高い住処も、そこで得られる至高の幸福でもない。
 明は「そうだね」とだけ笑い流した。
「明日は映画でも観に行かない?」
 私は明の手をぎゅっと握った。答えはもう知っていた。
「ごめん、明日は溜まった仕事を済ませておかないと」
「済ませてからは?」
「夜遅くになるよ。待たせるのは悪いから」
 明は眉を顰めて困った顔をする。何に対して困っているのだろう。私を待たせることに対して、あるいは、私自身に対してかも知れない。
「そっか」
 大丈夫、待てるよ。いつまでも。
 そんなことは言わなかった。明をもっと困らせるだけの言葉だから。そして、自分がもっと悲しくなるだけの言葉。
「じゃあ仕方ないね。由依と観に行く」
 明はまだ目で笑っている。細く優しくなった目。
 大学に近づくと人込みで道が見えなくなった。どこかで一気に湧いたかのような同じ顔の人たち。私と明は手を繋ぐだけでは足りなくなって、肩を合わせて歩いた。
「そういえば」
 私は明の耳にささやくように言う。
「由依に好きな人ができたらしい」
「よかったね。別れてからすごく落ち込んでたのに」
 それは由依が前の彼氏と別れたときだった。由依は毎日その人と食事をして映画を観て眠った。勉強もくっついたままやった。別れるときに、その彼には「愛が重すぎる」と言われたらしい。ご飯も映画もセックスも、水を吸い込むスポンジみたいにどんどん重くなって行ったと。
 由依が落ち込んだのは彼のことが憎いからではない。彼に悪いからだった。まるで今まで一方的に彼を強姦していたような気がして、悪くて仕方がなかったらしい。
「ナミって知ってる? 大学院生の」
「うん、多分。友達の知り合い」
 明は学校に友達をたくさん持っている。でも女性の友達はあまりいない。私のために減らしたらしい。私が必要ないと言っても、そんな措置で何かを証明できるわけではないと言っても、明は言うことを聞いてくれない。
 正門が近くなるにつれ息がしにくくなった。車が風を切る音に一瞬だけ明の声がうもってしまった。
「この前、由依と一緒に合ってみたけど」
「うん、どんな人だった?」
「いい人そうだったよ。優しそうで、礼儀正しくて」
「よかったね」
 明が笑った。私も寂しい思いを隠して一緒に笑った。明は私に怒ることはあっても、私を疑うことはない。高い所にある明の顔が、日差しのせいでよく見えなかった。
「佳苗も手伝ってあげなよ。一番仲いい友達なんだろ?」
「うん、そうする」
 理科大学の正門で、明は私の手を離した。その手を高く上げて振る。
「じゃね。授業終わったら向かいに行くよ」
「うん。ありがとう」
 明が「どういたしまして」と言ってまた笑った。
 明は知らないのだ。私が本当に言いたかったのは「ありがとう」なんてことではなかった。本当に言いたかったのは、重すぎて口に出してはいけない言葉。時間と場所に合わなく、明を困らせる言葉。


 アルテ・ロッサは学校前のイタリア料理店だ。私がアルバイトの面接を受けに行ったときは、常連のイタリア人が何人か座っているだけの小さいお店だった。徐々に本物のイタリア人が料理とサービングをしていると噂になって、今や大人気である。大学街は流行りに弱いのだ。
 私がこの店で一番好きな所は、店の外にもテーブルがあると言うことだ。空とビルを背景にした大学生たちの食事風景は、イタリアの海辺村みたいに美しい。ソウルの空はイタリアみたいに青くないけれど。
 キッチンと屋外を行き来していたら汗だくになっていた。まだ暑くてアイスコーヒーが売れる季節だった。
「お疲れ様です、佳苗」
 パオロがタオルを渡してくれた。大理石の彫刻みたいな顔つきに茶色の髪、背が高くて活発な、私が昔から想像していたイタリア人そのものだった。
「ありがとう」
 パオロの活発さは、時々どう接していいか分からなくなる。受け入れるには親密すぎて、断るには親切すぎる。でも大体はとても素晴らしい。
「明は元気ですか?」
「もちろん。元気ですよ」
「またサッカー観に行きたいな。香苗、明と別れないでくださいね」
 パオロは歌うように軽く言った。パオロにとって私と明が一緒にいるのは当たり前のことである。パスタセットにワインが一緒に出るのと同じぐらいに。だからこんな冗談を言えるのだ。
「そういえば、パオロは彼女いないんですか?」
 私も冗談みたいに言った。それはパオロを、そしてイタリアを好きな理由の一つだった。こんな質問を変なニュアンスもなく、自然に投げることができる。
「僕には香苗がいれば十分ですよ」
「やめてって言ったでしょ。ここには真に受けちゃう女の子も多いから」
 パオロは「ごめん」とだけ言ってにやっと笑った。パオロの口角は質のいいパスタ麺みたいに、どこまでも元気よく伸びる。
 テーブルと椅子をあるべき場所に戻した。すべてが正しい場所にある店はとても静かで、何度見てもなじみがない。パオロもシェフ服を脱いで、半袖にジャージズボンという恰好でキッチンから出てきた。
「では、行きましょうか」
「いつもすみません」
 アルテ・ロッサを閉めるのは夜の十時。お酒は売るけど深夜の営業はしない。お酒は食事の友であり、行楽の道具ではない、というパオロの思想のせいだ。それでも片づけまでしたら結構遅い時間になるので、いつもパオロが家まで送ってくれる。歩いて二十分ぐらいの距離。
「今更だけど、明は何も言わないんですか?」
 パオロが心配そうに聞いた。自分は気にもしないくせに、日本人である私と明のために聞いているのだ。
「全然。むしろ喜んでましたよ。自分がいないときでも安心できるって」
 思わず口を尖らせてしまった。
「そうなんですね。明は優しいから」
 独り言のような声。
「佳苗は明のことを愛してますよね?」
 私はなぜか慌ててしまった。慌てて即答もできなかった。その間を、パオロは待ってくれなかった。
「明もまた、佳苗のことを愛していて。だからお互い傷つけちゃダメですよ。愛し合う人たちは、お互いに一番傷つけやすい人たちだけど、一番傷つけてはいけない人たちだから」
 パオロの表情が気になって見上げた。黒く曇った空を背景にした尖った顔が、うっすら笑っていた。
 パオロもそういうことあったんですか?
 という質問はできなかった。イタリア人にも冗談を言わないときぐらいはあるのだ。
「パオロは本当、何も知らないんですね」
 私は今も傷つけられているのに、とも言えなかった。パオロに不満を言ってもしょうがない。不満を聞かせてあげたい人は他にいるのだ。恐らく、その人にも永遠に言えないけど。
 愛すること自体が傷になる人もいるということを、パオロは知っているだろうか。
「つきましたね」
 静かな風のような声が、私の疑問を散らしてしまった。私が住んでいる三回の部屋を見上げる。明かりはついていた。
「残念。もうちょっと香苗と話したかったのに」
 もう一回注意しようとして、やめた。そして素直にうなずいた。
「私も」
 パオロの背中が遠ざかる。いきなり気温が下がった気がした。背が高い人は熱もたくさん放出するのだろうか。独りになった夜は寒い。
 私は自分の腕を撫でながらアパートの中に入った。明かりがついている家の中は、きっとここよりは暖かいはず。

