逃げ道

ビガレ



「赤ちゃんの頭ってさ、生まれてすぐは柔らかいじゃん。ほら、指で押したら少し沈むみたいに」
 親指を突き出しながら、西川日和は言う。顔の右側を、カフェの大きな窓から差し込む西日が照らしている。
「眩しくないの」
 僕の問いかけには反応せず、でもさ、と西川は話を続ける。
「成長につれて、その柔らかな頭はすぐに固くなっていくの」四分の一残っていたアイスコーヒーを飲み干す。
「人間が持ちうる価値観もさ、そういうもんなんだよ」
 一切変わらないその表情が、西川の真剣さを表している。
「若いうちはまだ柔らかくて少し押してやるだけでいくらでも変化するけど、大人になって社会の実態を知っちゃったが最後、その価値観はほとんど変化しなくなる」
「何だよ社会の実態って」
「知らないよ。だから私たちはまだ大人じゃないんでしょ」
「誰からの受け売り」気怠そうに尋ねる。外では二羽のカラスが飛んでいる。
「サークルの先輩」
 僕はその言葉を聞いて、空のコップを持ち上げた。
「どこ行くんだよぉ」西川が上目遣いで甘ったるい声を上げる。
「西川のサークルに碌な奴はいないから」
「ちょっと待って! じゃあ最後にこれだけでも見てって!」
 西川が大きなトートバッグから、数枚のパンフレットのようなものを取り出した。青すぎるくらいの青空と、真っ白な鳥が二羽描かれている。
「今度、先輩のそのまた先輩がうちの大学で講演会やるらしいからさ、一緒に見に行こうよ」
「やっぱり」
「違うって、今度はマジで良いやつだから! 前は確かに宗教っぽくて何か変だったけど、今回はさ、ほら!」
 パンフレットを指さしてその部分を読み上げる。
「かのアインシュタインはこう言った。『常識とは十八歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う』って。ね? 私たちはまだ柔らかい価値観の持ち主なんだから、色んなパースペクティブをインプットしないと」
「僕らもうハタチだよ」
 木目調のドアを開け、カフェを出る。西川もついて来たので、彼女が追い付くのを一応待ってからドアから手を離す。
 視界の隅に数人の群れが見えた。視線を感じたので僕も目をやると、同じ大学の女子がひそひそ何か話していた。頭の中で舌打ちを鳴らす。またか。
「僕から離れた方がいいんじゃないの、西川」
 西川もその群れに気づいたようだった。
「流石、モテるね。紫村倫平様は」
「また陰口叩かれるよ」
「いいよ別に。どうせ倫平君以外友達いないんだから」
「実家の猫は?」
「メロンは友達じゃなくて家族」
「マロンじゃなかったっけ」
「......バロンか。メスだけど」
 西川はパンフレットを四つ折りにしてバッグに入れた。二人で群れとは反対側を歩いていく。
 僕は、どういうわけかモテる。まあ、原因が端正なルックスであることは八歳から分かっているけど。それが分かったとき、僕はバレンタインデーにクラスの女の子全員からチョコをもらった。お返しは何もしなかった。でも次の年もそれ以上の数のチョコをもらった。また何も返さなかった。そしたらその次の年はひとつもチョコをもらえなかった。僕の人生の「モテ」は、大体こんな感じだ。
 皮は美味しいんだけど、中身は不味いという大福と、皮はまあまあ、中身もまあまあという大福だったら、たとえまあまあでも人は後者を選ぶだろう。そんなだから、僕はこれまでに碌な恋愛をしていない。大抵一晩過ごすか、せいぜい一ヶ月くらい。分かりやすい数字だけが増えていって、それが知らぬ間にプライドと驕りを助長させていった。
 だから、西川同様僕も彼女以外に友達はほとんどいない。彼女の周りの人間は大抵嫌いだ。例のサークルも、自分のポテンシャルを高めるとか体裁の良いことを言いながらイベントを開催して、要は酒とセックスのことしか頭にないミーハーどもだと思っている。実際に西川にそれを伝えたこともあるけど、彼女は「少なくとも私は誘われないからなぁ」と言って特に気にしていなかった。言葉遣いとか、表情とかにそういう男女の嫌な感じをまとっていないのが、西川の好きなところであり、友達でいられる理由である。
