NEEDLEGIRL!

白内十色


NEEDLEGIRL!
白内 十色

 初めに遠くから大まかな構造を確認しておいて、それから細部を順々に辿っていく。物事を観察するときには必ずその順番じゃなきゃいけない。それも、螺子がはじけ飛びそうなほどにキリキリと締め上げるように、うんと徹底的に目を皿にしなくちゃいけない。そうして物事を見つめ続けていると、そのうちに物事の本質的な部分が見えてくるようになる。
 私の場合、それは体の筋肉のどの部分が何を司っているか、どのように動かせば効率がいいか、といった自分の体への理解から始まった。解剖学の本を買って筋肉図を見た時に私の推論は確信へと変わった。私はその本で学ぶべきことを自分の体を観察して全て知っていたし、教科書では学べないそれらの使い方についても熟知していた。理論として知っていることと理解していることは随分違う。体得することはもっと違う!
 高校の体育の授業で野球ボールを渡されたとき、ビビッと内なる私が声を上げた。今こそ実践の時! 投げ上げる角度は斜め上四十五度とここまでは学校でも習うような計算の範疇だから私が考えたのはもっと先、上空の風向きにボールの適切な回転に、体の正しい使い方。飛んでいる鳥の群れ方を観察することで風向きはわかるし、体育の最初のストレッチで自分の体の具合は理解していた。筋肉の一本一本の名前は知らないけれどそこに筋肉があって何をしているのかは知っていたから、彼らを本当に正しく動かしてやればいい。
 ボールをクラスの誰よりも遠くに投げる――そう決めた瞬間に急に私の視界はクリアになった。大きく息を吸うと口に吸いこまれる空気の流れが知覚できる。筋肉に沿って流れる血流がどくどくと音を立てているのが体中から聞こえる。
 反対にボールを投げるのに必要のない情報は私の視界から消えていった。周囲のクラスメートの背中に次の授業が待ち受けているでっかい校舎に運動場の隅にある小さなトイレに......順番に世界からフェードアウトしてゆき、最後には私の周囲のおよそ半径一メートルの、風の流れと私の血液と筋肉だけが無人島に漂流してきたかのように残された。
 右手でボールを掴んで大きく振りかぶったとき私は目の前にある白い線に気が付いた。その線は「正しさ」なのだと私は直感的に理解した。「正しさ」は私の筋肉の一筋一筋から、それと手に持つボールから伸びていて、ボールからは青空のはるかかなたまで放物線を描いている。
 私が筋肉をボールをその線に沿うようにして動かすと、手がブウゥゥゥンと空を切る音がして全身の血が煮えたぎり、そして筋肉にかつてないほどの爽快感が訪れる。その時の筋肉の歓喜の歌をあえて言葉にするなら、『嗚呼、私たちは正しいことをしている!』ってかんじ。その瞬間の私は何よりも正しいやり方で全身の筋肉を動かしたのだった。神からのお告げを聞いて戦争を始めたジャンヌ・ダルクのような高揚感! そして宙に放り出されたボールは私の期待通り計算通り観察通りに雲一つない青空の中をすっ飛んで行き、裏山のどこかわからないところへ着地した。
  遠投の校内記録を大きく塗り替えるどころか世界記録も遥かに超える大事件(上空の風向きというズルはあるけれど)を成し遂げたあと、私の視界にはぐわあぁぁぁと「現実」のディテールが戻ってきて、集中力のぷつんと切れてしまった私は耐えきれずにぶっ倒れた。保健室に運ばれてふかふかの白いベッドの上で目を覚ました時最初に聞いたのは「やっぱり人間じゃなかったんだ」っていう誰かの声。「やっぱり」だって?
  彼らの「やっぱり」には訳があって、というのも私の耳の後ろの髪の毛は針状に固まってヤマアラシのようにちくちくと突き出ている。太陽を吸い込むというよりは艶やかに跳ね返す鴉の塗れ羽ばりのツヤが自慢の私の針はちょっと力を加えるとするりと抜けて、一週間もするとまた生えてくる。まあ確かに人間じゃあないし、かといってどんな動物でもない気がする。遺伝子検査は受けたことがない。両親が必死になって止めるからだ。耳の後ろの針が実は重大な遺伝子異常で大発見ですぐにでも治療が必要で......ってなるのが恐ろしいし面倒くさいのはわからなくもない。でもそれって「正しい」ことではないんじゃない? と私は思う。世の中には絶対的な真実があって、曖昧にごまかしたところで真実はいつだって隣にいるのだ。
  私は切間瞳(ひとみ)。皆からは瞳ちゃんと呼ばれている、ちょっと耳の後ろに針が生えていて観察力が鋭いだけの普通の女の子だ。私は自分のことを人間だと思っているけれど、人間じゃなくても別にいいと思っている。ただ、それとは別で、自分の針のことは知りたいと思う。真実を知った後で忘れるのと、真実を知ろうとしないことの間にも大きな壁があるのだ。なんなら私が純粋の人間であると分かった後にだって、人間の定義を「ヒト科ヒト族ホモ・サピエンス(ただし切間瞳を除く)」に変えてくれたっていい。ただ、それがきちんと判明しないうちから人間じゃないって決めつけはやめてほしいなという話。それはちょっと正しくないなぁ。
  正しくないなぁと思ったので「正しくないなぁ」と私は言った。先ほどの「やっぱり」の主は保健室には当然のように保健室の先生で、こともあろうに先生なのだった。生徒に人間じゃないなんて言っていいのんか? 「あら瞳ちゃん起きてたの」「はあ」「あんた何したの。裏山まで飛んだらしいわよ、ボール」「へえ、そうですか」寝起きなので色気のない返事しかできずに申し訳ない。でも先生だって、自分の失言を誤魔化すために私に話しかけているだけで、私の返答なんてさほどに重要じゃないことは顔の動きを観察していたらよくわかった。正しくないなぁとまた思う。世の中のみんなこんな感じだから、実のところ私にとって慣れたものでもある。私みたいにキリキリ正しさについて考えて世の中を観察し続けているのは少数派みたい。
