怪異探偵小祝茜の事件簿(上)

あいかわあいか



【〇】
 わたしは白い森を歩いていた。
 この森の名前を知らなかったので、森を「白い森」と名付けた。
 
 白い森には白くて細い木がたくさん生えていた。枝も葉っぱも真っ白だった。わたしは木の名前を知らなかった。けれど木はシラカバよりも白かったので、この木を「シロカバ」と名付けた。

 わたしは白い森を歩いていた。
 ふとわたしは、わたしが、わたしの名前を忘れてしまわないか不安になった。そこでメモ紙に鉛筆で「小祝茜」と書き留めて、スカートのポケットにしまい込んだ。これでわたしはわたしのことを忘れないだろう。

 わたしは黒の小径を歩いていた。
 この径は黒かったので「黒の小径」と名付けた。
 履き古した茶色の革靴が黒の地面を踏むたびに、ジャクジャクとガラスを踏んだような足音が響いた。かなり長い時間歩いたはずなのになぜか疲れを感じなかった。
 シロカバは黒い小径を怖がっているようだった。シロカバの細い腕は、黒い小径を歩くわたしには届かなかった。この径はとても進みやすい。ジャクジャクと黒の地面を踏み鳴らしながら、わたしは森の奥へと進んでいった。

 気がつくと、わたしは白の森の奥にあるカフェにたどり着いていた。黒い広場に聳え立つそれは、古い教会のような見た目をしていた。掲げられた木の看板には
【カフェー ピーター・コフィン】
の文字が掘られていた。わたしは顔をしかめた。棺桶(コフィン)なんて不吉な名前をよくつける。こんな怪しい店はやめておいた方がいいかもしれない。
 わたしはカフェを素通りして、また黒の小径を歩こうとした。しかしそのとき、わたしはどこか嫌な予感を感じて歩を止めた。......もしかすると、カフェに入らなかったことで、わたしは何かひどい目に合うかもしれない。何故かはわからないけれど、そのような予感がしたのだった。よく考えてみると黒の小径を歩くのにもそろそろ疲れてきたような気がした。たとえ怪しいカフェでも入って休憩しておくことには利益がある。わたしはそう判断して、黒い地面でジャクジャクと足音を鳴らしながら、カフェの扉の前へと戻っていった。この足音のせいで「入るべきか、入らざるべきか」を悩んでいることを店の人に知られたらいやだな。なんてことを考えていた。
 わたしはやや逡巡し、やがてぐっと息を吸うと、古びた木の扉をギィイと押し開けた。わずかな隙間から、少し埃っぽいにおい、古びた本のにおい、雨の後の湿った木のにおい、......どこか懐かしい空気がどっと噴き出した。少しむせそうになりながら、思い切って店の中へ身体を滑り込ませた。

 カフェの店内はとても小ぢんまりとしていた。端的に言えばものすごく狭かった。もっといえば、そこはカフェですらなかった。六畳縦長の部屋をバーカウンターで半分に区切り、丸椅子がカウンタ席の前にずらり一列に並んでいた。外見はあんなにも古びた教会然とした荘厳な造りをしているくせに、内装は俗っぽいし安っぽい。薄暗の照明と相まって、下町にある老舗のバーといわれたほうがよっぽど納得するつくりだった。
 店内に人影は二つあった。一人は齢一八程度の少女。和服を纏った彼女は、ふぁさりと黒の長髪を揺らしながら、鼻歌まじり、手に持った竹箒でシャッシャとカウンタ席の間を掃除していた。この人はきっとやさしい人だ。
 もう一人は不愛想を擬人化したような男だった。齢にして四十半ばといったところ。喪服のような黒いスーツを身に着けて、黙々と白布でグラスを拭いている。男はちらりとわたしの方を一瞥すると、興味なさげに目線をグラスへと戻した。なるほど、この人はきっとやさしくない人だ。
「えっと......」
 わたしはどうすればいいのかわからずにおずおずとしていた。すると着物の彼女がわたしの姿に気づいたらしい。「あら」とほほえみ、手に持っていた竹箒をぽいと放りやると、カランコロンと下駄の音を鳴らしながら、ゆっくりと距離を詰めた。そしてわたしの手を取ると、いかにも嬉しそうに口を切った。

「ようこそ、『カフェー』へ    小祝茜さん! あなたのことをずっと待っておりました!」
【一】
     気がつくと、おれは少女の身体に馬乗りになって頸を締めていた。

