君の足

ビガレ



「こういうのって本当にいるんだ」
「こういうのとは?」
 美作め美は、現実では有り得ない生物を目の前にして幻覚を見ているのだと思った。しかしさっき擦りむいた肘がまだ痛かったので、いやはやこれは現実だと唸った。
「まず、身体が全体的に青い」
「そうですね」
「あと足が無い」
「確かに」
「口髭のかたちが綺麗すぎる」
「それは変じゃないでしょう」
「最後に、巨大」
「でなきゃ務まりません」
 美作め美は訝しげにそれを凝視する。
「改めて聞くけど、あなたってもしかして、魔神?」
「そう呼んでいただいて差し支えありません」
「だよね」
 美作め美はちょっと待ってねと言って自分の身に起きている事態を飲み込もうとした。
 ここは郊外の高級ホテルで、美作め美は結婚式に訪れていた。しかしそれを途中で抜け出し裏庭で引出物の急須を地面に叩きつけようとしたところ、突如として震え出し、中からこの大男が現れた。
「急須ってパターンもあるの?」
「何のことでしょう?」
 ランプの魔神を知らないにしてはソレとフォルムが似すぎている。
 ここで美作め美はあることを思い出した。映画の中のランプの魔神が持っていた能力のことである。
「あなたって何のために現れたの?」
「もちろんご主人様の願いを叶えるためでございます」
 美作め美の心臓が一気に高鳴った。
「願いを叶えるって、何でも?」
「ええ、何でも」
「何でも」
 人類にとってこれ以上ない素敵な響き、『願いを叶える』。しかも『何でも』。
 にわかには信じがたかったが、美作め美には叶えたい願いがあった。
「じゃあ、今すぐ結婚したい人がいるって言ったら?」
 眉間にしわを寄せて尋ねる。魔神は穏やかに答える。
「その方をお連れしてご主人様と結婚させます」
「え、その人痛い思いする?」
「ご主人様が望むならば」
「いや望まないよ、痛い思いしてほしい人と結婚しようと思わないよ」
 美作め美には人生で唯一結婚してもいい、と思えた人がいた。しかしその人はもう自分の手では届かない存在になってしまった。
 美作め美は揺れていた。わがままと罪悪感の間で。
「でも、ズルくない?」
「何がですか?」
「だって何の努力もしてないのに願いを叶えるなんて......」
 美作め美はそこではっとした。
「分かった、その代わりに私はあなたに何か差し出さなきゃいけないんでしょ」
「まさかそんな」
「寿命を半分奪われるんだ」
「私は死神ではありません」
 デスノートは知ってるんかい、というツッコミは心の内に留めておく。
「本当に何の代償も払わなくていいの?」
「はい、そういう決まりになっております」
 頭の固い人間は『そういう決まり』という言葉に弱い。
 美作め美はまだまだ揺れていた。こんな千載一遇のチャンス、逃がしたら絶対に次はないだろう。でもそんなにあっさり私だけ願いを叶えてしまっていいんだろうか。アラジンと違って私は不自由なわけでも貧しいわけでもないし、正義感が強いわけでもない。
 揺れに揺れた結果、美作め美はひとつの答えを出した。
「魔神さん、お喋りってお好きですか?」

