「エイベン様の旅行談~その三~ 亀村紫 さまよう手紙のような 「......ルエン。人間の身になって旅行に行くんですって」 ルエンのお母様は厳しく恐ろしい存在だった。しかも、美人だった。 子を叱るとき、細く見開くその目。ルエンはそれより美しい目を今まで見たことがない。 美しい彼女は、筆とパレットを持って座っている。向かい側に凍ったように座っているルエンを見つめながら。 「動かないで」 「はい、お母さま」 全身を除かれるお母様の視線に体が震えた。しかし、震えごときでお母様の絵を台無しにすることはできない。ここは我慢だ。 「それで、旅行ですって」 「はい、お母さま」 今はそうでないが、このときのルエンは誰にでも敬語を使う良い子だった。 「......知ってるでしょう。人間は死にます」 「しかし、お母さま。私は人間ではありません。身を借りるだけなので、寿命は今と同じかと」 「そうですね。でも刃物に刺されたら死にます」 「......はい」 「毒を飲んでも死に、ちょっと高い所から落ちたら死に、走る馬にひかれても死にます」 「......知ってます」 「そうですか。ならこれ以上話すことはありません」 お母様はしばらく黙って筆を動かした。モデルであるルエンは口以外の体を動かすことができなかった。だから口を動かすことにした。 「お母さま。一つ、質問をしてもいいですか」 「少し待って」 「はい」 「どうぞ」 「何で私を描いてるのですか?」 筆は止まらなかった。お母様の両目はキャンバスの上にしっかり固定されている。 しかし、ルエンははっきりと見た。お母さまがさりげなく唇をひねり、微笑んだことを。めったにないことだった。 「それはね」 その笑顔が印象的過ぎたのだろうか。だから他の記憶が残る余地がなかったのだろうか。 お母様が何と答えたのか、ルエンは思い出すことができなかった。 * 「......夢か」 エイベンは目を覚ますと、周りを見渡した。どうやら御者台で居眠りをしたようだ。人が少ない田舎道でよかったものの、下手をすれば交通事故を起こすところだった。 「......」 「そうだね、キア。ちょっと休んで行かないと」 しかし、エイベンが知っている限り、次の国まではまだまだ遠い道だ。エイベン一人なら道端に横になって一夜を過ごしても問題ないが、キアがいると話は違う。夜中の間にキアがフクロウやワシに食われるかも知れないのだ。 しかし、エイベンともあろうものが居眠り運転とは。 眠いという感覚がするのはいつぶりだろう。多分何十年はたったはずだ。エイベンは本来、寝ることすら必要のない存在だから。 エイベンが眠気を感じたのは体力の不足などではない。何か他に理由があるはずだ。 「......」 「うん? あ、本当だね。人がいるようだ」 キアが頭をつついたので顔を上げてみると、遠くの屋根の上に煙が立ち上がるのが見えた。誰かが住んでいると言うことだ。 馬車を引く馬たちが坂道を登り始めた。彼らの息が苦しそうだったので、エイベンは馬車から降りて歩くことにした。 そこにあるのは予想通り、人が住んでいそうな小屋だった。 ただ、予想よりもはるかに小さかった。エイベンのような体格の人が五人もいればくまなくいっぱいになるだろう。いっそ、ちょっと大きい箱と呼ぶ方が当てはまると、エイベンは思った。 その箱のような小屋から少し離れた所、誰かが座っていた。褐色の長い髪をしたご婦人が一人、座っていた。子供を二人は連れていそうな親しい印象だった。 「たのも......いや、お邪魔する」 「うん?」 椅子に座っていたご婦人が丸い頭で振り返った。そして立ち上がるのかと思ったら、座ったままエイベンたちに近づいた。 エイベンは驚いたが、よく観察すると、椅子には車輪がついていた。どこかの国で「クルマイス」と呼んでいたものだ。 ご婦人は椅子を動かして、エイベンの鼻先で止めた。 「あら、こんなところにお客さんなんて。今日は良い日なんですね」 「雲を見るには、もうすぐ雨が降るようだが」 「天気の話じゃないですよ」 「そうなのか?」 「ふふ、面白いお客さんですね」 エイベンは彼女がなぜ笑うのか分からなかった。なぜ良い日だと言うのかも。お客さんが来ることが必ずしも良いとは言えないのに。そのお客さんが泥棒かも、強盗かも、殺人鬼かも知れないのではないか。 エイベンは彼女にもろもろ聞きたかった。しかし、キアが肩を握る力が強まるのを感じてやめた。聞きだしたら、きっとキアがまた攻撃してくるのだろう。 