水の瞳

レーゴ



 思えば、兄という存在はずっと特殊なものだった。
 私には二人の兄がいるけれど、二人とも、兄、という感覚はなかった。
 二つ年上の兄は産まれてすぐ、宮のある飛鳥から乳母のいる葛城へ移され、ずっとその地で育てられた。葛城皇子、と名付けられた私と同父母の兄だ。そう、同母の兄。母は現大王の宝大王(皇極天皇)、父は前大王の田村大王(舒明天皇)。母も父も同じの兄だ。
 葛城皇子は、年に数度しか顔を合わさない兄だった。葛城の地から宮に出てくることは稀だった。いざ会ってもお互いに愛想笑いを浮かべてみるだけの、ぎこちない兄妹だった。
 もう一人の兄は、異母兄の古人皇子。父は私や葛城皇子と同じ前大王で、母は蘇我馬子の娘である法提郎女。亡き前大王の長子であり、母が蘇我氏であり、さらに蘇我入鹿とは従兄弟であり、次の大王に最も近い人物である。それを示す『大兄』の呼称がついて、古人大兄皇子と呼ばれている。
 古人大兄皇子にしても、同じ飛鳥の地にいながらそう頻繁に会うわけではなかった。遊び相手には歳が離れすぎていたし、なにより会う理由がなかった。私が物心ついた時には蘇我氏が背後に常に控えているような存在で、なんだか窮屈な印象だった。一緒にいて心安らぐわけでもなく、気づまりな兄だった。
 だから、二人とも《兄》だと思ったことはなかった。肉親というよりも、もっと遠くの、関係の薄い人物のようだった。
 それが決定的に変わったのが、父大王の葬儀だった。
 私が十四歳の時、父大王が崩御した。病だった。昔から身体が強いわけではなかったから、病に病を重ねた結果だったのかもしれなかった。
 百済の大殯、と後に呼ばれるその葬儀の一環で、大王の生前の功績をたたえ、追悼する誄(しのびごと)の儀式を任されたのが葛城皇子だった。私より年上だったとはいえ、当時はまだ十六だった。
 誄といえば、豪気な者でも緊張で震えるといわれているほどの儀式だった。昔、他(おさ)田(だ)大王の殯の際、かの物部守屋も震えわなないて誄を読んだという。それを見た蘇我馬子は「鈴をつけたらよく鳴って面白いだろう」と笑い、それが後の、物部が没落することとなる蘇我との戦に発展したきっかけになったとかならなかったとか、語られている。
 そんな儀式になぜまだ子どもといっても良いような年齢だった兄が選ばれたのか今となっても不明だが、とにかく選ばれたからにはやるしかなかった。私は当時、まだ葛城皇子を《兄》とする認識は薄く、ただ一応は近しいとされる立場の者が恥をかかないか、はらはらしながら見守っていた。
 群臣も同じようで、不安げな顔をした者や、それ、失敗するに違いないぞ、と意地の悪い笑みを浮かべた者もいた。
 葛城皇子が棺の前に立っても、ざわざわとした声は止むことが無かった。その時は天気が悪く、重い雲と霧雨が辺りを白く包んでいた。その中に白い喪服を来た、まだ幼さの残る皇子が溶けるように立っているのがなんとも頼りない......と感じていたのが、一声めで破られた。
 淀みのない、凛と張った声が、ざわめきも雨の音も抑えて響いた。呆気にとられたように、群臣は口を閉じる。少年の高さを残した声は朗々と雰囲気を塗り替えていき、くっきりとその姿が霧雨の中から輪郭を現わしていく。白皙の顔は最後まで微塵も緊張の色を見せず、誄を終えた。
 兄が何を話したのかもう忘れてしまった。それでも気づけば私も母も、涙を流していた。内容に感動したのか、もっと他のことによるものなのか分かりようもなかったけれど、とにかく、私の中で葛城皇子が《兄》として確固たる地位を占めたのは、この時だった。

 しかし今思えば、私のこの認識は、間違っていた。全く別の感情に、《兄》という言葉を当てはめただけのものだった。抱いてはいけない相手に抱いてはいけない感情を抱き、獣の道に堕ちていこうとしていることを、まだ私は自覚できていなかった。

 その殯の後、母が即位し大王となった。倭国二人目の女帝だった。父も母も大王となれば、私たち子どもの立場も変わる。とくに、父大王と母大王の間の第一子である葛城皇子は、いつまでも葛城の地に引っ込んでいるわけにはいかなくなり、宮の近くへ館を移した。
