ミズワタリの伝説四

居待月



◆あらすじ
 受験と部活の板挟みで苦悩していた少年、椿佑司は東京から遠く離れた渡利村を訪れる。そこは六年前、佑司がキャンプで訪れた村だった。
 謎の少女、さつきと共に、村に伝わる伝説の存在であるミズワタリについて調査する佑司。調査を進める中で、二年前行方不明になった民俗学者の潮瀬がかつての恩人、カマクラであったことや、ミズワタリの伝説によってこの村が支えられてきたことを知る。
 そんな中、再会した友人、満月との関係に亀裂が入る。佑司は自分が村に来た目的を正直に語ると、満月も歩み寄り、自らの胸中を語り始める。六年間の間にすれ違っていた互いの思いを確認し、満月は佑司に、自分も「ミズワタリに会いたい」と言うのだった。

 滞在三日目、今年の水神祭の日がやってくる。




◆登場人物
椿佑司(つばき ゆうじ)
 東京に住む中学三年生。陸上部の大会と高校受験の板挟みになり家出した。答えを求めて、ミズワタリを探している。渡利村では、満月の家に泊まっている。

小野田満月(おのだ みづき)
 渡利村の中学三年生。佑司の友人で、清という小学生の弟がいる。卒業したら、東京の高校に行きたいと思っているが家族に言えないでいる。

黒井さつき(くろい さつき)
 潮瀬源の後継者を名乗る謎の少女。ミズワタリを探しているが目的は不明。

清水洋介(しみず ようすけ)
 水渡神社の一人息子。満月とは同級生で、同じ部活に所属している。

潮瀬源(しおせ げん)
 渡利村の民俗学者で、佑司が見つけた新聞記事の筆者。
二年前ミズワタリを探して行方不明になった。六年前はカマクラと名乗る。

(六年前:渡利村のキャンプ)
・ウメボシ  佑司のキャンプネーム
・マンゲツ  満月のキャンプネーム
・カマクラ  チームリーダーで唯一の大人
・ミヤ    清水のキャンプネーム
・ナシ    六年前のキャンプの参加者

◆用語
渡利村.........ミズワタリの伝説の残る山間の村。水神川を中心に集落が形成されている。水にまつわる名前や地名が多い。
ミズワタリ...渡利村の伝説の存在。迷える者の前に姿を現し、進むべき道を示すと言われている。
水神祭.........村を救ったミズワタリに感謝を伝える祭り。二年前、この祭りの最中に潮瀬は行方不明になった。さつきはこの祭りに合わせて、渡利村を訪れた。
〝渡る〟......渡利村の住民が使う言葉。自分の探していた答えが見つかる、という意味。


    3
    
 三日目の朝は穏やかに迎えた。
 小野田家の三人と食卓を囲んで、朝ごはんを食べていると、満月のおばあちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「二人とも、夜遅くまで話してたみたいだけど、もう大丈夫なんですか?」
 きっと満月喧嘩のことを言っているのだろう。
「はい。ご心配おかけしました」
「まったく、満月は変なところで意地っ張りだからねぇ」
 呆れたようにおばあちゃんが言うと、満月は不満そうに、「それは佑司くんも同じだよ」と言った。
 清は、そんなオレたちを見て安心したように笑っている。
 何か言ってやりたかったが、昨夜のことを思い出して口を開くのをやめた。
 照れを隠すために、居間のテレビに目を移す。テレビは、朝のニュースを伝えていた。
『続いては、心配なニュースが二つ入ってきました』
 神妙な面持ちで、ニュースを伝えるキャスターの顔を何とはなしに見る。
『東京都在住の中学生が金曜日から行方が分からなくなっています』
 その言葉に、全身が氷のように固まった。
『行方不明になっているのは、東京都S区在住の中学三年生、椿佑司さんです』
 食卓で談笑していた、三人の視線がテレビに集まるのが分かった。
『土曜日の朝七時ごろ、昨夜から息子が帰って来ないと、佑司さんの両親から警察に通報がありました。佑司さんの部屋には、「探さないでください」と書かれた置手紙があったということで、自分から出て行った可能性も高いと見て、警察は捜査を進めています』
 口の中にあったご飯と漬物が急に味を無くした気がした。
 ついにニュースになってしまった。このままじゃ、見つかって連れ戻されるのも時間の問題だ。慌てて何かを言おうとすると、
『さらにもう一件、大阪でも中学生が行方不明になっています』
 その言葉に、弾かれたように再び画面に釘付けになる。
『こちらは、大阪府T市に住んでいる中学生、ツクオカイリさんです。大阪府警によりますと、カイリさんも、金曜日学校が終わってから行方が分からなくなっています。書置きなどはなかったということで、事件に巻き込まれた可能性を視野に入れて捜索しているということです』
 心配そうに、ニュースを伝えるキャスターが映った後に、画面が切り替わって、二人の顔写真が現れた。
 一つは『椿佑司』と書かれた、オレの顔写真。そして、もう一つは、
「さつき......!?」
 写真に映っていた人物は間違いなくさつきだった。肩より長い黒い髪と、少しすましたような表情は間違いなく黒井さつき本人だ。
 だが、なぜかテレビには『踞(つく)尾(お)海(かい)梨(り)』と書かれている。
 どういうことだ......?
「ユージ、どういうこと......? あれユージだよな」
 清の声にハッと我に返る。
 清とおばあちゃんがじっとこちらを見ていた。
「え、えっと......」
 いくら満月のおばあちゃんが優しくても、全国ニュースで行方不明だと報じられているオレを黙って置いておくはずがなかった。
 オレは、姿勢を正して、頭を床につける。
「今まで黙っていてごめんなさい。オレ、家族に黙って渡利村に来ました。いけないことだって分かっています。でも、お願いです。必ず事情を話すので、今は見逃してください! オレにはどうしても行かないといけないところがあるんです!」
 それだけ言って、立ち上がった。もう一度深く頭を下げて、家を出る。
 背後で、「佑司くん!」と満月が呼ぶ声が聞こえた。オレは振り返らなかった。

 これ以上ないくらい焦っていた。
 オレが、家出をしていたことが公になってしまった。オレがこの村にいるとバレるのに幾ばくもかからないだろう。
 だからこそ、残された時間でやりきらなければならなかった。
 ミズワタリに会う、もちろんそれもある。
 でも今は、さつきに会うことが先決だ。
 踞尾海梨。これがきっとさつきの本当の名前。
 そう、この名前を聞いてオレは思い出した。そして分かってしまったんだ。さつきの正体が。
 海梨――梨......ナシ。
 
 六年前、村の外からやってきた少女。ナシこそが、さつきだったんだ!