4

 私の夢にはいつも知らない人が出る。どこかで見たような気もするけど、確実に私の人生にはいない人たち。ある医学コラムによると、私の脳は、例え道ですれ違った人の顔だとしても無意識で記憶しておくらしい。
 夢の中では二人きりだ。自分の顔を見ることができない私と、昨日見た雲の形みたいに曖昧な顔の女。世界の果てまで走っても他の人の顔は見当たらない。
 雪が降って明るく寒い街を、私と女は並んで歩く。何も言わないけど、互いを愛していることだけは全身で伝わる。手を繋がなくても、口を付けなくても、とても幸せだ。彼女は私を見て笑い、ふと顔を上げる。彼女が住んでいるアパート。私は入ることができない場所だ。私は色々問い詰めたかった。私たちは愛し合っているのに、何で私は入れないの、とか。しかし、口が動かなかった。私は自分の顔も声もちゃんと知っていないから、夢の中でそれを観たり聞いたりすることは許されない。彼女は手を振りながら言う。
「おやすみなさい。すぐ会えるよ。いい夢見てね」
 私が覚えている唯一の声だった。

 目を開けてゆっくり起き上がった。空っぽな天井が見えるのがたまらなく嫌だった。
「寝ないの?」
 明が夢を見ているような声で聞いた。
「水飲んで来る」
 私はその夢を覚ませないように気を付けて答える。明は答えなかった。
 冷蔵庫を開け、大きいボトルに作っておいたお茶を飲んだ。窓を開けて狭いベランダに出る。空はサイみたいな明るい色だった。空を照らしているのは太陽でも月でもなく、下で光っている居酒屋とカラオケの看板だ。
 一年生のときは私もあそこにいた。いくらお酒を飲んでも酔わなく、いくら歌っても喉が枯れなかった。ただただ楽しかった。夜はいつもまぶしいほど明かるかった。
 今、私の夜は明のものだ。明は欲しがっていなかったけど、私が勝手に渡した。
 一生悪夢を見ないという人たちがいる。麻薬みたいに甘い夢ばかりを毎晩見る人たち。彼らには、夢の後にやって来る現実こそが酷く長い悪夢なのだろう。

 シングルサイズのベッドに戻ると、明が寝ているまま私を抱きしめた。
 とても暗かった。


 由依の新しいアルバイト先はソウルの日本式居酒屋だった。日本式の障子にはセンサーがついていて、人が近づくと自動で開く。店長さんも、もちろん日本人だった。ソウルにはいったいどれだけの日本人が住んでいるのだろう。もしかしたら伊豆よりも多く住んでいるのかも知れない。
 私はカウンター席に一人で座った。営業が終わっていく真夜中。パオロの店と違って、こんな時間までもにぎやかだった。最後の客が店長に支えられながら店を出た。疲れ果てた由依が首を揺らしながら私の隣に座った。片手に泡がたっぷりのジョッキを持って。
「判断ミスだった。居酒屋でバイトなんかするんじゃなかったのに」
 店長の耳に入らないように、由依が小さい声で囁いた。
 一か月前、由依は化粧品販売店で働いていた。二か月前はトッポギ屋、三か月前はかき氷屋。ある時は二軒で同時に働くこともあったが、そういうときは授業も抜いてアルバイトに出たりした。この居酒屋が何回目のアルバイトなのかは、由依も私も知らない。とっくに数えることを諦めたのだ。
「お金、足りない?」
 違うと言うことは知っていた。知っているから聞くことができた。
 中学生の時の由依は本当にお金が足りなかった。その時は聞けなかった。一人で給食の代わりにおにぎりを食べ、サイズの合わない制服を着て、何か食べに行こうよと誘われると眉から顰めるそんな子に、そんなことは到底聞けなかった。
「お金のためじゃないよ」
「じゃあ何のため?」
「愛」
 由依の表情が笑いでぐしゃぐしゃになった。由依は笑顔も泣き顔もぐしゃぐしゃだ。笑うときは韓国の民族楽で使う仮面みたいに目を細めて、泣くときは絞り切ったレモンみたいにしぼんでしまう。
 どっちもとても愛らしいと思った。そして羨ましかった。そんな表情ができることも、そんな言葉が言えることも。
 店長がサービスで唐揚げを出してくれて、私たちはもう一杯ずつビールを頼んだ。
「愛はもう見つかったんじゃなかったの」
 由依にはかなわないが、私も最善の笑顔を作って聞いてみた。ナミと三人であってから一週間。一度だけ、ナミが由依に連絡をしたらしい。「もうすぐ夏休みですね。また遊びに行きましょう」と。
 その二行に、由依は飛び上がりそうに喜んだ。
 でも冷静だった。由依は夢を見ているときさえ冷静で、現実を忘れることなんてないのだ。
「うまく行くっていう保証はないじゃない。いつも余分の出会いは用意しておくべきなのよ」
「前のバイト先にはいい人いなかったの?」
「うん」
 注ぎたてビールのように冷え切った答え。
「あと、ここ、ナミの行きつけらしいの」
「何だ、結局それじゃない」
 私たちは脈絡のない乾杯をした。韓国人は一日に十回も二十回も乾杯をするらしい。楽しい文化だ。
「だから、そろそろ計画を立てないとね」
「計画?」
「うん」
 お酒を飲みながら計画を立てるのは良くないと思う、という言葉はビールごと飲み込んでしまった。由依が求めているのはそういう言葉ではないはずだ。私が言いたい言葉も。
「手伝ってくれる?」
「もう告白しちゃえば?」
「ダメ。告白はするんじゃなくてさせるものだから」
 そうなんだ。私はおつまみのようにその言葉を噛み返した。告白はするんじゃなくてさせるもの。
 私は明に告白をさせていない。私がしたのは、いつか教授が瞬きの間に消してしまった筆記内容を、隣に座っていた男の子に見せてもらったことだけ。それ以来授業が始まる前の五分ぐらい、たわいのない会話を交わした。
 明は何で告白をさせず、したのだろう。男と女の正解は違うのだろうか。それとも、明と由依の正解が違うだけかも知れない。
 では、ナミの正解は? 泡のように浮き上がるその考えを、私は急いで消してしまった。
「どうやってさせるの?」
「それを相談してるのよ」
 まったく、と由依はジョッキの周りを意味なく撫でた。私は酔ってふらつく頭で精一杯考えた。
「ナミが来たらサービスとかあげたら?」
「ダメ、そしたらバレるから。バレちゃダメだって」
 また即答。由依は普段から私の質問に対する答えを予め用意しているのかも知れない。試験に出る問題を予測する優等生のように。
「頑張ってるね」
 カウンター越しの店長が自分のジョッキを置いた。白い顔と影が差している目が、まるでラテン系の人みたいな店長。ふらつく頭を両手で支えている。「居酒屋の店長はお酒が強い」と言うのが単なる偏見だというのは、この人を見れば分かる。
「頑張っても何も残らない。それが人生」
 店長は床を見ながらつぶやいた。
「しかし、何も残らなくても頑張ること、それもまた人生」
 由依は母親みたいに微笑んで店長の肩を叩いた。店長は顔を上げない。
「ありがとうございます。頑張りますね」
 店長を奥で寝かしてお店を出た。大学街の夜は涼しいけど、どこか後味が悪い。市販のチョコレートアイスクリームみたいに。私はチョコレートが嫌いだ。甘ければ甘いほど、冷たければ冷たいほど。
 分かれ道で由依と別れた。街灯の下で、私はしばらく立ち尽くした。
 結局言えなかった。
 街灯よりも明るい携帯の画面で目が痛かった。またナミからメッセージが来ていた。