 私たちはそれまでの空白の期間を埋めるように頻繁に顔を合わせるようになった。
 あの誄ですっかり憧れを抱いた私は積極的に兄の近くへ行くようになり、兄もそれに応えた。昔のあのぎこちない態度は、互いにどう歩み寄れば良いか分からない故のものだったのだ。一度知れば、私はもう躊躇しなかった。

 そうして数年がたち、兄は二十歳、私は十八歳の年になった。兄は一人妃を迎え、娘も一人産まれていた。
 私にも、婚姻の話が持ち上がった。十八で未婚なのは、行き遅れと言っても良かった。私はそれでも気にしていなかったけれど、周りがそれを良しとしない。
 相手は異母兄、古人大兄皇子だった。同母の兄弟姉妹が通じることは禁忌として絶対に認められないが、母が違えば婚姻の対象となる。私の血筋と夫となる男性の血筋を比べて、嫁ぐことができるのは古人大兄皇子か、古人大兄皇子以上に歳が上の、母の弟である軽王の二人しかいなかった。
 古人大兄皇子は、蘇我氏が後ろ盾としてついている皇子だ。私を妃に、と話を出してきたということは、とうとう古人大兄が大王になるのだと、その際に私が大后の地位なるのだと、そう噂された。私を古人大兄の妃にすることを提案したのは蘇我入鹿だということだった。
 入鹿はまだ三十の半ばとまだ若い部類だったが、この頃きゅうに老け込んで体調を崩した父の蝦夷の代わりに大臣として政を仕切っていた。よく姿を見かけるが、筋肉の盛り上がった身体は大きく、黒々とした髭面も存在感があった。いかにも偉丈夫といった感じで、少し私は苦手だった。
 とうの古人大兄皇子は格別嫌いでもなければ、好きでもなかった。入鹿のように強面ではない、逆に弱々しい顔つきだったけれど、それも卑屈な印象で好ましくはなかった。
 同じ兄であれば、葛城皇子のほうに嫁ぎたい。そう本人に冗談めかして言ったことがあった。兄は困ったように笑って、でも私も間人が、せめて母が違う皇女だったら言い寄っていたかもしれない、と言った。それも冗談なのだろうけど、嬉しかった。
 表立ってことが進んでいる様子はなかったけれど、母大王と蘇我の最有力者である入鹿が密に話し合い、古人大兄皇子への譲位への計画が進んでいるようだった。倭国で譲位の前例はなかったけれど、あくまで女性大王は中継ぎの意味合いが大きい。蘇我の邪魔をする存在がない今、譲位の話が現実味を帯びているのだ。
 譲位される、すなわち私は古人大兄に娶られる。憂鬱だった。自由でいられる時間がのこり少なくなっていることを感じながら、その時間を兄に会うことで埋めようとしていた。



「なんだか、慌ただしいのですね」
 大殿に向かって物を運び、不要になった物を運び出し、また新たな荷は運び込まれる。そうやって大殿はいつも以上に鮮やかに飾られていく。
「そうそう三韓の使者が集まる場なんてない」
 兄は隣で準備に忙しい人々をともに眺めつつそうこたえる。なにかと折り合いの悪い百済、新羅、高句麗の三国の使者が一度に集まり、大王に貢物を献上する三韓の儀が近いうちに行われようとしていた。私には詳しい政は分からないけれど、その慌ただしさで事の重大さを知る。
「百済で政変が起き、新羅の王族が百済に殺され、高句麗でも政変だ。三国とも緊張状態だ。互いが互いをつぶし合おうとしている。そこに大唐国が虎視眈々と領土を広めようと目を光らせている。三韓が滅べば、次は倭国だ」
 淡々と、天気の良し悪しでも予測するかのように兄は話す。
「そんな、怖いことを言わないでください」
「事実だから、仕方がないさ」
 ふ、と薄く笑う貌は冷静そのもので、ああ、この人は聡明な皇子なのだ、と尊敬の念が湧く。
「たとえいつか三韓が滅びようとも、我が国まで唐に侵攻されることがないよう、強い国にしなければならない」
「例えば、どうするのですか? どうやって、唐から守るのです」
「さあ、私にはまだ分からない。鎌足なら何か考えているだろうけど」