「いやアホだろう」
 おれはぼやきながら、神戸の幹線道路沿いの歩道を歩いていた。時刻は午前二時三〇分、草木も眠る丑三つ時。飲み屋以外の店は殆どしまっているし、車もぜんぜん走っていない。どうやら人間という種族はこの時間を眠って過ごしているようだった。
 ......高校が終わった後、悪友たちとカラオケに繰り出したのが最初の間違いだった。きょうは金曜の晩で明日が休みなので、おれたちは悪ノリのままに徹夜でカラオケに勤しもうということになった。しかし今日は店の改修工事の日だったらしく、注意をきちんと聞いていなかったおれたちは、午前二時に臨時休業ということで店から放り出され、寒空の下をさまようことになった。もちろんカラオケはお開きになった。
 三宮駅の終電は〇時三分なのでとっくに過ぎている。ホテルを借りるのは勿体ないし、駅で始発まで時間を潰すのも癪に思えた。結果、おれは三宮駅から須磨駅までの片道約十キロを歩いて帰ることになったのだった。
「アホだな」
 全く以て阿房の極みである。自業自得だ。しかしおれはこの何ら得にならないことをしているという事実が。またこの夜の静謐な空気が決して嫌いではなかった。
 
 ふと、おれは聞き馴れない音に歩を止めた。シャーとアスファルトの地面をゴムタイヤが走る音が後ろの方から聞こえた。次の瞬間、軽やかなエンジン音とともに黒のセダンが幹線道路を猛スピードで走り抜けていった。  あまり自動車に詳しくないが、ドイツ製の値の張る車だろう。
 しかし運転はとても高級車を走らせているとは思えない酔っぱらいのそれだった。左車線と追い越し車線の間を行ったり来たりを繰り返してめちゃくちゃに蛇行している。そればかりか、車は時折センターラインを割りながらシャー、ガーと怪しげなロードノイズを響かせて夜の道を走っていった。おれは「あいつ絶対飲んでるよ」と思いつつ、事故に巻き込まれなかったことに感謝して、またゆっくりと歩き始めた。
 
 さて、それからさらに十分程度経っただろうか。営業時間外の長田駅を傍目にしばらく歩いたところ、おれはどこからか、カン、カンと金属を打つような鋭い音が遠くから聞こえたような気がした。
 気のせいだと思いそのまま歩を進めるが、確かに一定のリズムで金音はなり続けている。イヤホンの故障を疑い耳から外してみても、やはり音は聞こえている。
 おれはふと周りに目をやった。おれの歩いている幹線道路から細い裏路地が伸びており、その先に小さな公園のような開けた場所があるようだった。なるほど、音はその公園の方から聞こえてくる。カンカン  カンカン  カンカンと。
 もちろん第一に思い浮かんだのは、何も聞かなかったことにしてそのまま帰宅するという選択肢だった。仮に音の正体が人間によるものだったとして、夜中の二時半すぎにカンカンと音を鳴らし続ける人間がまともなはずはない。音の主が人間でないなら猶更だ。すると三十六計逃げるに如かず、狂人は相手にしないのが吉である。
 しかしおれは気がつくと、薄暗い路地裏を一歩、また一歩と進み始めていた。おれの理性は「やめておけ。無益だ」と忠告する。しかしおれの好奇心が「なあに、さっと確認して逃げればいい」と背中を押していた。軽率が売りの高校二年生の精神構造はオートマチック自動車と同じである。アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏み込めば、つい右足に力がこもり、アクセルが勝ってしまうのだ。 

 ザッ、ザッ。コンクリートで雑に舗装された路地裏を一歩、また一歩と進んでいく。あと数歩で狭い路地を抜ける  その瞬間だった。
 路地裏に置かれていたエアコンの室外機の影から、にゅっと白い腕が伸びたのが視界の片隅に映った。そして次の瞬間、おれは強い力で路地裏の地面に背中から引きずり込まれていた。白くて冷たい腕が顔を覆い、口を覆った。
 おれは必死になって腕の方を振り返ると、ぼんやりとした白い影のようなものが見えた。幽霊がおれのことを誘い殺しに来たのだと思った。
 おれは恐怖の中で「なんだお前、なんだお前......!」と、白い影のようなものを力づくでアスファルト敷きの地面に押し付け、そのまま馬乗りになってぐっと絞め上げた。
「......ぐぅ......まっ............て」
 聞こえたのは、想像とはまったく異なる、弱々しく、儚い声だった。おれははっと正気に還った。瞳もだんだんと路地裏の暗がりに暗順応して、周囲のようすが見えるようになってきた。
 おれは白いワンピースを纏った一一歳くらいの見た目の少女に馬乗りになって、彼女の頸を締め上げていた。  彼女は焦ったように額に汗を滲ませながら、しかしおれに敵意がないとアピールするように、にへらと作り笑いを浮かべていた。「かひゅー、かひゅー」と気道が狭められた荒い呼吸音が、彼女が確かに生者であることを知らせていた。
 おれは慌てて頸を締める手を解いた。彼女は安堵の表情を浮かべると、小さく息を吸い、そのまま人差し指勢いよく口に当て「黙って」とおれにジェスチャーした。おれは慌てて少女の身体から離れ、こくりと頷いた。
 少女は身を起こし、服の汚れを軽くはたいた。そしておれの耳元に小さな口を寄せると。抑えられた声で
「神社、神木、女、丑の刻参り、腰に鉈。隠れて」
と端的に伝えた。