「今日の夜、予定ある?」
「倫平君と映画を観に行く」
「あれ、僕もう誘ってた?」
「うん」
「ごめん、また忘れてた」
 その夜、二人で映画を観た。『純愛』というタイトルの映画だった。単館上映で、百七十四分もあったけど、どうしても観たかったので電車を乗り継いで行った。
 映画館の目の前にあるハンバーガーショップで、僕たちは感想を言い合った。
 ひとしきり語って、料理もほとんど食べ切ったころ、西川が言った。
「倫平君ってさあ、純愛、好きだよね」
「今日初めて観たけど」
「そうじゃなくて。一目見たときから誰かのことを好きになって、その昂る愛情のまま一生を共にする、みたいな、純愛」
「何で」
「だって、前に勧めてくれたドラマも最愛の彼女が病気で死んじゃうってやつだったし、最近読んでる小説も何か前世で愛し合ってた男女が巡り合うみたいな話でしょ。ほら、好きじゃん、純愛。違うの?」
「......違わない」
 見透かされたみたいで恥ずかしかった。こんな見た目とあんな性格をしていながら壮大な純愛に憧れている。いや、むしろ軽率な恋愛を重ねてきたからこそ、なのかもしれない。聞こえの良い理想だと分かっていながらも、世間体とか性欲とか、そういう不純物の一切混じらないピュアな恋愛は、多分するのも見るのも好きだ。そっち側の人間の恋路なら応援してやってもいいと思っている。
 何なら自分の人生にはいつか運命の相手がふらっと訪れるはずだと常々考えている節さえある。
 西川にこの思想を伝えたことはなかったのだが、まんまと言い当てられた。
「顔、赤いね」
「まあね」
「また恋愛モノの映画観に行こうか」
「いじってる?」
「少し」西川は悪戯っぽく口角を上げた。
「もういいよ、次は水族館にペンギン見に行こうよ」
「えー、私はカワウソに会いたいなぁ」
「カワウソって水族館と動物園どっちにいるの?」
「知らない」西川がまた笑った。
 遊びに行った帰り道で次の予定の話をするのが僕と西川の中での通例になっていた。ピンク色のネオンが眩しいホテル街を二人で歩いて、どこにも寄らずに帰った。

 天井の梁がむき出しの店内では、あちこちから賑やかな声が飛び交っている。僕は口の中のもつ煮をハイボールで流し込む。
 今日は、僕が所属している囲碁将棋サークルの、いわゆる追い出しコンパというものだった。少し離れた席で卒業間近の上級生が後輩たちにちやほやされている。せっかく参加費を徴収させられたのだからと来てはみたものの、さっきから完全に周りとは違うタイミングで注文を通しているので、ほとんど普段の一人飲みと変わらない。居酒屋の美学は野菜とカクテルじゃなくて肉とハイボールだろ、と口の中で呟く。
 上級生のあたりで、わっと声が湧く。僕は顔をしかめ、視線を逸らす。僕は、あの声の中心にいる同級生の高田孝という男が嫌いだ。周りからはタカタカとか呼ばれて持て囃されているが、僕はどうも好きになれない。
 タカタカが立ち上がる。履いているのは、有名ブランドがでかでかと広告を打ち出していた今季限定のレギンスだ。さっき目に入った彼の小さいリュックサックには流行りの邦ロックバンドのラバーバンドがいくつもぶら下がっていた。吸っている煙草の銘柄と付けている指輪が会うたび変わっている。別にそれら全てを否定するわけじゃない。ただ、自分の身の回りのものをまるで日めくりカレンダーを剥がすようにいちいち変える生き方が何か嫌なのだ。手元の紙ナプキンに指で「ミーハー」と書いて、くしゃっと丸める。僕の右手の人差し指には、使いすぎて手垢のとれない指輪がはめられている。
 誰にも見つからないうちに店を出ようとハイボールを傾けたとき、タカタカが僕の目の前に座った。
「紫村君、楽しくないの?」
 こいつに多分悪気はないんだろうと思いながらも、返答に不自然な間を置いてしまう。
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど」