5

 初め、ナミはステーキとボトルワインが出るレストランに私を誘った。端正なシャツに黒のズボン。明がインターンの面接を見に行った時と同じ服装だった。しかし、ナミの第一印象とはどうにも合わなかったので、何度見てもぎこちなく見えた。
 二回目、三回目、ナミの服装は度々変わった。オーバーサイズのTシャツだったり、大きいデニムジャケットだったり、避暑客みたいなハワイアンシャツだったり。驚くほど統一感がなかった。まるでファッションに疎い四人ほどの男が知恵を合わせてその日の服を決めているかのようだった。
 しかし、レストランが高級すぎることも、服装がぎこちないことも、ナミを断る理由にはならなかった。ナミは優しく純粋で、なにより、自分の心がバレていることを少しも気にしなかった。ジャンプ台を下りてくるスキージャンプの選手みたいに、まっすぐだった。
「先輩たちが束草(ソクチョ)に旅行いこうって。四人で、泊りで」
 ナミはそう言って、ワインをすすった。私が答えずにいると、もう一口すすってから聞いた。
「他の予定でもあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ行こう」
 ナミはいつも断ることのできない提案をする。強制的でもなく、何かを要求することもないのに、余地を与えてくれない。実は、それは提案ですらない。赤んぼのねだりに近いものだ。
「束草は言ったことないけど。何して遊ぶの?」
「夏だから、渓谷に行くんだろう? ペンションを借りて、夜はボードゲームをして......」
「楽しそうだね」
 本当に、楽しそう。聞くだけで楽しくなった。
 明と一緒にいる間には四人で何かをしたことがない。いつも二人きりだった。食事も映画も、旅行も。四人で行く旅行はきっと楽しいのだろう。
 しかし、明のいない四人には何の意味もない。
「楽しみにしてるね」
 ナミはもう一回ワインを飲んだ。今度はすすりもせず一気に飲んでしまって、グラスはすぐ空になっていた。

 走り回る子供たち。芝生を覆ったシート。私は川沿いの散歩道を自転車で通っていた。
 川は下手をすると落ちそうに近くにある。
 よそ見をしていると、車のエンジンの音が聞こえた。私に向かって近づいてくる、直線的で凶暴な音。
 私は辛うじてハンドルを右に回した。車は怒ってるように音を立てて私の横を通り過ぎた。左側のハンドルがはじかれ、自転車と私をまとめて押し倒した。
「大丈夫ですか?」
 シートに座っていた奥さんと子供が寄ってきた。私が笑って見せると、やっと安心して席に戻る。何事もなかったかのように平和にお弁当を食べ始めた。
 今ハンドルを左に回していたら、きっと私は死んだのだろう。
 そう確信した。車が急停止したかも、弾かれたとしても怪我で済んだかも知れないけど、私の確信は頑固だった。
 さっき世界は二つに分かれたのだ。私が死んでしまった世界と、私が生きている世界に。
 私の魂(もしそんなものがあるとしたら、だが)はこっちの世界に弾かれて来た。私がハンドルを右に回したように急旋回して、私が生きているこの世界に。向こうの世界には魂が宿る体がなくなってしまったのだろう。
 しかし、私の魂は悲しんでいる。あっちの世界に残っていたらよかったのに、と。
 止まってしまったからだに宿る魂は、どれほど静かで愛らしいのだろう。きっと、まるで夢を見ている魂のように、安らかなはずだ。

 夕方からにわか雨が降った。雨の時は屋外にテーブルを置くことができない。お客さんたちはパラソルでも出してくれと騒ぐけど、パオロは揺るがない。外に座るなら雨に打たれながら座るがいい。それが自然と共に生きる方法なのだ、と言い切るのだ。
「ソウルはもうとっくに諦めてますよ、自然と共に生きるなんて」
 私がパスタを盛りながら言うと、パオロが困ったように笑った。
「でも、花は咲くでしょ」
 それを聞いて店の外を見つめたが、花なんて咲いていなかった。グレーの道路にグレーの電信柱、そして黒い空から降る黒い雨。
「咲きます?」
「もちろん」
 パオロは気にせず次の料理を作っていた。ピザみたいな形のパンらしい、何度聞いても名前を覚えられないメニュー。
 雨の日は、代わりにテラス席が満席になる。皆、何でそこまで雨を見ながら食事をしたがるのだろうか。
「雨の日にはチヂミにマッコリなのに」
 パオロがホワイトワインを注ぎながら言った。ちらっとパオロの方を見ると、ウインクを返してきた。
「誘ってるんですか?」
「はい」
 いつもみたいに、パオロの度が過ぎる親切に説教をしてあげた。何度も言ったのに。パオロはたった三年覚えた韓国語で店を開くほど賢いから、これはわざと続けているのだ。
「明も一緒に行きましょう」
 雨が上から下に落ちるように、あたりまえな口調。私はそれを笑い流すために努力した。
「明は実家に帰ってるんですよ」
 パオロは額に手を当ててしくじった、とでもいうように顔を顰める。不器用なミュージカル俳優みたいだ。
 片手にお皿、片手にワイングラスを持って、キッチンを離れながら言った。
「でも行きましょう、チヂミとマッコリ」
 パオロはもう料理を終えて休んでいた。満席と言ってもテーブルは六つしかないのだ。一通り料理を作るとキッチンは暇になる。
「ありがとう、佳苗」
 意味不明の感謝に、笑顔を返した。間違えてはいないはずだ。「ありがとう」というのは軽い言葉なのだ。そこに重すぎる意味を付与する人も、そこから重すぎる意味を読み取る人も、きっと愚かな人ばかりだ。