 兄の視線の先に、何やら警備兵と話し込んでいる長身の男がいた。
「最近、よく聞く名前です。中臣の、でしたっけ。頭が良いと、噂になっています」
「中臣鎌足。そうだ、とても頭がきれる」
「兄上より?」
 からかうつもりでそう訊く。
「そう、私より」
 もちろん、と片目をつぶってみせる兄。
「六韜を諳んじている。中国の古い兵法書だ。軍師として有能なのかもしれないが、生まれる時代を間違えたな。蘇我と物部が仏教で揉めていた時にあいつがいたら、物部が勝っていたかもしれない。そうであれば、中臣家が政の隅に追いやられなくて済んだものを」
 くつくつと笑う兄は、鎌足という男を褒めているのか貶しているのか、よく分からない。ただ、他人ではない関係なのは読みとれる。
「物部が勝っていたら、今はどうなっていたのでしょう」
「さあな。それほど変わらないかもしれない。今の蘇我の位置に物部が座っているだけだろう」
 大殿の前に、いつの間にか蘇我入鹿と古人大兄皇子がいた。古人は、入鹿の機嫌をとるように、しきりに笑みを浮かべて話しかけている。
「それでは、私は結局、古人皇子のもとへ嫁ぐことは変わりようのないことなのですね」
 あの人の妻になる。そう思うと、今まで兄と話して浮き立っていた気持ちが途端に沈んだ。人の妃になれば、いろいろと制限がつくだろうし、子も為さなければならない。何より、今のように気軽に兄と連れ立って歩くことも難しくなるかもしれない。実際に妃になったことはないから具体的な変化は知りようもない。それでも、未知の生活に足を踏み入れようとしていることが不安だった。
 兄は何も答えなかった。その代わり、涼しいところへ行こうか、と広場から大殿の裏の木陰に向かっていく。
「ねえ兄上、子どもって、かわいいのですか」
「なに?」
「遠智娘との子どもは、かわいいですか。もう、二歳くらいになるのでしょう」
「ああ、そうだ。それくらいになる。まあ、かわいいよ。初めての子どもだし......それに、もうすぐ、もう一人産まれる」
「......そうなのですか。知りませんでした」
「間人には言っていないから」
 なぜ、言ってくれないの。その疑問は飲み込んだ。
「今度は、男の子だと、いいですね」
「どうした、いつもはしない話をするではないか」
 木の葉が重なる影の下で足を止める。覗き込んでくる兄から、顔を背ける。
「間人」
 不意に冷たい指が、自分の手を包んでいく。白く細いその手でも、女の手をすっぽり隠せるほどには大きい。
 咄嗟に兄の顔を見た。一点の濁りもなく、岩から湧き出る清水のように澄んだ視線が絡み合った。その瞳はあまりにも深く、静謐で、気を抜いたら引き込まれて、溺れてしまいそうだった。
「待っていてくれ」
「え?」
「必ず、古人のもとから連れ出してやる」
 水に沈む音が聞こえた気がした。


 朝からしとしとと降っていたのが、儀式の直前になって雨脚が強くなり始めた。それでもこの百済、新羅、高句麗のそれぞれの使者が一度に集まる大きな行事を中止にするわけにはいかない。倭国の大王としての威厳を最大限に示すことができるようにと、いつも以上に念入りに化粧を施し重々しく着飾った母大王を見送った。こころなしか、頬が上気しているようだった。三韓が各々献上する貢物を楽しみにしているのか、それとも行き遅れの娘がようやく人の妻となるからか。儀式には参加しない私は侍女をつれて部屋に戻り、本降りとなった雨を見つめていた。
 この儀式の後で、母は古人大兄皇子に譲位を言い渡す予定だ。すなわち、私が正式に古人に迎えられる時が刻々と近づいているということ。溜息が出た。
 古人皇子の顔を頭に浮かべる。いちばん、父である前大王に似た顔をしていた。垂れた目尻に小さな口が、いかにも控えめな感じのする顔だった。実際父はその見た目通りの性格で、蘇我の言う事に大して異を唱えず頷くことで、それなりに穏やかな治世を保っていた。傀儡大王といえばその通りかもしれないが、下手な野心を持たなかったことで争いの火種が生まれることもなかった。