「そう? それならいいんだけど。ほら、今日で先輩たちともお別れだしさ、せっかくなら楽しんだ方がいいじゃん。だって山口先輩なんて、明後日引っ越しらしいよ? ですよねぇ、山ちゃん」
 僕らの周りが笑い声で囲まれる。遠くで先輩が「敬え」と嬉しそうに叫んでいる。
 せっかくなら楽しんだ方がいいなんて、百も承知だよ。僕は誰かを憐れむように無理やり口角を上げることしかできなかった。
 そこで、僕の右ポケットが震えた。ごめん電話だ、と言って席を立つ。
 僕は電話に出るなり、第一声で「ありがとう」と言った。
「何がですか」相手は西川だった。
「気にしないで。何の用?」
「先月貸してた本、もう読み終わったかなと思って」
「ごめん、読み終わった」
「どうだった?」
「返して、って言わないんだ。面白かったよ」
「面白かった、って言うときはだいたい微妙だったときじゃん」
「鋭いな。確かに文体は素敵だったけど、展開自体はありきたりだったかな」
「鋭いのはそっちだよ。私もそれは少し思っちゃった」
「今から家行っていいですか」
「別にそんなすぐ返さなくていいよ」
「じゃなくて、飲み直したい」
「そういうことか、了解」
 電話を切ったあと、僕は誰にも見つからないように店を抜け出し、コンビニで二人分のチューハイとつまみを買った。右手に重みをぶら下げながら感じた夜の涼しさは、肺に入って少し痛かった。

 本の感想を語り明かし、そのまま西川の家に泊まったあと、バイトが入っていたことを思い出し慌てて家へ戻った。
 酒が抜けきっていない頭のままバタバタと制服に着替える。バイト先は、黒い大理石のカウンターが設えてあるようなお洒落なバーである。
 タイムカードに記録された時刻は、開店の時間を少し過ぎていた。店長は優しいので、僕のきまりの悪い顔を見て「結果オーライだからいいけどね」とだけ言って、他には何も咎めなかった。店にはまだ客は入っておらず、いたのは店長とバイトリーダーの伊藤さんだけだった。
 それから最初に入り口のベルが鳴ったのは、開店から三十分ほど経ったころだった。黒い背広を纏った男性と黒のコートを羽織った女性がカウンター席についた。僕はトイレ掃除のためにゴム手袋をはめながらいらっしゃいませ、と言う。店長と伊藤さんはカウンターの内側で飲み物の準備をしている。
 僕はまだお酒を作ることはできない。今月の給料を計算しながら、トイレの床を掃き便器を磨く。バケツを持ってトイレから出ると、さっきの男女と伊藤さんが談笑していた。僕はふっと息を吐いて、休憩に入った。
 初めは誰も来なかったのに、最初の客が来てからは少し忙しくなった。僕は休憩の途中で呼び戻されたし、伊藤さんも焦ってグラスを割った。店の看板をしまった頃には、背中に少し汗が滲んでいた。
「また伊藤がやっちゃったよ」
 閉店後、三人で片付けの作業をしているときに店長が言った。
「いやぁ、すみません。だってあんなに客が来るなんて思ってなかったんで」
 お客さんな、と言う店長は別に怒っているわけではなく、むしろ嬉しそうに見えた。
 伊藤さんはよくミスをする。シフトの希望を提出するのは遅いし、月に一回はグラスを割る。それでもここでバイトを続けられているのは店長の優しさもあるかもしれないが、伊藤さんの人柄に起因するところが大きいだろう。
「さっき何の話してたんですか?」僕は明日の分のおしぼりを畳みながら尋ねる。
「誰と?」
「最初のお客さんのこと?」
「あぁ、男女の。あの二人、兄妹みたいでさ。今日、お父さんのお通夜だったらしいんだけど、二人とも、生前お父さんのこと嫌いだったからこっそり抜けてきちゃったんだって。面白いよね」
 僕は笑い事ではないと思いながら、そうですね、と返した。三人の談笑の様子はそんな身の上話をしているようにはまるで見えなかった。重苦しい話も笑って軽くしてあげられるのが、伊藤さんだ。僕はそれに憧れてもいるし虚しくも感じている。自分はそういう人間ではない。
「最近あっちの方はどうなの?」と店長がエアギターの真似をして伊藤さんに尋ねた。
「俺はベースですけどね。ぼちぼちかな」