 保健室の先生が人を呼びに行く。そうして来るのは数学教師で担任の木村か、私の雄姿を真横で見ていた体育の松林か、それともそれともでっぷりおなかを茶色のスーツに押し込んだ校長センセ? 名前は確か宝田とか言ったはず......。冗談じゃない! 私は詰問されるのだろうか。何人もの大人たちから浴びせられる「やっぱり」の嵐? 私の針は確かに私を見る人の目を変質させている。
  それでも私はこの針に消えてほしいとは思わない。それも含めて私の「真実」だから。
  丁寧にベッドの横に揃えられたスニーカーに足を通す。保健室が一階にあるのは絵的に締まらない。――窓をぶち破って四階から飛び降りられたらどれほど爽快だろう! 
  私ならきっと怪我はしない。
  保健室が一階なのは運動場から人を運び込む必要があるから。分かっているさ、言ってみただけ。だから私は普通に扉を開けて保健室から出る。人が来る前に軽くストレッチをして筋肉の状態を知ってから、やおら走り出す。
  筋肉の一本一本の働きを正しく理解したら、後はそれらを効率よく動かしてあげるだけだ。私にはそれができるし、私はそれをした。プロの調律師が弦を寸分の狂いもなく締めていくように、私は筋肉を正しい位置へと導いてゆく。世の中には何億通りもの選択肢がある。日常ではあまりに矮小すぎて、普通は気づきもしないような選択肢だ。でも、それらの選択肢のそれぞれには必ず「正解」がある。目標にたどり着くために最も効率の良い選択肢が、比較すると必ず一つだけあるはずなのだ。ずっとじっと世界を観察し続けている私にだって、それは見えない。選択肢はあまりに一瞬に現れて、一瞬に消えてゆくものだから。けれど、筋肉に関してだけ、私には「正解」が見えるようになった。
 あとは、正解を実践してやるだけでいい。
  運動場の生徒たちを横目に校門を視界に収める。今の私の速度は男子短距離走の高校級くらいだろう。道の土ぼこりを掃きだしている警備員さんの横を颯爽と駆け抜けて校門までのタイミングを計る。「正しさ」の白い線が校門の上を弧を描くようにして伸びている。素晴らしい! 後は正しさの線に体を合わせるようにして3、2、1、ジャンプ! 空中で体を半回転させて背中を下に、私の自由を閉ざしている白い格子の柵を走り高跳びの要領で飛び越えて私は公道に出る。着地も完璧、見よう見まねでもできるものだ。追いかけてきた警備員さんに手を振って私は南に向かう。南には海と、天空から下降してきた謎の白球がある。
 それは全くもって何かわからないので私は見た目から「白球」と呼ぶことにする。観察と真実をモットーとするこの私にもわからないなんて! 気付けば天空にあったその白球の直径は遠すぎて遠近法が狂うけれどおよそ1キロメートル。私がそれに気づいたのは保健室で目覚めた直後のことだ。体育の授業中にあったとしたら風向きを見ていた時に気付いたはずだから白球が出現したのはそれ以降かな。雲の一種というわけではどうやらなさそうで、表面には水っぽい光沢があり、太陽の光を乱反射して景色の異物として上空に君臨している。巨大な両生類の卵のような質感。
  私は白球を目指して走る走る。別に保健室の先生に人間じゃないなんて言われたから拗ねて学校を飛び出したってだけじゃない。何なら投石器を使ったってことにすれば丸く収まったのかもしれない。私がこうして海へと南下しているのは第一に正しい体の使い方をもっと確かめたいからと、第二に得体のしれない白球について調査するためだ。天空より現れた巨大な白球を前に、午後の授業に何の意味がある?
  トントントンという足音も小気味よく私は市街地を疾走する。白球が全然近づいたように見えないのは白球が遠いから。目測では白球のあたりは貨物船は来ないような小さな漁港が並んでいるところだ。私の学校があるのは大都会とは言わないまでも小都会で、白球まではバスと電車をたくさん乗り継がないといけないだろう。
  じゃあ電車に乗る? 
  いいえ、お金を持ってない。考えなしの自分め!
  バイクか車を盗む?
 道行く人が操作しているのを観察すれば乗り物の使い方はわかるけれど、なんだかそれは正しくない。盗まれた人がこの可愛い女子高生、すなわち切間瞳ちゃんが車を盗んだって真実にどうやっても辿りつけないから。他人の真実も尊重したいっていう私の中の何様な部分が声を上げている。
  うだうだ考えた私は結局走ることにする。
  夏の強い太陽光で焼けた石畳を蹴り飛ばして通行人を華麗な体さばきで躱してゆく。
  RUN!
  私は走りたかったし、ここには走る必要がある。なら走るしかない! 建物の間を走っている間は信号も多くてあまり速度を出せなかったけれど、都市部を抜ければあっという間に誰もいない田と畑の並ぶ区域に突入し、私の速度はさらに上がる。足を前に突き出して踏み下ろす、それだけのことを繰り返すだけで私はどんどん速く移動するようになる。
  私の五感はすでに全開になっており、私の走りは何よりも正しい! どくどくどくどく流れる血液の音と手足の筋肉のなめらかな躍動の、その全てを私の脳は把握して制御している。体の隅々から伸びる白い「正しさ」を寸分の狂いもなく通ってゆく。全身が一体となって前に進むための機械となったかのよう。
 私はいつの間にか自転車を軽々と追い抜かすようになる。タイヤの細くてフレームの軽いクロスバイクですらも。蛍光色のヘルメットを被ったお兄さんがいくら頑張っても走っている私に追いつけない。