「よかったら、一夜泊って行きたいのだが」 「どうぞどうぞ、お狭い所ですが」 「助かる」 ご婦人は無邪気に微笑んでは元の所に戻って行った。エイベンも馬車を止めておいて彼女について行った。他にやることがなかったし、ご婦人がやっていたことが気にもなった。 「君は、画家なのか?」 イーゼルの上に乗せたキャンバス、握ったパレットと筆。エイベンはこれら一つ一つに目をやった。何となく、目がひかれた。 「いえ、ただの趣味ですのよ。そんなにうまくないですから」 「何を描いているんだ?」 「これですか? これは......私の息子ですの」 エイベンはご婦人の後ろに回って絵を拝見した。上手いかどうかはまったく分からなかったが、何を描いたのかは分かった。顔立ちがはっきりした若い青年だった。 キアが絵を少しでも褒め老とエイベンをつついた。しかし、エイベンは無視して他の話をすることにした。本心が入っていない褒め言葉は、本心が入った暴力よりも悪い。時には。 「息子は、今もこの家に住んでいるのか?」 「いえ、今はいないですよ」 「外出しているのか」 「......いいえ、戻ることはないんです」 「そうか」 エイベンはまた何かを聞こうとした。しかし、悲しく目をつぶるご婦人を見てやめた。それ以上は聞いてはいけない気がしたし、また、実はさほど気にもならなかった。 ご婦人が涙目で空を見上げた。 「ところで、食べ物は充分あるかね」 「あら、そういえば。パンが少し残っていますが、二人で食べるには足りないかも知れないですね」 「三人分は必要になるよ」 肩載っているキアを撫でなあら言った。キアはエイベンより多くの量を食べつくすときすらある。美味しい食べ物に限ってだが。 「そうですね。どうしよう」 「キアと近くの森に行って、木の実でも取って来よう」 「本当ですか? でも、お客さんに仕事をさせるのは......」 「食事を欠かせられるよりは、仕事をした方がましではないか」 「ふふ、それもそうですね」 ご婦人はいつの間にかまた笑顔になっていた。顔いっぱいの笑顔が本当のものかどうか、エイベンには分からなかった。 * 恋とは人間のだけのものではない。神も恋をし、結婚をするのだ。むしろ、大体は人間などより上手いともいえるだろう。ルエンは少し例外だったが。 ルエンのお母様とお父様も、またそうやって恋をし、結婚をしたのだろう。しかし、ルエンにはそれがどうしても信じられなかった。 「お母さま、お父さまがまた乱暴を......」 お父様がお母さまに恋をしたのは、まだあり得るとしよう。しかし、逆はどう考えてもあり得ない。あれほど立派で美しいお母さまが、なぜ。 「ほっておきなさい」 「しかし......」 「ルエン」 「はい」 「恋が何なのか、知りたいと言いましたね」 「はい」 「恋は、素敵で完璧な相手にするものではありませんよ。バカで、どこか欠けている人にするものです」 幼いルエンは首を傾げざるを得なかった。ルエンが本で調べたり、人間たちを覗き見たりして得た知識とは違い過ぎる。人間は完璧な相手にすら、恋ができないこともあるのだ。バカでどこか欠けている人なんて、論外ではないか。 「愛されて当然である完璧な相手、というのは、この世にないのです。そんな人間も、そんな神もいない。ほら、あなたのお父様みたいに、酒に酔って暴れるくらいしか能のない神様もいるでしょ。まったく、不甲斐ない神様ですよ。まったく......」 「......はい」 「しかし、この世はとても優しいのです。そのような存在すら愛されることができるように、作られているのですから。不良品だからって、すぐに破棄されることはありません」 ルエンはその言葉を完全には理解できなかった。 「何より、その不良品はこの母が自分の手で選んだものです。母を信じなさい」 「はい、お母さま」 理解はできなかったが、ルエンには何の疑念も残らなかった。お母様が笑っていたので、それはきっととても素晴らしい言葉なのだろうと思った。 * 「これぐらいで足りるだろう」 「......」 ご婦人に借りてきたバスケットに金色の果物が満ちた。果物を集めるのはそれほど苦でもなかった。坂道を少し下ると、艶やかな木の実が沢山落ちていた。エイベンがしたことと言えば、その実を拾っただけだった。 しかし、この坂道はけっこう急な傾斜だ。クルマイスに乗っているご婦人にはさぞかし苦しい道だろう。彼女はどうやって毎日の食事を済ませるのだろう。 「そこにいるのは......どなた様ですか?」 少し離れた木陰から声が聞こえた。