 カンカン    カンカン    カン!
 おれは慌てて室外機の影に隠れた。路地裏の先は公園ではなく神社だったらしい。恐る恐る覗いてみると、ほんの十数メートル先に、白の装束に身を纏った若い女が、修羅のごとき表情を浮かべ金槌で人形に釘を打ち込んでいた。積年の恨みをぶつける様に、激しく執拗に。
 さらによく見ると女の腰には大ぶりの鉈がぎらりと銀色に輝いていた。おれはそれを見た瞬間にぞっと恐怖が現実感を帯び総毛立った。  もし少女がおれのことを止めずに、白装束の女と鉢合わせしていたら、女は鉈でおれのことをきっと殺していただろう。
 
 やがて白装束の女は神社の境内から静かに抜けていった。頬は酷く痩せこけ、目元は陥没し、まるで骸骨のような見た目をしていた。女は周囲を警戒するようにぎょろぎょろと見渡しながら、神社の入り口付近に停めてあった自動車に乗り込んだ。先の黒いドイツ車であった。しかしおれにはそんなことに気をやる余裕はなく、頼むから早く行ってくれと祈るばかりであった。ヴォン! とエンジンの音が響き、車は神社のそばを離れていった。
 時間にしておよそ数分の出来事だった。しかしおれにとっては何十分も続いたように感じられた。ばくばくと痛いぐらいに鼓動する心臓を抑えながら、傍らの少女に声をかけた。
「あいつは、行った......のか?」
 彼女は初めて莞爾と安堵の笑みを浮かべると、「うん」と頷いた。おれはその表情を見てきっと胸が痛くなった。おれは命の恩人であるこの少女のことを絞め殺そうとしたのだった。
「............命の恩人の君を殺そうとした。......本当に申し訳ない」
 彼女はおれの言葉に目を丸くすると、「はは、そんなこと。ぜんぜん構わないよ。むしろキミが無事でよかったさ」と軽く言ってのけた。そして自嘲気に「  もう慣れたことだからね」と付け加えた。
 おれはこの幼い少女にかけるべき言葉が何であるのかわからなかった 。
 狭い路地裏、カタカタと回る室外機の前。下弦の月の光を背後に長髪と白のワンピースを靡かせながら、彼女は腰を抜かしていたおれに手を差し伸ばした。佳(うつく)しい人だ。おれははるか年下の少女の姿を見てそう思った。彼女は小さな口をゆっくりと開けて言った。

「初めましてお兄さん。
 ボクは小祝茜、    怪異を専門とする探偵だよ」
【二】
 小祝は二四時間営業のファミレスの座席に着くと、満更でもなさそうな表情でこちらの様子を伺った。おれが「命の恩人だ。好きなだけ頼め」と言うと、彼女は「そうこなくては」と呼び鈴をノータイムで押し、「フィレンツェ風ドリア一つ。コーンのピザを一つ。ドリンクバー二つ。アラビアータ一つ。海鮮サラダ一つ。以上で」と諳んじた。流石は探偵だと思った。
 