 田園を駆け抜け、水神川を越えて、キャンプ場へと向かった。
 キャンプ場に付く手前で、森に入る。キャンプ場の正面玄関を入って誰かに見つかるのは避けたかった。
 昨日訪れた、さつきの泊まるバンガローに再びやってくる。
 赤い屋根の小屋の戸をトントンと叩くと「誰?」と声が返ってきた。
「オレだよ、椿」
 少し間があって、さつきが中から鍵を開ける音がした。
「こんな朝早くに、何の用かしら?」
「今更だけど、言うのを忘れてたことがあってさ」
「何、急に改まって」
 オレは、さつきの目を見て口を開いた。
「久しぶり、ナシ」
 さつきは、一瞬何を言っているか分からないような顔をした。しかし、すぐにその顔から血の気が引くのが分かった。
「なん、で......その名前」
「やっぱり、ナシなんだな」
 ナシは少し気まずそうに小さく頷く。
「それで、お前はオレがウメボシだって知ってた。多分、ずっと前から。だろ?」
 黙っててごめんね、とナシは謝った。
「ウメボシの椿って苗字が印象的で憶えてたんだ。あと、東京出身ってことも」
 それじゃ、ナシは金曜の夜カマクラの家で再会した時から、オレがウメボシだと気づいていたのか。
「どうして、分かったの? 私がナシだって」
「ニュースで言ってた。踞尾海梨が金曜から行方不明だって」
 ナシはハッと息を呑んだ。
「もう、全国ニュースになってるんだ」
「ナシ......いや海梨。オレもだ、オレも家出をしてきた。だからさ、一緒に......」
「お前、そこで何をしている!?」
 背後で声が聞こえた。
 振り向くと、キャンプ場の管理施設の方角から、数人の大人がやって来ていた。
 その中には、清水の父親である水渡神社の神主の姿もあった。
 神主さんは、オレを見るなり指さして「あれです。あの子ですよ、例の椿っていうのは」と叫んだ。
 ただならぬ気配を感じて、海梨をかばうようにしてドアの前に立つ。
「するとやはり、ここに泊まっていたのは踞尾って女の子の方か。ニュースの行方不明者が、揃いもそろってこの村に来ていたとは」
 作業着を着たガタイのいい男性が言う。
「偽名を使われていたので、気づきませんでした」
 そう言ったのは、眼鏡の痩せた高齢の男性。
「......なんなんだあの人たち」
 オレが呟くと、海梨は耳元で呟いた。
「多分、椿くんが見たっていうニュースを見た人たち。全員は分からないけど、あの細い眼鏡の人はこのキャンプ場のオーナーだよ」
 オレの不審そうな視線に気づいた神主さんが、顔に張り付けたような笑顔を浮かべて言う。
「やあ、椿くん。キミを探していたんだ。キミ、家を出て来たそうじゃないか。ただの観光なら、私も何も言わなかったんだけどね。親御さんに黙って来ていて、捜索願を出されてるっていうなら、こちらも大人として放っておくわけにもいかない。一緒に来てくれるね、話はゆっくり聞くから」
 声はあくまで穏やかで、昨日の神主さんと変わりない。でも笑みは作っているようで、数人の大人で相対する姿は威圧的に感じる。
 オレは一歩後ずさりした。
「そのバンガローに泊まっているの、踞尾さんなんだろう? 二人そろって、大人をからかっていたのかい?」
「別にからかうつもりなんてっ......!」
 大人たちは徐々ににじり寄ってくる。
 観念して、目を固く閉じた刹那、後ろからドンと強く押された。
 よろめいたオレに大人たちが気を取られている隙に、ドアの陰に隠れていた海梨は森の方へと駆け出した。
「ごめん、椿くん。でも、私はミズワタリに会うまで、捕まるわけにはいかないのっ!」
 一瞬の隙をついて姿を消した海梨を、オレたちはただ茫然と見送ることしかできなかった。

    *

「それでお前は、その踞尾っていう女に、裏切られて捕まった、と」
「ああ」
「それは、災難だったな」
 そういってオレの気も知らず笑っているのは清水。
 大人たちに捕まったオレは、神主さんに水渡神社の社務所まで引っ張って行かれた。水神祭当日ということもあって、人の出入りの激しい社務所なら簡単に逃げることはできないと考えたらしい。
「笑いごとじゃないんだけど......」
 オレが、眉間に皺を寄せると「わりい、わりい」と、清水はオレの肩をポンポンと叩いた。
「それにしても、お前もその踞尾って子もすごいよな。そこまで真剣にミズワタリを信じてんだ?」
「会いたい理由があれば、会えるんだって海梨が言ってた」
 その言葉に、大笑いしたのは周りにいたおじさんたちだった。渡利村に住む男たちは、朝から社務所に集まって、呑気に酒を飲み交わしている。
「若いねぇ。そんなのを信じてはるばる東京から渡利村まで家出してきちゃうんだ?」
「ちげーよ、こういうのは無謀って言うんだ。若いなんて言葉で片づけるなよ。バカなんだ、バカ」
 酔っ払ったおじさんたちの言葉に押しつぶされそうになる。
「よさないか。子供を寄ってたかって」
 制止したのは神主さんだった。
 袴姿に着替えた神主さんは、立ったままオレを見下ろして、
「キミの冒険心には正直脱帽する。だが、親御さんの気持ちを考えなかったのか? どれだけの人に迷惑をかけたか、一度ここで静かに考えなさい」
 厳しく言い放って、社務所を出て行った。
「怖えー」
 神主さんの背中を見送りながら、緊張感のない声で清水が言う。
「親父があんなに怒ってんの、久々に見たな」
 神主さんの言うことはもっともだ。もっとも過ぎる。ただの正論だ。オレの生き方に干渉してこない良い人だと思ったけど、それはあくまでオレに許された自由の範囲内だけでのことだった。
 オレは大きく溜め息をついた。
「これからどうなるのかな、オレ」
「ま、警察に通報されるだろうな。そしたら、親が迎えに来てくれんじゃねーの?」
「満月は何か責任問われるかな」
「さあな。あいつ事情知らなかったんだろ? ただ、何もねえってことはねえだろ」
「だよなぁ」
 万事休す、か。がっくりと肩を落としていると、満月が社務所に駆け込んできた。
「佑司くん、大丈夫だった!?」
 肩で息をしながら、満月がそう問うた。
「お、オレは大丈夫だけど。......どうしたんだ満月、そんなに慌てて」
 満月は息を整えながら、辺りをきょろきょろと見回す。
「例の女の子は? 黒井さんだっけ?」
「いないよ。あいつは山に逃げた」
 そう、と呟いて満月はオレの前に座る。
 誰も聞いていないか確認し、オレと清水にしか聞こえない声で、
「黒井さん。あの子、ナシなんだよね?」
「ええっ!?」
 素っ頓狂な声を上げたのは、清水だった。まわりのおじさんたちの視線を浴びて慌てて口を両手でふさぐ。
「ナシって、まさかキャンプの時の? そうなのか、佑司」
 オレは黙って頷く。
 まさか、満月も気づいていたなんて。
「ぼくは実際に彼女に会ったわけじゃないから顔はよく分からないんだけど、今朝佑司くんが慌てて家を出て行ったのを見てね、きっと何かあるって思ったんだ」
「それだけで分かったのか......?」
「それだけじゃないよ。最初は半信半疑だったけど、後で確信したんだ」
 オレたちが首を傾げると、満月は「彼女の偽名さ」と言った。
「KUROI SATUKIはTSUKUO KAIRIのアナグラムだろ?」
 オレは頭でローマ字を並び替えてハッとした。
「......ほんとだ」
「わざわざ偽名を使うってことは、本名ができるだけバレたくなかったから。昔、一度この村に来たことがある子だって考えれば偽名を使う理由も納得ができる。名前と顔が結びつけばそれだけバレる危険性が高まるからね」
 さつきと神社で会った時のことを思い出す。髪をポニーテールにしていた姿は、ニュースの写真での少しお淑やかな雰囲気とは違っていた。できるだけ見た目を変えて、偽名を使って。あれは彼女なりの変装だったんだ。
「この村に住んでいないのに、この村に関係している人、それを考えた時真っ先に六年前の写真を思いついたんだ。六年前の写真と、ニュースでの写真を見比べてね。雰囲気は変わってたけど、面影が残っていたからすぐに分かったよ。彼女がナシだって」
「はぁー、お前すごいな、満月」
 感心したような清水の声にオレも相槌を打つ。
「ってことはあれか。六年前のグループメンバーがまたこの村に集まっちゃったって訳だ。すごい偶然だな」
「ほんとにな」
 オレは苦笑する。海梨が昨日、同じ言葉を言っていた。それはこういう意味だったのかもしれない。
 一体どんな偶然だろう。いや、これは偶然なんかじゃない。だって、オレは、オレたちはカマクラに導かれてここにやってきたんだから。
「やっぱりオレ、ミズワタリに会いたいよ」
 オレの言葉に、清水は驚いたように口を開く。
「お前......」
「オレも、海梨もミズワタリに会うためにここに来た。やっぱり、諦めきれない」
「ぼくからも頼むよ、洋介」
 そう言ったのは、満月だった。
「佑司くんは本気だ。今日を逃せば、佑司くんはもうきっとミズワタリに会えない」
 警察や両親が来るのは今日中。一度東京に連れ帰られたら、もう簡単に家出することはできないだろう。受験生じゃ自由に旅行もできない。再びオレが渡利村に来ようと思ったら、きっと高校生になってから。もう、すべてが終わった後だ。
「会いたいのは今なんだ。今じゃなきゃだめなんだ!」
 オレの言葉に、清水は固く口を結んだ。そして、何かを決心したように大きく頷いた。
「......負けたよ、佑司。俺も協力する」
 そう言って清水は「ちょっと待ってろ」と、社務所を出て行った。
 握られていたのは、二着の緑色のジャージ。このダサい色には見覚えがあって。
「これって確か、渡利中の学校指定ジャージ」
「そ。絶妙にダサいだろ? 佑司、満月、これを着ろ」
「これを?」
 オレと満月は顔を見合わせる。
「祭りには、渡中生も結構来てる。部活前や帰りにジャージで来るやつも結構多い。きっと紛れるはずだ」
 清水は、緑色のジャージを押し付けてニヤリと笑った。
「俺が人を引き付けておくから、その間に逃げろ」
 下手なウインクを一つして、清水は社務所を出て行った。
 それから少しして、外の方で清水の声がした。
「踞尾海梨だー! 踞尾海梨がいたぞー! みんなー来てくれ!」
その言葉に、社務所にいた数人の大人たちは立ち上がって、社務所を出て行く。立ち上がらなかった男たちは、酩酊してこちらのことなど見てはいなかった。
「今だ、佑司くん」
 満月の言葉にうなずいて、走って社務所を出る。その途中にジャージを着て、境内へと飛び出した。境内にはたくさんの人が行き来していた。まだ、人ごみと言えるほどの人数ではないが、大人も子供も大勢が入り乱れている。その中には、清水の言う通り、同じ渡利中のジャージを着ている子も何人かいた。
「佑司くん、こっちだ」
 満月はオレの手を引いて森の中に入った。ジャージの緑は、明るすぎて派手だと思っていたが、朝の太陽を受け、木漏れ日の落ちる森の中に入るとうまい具合に保護色になっていた。お陰で、オレたちが抜け出したことを気付いた者は、誰もいなかった。
 