馬に乗った男がそこに隠れ、怯えた顔でエイベンを睨んでいた。手綱をひゅっと握り、逃げる準備も万全にしていた。 「私はエイベンだよ」 「......人ですか?」 「そうとも言えよう」 「よかった。お化けだと思いまして」 「この坂にはお化けが出るのか?」 「そうですね。お化けと言うか、魔女が住んでるっていう噂ですから」 男は自分が郵便配達員だと名乗った。離れた町まで郵便物を届きに行く途中らしい。本来おしゃべり好きな性格なのか、馬から降りて聞いてもいない話をノリノリと始めた。 「こっから近い村がですね、この何年間ずっと凶作で、今や村中が貧困な有様なんですよ。みな自分の身を守るのに精いっぱいで......なんと、貧しい家では親が子を、子が親を捨てることも頻?らしいです」 「なるほど」 「その村に住んでる若者一人も、数か月前、この坂に自分の母親を捨てて逃げたのです。本来足を怪我していて、自分の力では歩きもままにならぬ、不憫な女だったらしいがね」 「そのようだったね」 エイベンは頷きながら、彼女の晴れた笑顔を思い出した。どうも子に捨てられた親の笑顔とは考えにくい。 なにより、彼女は息子の絵を描いていたのではないか。あれは何だったのだろう。 郵便配達員は一瞬疑わしい目でエイベンを見たが、すぐまた話しを続けた。 「ところで、何かおかしくないですか?」 「何がおかしいかね」 「考えてごらんなさいよ。女は一人では歩きもできず、息子のやろうは金一銭、パン一粒も置いて行かなかった。なのに今まで生きているのですよ、その女は」 「うむ」 「そんな状態で、一人で何か月も生きているって、おかしくないわけがないでしょうが」 「なるほど」 「だから、魔女なんですよ」 「魔女か」 郵便配達員は得意げな顔で言った。そんな顔をするにはいささか根拠か足りないようにも聞こえたが、噂とは本来そういうものだ。まるで水切りに投げた石みたいに。論理的で正しいものより、刺激的でとんでもないものの方が、より遠く、より早く広がる。 「だからあなた様も、用事が住んだらさっさとここから出た方がいいですよ」 「参考にするよ」 そして郵便配達員は、馬に乗ってさっさと消えていった。 「私たちもそろそろ帰ろうか、キア」 エイベンはその後ろ姿を見ながら、地面に置いておいたバスケットを取った。坂道は降りるときよりも急傾斜のように感じられた。 日が沈んで行き、もうすぐ何も見えなくなりそうだった。それでもご婦人は依然として筆を動かしていた。彼女の茶色い髪が、夕焼けに照らされ甘酸っぱそうなオレンジ色に見えた。 「聞きたいことがあるのだが」 エイベンはなかなか重くなったバスケットを落としてからご婦人を見つめた。 「何ですか?」 「なぜ息子の絵を描いているのだ」 「うん......息子を愛しているから、ですよ」 「君の息子は、君を捨ててしまったはずだが」 「......」 日が暮れるにつれ、ご婦人の髪の毛も黒くなっていった。しかし、彼女が筆を止めることはなかった。 「だからなおさら描くんですよ。むしろ、描かなきゃいけないというか」 「どういうことだ」 「息子をこのキャンバスに閉じ込めて置いたら、私の好きにできますもの。私が見たいときに見て、愛したいときに愛することができる。それって、とても良いことだと思いませんか?」 「なるほど」 彼女は暖かい笑みを作って見せた。しかしそれは、歪み切ったしわのようにも見えた。微笑みはときに恐怖、挫折、絶望を表すこともできる。実に興味深い感情表現の一つだ。 エイベンがまた質問した。 「息子が君を愛さなくてもか?」 「ええ。息子はキャンバスの中の絵なんかじゃないですもの。私を愛するか否かは、あの子の勝手ですわ」 「辛くはないか?」 愛する人に愛されないのは辛いことだ。エイベンはそれを感じることはできなかったが、知識としては理解していた。だから人間は、愛することを憎むことも、ましてや殺すこともできる。矛盾が多い種族だ。 ご婦人はやっと手を止めて、筆を横に下ろした。まだしわのような微笑みは顔に残していた。 「辛いですよ」 「では、愛さなければいいのではないか」 「ふふ、面白いことをおっしゃいますね」 「何がかね」 「それは私の勝手にできることではありませんよ」 エイベンは目を細めた。息子の愛は勝手にできると言っておいて、自分の愛はそうでないというのか。急に気分が悪くなった。頭痛がし、眠気がした。しかし、エイベンにはまだしたい質問が残っていた。 「君が息子を愛するのは、家族だからか?」 「そうかも知れません。でも、違いますよ」 「では、なぜ?」 