 次は? 私はどこまで速くなれる?
 私は走りながら、自分の体の効率的じゃないところをどんどんと発見する。それはあまりにも些細なことで、よく気を付けなければ目にも止まらないような小さな違いだ。一つ直し二つ直しして、私の体は間違い探しの正解の方へと近づいてゆく。より正しい私を見つけ出す。
 やがて私は車よりも速くなる。
 エンジン音と並走して、最後には後ろに置き去りにする。タイヤは地面を噛み、私は地面を蹴る。地球はそうして回っていて、地球の回転勝負に私は勝った。
 もう、誰も私に追いつくことはできない。
 私が、正しい。
 車を追い抜いて私は少しハイになっている。体に当たる風が皮膚を震わせ、ついでに脳も震わせているのだ。ほわわと脳が軽くなって、走ること以外のことを考えられなくなりそうになる。危ないドラッグでもキメているかのような多幸感。心は風となり体は大地を駆ける。天に太陽、地に私。
  何台目に出会った車だろう? 白いHONDAを後ろから追い抜かしたところで私は不安を検知する。靴を思い切り斜めに傾けて急ブレーキ。キキーッ。靴底のすり減る音。HONDAが横を通り過ぎてゆく。
  私がやっていることは筋肉を正しく動かすこと、それだけのはずだ。少なくとも、私が思っている限りでは。とすると、人間という生き物の潜在能力はHONDAより上......本当に? テレビで見た誰も、道を歩いている誰も、私と同じ速度では走らない。私がやったことは自分の筋肉を観察して、一番正しく動かしているだけなのに、それだけのことが誰もできなかった? 私の体が速く走れるように出来ていると考えた方が合理的なんじゃないか?
  私はHONDAに乗っているおじさんを追いかけて追いつき、運転席の横から窓を叩いてやる。当然ながらおじさんは急ブレーキ。あわやスリップして畑に落ち込むところを手で押さえて道路に押し戻した。真っ青な顔をしたおじさんが車の中から弾け出てきて私に怒鳴る。
「なんじゃお前。妖怪かや。去ね! わしに憑いてもろくなことないぞ!」
 今度は妖怪。失礼な! と思ったけれど100キロババアの怪談を思い出して納得してしまう。ババアだと? やっぱり失礼な!
「ただの足の速い女子高生ですよ。名前は瞳といいます。あなたに速く走るやり方を教えてあげましょう」
 私のあまりに胡散臭い自己紹介の後は果てしない押し引き問答が続く。「教えて要らん! 金も出さんし命も出さんぞ! 帰れ!」「お金なんていりませんよ自分が早く走れる方法があなたにもできるか試したいだけです」「だからって走っとる車の窓を叩く阿呆がおるか! これ以上言うたら警察呼ぶぞ!」「まあまあそうおっしゃらず、きっと役に立ちますから」「要らん!」等々、最終的にはおじさん(名前は柱井というらしい)が探していたライターが助手席のシートの下に潜り込んでいるのを私が言い当てたことで信用を勝ち取り、私はこの柱井さんのトレーナー役を買って出ることになった。
  試しに柱井さんを走らせてみるとその走りのあまりの非効率さにめまいがする。普通の人はやっぱりこんなものか! ここから私ほどとはいかないまでもそれなりに早く走れるように効率化することができるだろうか? やると決めたのだやらねばならぬ。正しい体の使い方というものを徹底的に教え込んでやる。私が手取り足取り柱井さんのあらゆる筋肉の使い方を指導していると女子の柔肌に触れた彼がむふふな気分になっているのが感知できてしまう。やはり人間は愚か。
  柱井さんの肉体は私のそれとはずいぶんと違う。おなかはちょっと突き出し気味だし、背中は少し猫背だし。けれど、テニスか何かをやっているのか腕にはきちんと筋肉がついている。見込みはあるな、と私は思い、柱井さんが辿るべき「正しさ」について考える。彼には見えないみたいだけれど私には見える「正しさ」の線。それに沿って動くように教えてやる。
  体の使い方を一つ正すたびに柱井さんはぐんぐん早くなる。初めのうちはどうしてこんなことにみたいな不機嫌顔だったのがだんだんと体を動かす喜びを思い出してきて笑顔になってゆく。革靴で地面を蹴るおじさんアスリートが最終的に出したのは100メートル10秒、流れ出す汗の輝きすらも不快でなく誇らしいそれは記録だった。感極まったおじさんが抱きついてこようとするのをさすがに避けて祝福する。地域のかけっこ大会くらいならぶっちぎれることだろう。
  やはり私の理論は正しかった! 正しく体を動かせば人間は人間が思っている以上に速くなれるのだ。
「嬢ちゃん悪かったな、初めはあんなこと言って」
「無理やりした私も悪かったですから。それより柱井さん、やりましたね。これで立派なランナーですよ」
「ありがとうね。こんなに運動することが楽しいと感じたのは初めてだ。これで服と飯買いな。嬢ちゃんの姿はちょいと危なっかしいわ」
 そう言って柱井さんが渡してくれたのは一万円札で、私は自分の服を見返すとそれが体育の時のままの体操服であることにようやく気付く。胸元に校章の刺繍がある白シャツに、下は短パンだ。何よりも活動的で、風のように走るには必要な衣装で、それでも少し恥ずかしい。赤面しながらお礼を言って、近くのユニクロの場所を教えてもらう。
  去ってゆくHONDAを見送った私はけれどユニクロには向かわない。柱井さんに教えられた座標はここから西の方で、私の目指している白球は南なのだ。ユニクロは後でいいけれど白球は逃げてしまうかもしれない。私が少し目を離している間に白球の高度は少し下がっているように見える。私はその場でちょっと足踏みをしてからばびゅんと加速して白球の下へと向かう。
  