 二人は大きな木の下に腰掛けた。魔神は足がないので格好だけで。
 お互いに何も言わない時間が続き、とうとう魔神の方から話しかけた。
「どうしたんですか?」
「話を聞いてほしいの」
「なるほど」
「もしあなたが本当に願いを叶えられるなら」
「何でも、ね」
 美作め美が眉をひそめると、魔神は「すみません」と首をすくめた。
「何でも願いを叶えられるなら、私は榊原森作という男と結婚したいと思ってるの」
「分かりました、それでは」
「ちょっと待って!」美作め美が話を遮るように制す。
「でも、でもね、これが本当に正しい願いかどうか分からないの」
「正しい願い?」
「本当に叶えてしまっていいのかが分からないの。だから、私と榊原森作との関係について聞いた上で、魔神さんに判断してほしい」
「何を?」
 質問が多いな、と美作め美はイラつく。
「私が榊原森作と結婚するのにふさわしいかどうかを」
「判断するも何も、私はご主人様の仰せの通りにするしかないのですが」
「いいの、私が聞いてほしいの」
 美作め美はそう言って座りなおす。人工芝がちくちくして痛い。
「それで、あなたがその願いなら叶えてやってもいいって言ったら、私はそうさせてもらう」
 魔神は「承知しました」と頷く。
「そういえば、他の誰かに見られないかな」
「心配ご無用、私はご主人様以外の方に見られてはならないことになっていますので、私がここに現れた時点で私とご主人様以外の時間の流れを止めております」
「都合が良いね」
 美作め美は微笑む。
「じゃあ喋るから、ちゃんと聞いてね」
「それが願い事でございますか?」
「マジ?」
「冗談でございます」
「笑えない冗談はただの嫌がらせだよ」
「失礼しました」



 私と榊原森作はお互いがまだ高校生のときにボウリング場で出会った。
 私がボウリング場のバイトで、彼はただの客だった。いや、ただの客じゃないな。彼は最初にボウリング場に来たとき松葉杖をついていた。松葉杖をつきながらボウリングをする人なんてそういないから、受付のときからずっと心配で彼の引き摺る右足から目が離せなかった。
 案の定とても投げにくそうで、一投するたびに不満げな顔をしながらスコア表を眺めていた。
 あんまりその調子で投げ続けるものだから、とうとう見ていられなくなって私が声を掛けた。
「あの、もし良かったら何かお手伝いしましょうか?」
 すると彼はスコアを睨んでいたときよりももっと険しい顔で「大丈夫です」と言った。店員である以上私も「失礼しました」と返したものの、失礼なのは私じゃなくてそっちの方だろ、と思っていた。

 それから彼は毎週月水金の夕方に現れた。奇妙なことに私のバイトのシフトと全く同じだった。店長に聞いたら、その曜日以外では松葉杖は見たことないと言っていたから、まさにドンピシャで一緒ということになる。
 ほんの一瞬私がお目当てなのかと思ったけど、最初のあの態度を見るにその可能性はナシと判断した。
 出会ってから一か月後、私と彼は二度目の会話を交わすことになる。
 それは彼がスコア表に表示するための名前を書いていたときだった。彼はまだ松葉杖をついていたので、ペンを持つその腕は多少不安定だった。すると、彼の方から声をかけてきた。
「時間かかってしまって、すみません」
 まさか話しかけられると思ってなかった私は咄嗟に「はい?」と聞き返してしまった。
「いや、僕の名前画数多いんで」
 そう言われてシートを見ると『榊原森作』という、何だか厳かな雰囲気の漂う文字の羅列があった。
「本当ですね」
 今までも書いてもらっていたはずなのに全く意識したことがなかった。
「嫌なんですよね、この名前。書くのに時間かかるし、あと名前のなかに木が多いし」
「木が多い?」
「こう書いて『さかきばらしんさく』って読むんですけど、榊、とか森、とか何か名前のなかに木が生い茂ってるように見えませんか」
「確かに」
 私は相槌を打ちながら笑いを堪えていた。一か月前まであんなに無愛想だった人が、今は自分の名前のコンプレックスを語っている。面白い。ただ面白いと思うと同時にシンパシーも感じていた。
「余計な話かもしれませんけど、私も名前にコンプレックスがあって」
「そうなんですか」と言って、彼は私の名札を見た。
「美作さん、ですか?」
「はい。『みまさかめみ』って言うんですけど、下の名前はひらがなの『め』に美しいの『美』って書くんです。嫌じゃないですか? 名前のなかに二つも『美』があるって。あと、ま行も多いし」
「そうですか? 別に、ふさわしいと思いますけど」
 彼はお世辞を言ったようではなく、とても自然にそう言ってくれた。私は少し嬉しくかった。
「まあ、嫌いではないんですけど」
「そうですね、僕も嫌いではないです」
「あと、お互い『作』って字が入ってますね」
「あ、本当ですね」
 その日以降私たちは受付で少しずつ会話を交わすようになった。