 伊藤さんはインディーズバンドをやっている。CDも何度か出していて「良かったら宣伝して」と貰ったこともある。まだ聴いてはいない。
「ライブとかやるの?」
「ワンマン、俺らだけのライブではまだまだ大きな箱は埋められないですね」
 店長はふうん、と呟いて、しばらくしてから「箱って何?」と伊藤さんに尋ねた。伊藤さんは笑いながら「ライブハウスのこと」と答えた。
 よくグラスを割るのにバイトをクビにならない人が音楽をやっている。今日知り合ったばかりの人の身の上話を笑って聞ける人が未だに夢を追い続けている。僕にはない魅力を持っている人が無謀かもしれない挑戦に人生を費やしている。
 僕は伊藤さんのバンドの話は、聞くと鼻の奥がつんとするからあまり好きではなかった。どうしても伊藤さんにはバンドを続けてほしくないと思ってしまう。もし僕がこの店の店長だったら「早く音楽なんか辞めちまえ」と言って、ベースを捨てさせリクルートスーツを贈るだろう。そうでもしないと、僕が報われないからだ。
 じゃあまた今度ライブ行きますね、と伊藤さんに言って店の裏口を出た。多分、ひどくぎこちない笑顔だっただろう。

 仄暗い部屋に冷蔵庫の明かりだけが浮き上がる。炭酸水を取り出し、飲んで、これを箱買いしたことを後悔する。部屋の外から、賑やかな若者の声が聞こえる。バイト終わりはどうしても夜中の三時頃になってしまうから、必然的に生活リズムは狂う。恐らく今日もまだ眠れないだろう。
 昔から人の目が気になって仕方がなかった。イケメンだとかハンサムだとか言われても、一向にピンと来ない。むしろ言われれば言われるほど、自信は無くなり、意識は巻き爪のように内へ内へと入り組んでいった。巻き爪が放っておくといつか化膿するように、僕が僕の内側のことに気付いた頃には、それは立派な自意識とプライドを生み出してしまっていた。どうすればこの膿を吐き出して、普通の暮らしを過ごすことができるのだろうと、いつも考えていた。考えすぎて何度も一睡もせずに朝を迎えた。西川にも相談をしたことがある。何て返事をされたかは正直覚えてない。でも、そうやって考えに考えた結果僕が出した答えというのが、純愛だった。僕の言う純愛とは「外見に囚われず内面を見てこその愛」という定義による。辞書にそう書いてあるかは特に問題ではない。世間体や上っ面ではなく中身で判断してくれる人を愛することで、僕の自意識とプライドは消化されていくと、そう信じた。正当性や信憑性は定かではない。しかし、そういう理屈を超えていくのもまた純愛なのだ。
 僕はペットボトルの炭酸水を飲み干した。窓からの景色は白み始めている。携帯の電源を点け、一昨日から未読スルーしているメッセージを確認する。大学の食堂で話しかけられてそのまま連絡先を交換した女の子からだった。
 「土曜日、映画観に行きませんか?」という文言とともに、その映画の上映スケジュールが貼り付けられている。携帯のホーム画面を見る。彼女が言う「土曜日」が直近の土曜日のことなら、それは今日を表している。突然眠気に襲われ、僕は座ったまま眠ってしまった。

 結局三十分ほど遅刻した。女の子は何とも思っていないような顔で「今来たところです」と言った。それも少しどうかとは思った。ちなみに僕はもし待ち合わせの相手が三十分遅刻したら、まずその遅刻について咎め、次に常日頃の不満を淡々と詰めたあと、その日の予定は無かったことにする。彼女のこの態度が彼女自身の優しさから来るものなのか、それとも僕の容姿がもたらしたものなのかは、これから判断するところだ。
 彼女が勧めた映画は、何ともつまらないものだった。趣味の一致は特に僕の純愛の判断基準にはなかったが、それにしても悪趣味な映画だった。以前この映画のファンがSNSで内輪ノリをひけらかしていたのを見たことを途中で思い出して、そこから更につまらなく感じた。
 上映中、隣の席に座っていた彼女の左手がそわそわしているのに気が付いた。今回もか、と思って僕は肘掛けに置いていた右手を引っ込めた。
