ぜっぴん あみの酸 梅雨なのに珍しく晴れた夜。夕飯時からビールやら酎ハイやらを飲んですっかり出来上がった恋人が、体重を預けていたソファの背もたれから上半身を起こしてパンと手を鳴らした。 「ねえ、月! ニュースで言ってたやつ見よ!」 「ああ、ストロベリームーンだっけ」 「そうそれ! 見よ!」 上機嫌な彼女は足をパタパタと動かしながら俺に提案をした。 六月の満月はストロベリームーンと呼ばれるらしい。夕方のニュースで今日がちょうどその日に当たるのだとアナウンサーが最後の挨拶のおまけに教えてくれた。彼女はそれを唐突に思い出したようだ。普段は澄ました顔で世の情勢をチェックしているが、案外無邪気に期間限定のものに気分で飛びつく節がある。 「お前立てんの? 結構酔っ払ってるけど」 「へーき。飲めないアンタにはわかんないだろうけど」 「飲めないってアルコールじゃなくて炭酸と辛いのがダメなだけだって言ってんじゃん。体質的にはお前より強いし」 「でも常飲してるから私のが飲めるもん」 そんな自慢にならないことで偉そうにする彼女に呆れて溜息を吐いた。この人は特別強くはないからすぐ酔うくせに、弱くもないから調子に乗ってしょっちゅう飲んではヘラヘラするのだ。いつも仕事も家事もしっかりこなして頼りがいのある恋人だが、こうなってしまえば使い物にならない。 「月見るなら缶置きなさい」 「はーい」 元気いっぱいの返事の後に「よっこいしょ」と続けながら立ち上がった彼女と窓際に並ぶ。隣が態度の割にしゃんと動いているのを確認すると、カーテンを開けて月を探した。しかし天高くに浮かぶ月は、窓の内側からではひさしに隠れて見えなかった。 「方角はこっちで合ってるよなあ」 横で見えないだなんだと文句を言う声を聞き流しながら、俺は窓と網戸を開けてベランダに出た。昼まで降っていた雨がまだ乾いていないようで、健康サンダルが歩く度にペタペタと音を立てる。ベランダの柵に近づき覗き込むように見上げると、いつもと代わり映えしない黄色い満月が佇んでいた。 「あ、月見えた」 「マジ? 私も見たい」 ぱっと目を輝かせた彼女が裸足のままベランダを出ようとする。 「あっ床濡れてるから待って。サンダル履きな」 俺がそう言ってサンダルを脱ごうとすると、彼女はそれを制止した。 「やだ、一緒に見る」 「正直ただの満月だよ?」 「だめ。テレビで好きな人と見ると長続きするって言ってたもん」 酔っ払いとは思えないキッパリとした口調で彼女は大変可愛らしいことを言ってのけた。自分はジンクスに興味などないが、そんなものに健気に従おうとする恋人のことは大事だ。 「じゃあ、ほら」 俺はサンダルを履き直し、彼女に背を向けてしゃがんだ。 「やったね」 どこに酒が入っているのかと思う体重を背負い、改めてベランダから月を見上げた。矢張り満月は薄い黄色をした何も特別でない丸だった。 「見える?」 「全然ピンクじゃない」 「な、普通の満月だって」 「ちょっとぐらいピンク色してて欲しかったな」 意気消沈した息が耳に掛かった。彼女はストロベリームーンの名前通り赤みがかった月を期待していたらしい。しかし後で調べると、北米で苺の収穫期である六月の満月をそう呼ぶ習慣があるとネット記事に書いてあった。 「もう中戻る?」 「あのさあ、」 月に期待を裏切られてつまらなそうにする背中に声をかけると、質問の答えにならない言葉が返ってきた。 「あのね、私、ピンクになりたいんだよね。ショッキングピンク」 「酔ってんの?」 「茶化すな」 「ごめん」 「私が全然ピンクって感じじゃないの自分でわかってんだけどね。服とかメイクとかにも使わないし。強いて言えばまだ赤の方が身につけること多いし」 「そうだな」 「でもね、ショッキングピンクになりたいの。とびきり鮮やかで綺麗で可愛くて、でも目がチカチカするとこが媚びてなくて逞しい。そういうのいいなーとか」 彼女は訥々と語った。俺の胸の前に回された手が落ち着かないから、きっと気恥ずかしいのだろう。 俺の首筋に顔を埋めて完全に月など見ていない彼女がそんな願望を秘めていたとは知らなかった。しかし彼女の語るショッキングピンクは、俺から見た彼女そのものだ。 常に背筋を伸ばしてテキパキと動き、周りの人からもよく頼られるから気丈に振る舞っている。自分の意見を率直に伝えて嫌われ役になることも厭わない性格だ。でも酔いや眠気に襲われると一転、甘い発音で適当を言っては俺を構わせようとしてくる。そんな眩しい恋人は、その色を布や粉で装わなくたって間違いなくショッキングピンクなのだ。 しかし本人にそう伝えたところで、彼女は俺の言葉ぐらいでは納得してくれない。彼女が「なりたい」と言っているなら本人の中ではまだ何かが足りないのだろう。そういう理想を追い求める時は一際自分に厳しい人だ。だから自分自身で認められないうちは彼女の望みは叶わない。 上手く届かないことが目に見えているのに、わざわざ照れ臭い台詞を口にするのはごめんだ。だから代わりに告げる。 「じゃあ俺もショッキングピンクになろうかな」 「酔ってんの?」 「茶化すなよ」 「ごめん」 「俺の方こそガラじゃないけど、お前とお揃いならそれが一番なんかなって」 我ながら厳しい目標だ。恋人の理想すら叶うかわからないのに、俺までその理想に染まろうだなんて。下手すればこのままベランダの柵を乗り越えて物理的に真っ赤になるより余程難しい。 それでもまあいいだろう。これは実現することではなく彼女に意思表明することが大事なのだから。これからも一緒にいましょうという意思表明。彼女が彼女にとってのショッキングピンクになれなくて嫌気が差した日のお守りになれば充分だ。 「ふふ、ありがと」 「ううん」 「ちょっとなれそうな気がしてきた」 「それはよかった」 「うん」 彼女のクスクスと笑う息が項に掛かる。それがくすぐったくて、俺は温かい体を背負い直した。 「中戻ろっか」 「うん」 最後にもう一度、二人で満月を見上げた。柔らかな黄色い光を放つストロベリームーンに溜息を吐くことはもうない。だいたい月がピンクに見えたとて、俺らの目指すピンクはそんなものではない。もっと目がチカチカするような眩しい色だ。 俺たちは満月に別れを告げると、開け放っていた窓から部屋に入った。 「あ、蛾入ってる」 「うわマジか」 「頑張れ」 「お前なあ」 「ふふ」
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