「家族だから愛してるんはないんですよ。愛するから家族になれたんです」 「......」 * 「はは、飲め、もっと飲め!」 ある日、ルエンのお父様が宴会を開いた。神の宴会に酒がなくては話にならない。酒は本来神の飲物。人間が酒を飲んで酔っ払うのは、全て神の真似をしているのに過ぎない。 つまり、神の飲酒は人間たちみたいに甘いものではない。規格が違うのだ。飲む量は川一個分、飲む時間は月を単位として数える。酔っぱらって起こす騒ぎはそれこそ天災事変に相当する。 もちろん神にも一人ひとり酒癖があって、お父様の酒癖は、不幸にも、喧嘩を売ることだった。 「ルエン。母は恐らく、神界から追放されることになります」 その日、お父様が喧嘩を売った相手は、ルエンのお母様だった。神の世界で喧嘩は戦争と等しい概念。負けた方は死か追放しか選択がない。神々は誰もお母様を助けなかった。それどころか、お父様の方に加勢した。最強と呼ばれるルエンのお父様に立ち向かうなどの無茶なことは、誰もしたくなかったのだ。 「念のために言っておきますが、あなたが何かをする必要はありません。神々が戦争を起こすと人間界まで被害が及びますから。私が降参してここを出て行けば、まるく収まることです」 「......そうですか」 ルエンはなぜか嫌な気がした。お母様のためではなかった。そのときもまだルエンは愛というものを知らなかったから、誰かのために腹を立てる方法も知らなかった。 ただ、お母様が他の神々より優れた存在だと言うことは分かっていた。お母様は美しく、高貴で、懸命な女神だ。そんな存在が追放されるのはどこかおかしい。正しくないことだ。 それでルエンは生まれて初めて、お母様に言われたことを守らなかった。 「息子よ、ずいぶんと久しぶりだが。何のことだ」 「喧嘩を売りに来ました、お父さま」 「この俺にか」 「はい」 「酔っ払いでもしたのか」 「......」 「お前が俺に勝てると、本気でそう思っているのか」 「他の神々には秘密にして来ました」 「だから、一対一だと勝てると。俺は他の神々を操るしか能のないクズだと、そう言っているのか」 「そうです」 当時のルエンは愛し方以外にも、色んなことを知らなかった。虚勢を張る方法も、謙遜を言う方法も、嘘をつく方法も知らなかった。今は大分ましになったが。 だから断言した通り、お父様に勝ち、彼を神界から追放した。 「なんて卑劣な......」 「恩知らずめ......育ての親を自らの手で消すとは」 神の世界で、追放はすなわち死である。ルエンが「エイベン」と呼ばれたのは、このときからだった。よく言えば「王位を奪い取った者」という意味で、悪く言えば「自ら親を殺めた者」という意味だった。 ルエンは愛が何か知らなかった。しかし、恐らく、それからルエンのことを愛した神はいなかった。誰もが彼を軽蔑し、憎悪し、恐れた。 「ルエン」 「はい」 「あなたはもう私の子ではありません」 「......はい」 ルエンのお母様すらも、そうだった。 * 「あの、......さま?」 「あ、うむ」 ほのかな声に考えが断たれた。茶色い髪のご婦人が、ひときわ青い瞳でエイベンを見つめていた。 「大丈夫ですか? 少しぼうっとしているようですけど」 「大丈夫」 「具合でも悪いんじゃないですか? 先に入ってお眠りになってください。私はこの絵を仕上げてからじゃないと」 「そうさせてもらおう」 エイベンはキアを連れて小屋に入った。すこしめまいがした。どこまでが現実でどこまでが記憶か、また、その記憶の中でどこまでが真実か、わからなかった。 干し草でできたベッドに横たわると、エイベンは死んだように眠った。夢も見ないほどの深い眠りだった。 「......さま、起きてください」 ご婦人がエイベンの体を揺さぶって起こした。しかし、エイベンは既に数分前に目を覚ましていた。なぜか外から大きな叫び声と足跡が聞こえていたからだ。 「何の騒ぎかね」 「村人たちです。魔女を捕まえに来たみたいです」 「君は、やはり魔女だったのか」 「そんなわけないでしょう」 ご婦人は微笑んで、自分が乗っているクルマイスのひじ掛けを指差した。歩きもできない人が魔法なんか使えるわけない、とでも言っているようだった。 「おのれ魔女め! さっさと出てこんか!」 うるさい叫び声が窓の隙間から入ってきた。これ以上眠っているのは不可能だと判断したエイベンは、身を起こして玄関を開けに行った。 まだ陽が上ったばかりの早朝だった。空は透き通る群青色で、暁の霧が視界を邪魔していた。