 誰も追いかけてこないことを確認して、オレたちは足を止めた。
「それで、どうするつもりだい、佑司くん」
「どうって」
 何も考えずに山の中に入ったことに気付く。
「とりあえず、海梨をさがそう。ミズワタリに会えても、海梨に会えないんじゃ意味がない」
 森を歩いてしばらくすると、周りはすべて同じような景色になり、方向が分からなくなってしまった。
「ま、迷った......」
 オレの言葉に、満月はぶるっと身震いする。
「だ、大丈夫だよね? ぼくたち。ミズワタリにも、踞尾さんにも会えずに、力尽きるなんてこと......」
 満月の気弱な発言を久しぶりに聞いて、その様子を横目で窺う。
 鬱蒼とした森の中にあって、満月の顔は蒼白だ。それも、無理もないことだろう。カマクラがこの山で、ミズワタリを探しに行ったきり帰って来なかったのは、ちょうど二年前のこの日のことなのだから。
「大丈夫さ。きっとな」
 
 随分長いこと森を彷徨っていたと思う。足は棒のようになり、腹の虫はずっと前から鳴りっぱなしだ。辺りは暗く時間を確認することもできなかったが、オレたちがその声を聴いたのは、もう探し始めて三、四時間くらい経っていた頃だっただろうか。
 森の中から、女の子の悲鳴が聞こえてきた。
「――けて。誰か、助けてっ――」
 逼迫した言葉に、オレは満月を置いて全力で声のする方に駆け寄る。
「どうしたっ!?」
 木々を掻き分けて声の主を探すと、山の岩に乗りながら木の枝をブンブン振り回す海梨がいた。
「お前、何やってんだ!?」
 海梨は黙って木の枝を伸ばして、岩の下の地面を指す。
 見ると、岩の下には、二メートルはありそうな、苔色の大きな蛇が鎌首を持ち上げて、海梨の方を見ていた。
「こんのっ!」
 オレは手近な石を取って、蛇に投げつける。蛇はこちらを見て再び威嚇した。
 蛇などろくに見たこともないオレは、思わずそれにたじろぐ。その刹那、追い付いてきた満月が追い抜きざまに蛇を掴んで、そのまま山の下の方へ向かって力強く投げた。
「二人とも、無事だった!?」
 オレと、海梨はそろって安堵の溜め息をついたのだった。