  ///
  
「こんにちは、世界で最も正しくない女の子」
 白球の中から出てきた少年の言葉に私はばちーんと手のひらで撃たれたように衝撃を受ける。おじさんと別れた私はあの後も走り続けて、三十分ほどして白球のところまでたどり着いた。白球はそのころには天空から地上まで降りてきていて、その表面の膜のようなものをぷるんとかき分けて現れたのがこの少年というわけだ。そして私を正しくないと言う! 私がかっとなって叫びそうになるのを少年は手を振って制し、言葉を続ける。
「自己紹介が遅れたね。僕は君、君自身だよ」
 くらくら。
  この、薄青い髪と翡翠色の瞳をした少年が私だって? 御伽噺の住人のような姿をして私を現実世界から引きずり降ろそうとする。私はあくまで女子高生で、耳の後ろに生えた針とか周りに迎合しない性格とかから宇宙人だのなんだの言われたことはあるけれど、実際宇宙人だなんてつもりは全くないのである。髪だってほら、日本人の理想たるつやつやの黒髪で、皆からは羨ましがられて伸ばしたら? なんて声を振り切ってショートにし続けているのに。
「私は君なんかじゃない。見た目だってこんなに違う」
「君さ。ようこそ、非現実へ」
「非現実? この白球のこと? 一体何だっていうのよこの状況は。私が観察してきた物理法則がおかしくなってる」
「君が現実から逃げたからさ。君が現実に居たくなくなったから、この白球は現れた」
 保健室の先生の「やっぱり」だ、と私は思う。あの「やっぱり人間じゃなかったんだ」を聞いてから白球は現れた。私は白球を追いかけて走って走って、この寂れた漁港にたどり着いた。けれどそれは、本当は学校に満ちているだろう「やっぱり」から逃げていたんだ。耳の後ろの針のせいで私を純粋な人間であると考えている人はほとんどいない。信じてくれる友達でもいればよかったんだろうけど、あいにく友達ができるような性格をしていなかった。友達なんていらない。だって皆私より頭が悪いから。
「友達が要らない? そうやって誰も彼も拒絶しているから君も弾き出されたんだ」
 少年が私の心を読んだかのように言う。それもそのはず、この少年は私自身なのだ。
  ご覧、と少年が指をさした。指の先にはばりばりと音を立てて幾多のヘリコプターが浮遊している。報道を通して私たちと白球に好奇の視線が寄せられているのだ。高空で旋回しているのはスクランブル発進してきた自衛隊の戦闘機で、そこには武装も取り付けられていることだろう。
「逃げても逃げられない。現実はいつだってそこにある。逃げれば逃げるほど、現実は君の敵だ」
 白球が出現さえしなければここまで大事にはならなかったのに、と言いかけて白球を作ったのも私だったと息をのむ。全部私が選んだ道ってこと? 周りの人が私を人間じゃないって扱うのも私が彼らを拒絶したからで、今こうやって囲まれてるのも私がそんな現実から逃げたから?
  ひりひりするような恐怖が腕から登ってきて私は震える。恐怖じゃなくて怒りかもしれないし、そのほかの感情も混ざっているかも。私はどうすればよかった? 精一杯走ってきたつもりなのに、走る方向から間違えていた?
「正しさについての話をしよう」
 少年が話を戻した。世界で一番正しくない私、ってことは世界のほかの人が正しいってことだろうか。めまいがする。私の積み上げてきた観察と真実が崩れていく音がする。でも目の前の少年は私自身なのだ。私自身が私を観察して、その結果を伝えようとしているのだ。
「君の持つ正しさは君の正しさでしかない。『正しさ』の線は君の思う正しさを描いているに過ぎないんだ。よく考えて、思い出してごらん。君以外の人間は、どんな『正しさ』を見ているかな?」
 私は思い出す。保健室の先生、担任の木村、走り方を教えた柱井さん、平凡で非効率な彼らの視界にはどんな「正しさ」が映っているだろうか? それは他人の思考をシミュレートする試みで、私にとっては初めての経験だった。ふわりと周囲の風景が消えてゆき、次いで私の体も煙が吹き散らされるように消滅する。代わりに現れたのは柱井さんの中年体型で、くたびれた革靴を履いている。私が考えるのは私が走りを教える前、のろのろと転びそうな走り方をした柱井さんのことだ。
  走り方を教える時に筋肉の構造はあらかた分かっていたので体は簡単に再現できた。考え方も喋り方や表情を観察することで少しはわかった。柱井さんの思考のかけらが情報として私の中に蓄えられていて、いま私はそれを引き出そうとしている。観察して情報を蓄積するのと、実感することの間には随分と距離がある。
  柱井さんの体と思考を再現してゆっくりと足を踏み出そうとした、その時に私は柱井さんの持つ「正しさ」の線に気が付いた。私が思う「こう歩くべき」の線じゃなくて、柱井さんが思う、いつもその歩き方で歩いていた、「私はこう歩く」の線だ。それは各所の筋肉から頼りなくひょろひょろと伸びていて、ところどころあやふやだ。でも、確かにそれは存在していた。本人が気づいていないだけで、柱井さんにとっての「正しさ」がそこにはあった。
「認めましょう、正しさは相対的......」
『そこの二人!!!!』
 と、私と少年の間で閉じていた世界に割って入ってくる声がある。拡声器を介した声で邪魔された私の思考は一時停止し、私の体に宿っていた柱井さんの思考も露と消えていった。振り向くと紺色の制服を着た警察官に盾を構えた機動隊に私たちは囲まれている。
「危険ですので、その球体から今すぐ離れてください! あなたたちは私たちが今から保護します。こちらへ来てください!」
 目を凝らしてやれば周囲を囲む何十人もの警察官の「正しさ」が薄っすらと見える。彼らの正しさはこう言っている。白球の存在は正しくない! 正しくないものは捕まえて分析して、正しくしてやらなければならない! そして彼らはたぶんこう言うだろう。――車より早く走れる女子高生は正しくない!
  速さという絶対的な正しさを追求した結果、私は彼らの思う相対的な正しさから大きく外れてしまっている。筋肉の使い方の正解は筋肉が決めてくれるけれど、なんということか、世の中の正解は彼らが決めるのだ。今まさに私たちを取り囲んでいる大人たちが!
  認めない、と私は思う。走り方が正しくないというなら、耳の後ろに針が生えている私は始まりからして正しくないのだ。あだ名は宇宙人の私は世界の異物なのだ。私は逃げることにする。逃げて逃げて世界の果てまで逃げ切って、静かに暮らせる場所を探すことに決める。
「逃げるよ」
 背後の少年にそう言って、逃がさないようにしっかり手を掴む。そのままゆっくりと目の前の機動隊に近づいてゆく。私は頭の中で一つ仮説を立てている。もし白球が私の作り出したものだとするのなら......。
  白球の操作権は私にある。
  高らかに指を鳴らすと、私の背後で白球が盛大に砕け散った。一キロメートルの球体の中身は実のところただの水で、白球には遠くの私が見つけられるようにっていう以上の意味はなかったのだ。それが今音を立てて砕け、海面に盛大に落下しては波を起こしている。
  機動隊がざわめいて隙が生まれた。先頭で拡声器片手に立っている制服の横をすり抜けて、機動隊の盾が作るバリケードまで助走する。走りながら少年を背中に背負って、盾が目の前に来たところで盾のへりに足をかけて大ジャンプ! 機動隊の作る列の上を遥かに飛び越えて宙を舞い、停めてあったパトカーのボンネットに着地する。
  太陽光で焼けた金属の上をもう一度蹴ると周囲は誰もいない漁港に様変わりし、私はその中であっという間に加速する。人の気配が見当たらないのは住民が避難しているのだろう。子供の飛び出しに気を付けずに走れるのはメリットだ。逃げる私はとりあえず来た道を戻ることにする。すなわち北へ進路を向けて、私は風になる。
  少年一人の重みを背中に背負っていても私の走りは衰えない。大地を高速で移動する私と少年の世界に足音と鼓動でできた音楽が鳴り響いている。私はこの音楽で踊り続けると決めたのだ。私は私の「正しさ」に従って踊るし、それはだれにも止めさせやしない。私が考えるに正しさは美しさを孕んでいる。私が必死に観察して考えて導き出した筋肉たちの動きは既に私にとっての芸術だった。
  大通りに出て振り返ると背後からパトカーが走ってきているのが目に入る。さっき私たちを取り囲んでいた人たちか、それとも別の場所で待機していたのか。一台のボンネットには足跡がついているから逃げる時に踏みつけた車だ!
  そして彼らは速い。
  私が本気で走っているのに彼我の距離が縮まってゆく。
  それもそのはず、一般車の法定速度は時速60キロメートルが上限なのに対して警察車の緊急走行は80キロまで出せるのだ。法律を気にしなければ180キロくらいは出せるとも聞くし、私が追い抜いたトロトロ走る柱井さんのHONDAとは訳が違う。
  この唐突に始まった人間対車のカーチェイスはしかし車の方に少し分があるようだ。大通りで障害物もないから私の動向が筒抜けで、上からヘリコプターでも見られているだろうから隠れても囲まれてしまうだけだ。速度で負けてしまっている以上振り切れないし、ぼやっとしていると前からも追加のパトカーがやってくるだろう。
  それでも私はいい解決法を見つけ出した。
  考える。そうすると答えが見つかる。
  考えなければ、見つからない。
  耳元の針を何本か抜いて、出番だよと声をかける。そして走りながら彼らを空中に配置してゆく。空中に置かれた針は重力に従って落ちてゆき、警察車両のタイヤに突き刺さる!
  ぱーん! ぎゃりぎゃりぎゃり! パトカーが盛大にスリップして後続もそれにぶつかってこの一帯は交通事故のため通行止めだ。
  無性に可笑しくなってきて私は笑う。
  私の笑い声は彼らに届いているだろうか?
  そして私は駆ける。
  誰もいない道を走り抜けてゆく。
  