その中で目をいからかしている人々は、この世の唯一の傷に見えた。 村人たちは老若男女を問わず色んな人で構成されていた。子供たちは訳も分からず連れてこられたよう、まだ眠そうに目をこすっていた。 「おい魔女! てめえのせいで、もう畑を捨てて山で食っていけないといけなくなったんだぞ!」 「お母さん、お腹空いた......」 「今すぐ呪いを解け! てめえの呪いなんだろ! そうじゃないと、二年も凶作が続くなんてありえないじゃないか!」 村人たちは皆、すごく痩せていた。冬の木の横に立てておくと、どっちがどっちか区別がつかなさそうだった。 エイベンは開けたドアをゆっくり閉じた。霧のせいで何人ぐらい来ているのかは見えなかったが、とにかく、今出たら魔女の仲間とされて殴り殺されるに違いない。あの人たちはすごく怒っているのだ。 もちろん、エイベンは殴られる程度では死なないだろうけど。 「どうするつもりかね」 「......あなたは?」 「裏門を通して出ようと思うのだが。君もいっしょに行くかい」 「この家に裏門なんてないですよ。この大きさですもの」 「そうか」 しばらく二人は黙っていた。そのまま数分が経ち、ご婦人がクルマイスをぐるっと回転させエイベンの方を向いた。群青色の両目が正面から見えた。 「ルエンさま」 「うむ」 エイベンは少し間を開けた。いまさら違和感がしたわけではなかい。彼女がどこかおかしいということには、そう、昨日ぐらいから気づいていた。何も聞いてなかったのは、聞く必要がなかったからだ。 ただ、今はなぜか、少し好奇心が湧いた。 「君は、昨日も私をそう呼んだね」 「そうでしたか」 「なぜ私の名前を知っているんだい」 エイベンが覚えている限り、彼女に名前を明かしたりはしなかったはず。それも、今は使っていない方の名前を。 「それは......私が無事ここを抜け出すことができたら教えて差し上げます」 「今教えてもらうことはできないかね」 「できなくはないけど......なんか嫌です」 「そうか」 彼女は目を細く開け、薄く微笑んだ。それが彼女なりの真剣な顔のようだった。 「とういわけで、ルエンさま。すこし手伝ってください」 「何をすればいいかね」 「あの人たちを引き返さないと」 「私にそんな力はないのだが」 「私よりは強いじゃないですか。私ができないことができる方なんですから」 「それはそうだね。君より早く歩くことぐらいはできるだろう。でも、それぐらいだ」 「そうなんですか......」 ご婦人はがっかりして、隠しもせず顔を顰めた。その顔に少し罪悪感を感じ、エイベンが言い添えた。 「しかし、キアなら何かできるかも知れない」 「キア、という方は......」 「この子だよ」 エイベンは枕元に座っていた小さい鳥を指差した。キアが指名されたことに気づき、エイベンの肩に飛んできた。ご婦人は一層がっかりした顔をした。 「キアさんは、何か特別な力をお持ち何ですか?」 「空を飛べる」 「そして?」 「味にはうるさいね。キアが選んだ店は、まず間違いなく美味しいと言えよう」 「......」 「そうだね、キア。昨日のあの果物は意外とおいしかった。帰り道にもう少しもらうとするか」 その時、ご婦人のクルマイスががくんと動いた。彼女の細い体が前のめりになっていた。 「あの」 「何かね」 「ルエンさま、キアさんと言葉が通ずるんですか?」 「そうとも」 彼女は腕を組んだまま首を傾げた。何かを熱心に考えているようだった。そして、予想もしなかったタイミングでにっこりと笑った。 「いけそうです。やっぱり、少し手伝ってくれませんか?」 「私とキアにできることなら」 「ありがとうございます」 「ところで、何を報酬にくれるのかね」 「そうですね。ルエンさま、探し物があるんじゃないですか? それを探して差し上げます」 エイベンも彼女と共に微笑んだ。エイベンの探し求めていた「愛」を探してくれるのなら、手伝ってあげない理由はない。 ★ 鎌とつるはしを掲げている村人たちの中、若い男女がこそこそ話していた。 「ね、イヴァン。ここに住む魔女があなたのお母さんっていう噂、本当なの?」 「......そんなわけねえだろ。母は去年、凶作で飢え死にしたんだよ」 「あんたは生きてるんでしょ? 同じ家に住んでたはずなのに、何でお母さんだけが飢え死にしたのよ」 「......」 魔女の噂を始めて聞いたとき、イヴァンはその場で倒れるほど驚いた。魔女が住んでいるという丘は、彼が母親を寝かしたまま背負い、捨ててきたその丘だった。 