白い女

葦夜るま



 私の故郷は年中酷く蒸し暑いところだった。
冬ですら平均気温は十八度を切らず、晴れの日は汗をかく。夏には学校の帰り道に、よく道路の向こうに見える逃げ水を追いかけて走ったものだ。

 近くの家に、一風変わった男性が住んでいた。
 まだ初老のその人は独り暮らしで、外と庭を隔離するために高い塀が建っていた。彼は穏やかな性格だったが進んでひとと関わろうとしなかった。表札は出ていたが、彼のものか彼の前の住人のものかも分からないほどに古びていたせいか、誰もその名前で呼ぶものはいなかった。ただ塀の隙間から胡蝶蘭の蔦が這って漏れ出ているので、近所の者は彼をコチョウさんと呼んでいた。
 私はコチョウさんと一度だけ話をしたことがある。丁度暑い夏の日に、帽子を忘れてしまった私は帰り道に酷く気分を悪くしたのだ。コチョウさんの家の前でふらふらと歩いていたのをたまたま見た老人は、心配をしたのだろう、少し休んでいくようにと私をその高い塀の中に引き入れた。
 
 コチョウさんの家はこぢんまりとしていて、庭と家とが同じくらいの広さなのではないかと言うほどだった。そして私が驚いたのは、庭にこれでもかと咲き誇る胡蝶蘭だった。まっしろなそれらは、庭の木々に巻きつき、まるでこの庭の主であるかのようだった。
 庭の中央には小さな東屋があり、揺り籠のようにひとつ、安楽椅子が置かれていた。
――ここは涼しいでしょう。
 そう言って老人は私をそこに座らせ、自身は近くの丁度良い高さに張った木の枝に腰を下ろした。
――胡蝶蘭を育てているんですか?
 そう聞くと、コチョウさんは少し困ってしまったようだった。やがて彼は口を開いた。
――これは、妻のようなものなんですよ。
――奥さんですか?
 今なら比喩だと思ったかもしれないが、花が妻という言葉は、中学生の自分には理解できなかった。首を傾げて意味を尋ねる自分に、コチョウさんは微笑む。
――下らない年寄りの寝言だと思って聞き流してくれていいですから。僕の話を聞いてくれますか?
 そんな前置きに頷けば、コチョウさんはゆっくりと話し始めた。
 
――もう数十年も昔、好いた人と結婚をしたんですよ。色が白くてほっそりしていて儚げな人でした。体が弱いのを理由に家族には随分と結婚を反対されてね。なかば駆け落ちのような形でしたが、幸せでした。
 けれど、籍を入れてすぐに風邪をこじらせて、それから一年も経たないうちに逝ってしまったんです。
 家とは碌に連絡も取っていなかったから、葬式は彼女の親族と私たち夫婦を知る少しの人で、こぢんまりと済ませました。参列者が少ないのを誤魔化すように、何度も何度も同じ人が棺を花で埋めていました。少しの隙間には立てるように花を置いてね、それがまるで、妻の体から無数の花が芽吹いているようでした
 棺に入れる時に、最後に胡蝶蘭を入れるのを知っていますか? まだ、したことがないかもしれませんけれど、他の花を入れ切った後、顔のまわりや胸のあたりを胡蝶蘭で埋めるんですよ。

 コチョウさんは一度そこで言葉を切った。私はふと、蝉の声がこの家ではしないことに気がついた。沈黙が喧騒を押しやったかのように、喪に服すように、そこは酷く静かだった。彼の節くれだった指が、傍の白い花を撫ぜる。

――酷く白い、浮き上がるような妻の顔、その少し下に生えた、まっしろの花......。
――何だか堪らなくなって、妻の体に縋りついて、その時気づいたんです。その胡蝶蘭は、本当に妻の体からまっすぐ、生えていたんですよ。胸にしっかり根を張って、けれど私が持つとするりと取れました。私にはそれが彼女のいのちに思えた。弱い肉体を抜け出して花に生まれ変わったんだと。そう思うと堪らなくなって、それをそっと、手の中に仕舞ったんです。
 男やもめの奇行を、皆さん見逃してくれました。棺を燃すときも、骨を拾う時も、ずっと片手にぎゅっと花を握りしめたままで、今思うと気が狂ったと思われていたでしょう。
 骨壺と花を抱えて家に帰った私は、胡蝶蘭を庭に植えました。けれど気候が合っていなくてすぐ萎れてしまって。慌てて調べて、ここに越してきたんですよ。もう数十年も前のことですがね。

 私はその話に聞き入っていた。人の体から花が生えるだなんて聞いたこともない。けれど、コチョウさんが法螺を吹いて子供を揶揄っているとも思えなかった。彼の顔には、真摯で穏やかな皺が刻まれている。

――大事に大事に育てると、嬉しそうに花を咲かせます。寂しい時には語りかければ、なんにも辛くなくなるんです。だから、妻と言ったのですよ。妻が生きていたらきっと私は、妻のぬくもりにこの愛しさを覚えたでしょうから......。


 彼はそう言ったきり微笑んで黙り込んだ。その時、ふと木漏れ日が随分と橙に染まっているのに気づいた私は、慌てて立ち上がった。
 吐き気や頭痛はすっかり良くなっていて、私は礼を言ってコチョウさんの家を去った。彼は安楽椅子の傍でにこやかに手を振っていた。ぎらぎらと照る夕日はコチョウさんには届かず、木々に覆われたそこは薄暗い。その中で彼の周りの花々が、まるで薄青い光を放つかのようだった。
 それからすぐに両親の都合で親戚の家に預けられた私は、その老人に再び会うことはなかった。


 私は成人して親戚の家を出て、久しぶりにその地を訪れた時にはコチョウさんは亡くなっていた。近所の人に話を聞くと、彼は庭でその生を終えていたのだという。私がかつてあの人と出会った、胡蝶蘭に囲まれた安楽椅子でひとり、眠るように。
 見つかった時には椅子にも老人にも、胡蝶蘭の蔓が伸びていたらしい。そして不思議なことに、年中暑いこの地域で、彼の亡骸は腐りもせず、虫も寄らず、生きているようなままにそこに在ったという。
 見事に咲き誇っていた胡蝶蘭は、老人が亡くなってから誰も手入れをするもののなく、静かに萎れていったそうだ。
 それでも、あの胡蝶蘭より白く見事なものを、私は知らない。
 あの花を見るたびに思い浮かぶ。木に絡みついて一面に咲き乱れる、まっしろの花たち。そして、その思い出にまるで幻影のように現れるのは、儚げな女だった。
 
 コチョウさんが薄青の闇を纏い、私に手を振っている。その、枯れ木のような老人の、体に蔓のように絡みついて抱きしめる、白い白い肌をした女(ひと)............


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