 古人も蝦夷や入鹿の言いなりだが、媚びへつらうあの緩んだ笑みが嫌だった。蘇我の後ろ盾がなければ自分だけでは何もできないくせに、変に自尊心が高い。顔を合わせる時に、舐めるような視線でこちらを見てくるのも嫌だった。歳だって、十以上離れている。また、溜息。
「皇女さま、さっきから溜息ばかりですわ」
 くすくすと侍女が笑う。私も無理に笑顔を向ける。
「大きな儀式なのに、こんな天気で嫌になるわね。せっかく母上があんなにおめかししたのに」
 もうこれ以上降らなければ良いですねえ、と侍女は帳の外を見る。さっきよりもさらに、雨の量が増したようだった。
 あの日も雨だった。はじめて、兄を意識した父大王の葬儀の日も朝から煙るような細かな雨が白く降っていた。そうだ、だから兄の面影はいつも、白と水で構成されているのだ。
 兄は言った。必ず連れ出す、と。それがどういった意味なのかはかりかねるが、その言葉に淡い希望を抱いて縋ることが唯一の慰めだった。
 突然、雨が屋根と地面を叩く音と遠くの雷鳴にまぎれて、叫び声が聞こえた。
「何事でしょう」
 傍にいた侍女が、腰を浮かせる。
「大殿のほうからのようです」
 別の侍女が、首を外に向けて言う。
 また、悲鳴。複数の叫び声だった。女の声も、男の声も、入り乱れて雨音と雷鳴と混じり合って響いてくる。それは止むことなく、延々と続く。
 侍女たちと身体を寄せ合う。なにか、普通ではないことが儀式で起こったのだ。普通ではないこと。どんなことだろうか。見当もつかなかった。それだけに、不安は無制限に湧いてくる。母上になにかあったのだろうか。三韓の使者たちがここにきて仲たがいをしたのだろうか。それで、乱闘騒ぎに? 母上は無事なのだろうか。あと、あの儀式に参加しているのは誰だろう。古人大兄皇子と、入鹿臣と......。兄は、参加していないはず。
 ぴたりと悲鳴が止んだ。人の声が聞こえなくなる。雨の音だけが、規則正しく地面を打つ。まだ幼さの残る侍女が、半泣きで私の腕を握っていた。そのかぼそい腕に、私も掴まる。
 鮮明に声が聞こえた。女たちの声だ。その声はさっきよりもこちらに近い位置からする。母の声があった。
 弾かれたように立ち上がり、部屋を飛び出す。回廊を足早に抜けていく。皇女さまぁ、と後ろから侍女が追いかけてくる。
「母上!」
 両脇を采女に支えられながら、母は寝所に入ろうとしていた。俯いていた顔がゆっくりと、私を捉える。
「母上」
 綺麗に結い上げられていた髪から冠が今にも落ちそうになり、厚い化粧をしているはずの顔は青く、生気が抜け落ちていた。唇を震わせ、両目を虚ろに見開き、よろよろと私の腕に縋った。
「母上......?」
「葛城が......」
「兄上?」
 葛城が、ともう一度呟くと、泣き出した。
「母上、兄上が、兄上がどうしたのですか。なにが、なにがあったのですか」
「あぁ、恐ろしい、あの子は恐ろしい子よ、間人」
 こどものようにしゃくり上げて、その後の言葉が続いていかない。母と一緒に大殿から引きあげてきたはずの采女たちも失神しかける寸前のような真っ白の顔で震えているだけで、何も語らない。
 また、大殿の方から声がする。今度は悲鳴ではなく、男たちの怒号だった。その中に、兄の声があった気がした。ここから、聞き分けられるはずもないのに。
「なにが......ねえ、おかあさま、兄上がどうしたっていうの......」
 舎人が一人、駆け込んできた。震える声で、申し上げます、と庭先に膝をつく。
「入鹿臣が、殺害されました」
 首謀者は、と舎人は続けた。
「葛城皇子様でございます」

 母を寝所に押し込み、どうにか自室に戻ってきた。自分よりも錯乱する人物が近くにいれば自然と冷静でいられたが、そこを離れると途端に頭が混乱した。
 その場に居合わせた采女や舎人、それから次々に飛び込んでくる知らせの断片を繋ぎ合わせると、こうだった。