 映画を観終わったあと、二人で駅まで歩いた。さっきカフェで買ったコーヒーを両手で小さく持つ彼女の仕草が鼻についた。
「今年の初詣は誰と行ったんですか?」
「普通そういうのってクリスマスのこと聞かないの?」
「え?」
「女の子と一緒に行ったかどうか聞きたかったんでしょ?」
 そう言うと彼女は恥ずかしそうに頷いた。僕は「やっぱり」と呟いた。
「クリスマスはもう空いてないと思ったから」
「年末も年始も一人だよ」
「奇遇ですね、私もです」彼女がこちらを見上げるのが視界の隅で見えた。
「じゃあさ、初詣でおみくじは引いた?」
「はい、引きました。大吉でした。紫村さんは?」
「ハズレ」
 僕がそう言うと、彼女はくすっと笑った。
「おみくじにハズレなんて無いですよ」
 僕も少し笑って「どうかな」と小さく呟いた。

 その夜、西川と映画を観に行った。一日に二度違う女性と映画を観に行くなんて、バチが当たってしまわないか少し不安になる。
「今日の女の子もダメだった」
「そんな言い方してあげないでよ」
 西川が口を尖らせる。自分が言われたわけじゃないんだからそんなに怒らなくてもいいのに、と言う。
 今日は西川のリクエストした映画を観る番だった。内容は、さっき観たものよりは幾分かましだったけど、何故か違和感を覚えた。
 西川が映画の賞賛すべき点を熱弁しているときも、その違和感が気になって仕方なかった。
「ねえ、話聞いてる?」
「あ、分かった」
「何が?」
「あの映画、表現が直接的過ぎない?」
 僕は違和感の正体に気付いて一人で腑に落ちた顔をしていた。
「人はさ、本当に誰かのことを好きだと思ったとき好きだとは言わないんだよ。飲みかけのジュースを一口いるか聞いたり、ハンドクリームをわざと多く出したり、ラインをあえて少し時間を置いて返したり。そういうのが、好きって気持ちじゃないの?」
 スッキリして気持ちよくなった僕は立て板に水が流れるように言葉を次いだ。しかし、それを聞いた西川の反応は眉を少し上げる程度だった。
「ごめん、怒った?」
「怒ってないよ。でも、そうだなぁ」
 うーん、と西川は言葉を詰まらせ、しばらくしてまた続けた。
「私は曖昧なものが嫌いなの。どっちつかずで空中にふわふわ浮かんでいるものを見ると、何だか不安になって、その輪郭をはっきりさせたくなって、いつも手を伸ばしちゃうんだ。それが余計なことだったとしても曖昧のままでいるよりははっきりしてる方が全然良いんだ。だからまあ、どっちかと言うと、直接的に感情を伝えてくれる方が好きなんだよ」
 こんなに自分の思いを自分の言葉で表現しようとしている西川を、初めて見た。西川の目は少し潤んでいるように見えた。いや、多分気のせいだろう。気のせいだろう。
 どっちかと言うと、って曖昧じゃないかと言い返すと西川は「えへへ、ホントだ」とはにかんで笑った。
 その後、僕と西川は何も話せなくなって、その場で解散した。次に会う約束は取り付けられなかった。

 その年の夏、僕は恋をした。紛うことなき純愛だった。純愛の相手の名前は、峰沢ひつじと言った。でもこれが本名かどうかは分からなかった。
 出会ったとき、彼女はひとりだった。一人でもあったし、独りでもあった。雨の降る夜の繁華街を誰の目も気にすることなく歩いていた。どこのブランドかも分からない安物のジーンズを履き、大きなキャリーケースにローリングストーンズのステッカーを貼り付け、ぼろぼろの傘を差していた。彼女を見た途端、僕の身体が異常なほど熱くなるのを感じた。流行や世間の目に流されず、自分を自分の思うままに着飾っている。他人より上だとか下だとかそういう価値観のもとに生きていない。そういう女性だと思った。
 僕は気付くと彼女のあとを追いかけてしまっていた。客観的に見ればストーカーまがいの行為だ。しかし、僕はTシャツが汗でじっとりとしていることにも気づかないほど彼女に夢中になっていた。
 今までこんな経験はなかった。誰かを好きになったことはあるけれど、こんなに我を忘れるようなことは一度たりともなかった。