イヴァンとて捨てたくて捨てたわけじゃない。だが、仕方なかった。農夫のイヴァンは凶作の最もの被害者だった。収入は例年の十分の一にも及ばず、このままでは大人二人を扶養するのが精いっぱいだった。まだ先が長い妹よりは、母親を捨てる方が合理的だったのだ。しかも、母は家で雑な絵を描く以外には脳がない人だった。あんな絵では家計の足しにもならない。 そんな母親が、生きているのか。 何で、どうして? 「でもイヴァン、魔女を殺すって、本当になんか意味があるのかな」 「どういうこと?」 「だって、この街は魔女が現れる前から凶作が続いてたし。そもそも魔女って、そんなの本当にいるの?」 「......しょうがないだろ。他に方法がないんだから。神に雨ごいもしてみて、他の国と貿易も試してみた。それでもなんにも変わらなかったから、もう魔女を責めるしかないんだよ」 「うん......そりゃあそっか」 いや、彼女の言う通りだ。魔女なんているはずがない。魔女も、魔女と呼ばれるお母さんも、いるはずがないのだ。 例えイヴァンの母親が生きているとしても、どうにもならないのだ。親を捨てた子を、未だに愛せる親がいるだろうか。もし、万が一二人が再開を果たすとしても、それは喜びあふれる感動の再開にはならない。会うとしたら、憎悪に満ちた敵(かたき)としてた。 来なければよかった、とイヴァンは思った。村人たちを見渡しながら。 夜明けの空気はするっとした鉄面のように冷たかった。霧が濃く、目の前もよく見えなかった。しかし、そんな中で何かがはっきりと動いた。 「出てきたぞ! 構えろ!」 男たちが先陣を切り、農機具を掲げた。魔女が実在するかどうかも分からず、また実在したとしても、たった一人の女性なはずなのに。二十人ほどの男たちの顔には緊張の気配が明らかだった。 「あれは......なんだ?」 長い髪をなびかせる人のシルエット。恐らくそれが魔女であろう。しかし、そのシルエットは普通の人のものではない気がした。まず身長がとりわけ低かった。大人の女性が座っている程度だろうか。それでそのシルエットは、まるで座ったまま空中を移動しているように見えた。 男たちと五十歩ぐらい離れたところで、魔女のシルエットは移動を終えた。そして霧の中からいきなり、骸骨みたいに痩せた人の手が飛び出た。 「魔女だ! 撃て!」 相手が間違いなく一人であることを確認し、男たちは勇猛を取り戻したようだった。前方で構えていた巨体の男たちが、真っ先にかかって行った。 しかし、彼らは直(じき)に足を止めた。近づいたとたんに、魔女以外のシルエットが見え始めたのだ。 「......」 村人たちは男たちに沿って、その黒い影らを見つめた。どんどん霧が消えゆき、もはや後ろ側にいるイヴァンにもはっきり見えた。 異様な形の椅子に載っている散髪の女の姿。そして、その周りを飛び回っている無数のカラスの群れが。 それはまるで、生きて動く墓地のような不吉さだった。 カァーカァーカァーカァー。 気持ち悪い鳴き声が、冷たい空気の中に響いた。 「ほ、ほんように魔女じゃないか!」 「本物だ! に、逃げろ!」 魔女を狩りに来た村人たちが、魔女が要ると言う事実に慌て、逃げ始めた。そう考えてみると少し面白可笑しい状況だった。しかし、その場の誰にも笑えることはできなかった。霧の中を飛び回る影、そしてどこからでも響く鳴き声は、死の象徴そのものだった。その存在を疑うことも、あざ笑うこともできない、圧倒的な存在感だった。 「く、来るな! 来るな!」 最初は、カラス一羽が男の腰に向けて突っ込んだだけだった。恐らく、彼のポケットに入っていた。パンの残りかすが目当てだったのだろう。しかし、それは村人たちに充分なぐらいの恐怖を与えた。大人も子供も四方逃げ回りだした。カラスの群れはその慌ただしさに刺激され、動くものに対して遠慮なく飛びつき始めた。 「イヴァン! 私たちも逃げよう!」 「う、うん」 イヴァンも飛びついてくるカラスを避け、とにかく走った。自分がどこに向いては知っているのかも分からないぐらいだった。 そして、イヴァンは何かにぶつかって転んでしまった。 「くっ、痛......」 大げさにものが転ぶ音がした。何かがイヴァンの腹の下敷きになっていた。冷たく荒い感触からみて、木の板か何かだろう。魔女が設置しておいた罠だろうか。終わった、とイヴァンは思った。何もかも終わりだ。 しかし、なぜか少しほっとした。これが自分の正しい末路だと思えた。罪への償いは、例え被害者に許されなくても、すっきりするものだ。