「あれはアオダイショウだよ。毒のない蛇だから大丈夫」
 まるで何事もなかったかのように笑う満月に、オレは思わず呆れてしまう。
「だからって、あんな乱暴な」
 満月は照れるように頭を掻いた。
「それで――」
 オレは、海梨の方に向き直る。
「見つけたよ、海梨」
 海梨は黙って、オレの目をじっと見つめた。
「まったく、勝手に逃げやがって」
 頬を膨らませて、ふてくされたように海梨は「ごめんなさい」と呟く。
「キミが海梨?」
 満月の問いに、「そういうあなたは?」と海梨は質問で返す。
「ぼくは、小野田満月。キミがナシなら、ぼくはキミと六年前に一度会っていたはずだけど」
「ほら、マンゲツだよ、マンゲツ」
 オレが口を挟むと、海梨は思い出したように「久しぶりだね」と微笑んだ。
「それで、椿くん。あなたは捕まったんじゃなかったの? どうしてここに」
「捕まったのはお前のせいだろ」
 海梨をねめつけると、悪びれた様子も見せず海梨は舌を出した。
「逃げ出してきたんだよ。オレだって、このまま帰る訳にはいかないのは、お前と一緒だ」
「そう......」
「踞尾さん。よかったら聞かせてくれないか。偽名を使ってまでキミがこの村に来た理由を。キミはどうしてそこまでしてミズワタリに会いたいんだい?」
 そう言ったのは満月だった。
 満月の言う通りだ。海梨のことを知ったつもりでいたけど、オレはまだ彼女のことを何も知らない。
 海梨は観念したように溜め息を一つついた。
「いいよ。助けてくれたお礼に、ちゃんと話す。そうでもしないと納得してくれないだろうし」
 その言葉遣いを聞きながら、オレはなんとも言えない違和感を覚えた。なんだか、オレがこの二日間関わってきた海梨じゃないような。隣の満月は何も感じていないようだから、なんだか妙に落ち着かない。
 そんなオレの様子を知ってか知らずか、森の倒木に座るよう促し、海梨は話し始めた。
「私がミズワタリに会いたいと思うのは、道を示して欲しいから。椿くんが、家が嫌で出てきたのなら、私もそれと同じ。家にいられなくなって、飛び出してきた」
 海梨は林冠から降るキジバトの鳴き声に耳を傾けるようにして、目を瞑る。
「この渡利村はね。お父さんの故郷なの。そして、私の故郷でもある」
 その言葉に驚いた風だったのは満月のほうだった。
「そうだったの......?」
「私が物心つくより昔の話だよ。私自身、憶えてないしそれほど懐かしいと思う気持ちもない。私にとって、渡利村は六年前の思い出しか残ってないの」
 海梨という名に「さんずい」が入っているのに気が付いた。多分これこそ彼女が、渡利村出身だっていう何よりの証拠だ。
「あのキャンプはね、お父さんが紹介してくれたんだ。渡利村はいいところだから、一度自分の目で見てくるといいって」
 昔を懐かしむように、海梨は目を細めた。
「私のお父さんはね、とても優しくて、面白くて。私、大好きだった。小さい頃の私は好奇心旺盛で、全然女の子らしくない子だったけど、お父さんはそんな私をいつも自慢げに『オレの愛娘だ』って言ってくれたの」
 でも、と海梨は目を伏せる。
「一年半前、お父さんは死んじゃったの。雨の日の事故だった」
 オレたちは、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「私のお母さんは、お父さんとは真逆の人でね。社会に出て私が恥をかかないように、常に女の子らしく、女の子らしくって口癖のように言う人だったの。お父さんとお母さん、よく言い合いをしていたっけ」
 海梨は寂しそうに、懐かしそうにそう言った。きっと夫婦喧嘩でさえも、過ぎ去った思い出の一つなのだろう。
「お父さんが死んでからは、お母さん以前にも増して、私の生活に口を出してくるようになって。女の子は髪が長い方がいい、口調は上品に、自分が関東の大学に進学した時目立って困ったから訛りはなくしなさい、って」
 お母さんも私のことを大事に思ってくれてるのは分かってるから、変に口ごたえできなくて、どんどん自由がなくなっていったの、と言う海梨の表情は悲しそうだ。
「そんな時、お父さんの書斎からカマクラからの手紙が見つかったの」
「カマクラからの手紙?」
「うん。お父さんとカマクラは友人同士だったらしくてね。よく文通していたの。そのやり取りの中で、潮瀬源さんがカマクラだってことを知って、ミズワタリの伝説のことを思い出したの。お父さんがいなくなった今、もうこの現状を変えることはできないから、だったらせめて足掻いてみようって。ミズワタリに会ったら、何かが変わるかもしれないから、ミズワタリのことを調べ始めたの」
 女の子らしく。その一言が、海梨にどれほどの重圧を与えていたのだろう。
 オレは、感じていた違和感の正体が分かった気がした。二日前再会した海梨は、お母さんによって作られた理想の女の子としての踞尾海梨、いや黒井さつきだったんだ。海梨はオレがウメボシだと知っていた。だから、自分の正体がバレないようにすましたような上品な雰囲気で振舞っていた。でも、もう自分が海梨だとバレた以上、自分を偽る必要がない。
「渡利村でのお前、全部演技だったのか」
 海梨はいたずらを見つかった子供のようにくすくすと笑った。
「親にバレないように、村の人にも怪しまれないように調べるのは大変だったんだよ」
 海梨の計画は一年がかりだった。母親が家をいない日を狙って、家を抜け出し、度々日帰りで渡利村に来ていたのだそうだ。その際は、自分のお淑やかな外キャラと結びつかないように、あえて大人っぽくも明るい様子を振舞った。オレが海梨に神社で会った時のポニーテール姿は、おそらく渡利村での調査用のキャラクターだったのだろう。その時に用いた偽名が黒井さつきなのだそうだ。
「黒井さつきが偽名だったなんて気づかなかったでしょ? 偽名の方が本名っぽいんだもん。私も、これは思いついた瞬間『これだ』って思ったね」
 そうして満を持して海梨はこの水神祭の日に、渡利村にやってきた。人とミズワタリの距離が一番近くなる日に。ここまで導いてくれたカマクラが姿を消したこの日に。
「でもさ、椿くん。分かるでしょ? 私、元はこういう性格じゃないから、お淑やかにって言われても簡単にはできないの」
 それは、今までの海梨の様子を見ていたらなんとなく分かる。海梨の様子は、お淑やかっていうより偉そうな感じだ。
「お母さんが求めてる私って、私じゃないんだよね。だけど、あなたのためって言われたら言い返せないし、きっと大人になっていくと、お母さんだけじゃなくて社会がそれを要求してくるようになる。そう考えたら、ただ従うことしかできなくなって、でもそれじゃああまりにも辛くって」
 そう言って、俯く海梨の目はうるんでいた。
「お父さんが死んでから、一言も文句を言わずにお母さんに従ってきた。......今回が初めてなの。家出なんて大それたことをするのは。家に帰ったらなんて言われるか。そう考えただけでも、怖くって」
 海梨もオレと同じなんだ。背水の陣の覚悟で、ここまでやってきた。大人の事情。そんな簡単な言葉でオレたちは、家に連れ戻されるわけにはいかない。
「行こう、海梨。きっとお前も渡れる」
 オレたちは立ち上がって、森を進み始めた。

「――随分奥の方まで来たみたいだね」
 森を進んでいると、満月が口を開いた。
「もう神社のお囃子とかが聞こえてもいい時間なのに、何も聞こえない」
 耳をすましてみるが、木々のざわめきや鳥の声以外に聞こえる音はない。
 オレたちは歩きながらそれぞれの話をした。なぜ、ミズワタリに会いたいのか。この六年間どんな道を歩んでいたのか。
 まるで同窓会でもしているような気持ちだった。
「なあ、満月。カマクラがいなくなったのって今日なんだよな」
「......うん。二年前の今日は、朝からいい天気で」
 満月は静かに語り始める。
「ぼくは朝から、洋介や清と祭りに行っていて。夕方くらいだったかな、一度天気が急変したんだ。雨はすぐに止んだけど。それから夜になって、水渡神社で祭りの後夜祭に参加してたら、神主さんが血相変えて駆けこんできて。潮瀬さんが、朝、山に入ったきり帰って来ないって。潮瀬さんはいつも行くときと帰って来たときには、ちゃんと神社の前を通って、誰かに声をかけていってたらしいんだ。その日も、『後夜祭までには帰る』ってちゃんと言い残してたらしくて」
 封じていた記憶を一つひとつ辿るように、満月の言葉は丁寧だった。
「それから、警察が大勢来て捜索したけど、見つけることはできなくて。あの日の夕立で、小さな崖崩れがあったらしいんだ。人の立ち入れない辺りだったから、それに巻き込まれていたらもう見つけることはできないだろうって」
「ごめん、辛いことを思い出させたよな」
 満月は首を大きく横に振る。
「ううん。大丈夫。もう大丈夫だよ」
 柔らかい笑みを浮かべて、満月は言う。
「迷っても大丈夫。きっとこの三人ならまたミズワタリに会えるんじゃないかって思うんだ。......六年前山で迷った時も全く同じ状況だったから」
 言われてハッとした。
 なんだか不思議な気分だ。あの日と全く同じ状況で、オレたちはまた山を迷っている。無邪気に山を駆けていたあのころとは違うのに。みんなそれぞれ、自分の悩みを持ちながら、それぞれの道を進もうとしている。
 ほどけた糸を紡ぎ直すように、一歩一歩進んでいく。
 忘れた記憶を取り戻したくて。
 別れた道をもう一度重ね合わせたくて。
 気づけばあたりはいつの間にか深い霧に包まれていた。
 そして――。
「――水だ、水の音が聞こえる」
 