 例えば、先週見たときより何故か右足が痛そうだったとき。
「足、治らないですね」
「医者からは一ヶ月くらいで治るって言われたんですけど」
「ボウリングしてるからじゃないですか?」

 彼の初めてをもらったとき。
「月水金は自由にしていい曜日なんですよ」
「だからその曜日しか来られないんですね」
「そうです」
「他の曜日は何をしてるんですか?」
「家の手伝いです」
「へえ」
「農家なんですけど、親は僕に後を継がせる気なんですよ。絶対継がないけど」
「あら」
「継がないって、初めて誰かに言いました」

 見慣れないキーホルダーを見つけたとき。
「猫、好きなんですか?」
「いや別に、どうしてですか?」
「カバンについてたので」
「あぁこれは、意味は無いですね」
「すみませんでした」
「別に謝らなくても。でも、好きなもので言えば椎名林檎が好きです」
「本当ですか、私も好きです。『幸福論』『ここでキスして。』『本能』が好きです」
「僕は『正しい街』『すべりだい』『本能』が好きです」
「『本能』ですね」
「『本能』ですね」

 私たちは次第にボウリング場以外の場所でも会うようになった。
「今日はボウリングしないでいいの?」
「したいけど、美作、が嫌だろ」
 その頃にお互いが同級生であることが発覚したので、敬語をやめ苗字で呼び合おうと私が提案したのだが、彼はまだ慣れない様子だった。
「別にいいけど、足治ったの?」
「杖はつかなくてよくなったけど、まだちょっと」
「じゃあボウリングは駄目だね」
 彼は苦笑いした。
 最初こそカラオケだったり遊園地だったりたまにボウリングだったり、どこか目的地を決めて会っていたが、回数を重ねるにつれ特に何をするというわけではなくただ喋るために会うようになった。
 いつも話す内容と言えば、何だっけ、特に思い出せない。それほど他愛のないことだった。
 でもひとつ覚えているのは、確か彼の足の包帯が取れたお祝いに彼が好きな隣町の図書館まで散歩したときのことだ。帰り道は真っ暗だった。
「よくあんな遠いところに通えるね」
 私がそう言うと、彼は口角を上げたまま少し黙って、喋った。
「この前家の手伝いしてるときに、親父に『お前はこだわりが強い』って言われたんだ。自分じゃ全然気づかなかったんだけど、俺はどうやら一度自分が良いと思ったものにずっと固執する癖があるらしい」
 彼は話しながら少し恥ずかしそうに口をとがらせた。
「あの図書館も中学生のころに一度行って以来気に入っちゃって」
「それで今も行ってるの? それはもうこだわりが強いというより、頑固だね」
「だから最初に美作に話しかけられたときもついイラっとしちゃって」
 私は最初に彼と会話したときの「大丈夫です」と言う顔を思い出した。なるほど、あの仏頂面は松葉杖をついてでもボウリングをするという彼のこだわりを私が邪魔してしまったからだったのか。
 それが分かると何だか可笑しくなってしまって、私は声を上げて笑った。
「そんなに可笑しいかよ」
「可笑しいよ」
 私につられて彼も笑った。
「でも、農業継がないんでしょ?」
「何が『でも』なんだよ」
「こだわりがお強いのに、の『でも』」
「どっちにしろ農業はやらないよ」
「何で?」
 彼はその質問には答えにくそうだった。それは本人が一番悩んできたことで、その悩んだなかで出た答えにも今すぐに言えるものとそうでないものがあるからだろう。迂闊に聞かなければよかったと、少し後悔した。
 だいぶ歩いてから彼が口を開いた。
「例えば、美作のなかで『急用ができちゃったからバイト先の友達に言ってシフトを代わってもらう』なんて当たり前のことだろ? 俺は美作からそれ聞いたとき、へえ、案外バイトってそんなラフなものなんだって思った。美作から聞くまで、そんなこと全く知らなかった。それは、言ってみれば家の手伝いばっかりしてるからじゃん。だからまあ、そういうのも理由の一つにあるかな」
 彼は一度もこちらを見ずにそう言った。私は特に共感もしていないのに「そっか」と適当な相槌を打った。二人が黙った。彼が誤魔化すように「早く大人になりたいな」とヘラヘラして言った。それはとても彼らしくない行動で、私は嫌だった。
 その日を境に私たちから恋愛が存在を消した。私たちの根本的なものは、どこまで行っても平行線を辿るのだろうという予感が二人の間を流れた。
 それまでは何度かいわゆる交際というものを意識したことはあったけど、もうお互いが気まずそうに視線だけを絡めるような、そんな瞬間は無くなった。
 目に見えるものは何も変わらないまま約一年が経ち、それぞれ高校を卒業した。
 私は国内でもそこそこ名の知れた私立大学へ進学し、彼はやはり家業を継がず一般企業に就職した。
 その辺りから私たちは次第に会わなくなっていった。