 三韓からの貢物の内容が書かれた上奏文を、母大王の前で蘇我倉山田石川麻呂――蘇我氏の分家の長であり、兄の最初の妃である遠智娘の父親――が読み上げていた。大王の御前で雨よけをかぶるわけにもいかず、外にさらされた石川麻呂を含む群臣は雨の中にいた。はじめは順調に文を読み進めていた石川麻呂の声が、急にどもり、つまり、高くなり、途切れる。そして、つっかえつっかえまた読み始め、また途切れる。誰が見ても異常で、ぶるぶると震えていることも見て取れた。
 ――何を震えているのだ。
 入鹿臣が声を上げる。
 ――大王の御前で、畏れ多く、震えているのです。
 苦しい言い訳だった。あまりに不審だった。入鹿が腰を浮かす。それと同時に、大殿の階の陰から一人、飛び出してくる。入鹿に向かって迷いなく突進し、手に握った太刀を振り降ろす。その一撃は、入鹿の顔を斜めに裂いた。
 その最初の一人につられたように、別の物陰から、列席していた群臣の中から、警護兵の中から、数人が躍り出て入鹿めがけて走る。太刀で斬られ、矛で貫かれ、矢で射られ、前身から血を吹き出した入鹿は階まで這い、壇上の大王に手を伸ばす。
 ――私に、何の罪があるのですか。
 ――朕は知らぬ。
 大王は恐怖に震えながら入鹿に返す。
 襲撃者の中から、最初に斬りかかった人物が階の真下に膝をつき、口を開く。
 ――大王、入鹿は我ら大王家を悉く滅ぼし、自らが帝位につかんとしていたのです。それを、誅殺したまででございます。
 葛城皇子は、雨も雷も弾くような声でそう言った。返り血を浴びた顔を大王に向けて。
 大王は何も言わず、退出した。そして、襲撃者たちはまだ息のあった入鹿に止めを刺す。それを葛城皇子がやったのか、他の刺客がやったのか、話はまちまちだった。
 兄上、どうしてそんなことを!
 確かに、蘇我氏の専横は目に余るものがあった。自らが大王になろうと画策している、と噂されることも少なくなかった。それでも、倭国の政治を支えていることも確かで、そう、殺すことなどなかったのではないか。それも、兄が自ら手を下すことなど、あってはならないことなのではないか。
 手を握ってくれたあの冷たい掌を思い出した。あの清らかな白い手が、血に染まることなんて、あるはずがない。あの手が、人を殺めるようなことをするはずがない。そう信じたかった。
 不意に、侍女の悲鳴が飛び込んできた。おやめください、という甲高い複数の声が雨音の中を木霊した。荒々しい足音が近づき、必死に帳の前で立ちふさがろうとしていた年かさの侍女をほとんど蹴り倒す勢いで、短甲を纏った男が乱入してきた。
「兄上!」
 普段からは考えられないほど粗野な足取りで目の前に屈み、間近に顔を近づけてきた。熱に浮かされたように紅潮した頬。そのなかでとくに血走った眼球。いつもの水のような瞳は、煮え滾り、濁っていた。
「間人」
 間近で吐き出された息でさえも熱く、今まで兄のにおいなど意識したことがなかったのに、不快なにおいが兄から立ち上っていた。雨のにおい、蒸れた汗のにおい、血のにおい。色々なにおいが混じり合って、獣のようにひどく生々しい。
 怖い。
 はじめて、兄に対してそう思った。
「入鹿は死んだ。死んだぞ! おれがこの手で......」
 手を掴まれた。熱く、燃えるような体温だった。雨に打たれて本当に熱でも出ているのかもしれない。頭の隅で冷静にそう思いながらも、いつにない兄の勢いに喉元まで悲鳴がせり上がってくる。できることなら、手を振り払って逃げ出したかった。貴方、誰なの、と叫びたかった。私の兄上じゃない、兄上の皮をかぶった獣なのでしょう。
 ふと掴まれた手に違和感を覚えて目をやると、左手には雑に布が巻かれ、赤黒い染みが瑞々しく浮かび上がっていた。手を強く握られれば握られるほど、じわじわとその染みは広がっていく。
「兄上、血が」
「大丈夫だ、かすり傷にすぎない」
 かすり傷でそれほど血が出るものだろうか。
 白い布を侵食するその赤に、どんどん恐怖心が増していく。兄が、水のような穏やかで冷たい兄が、ものすごい勢いで変質しているように思えた。
「もう、嫁がなくてすむ」
「え?」
「入鹿が死んだからには、蘇我はもう我らの手中だ。蘇我が古人を担ぎ上げることはもうできない」