    *

 濃霧の中を、音だけを頼りに、オレたちは森を進んだ。辺りは真っ白で、太陽の光が差す方も分からない。
 かなり長いこと歩いた気がする。
 突然木々の隙間から、岩場が見え、やがて沢を見つけた。
「川だ......」
 オレの言葉に、海梨が「すごい」と声を漏らす。
「すごい、すごいよ。椿くん!」
「本当に、すごい」
 満月も頷いた。
「すごいのはオレじゃない。オレたち三人だ。この三人じゃないときっと辿りつけなかった」
ガラスのように透き通った水が、足許を流れていく。水辺を無数の蛍がふわふわと飛び回っていた。
 水も、空気も、世界そのものが清く神聖なもののように感じた。触ると今にも消えそうな。それでいて、その空間のものすべてが絶対的な結界を作っているような。
 シャン――......
 鈴の鳴るような音が聞こえた。
 シャン、シャン......
 音は徐々にこちらに近づいてくる。
 霧の中から現れたその姿にオレたちは思わず息を呑んだ。
 まるで水晶のように透き通った美しい獣。
 たおやかな四肢は、まるで水の上を歩くようにこちらへ近づいてくる。
 川のせせらぎは消え、まるで時が止まったような錯覚に陥った。
「ミズ、ワタリ――」
 誰かが、溜め息を漏らした。
 無理もない。この集落を救い、今まで何人もの人を導いた伝説の存在がここにいる。
 オレはおもむろに口を開く。
「オレたち、お前に会いにここに来たんだ。久しぶりだな、ミズワタリ」
 ミズワタリは透き通った目でじっとこちらを見つめた。
 すると一瞬にしてその姿がぐにゃりと歪んで弾けた。
「ちょ、待って! ミズワタリ、行かないで!」
 海梨が悲鳴のような声を漏らした。
 しかし、飛び散った水滴は空中に制止し、やがて渦を巻いて一人の人間の輪郭を作り出していた。
 その姿に、オレは――オレたちは言葉を失った。
 無精髭を生やした、その姿は、忘れられない、忘れる訳がない。
「カマクラ!」
 カマクラはニッと笑って、言った。
「よう。懐かしい顔ぶれだな、お前ら」
 