「大丈夫? ついて来てる?」
「はい、ご主人様の命令ですので、しかと聞かせていただいております」
「途中あくびしてたじゃん」
 魔神はきまりの悪そうな顔をして、眉を上げた後「それでは質問をさせていただいてよろしいですか?」と言った。
「あくびの罪滅ぼしのつもりですか? どうぞ」
「榊原様とは、これまで一度もお互いの恋愛発展の可能性について実際には話されないままだったのですか?」
「......罪滅ぼしにしては難しいこと聞くじゃない」
 美作め美は、人差し指を頬に当てて少し考え込む。
「正直さっきの話で端折ったところがあってさ。実は、一回だけ二人の理想の相手について話したことがあって」
「恋愛の理想ですか?」
「うん。そのときにさ、お互いに『猫派なこと』とか『他人の握ったおにぎり食べられないこと』とか『占いや風水が信じられないこと』とか色々言い合ったんだけど、ほとんどさ、その相手に当てはまってたんだよね」
「ご主人様も、榊原様も?」
 美作め美は魔神を見ずに「うん」と頷いた。
「それで、二人で、じゃあ私たちピッタリじゃんって笑ってさ、そしたら彼が言ったんだよ」
「何と?」
「『三十歳までにお互い相手がいなかったら結婚しようか』って」
 魔神が、へえ、と息をついたのが分かった。
「あと三か月だった」
 美作め美の目には涙が浮かんでいる。
「話、続けていい?」
「ええ、もちろんでございます」



 私は二年のときに一年間大学を休学した。大学には「過疎化の進む地元の産業を活性化するボランティアに参加するため」と伝えていたけど、本当は特にやりたいこともなかったし、そもそも実家は首都圏のマンションの十二階にあったから、居場所は一人暮らしの住まいのまま、本当に一年間ただ休むだけの生活を送った。
 しかし休みというものは休んでいない期間があるからこそ輝かしいのであって、休むと言って何もしていないだけの時間が過ぎていくと途中から「何かしなくては」という思いに駆られるものなのである。
 そこで私はしばらくお互いの誕生日と正月の挨拶くらいしか連絡を取っていなかった榊原森作に会ってみようと思った。私が知っている限り彼の就職先は私の家からそう遠くない。部屋のベッドに寝転がりながら「今度会える?」とだけラインした。
 すると、案外早く返信が来た。時刻は夕方三時。
「会えるよ。無職だから」
 驚いた。そりゃこの時間に返信できるわけだ。