 毛玉みたいに優しく落ちる雪。道の上の足跡が四匹の蟻みたいにくねくね進んでいた。
 彼女は私より背が高い。低く丁寧な声で私の名前を呼んでくれる。飽きるほどに。
 彼女は私を酷く大事にしてくれる。私の友達、家族、私の趣味にさえも嫉妬する。しかし、私が息苦しいと思ったときは、私がお願いするよりも前に引き去ってくれる。まるで私の心を読んでいるみたいに。
 しかし、人は人の心を読めない。自分自身も人なので、自分自身の心すら読めないのだ。
 だから私は彼女が夢なのだと気づいてしまう。雪が止むも前に。

 真っ暗な夜だ。うっすら聞こえる話し声。街に並んでいるお店からの音楽。私の隣に明はいない。
 私は酷い夢から覚めるために、両目をぎゅっとつぶった。

6

 天気が良くて窓を開けっぱなしにしておいた夕方、明が電話をした。私は読んでいた本のページを最後まで読んで電話に出た。明は着信音が切れるまで絶対電話を切らない。
「元気?」
 明の声が久しぶりの気がした。しかし、三日前も私と明は電話をしていた。
「元気。明は?」
「母の小言が酷くて死にそう。早くそっちに帰りたいよ」
 そういって、明は冗談のように言い添えた。
「佳苗にも会いたいし」
 私はしばらく黙っていた。電話の向こうから明が吐き出す息の音がして、それを黙って聞いていた。自然な沈黙は親密の最も確かな証拠なのだ。
 でも、それは愛の証拠にもなれるだろうか。
「私のこと心配じゃないの?」
 私も冗談のように聞いた。電話の良いところは、冗談ではないことも冗談みたいに言えると言うこと。表情も目線も隠す必要がない。
「もちろん心配だよ。バイト終わったら絶対パオロに送ってもらうんだぞ。あと昼間でも路地裏は一人で歩かないこと。分かった?」
 声だけでも伝わる。明は本気で私のことを心配している。
 でも。
「そんなんじゃなくて」
「うん?」
 私はまた黙ってしまった。これ以上の要求は越権行為だと知っていた。
「......何でもない。気を付けるね」
「そうだね。気を付けて」
 明は落ち着いた声だったが、まだ安心してはいないようだった。
 しばらく黙っていて、わざとらしい明るい口調で明が言った。
「そういえば、佳苗はどっか遊びに行かないの? 夏休みなのに」
 私は躊躇いもなく答えられた。むしろ嬉しく。
「渓谷に行くよ。先輩たちと」
 また明の息だけが聞こえた。何かを悩んでいるのだろうか。それとも、単に息を整えているのかも知れない。
「そうなんだ。どこに?」
「束草(ソクチョ)ってとこ」
「いいな。俺も行ってみたかったな、束草」
 気を付けて行ってきて。夏の渓谷は事故が多いらしいから。無事行って来たら電話してね......どれも愛情がたっぷりこもった言葉だった。
 完璧な人はいないし、完璧な相手もいない。明は完璧ではないけど最高の相手だった。ありえないほどに。私はそのことを忘れてはいけない。
「うん。また電話するね」
 電話は私の方から切った。待っていると明が何か言ってくれるかも知れないと思ったが、それは卑怯だ。沈黙をもって相手を脅迫するのは、人間関係にとって一番質の悪い行為だ。こっちが上に立っているというおこがましい確信がないと、そんなことはできない。
 私にはその権利がないのだ。
 そもそも、恋人は愛を要求する権利なんて持っていない。愛をよこさなければならない義務もない。恋人の間に義務があるとしたら、付き合う間には浮気をしないこと、その一つだけだ。
 スーツケースに荷物をまとめながら、私はそのたった一つのルールについて考える。濡れてもいいワンピース、洗顔用品、パジャマに下着。まるで修学旅行の前日みたいな気分だった。
 ベットに入ると由依の顔が浮かんだ。
 由依はどうして当たり前のように恋愛をしたがるのだろう。権利は何もなく、義務だけ存在する関係を、人はどうしてそんなにも欲しがるのだろう。
 眠れることができなかった。ベランダに出て足元を見下ろす。この時間に出歩く人たちは皆声が大きく、酔っぱらっていて、必ず誰かと一緒にいる。