 ミズワタリがカマクラになった......!?
 突然のことに状況を呑み込めずにいると、カマクラはオレの方を見て、
「なーに難しい顔してんだよ、ウメボシ。折角、俺にまた会えて嬉しくねえのかよ」
「......う、嬉しいよ! だけど、何が何だか」
「もしかして、ミズワタリの見せる幻?」
 小声で満月が呟いた。
「え?」
「ほら、伝説にあっただろ。ミズワタリは往々にして鏡の姿に例えられるって」
「ミズワタリは自分を映す鏡、ってやつ?」
「そう。それ」
 邪な心を持つ者には、鬼が映った。家族の死に心が閉ざされた人には、死んだ母親が現れた。オレたちを映す鏡にカマクラが現れたってことは、つまりオレたちの心はカマクラを求めてたってことなんだろう。
「佑司くん。キミの目に見えているカマクラはどんな姿?」
「どんなって......六年前会った時のそのままの姿だよ」
「私もそうだよ」
 海梨も頷く。
「ぼくの目の前のカマクラは、多分それより少し先だ。六年前の写真よりも老けてるから。......多分カマクラが失踪する直前の姿」
 人によって見えてる姿が違う? そうか、そうだよな。本物のカマクラはもう生きてるはずないんだから。
 でも、たとえ夢でも幻でも、目の前にいるカマクラは、カマクラ本人で、それだけで胸がいっぱいになる。
 カマクラの方を見ると、昔と何も変わらない笑顔があった。
「ウメボシ、ナシ、マンゲツ。お前たちなんでここまで来たんだ? ちゃんと理由があるんだろう?」
 最初に理由を口にしたのは、海梨だった。次にオレ、最後に満月が、ミズワタリにやってきた理由を話した。
 カマクラは他の大人たちのように、オレたちの家出をバカにすることも咎めることもしなかった。
 カマクラはオレたちの話を、相槌を打ちながら聞いた。そして全部聞き終わった後で「お前ら、俺の知らないうちに、随分面倒なことになってたんだなぁ」と楽しそうに笑った。
「笑いごとじゃないんだけど!」
とオレが言うと、「わりい、わりい」とカマクラはなだめる。
「でもさ、相談相手が俺なんかで大丈夫か? 俺、お前らみたいに繊細じゃないから、気の利いた事言ってやれねえかもしれないぞ?」
「いいの!」
 海梨はすかさず言った。
「私、自分が何なのか分からなくなっちゃって、もう長い間自分を見失ってたの。でもね、お父さんの書斎でカマクラのことを知ってから、世界が変わったんだ。カマクラやこの村の伝説を調べる間は、誰にも邪魔をされなかったから。カマクラが残した研究を調べるうちに、カマクラに届くような気がして。夢中になって、調べてた。......カマクラが昔の私を思い出させてくれたんだよ?」
 カマクラは、自分の頭をカシカシと掻く。その頬は心なしか赤くなっているような気がした。
「参ったな......。普段そんなに褒められねえから、カマクラのお陰とか、カマクラさんかっこいいとかイケメンとか言われると照れるわ」
「そこまでは言ってないから」
 呆れたように満月が言う。
 でも、まあ、とカマクラは自分の髭を触るように顎に手を当てて言う。
「俺に言わせてもらえば、誰かのために自分を変えるより、自分を見失うことの方よっぽど恐ろしいと思うがな。『今までの自分を捨てなさい。これはあなた自身のためなのよ』っていうやつが、本当に相手のことを考えているとは思えねぇな。自分から変わりたいと思ったならともかく、誰かに言われて捨てるもんじゃねえだろ、自分自身っていうのは」
 大真面目にいいことを言っているはずなのに、下手に女性の声マネをするせいで、思わず吹き出してしまう。
「おい、そこ。今笑うところじゃねえだろ」
 カマクラはオレをねめつける。
「でも、お母さんはお淑やかな方がいいって......」
「そりゃあ女の子はお淑やかであるべきって人もいるだろうな。でも、お前はそういうタイプでもねえだろ。お前の親父さん言ってたぞ。『うちの愛娘は元気が有り余って怖いくらいだ。きっと将来は自分でお店なんかを建てるんだろうな。それで、看板娘のあまりの魅力にきっと人があふれかえるんだろうなぁ。もし海梨がお店を建てたら、毎日行くのに』って」
「ちょ!? 何それ、恥ずかしい! っていうか怖い」
 海梨が恥ずかしそうに手をぶんぶん振り回す。
「海梨のお父さんって」
「ほんとに親バカだったんだね」
「ちょっと、椿くんも満月くんも私をそんな目で見ないでよ!」
 焦る海梨を、面白そうにカマクラは見る。
「だからさ、ナシ。どんなにお淑やかな女性であるべきって言われても、お前自身がそれは違う、それは自分じゃないって思うんなら、そんなステレオタイプなんてぶっ壊しちまいな」
 海梨は驚いたように目を見開く。
「俺なんてすげえぞ。いつまで親のすねかじって生きてんだって、何度言われたか。それでも俺は、自分の好きなことを追って生きてきた。そしたらどうよ、いつのまにか学者って言われるようになって、少しだけど金を稼げるようになったんだから。嫌なら無理に変わることねえって。今の自分にできることから探しな」
 そう言って、豪快にカマクラは笑う。
「うん......。私頑張ってみるよ」
「いや、そんな頑張らなくてもいいぞ。頑張ったら疲れるしな。何事もほどほどに、な」
 海梨は、大きく頷いた。
「ほんとに、潮瀬さんはいつでもマイペースなんだから」
 満月が苦笑する。
「お、その皮肉めいた口調はマンゲツだな」
「ミヅキでーす」
 満月は流れるように訂正する。
「あの泣き虫が、どうしてこんなに生意気に育ったのやら。......お、マンゲツお前しばらく見ないうちに、大きくなったんじゃねえか?」
 満月の身長はカマクラの目線の辺りまであった。
「昔はこんなだったのにな」
 カマクラは両手で小さな丸を作って見せる。
「そんなに小さくないから」
 毒づきながらも、そう言う満月の顔はなんだか嬉しそうだ。
「それで、お前は東京に行きたいんだっけ? どういう風の吹き回しだ? お前ずっと、大人になっても渡利村に住むって言ってたじゃねえか」
「変わったんだ。潮瀬さんがいなくなってから。ずっと潮瀬さんに頼りっぱなしだったから、嫌なことがあったらいつも聴いてもらって、洋介との喧嘩を何度仲裁してもらったかも分からない。......だけど、もう潮瀬さんはいないんだから、大人にならなきゃって思って、それでこの村を出て行くことを決めたんだ」
「俺そんな頼られてたか? 全然記憶にねえな。フィールドワークにあっちこっち連れまわした記憶はあるんだが......」
「その時だよ! その道すがら、いろんな話を聴いてもらってたんだ」
 じゃあさ、とカマクラは言う。
「それをそのまま言えばいいんじゃねえの?」
「でも、お父さんやお母さんに迷惑をかける訳にもいかないし」
「俺に頼らないことにしたんだろ? なんで俺に答えを求めてんだよ」
「......潮瀬さんの方から勝手に出て来たんじゃないか」
 カマクラはケラケラと笑って「違いねえ」と言った。
「自分で考えて決めた道なんだろ? じゃあ、ちゃんと理由を親に伝えねえと。きっとお前のやりたいことを尊重してくれるさ。......言ってダメなこともあるかもしれない。だが、言わないと百パーセント実現することはない」
「そうだよ、満月」
 オレは、思わず口を開いた。
「オレ、満月にちゃんと自分のこと話さないで後悔したばっかりなんだ。たとえ、相手のことを気遣ってて黙ってたことでも、それは相手にとっていいとは限らないんだよ」
 昨日、オレが満月に言わなければいけないことを黙っていて、結果的に深く相手を傷つけたように......
「それに俺は、お前の両親が、お前たち兄弟が邪魔で渡利村に残していったとは思えねえんだよな」
「どういうこと?」
 満月の問いに、カマクラは再び髭に手を当てる。
「お前らのこと考えてたんじゃねえの? 生まれてこの方、渡利村で大自然に囲まれて暮らしてきたお前らが、親の事情で都会に住むことになったら、それまでの人間関係も崩れる訳だし、適応できるか不安だったんじゃねえかな。小野田の母さんと父さんには何度か会ったことあるけど、そんな感じの人だったぞ」
 満月は「そうかもしれない」と呟いた。
「言わずに後悔より、言って後悔か......」
 満月は笑みを浮かべて大きく頷いた。
「うん。オレ言ってみるよ。無理だったらその時考える」
「大丈夫だよ。満月なら。だってずっと勉強してきたんだろ? それって、親に負担をかけたくなかったからなんじゃねえの? 親も納得するようなレベルの高い大学に行くか、奨学金を取れるような立派な点数を取って、できるだけ親に迷惑をかけないようにしようって。その気持ち、きっと伝わるさ」
 オレの言葉に満月は、「そう、かな」と優しい笑みを浮かべた。
「お前はどうなんだ? ウメボシ」
「オレは......」
 カマクラに問われ、思わず黙り込んでしまった。今までの満月と海梨の話を聴いてきて、オレはカマクラに何を言えばいいか分からなくなってしまっていた。結局道は自分で切り開かないといけないんだ。カマクラはそう言うに決まってる。
 でも、オレは家族の望む道と、チームメイトの望む道。どっちの道も求めてなんかいなかった。
「オレは――いいや」
 満月と海梨は「ええっ」と声をあげる。
「二人の話聞いてたら、オレにも参考になりそうなこと結構あったし、カマクラにまた会えただけでも十分だよ」
 カマクラはオレの瞳をじっと見つめて、「本当に、いいのか? それで」と問うた。
「うん。いいんだ。よく考えたらオレの悩みなんてバカバカし過ぎて。海梨も満月も未来に進もうとして悩んでるのに、オレなんてどっちにも行きたくないっていう身勝手な望みなんだから。ガキだなぁ、オレ」
 そうかぁ、カマクラはカシカシと頭を掻いて口を開いた。
「俺はそうは思わないけどな」
「え......?」
「そうやって、小さなことに悩んで一歩ずつ進むってことが、大人になったってことなんじゃねえの?」
 それは、きれいごとじゃないの、とオレは少しきつく言う。
「オレは全然大人なんかじゃないよ! 海梨みたいにブラックコーヒーも飲めなければ、梅干しを食べられるようになった満月みたいに、大人に向かって前進もしていない! それどころか、現実から目を背けて、昔の思い出に縋ってこんなところまで来た! ただの、子供だ!」
 オレの剣幕に呆気に取られたようなカマクラはすぐにハッとして、嬉しそうに口の端を上げた。
「マンゲツ! お前梅干し、食べられるようになったのか! あんなに嫌いだったのに。ナシはコーヒーをブラックで飲めるのか!? すげえな!」
 まるで子供の成長を喜ぶ親のように、二人を褒めたカマクラはこちらを見、ニヤリと笑って言った。
「俺、どっちも苦手なままなんだけどな」
 オレは思わず、ドキリとする。
「嫌いなものや、苦手なものが食べられるようになったから、大人になれるんじゃない。苦いものや渋いもののよさが分かるようになったから、大人になれるんでもない。......確かにな、マンゲツもナシも大人に向かって前進してる。マンゲツは夢に向かって悩み努力し勝利をつかみ取っていく力がある。ナシは目的を果たすために、調べ、計画し実行する力が。どっちも大人になってからも役に立つ立派な力だ」
「......オレにはそんな力ない」
 そんなことないさ、とカマクラは笑った。
「お前にも二人とは違う力がある。それはとても得難くて、だけど何よりも大事な力だ......それは、逃げる勇気!」
「逃げる、勇気?」
 腑に落ちないという風にオレが首を傾げると、カマクラは「お前全然この力のすごさを理解できてねえだろ」と言った。
「世の中はな、簡単に解決できることばかりじゃない。ただでさえ面倒な問題に人間の感情が絡みつくと、簡単な問題も途端にややこしくなる。嫌なら逃げればいいのに、妙な後ろめたさから、それができずに心を壊してしまった人を俺は何人も知っている」
 だから、とカマクラは続ける。
「押しても引いてもだめなら諦める。その勇気を持つことが一番肝心なんだ。そして、お前はもうその勇気を持ってる。自分を恥じるな。それに本当にどうしようもないときは、そのまま流れに身を任せるっていうのも手だぞ。命に関わるようなことでもない限り、案外何もしなくても、なんとかなるものだ。何もしない。それもまた一つの勇気だ」
 ......逃げる勇気。何もしない、勇気。
 オレはハッと目を見開く。