 私の家と彼の家を地図上で直線に結び、その丁度真ん中にあったのが市立図書館だったので、私たちはそこで会った。梅雨の時期だったけど雨は降っていなかった。
 館内で声を出して話せないことに気付いて、ここで待ち合わせたことを後悔した。
 目の前に座る彼は前に見たときより痩せていた。というより、やつれていたと言った方が正しい。
 私がメモ用紙に『場所変える?』と書いて彼に見せたら、彼が窓の方に顎をクイっとやった。見ると、さっきまでは雲の切れ間さえあった空が真っ黒に覆われ、ザーザーと雨が降っていた。二人で「傘ないなぁ」と小声で呟いた。
 彼はスマホのメモ機能に『元気してた?』と打ち込んで私に見せた。私は新たにメモをちぎって『そっちこそでしょ』と書いた。彼は少し笑った。そこから筆談でのやり取りが続いた。
『痩せたね』
『少しね』
『いや、相当だよ』
『そんな短い文でラリーしてたらメモなくなっちゃうよ』
 私は聞きたいことを一枚のメモになるべく端的にまとめた。
『どうしてそんなに痩せたの? もしかして仕事やめちゃたのと何か関係あるの?』
 彼は小さく頷いたあと、打ち込むのに少し時間をかけて画面を見せてくれた。
『就職した会社が俺の性に合わなくて。一緒に働く人たちも優しかったし、仕事内容も慣れていくうちにやりがいを感じられるようになったんだけど』
 そこで彼はスマホを引っ込めてまた打ち直した。
『俺やっぱり本当は農業やりたかったんだと思う。高校生のときは家族への反発で家業は継がないって言ってたけど、あれだけ続けられてたってことはやっぱり農業好きだったんだ。だから好きじゃない仕事をするのが苦痛に感じちゃって、一年で仕事をやめた』
 私は急いでメモにペンを走らせた。
『家族には言ってあるの?』
『言えないよ。絶対に農業はやらない、仕送りもいらないっていう約束で家を出たんだから。だから今は何も入ってくるお金が無い状態。そりゃ痩せちゃうよね』
 むしろ図書館で良かったと思った。ここがファミレスとかだったら言葉が溢れて止まらなかったと思う。
 ずっと流れていた沈黙がさらに濃度を増したように感じる。私は何か書かなきゃと思って、とにかく真っ先に頭に浮かんだ言葉をメモに起こした。すると彼が「あ」と言った。
 顔を上げると、彼はまた窓を見ていた。虹が出ていた。私は咄嗟に「ボウリング行こうよ」と言っていた。「声出しちゃ駄目じゃん」と彼に窘められたが、そういう彼の方が大きな声だった。
 私たちは急いで図書館をあとにした。私の手の中には『ごめん』と書かれたメモがくしゃくしゃに丸まっていた。
 その日から、私たちは再び毎日のように遊ぶようになった。

 夏に彼と金沢へ旅行に行った。いつか見た朝の情報番組で紹介されていたジェラートをベンチに座りながら食べたのが美味しかった。
「これ、最高。食べる?」
「うん」
 何食わぬ顔で私のプラスチックスプーンを取り、彼が一口味見する。
「何味?」
「セロリだって」
 彼は何か味の感想を言ったみたいだったけど、蝉の声でよく聞き取れなかった。太陽の日差しが熱を伴って顔にまとわりつく。
 私が会話を繋ぐようにその日百回目くらいの「暑い」をこぼすと、彼が突然ジェラートを私に寄越してどこかへ駆けた。
 成り行きで私が彼のマスカルポーネ味もつまんでいると、彼は松葉杖のせいで階段を上りにくそうにしている女性を手助けしていた。私はそれを「偉いなぁ」「ジェラート溶けそうだなぁ」と思いながら眺めていた。
「そういえば、何であのとき足怪我してたの?」
 ベンチに戻り、溶けてしまったジェラートを飲み干している彼にふと思い出したことを尋ねる。
「あのときって」
「初めて会ったとき」
「あぁ」と言って、彼は思い出すような仕草をした。
「確か、高二の秋くらいに学校の帰り道でバスに轢かれたんじゃなかったっけ」
「たっけ、じゃないよ。めちゃくちゃ危ないじゃん」
「いや、一方的にバスが悪かったんじゃなくて、俺が横断歩道を赤信号なのに渡っちゃったんだよ。それが原因で怪我しちゃったから、うちの親も『バカ息子がすみません』って被害届は出さなかったし」
 私は「そりゃあんたが悪いわ」と言って肩をすくめた。
「赤信号を強行突破って、何か急いでたの?」
「それこそ」
 彼はそう言ってボウリングの投球のジェスチャーをとった。
「その日は久しぶりにボウリングできる日だったから、少しでも早く行きたいと思って自転車漕いでて、目の前にボウリング場が見えた途端、もうそれ以外考えられなくなって、横断歩道突っ走ったら、ドン」
 そう言われて、私がバイトで雇われる前にあのボウリング場の前でバスと歩行者の接触事故があったと店長に聞いたことを思い出した。まさかこんなボウリング馬鹿の仕業だったとは。
「恥ずかしすぎて忘れちゃってたな」
 彼は古傷が痛むよ、と左足をさすった。私が笑いながら右だったでしょ、と言うと彼はそうだっけ、と言って同じく笑った。