 束草(ソクチョ)の渓谷は人でいっぱいだった。水と人がほぼ同じ比率だった。鬱蒼とした緑に囲まれた人たちは、まるで水遊びをするカワウソみたいだった。何かから逃れて故郷に戻ってきたような、すっきりとした表情。
「ん? 何でダメなんだろ」
 黒沢先輩が拳ぐらいの丸いスピーカーを撫でていた。何度殴ってみても音は出なかった。
「なによ、自分が持ってきたくせに」
 三井田先輩が横でため息をついた。二人とも機械には弱いらしい。
 水に足を漬けていたナミも近づいてきた。太ももまで隠したズボンに花柄のシャツ。
「ちょっと見てみます」
 ナミはスピーカーのあっちこっちを見て、黒沢先輩の携帯までもらって操作を始めた。
「直ったら言ってね。佳苗ちゃん、先に遊ぼ」
 三井田先輩が興味なさそうにつぶやいて、私の手を引っ張った。ちらっとこっちも見るナミと目が合うと、ナミはこっそり笑った。
 水は輝いていて透明だった。ダイヤモンドに足を漬けているようで豪華な気分だった。
「怖いの?」
 そうつぶやく三井田先輩の声さえも甘く聞こえた。しかし、水がぬるくなるようにゆっくり、その質問の意味が分かった。分かったとたん、天国から落下したような衝撃が体中に広まった。
 私は今日ナミと寝る。三井田先輩はナミの味方だ。全てを分かっているのだ。
 しかも、何一つ分かっていないのだ。
「いいえ」
 私は辛うじてそう答えた。
「初めてではないんだね?」
「はい」
 私は明のことを思い浮かべた。渓谷の水のように涼しかったエアコンの風。暑かった明の体。明の唇。少なくとも旅行の途中には明のことを忘れていようと決めたのに。たった一泊。それすらやり遂げられない自分が情けなかった。
「強いんだね。でも男は騙されてくれる女のことが好きだから、気づかないふりぐらいはしてあげてね」
 水に透ける自分の足を見下ろした。誰が誰を騙すって言うのだ。透明なものを見て胸が痛むのは、汚い人だけだ。
 三井田先輩も自分の足を見下ろしていた。
「先輩は、黒沢先輩が好きなんですよね?」
 水が流れる音。風に揺れる木の葉の音。蝉の音にコオロギの音。とてもうるさい静寂だった。
「さあね」
 三井田先輩は遠くを見つめていた。ナミと黒沢先輩が未だにスピーカーを触っている方。
「もう四年目だからね」
 三井田先輩の声は眠そうだった。夢でも見ているような声。
 私は夢の邪魔にならないように気を付けて聞いた。
「じゃあ、黒沢先輩の方が三井田先輩のことを好きなんですか?」
 うん、という先輩の即答が風に散っていった。
「女はね、これは女だけの悪い癖だけど、自分が相手をどれだけ好きか、にしか興味がないの。相手を百だけ愛すれば、百点満点の恋愛ができると思っちゃう」
 私は水に透けている三井田先輩のことを見つめた。水が揺らいで、顔がよく見えなかった。
「でもね、それはどこにも使えないの。自分の気持ちなんて気にするのは自分だけなんだから。大事なのは相手の気持ち。相手にどれだけ愛されるか、なのにね。そのために付き合うんだから」
 三井田先輩は過激に足をばたつかせた。彼女の姿が粉々になって消えてしまった。飛び跳ねた水玉が縛った髪について、少し輝いた。雪のように。
「でも......」
 私は少し躊躇った。
「でも、黒沢先輩が本当に三井田先輩のことを好きでいるかどうか、どうやって分かるんですか?」
 だって、四年目じゃないですか。小さい声で言い添えた。
 三井田先輩は笑いを堪えながら私に水をかけた。
「分からないよ。もしかしたら、今は好かれてないのかも知れないね」
 でもね、と先輩は続けた。
「でもね、私にはいつでも裕ちゃんを惚れさせる自信があるの。だから今はほっておく」
 三井田先輩は鏡のような水を見て縛った髪を直していた。その美しさに思わず、感心してしまった。
「裕ちゃんは私に惚れてくれるって、信じてるし」
 そうか、と静かに足を動かした。自分の姿がまた少しだけ揺れて、ぐちゃぐちゃのカーテンみたいになった。
 でも、それこそ本当なのかどうか分からないじゃないですか。そんな言葉は水玉と一緒に散らしてしまった。
 定かなのは何もないのに。
 定かではないからこそ、確信とかいう不確実なものに依存しているくせに。見知らぬ土道を確信だけで歩くことはできない。その果てが行き止まりかも知れないから。
 三井田先輩は、どうやってそんな危ない道を四年も歩いてきたのだろう。私もあの子とだったら、そんな風に慣れて行ったのだろうか。
 音楽が聞こえ、どこからかびっくりした鳥たちが乱雑に飛び上がった。マイケルジャクソンの「Love Never Felt So Good」だった。
「直ったみたいね。行こ」
 三井田先輩が水を跳ねさせながら先に歩いた。

 木の中にうもっているペンションはグリム童話に出てくる小屋のようだった。ノックすれば魔女かオオカミが飛び出そうだった。もちろん、そんなことは起きなかった。黒沢先輩が落ち着いて鍵を差し込むと、ドアが開いた。
 大きいリビングにペチカとソファ、テレビがついていた。二階に行くと寝室が一つ、トイレは一階と二階に一つずつあった。
 先輩たちは家に入るなり荷物を投げておいて、散歩に行ってくると言った。私が「散歩道もあるんですか?」と聞くと、三井田先輩は鼻で笑いながら応えてくれた。
「なかったら探してでも行かないと」

 私は二階で、ナミは一階でそれぞれシャワーをして着替えた。そして、私たちは肩を並べてソファに座った。ナミは酷く緊張していた。
「テレビでも見る?」
 私が聞くと、ナミはどもって答えた。
「佳苗が見たいなら」
 テレビからは何年も前にやったようなドキュメンタリーがながれた。汗まみれでトラクターに乗った田舎老人の顔。余り興味はなかったが、見ずにいると他の人の顔が浮かびそうだった。
 ナミがチャンネルを回すと、男女がダンスを踊っている白黒映画が出た。私とナミはずっとその白黒の画面を見つめた。しかし、私たちはそれぞれ違う方向を向いている。
 パーティーから二人が逃げ出す場面。二人は茂みの中に隠れお互いを見つめる。静かな音楽が流れた。ナミは私の手の上に手を載せた。
 しばらく誰も動かずにいた。
「何で私だったの?」
 私が言うと、ナミは驚いて手を引っ込めた。私たちはもう白黒の画面を見ていなかった。うるさい音楽だけが聞こえた。映画の男女は再び逃げ始めたようで、止まっているのは私とナミだけだった。
「何で私だったの。由依じゃなくて」
 私にはナミのことよくが分からない。由依は私の友達の中で一番の女だ。ナミが初めて私に合ったとき、そこには由依もいた。しかも由依はナミのことを愛していた。まるで映画の脚本のように、あらゆる条件が非現実的にそろっていた。
 なのに、何で。
「何となく」
 私は答えなかった。黙ってナミが焦っていることを感じていた。
「理由なんてない。好きと言うのはそういうことだろう? 好感に理由があったら、それは愛ではなく尊敬だ。俺は佳苗のことを尊敬しているわけじゃなくて......」
「違う」
 ナミの瞳が揺らいでいた。そういえば、今まで私は、それをまっすぐ見つめたことがない。私の姿が透けて見えるほどの黒。
「愛と尊敬は似ているの。尊敬もしないくせに愛するだなんて」
 ナミは脅かされる幼児のように何も言えなかった。その態度が誰かに似ていて、取り乱した私をより刺激した。
「理由を言って、ナミ」
 黒く鮮やかな瞳がぼやけて涙をこぼした。ナミが唇を震えながら泣いていた。
「何で怒るの?」
 それは憤怒でも失望でもなかった。ナミはただこの状況を飲み込めなく、飲み込めない自分のことがもどかしくて泣いているのだった。
「俺は佳苗のことが好きなだけだ。それだけなのに。それが理由で、そして結果だったら、ダメなのか?」
 私はびっくりして息を止めた。
 ナミは私が知っている中でも最悪の人だった。愚かで不器用で、軟弱で受動的だ。今この小屋に私と二人きりになれたことすら、先輩たちの知恵と協力に頼ったおかげなのだ。
 何度目か分からない深い息を吸いながら、私は気づいた。
 ナミも私のことを愛してなんかいないのだ。今後私を愛するようになることもないだろう。私には三井田先輩みたいに、相手を惚れさせるという無謀な自信はできない。
 私を愛してくれるのは、生まれてから死ぬまで、あの一人だけなのだ。
 映画はいつの間にか終わっていた。続いて流れるのもまた白黒映画だった。家出したお姫様と彼女を追いかける記者の話。
 私は泣いているナミを胸いっぱい抱きしめた。胸が火を抱えたように暖かくなった。
「いい子」
 ナミも私の背中に腕をまいた。次に私の肩を握り、一旦私の体を離した。そして私の唇に口づけた。
 テレビの音が聞こえなくなった。まだついているはずなのに、自分の息の音しか聞こえなかった。口からは冷たいワインの臭いがした。

