「エイベン様の旅行談~その2~」

亀村紫



 岩盤でできた褐色の大地が荒々しく割れていた。その上には飢え死にした虫の死体が転がっている。大地を洗うべき雨が何年も降っていないためだった。
 しかし、このような悪天候の中でも二つもの国が存続し、その間には茂った針葉樹林まであった。虫が飢え死にするほどの旱魃に針葉樹林なんてのはどこかおかしいかもしれない。だが、世の中はそういうものである。枯れ果てた絶望の中には、必ず、オアシスみたいな希望が一つは存在するものなのだ。
 そして誰かには、枯れ果てた絶望こそがオアシスそのものである。

 木の葉の隙間から月明かりが射し、少年と少女の顔を照らした。
「バレてない?」
「うん。この時間にはみんな寝てるからさ」
「よかった......久しぶりね」
「そうだな。俺も、こんなに長く会えないとは思わなかった」
 少女はまだ何かを言いたがる様子だった。しかし少年は違った。彼はもう喋る時間すら惜しいと言わんばかりに少女を抱きしめ、自分の胸の中の彼女をじっと見つめた。
「あっ」
「......」
 月がタイミングよく明かりを引き取った。
  互いの顔しか見えない暗闇の中に、少年と少女は残された。
 残されて何をしたのかは、誰にも、二人の内一人が死ぬまで誰にも分からないはずだった。

*

 数日前からキアの調子がどうも悪い。
 旅路が辛すぎたのだろうか。キアは宙に浮いていることもできず、ただエイベンの肩に死んだように座っていた。
 エイベンはもしキアが死んではいないか、度々肩を撫でて確認しなくてはならなかった。
「もう少しの辛抱だ、キア。すぐに新しい国にたどり着くからね」
「...」
 思ってみれば当然のことだった。
 キアはエイベンと違う。エイベンは死なない存在であり、どれだけ歩いても疲れたりはしないし、実は食べものすらもいらない。エイベンがものを食べるのはお腹が空くからではなく、美味しいものを味わいたいからだった。生存ではない、快楽のために食べている。
 しかし、キアはそうじゃないのだ。キアは食事をしないと死ぬ。もちろんキアも美味しいものを好むけれど、その前に、まず生きるために物を食べている。
 しかも、キアは毎食欠かずに食事をとっても、いつかは死ぬ。
「キア、良かったな。私が君に恋をしなくて」
「...」
 花は美しいゆえに散るものだったか、それとも散るゆえに美しいものだったか。恋というものを見つけ出したら、キアとは早急に別れなければならない。エイベンは何となくそう思った
 キアが死んでしまう前に。

 幸い、キアが死ぬ前に新しい国が現れた。高い城壁がエイベンの前を立ちふさいだのだ。前の国よりずっと立派な城壁だった。洗練された煉瓦は果てが見えないほど高く遠くまで繋がれていた。城門を守る兵士たちも鋭い目つきをしていた。
「キア、よかったね。ここでは美味しいものが食べれそうだ」
 辛いパイとバターオレンジ焼ピザの悪夢がエイベンの脳裏をかすめた。
「......」
「そう、もちろん、恋というものを探す目的は忘れていないよ」
 まだ突っ込む気力が残っていたのか。エイベンはキアの弱々しい蹴りを凝視しながら驚く一方、少し嬉しくもあった。