 テーブルに広げられた食事の群れを眺めて、探偵少女はご満悦の笑みを浮かべると、こちらを向いて皮肉気に「お疲れさまだね」と呟いた。そして飄々とした態度でコーンのピザを四つに切り分けながら、言葉を続けた。
「尋ねたいことは山ほどあるだろう。まあボクが答えることができる範囲でなら答えてやるよ。まず......今日見たあれは単なる丑の刻参りだ。車のナンバーは控えたし動画も撮ってある。住居侵入として警察と神主さんに通報しておけばもうそれで解決だよ。神社の神主も警備を厳しくしたりするだろう。そうすれば、呪いは不成立だ。ボクたちの出る幕はもうないね......ん、ぴざうま」
 彼女は指の先に絡まったチーズをくるくると解きながら、いかにもおいしそうにコーンピザを口へ運んだ。おれは成程と頷いた。
「呪いが成立していたら?」
「誰かが死ぬ」
「うわおっかねぇ。日本にそんな恐ろしいことをする奴がいるなんて想像もつかないな。俺は今まで平和な世界で生きてたんだな」
「そうだぞー。そのような倫理的潔癖症は生きるのがしんどくなるからさっさと克服するといい。さ、キミもピザ食うかい?」
「うん」
  おれは小祝に勧められて数年ぶりにコーンのピザを食べた。小祝は一枚を四分の一サイズに切って食べるので、割と豪快に食べることができた。なるほど、子供向けだとばかにできない味だった。うまい。彼女はドリアをスプーンで口に運びながら、得意気な様子だった。
「なあ小祝さん」
「何だい? 奢ってくれた恩もある。ボクに聞きたいことがあるなら何でも訊いてくれよ」
「どうして小祝は小学生で怪異探偵なんて仕事をしているんだ?」
 その刹那、空気が凍結した。地雷を踏みぬいたことを確信するくらい露骨に小祝の表情が強張った。声色がめちゃくちゃ冷たくなり「は?」と不機嫌を見せた。
「ごめん」
「わたし中学生なんですけど。二年生なんですけど?」
「ごめんて」
「そんな子供に見えますかね?」
「ごめんなさい」
 小祝はいかにも面白くなさそうな表情を浮かべ、それから、ゆっくりと二度瞬きした。まるで負の感情を瞼の裏側へと抑圧しているようにも見えた。小祝はもう一度、こちらを向くと、元通りの笑顔で話し始める。
「ふふん、もちろん冗談だとも。まさか、ボクがその程度のくだらないことで腹を立てるはずないって。とはいえあまり触れてほしくない分野ではあるね。キミだってそれくらいの配慮はできるだろう?」
 おれは結局小祝の言動のどこからどこまでが本気なのかは、まるでわからなかった。しかし彼女は気にする様子もなく、小学生だと間違われた怒りもすぐどこかへ行ったようで、そのまま言葉を続けた。
「ああそうだ、キミはボクが怪異探偵なんて変な仕事を始めた理由を知りたいんだったよね?」
「ああ」
「ボクがこの仕事    探偵をしているのは、呪いによって死にゆく人を少しでも救うためだよ」
 ドリンクバーで汲んできた炭酸水をごくりと飲み込んで「本当にそれだけだ」と、小さく付け加えて儚く笑って見せた。
「......なあそれはつまり、何か霊や呪いによってたくさんの人が死んでいるということか」
「そうだよ。たくさん死んでいる。君たちは気づいていないだろうけれどね」
「お前は気づけるのか?」
 おれの問いに、小祝は「生憎」と苦笑して見せた。
「人は呪いに気づけない。しかしボクは気づくことができる。少なくともこの鼻でにおいを感じてとることくらいはできる。ボクは能力のある者が与えられた能力を行使することは倫理的な義務であると思う。だからボクは探偵だ。誰にも認められなくても探偵であり続けなければならない。ボクは探知(detection)の能力を与えられた。だからボクは探偵(detective)としてまたは探知機(detector)として生きることを義務付けられている」
「......なあ、小祝?」
「嘘だと思うかい? それとも軽蔑したかい? いいよ。ボクだってわかってもらえるとは微塵も思っていない。いやもしかすると本当は呪いなんてものは存在しないのかもしれないね。これはすべて精神病理の見せる幻覚や思い込みなのかもしれない。それならそれでいい。ボクの行為が全て無価値であったとしても、呪いによって死ぬ人はいないのだから。ただボクはそれだとしても............ぅ」
「落ち着けよ小祝。お前の言うことはもちろん全部信じる。けれどさお前いま過呼吸になってるぜ。それに汗すごいぞ。  実はめちゃくちゃ体調悪いんじゃないか?」
「......大丈夫。少し頭痛がするだけさ」
「違うだろ絶対」
「違わない。はは、カフェインが切れたかな」
 そう言うと、小祝はドリンクバーで汲んできたアメリカンコーヒーをゆっくりと口に運ぼうとした。しかしおれは彼女の指先が小さく震えていることを見逃さなかった。コーヒーをごくりと嚥下する。その瞬間、小祝の背がびくりと跳ねた。「あ」と小さな声を上げて、中身の入ったコーヒーカップが指から零れ落ちた。コーヒーが机の上に広がろうとするのを見て、おれはすかさず布巾を押し当てた。
 小祝は「ごめ......」とおびえた声で謝罪するが、右手の指先はコーヒーカップを持っていた状態のまま固まってぴくぴくと震えていた。
「本当に大丈夫か? ぜったい熱あるだろ」
 おれは小祝の額に手をあてて彼女の体温を測ろうと、指先を伸ばした。それを見て彼女は「やめ、待って」焦ったような、悲鳴のような声をあげた。
 次の瞬間、おれの指は彼女の額に触れた。彼女の皮膚は燃える様に熱くなっていた。そして、なぜかおれの指先からだらりと血が流れていた。慌てて彼女の額から指を離す。おれの人差し指と中指の皮がぱっくりと裂けてそこから血が流れ出していた。

「お前、その首の痣。どうしたんだ......?」
 おれは尋ねた。小祝の頸部には、先までは存在しなかった、ロープで絞めたような内出血の跡がくっきりと残されていた。


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