 ドアが開いて直ぐ閉まる音がした。先輩たちだった。二階の寝室には上ってくる気がないのか、足音はそのまま一階で消えた。
 横にはナミが目を閉じて寝ていた。明とは違く、小鳥のような弱々しい息。
「ナミ」
 名前を呼ばれると、糸の太さぐらいに目を開ける。うん、と答える声はまだ寝言に近い。
「私、昔も中国人と付き合ってたの」
 ナミを始めて見たときから、思わずあの人のことを思い出していたのだろうか。だとしたら本当に愚かだ。同じ国から生まれた人なんて何万も何億もいるのに。私という人間は愚かで単純で、また、その事実さえ今になって気づくほどに傲慢だ。
「その人のことを愛したの。とても。その人も私のことを愛していて」
 ナミはもう半分ぐらい目を開けている。私の言葉を理解しているのだろうか。多分違うだろう。今のナミは銀行にある機械みたいな顔をしている。私が欲しがればお金も体もよこしてくれるけど、なぜ欲しがるのかは死んでも分からない。分かろうともしないだろう。
 私と目が合うと、慌てた瞳が揺らいだ。
「抱いてあげるの、こういうときは」
 命令されてやっと、ナミは寝たまま私を抱きしめてくれた。

7

 寒さが退き、コートやマフラーをクロゼットの奥に放り込む時期。桜が咲き始めすぐ散ってしまう、ほんの短い間だった。
 日本へ来たとき、あの子は高校生だった。大学生の私より二歳したなのに、ずっと大人しい口調で話す人だった。
 目的は中国の高校との国際交流だった。しかし、私は中国語学科の新入生で、少しも中国語を話すことができなかった。あの子の日本語も、映画を観て覚えたことが話せるぐらいだった。私たちは初歩的な中国語と日本語、そしてめちゃくちゃな英語を混ぜて会話した。それでもあの子はずっと笑顔だった。
「佳苗、好きです」
 あの子は休むことなく「好き」という単語を使った。私の名前が発音しやすいからと好きって言って、私の髪がサラサラだからと好きって言って、私の靴が可愛いからと好きって言って。私にとっては金鉱石ぐらいの重さを持っていた「好き」を、そう乱発できるあの子が不思議だった。
 一週間ほど泊った後帰国するとき、あの子は泣いてしまった。しかし、私たちは離れてからも手紙を送り合った。一行ほどのメールアドレスが分かれば、十行も二十行も手紙を送られる世界に住んでいるから。そのことが嬉しかった。私はそれ以来、新入生たちの会食や合コンにはでなくなった。一日中あの子の返事を待っていた。
 一度だけ、あの子が再び日本に遊びに来たことがある。高校を卒業して大学に入る前、暇で暇で死にそうだとあの子は言っていた。親も連れずに、たった一人で。
 私が住んでいる下宿先に泊りながら、私とあの子は離れることを知らなかった。まるで育ちざかりの双子みたいに、食事も趣味も寝床も共有した。あの子と離れたくなくて授業にも何度か欠席した。
 数か月後、今度は私が中国に遊びに行った。真冬だっていうのに北の雪国に宿をとって、温泉旅行をした。たった四日ほどの旅だったがとても幸せで、私はそれを一生記憶の中に溜めておくことにした。それでも不安になったので、写真もたくさん撮った。

 そして年が変わり、あの子から返事が来なくなった。
 私は一日も二日も待っていた。三日目には食事を忘れてしまった。しかし、一週間がたってから気づいた。気づいてしまった。あの子には最初から、返事をする義務なんてなかったのだ。
 返事をしたくないときは、しなくてもいいのだ。
 衝撃的だった。頭の中で巨大な地震が起きて、今まで建ててきたすべてが崩れ落ちるような気がした。
 出会いは六十億分の一の奇跡だが、別れは二分の一の日常だ。
 何で人間関係には強制性がないのだろう。辛くて当たり前な別れを防ぐためにいちばん必要なものなのに。

 私も手紙を書くのを止めた。一度送って返ってこないのは二度送っても返ってこない。
 私はあの子が自殺したと信じることにした。新年あけは自殺率が最も低い時期だし、あの子は自殺するほど不幸でもなかったが、そう信じるしかなかった。どっちみち、あの子がこの世の私に別れを告げたという事実には、変わらないのだ。