城門の前には背の高い兵士が立っていた。兵士の目と顔をよくのぞき込むと、彼女は女性だった。
「何のご用ですか」
 兵士が高い声で言った。
「私は旅人だよ。この国で少し休んでいけたらと思ってね」
「......」
 兵士がエイベンの身を上から下まで詮索した。その眼には、なぜか殺気のようなものが漂っていた。
 しかし心配はいらないだろう。門番というのは元々こうであるべきなのだ。前回立ち寄った国が少し変わっていただけ。彼らは本来見知らぬ旅人を警戒するのが役目なのだ。だが、あくまでも仕事上そうしているだけで、エイベンが怪しいものではないと知ったらすぐにでも笑みを浮かべてくれるはず、だった。
「断ります。他を当たってみてください」
「なぜかね」
「......」
「なぜかね」
「......つっ。貴方にはこの国に入る資格がないからです」
「なるほど。資格、か」
 予想していたと言わんばかりにつぶやいてみたものの、正直エイベンには見当も付かなかった。こんなに明らかに敵愾心を見せる国は久しぶりだった。
 それはそうとして、拒絶の理由は何だろうか。資格と言ったな。門番の女はまあまあ背が高い。ある程度以上の身長が必要なのか? 外見が基準を満たさないから?(エイベンは自分の外見が大体の資格は満たせるほどの美形であると確信していたが)? それとも、人間しか入れない国なのだろうか。
 しかし、考えていても仕方がない。エイベンは拒絶の原因を直接聞いてみることにした。エイベンは質問することが好きだった。自分で分からないものは、いつまで考えたって分からない。恋というものがそうであるように。
「資格とは、どういう資格を言うんだい」
「......貴方は男性のようですね」
「そうかも知れない。それで?」
「それです」
「なるほど」
 エイベンはそれでやっと納得した。首を傾げながら肩のキアを落としそうになったので、素早く拾い上げた。
「大体わかったよ。でももう一度、ちゃんと説明をしてくれたまえ。拒絶される理由は明確に知っておきたいのでね」
「......ふう。分かりました。この国に、男性は入れません」
「なるほど、なるほど」
 再び首を傾げ、エイベンは会心の笑みを浮かべた。
「それならやはり、君は私を入れてくれるべきだ」
「......はい?」
「私は男性ではないからね」
 兵士は忙しく目玉を回した。エイベンの体、特に髪の毛辺りを注意深く見ていた。風になびくエイベンの長髪が気になったのかも知れない。
 しかし、それは本の一瞬だけだった。いつの間にか殺気を取り戻した兵士は、さっきよりも警戒心が増したような口調で言い放った。
「余計な真似は止めてください。声にしろ顔にしろ、貴方は男性以外の何者にも見えません」
「人は皮だけを見ては何も分からないのだよ」
「それは性格や素質の話でしょう。性別は皮からでも分かります」
「そうか」
 エイベンは首を横に振った。兵士の判断は間違っていない。エイベンの外見はどこからどう見ても人間の男性そのものだった。エイベンがなんと言い訳しようとも、兵士は聞いてもくれないだろう。
 しかし、 外見とは儚いものだ。雨に打たれるだけで寝れてぼやけてしまうし、時が経つともっと醜く変化する。そんな瞬きのように不確かな概念が何かを決め、何かの「資格」になると言うのは、心底悲しいことだ。エイベンはそう思った。
 もちろん、そんな悲しみなどどうでもよかった。本当に心配なのはキアだ。キアが一刻一刻死んでいるのが肩の上から感じ取れた。
「では、こうしよう......」
 エイベンがつぶやいたその瞬間、城壁の上から勇ましい声が下りてきた。
「何事だ?」
 まるで天から響く神の音声みたいだった。
「いえ、その......この男性の方が入国したいとおっしゃいまして......断ったのですが、それでも引いてくださらないので」
「言ったはずだ、私は男性ではない。証拠が必要なら見せてあげよう」
「なっ、脱がないでください。そこまで見なくても分かりますから」
 上着を脱ごうとするエイベンの腕を、兵士が素早く制圧した。普段なら制圧はキアの仕事だった。キアが腕を引っ掻くなり、頭を蹴るなりしてエイベンを止めてくれたはずだった。人前で上着を脱いではいけない、と怒りながら。すこし寂しかった。
 また天から声が下りてきた。
「僕が見よう」
「いや、参謀殿がお出ましされるようなことでは」
「そこで待ってろ」
 エイベンが見上げると、もうそこに参謀という女の姿はなかった。そして何秒か経つと、箸のように細長い女がエイベンの前に現れた。それがあの勇ましい声の持ち主、つまり参謀だと気づくまでは、また何秒かの時間が必要だった。
「お前、男性じゃないと証明できるのか」
「もちろん」
「嘘ならその首をもらうぞ」
「そうするといい」
 初対面でフランクにタメ口を利く彼女に、エイベンは何らかの親近感を抱いた。キアに「ほら、この人も私と同じではないか」と言ってやりたかった。
 肩に座っているキアがため息をついたような気がした。
「......」
 参謀は怒りに満ちた目でエイベンを凝視した。エイベンは彼女がよく見れるよう胸を開いてあげた。
「......本当だ。こいつ、男ではない」
「はい? いや、しかし......」
「僕の目を信じられないとでもいうのか」
「......いいえ」
 彼女の目線は悪寒のようにエイベンの全身を襲った。恐らくこの女はものを透視する能力を持っているのだろう。そう珍しい能力でもなかった。
「しかし、お前......」
「なんだい」
「女でもないようだな」
「そうかも知れない」
「......とりあえずついて来い」
 参謀の口調は終始一貫して不遜だった。初対面の相手にそんな態度を取られたうえ裸まで見られると、さすがのエイベンも愉快な気持ちにはなれなかった。
 キアは正しかったのかも知れない。初対面の相手にはもう少し丁寧に接するべきなのだ。
「ありがとう」
 そう思い、エイベンはきちんとお礼を言った。今までの自分への反省の意味も込めて。

「なるほど、本当に男性を入れないのか」
「そうだ。男がこのあたりをぶらついていると、すぐ警備に首を切り取られるからな。お前も直にそうなるかも知れないぞ」
「そうか。参考にさせてもらおう」
 街には男の影すら見当たらなかった。少女、婦人、老婆など様々な年齢層の女たちが、移送される猛獣でも見る目でエイベンをにらみつけているだけだった。
 その中の、取り分け背の高い婦人が突然、エイベンたちの前を立ち塞いだ。どこか迷っている表情だった。しかし、たちまち決心がついたように悲壮な口調で言い始めた。
「あの、忙しい仲、申し訳ありませんが......」
「モライナではないか。何事だ」
「私の娘が、昨晩から見えなくて......」
 娘。エイベンはその言葉がとても気になった。娘がいるということは親がいるということだ。エイベンが知っている限り、親とは父と母をまとめて指す言葉である。しかし、この国に「父」など存在しないはず。
「それは......大変だ。陛下に捜索隊を出すよう申し上げてみよう」
「......ありがとうございます」
それで去って行こうとしたモライナだったが、待ち構えていたエイベンに袖を掴まれた。モライナは毒蛇にでも噛まれたような驚き顔をした。
「君、モライナと言ったか」
「は、はい?」
「一つ聞きたいことがある」
「......? あなたは......?」
「エイベンと言う者だ。それより、この国にも「恋」というものが存在するのか?」
「......」
 恋とは何なのか、エイベンにはまだ分からない。しかし、今までの旅行で見て覚えたものを基に推定してみると、恋とは「男女の間でできるよく分からない感情」に近いものである。となると、女しかいないこの国に「恋」というのは存在するはずがないのだ。雲がないところでは雨が降らないのと同じだ。
 呆れた顔の参謀がエイベンの顔を背けた。しかし、危険人物であるエイベンをそのまま置いて行くわけにもいかなかったので、どうにもできず、ただ目を怒らせているだけだった。
「答えたまえ。存在するのか?」
「あの......」
 モライナはちらっと参謀の方を見るだけで、いつまで経っても答えてくれる気配を見せなかった。これは、聞く相手を間違えたのかも知れない。エイベンはそう思い、今度は参謀の方に向かって聞いた。
「存在するのか?」
「......まったく、バカなことを聞くんだな。そりゃあるに決まってる」
「なるほど、女と女の間でも、か。興味深い」
「女じゃないと、何だ。男でも愛しろってことか? ふざけたことを」
「そうか」
「男なんて、我々とは思考も見た目も全く違う生き物なんだぞ。そう、例えばお前は、犬を愛し、犬と結婚できると思うか?」
「さあ」
「そういうことだ」
 できないこともないだろう、という意味の「さあ」だったが、なぜか参謀は違う意味でとらえたらしい。まあ、いいか。わざわざ訂正する理由もなかった。