 赤い眼が激しく瞬きを繰り返す。何か、私にとって恐ろしいことを言おうとしている。そんな気がした。
「だから、お前が古人のところにいかなくともよいのだ」
 嬉しいはずのことだった。それなのに、そう言うことで、兄が後に続けようとする言葉が、怖かった。きっと、兄は言うのだろう。私の――。
「間人のために――」
「やめて!」
 驚いたように兄は顔を引く。思いのほか強い声が出た。
「やめてください、兄上は、一体私に......」
 何を背負わそうとしているの。その言葉は、部屋の外からかかった声に遮られた。
「葛城様」
 低く重みのある声が二人の間に割って入るように降りかかる。怯える侍女たちはまるで盾にするかのように、その男の背に隠れている。鎧も武器も何もつけていない、それでも妙な威圧感を放つ、中臣鎌足だった。
「すでに兵は集まりつつあります。どうぞ、法興寺へ」
 淡々と喋るその様子は、日常の政務についての説明をしているように落ち着いていた。落ち着いてはいたが、有無を言わせぬ重さと、兄をこの場から引き剥がそうとする強制力があった。法興寺へ、と鎌足はもう一度言った。
「わかった」
 兄はするりと手を離し、立ち上がった。熱の余韻はあるものの、その顔にもう獣じみた興奮はなかった。熱病の悪夢から覚めたように、いつもの冷たい貌を頬に貼りつけて踵を返す。
 入ってきた時とは真逆の静かな足音で兄は出ていった。その後に影のように鎌足が付き従う。呆然と、回廊の曲がり角で二人が消えるのを見送った。
 恐る恐る手を見た。兄の手から滲んだ血と汗で汚くべたついていた。ようやく近づいてきた侍女に、手を洗いたいわ、と呟く。はい、と震えた声で彼女はこたえ、足早に部屋を出ていった。
 ――私のために、入鹿を殺したっていうの。
 兄に最後まで言わせなかった、それでもそう続けると確信している言葉を反芻した。吐き気がこみあげてきた。
 ――私が古人大兄皇子と結婚しなくていいように、入鹿を殺したっていうの。
 汚れた手のまま、顔を覆う。
 ――入鹿が死んだ原因は、私にあるというの。
 獣のにおい。兄の血と汗が頬にへばりついていく。
 私のために、人を殺したのね。
 ああ、と嗚咽が漏れ、涙が溢れた。兄の行動が怖かった。自分に背負わされるはずの数々の業が怖かった。それでも、そこまで兄が自分をひとに渡そうとしないその気持ちに愉悦を感じていることも事実で、そんな自分が一番怖かった。そこまで私に対する想いが兄を突き動かすのだと、恐怖の涙に一滴の快感が混じる。
 雨音に紛れて雄たけびが聞こえてきた。見なくとも、どれほどの軍勢が兄のもとに集まりつつあるのか分かった。いくらあの蘇我でも諸豪族に見放されたら、勝ち目はない。
「皇女さま」
 侍女があわあわと駆け寄る気配がし、肩にぬくもりを感じた。その胸に頭を預けて、思い切り泣いた。恐怖と歓びに震えながら、どんどん増していく兵の雄たけびと呼応するように、泣いた。


 入鹿を殺した直後から葛城皇子側は蘇我氏の氏寺である法興寺を占拠し、軍勢を集めた。東漢氏以外の豪族が葛城皇子側に付き、戦になったとしても勝敗は誰の目にも明らかだった。
 その状況は翌日になっても変わらず、葛城皇子有利のまま、蘇我本宗家は滅亡した。甘樫丘に建つ邸宅とともに、入鹿の父である蝦夷をはじめとした本宗家の人々は燃えてしまった。女も子どもも、みんな、運命をともにした。空も焦がすようなその炎を宮から見上げ、それまで心にも留めていなかった仏に初めて祈った。兄たちに殺された人々が、彼岸で安らぎを得ることができますように。失われた数々の命に、私にも責任の一端があるのかと思うと胸が重くなった。