捨てた母親かも知れない魔女に殺されれば、充分すっきりできるだろう。 「う、うん......?」 だが、いくら待っても死は訪れなかった。足が切断されることもなかった。イヴァンは依然として地面に腹ばいになっていて、頭上にはカラスの群れがうるさく飛んでいた。イヴァンは起き上がっては胸をなでおろし、下敷きにしていた板を覆してみた。幸い、その板は無事だった。色が崩れてもいなかったし、キャンバスが壊れてもいなかった。絵の中の男はイヴァンと違って、明るく笑っていた。 その絵はイヴァンだった。イヴァンもそれを一目でわかった。それを誰が、何の思いで書いたのかも。 ★ 朝日が昇って暖かくなった。霧が消え去った空には雨が降る気配もなくなっていた。 地面が慌ただしい足跡で乱れ、不穏な鎌やつるはしが落ちてはいた。しかし、何も変わったことはない。この丘にはいつも通り、魔女が一人で残っているだけだった。 「お疲れだったね」 カラスたちはすごく疲れた顔でキアと雑談を交わしていた。恐らく、彼らをこき使ったエイベンの悪口かなにかだろう。エイベンが約束していたパンのくれを投げてやると、カラスたちはそれを加えて森の方へと消えた。 「これでいいかね」 「はい、いいです」 「では約束通り、私が探しているものを渡してくれたまえ」 「もちろんです。ちょっと待ってくださいね。ええと、どこだったかな......」 茶色い髪のご婦人は、クルマイスに座ったままポケットを探った。そして少し時間をかけ、くちゃくちゃになっている紙切れを出した。 それは便箋だった。本来白だったのだろうが、ほの灰色に近く色あせていた。 「......」 「......」 「これは?」 「あれ? これじゃないんですか?」 「これではないね」 「あら......まあ、とりあえず読んでみてください」 エイベンはがっかりした。今度こそ愛と言う者を見つけられると思ったのに。多少興ざめした気分で手紙を受け取った。 「......なるほど」 手紙には「ルエンへ」と書いていた。ご婦人はこれを見て、エイベンの名前が分かったのだろう。 差出人は書いていなかった。しかし、それは重要ではなかった。エイベンのことを「ルエン」と呼ぶ者は、このご婦人を除けば一人しかいないのだ。 ご婦人は初めて会ったときのような、親近感が湧く笑顔で言った。 「その手紙はね、二年前、私が捨てられた直後に届いたんですよ。私宛の手紙でもないし、最初は間違って来たのだと思って捨てようと思ったけど......」 エイベンは彼女の声を聞きながら手紙を読んだ。 ルエンへ。 旅はうまく行っていますか? 一つ言い忘れたので、こうやって筆を手にします。いつか運命が、あなたの手に届けてくれるでしょう。 私が愛したあなたの父は、酷く壊れていた不良品でした。所々罅が入っていて、すぐにでも破れそうなものでした。そして、あなたも知っているように、それを完全に破ってしまったのは、他でもないあなたです。 しかし、ルエン。勘違いはしないように。私は感謝を伝えているのです。 他の人が何と言っても、あなたのしたことは正しかった。あなたの父を選んだのは、あなたではなく、この母ですから。あなたは、私がしなくてはいけない、そして私にはできないことを代わりにしてくれたのです。 ごめんなさい。私の間違った選択で、あなたに苦労をさせました。 ルエン。あなたはもう私の子ではありません。でも、だからといって、以前と変わることは何もありません。 「あ、勝手に読んじゃってすみません」 茶色い髪のご婦人が慌てて言った。エイベンの顔が思わず固くなったせいだろうか。しかし、エイベンはまったく怒ってはいなかった。むしろ、その逆方向の感情だった。その感情を何と呼ぶのかは、分からないが。 「何があったのかは知りませんが」 ご婦人が恐る恐るまた口を開けた。 「その手紙に、すごく救われました。まるで私に言ってくれるみたいで」 彼女は静かになった丘を見回してから言った。青い瞳は空っぽのように見えた。憎悪も、執着も、愛も、何もこもってい澄んだ色だった。 エイベンは手紙の内容が終わったのを確認し、それをご婦人に差し出した。 「ありがとう」 「え? いや、持って行ってください」 「なぜ?」 「ルエンさまの手紙ですから」 「そうでもない。先に受け取ったのは君の方だから」 「いや、これはルエンさまのものです。書いてるじゃないですか。いつかいらっしゃると思って、ずっと預かっていたんですから」 ご婦人は両腕を背中に隠し、動かなかった。