 秋は、特に秋らしいことはせずどちらかの家で遊ぶことが多かった。彼が秋をあまり好まなかったからだ。
「ずるいよね、秋だけ」
「どういうこと?」
「スポーツとか読書とか、別に他の季節でもできるしね」
「そういうことね、だからと言ってずるいとか無いと思うけどね」
「食欲なんて、年中あって当然のものだからね」
「でも夏はあんま食欲出なくない?」
「夏の悪口はやめてよ」
「夏贔屓だったんだ、知らなかった」
「そういえば好きな季節の話とかしたことなかったね」
「確かに」
「美作は?」
「うーん、特にないなぁ」
「それは無しでしょ」
「えぇ、じゃあ」
 私は十秒くらい考えた。
「冬、かな。みかんが美味しいし、あと誕生日が十二月だし」
「ふーん」
 彼の顔は満足げだった。
「何でそんなに嬉しそうなの」
「別に」
 私は「何だよ」と言って大きなあくびをした。
「何でも話してね」
「え?」
「いや、今みたいにまだお互い知らないこともたくさんあるでしょ。だから、何でも話してねって。俺も何でも話すから」
 私は、ふっと鼻で笑って「はーい」と気の抜けた返事をした。

 冬の終わり、あるいは春の始まりに、私たちは二度目のお別れをしなくてはならなくなった。と言っても、単純に私の休学期間が終わってしまうから、そして彼の転職が決まったからである。
 結局私の一年間はほとんど榊原森作に費やされてしまった。後半は彼の転職活動が重なって会う頻度もそこそこになったけど、それでも週に一度は必ずどこかへ出かけたり家でのんびりしたりした。そこで過ごした時間は、変な意味でなく、とても濃いものだった。彼の知らなかった部分を知れたり、逆に何度も同じ話を聞かされたりして、笑って、驚いて、嘆いて、また笑った。あのとき彼に連絡をして本当に良かったと思う。むしろ私が休学したのは、彼とこうして過ごすためだったのではないかとさえ考える。
 そして私はあの約束を忘れていなかった。「三十歳までにお互い相手がいなかったら結婚しようか」という、あれ。彼と最後に会ったとき私はまだ二十歳だったけど、残り十年、人並みに恋愛や悩みを経験しながら、結局は彼の元に辿り着くのだろうと思っていたし、正直願ってもいた。根本的なものが平行線を辿っていても「それはそれで」と言って笑い合いながら、またお互いの共通点を見つける生活が続くものだと思っていた。だからその三十歳を目前にした九月十日、彼から結婚の報告が届いたときは天を仰いだ。秋空がいつもより高く感じた。