 何分後、エイベンは緑のカーペット、緑のカーテン、そして緑の食卓とエメラルドの食器で埋められた部屋に取り残されていた。部屋の主の血が緑色ではないかと思えるほどの光景を、エイベンは何回も見回した。
 五回ぐらい見回したころ、細身の参謀が部屋の主を連れて帰ってきた。真剣な顔で目を輝かせる女性だった。
「あなたがエイベンですね」
「そうとも」
「歓迎します、エイベン。私はこの国の女王を務めている者です」
「そうか」
「......まず、兵士たちが無礼を働いたこと、お詫び申し上げます。戦争中で、皆少し鋭くなっていまして」
 やはり戦争か。エイベンは眉間に細いしわをよせた。まいったな。戦争中の国では美味しい食事が出ない。
「それより、先に水を貰えるだろうか」
「水......ですか?」
「そう」
 エイベンは女王に向けて右肩を差し出した。キアが、体中の羽を力なく垂らしたまま座っている所だった。
 女王はその姿に心が動じたのか、一瞬迷った。だが、たちまち王さまらしい硬い表情に戻った。
「......失礼ですが、お金はお持ちでしょうか」
「持っていない」
「それでは......お水を差し上げることはできません」
 エイベンは豪華な緑の部屋をもう一回見回した。そして首を傾げた。まさか、こんなに部屋を飾っておいて、お金に窮することはないはずだ。
「なぜかね」
「......エイベン。あなたは今、この国唯一の国宝を無償で渡せと、そう言っているのですよ」
「......そうか」
 エイベンは何となく女王の言いたいことが分かった。誰かには石ころ同然のありふれたものが、他の誰かには命ほど大事なものになることもある。そういうことだ。
「ご理解いただけたようで、幸いです。それも戦争のせいなのです。我々は今、残り少ない水を占めるため隣の国と争っています」
 女王は沈んだ声をこぼして口を堅く閉じた。すると隣で、なぜか怒ったような顔の参謀が怒ったような声で追加の説明をした。
「この辺りで水が出る所は、二つの国に挟まれた森、その森の中の川だけだ。そこから水を汲んで使っていた」
「なるほど。その川の水が限られているのか」
「いや、その川は、聖者マレンドが三日で掘ったと言われるマレンド川だ。水は無限に流れる」
「......それなら、隣の国と分けて使えばいいのではないか」
「それが無理だから戦争をしているんだよ」
 激怒しながらも、参謀は丁寧に説明を続けた。その「マレンド川」がいる森に、何年前から一匹の黒い龍が座り込んでいるらしい。その龍は水を汲みに近づいてくる人たちを取って食べてしまい、そこの川から水を汲んで来るためには命を懸けなくてはならなくなった、とのことだった。
「今は備蓄しておいた分でなんとか持ちこたえているのだが......」
「戦争をすると、備蓄がより早く減るのではないだろうか」
「......まだ話は終わってないぞ」
「そうか」
「......先日、龍からの伝言があった。「我は森を囲んで住んでいる人間の中、半数を滅ぼそう。どちらを滅ぼすか決めるのは汝らである。半数が滅ぶと、我はこの森を去り、生き怒った人間らに平和を与えよ......」とな」
 エイベンは説明の大分を聞き流していた。もう分かっている事実が多かったからだ。例えば、森にいるという龍の正体とか。しかし、彼はなぜこんな辺境の森に座り込んで悪ふざけなんかをしているのだろう。
 もちろん、エイベンの興味をそそる題目もあるにはあった。参謀が言った「隣の国」という話だったが、恐らく、ここの国とは正反対に、男ばっかりの国なのだろう。二つの国が戦争をしているのも、本当は龍なんかのせいではないはずだ。
「ありがとう」
 聞き流していたが、ちゃんとお礼を言うのだけは忘れなかった。さっき参謀の暴言を見て教訓を得たばかりだったかだ。
 エイベンは今日みたいに礼儀正しい自分を、瀕死のキアが見逃していることを酷く惜しんだ。
「しかし、だな。やはりまずは水を貰えないだろうか」 
 さっきの発言を淡々と繰り返すエイベンに、鋭い視線がいくつも刺さった。
「あなた、今の話......聞いてましたよね」
「聞いていたね」
「なのに......」
 エイベンは依然として微笑んでいた。まったくもって普段通りの顔だった。
「話は有益だったよ。話し手が少し下手で、退屈ではあったがね」
 エイベンはあえて参謀の方から目を背けた。そっちから殺気のようなものを感じたのだ。
「......要するに、その森には枯れることのない川が今もなお流れている。そこから水を汲んでくればいいのではないか」
「いや、しかし、龍が......」
「私が行こう」
「......はい?」
「私が森に行こう。だが、まずは哀れなキアの飲み水を貰いたい。マレンド川は枯れないようだが、キアは直に枯れて死ぬのだからね。このままでは」
「......」
「代わりに、貰った分の水を汲んできて埋め合わせをしよう。いや、どうせならもう少し汲んできてもいいだろう。例えば、この国の全員が一年間飲める分、とかはどうかね」
 女王と参謀がお互いの顔色を窺った。エイベンの話に何かやましいところはないのか、確かめ合うようだった。しかし、いくら考えてみたところでやましいところなんてあるはずがなかった。エイベンはそういう企みをするほど勤勉ではないのだ。
「龍に食われる気なんですか? いったいどういう自信でそんな......」
「私は自身なんてしていない。私が信じているのはキアだけだからね」
「......そ、それなら、私たちもあなたを信じるわけにはいきません」
「そう、何も私を信じる必要はないだろう。人でもつけたらどうだい。私を監視する人をね。そして、私が変な気配の一つでもみせようなら、すぐに首を切り取ってもらえればいい」
 女王は真剣な顔で悩んだ。その隣で、参謀がエイベンを睨んでいた。今このタイミングでエイベンの裸なんか覗いても、得られる情報はないだろうに。
 しばらくして、女王が言った。
「......はい、そうですね。信じてみましょう」
「だから、信じるのは止めろと言っているのだが」
「信頼の証として、わが国で最も剣さばきの早い剣士二人を、護衛につけてさしあげましょう」
「いいね。まったく信じていない」
 エイベンはそれでやっと満足し、キアのパサついた毛を撫でるのだった。