 彼女の目を見たい。彼女と話したい。彼女に笑ってほしい。そしてあわよくば、僕のことを好きになってほしい。それしか頭になかった。
 三度角を曲がって彼女は突然消えた。僕は慌ててその場所へ駆けた。いや、彼女は消えたのではなく、地下へ繋がる階段を下りただけだった。そしてそこは、いわゆるキャバクラと呼ばれるような店への入り口だった。
 その日、人生で初めてキャバクラへ行った。受付で見つけたパネルの中に、彼女が笑っていた。先程とは格好も化粧も大違いだったが、僕は直観的に見つけることができた。「峰沢ひつじ」と、その顔写真の下に書かれていた。僕はその名前を数回口の中で繰り返して、唾を飲み込んだ。
「あの、何か御用ですか?」
 受付の前で立ち尽くす僕を不審に思ったボーイに声を掛けられ、そこで僕は初めて自分がこの場にそぐわない格好をしていることに気が付いた。慌てて「すみません」と繰り返し、すぐに踵を返そうとしてから、もう一度向き直り「また来ます」と言って今度こそ店を出た。僕の人生初のキャバクラは数分足らずで終了した。
 それから、僕はその店に足?く通うようになった。途中、会員カードのランクも一つ上がった。夜の店に入り浸るなど、かつての僕なら鼻で笑ってしまうような馬鹿馬鹿しい未来のひとつだったが、今では週に二回、多いときは三回ほどのペースで店へ赴くようになってしまっている。
 そして僕はついに、峰沢ひつじと会話する日を迎えた。それまでは他の女性とお喋りしながら視界の隅で捉えるほどだった彼女が、今は目の前にいる。ここに辿り着くまでに何度もはぐらかしてきた。何度もはぐらかしていたら彼女に聞きたいことが箇条書きで溢れてしまったので、いよいよ彼女を指名した。熱帯夜のような嫌な汗が首筋を伝う。
「最近よく来てくれてるよね」
 峰沢は、他の女性とは違って僕に敬語を使わなかった。
「人と喋るの、好きなんで」
「本当に?」
「嘘、かも」
 彼女は僕を見て笑っていた。
「楽しめるといいね」
 彼女の眼は少し紫がかっていた。多分カラコンなのは分かっていたけど、僕はその瞳から目を逸らすことができなかった。
「そんなに見ないで」
「アイシャドウ、少し濃いですよ」
 彼女に話しかけられてようやく手元のグラスに視線を移すことができた。
「君、モテないでしょ」
「モテます。顔がいいんで」
「そういうんじゃないよ」
 僕と彼女の間に一定温度の空気が流れ続けている。店の中でここだけ空間が切り取られたみたいだ。
「例えばさ、美容院で何気なく読んだ雑誌で自分の髪型が『今流行りの』って紹介されてたとするじゃん。そしたらさ、君は美容師さんに『すみません、やっぱりコッチで』ってその雑誌の後ろの方のページに載ってる髪型を指差すでしょ?」
 彼女の声は相変わらず小さい。でも、僕は一言も聞き逃さなかった。聞き逃さず、全部心の中にしまって、そして大きく溜息をついた。
「ほらね」彼女は悪戯っぽく笑った。そんな顔をしたことに僕は驚いた。
「溜息は肯定を表しませんよ」
「顔にイエスって書いてある」
 少し間があって、そして二人で笑った。
 それからのことはあまりよく覚えていない。酒のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、とにかくこれからは週四で通おうと決めたことだけは覚えている。

 彼女は会うたびに僕の性格を言い当てた。
「観葉植物を置くのはヒーリング効果があるって言われてるんだから、馬鹿にしないの」
「服屋で店員さんに『こんな服買うんだ』って思われたくないからって、通販ばっかり使ってちゃダメだよ。全部同じ色じゃん」
「君のラインが初期設定のままなのは、それがカッコいいからなのかな?」
 そうやって僕をたしなめるような口ぶりで話していたけど、彼女も多分、こっち側の人間なんだろうなと思った。そうじゃなければこんなに言い当てられるはずがない。
 僕も僕で、そのやり取りを鬱陶しいだとかは微塵も感じていなかった。むしろ、そう言われるたびに彼女が魅力的に見えて、憧れにも似た感情を抱いた。