*

 豪雨という予報にも関わらず、空はゴッホの名作みたいにきらめく青だった。
 私とパオロはチヂミにマッコリを飲みに行く予定だったが、気まぐれな空を見習って、私たちも計画を変更した。取り消されかけたサッカー試合を観戦しに行くことに。
 サッカーを好きなのは明とパオロだけど、私も明について何度か来る間にこの地元のチームにはただならぬ愛情が湧いてきた。一番好きな選手はゴールキーパー。失点しないことが任務なのに、毎日失点することに慣れなければいけない、多難なポジションだ。
 私たちは外で買ってきたハンバーガーを食べながら試合を観戦した。天気予報のおかげで普段より観客が少なかった。
「パオロは別れたことあるんですか?」
 私はボールから目を離さずに聞いた。サッカー観戦は集中しながらも他のことができる素晴らしい趣味である。
「ないです」
「うそ」
 パオロは「ホント、ホント」とイタリア人のアクセントで呟いた。冗談なのかどうか判らなかった。
「じゃあ恋したこともないんですか?」
 答えは中々返ってこなかった。パオロの声が終了間際の選手の足のように重かった。
「はい」
 観客一人がミスした選手に向かって怒鳴った。選手は無視して空を眺めている。挫折したような酷い表情。
「男は恋する方法が分からないから」
 その一言に、パオロも私と同じ人間だと分かった。外見のせいでも発音のせいでもなく、ただ大人の余裕があふれて、まるで宇宙人みたいな感じがするパオロ。彼も恋に落ちたり恋に捨てられたりする平凡な人間だったのだ。
 私は平凡なものが好きだ。すこし失望するかも知れないけど、その分、安心できる。自分が平凡だということを認めるにはかなりの勇気が要るけど。
「男が自分で分かるのは性欲と所有欲だけ。欲求に従って女性に合い、やがてその女性から恋を教わる、それが男なんです」
 ハンバーガーを食べて幸せそうに微笑むアパオロ。恐らく、男には恋が必要ない。だから分からないのだ。恋なんてなくても男は幸せになれる。
 雨が一粒ずつ降って、私たちはスタジアムのスタッフからパラソルを貰って来た。刺すところがなかったのでパオロが手で持っていることにした。背の高いパオロが持っていると、パラソルはまるで平凡な傘のように見える。
「明と別れるんですか?」
 パオロは私を見ずに聞いた。そう聞いてくれるパオロに救われた気がした。
 しかし、答えることはできなかった。「はい」も「いいえ」も、どこか違うような気がした。
「ケンカしたんですね」
「してないです」
 短気な声に自分で驚いた。何で私は言い訳なんかをするのだろう。
 そうか。私は明と別れることが嫌なのだ。死ぬよりも嫌なのだ。
「ケンカは、してないです。私が一方的に悪かっただけで」
 パオロには私と明がセットだ。ワインとパスタのように、分離することのできない関係。パオロも、私たちが別れるのが死ぬよりも嫌な表情をしていた。
 選手たちが濡れたタオルのように水分を含んでいた。彼らを濡らしたのが雨なのか汗なのかよく分からなかった。
「過ちはいつも起こるんですよ。人間にちゃんと最善を選ぶ能力があったのなら、二度も戦争をしたりはしなかったはずだから」
 パオロが笑って、私も「そうですね」と笑って見せた。
 パオロはいきなり怒ったお母さんのような顔をした。
「でももう過ってしまったのなら、それからの最善はちゃんと謝ることです」
「謝る」
「佳苗なら、分かっていると思うけど」
 私は過った。その事実を口の中で繰り返した。繰り返さないと忘れてしまいそうだった。
 明は悲しむだろうか、怒るだろうか、それとも何も言わず別れてしまうだろうか。どっちにしろ私は許してもらえない。
 パオロが応援するスペイン人選手が二得点もした。ゴールキーパーは一点失ったけど、すがすがしい表情だった。決闘を見せた両チームの試合はホームチームの勝ちで終わった。


 授業が終わった廊下で黒沢先輩と出くわした。すぐには気が付かなかったが、ぎこちなくこっちを警戒する先輩の表情が渓谷でのことを思い出させた。
「元気だった?」
「はい。先輩は?」
「何とか」
 渓谷でも、私と黒沢先輩はほとんど話していなかった。黒沢先輩は三井田先輩の付き添いぐらいでしかないと思っていた。パオロが私と明をセットに扱うように。
 黒沢先輩は思い口を動かして言った。
「悪いな。ゆりのやつが変なおせっかいをしたせいで、こんな......」
 先輩の声ははっきりしていなかった。「こんな」がどんななのか、先輩も良く分からないのだ。恐らく、先にすべてを知ってしまったのは三井田先輩なのだろう。黒沢先輩は彼女から聞いただけなのだ。黒沢先輩が見ている私は、話の中の登場人物に過ぎない。不幸な事件の被害者であり、発端であり、自分とは関係のない人。
 もちろん、それはすべて事実である。
「いいえ」
 私は信号に足を引っ張られた出勤社員のように、一刻も早くその場から逃げ出したかった。
「ナミが心配してたよ。連絡が届かないって」
「そうですか」
 黒沢先輩はしばらく黙って立っていた。しかし、まだ言いたいことが残っているようだった。私は逃げられなかった。
「ナミは、初めてだった。けっこう傷ついたのかも知れない」
 低く静かな声が私に言った。私に対する批判であり、配慮であった。
 初めて。私は驚愕した。初めてと終わりは人生から消えない。私はこれからずっと、ナミが死ぬまで、ナミの人生に残っているのだろうか。幸せとしてではなく、傷として。
「ありがとうございます。連絡してみます」
 先輩は笑顔らしいものを見せて廊下の向こうに消えていった。
 いつか、ナミにも謝らなければならない。ナミは許してくれないだろうけど、それはナミが持っている当然の権利なのだ。
 いつか、あの子も私に謝りに来るのだろうか。そんな考えが頭から離れなかった。一生離れないだろう。