 護衛という名の監視役としてついてきた二人は、やはり二人とも女だった。一人は長い三つ編みが腰まで来る細身の女で、もう一人は片目に眼帯をした背の低い女だった。この国で「最も剣さばきの早い剣士」らしく、腰には二人とも長剣をぶら下げていた。
 馬車の御者台に座った二人は、異様なほどにくっついていた。そのくっつき具合がエイベンの興味を引いたのは言うまでもない。
「二人は、ずいぶんと仲が良さそうだが......痛っ」
 しかし、エイベンは最後まで言い切れなかった。水を飲んで元気になったキアが、エイベンの肩を思いっきり引っ掻いたのだ。水に覚醒剤でも入っていたのだろうか。前よりも一段と切れのある引っ掻きだった。
「痛いじゃないか、キア」
「......」
 他の人の私生活に首を突っ込むでない。キアはそう言っていた。
 しかし、二人の女は振り向き、むしろ笑顔と共に答えてくれた。
「でしょ?」
「......」
「そりゃ......結婚を約束した間ですもの。ねー?」
「......うん」
 眼帯をした背の低い女が陽気に答えた。そんな彼女の腕を抱きしめている、長い三つ編みの女は赤面した顔を必死に隠そうとした。
「この国ではそれが普通のことなのか?」
「何がですか?」
「君たちが結婚をすること」
「うん......? じゃあ、結婚をしない国もあるんですか?」
「そうか、うん。君の言う通りだ」
 彼女は女は女同士の結婚というものに一粒の疑問すら持っていなかった。この国ではそれが当たり前なのだ。同性婚はこの国の歴史であり、揺るがない常識である。
 エイベンはやっと頷いた。歴史や常識には正しいも間違いもないだろう。ただ、そのような事実があるだけだ。
「それでは、君たちは恋というものもするのか?」
「もちろん」
 眼帯の女は即答したが、三つ編みの女は怒鳴られたかのようにびっくりし、また顔を隠そうとした。
「何、ビータちゃん。私に恋してないの?」
「い、いや、そんな......」
「うんうん、分かってるよ」
 眼帯の女は老婆のように微笑みながら恋人の頭を撫でた。反応は違うが、二人は確かに恋し合う仲なのだろう。
 となると、エイベンもじっとしてはいられない。
「では、一つ聞いてもいいか」
「何ですか?」
「恋とは、何だい?」
「......はい?」
「何だい? 教えてくれないか」
 その後二人の剣士は、森に着くまでエイベンの質問攻めから逃れられなかった。キアが死力を尽くして止めようとしたが、いつも通り、無駄なことだった。

......

「......ふう。分かりましたか、旅人さん? もうこれ以上は説明できないんですけど」
「いや、分からない」
「は? あんだけ喋ったのに?」
「うむ。君は説明が少し下手なのかも知れないね」
 眼帯の女を励ますつもりで言ったが、なぜかキアにまた肩をやられた。何が気に食わなかったのだろう。理解できなかったが、とにかく肩が痛かったので、エイベンは素直に言い直した。
「......それとも、一時間で説明するには、その恋というものはあまりにも深奥なものだろうか」
 言ってみると、確かにこっちの方が説得力のある気がした。恋とはそう簡単に説明できるものではないはずだ。しかも、恋をしている人にはなおさら説明が難しくなるらしい。そういう訳の分からないものなのだ。
 そうでないと、エイベンがこうやって旅行までしている意味がない。
 エイベンは頭を抱えて十個ぐらいの質問を追加しようとした。しかし、ちょうどがくんという音が聞こえ、馬車が止まった。
「どうかしたのか」
「どうも何も......ここから森ですよ」
 馬車の車輪が踏んでいるところはまるでこの世とあの世の境目のようだった。いつまでも続きそうだった褐色の大地がそこから急に絶たれ、その先は緑の森になっていた。遠くで川の流れる音が聞こえた。
「では、早速入ろう」
「怖くないんですか? 龍が住んでるんですよ......」
「しかし、水を汲んでいかなくては、どのみち私の首が落ちるのだが」
「それは、そうですけど」
「私は、森で安眠している龍よりは、君たちが輝かしているその刃の方が怖い。痛そうだしね」
「......」
「では、案内を頼む」
 そこまで言うと、エイベンは堂々と女たちの後ろに隠れた。この場合、女も男も関係ない。エスコートは武器を持つ強い者がするのだと決まっている。これだけは、いくら女性同士の結婚が当たり前である異文化でも、通用するはずだった。
 しかし、この国最強の剣士二人は思ったよりも怖がりだった。恐る恐るした歩きで、いつまでも川までたどり着く気がしなかった。中盤からはいっそ二人で背を合わせて360°全方位を警戒しながら歩いたくらいだった。
「あ、あそこ!」
「わっ!」
「君たち、あれはただの蛇だよ」
「あっ、今なんか音聞こえたよ......!」
「それは多分私の声だね」
「いや! 死ね!」
 蛇や落ち葉だけでなく、エイベンも何度か彼女たちの剣の錆になる危険に遭った。そのたび、エイベンは命がけで相手を落ち着かせなければならなかった。
「その剣を向けていれば、龍に勝てるのか?」
「多分......いえ、ダメでしょうね......」
「では、剣を向けていても無駄ではないだろうか」
「......そうですね。はい」
「分かったのならしまいなさい」
 三つ編みの女は素直に剣をしまってくれた。ただ、彼女の顔は落ち着いたと言うより、生を諦めたように見えた。