 ある日、過去の恋愛について二人で話した。僕はそれなりに胸の鼓動が速くなったのだけれど、多分彼女は別に何の意図もなく話していたと思う。
「今まで何人の女の子を泣かせてきたの?」
「そんなの数えたこともないけど、今まで付き合った女性は、みんな別れるとき泣いてた」
 そう言うと、彼女は鼻で笑った。
「へえ」
「笑い事じゃないと思いますけど」
「その自覚はあるんだ。じゃあ友達は?」
「いません」と言ってから「一人しか」と付け加えた。
「私より多いじゃん。どんな子なの?」
「馬鹿だけど、僕と遊んでくれる程度にはセンスがあって、いい奴です」
「へえ」
 彼女は今度は笑わなかった。
「女の子なんだね」
 また言い当てた。でも今回は特に気持ちが上ずることはなかった。
「その子とは何して遊ぶの?」
「まあ、映画とか、水族館とか、美術館とか」
「良いね。映画の趣味が合う友達は一生大切にした方がいい」
「最近は、あんまり会ってないけど」
「何で?」
 何でだろう、自分でもよく分からない。
 話題を切り替えようとして顔を上げたとき、僕はおぞましいものを見た。
「やば」
 僕は瞬時に身を縮こませ、なるべく周りから自分が見えないようにした。
「どうしたの」
 僕が何も言わずに小さく首を横に振ると、僕を見下ろした彼女は表情を変えないままテーブルのグラスに目を移した。何かを察して一人でいることを装ってくれている。
 僕が目にしたのは、入店してくるタカタカの姿だった。何人かで来ていたが、少なくとも顔見知りはそいつだけだった。タカタカは、言わずもがな僕がここに来店していることを最も知られたくない人物の一人である。僕は唾を飲んで、テーブルから頭をほんの少し出しながらその動向を見つめる。彼らはボーイの案内に沿って、幸いにも僕らがいる方とは反対方向へ向かった。談笑する後ろ姿を見て、ほっと息をつき身体を起き上がらせる。
「何か、すみません」
 彼女は何事もなかったかのように、グラスについた口紅を拭きとっている。
「別に謝らなくてもいいのに、たまにこういうことあるし」
 僕はそこで彼女の発言に何故か違和感を覚えた。「こういうこと」って? 
 彼女はそこで僕のきょとんとした顔をまた察知して「え?」と言った。
「こういうことって、どういうことですか」
「何言ってんの、君が分かっててやったんじゃないの」
 僕は未だに分からなかった。するとまた彼女が喋った。
「私に会いに来てるのが、恥ずかしいんでしょ?」
 当たり前のことを当たり前に言っただけという風な言い方だった。
 僕は気付いていなかった。あれだけ彼女のことを魅力的だとか憧れだとか言っておきながら、心のどこかでは恥ずかしいと思っていた。夜の街に男性とお酒を飲む仕事、水商売をしている女性と会うことを恥ずかしいと思っていた。彼女のことを、見下していた。
 自分の純愛にはそんなこと関係ないと信じ込んでいながら、心の底はそうではなかった。
 今まで自分のことは自分が一番分かってきたつもりだった。だから友達もいなかったし、碌な恋愛もできなかったし、夢を持つことを憐れだと思ってきた。それなのに、そんな自分がやっと見つけた恋愛を、自分で汚した。
 僕は何も言えず、ぼんやりと彼女を見つめていた。彼女はこんなにも近くにいるのに、はるか遠くにいるように見える。彼女が「お会計だね」と言った。峰沢ひつじに、また見透かされた。

 それから僕は色んなことを考えた。自分のこと、タカタカのこと、恋愛のこと、西川のこと、峰沢ひつじのこと。多分だけど、一週間くらい考えた。ただ考え始めて二度目の金曜日を迎えそうになったとき、お腹がすいて考えるのをやめた。
 もういいや。考えすぎた。僕は、考え過ぎだ。いやに気になる人の目も、化膿した自意識も、純愛への憧れも、ぜんぶぜんぶ考え過ぎのせいだ。もうやめよう、考えるのは。
 でも、これは持病だから、多分治らない。僕は「考えすぎ病」の重症患者だ。多分物心ついてから命を放り出す間際まで、僕はずっと考え続ける。だから今日くらいは点滴を外して病院のベッドから起き上がろう。どうせまたここに戻って来るんだから、今日は考えるのをやめよう。そう思った。