  ///
  
  走りながら私は考えている。正しさは絶対的なものと相対的なものがある。絶対的なものは私がこれまで信じてきたもの、つまり筋肉や物理法則のことだ。相対的なものは今回気づいたこと。誰もが自分の中に「正しさ」があって、それは人によって違うけれど、同じ「正しさ」を何人もの人が共有していることもある。
  何人もの人が同じ「正しさ」を持っていた場合、それはすごく強力な「正しさ」になる。物理法則と同じくらい揺るがしがたいもの、破りがたいものになる。みんなの「正しさ」に逆らったらあっという間に囲まれて、そうして弾き出される。「正しくない」ことになる。
  物理法則の正しさは絶対的だ。それに関係する筋肉の動かし方にも、同じく「正解」がある。けれど私を除いた人類の全ては絶対的な正しさが見えていないから、非効率な筋肉の動かし方を「正解」だということにして共有している。
  ここで私の思考は飛躍する。『絶対的な正しさなんてないんじゃないか』? 物理法則だって筋肉だって、本当の正解はなくて、みんなが思っているものが「正解」ってことになっているだけなんじゃないか? 「正解」だって主張すればそれを「正解」にできてしまうんじゃないか?
  私は観察によって筋肉の使い方の新しい「正しさ」を発見した気になっているだけで、本当はこの「正しさ」は私が勝手に作り出した正しさなんじゃないだろうか。私がこうすれば速く走れると信じ込んでそれを「正解」にしたから、そしてその「正解」がほかの人の「正解」よりもうんと速かったから、私は速く走れるようになったのだ。
  例えば白球すらも私が作り出したものだったように。
  白球。白球こそは物理法則が相対的な正しさであることの証明だ。私が観察してきた物理法則――つまり人類全般が考えている物理法則では、宙に浮く直径一キロメートルの水の球体なんてものは出現しない。私が白球を必要としたから、白球は現れた。
  私は走りながら、自分の「正しさ」を変えてみる。私の足はもっと力強く地面を蹴るべきなんじゃないか? 体はもっと前のめりにして、空気抵抗を受けないようにするべきなんじゃないか? 自分が今まで考えていた「正しさ」をアップデートする。見えていた「正しさ」の線を書き換えてやる。
  私はあり得ないほどに速くなれる。
  それが、正しい。
  タン、タンと鳴っていた足音は次第にダン! ダン!
になり、ついには連続してバキュゥゥゥゥンと聞こえる
ようになった。手足は車のタイヤに負けないくらいに回
転し、残像でその周囲だけもやがかかったように見える。
景色がとんでもない速さで後ろに流れていく。
  壁を突き破ったかのように私は加速する。体全体が一体となってしなやかに前を目指す。高速で動きすぎて筋肉同士の区別がつかない。代わりに、前へ進むのだという意思でできたスープが私の中を満たしている。
  高速で移動する人間の動体視力はそれに合わせて強力になっているべきだと私は思う。カナブンに激突して怪我をするようでは正しくない。要は「正しさ」の取捨選択だ。私にとって必要なものだけを正しいと認定して、必要ないものは正しくないと決めつければいい。大人たちだってそうしてきたはずじゃないか?
  世界の在り方を決めるのは大人じゃない。
  私だ。
  私がこれから決めてやる。
  雨に打たれた水彩画のように溶けていた周囲の景色が私の視力の向上とともに鮮明になる。虫だってがむしゃらにぶつかるんじゃなくて見てから避けることができる。私は自分という存在が一段階進化したことを感じ取っている。同時に、世間の人間たちが言う「正しさ」から遥かにかけ離れていることを。
  問題ない。
  世界なんて関係ない。
  私は逃げる。逃げるにはどうすればいい? 問題となるのは報道のヘリコプターで、その最高速度は時速270キロメートル。なんと空を飛んでいるぶん車よりはるかに速い。自衛隊の戦闘機はついてきているだろうか、と空を見るとこれもちゃんとついてきている。速度は音速を越えることもできるはず。私は何とかして彼らの目をくらませなければならない。
  私はひときわ強く足踏みをする。風化の進んだアスファルトの道はそこらの重機よりも力強い私の一歩でたやすく粉砕されて、砂埃をもうもうと立てる。煙の道だ。汽車が背後に噴煙を噴き出していくように、私が走った後にはアスファルトの破片でできた煙が地面が見えないくらいに舞っている。
  私は砂埃を引き連れてしばらく走り、上空の監視者たちをそれに慣れさせてやる。新しい「正しさ」! 私が走った後には砂埃が立つと彼らに思いこませる。
  けれど世の中の在り方を決めるのは私であって彼らではない。砂埃が立つかどうかも私しだい......。
  私は急激にUターンして私の立てた砂埃の中に入り込む。それも、できる限り静かに、砂埃をこれ以上動かさないように。そうしてしばらく逆走したあと進路を西に曲げて走り出す。これまでと同じくらい高速に、けれど砂埃を立てないように!
  上空の彼らの戸惑いの声が聞こえるかのようだ。自由! 鎖を一つ振り払って私はさらに速度を上げる。砂埃が急に途絶えて彼らは驚いていることだろう。そうして、また別のところで砂埃が立たないかと探しているに違いない。けれど残念でした! 私はもうあなたたちから遠く離れていて、砂埃なんか立てなくても軽快に、高速で、走ることができる。
  「正しさ」は自分で決めてもいいという私の推論は現在のところ正常に作動している。物理法則も、筋肉の使い方も、勝手に自分たちで在り方を決めつけていただけなのだ。私たちは本当は空だって飛べるかもしれない。人間が空を飛べないなんて誰が決めた? 手を鳥のようにはばたかせて、それとも飛行機のように横に広げて、そうしたら私は宙に浮いてさらなる速度を手に入れられるのかもしれない。
  けれど、私はそうはしない。世界の正しさの何もかもを疑ってしまい、最後には細胞の構造も疑って体が崩れていき、地面の小さなしみになるのが怖かったのだ。私は世界の在り方を自分で決められる。けれどそれは自分で決めなくちゃいけないってことだ。誰かの言った「正しい」じゃなくて自分で「正しい」を主張しなければいけないんだ。そのためには何か確信をもって縋りつけるものが必要で、それは私にとって走るってことだった。
  私は走る。走るだけでいい。空を飛ぼうだなんて欲張らない。
  私自身を見失うことが、一番怖い。
  