ルエンのお母さまがよくしていた、頑固な表情だった。エイベンは仕方なく、手紙をポケットにしまった。 それを見て、ご婦人が言い添えた。 「その手紙を書いた方は、ルエンさまをとても愛しているんですね」 「そのようなことは書いていないのだが」 「そうでしたか?」 もしお母さまがエイベンを愛しているとしても、それは無駄である。愛が何か分かっていないエイベンには伝わらない。いわば、蓋がされている水筒に水を注ぐような行為だ。 エイベンは一度もお母さまを愛したことがない。公明な女神、尊敬に値する師匠。お母さまはそんな存在だった。 しかし、そうか。それも無駄ではないど、このご婦人は言っているのだ。閉ざされた蓋は、いつか開くものだと。 「しかし、今度も見つけられなかったな」 「何をですか?」 「いや、何でも」 エイベンはそれ以上は言わなかった。愛を十分に知っているこのご婦人には、言っても分からない。本当に裕福な人は、自分が持っているものに気が付かないのだ。 いつかエイベンもこのご婦人のように、お母さまのように、裕福な愛を持てるのだろうか。誰かを愛していると、潔く言えるようになるのだろうか。エイベンには見当がつかなかった。まだ分からない。なれるかも知れないし、なれないかも知れない。 しかし、もしそうなれる可能性が少しでもあるのなら、こんなところで、ぐずぐずしていてはいけない。早くまた、探しに出ないと。 「行こうか、キア」 「あ、ちょっと待ってください」 馬車に乗って馬を動かそうとするエイベンを、ご婦人が呼び止めた。 「本当にありがとうございます。ルエンさまにも、ルエンさまに手紙を書いた方にも」 「こちらこそ。お世話になった」 「お礼に、私が描いた絵でも持っていきませんか?」 「どこに使うんだい」 「遠くの国ではけっこう高く売れるらしいですよ。週に一度、行商人の方がいらっしゃるんですが、その方に買い取ってもらって生活していますもの。このパンも、クルマイスというものも、その方に絵代としてもらったものですよ」 なるほど、そういうことか。やはり彼女は魔女な何かではなかった。 しかし、エイベンは騙された気がしてならなかった。たしかし、このご婦人は、すごい画家ではないと言っていなかったか。 「あれ? 私の絵、どこに行ったんでしょう」 ご婦人はクルマイスで、昨日キャンバスに絵を描いていた辺りを回っていた。キャンバスもイーゼルも見当たらない。さっきの騒ぎで壊れたのなら破片が残っているはずだが、それもなかった。 「誰か持って帰ったようだね」 「あの大騒ぎの中でですか?」 「彼には絵を見る目があったのだろう」 「ん......あれは大切に描いた絵だから、いいとこに使われてたらいいんですけど」 エイベンは頷いた。そして御者台に座り、キアも肩に座らせた。 「そういうことなら、心配はいらないだろう」 狭くとも心地の良い家だった。エイベンはご婦人の住んでいる小屋を見て、そう思った。もう眠気はどこか行ってしまい、運転中に居眠りをすることはなさそうだ。 * 「そろそろ、ですかえn」 「そうですね」 黒い背広の執事が淡々と答えた。彼はずいぶん昔から、つまり、ご主人様の子であるエイベンが旅立ってしまう前から彼女の世話をしてきた。 「私(わたし)にご用命くだされば、直接届けに参りましたが」 「後をつけられるかも知れないですからね。子の旅を浜することになったら、母親として失格です」 「......そうですか」 彼女は普段通り厳しい表情をしていた。口元の小じわすら微動だにしない。もっとも、微動をする小じわなどない切れな肌のご主人なのだが。 しかし、執事は知っていた。彼女は毎日エイベンのことを恋しく思っている。心の中で自分の子の姿を一日何十回は描いているだろう。描いているのは、何も心の中でだけではない。部屋の壁にも、彼女より五倍は大きいエイベンの肖像画がかかっている。もちろん、彼女が自ら描いたものだ。 「大丈夫なんですか? エイベン様からご返事は来ないはずですが」 「知っています」 「そうですか......」 彼女は壁の絵を見つめながらため息をついた。 「もう戻りましょう」 「はい」 「子がほったらかしにしておいた仕事が、山ほど残っていますから」 そんなに会いたいのなら、一度ぐらいは見れ来てもいいだろうに。神々の頂点に立つ女神にも、ままならないことがあるのだろうか。執事の残念な気持ちは、誰にも届かないはずだった。
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