 今日は僕の誕生日だった。

 午後六時、僕は峰沢ひつじを店の入り口で待ち伏せた。以前に比べればいくらか涼しくなったというのに、未だに蝉はやかましい。その声に混じってキャリーケースの転がる音がして振り返る。そこには、安物のジーパンを履き大きなサングラスをかけた峰沢ひつじがいた。僕がいじっていた携帯をポケットに入れると彼女もこちらに気付いた。
「私に会ってていいの?」
 僕をおちょくるような顔でサングラスを少し下げる。
「今日で最後にします」
「それは残念だ」
 キャリーケースを置き、彼女はその上に腰掛ける。すらりとした脚がやけに艶やかで思わず目を逸らす。
「じゃあ、今日は何をしにきたの?」
「大体分かってるでしょう」
 峰沢ひつじは何も言わなかった。微笑んでいるだけで何も言わなかった。
 分かっててこの人は何も言わないんだと思って、僕は唾を飲んだ。
「そうですね、その通りです。僕は、あなたのことを好きになってしまいました」
 眠い。マジで眠い。本当に一秒が永遠に感じることがあるのかと、少し驚いた。でもまだ眠い。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 口から出る言葉が脳を通っていかない。峰沢ひつじが発した言葉に反射的に応じてしまう。
「それで? 私はどうしたらいいの?」
「別に、何もしないでください」
 余裕ぶった彼女の態度に怒りすら湧いてこない。あと心臓の音がうるさい。
「じゃあ私が思ったままを言えばいいわけか」
 今度は僕が何も言わないでみた。ささやかな抵抗と捉えてくれていい。峰沢ひつじが溜息をついた。
「ごめんね、私は、君みたいな馬鹿を相手できるほど馬鹿じゃないの」
 そう言って彼女はキャリーケースから降り、店へ入っていった。真っ黒なそのドアの奥に、僕はもう二度と立ち入ることはできない。耳に反響する言葉よりも、その現実の方に絶望した。
 僕の人生で初めての純愛は、汚く醜いものとなって終わりを迎えた。

 爪が欠けて血が出た痛みで我に返った。気付いたらずっと爪を噛んでいた。
 峰沢ひつじと会えなくなってから何も手につかなかった。最後にした食事が何だったか思い出せない。泣いた分だけ喉は渇くから酒は飲んでたけど、酒を見ていると死にたくなるので途中から水にした。
 大学にもバイトにも行ってない。もともと休みがちだったから単位はもらえないだろうし、バーもクビになると思う。
 まぁ別にどうでもよかった。人生で一度きりの純愛を逃した僕には、残りの人生の楽しみなんて与えられないだろうから。
 でも何となく死ぬに死にきれない。観なきゃいけない映画があったような、そんな気分になって、何故かまだ死なないと思える。
 ぴんぽーん。
 部屋のチャイムが鳴る。視線だけドアの方にやる。鍵は開いていた。まさか入ってこないだろうと思っていたら、ドアノブがぐるりと半周して、がちゃりと開いた。
「大学来ないとダメだよ」
 現れたのは西川だった。
 さも当然のように部屋に入ってきて荷物を肩から降ろすものだから、僕は「不法侵入だ」と叫ぼうとしたけどそんな暇なんて与えられなかった。そもそもそんな気力がない。
「倫平君しか友達がいないんだから、勘弁してよ」
「嘘だと思ってた」
 西川はどうして引きこもってるの、とは聞かなかった。
「授業の出席は何とか誤魔化しといたけど、テストの面倒までは見切れないよ。それと、バイト先にも一応体調崩してるって伝えといたから。店長さん、優しくて良かったね」
 散らかった部屋を見えるところから片付けながら、西川は早口で喋った。
 僕は「ありがとう」と言った。「ありがとう」ともう一度言ってから、泣いた。
 西川は、何も言わずに僕をゆっくり抱きしめた。カーテンの隙間から夕陽が漏れて、西川の背中を照らす。影は一人分に見えた。
 そうだ。西川と観たい映画があるんだった。


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