 水が、渡った――

 一陣の風が木々を通り抜けて森を走るように、投げた石が水面を切って飛ぶように、心の奥に渦巻いていた何かが、一瞬にしてどこかへ飛んで行った。
「お前たちはすごいよ。俺なんて、何も考えず、適当に人生を送ってたんだからな。中学生の頃なんて、一番近くの高校に行くことしか考えてなかったわ。悩むほど大人になれるっていうの、あれ、別にきれいごとじゃないぜ。今のお前たちは、俺よりもずっと大人になってる。これは偽らざる本心だ」
 そう言って目を細めるカマクラを見て、オレは胸がいっぱいになる。
「大きくなったな、お前たち」
 カマクラは微笑み、そして大きく伸びをした。
「あーあ。本当なら、お前らが成人した時に会って一緒に酒でも飲みたかったんだがな」
 心底残念そうにカマクラは言う。
「じゃあ、また大人になったら渡利村に来るよ。そしたら、また会おう」
「大人になってからじゃ、ミズワタリに会う理由がないよ」
 満月はオレの言葉を否定する。
「ああ、そっか」
「......いいよ、来なくて。来ない方がいい。それだけで、お前らが元気でやってるって分かるからな」
 それもそうだ。来る理由がないなら来なくてもいい。
「――ああ、そろそろ時間みたいだ」
 そう言うとカマクラの身体は、揺らめきながら淡く光り始めた。
「カマクラッ!」
「カマクラ......!」
「潮瀬さん!」
 口々にオレたちは名前を呼ぶ。
「来ないに越したことはない、が、またどうしようもなく悩んだときはミズワタリを探してみろ。話くらいは聞いてやる」
 あの頃とまったく変わらない笑顔で、カマクラは笑った。
「ウメボシ、ナシ、マンゲツ。大きくなったお前らに会えて嬉しかったぜ――またな」
 カマクラの身体は大きく揺らめき、やがて弾けて消えた。飛び散った光は七色に輝き、水面を叩いて幾重もの波紋を作った。
 その波紋が消える頃、辺りの霧はすっかり晴れていた。林冠の隙間から橙色の光が差し込み、夕暮れを伝えていた。
「......カマクラ」
 その呟きに答える者はもういなかった。
「椿くん......あれ」
 海梨が呟いて、川の少し上流の方を指さした。
 川の傍に山肌が崩れた跡があった。辺りの倒木はすでに朽ち果て、崩れた後からは苔や草の芽が生えていて、崖崩れがあってからかなりの時間が経過していたことが伺えた。
 オレたちは駆け寄り、その崖崩れの後を見てみると、満月が声をあげた。
「あ、これ」
 満月が指さした岩の下には、泥にまみれて変色した、白っぽい何かの欠片のようなものがいくつも転がっていた。まわりをよく見ると、人の衣服や鞄のようなものも散らばっている。満月は鞄を手に取り、手探りでノートを取り出し、持ち主の名を確認した。
 泥水が乾き波打ったノートには、今回の旅でオレたちを導いてくれた恩人の名前が記されている。
 言葉は、出てこなかった。
 静かに手を合わせ、目を瞑る。
 故人の手の傍には、割れていくつにも分かれた歪な形の鏡が落ちていた。

    *

『それじゃあ東京に戻ることにしたのか?』
「ああ、じきに親が迎えに来ると思う。お前には迷惑かけたな」
『まったくだぜ。帰ったら、駅前にできたハンバーガーでも奢ってもらうからな! 覚悟しとけ』
「仕方ねえな。オレのお財布のことも考えてくれよ? ......あ、じゃあちょっと呼ばれたから電話切るな。世話になったな、ありがとう」
 高橋との通話を終え、受話器を置くと、廊下の奥から満月がやってきた。
「祭りが、もうすぐ終わるよ」
「せっかくなのに全然参加できなかったな」
「また来年、落ち着いたらおいでよ」
「そうさせてもらうわ」
 オレたちは、靴を履いて社務所を出た。

 森の中で不思議な体験をした後、川を辿って山を下りていくと、神社の裏に出ることができた。
 逃亡を図ったオレたちを見つけた神主さんや、駆け付けた警察たちは、最初ものすごい剣幕でオレたちを叱ったが、オレたちが森の奥で遺体を見つけたことを言うと、すぐにオレたちをおいて森の捜索が行われた。崖崩れが起きた場所は、二年前には行けなかったが、その後の雨なんかで川の流れや山の形が変わったことで、神社からそれほど苦労せずに立ち入れる場所になっていたそうだ。遺体の所持品などから、すぐに身元は確定されるだろうと、言っていた。
 夢から醒めたような少し不思議な感覚だったけど、きっと彼も生まれ育った村に帰ることができてほっとしているだろう。
 オレたちは境内の石段近くにある木によじ登り、枝に腰かける。
 そこから、この渡利村の様子をよく見渡すことができた。
「おーい。お前ら、たこ焼き食うー?」
 木の下から声をかけてきたのは、清水だった。
「食うー!」
 そう言って、清水からたこ焼きを受け取る。両手の開いた清水はオレたちの傍まで登って来た。
「山で遺体が見つかったんだってな」
「ああ」
 オレが頷くと、清水が少し睨むようにして、
「俺が親父に、お前らを逃がしたことを怒られてる間に、一体山で何があったんだよ」
「......ミズワタリに、会ったんだ」
「まじで!?」
 清水が持っていたたこ焼きを落としそうになる。
「どうだった? 見たのか!?」
「どうだろう。よく憶えてない」
「なんだよそれー。くっそー俺もついていけばよかったー!」
 悔しそうに言う清水を見て、満月が苦笑する。
「洋介は、別に悩みとかなさそう」
「何を!? 俺だって、悩みの一つや二つくらいあるっつーの」
「例えば?」
 オレがふざけて訊くと、洋介は大真面目な顔で、
「この祭りで出たごみを、明日分別しなきゃいけないのが、まじでめんどくさい」
「なんだそれ」
 オレと満月が笑うと、洋介もつられて笑っていた。
 木の下を見ると、少しずつ周りに人が集まっているのが見える。
「そろそろかな」
 オレたちは木の上から、渡利村の集落を見下ろす。
「椿くん、満月くん!」
 再び木の下で声がした。
「なんだ、海梨か? 早く登って来いよ」
 そう言って、根元の方を見たオレたちは目を丸くした。
「ど、どうしたんだ、海梨。その髪」
 海梨の髪は、肩より高いところで切られ、随分さっぱりとした装いになっていた。
 木に登って、オレたちの傍に来た海梨は照れたように言う。
「私、決めたの。もう、お母さんの意志じゃなくて自分の意志で生きていくんだ、って」
 海梨にとってお淑やかな女の子の象徴だった、長い髪。それを切ることで、もう二度と揺るぐことのない決心をしたのだろう。
「あ、見て!」
 木の下で誰かが叫んだ。
 つられるように、空を見ると、夜空に大輪の花が咲いていた。
「お、始まったな、花火」
「綺麗だ......」
 そう呟くと、清水がニヤニヤしてこっちを見ていた。
「そうかー綺麗かー」
「今のは、花火! は、な、び、が、綺麗だったんだ!」
 ほんとにアイツは......。
 呆れて息を吐くと、海梨がくすくすと笑っていた。
「ぼくもそっちの方が似合うと思うな。踞尾さんは昔も、ショートヘアだったし」
「おい、満月。『も』ってなんだ『も』って。オレは花火の話だって」
「でも、ちょっと毛先が揃ってないね」
「おい、聞けよ満月」
 満月はオレの言葉など、聞こえないという風に続ける。
「髪は今適当に切っただけなの?」
「そうなの。とりあえず今は決意だけ。借りたハサミで切ったから、不格好だけどね。これからどんな髪型にするかは、ゆっくり決めようと思ってる」
「それがいいんじゃないかな」
 そう言いながら、満月はたこ焼きを口に放り込む。
「ぼくも決めたんだ。来週親が帰って来た時に、東京の高校に行きたいって言ってみる」
 その言葉に驚いたのは、清水だ。
「え、満月。お前、渡利村出て行くのか!?」
「うん。洋介にはまだ言ってなかったね。この村を出て行くことにしたんだ」
「まじかよ。高校も一緒だと思ってたのに......」
 がっくりと肩を落とす清水。でも、相談してなかったってことはそれだけ、満月にとって大切な友達だったっていうことなんじゃないのかな。大事な決断を簡単に口に出して相談することができないくらいには。
「佑司くんはどうするの?」
 満月の言葉にオレは空を見上げる。
 夜空に色とりどりの大きな花火が咲いていた。
「オレは――このまま成り行きに身を任せてみようかな。きっと、どうにか道は開けるはずだから」
「それもまた、一つの選択だよね」
 納得したように頷く、満月と海梨を見て、清水は口を尖らせた。
「あー。俺だけ仲間外れー。三人だけ渡ったような口きいてー」
「だって実際、渡ったもんな?」
「うん。渡った」
「渡ったよ。でも口で説明するのは難しいなぁ」
 清水はフンと鼻を鳴らす。
「俺だけ仲間外れにしやがってー! もう知らねぇ」
 分かりやすく、いじけた清水を見て、満月は苦笑する。
「嘘だよ、洋介。実は、渡したいものがあってさ」
 満月はポケットからハンカチを取り出す。ハンカチをめくって、包んでいたものを丁寧に取り出すと......、
「これは......鏡?」
 割れて歪な形をした鏡の欠片が四つ、ハンカチの中から出てきた。
「これって、あそこに落ちていた......お前、持ってきてたのか」
 ミズワタリが消えた後、見つけた崖崩れの現場に落ちていたものだ。
「ミズワタリがいたっていう証拠」
 掌の鏡の破片は、夜空の花火を反射して色とりどりに輝いていた。まるで、ミズワタリの透き通った身体のように。
「本当は、こういうのは勝手に持ち出しちゃいけないんだろうけど、きっと捜査には関係のないものだから」
「うちの神社の御神体と同じ......」
 清水の言葉にハッとする。
 水渡神社の御神体の鏡は、ミズワタリが村を救った際そこに残されていたものだという話があった。
 ずっとミズワタリを求め続け、学者とまで言われたもの好きな彼は、その人生の最期にずっと探し求めていたものに出会えたんだ。この鏡が、それを示している。
「今日のこの不思議な出来事を、もう二度と忘れないように。ずっと持っていて欲しい」
 オレたちは頷いて、それぞれが一欠片ずつ鏡を取った。
 六年前も、二日前も、もちろん今だって、ミズワタリに会った時の記憶はまるで夢のように不確かだ。だから、今までミズワタリはいるって声を大にして言えなかった。だけど、この鏡があればいつだって、迷わないですむ。この村が――渡利村が、ミズワタリに会ったという伝説だけで、歩んできたように。
「祭りが、終わるね」
 海梨が呟いた。
 花火はもうすぐ終わりとみえて、空には一層大量の花が光り輝いている。
「忘れられない三日間だった」
 木の上から、神社の石段を見下ろすと大荷物を抱えた子供が神社に向かってくるのが見えた。
「あれ、清かな。オレの荷物持ってきてくれたんだ」
 満月は頷く。
「みたいだね」
「ってことは、オレももうすぐ渡利村とはお別れかー」
 手に持っていたコーラを、渇いた喉に流し込む。
「世話なったな。マンゲツ、ナシ、ミヤ!」
 三人は、顔を見合わせ、互いに頷いた。
「全くだぜ」
「私も迷惑かけたけどね」
「ありがとう、ウメボシ」
 最後の花火が、渡利村の空に大きく花開いた。