「誰だ!」
 寂寞の中、前方を向いていた眼帯の女が叫んだ。片隅の茂みに向かって剣を構えている。
「龍にしては少し小さくないか」
「うるさい。熊かもしれないんですよ」
「熊なら勝てるということか。心強いね」
「......龍の狩り方なんて、教わってないもの。熊狩りなら、小っちゃいころお父さんよくやったんです」
「うん? 今何か言ったかい?」
「あっ!」
 その時、茂みから何ものかが飛び出た。それはどうも危険なものには見えなく、構えていた剣士も思わず手を緩めるほどだった。龍はおろか、熊よりも小さく可憐な生き物たちだった。
「すみません、すみません!」
「くっ......」
 背の高い少女が、幼い少年を宝箱のように抱きしめていた。少女は「すみません」を連発していたが、何についての、誰に対してのお詫びなのかは分からなかった。
「あんたは......モライナさん家の娘? そして横にいるのは......まさか」
 二人の剣士が顔を顰めた。まるで人と豚が抱き合っているところを見ているような顰め方だった。
「違います! 私たちはただの......いや、何の仲でもありません!」
「......だとしても、勝手にお、男と接触するのは重罪なんだ」
 眼帯の女は「男」を辛うじて発音した。剣を握った彼女の手に力が入るのが見えた。
「まずはこっちに来なさい。あんたを女王様に連れて行ってスパイなのかどうか尋問しなきゃ。そしてそっちの汚いのは......」
「待って、待ってください、マルタ様! どうか......見なかったことにしていただけませんか?」
「......」
「セルはまだ小っちゃい子供なんです。だから、セルだけは逃してください......」
「いや、俺は小っちゃい子供じゃない」
 セルと呼ばれた少年が勇猛に割り込んだ。モライナ家の娘は飼い犬が人を噛んだ時のような絶望的な顔をしたが、それ以上は何も言えなかった。
「ヘイラが言った通りだ。俺たちは愛し合っている。俺が男でヘイラが女だとして、何が悪いんだ」
 マルタ様と呼ばれた眼帯の女は、片目を閉じた。憎んでるような、悲しんでるような閉じ方だった。
「男は男を、女は女を愛するのが自然なんだよ。見た目で分かるじゃない。似た者同士でしか愛し合えないの。人間はそうやって作られてるんだ。男なんて汚いし頭の悪い種族だ。お前たち男だって、女を良い目では見ていないはず。見た目も考え方もまるで違う種族が互いに愛し合うって? ......まったく気持ち悪い」
「そんな......それは......お前らが勝手に決めたんじゃないか」
 少年の目もほぼ閉ざされていた。涙をこらえているのだろうか。見た目に比べれば男らしい少年だった。
 その二人の顔を覗き込んでいたエイベンは、そのうち飽きてしまった。それで、地面にほぼ座っているモライナ家の娘にしゃがんで尋ねた。
「とこれで、君。ヘイラと言ったか」
「......? はい」
「水はどこかな。川の音が聞こえるのだから、近くにいるようだが」
「あ、えっと、あっちにまっすぐ行けば出ますよ」
「そうか。助かる」
 エイベンは少女が指差す方向に立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。
「......旅人さん? どこ行くんですか?」
「水を汲みに」
「あの、ちょっとだけ待ってください。私たち、この二人の身柄拘束を済ませないと......」
「それは君たちの役目だ。私の役目は水を汲んで国に帰ること。それだけだよ」
「いや、私たちの元々の役目は、旅人さんが変なことしないように監視することなんですけど!」
「なるほど。だが心配はいらない。変なことはしないからね」
 エイベンは眼帯の女が安心できるよう微笑んで見せて川の方へと歩いた。背中から「ちょ、待ちなさい!」みたいな声が聞こえた気もしたが、聞き間違いだったろう。あの四人は取り込み中だったから、エイベンなどに気を配る余裕はないはずだった。

 しかし、エイベンはどちらかというと方向音痴だった。長年旅をして来た旅人が方向音痴だなんて、ありえない話なのかも知れない。だが、実際にそうだった。エイベンの旅には特に目的地があるわけでもなかったので、ただ歩いていれば何らかの国がいつかは現れるのだった。今までは。
 この森は余計道が難しい。四方が雑草とコケに包まれてどこを見ても同じ道に見える。森に雑草とコケが生えていると言うより、雑草とコケの領地に森が首を突っ込んでいるように見えた。なんと無様な森なんだ、とエイベンは思った。
 幸い、キアがいる。キアについていけば何とか川にたどり着くのはできそうだった。
「しかし、キア。私の知識は如何にも浅かったのだね。愛とは男と女の間のものだと思っていたが、こんなにも種類があるとは」
「......」
「そうだね。人間は思ったより色んなものを知っている。まだ知っていないものも、彼らならこれから知っていくのだろう」
「......」
 道を案内していたキアがむっとして振り向いた。邪魔だから余計な話はやめろ、とのことだった。
 
 鬱蒼としている木々の隙間から青い光がが降り注いだ。そこからもう十歩ぐらい歩くと視野が広く開き、永遠に水が流れそうな谷間と滝が見えた。
 その滝の頂に何かがいた。蛇のようにとぐろを巻いて座っているそれは、噂に聞く黒い龍だった。
「......なんだ、貴様は。人間の分際でわしに近づくとは、良い度胸だな」
 黒い龍の顔あたりで真っ赤なものがきらめいた。龍の目なのだろうか。その目が一瞬浮き上がるかと思うと、急速にエイベンの方へ近づいてきた。