 自動で開く障子をくぐり、隅っこの席に一人で座った。夕方の六時。居酒屋は開業準備を終えたばかりで空いていた。
「いらっしゃいませ」
 エプロンをした由依は客として私をもてなした。私も客として振る舞った。ビールと唐揚げを頼み、静かに食い尽くした。店長はまだ酔っぱらっていなかった。
 会計のために手を挙げると、由依が二杯のビールを持って近づいた。エプロンは脱いでいた。
「バイトは?」
「今日は火曜日だから、店長一人で大丈夫だって」
 外は暗くなったのに居酒屋は依然空いている。客はテーブルに座った男二人だけだった。
 由依は私の記憶の中と同じ姿だった。しばらく会っていなかったのに、何も変わっていない。まるで年を取らない漫画のキャラクターみたいだ。明るい声で授業と教授の愚痴を言って、店長の愚痴を小声で呟いて、恋バナに目を輝かせる由依。
 思い切ってビールを飲みほした。その勢いで口を開けようとした私を、由依が止めた。
「謝られに来たんじゃないよ」
 店長が流しておいたジャズピアノの曲が聞こえた。由依が聞きすぎて覚えそうになったと不満を言っていた曲。
「謝らないで。絶対に。私は可哀想じゃないから」
 知っている。由依は、可哀想な人になることは結構でも、かわいそうな人だと思われることだけは死ぬほど嫌がった。昔からそうだった。
 私も由依に謝るつもりはなかった。ルール違反はしていない。誰かが置いた場所に置いてはいけないと言う、オセロみたいなルールは恋愛にはない。
 もちろん、一度置いた手を戻してはいけないと言うルールもない。だからあの子は私のことを戻したのだ。
「ナミが私に連絡してきた」
 由依の明るい声に、私は現実へと連れ戻されるような気持ちになる。由依と、ナミと、明がいる現実。
「二人で食事でも行かないかって」
 私はついこの前のことを思い出した。高級なレストラン、設計された機械のようなナミの服装。しかし、恋愛は人を変化させる。良くても悪くても何かを学ばせる。私とのことで、ナミも何かを学んだのだろうか。
「よかったね」
 私は本気が伝わるように言った。慎重に。言葉が捻じ曲げられて変な意味を持たないように。
「よくないよ。断ったんもん」
 由依が飲んだビールを吐くように笑った。夜空に打ち上げた花火のような、いきなりで美しい笑顔だった。
「いいの? 好きなんでしょ? ナミのこと」
 何で。私は心の中で強く反発した。由依がナミのことを手に入れて、報われればいいのに。そうしたら私は、十字架を背負ったイエスみたいに軽い気持ちになれるのに。私は可哀想な人になるのを好む人間なのだ。由依とは違って。
「好きだったよ」
 私たちは何も言わずお互いを見つめた。見つめていると、笑ってしまった。どっちが先だったのかは分からない。
「明とはどうするの?」
「分からない。実は、それを相談しに来たの」
「私に?」と由依が眉を顰めた。お客さんを送ってきた店長が近づいて、サービスの餃子を置いてくれた。
「恋愛経験は佳苗の方が豊富でしょ。明と何年目?」
「二年」
「ほら。私、一年以上付き合ったことないよ。二年目のカップルの問題なんて分からない」
「そういう問題じゃないの」
 由依が首を傾げた。「じゃあどういう問題だ」と聞いているかのように。
 私が黙っていると、由依は聞いてくれた。
「佳苗、明のこと好きだよね?」
 箸で餃子の皮をあっちこっち差してみた。
 あの子の顔が浮かんだ。私を十分に愛してくれた唯一の人。しかし、私の愛情は唯一ではない。私はあの子にあげたものと同じぐらいの愛情を、他の人にもあげている。
 それは、とても悲しいことだと思った。
「好きよ」
 そう答えると、由依は面倒くさそうな表情をした。同じCMが何度も出てくるテレビを見ているような。
「それでいいでしょ。それを明の前で言いなさいよ」
「でも」
 でも、明はそれで許してくれるだろうか。愛を、そう免罪符みたいに乱用してもいいのか。
 私が迷っていると、由依は言い添えた。
「いい? あんたたち二人は死んでも別れない。カップルが別れるのは、どっちかの愛が冷めるか、どっちかが真の愛に気付いてしまったときだけだから」
 真の愛とは何だろう。理解もできず、私は酔いに任せて首を傾げた。由依もお酒の勢いで言ってみただけなのかも知れない。
 店長がまたサービスを持ってきてくれた。枝豆とショートケーキだった。
「今日はどうしたんですか? こんなにサービスしてくれて」
 私の質問に、店長は寂しい顔をした。今日はお酒を飲んでなくて月のような白い顔だった。
「今までの情ってやつさ」
 由依は淡々と枝豆の皮を脱がせながら言った。
「今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ」と言って、店長はカウンターに戻った。人気のお店だから、すぐ新しいアルバイトが見つかるだろう。そう言いながら、私と由依は残っているビールを飲んだ。


 日の出ている間は雨が続き、日の入と共に止んでしまう、そんな日が続いた。
 いい天気の基準は人それぞれ違うものだ。ある人は一点の曇りもない鮮やかな日を、ある人は適量の雲が日差しをふさいでくれる微かな日をいい天気と言う。
 私にとっては、今日がいい天気だった。雨が降り注いだ後、涼しい空気にカエルと小鳥が声を上げる天気。川辺にもそう思う人たちが歩いていたり座っていたりしていた。
 私は自転車に乗って川沿いを走った。散歩道のいいところは切りがないということ。私の体力が許す限りはどこまでも続いている。
 溢れそうに流れる川に見とれてしまい、前から来る人とぶつかりそうになった。二人して腕を組んで歩いている若い男女だった。
「すみません」
「いや、すみません」
 女の方は鋭い目で私を睨みつけ、男の方は無表情で謝った。私は自転車を止めて後ろを向き、去っていく二人の後ろ姿を見つめた。二人はカップルだろうか、夫婦だろうか、それとも、どっちでもないだろうか。
 仲が良さそうに見えたが、女の方の目つきは必要以上に鋭かった。もしかしたら、女は浮気をしているかも知れない、あるいは、売春をしているかも知れない。
 私は売春と言う行為について考える。愛を売った代償としてお金を稼ぐ仕事。
 売春に対する嫌悪の源は正義と嫉妬である。「愛の代償はお金ではなく、同じ大きさの愛であるべきだ」という立派な正義。そして愛を売って結局は愛もお金ももらえない、残念な人たちの嫉妬。
 自転車を放っておいて濡れたベンチに座った。冷えた水がお尻を通して頭まで登ってくる気がした。
 さっきの女が売春をしているかどうかは重要ではない。私が知るべきなのは、若い男女とぶつかりそうになったという現実だけ。
 私は、現実の向こうの真実を知る必要はない。真実を知って生きるに、私は貧弱すぎるのだ。目にはっきり見える現実さえ知っておけば、正しく生きることぐらいはできる。それ以上はいらない。
 ポケットに手を入れると、ちょうど携帯が鳴った。画面を見なくても分かった。明だった。
「もしもし」
 私は答えなかった。何も言わず、明を抱きしめて居たかった。
「もしもし、佳苗? 今どこ?」
 私は確信した。明は既にすべてを知っている。全てを許している。そして、永遠に私のことを離してくれないのだ。
 私が浮気をして怒って逃げ出しても、明は絶対別れてはくれないだろう。私を捨ててはくれないだろう。
 私の方からそんなことができないことも、明は知っている。きっと。
「公園。散歩していた」
 川の流れる音がやけに大きく聞こえた。私が思わず怯えてしまい、声を潜めるほどに。川も、鳥も、通り過ぎる人々も、皆私に怒鳴っているような気がした。
「今バス。夕方には着くよ」
「うん。迎えにいくね」
 明は何度も「大丈夫」と断ったが、私は引いてあげなかった。明を迎えに行く。それ以外の選択肢は私になかった。すこし幸せな気分を味わいながら、私は携帯をしまった。
 しかし、幸せはすぐに消えてしまった。悪夢はまだ続いている。きっと、いつまでも続くのだろう。
 さっきの若い男女が逆方向から歩いてきた。相変わらず仲良く腕を組んだまま。二人は私の視線などには気が付かず、私が行きたかった方向に軽やかな足取りを運んだ。

 
 


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