 でも気持ちを沈めて寝込んでいる暇などなかった。慌ただしく政が動く。母は退位、かわりに母の実の弟で軽王――私にとっては叔父――が大王位につく。兄がそのまま位につかないのは、単に弱冠二十歳という年齢のせいだとも、このまま位について批判を受けることを避けるためだとも、実はこの乱の首謀者は叔父で、この状況こそが叔父の望んだとおりのものだったのだとか、色々噂されたが、どれが真相かは分からない。いずれにせよ、一新された役職のもとで、策略の大筋から細部まで練り上げたという中臣鎌足は内臣という高位につき、兄も皇太子(ひつぎのみこ)になることとなった。これまで日の目に触れなかった若い皇子が、政の表舞台にのし上がってきた。その強引な手段は、群臣を感心させもしたし、恐れ上がらせもした。これからどう状況が動くのだろう。口々に不安を語り合う声はそこかしこから聞こえてきた。
 そして私は一人、その政治の渦からは取り残されていた。兄の目論んだ通り、古人皇子との婚姻は立ち消えた。一度は母の譲位の話は古人皇子へもいったようだったが、とんでもない、と彼は断り、大王位への意欲は全くない、と髪を剃って皆の前で出家のまねごとまで演じて見せたという。そして、吉野の地への妻子とともに逃げるように去って行った。もちろん、その妻子には私は含まれていない。
 私は結局行き遅れのまま、政治からも切り離され、慌てふためく宮中を傍観していた。
 魂が抜けたようにぼんやりしていると、侍女が部屋に入って来た。
「中臣鎌足様がいらっしゃっています」
 侍女はそう告げる。
「中臣鎌足? 私に?」
「はい、皇女さまに、お話ししたいことがあると......」
 なんだろう、と思いつつ、お通しして、と返す。
 やってきた鎌足は、兄を法興寺へ連れ出した時と同様に淡々と、要件を告げた。
「間人皇女様には、軽王様の后になっていただきたく、お願いを申し上げに参りました」
「なんですって」
「軽王の后に、なっていただきたいのです」
 愕然として鎌足を見た。なんの感情も伝わらないその顔に、苛立ちが募る。
「叔父上は三十以上も年上よ」
「はい。しかし、軽王様が大王となる際に、現状の妃から大后となることができる身分の女人がいらっしゃらないのです」
「なぜ私なの」
「他に大王家に適齢で夫のいない御方が、貴女様しかいらっしゃらないからです」
 古人大兄との婚姻が消えたと思ったのに。婚姻を消すために、兄はことを起こしたのに。
「そんなこと、兄上が許さないわ」
「いいえ」
 きっぱりと、鎌足は首を横に振った。
「葛城様も、ご承知のことです」
 嘘。
「嘘よ」
「本当です。......私でご納得いただけない場合は皇子が直接皇女様に話をすると、おっしゃっていました」
 うそ、ともう一度呟いた。そんなこと、信じられない。だって、あんなに、獣みたいになってまで、古人のところへ行かなくてもいいと、言っていたのに。その兄が、簡単に、別の男との婚姻は許すはずがない。
 何も言えずにいると、鎌足は再び口を開く。
「分かっていたはずです。大王が古人皇子に譲位なさらないということは、軽王が大王になるということ。貴女はどちらが大王になるにせよ、后になることは確定していたのですよ」
 そこまで言って、鎌足は苦笑した。まるで、駄々をこねる子どもに対してするような、やれやれ、とでも言いたげな顔だった。頭に血が上る。
「あなた、兄上にもそんな顔をするの」
「は」
「そんな、私を馬鹿にしたみたいな顔を、兄上にも向けるのですか」
 鎌足は口元に手をやって、咳払いをした。その反応に、さらに腹が立つ。
「あなた、本当は兄上に忠誠心なんてないのでしょう?蘇我と同じ、とりあえず表に立たせておくための都合のいい道具だと思っているのではないですか? 私たち大王家は、あなたたち豪族の駒ではないのよ!」
 怒鳴ると、今度は鎌足が声を荒らげる。
「それは私にも、皇子に対しても侮辱です」
 居住まいをただし、私の目を見た。
「あの方は、私にとってただ一人の聡明な御方です。この身は、一生あの方に捧げると誓っているのです」
 目に光が宿り、鷹のように鋭くなる。
「だからこそ、あの方の進む道には一つの障害でもあってはならないのです」
「......何が言いたいのか分からないわ」
「貴女がその障害たり得ると言っているのです」
 向けられる視線に刺し貫かれるように、私の身体は硬くなった。