*

「......」
「......」
「分かるよ、ヘイラ」
 眼帯の女マルタ、そしてモライナ家の娘ヘイラが、互いを息もせず睨んでいた。しかし、突然、マルタが剣を下ろした。
「はい?」
「実は、わたしも聞いたことがあるんだ。男女間の恋についてな。わたしの親は、片方が男だったみたいだ」
「は、はい? そんな......」
 ヘイラが身を振るえた。今も男性を愛し抱きしめている彼女にとっては嬉しい話だったはずだが、それでも常識として頭に刻まれているのだ。男と女は愛せない、という事実が。
「......」
 そしてもう一人、マルタの横で身を振るえている者がいたが、マルタは気が付けず話を続けた。
「わたしだけじゃない。この国のすべての女は、実は、男と女の間で生まれたんだよ」
「いや......マルタ様、何を言ってるんですか?」
「何って、事実だよ。知ってる? 女同士じゃ、子供は産めないってこと。繁殖のためには、まるで犬みたいに、オスとメスが必要らしいな」
「......」
 ヘイラに抱きしめられている少年、セルもまた、唖然としてマルタを見つめていた。悪魔でも見ているような顔だった。
「......待って、マルタ。どういうこと?」
 しかし、続いて言い出したのはヘイラでもセルでもなかった。鞘に入っている剣の柄をぎゅっと握っている、ビータだった。
「ごめん、ビータ。結婚してから言おうとした」
「でも、でも......それじゃあ、うちのお母さんたちは? うちのお母さんたちは、二人とも女だよ? うちは女同士の間で生まれた。そう、絶対そう」
 セルとヘイラが頷いた。彼らにとってもそれが当たり前のはずだった。親は同性で、街の皆も同性で、異性なんて、何から何まで異なっている、自分たちとは交われない別の生き物だって。
 自分の血ががそんな「異性」と繋がっているなんて、災いのような話だ。
 しかし、それはまだ災いの前震に過ぎなかった。マルタはまだ話したいことが残っているような顔をしていた。
「......両国が戦争をしているのもね、水なんかのせいじゃないんだ。戦争はずっと昔からやっていた。互いの国から捕虜を捕まえる必要があったから......」
「捕虜......? どういうこと?」
 ビータが聞いた。その静かな声が、森の果てまで響き渡りそうだった。
 しかし、ビータも、そしてセルとヘイラも、マルタが言ったことを理解していた。国を維持するには子供を産むべきだ。子供を産むには男と女が要る。しかし、両国には片方しかいない。そんな状況で行われる戦争。そして捕虜。
「......だから、とりあえず帰ろう、ヘイラ。あの男のことは黙ってやる。お互い静かに自分の国に帰れば何もないはずだ」
「......」
 ヘイラは答えなかった。さっき聞いた話の衝撃がまだ残っているのだろうか。でも、もうマルタに殺意がないのは自明だった。そう感じたヘイラが、少しずつマルタの方に歩いていく、その時だった。
「嘘つき!」
「......ビータちゃん?」
 剣を抜いたビータが結婚相手の首を狙っていた。すこし動くと肌が切られそうな距離だった。
「嘘つき、嘘つき! マルタ、何でそんな嘘をつくの?」
 普段のビータとは思えない大声だった。マルタと痴話げんかをするときさえ、ビータはこんな乱れた声を出したことがなかった。
「いや、ビータちゃん。これは嘘なんかじゃ......」
「嘘よ。マルタの言う通りなら、女王陛下も、参謀様も、うちのお母さんたちも、みんな悪いことをしてるってことになる。そんなわけないもん!」
 そこまで叫んで、ビータは振り向いた。剣は、互いを抱きしめている少女と少年に向いた。
「分かった、あの二人が悪いのね。あの異常性愛者たちが、マルタをおかしくしたんだ。だからあんな変な話を......殺す。こんな豚みたいなやつら......殺す!」
「だめ、ビータちゃん!」