  ///
  
「ねえ君、聞こえるかい? 切間瞳!」
 背中に背負ったままだった少年が声を上げる。そういえば名前を聞いていなかったけれど、名前なんてないかもしれない。だって彼も、私が作り出したものなのだから。
「本当にどこまでも逃げるつもり?」
「そうだよ。何にも縛られずに気ままに暮らす。山でイノシシでも狩って生きるよ」
「やめときなよ、できっこないって。今からでも大人のところに戻ったらそこそこ普通の生活が送れるよ」
「送れないよ。私は針付きだし、車より速いもん。いまさら人間の間に混じれないよ」
「じゃあ言うけどさ、君の針だって自分で決めてつけてるものだよ。本当は気づいてるんじゃないの?」
 そう、本当は気づいていた。私の耳についている針だって自分で作った「正しさ」で、その気になれば消してしまうことだってできるはずだ。けれどこれは走るのと同じくらいには私自身だ。カーテンの上にはカーテンレールがあるように、切間瞳には針が生えている。これを疑ったら自分が自分じゃなくなってしまう。
「君が本当に子供のころ、ヤマアラシが出てくる絵本を読んだのさ。その時からだ、君に針が生えるようになったのは。君の両親は不思議がって怖がったけれど、結局は針をそのままにした。だって、君がその針をとても気に入っていたから」
「そんなことを言われても、いまさらだよ。もうこの針は私自身だし、こんなに長いこと走っちゃった。もう帰る場所はない」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そっか」
 少年の諦めたようなため息が首筋にかかる。私はしばらく黙って走り続ける。
  少年が「僕は消えるよ」と言う。
「消えるの?」
「うん。背負っていても重いだけでしょ?」
「そうでもないけど。でも、君では私を止められない」
「そうだね」
 私は少しの間目を閉じる。そして目を開けると少年は消えていて、背中がすっと涼しくなる。ありがとう自分、ごめんね自分。私は走り続ける。
  
  どれだけ走っただろうか。私はユニクロに到着する。なんと私はまだ体操服なのだ。山籠りの前に頑丈でちゃんとした服を買わなくちゃいけない。変装も兼ねて。夏だから薄着でいたいけれど、皮膚はあまり表に出したくない。虫とか怖いしね。
  ポケットから一万円札を取り出して良さげな服を見繕っていると、入口から良く知る顔が入ってくるのが目に入る。柱井さんだ! 誰かを探すように周囲を見渡して、私を見つけるとこちらに走ってくる。このユニクロは柱井さんに教えてもらったものだし、いま服を買おうとしている一万円札も柱井さんのものだ。柱井さんだけは私がどこに向かうかを推測することができた。
  私はあわてて服を放り出して、別の入り口から外へ飛び出した。柱井さんは報道で私のやらかしたことを知っているはずだし、私を見つけたことを警察官に伝えるかもしれない。
  バン! 私が一気に加速して走り始めると、後ろから追いかけてくる人影が見える。柱井さんだ! 以前会った時とは違って水色のランニングウェアを着ていて、厚底シューズを履いている。私が教えた走り方で、私の見ている景色についてくる。横を見ると車が後ろ向きに走っていて、つまり私たちは車より速い。運転手が目を丸くしているのが見える。
  柱井さんとの間の距離が広がらない。
「すごいね柱井さん! いつの間にそんなに速くなったの?」
「嬢ちゃん! 君を信じてみることにしたのさ!」
 柱井さんは走りながら満面の笑顔で、目に入る汗も厭わずこちらを見つめている。ちょっと気持ち悪いくらいの、でもすがすがしい笑顔。私もつられて表情筋がほころんでいく。楽しい! 私たちはいまレースをしている。私と同じ、常識を外れた速さをした人間がもう一人増えたのだ。
  私たちは市街地を爆走する。騒音で家から飛び出しても、そのころには私たちは遥か先へと走っていることだろう。通行人を避け続けるのが面倒なので、私は車道に出て走ることにした。すでに私たちは車よりも早いのだから、馬と同じで軽車両の扱いになってもいいはずだ。
  柱井さんは私についてきている。あの人も「正しさ」の壁を越えたのだ。けれど、まだ私の速度は柱井さんに走り方を教えた当時と同じくらい。あれから私の最高速度はさらに進化している。私が本気を出したらどうなるだろう? 柱井さんはついてきてくれるだろうか?
  市街地を北上し続けて山に近くなり人と車が減ってきたところで、私は柱井さんを試してみることにする。
「速度を上げるよ! ついてきて!」
 ダン! ダン! バキュゥゥゥゥン! 心のギアを上げると同時に腕の振りを強めて、全身の筋肉を連動させる。アスファルトにひびが入り、ばねがはじけ飛ぶように私は飛び出す。街路樹の葉が私の起こす風で吹き飛ばされる。
  柱井さんは最初のうち後れを取って視界から見えなくなるものの、しばらくすると同じくバキュゥゥゥゥンと音を立てて走ってくる。速度に順応している。まるで私と柱井さんの間に見えない糸があって、それに引っ張られて速度を上げているかのように。すごい! 彼は私の「正しさ」を信じてくれている。私が「正しい」と思うことが「正しい」のだと認めてくれている。
「嬢ちゃん! どこまで行くんだい?」
「私の名前は切間瞳。瞳ちゃんと呼んで!」
「瞳ちゃん!」
「私はどこまでも行くよ! 柱井さんは?」
「君を止めに来た!」
 私はムッとする。
  この人も私を現実に戻そうとしている。現実にはもう、私の居場所はないのに!
  私は逃げる。柱井さんは追いかけるだろう。逃げて、追いかけて、どこまでも行って、そのあとどうするのかは分からない。けれど私はどこかへ行かなくちゃいけなくて、きっと柱井さんも同じことだ。私たちはこの逃走劇の落としどころを探している。
「私から離れた方がいいよ。こんな速度で走ってたら現実からはじき出されちゃう」
「じゃあ君はどうする? 誰かが引き戻してやらないといつまでも現実には戻れない」
「もう現実には戻れないよ。戻ったところで実験台だよ」
 私は戻りたくない。退屈な日常の中で宇宙人扱いされて生きるのはもう飽きた。周囲に広がる有象無象の間でいつまでも一人の私! 本当の孤独とは誰もいないことじゃなくて、集団の中で一人になることなのだ。それならいっそ、最初から誰もいない方がいい。
  山を登りながら道は徐々に上り坂になっている。物理的なエネルギーの話をすると走りにくくなっているはずなのに私たちの速度は衰えない。むしろ私たちはどんどんと速くなっていて、それは私が絶えず自分の「正しさ」をアップデートしていて、柱井さんもしっかりそれについてきているからだ。
  私が逃げ続けているからだ。
  より安定した場所を走るために木の枝の上を走っていると私は突然に音速を超える。そんなことある? 耳の横でぷちぷちと空気の乱流が渦を巻く音が聞こえたと思ったら、それも私の速さに取り残されてすぐに聞こえなくなる。音速を越えたらそこは音のない世界で、私の鼓動だけが歌を歌っている。私より速いものがまた一ついなくなった。
  一歩先へ進むたびにバン! と圧縮された空気でできた白い壁を突き破り衝撃波があたりにまき散らされる。地面の景色が目まぐるしく後ろへ遠ざかってゆく。登山客に団子を提供する小さな茶店に通りかかってガラスがばりばりと割れる。打ち上げ花火の中を走っているかのように世界に満ちる、私を中心とした衝撃の嵐! 私は私がさらに一段階、上位の存在になったことを感じている。高揚感でハイになってあちらの世界へ逝ってしまいそう。
  手足が焼けそうなほどに熱いし、関節がちぎれそうだ。衝撃波にあてられた両腕がぶるぶると震えてバランスを崩しそうになる。
  けれど私は倒れない。衝撃波で私が傷つくことはない。私の「正しさ」は私が傷つくことを認めていない。私は強情で、意地っ張りで、負けず嫌いなのだ。衝撃波なんか、世間のみんなが決めた「正しさ」なんかに負けてやるものか。
  逃げられなかった鳥が衝撃波で撃ち落されるのが視界の端に映る。柱井さんは? 少し速度を落として後ろを振り返るとバン! と音をさせて柱井さんも音速を越える。そうこなくっちゃと高揚する自分と少し残念な自分がいる。
  あれ? 残念な自分は現実から逃げたい自分だとして、柱井さんが音速の壁を突破して喜んでいる自分は何を考えている自分なのだろう? 自分の中に複数の思考をしている自分がいて、それは私と白球から出てきた少年のように全く違う見た目をして、それでも同じ私なのだ。
  私は結局どうしたいんだろう?
  答えは走った先にしかない。
  真っ直ぐに天を指している杉の木のてっぺんを私たちは音速で駆け抜けていく。音速を越えているということは私たちは飛行機より速い。弾道ミサイルでも持ってこないことには誰にも邪魔されない二人だけの駆けっこだ。
  