「今はまだいい、だがその内、貴女とのことが問題になりましょう。すでに噂は立っているのです。事実かどうか私には分かりませぬ。しかし事実がどうであれ、人は勝手に噂を事実と思い込み、それを糾弾の種とするのです。あの方が、そのような事で後ろ指をさされることがあっていいはずがないのです」
 一呼吸おいて、一段と重々しく、しかし鋭く、鎌足は言った。
「同父母の兄妹が通じることは、禁忌です」
 言ってから、鎌足はきまり悪そうに口を噤んだ。
「言葉が過ぎました、お許しください」
 深く叩頭してから、その姿勢のまま膝でじりじりと下がっていく。
「私では、冷静に話すことができないようです。申し訳ありません。出直してまいります」
「いくわ」
 鎌足は顔を上げた。
「いくわ、叔父上のところへ」
 いまいち理解できていないように、鎌足は怪訝な表情をする。
「大后になるわ」
 天井を見上げた。そうしないと、瞼から溢れる涙とともに、たった今した決心も流れ出してしまいそうだったから。



 眼下に跪く者を見渡した。よく知る者、名を知らぬ者、顔さえも分からぬ者。これまで自分を取り巻いたことのない多くの人々が、頭を垂れていた。
 隣に、満足そうにたるんだ頬をさらに下がらせた大王がいる。どうやって、この三十も離れた叔父を愛することができるだろうか。いや、きっと愛することはないだろう。最前列にいる兄の顔を見た。
 深々と叩頭する人々の中でただ一人、顔を浅く俯かせていただけの兄と目が合う。静かな瞳だった。あの日、燃えるように猛っていたあの獣の眼はどこにもなかった。
 夏の盛りの強い日差しが兄の白い顔をいっそう白く、冷たく見せていた。群臣の額から汗が流れ、隣の大王からも酸っぱく生ぐさい臭いがする。それなのに、兄は一人涼しげに、私を見上げていた。
 禁忌です、と憑かれたようにまくし立てた鎌足を思い出す。あの雨の日に私の手を握った兄の熱の貌と、少し似ていた。あの時兄はきっと、この世の何よりも私のことを想っていた。私を説得にきた鎌足は、誰よりも兄のことを考えていた。そして私は殯の時からずっと、兄のことだけを好きだ。
 夏の日差しが痛い。無理に結われた髪のせいでこめかみが引き攣る。金属製の冠のせいで首が痛い。濃い化粧が肌を圧迫する。重ねられた衣が窮屈だ。こんなに、こんなに不自由なのだ。私を飾る全てが、重い枷になっている。私は自力では、ここから逃げ出せない。
 兄の行く道を閉ざしてしまわないように、ここに立つ決心をしたはずなのに、もう後悔している。なんて弱いの、と自嘲の笑みが漏れる。
 兄はこれから、この国の変革に全てを捧げることを決心した。入鹿との戦いで怪我をした左の名無し指を自ら切り落とすことで、けじめと覚悟を示したのだと鎌足から立后の式の直前に聞かされた。そのけじめとは、きっと私とのことなのだろう。切り落とされた名無し指は、私なのだ。だから、貴女も忘れなさい、と鎌足は言外にそう諭していた。
 私は、でもいつか、兄がこの枷を解いてくれることを願っている。冷たい、名無し指の欠けた手で、私をここから救い出してくれることを夢に見る。この夢の他に、私を慰めるものは何もない。
 夢みることは構わないでしょう。だって、私はあんたの駒じゃないもの、鎌足。心の奥くらい、好きにさせてちょうだい。ねえ、兄上。
 兄の水に似た瞳を見る。兄も私を見つめ、視線が絡み合う。
 私はずっと、待っているから。
 そう、ごく小さく呟いた。大王がこちらを見た。それでも私は兄から目を逸らさなかった。
 聞こえているはずがないのに、兄は頷いたように見えた。気のせいかもしれない。顔を下げて叩頭した瞬間を、私が勝手に勘違いしたのかもしれない。でも、隣にいた鎌足が兄の袖を引いたことを見逃さなかった。戒めるような、警告するようなその引き方が、私を確信させた。
 兄上は必ず、ここから連れ出してくれると。







参考
 宇治谷孟『日本書紀(下)全現代語訳』一九八八年、講談社


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