*

 黒い龍は、近くで見たらいっそう荘厳な容貌をしていた。怯えたキアがエイベンの後ろに隠れてしまうほどだった。しかし、エイベンはびくともせず、その場で龍を睨んでいた。
「人間。わしが怖くないのか」
「怖いとも。そんなに目を剥いて近寄れば、誰でも怖いはずだ」
「なら、なぜ逃げない」
「どうせ水を持って帰らねば首が飛ぶのでね。見知らぬ人間の錆びた刃に死ぬか、古い友人である泉の神に死ぬか、だ。私には後者の方が幾分かましに見えるけど、君はどうだい」
「......」
 黒い龍はいぶかしげな顔で一歩ぐらい後退した。龍の視線がエイベンの全身にあたった。参謀にもそうだったし、今日は変に体を検索されることが多い。エイベンはそう思ったが、別に不愉快というわけでもなかった。
「その、平然と相手をイライラさせる喋り方......エイベン様?」
「そうとも」
「そんな姿で何してるんすか? しかも、こんな辺境の僻地で」
「それはこっちのセリフだね、ウェストロン」
 黒い龍、泉の神ウェストロンの声が一段と小さく、そして高くなった。尻尾を軽く持ち上げた姿勢がさっきより温和に見えた。
「いやいや、久しぶりっすね。ざっと千年ぶりかな」
「そんなことより、ウェストロン。我々はこう見えても急いでいるのだよ。水を汲んで帰ればならない。いいかな」
「どうぞ、どうぞ。どんだけ要るんすか?」
「この辺の人間全員が一年間飲める分、かな」
「いいっすよ、それぐらい。マレンドくんが作ってくれた川からは、永遠に水が湧き出ますからね」
「ありがとう」
「いえいえ。ところで、ちょっと気になったんすけど、何で僕に許可をとるんすか?」
 二人の神がお互いをじっと見つめ合った。
「君がこの森を占領していると聞いたが」
「占領なんて。僕も借りてるだけなんすけど」
「なるほど。では、君は人間を取って食ったりはしないのかい」
「エイベン様、人間なんて、取って食うほど美味しいと思いますか? 僕が好きな食べ物はパンケーキってこと、知ってるっしょ」
「知ってるとも。しかし、千年も経つと好みが変わったかも知れないと思って」
「ありえない。パンケーキと人間じゃあ比べるのも失礼ですよ」
「それもそうだね」
 古き友人に会い、エイベンは懐かしい気持ちになった。しかし、しばらくした後、疎外されていたキアが羽を振り回し何かを主張した。
「そう、忘れる所だったね。ウェストロン、もう一つ聞こう」
「なんすか?」
「この森の周りに、人間の国が二つあるのは知っているか?」
「もちろん、知ってますよ。最近はなかなか来てくれないんすけどね」
「人間たちが言うには、君がその人間たちの半分を滅ぼそうとしているらしい」
「......」
 ウェストロンの目がまた赤く光った。怒っているのだろうか。
「バカバカしい。人間は昔からすぐ戯言をほざくもんすね」
「彼らが嘘をついているのか?」
「嘘......ですかね。それとも、何か誤解があったのかも。僕は「半分を守ってあげる」って言ったはずなんすが......」
 ウェストロンは昔から人間の言語が下手だった。しかし、どう間違えると「半分を守る」が「半分を滅ぼす」になるのだろう。
「ところで、守るとは? 何から守るんだい」
「まだ知らないんすね、エイベン様。もうすぐ、ルキアンの兄貴がこの辺りを通るんすよ」
「なるほど、ルキアンが」
 ルキアンは世に存在する「震え」を司(つかさど)る神だ。彼にはどうも自制できない悪い癖が二つあるが、一つは、どこだって座りさえすれば貧乏揺すりをすること。そしてもう一つは、通る所々、強大な地震を起こして周りを廃墟にしてしまうことだった。そういうのは早く直せとあれほど言っておいたのに、まだ直していないらしい。
「だからこの辺にある二つの国は、ルキアン兄貴の地震に巻き込まれて丸ごと滅ぶ運命だったんすよ。気の毒でしょ。それで通りすがっていた僕は、この綺麗な森を少し借りる代わりに、せめて片方の国だけは助けてあげると約束をしたんすよ。僕の能力では、片方で精一杯っすからね」
 そう、ウェストロンは昔からそうだった。人間と近いところに住むのが好きで、彼らにとって命同然である水を与えられることを、何よりの誇りに思っていた。そんなウェストロンが人間の国を滅ぼすわけがない。
「君も相変わらずだね」
「はい?」
「ところで、その守ってあげるという約束を交わした相手とは、誰のことなんだい」
「小っちゃい人間の女と、もっと小っちゃい人間の男でした」
 エイベンの頭に、お互い抱きしめていた少年少女の姿が浮かんだ。ヘイラとセルと言ったか。
 よりによって彼らとは。
 どっちの国を守ってもらうかは、その国に住む人間たちにとって重大な問題のはずだ。それを決める代表者になったのが、異常性愛者と呼ばれる彼らとは、また皮肉なことではないか。彼らを代表として選びたかった人は恐らく一人もいなかった。にもかかわらず、彼らは当選されたのだ。運命は時々不正選挙をする。
 しかし、運命を司る神はまた他にいる。明らかにエイベンの担当外のことだった。今エイベンに与えられた任務は、ただ一つ。
「そうか。忙しい所すまなかったね。与太話はここまでして、さっさと水を汲んで帰るとしよう」
「気にしないでくださいよ。あ、運ぶの手伝いましょうか」
「そうしてくれると助かるが」
 エイベンは素直に喜んだ。自分でいっきに運べるのはせいぜい樽一本だったし、キアは役に立ちそうになかったからだ。
 しかし、エイベンの喜びも長くは続かなかった。
 どこからか轟音が聞こえ、ウェストロンが呆然と空を見上げた。
「これは......尋常じゃない震えっすね」
「ルキアンが、もう来たのか」
「みたいっすね。おかしいな、いくら何でも早すぎる......」
「神というのは皆気まぐればかりだからね。そう珍しいことでもない」
「急に家出したエイベン様が言うことじゃあないっすな」
 この震えの中ではどうしても水を汲むことはできそうにない。エイベンは仕方なく、ルキアンが通り去るまで待つことにした。
 まだ前震が終わっていないうち、後ろからバサバサする音が聞こえた。振り向くと、さっきの少年少女カップル、ヘイラとセルが切れそうな息を吐いていた。
「た、助けてください、ウェストロン様! 人間たちが私たちを殺そうとして......」
「人間たちから守ってあげるとは言ってないぞ。わしは地震から守ってあげると、そう言ったはずだ」
「ずるい......一か月一緒に過ごした仲だっていうのに」
「一か月? 笑えもしない。神にとって一か月など、一息吐くだけの瞬間に過ぎぬ」
 ヘイラという少女が明らかに失望した。
「そんなことより、早く決めろ。ギリギリまで待ってあげたものだが......もう本当に時間がないぞ」
「あ......」
「わしはどっちを守るべきなんだ。男の国か? それとも女の国か?」
 少年少女の顔に深い影ができた。そのまま困った顔でお互いを見つめ合うだけで、何も言おうとしなかった。自分の国が亡ぶのも、恋人の国が亡ぶのも、同じぐらい嫌なのだろう。
 それ以上は我慢できなかったよう、ウェストロンが両手の指を全開した。巨大な体に比べると可愛くさえ見える小さい手。
「十を数えるうちに決めないと、両方滅ぶぞ。よいな」
「......」
「十、九......」
 少年少女はそれでやっと打合せを始めた。が、それでも二人でもじもじするだけで、大事な話は何も通わなかった。カウントダウンを設けたウェストロンの方が焦ってるようにも見えた。
「愚かな、愚かな! おぬしたちの優柔不断な態勢で国一つ、いや、二つが滅ぶかも知れぬぞ! 知ってるのか!」
ウェストロンの声こそが大地震のようだった。彼の周辺の空気が揺れているように見えた。
「まあ待ってあげようではないか、ウェストロン。この人たちはこう見えて頑張って考えているのだよ」
「エイベン様、悪いっすね。こんなみっともないことに巻き込んじまって」
「私は別に巻き込まれてはいないけどね」
 エイベンが今何をしているかというと、ただ出張ってる立派な木の根に腰かけて見物をしているだけだった。お互い愛していると宣言した異常性愛者たちは、果たしてどういう選択をするのだろうか。実に見ものだった。
「三、二、一......」
 振るえの神ルキアンは刻一刻迫っていた。もう空を見上げなくても分かる。ルキアンが発する懐かしい震えが、エイベンの体に直接伝わっていた。
 数字が減るにつれてウェストロンの怒りは増していった。それを知ってるのか知らないのか、少年と少女はただ手をつなぎ合わせて怯えているだけだった。
「零......」
 ウェストロンは「零」をとても長く引き伸ばした。それでも返事が聞こえてくることはなかった。少年少女が口を開いたのは、その後また十秒ほどがたってからだった。
「待って、ウェストロン様! やっぱり......」
「もう遅い。何度でも言うぞ。おぬしらはとてつもなく愚かだ。人間とは何て愚かな種族なんだ!」
「......」
 ウェストロンがつれないのではなかった。実際に、もう事態は彼が制御できる域を脱している。やがてすさまじい轟音が森中の木々を揺らした。
 少年と少女は強く抱きしめ合った。エイベンはそれを見ながら眉をそっとひそめた。
「......」
 音は長く続かなかった。まもなくして森はまた何事もなかったのように静まった。さっきみたいに川が流れる音だけが残った。
 いつの間に行ってきたのか、キアがエイベンの耳にささやいた。早口で何を言っているのかよく分からなかったが、おおよそ、女王のいた国が跡形もなく消えたという話らしい。恐らくは男たちの国も大差ないだろう。
「......呆れたぞ」
 ウェストロンが二人の愚かな種族から目をそらした。それ以上は見るだけで反吐が出そう、とでも言っているかのような表情。
「エイベン様、また縁があれば会いましょうよ。僕はもう行きます。こんな、愚かでけがれた地は一秒も踏んでいたくないんで」
「今も踏んではいないけどね。でも、一つだけ忠告をしよう」
「え? エイベン様がご忠告なんて、珍しいっすね。なんすか」
「皮だけを見ては何も分からないものだよ。特に、人はね」
「......何をおっしゃるかと思ったら。エイベン様も気を付けた方がいいっすよ。人間たちと戯れてると、エイベン様までけがれちまうかも知れないっすから」
「参考にさせてもらおう」
 そしてウェストロンは軽く飛び上がって上空に消えた。どこに行くのかは誰にも分からない。ウェストロンもまた神であり、気まぐれなのは生まれつきなのだ。
 