  走りすぎてハイになった私はあまり前が見えていない。ふわっと足場が消えて体が宙に浮いたとき、私はようやく失敗したことに気づいた。私がまたぎ超えたそれは山の稜線で、つまり上り坂が下り坂へと変わる瞬間だった。私は上り坂で思い切り助走してその勢いのまま空中に飛び出した。
  緑の絨毯のような木々が遥か下に見えて私はぞっとする。山の傾斜から音速で飛び出した私はどれだけの高さまで飛ぶのだろう? なにより空中には足場がない! この高さまで打ちあがってしまったということは私は落ちるしかないのだ。
  伸ばした手足がぶんぶん空を掻いて、私の速度は落ちない。飛び出した時のエネルギーのまま上昇を続けて地面が遠ざかる。
  頭がふわっと真っ白になって私はパニック。空を飛ぶということは落ちるということ。私は走ることしかできなくてそれだけで、でも空中には足場はなくて、落ちて地面に衝突したら血と内臓と脳の中身をまき散らして、誰かが見つけたら顔をしかめるだろうし誰にも見つけられなかったらそのまま獣の餌なのだ。
  私は両腕を必死にはばたかせて空を飛ぼうとする。音速で走れるのだから空くらい飛べるはず。でも私は鳥にはなれない。私を動物に例えるならばやっぱりヤマアラシでヤマアラシは空を飛ばない。じゃあヤマアラシは音速で走るのか? 適当言うな! いやまてよ、そんなゲームがあった気がするぞ......。
  ちなみにハリネズミとヤマアラシの違いはハリネズミの針が防御用なのに対してヤマアラシの針は威嚇用ってこと。明日役立たない豆知識。ハリネズミも空は飛ばない。
「瞳ちゃん!」
 つらつらと余計なことを考えていると後ろから叫び声が聞こえる。見ると柱井さんが同じく坂道で助走して空中へ飛び出すところだった。体をまっすぐに伸ばして空気抵抗ができるだけ少なくなるように、打ち出された弾丸のごとく一直線に飛んでくる。空を飛ぶウルトラマンのポーズ。
「馬鹿!」
 柱井さんは私が空を飛んでいる軌道より少し低い位置を飛んでいる。私が落ちてきたところに追いついてキャッチするコースだ。私が姿勢を崩していて空気抵抗を受けまくっているから、向こうとの距離はどんどん縮まっていく。
「やっと捕まえた」
 柱井さんは私をキャッチするとそんなことを言う。空中で体をひねって体勢を変えると私をお姫様抱っこして、ヒーロー気取りの笑顔を浮かべている。あなただって空は飛べないはず! このまま二人で地面に追突して肉も血もどっちがどっちかわからないくらいまで混ざりあうんだ。気持ち悪いし冗談じゃないけれど、常識外れのことばかりしてきた私達にはちょうどいい死にざまかもしれない。
「瞳ちゃん。奇跡を起こすにはどうすればいいと思う?」
 柱井さんの目は諦めていない。落下して風に前髪を乱されながら、私の顔を見つめている。
「信じること。自分の『正しさ』を世界に押しつけること」
 私は答える。自分が今までしてきたこと。音速を越えて走るその秘訣。
「分かった、信じよう」
 柱井さんはうなずく。
  何をするつもりか、と私は聞かない。ただ、柱井さんの信じることを信じようと決める。柱井さんが私のことを信じてくれたように。
  