「何でも話すって言ったのになぁ」
 美作め美はそのときと同じように空を見ていた。上空でカラスが二羽静止している。
「もしかして今日って」
「待ってまだ話しかけないで」
 美作め美が顔を下ろさない理由は、魔神にも分かった。少し時間を置いて、美作め美が深く息を吸ったあとようやく正面を向いた。
「そうだよ、今日は榊原森作の結婚式だよ」
「ご出席されただけでも立派だと思われます」
「あなたが出てきたこの急須だって」
「底の方にアルファベットが」
「新郎新婦のイニシャルだよ」
 美作め美は携帯を確認する。今日は九月二十六日。カレンダーにはあえて何も書いていない。直前までドタキャンしてやろうと思っていたからだ。でも自分のために用意された料理が無駄になることを考えたら、少しもったいない気がしてやっぱり出席した。あとついでに結婚相手がどんな人かも確認しに来た。
「結婚式ってさ、登場人物全員幸せみたいな顔してなきゃいけないんだよ。なのに私みたいな人間が座ってローストビーフ食べてていいのかなって」
「ローストビーフは義務ではなく権利かと」
「まぁ別に友人代表のスピーチも頼まれてなかったから大人しくしていればよかったんだけどさ、やっぱ相手の女にはムカついちゃうよねー」
「言葉遣いが少々」
「だってさ、彼と全く真逆なんだよ。音楽は大して聴かないくせにお笑いは好きでさ。人生で一度も骨折したことなくてさ。好きな季節は秋でさ。名前が」
 美作め美は魔神に促されてゆっくり息を吸った。
「田中エリだよ。ごくシンプルな『田中』にカタカナで『エリ』。どうかしてるよ」
 言い切ってから、美作め美は三角座りで俯いた。肩が小刻みに揺れている。魔神は「お名前に罪はございません」と呟いた。しかしその口調は、慈愛に満ちている。
「その場にいるのが辛くなって、飛び出して来られたんですね」
 美作め美は特に返事はしない。魔神は美作め美の肘をさすって「怪我をなさるほど急いで走るなんて」と声を掛けた。
「じゃないと、追いつかれそうだったから」
「追いかけられたんですか?」
「追いかけられたかったよ」
 美作め美は相変わらずその体勢のままだった。少し時間が経ってから「で?」と言った。
「で? とは?」
「忘れたの、最初に言ったこと」
「榊原森作様との結婚の願いが叶えるに値するか否か、ですか?」
 美作め美は頷いた。
 魔神は大きく息を吸って、答えた。
「もちろん叶えさせていただきます」
 美作め美は、ゆっくりと赤くなった顔を上げふっと鼻で笑った。
「そんなわけないじゃん」
 魔神は表情を変えず微笑んでいる。
「駄目だよ。叶えちゃ駄目。他人の幸せ奪ってまで自分だけ幸せになるなんて、世間やあなたは許したとしても私の居心地が悪いよ。気持ちよく死ねないよ」
「では、どうしましょう?」
 魔神が首を傾げる。美作め美は行かなければならない場所があると伝えた。



 美作め美は、また空を見上げていた。どこまでも遠く、決して手の届くことのない秋の空。
 隣には青くて巨大な魔神もいた。周りの人間には彼の姿は見えていない。
 美作め美の目の前にバスが停まる。その停留所からの乗客は美作め美ひとりだけだ。運転手の真後ろの椅子に腰かける。
 バスに乗っているときは、時間がゆっくり流れているように感じる。窓からは黄色い稲穂に覆われた田んぼや飛び交うとんぼの姿が見える。美作め美はどこか懐かしさを覚えていた。バスは郊外から次第に市街地へと向かっている。
 突然バスが急ブレーキをかけた。
 乗客は身体を揺られ、危うく席から転げそうになる。運転手が窓を開けて「信号が見えねぇのか!」と、自転車に跨った学生を怒鳴った。高校生らしき彼は、すみません、と頭を下げ、それからまた急いでどこかへ向かった。行先はあの見慣れたボウリング場だろう。
「これで良かったのですか?」
「うん、やっぱり結婚したいと思える人に痛い思いはさせたくはないしね。きっと私もただのよく来るお客さんに声を掛けたりはしないだろうから、私たちは出会わないで済むでしょ」
 美作め美の声は軽やかだ。
「用も済んだし、降りようか」
 降車ベルが、高く鳴り響いた。


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