    エピローグ
    
「――久しぶりだな、二人とも」
『久しぶり、佑司くん。踞尾さんも携帯買ってもらったんだ』
『うん。親に頼んで買ってもらったの。少し渋い顔されたけどね』
 スピーカー越しに聞いた友人の声は、変わらず元気そうだった。
「あいかわらず海梨のお母さんは、頭が固いな」
『携帯持ってたら、娘に悪影響になるとか考えたのかな』
『かもしれない。でもね、お母さんとちゃんと話して、納得してもらったの。きっとお母さんも変わってきてる』
 そうか、それならよかった。
 オレはまるで自分のことのように、ほっと胸をなでおろす。
「その後、どうよ?」
『無事、第一志望の高校に合格しました! お母さんの行かせたかった私立の女子高じゃないけどね』
 そう言う海梨の声は弾んでいた。
『それは、おめでとう!』
『ふふっ。ありがとう。そういう満月くんは?』
『うん。春から東京。お母さんたちと一緒に住むよ。今は引っ越しの準備に追われてる』
『忙しいのに、電話なんかかけちゃってごめんね!』
『心配しないで。洋介にも手伝ってもらってるから』
 清水の名前にオレは思わず口を挟む。
「清水は、どうなったんだ?」
『洋介は隣町の高校に通うことになったって。あいつは、ああ見えて先生の信頼が厚いから、推薦で早々に決まってたんだけどね』
 オレはその言葉に少し驚く。
「へえ、意外。......そう言われれば清水は結構責任感強いよな。情に厚いというか」
『少年漫画の主人公みたいな』
「海梨、いい表現だな。そんな感じ!」
『二人とも、洋介のいないところで好き勝手言って......』
 満月の呆れたような声に、なんだか懐かしさを覚える。
『それで? 肝心の椿くんはあの後どうなったの?』
「え、オレ? オレは......」
 一瞬言葉に詰まっていると、海梨が『オレは?』と急かした。
「結局部活はやめなかったんだ。親には反対されたけど、ちゃんと引退したら勉強はするからって言って」
 あの日から、そのまま現状維持を続けた。
『じゃあ、陸上の全国大会出れたの?』
「それが......」
『?』
「メンバーの一人が、試合の前に故障しちゃってさ、全国には出られなかったんだ」
『そうだったの?』
「それでも、他の人よりは受験勉強に入るのが遅れて、結果的には第一志望には落ちた、と」
 オレは苦笑する。
『何それ、踏んだり蹴ったりじゃん!』
 海梨の驚いたような声にオレは軽い調子で笑ってみせる。
「はは、でも自分の選んだ道だから。後悔はしてないよ」
『そんなに簡単に割り切れるもの?』
「自分で決めた第一志望じゃないっていうのもあるけど......悪いことばかりじゃなかったしね」
 電話の向こうで、海梨が首を傾げたのが分かった。
「実はさ、第二志望が、満月と同じ学校で......」
『え、じゃあ二人は春から同じ高校に通うの!?』
『そうらしいね』
 少し楽しそうに、満月は言った。
『いいなー!』
 カマクラの言った通りだ。案外何もしなくても、なんとかなる。
『羨ましいなー二人とも。私も、大学は東京に行こうかなぁ......』
「いいんじゃないか? 来るといいよ、東京」
『そうだね。また、考えてみる。進路を決めるのに、また今から長い時間をかけることができるんだし』
 それに、と海梨は続ける。
『迷ったら、また渡利村に行けばいいしね!』
 それから、他愛ない世間話をして、別れのあいさつをした後オレはグループ通話の終了ボタンを押した。真新しいスマートフォンを、机の上に置く。
 部屋の窓からは、高層のビル群がそそり立っている。
 九か月前、神社の境内から見下ろしたあの景色とは、似ても似つかない。それでも、オレはあの日、この街でなんとか生きていくことを決めた。以前ほど、この灰色の景色にうんざりすることもなくなっていた。
 オレはベッドの上のリュックサックを背負い、部屋のドアを開ける。
 また、新しい春がやってくる。
 それぞれが、それぞれの道を歩んでいく。時に離れ、時に交わりながら。そうやって、少しずつ前に進んでいく――渡っていくのだと思う。
 スマートフォンの隣には、鏡の欠片が、春の日差しを受けて虹色に輝いていた。

おわり




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