  太ももを体に引き寄せて足を縮め、素早く足を延ばして空中を蹴る。柱井さんはその動作を繰り返している。何度も。何度も何度も。愚直なまでに足を縮め、伸ばす。空中でスクワットをするように。足は空を切るだけで何も起こらない。何も起こらないたびに彼は「もう一度」と言う。
  足を引き寄せる。
  伸ばす。
  引き寄せて、伸ばす。
「もう一度」
 次第に足を出し入れする速度は高速になり、足の持つ力強さも増してゆく。全身の筋肉を足を蹴りだすためだけに動員して、体全体をばねのように使って彼は空を切る。
「もう一度」
 私を抱きかかえている柱井さんの顔は紅潮して赤くなり、太ももの筋肉は膨れ上がって風船のようだ。柱井さんが首を振ると汗が宙に舞い、私の目の前で浮遊する。体から離れた汗も私たちと同じ速度で落ちているからだ。自由落下するエレベータの内部は無重力になる。
「もう一度」
 決然と意志をもって足を踏み込む。世界を変えるための意思。生き残りたいというエゴを押しつけるための意思。高速で打ち下ろされる足の下で空気が圧縮され、確かな手ごたえを生む。
「もう一度」
 柱井さんは空中を蹴る。クラシックの最後の一音のように断固として。三分間しか居られないヒーローの最後に放つ必殺技のように力強く。
  地面が近づいてゆく。そして......。
「もう一度」
 柱井さんの踏み込む足はついに音速の壁を蹴り飛ばし、圧縮された空気は一時の足場となって私たちの体をはじき返した。二段ジャンプ。空気のクッションを無理やり作って、それを足場にして飛び上がる。ふわりとエレベーターで上に上るときのような感触がする。
  私たちはまた少し上昇し、そして落ちてゆく。ひとたび二段ジャンプを成功させれば後は簡単だった。もう一度、もう一度。連続で空気を蹴りながら柱井さんはゆっくりと高度を下げてゆく。地面につくとお姫様抱っこの私をそっと下ろしてその場に倒れ込む。
  私たちが着地した場所は木々に囲まれた少し湿った地面の場所だ。まだ山の中腹くらいだろう。天を衝く杉の木がいい具合に太陽光をカットして緩やかな木漏れ日だけが届いてくる。
  私は急に気が抜けてしまって目を閉じる。ずっと私は怖かったのだ。落ち続けているときもそうだし、白球を見つけて走り始めた時から、本当はずっと怖かった。けれど、今は怖くない。柔らかな安堵が私を包んでいる。
「瞳ちゃんは優しい子だ」
 隣からヒーローの声が聞こえる。二段ジャンプを成功させた柱井さんだ。私を追いかけて音速を越え、ついには私にもできないことを成し遂げた。
「どうしたのさ、いきなり」
 目を開けて柱井さんの方を見る。あおむけに倒れて天を見つめながら、息を整えている。
「もっとちゃんと自分のこと話しな。そんで、人のことを聞いてみるんだ」
 柱井さんは言う。
  私は笑っている。そして、もう一度目をつむる。分かった、信じてみよう。今回ばかりはあなたの方が「正しい」みたい。
  疲れ果てた私たちはそのまま眠り込み、探しに来た地元の捜索隊が来るまで目を開かない。こうして私たちの一日だけの冒険譚は幕を閉じる。
  
  ///
  
  警察署に出頭してことのいきさつを洗いざらい話すと、私たちの話はあっという間に国のトップシークレットに分類されて報道規制が敷かれる。私たちが通った後は竜巻が通り過ぎたことになる。海上に出現して突如崩壊した白球も異常気象が見せた蜃気楼だ。けれど真実というものはどこからか漏れ出して都市伝説系の雑誌の一ページを飾る。アンダーグラウンドな世界で私たちの噂がまことしやかに囁かれるようになる。
  音速を越えた女子高生曰く、この世界はファンタジィを許容する。正しさは個人が信じ込んでいるだけのもので、本当は自分で正しいと信じるものを決めてもいい。十分信じ込んだら、「正しさ」は世界に反映される。
  そうすると、噂を聞いた感受性の高い子供が走るようになる。自分はもっと早く走れるはずだと信じ続けて、実際にどんどん速くなる。月に一人は車より速く走れる子供が出現して、さらにそのうちの何人かは音速を越える。私たちが作り出した「正しさ」がだんだんと世界に浸透してゆく。私たちの背中を追っかけて子供たちが速くなる。
  海にはしばしば白球が浮かぶことになる。白球の前には子供たちが集まってきて、自分からの忠告を聞いていく。迷える子供が白球を生み出しているから、白球の周りにはそれを狙った怪しげな占い師が集まってくる。たまにはドラッグの売人までやってくる。
  私と柱井さんが売人を見つけては蹴り飛ばしていると、国からお勤めの先が降ってくる。世界中で統一されていた「正しさ」が人ごとに揺らいでいる現代、あまりに世間の「正しさ」から外れてしまった人に対処する組織だ。分類としては警察署の一部になる。
  人に「正しさ」を押しつけるのは嫌ですよと言ったら捕まえるだけでいいのですと返事が来る。ただ、寄り添ってあげてくださいとお願いされる。常識を外れるということは、その瞬間に孤独になるということなのだ。そんな人を理解できるのは、私たちしかいない。
  音速で走って窓ガラスを割っている少年を捕まえると、その少年は私たちと一緒に暮らすことになる。国から与えられた宿舎だ。監視カメラはついているけれど設備は頑丈で、ベッドの柔らかさも申し分ない。少年はまた別の音速を捕まえて、私たちの仲間はどんどん増える。
  手から炎を出せる少年が発見されたときは国に衝撃が走ってまたまた報道規制が敷かれるけれど、私はついに来たかと思っている。「正しさ」を自分で作ることでできることは音速で走ることだけにとどまらないはずなのだ。私たちは急いで少年を捕まえて、すごいねと言う。私にだってできないよそんなこと、と思ったら見よう見まねで案外できてしまう。
  報道規制はそれでも成功している方で、ほとんどの人は速く走れないから車を使うし、手から炎は出せないからコンロを使う。白球に出会うこともない。私たちのことは都市伝説として受け入れられている。そのほうがいい。というのも何人目かの音速の子が力に酔って人を殺して回ったからで、誰もがこの力を正しく使えるわけじゃない。
  私たちの宿舎のリーダーは柱井さんということになっている。今のところ最年長で、面倒見がよい。それまで勤めていた会社は辞めてしまったそうだ。私の役割は副官で、自分だけの「正しさ」を見つけたばかりの子供たちにその力の使い方を教える役目だ。みんな私をよく慕ってくれている。
  私は切間瞳。耳の後ろに針が生えていて音速で走れて手から炎も出せる女の子だ。
  私の周りにはようやく見つけた仲間がいる。
  同じ速度で走ってくれる友人がいる。
  
  私は世界を変え、世界は私を変えた。
  私はもう、一人じゃない。


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