 残された少年と少女はしばらく空を見上げていた。どっちの目にも涙はぶら下がっていない。
 ヘイラはふと視線を落とした。自分たちの方を無表情で見ていたエイベンとばったり目が合った。
「あの......」
「私は君たちの選択を尊重する。その選択は間違っているだろうけど、それほど間違っていないのかも知れないね」
「......選択って、どういう......」
「それはね......」
 エイベンは言葉の間にため息をはさんだ。エイベンも知っているし、ヘイラという少女もおそらく知っている。お互い明白に知っていることをわざわざ口にする行為は、エイベンが最も嫌う行為の一つだった。まるで靴下を二足履くような無駄事ではないか。
 しかし、今回ばかりはその無駄事を敢行することにした。水を汲んで帰る国がなくなって暇になったからだ。
「......君たちは、迷っていて選択できなかったわけではない。むしろ、二つの国を両方、地面に埋めてしまおうと、そう選択したのではないか」
「......」
「ずいぶん前から既に決めておいたのだろうね。もしかしたら、ウェストロンと出会った瞬間から。違うかね」
 ヘイラは答えなかった。
「どうだい。悩むふりをするのは辛くなかったかい? 十秒は多少長かったのだろう。ウェストロンは慈愛深い神だからね」
「......」
 ヘイラという少女は、本来これほど寡黙な人間ではないだろう。あのウェストロンと一か月も慣れ合ったものだから。普段はよくしゃべりよく笑う平凡な少女のはずだ。
「しかし、気を付けた方がいい。まだこの森にはあの女剣士たちが生き残っているからね」
「......脅迫ですか?」
「違うね。でも脅迫の代わりに、一つ質問をさせてくれないか」
「......どうぞ」
「これからは、どうするんだい」
 少女はまた口を閉じてしまった。エイベンの意中が読めなくて警戒しているのかも知れない。
 代わりに、少女に抱かれていた小っちゃい少年が答えた。
「二人で国を再建するんだ。男と女が両方いた方が、繁殖なんかにも有利らしいから」
 繁殖という言葉に少女が顔を赤くした。
「なるほど。では、あの剣士たちはどうするんだい」
「それは......」
 今度は少女の方が代わりに答えた。この二人はもはや二人合わせて一つの生き物なのだろうか。見た目こそ違うが、考え方も感じ方も全て共有しているような気がした。
 それとも、考え方も感じ方も全部違うからこそ、お互いを補完し合っているのだろうか。
「説得します。男と女が愛し合うのはおかしいことじゃない、貴方たちが愛し合うのと同じく、私たちも愛し合っているってね。うまく行けば、再建を手伝ってくれるかも知れない」
「説得か。もう少し早く、そうすればよかったのではないか」
「二つの国を説得するのには失敗しました。でも、たった二人の人間なら、できるかも知れないです」
「かも知れないね」
 エイベンは今までなかったほど深く頷いた。この二人は、二人の「恋」は、どこかすごく美しい。とても模範的で勉強になる。そんな気がした。
 エイベンは川に浮いていた樽を拾って水を詰め、背負った。
「この国には、またいつか来るとしよう。これだけ水があればもう倒れることはないだろうね、キア」
「......」
「そうだね......外に止めておいた馬車ももらって行こうか。いいかね」
 少女は心底興味のない口調で答えた。
「勝手にしてください。どうせ私たちのものでもないから」
「うむ。感謝する、いろいろね」

 またキアを羅針盤代わりに使って、エイベンは森を抜け出した。地震で掘り返された土が見苦しかったが、土はまたすぐにでも基に戻るのだろう。滅んでしまった人間の国と違って。
「どうだい、キア。彼らが上手くやっていけると思うかい」
「......」
「そう、すぐ死んでしまうかも知れないね。十中八九さっきの剣士たちにやられるだろう。特に、三つ編みの方にね。ビータと言ったか」
「......」
「でも、そうだね。彼らは、今までもずっと剣を向けられていたのも同然だから。あまり変わらないのかな」
「......」
 ふと疑問に思った。彼らはどうやって恋し合うようになったのだろう。お互い、同性しかいない国で生まれたにも関わらず。本人たちに聞けばよかったものの、もう遅い。エイベンはすでに馬車の御者台にまたがっていた。
「二国分の命をすべて合わせても敵わぬ、それほどの愛とは」
「......」
「羨ましいものだね、キア。私はまだその意味すら分かっていないと言うのに」

 雑草とコケは相変わらず森を覆っていた。地震で木々は倒れていたが、雑草とコケは平然としている。むしろ増えたのではないかとも思えるぐらいだ。やはりこの森は元々雑草とコケの領域だったのかも知れない。
 そうなると、正しいのは森なんだろうか、それとも雑草とコケなんだろうか。顎を触りながら考え込んだが分からなかった。


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