エイベン様の旅行談

亀村



★

 初めてこの国に来た時、彼は任命されたばかりの若い司祭だった。
 司祭とは、神の意志を人間に伝える者。神の意志とは、人間を正しい道へと導くこと。
 必ずこの国の人たちを正しい道に導くと、司祭は誓った。

 しかし、この国の有様は残酷だった。
 ......いや、表から見る分にはそれほど酷くもなかった。道は整備されていたし、ほぼ全ての家が新築だった。少し前まで、この国は世界中に名を知られた列強だったのだ。
 残酷なのは、この国が置かれている状況だった。
「......うん?」
 若い司祭は膝のあたりから人気を感じた。小さくて痩せた少女が彼のズボンを引っ張っていた。
「おや、これはこれは、可愛いお嬢ちゃんだな」
「......」
「道にでも迷ってるのかい? 自分の国だというのに、だらしないな。家まで送ってやろう」
「あの、これ......」
「これは......手袋だな。お嬢ちゃんが編んだのかい?」
「うん」
「えらいな。私に買ってほしいと?」
「うん」
 そこで、若い司祭は違和感を覚えた。彼の顔から慈愛の笑みが消えていった。
「......あなた、親はどこだい」
「いない」
 やはり。
 三年前、この国の男はほぼ全員、戦争に動員された。海の向こう、遠いところで起きた戦争だった。幸い、戦争は大勝利で終わり、男たちの被害も少なかった。
 しかし、ちょうどその時期、この国周辺に正体不明の伝染病が猛威を振るっていた。終戦でやっと富と名誉得始めた男たちは、あえて命を懸けて故郷に戻る必要がなかった。そうやってこの国は、捨てられた。
 裕福な家庭で育った司祭は、こんな絶望の空気に慣れていなかった。
「そうか」
 若い司祭はリュックを開け、お昼に食べようとしたパンを少女に渡した。少女は餌をもらった小犬のように嬉しがった。尻尾があったなら振りまくる勢いだった。
「正しい道......か。あなたたちは、それどころじゃないんだな」
 ゾンビみたいに歩き回る人たちを見ながら、司祭は考えた。
 もし神がいるのなら、なぜこの国がこうなるまで放置したのだろうか。
 この国に、本当に神はいるのだろうか。

 いや、いなくても問題にはならない。
 いないのなら、自分が代わりに、神の役割を引き受けるまでだ。
「お嬢ちゃん。あなたの願いは何だい」
「願い......お父さんの宿がつぶれないでほしいな。いつかお父さんが帰ってくるかも知れないから」
「そうか。分かったぞ」
 司祭は知っていた。正しい道を歩むためには、まず立っている気力が必要だ。
 その気力を与えるのもまた、司祭の務めなのだろう。

*

「......ちぇっ。また気色悪い夢を見ちゃったの」
 司祭はソファーから起きて首を振った。
 杖を突いたまま窓の外を眺めると、まだ日も昇っていない真夜中だった。

★







不味いピザのような

 エイベンは黒い服を纏っていた。周りから喪服みたいだと不吉にされることもあったが、とにかくエイベンはその服が気に入った。風通しがよく、歩きやすかった。

「見ろ、キア。新しい国だ」
「......」
 エイベンが肩に向かって言った。そこに浮いている真っ青な羽色の小鳥。その小鳥こそがキアだった。
 キアはなかなか返事をしてくれなかった。仕方のないことだ。前の国から三日間、休みも取らず歩いてきたものだ。そろそろばててしまうのも無理ではないだろう。
「今度こそあってほしいものだね。我々が探しているものが」 
 とにかく、エイベンは言い続けた。事実上独り言のようなものだったから。エイベンはキアがなんと返事をしようが気にするつもりはなかった。


「どこからいらっしゃったんですか?」
 石垣に近づくと、門番に見える人が話をかけてきた。
「ミトランという国だ」
「なんと! それはそれは遠くから。さぞお疲れなんでしょうね」
「そうとも」
 門番は満面の笑みで答えた。何がそんなに嬉しいのか、笑いで揺れる肩が止まらなかった。
「ようこそ、我が国へ。どうぞごゆっくり休んで行ってください」
「助かる。では遠慮なく、そうしよう」
 その時、キアが爪でエイベンの髪の毛を蹴った。初対面の人にはもっと丁寧に喋れ、そう言っているようだった。確かに、エイベンの喋り方は極めて無礼だった。人間の、変に礼儀を弁えようとする言い方に、まだ慣れていないのだ。
 しかし、門番にはちっとも気にする様子がなかった。むしろ、その無礼な喋り方に好感を抱いているようにさえ見えた。
「ほら、キア。そんな余計なことを気にするでない」
「......」
 門番の案内についていくエイベンを、キアもいやいやついて飛んだ。

「しかし、かなり劣っているね。この国は」
 エイベンは城門を通り、街を見回しながら言った。今回ばかりは、キアも無言で同意するように見えた。架空もしていない石で築き上げた石垣もそうだったが、街の様子はいっそう酷かった。大通りは馬車の車輪が落ちるほど泥だらけで、屋根に穴が空いていない家が見当たらなかった。人々は誰もが古い継ぎはぎの服を着ていた。
「まともな宿が見つかるか、心配だね」
 しかし、運よく、宿はすぐ見つかった。宿の建物はこの街で一番良好な状態で、屋根に穴が一つしか空いていなかった。しかも、他の宿泊客が一人もいなかった。エイベンは部屋がないという心配はいらないだろうと思い、気分がよくなった。
「部屋はあるか」
「部屋はありますけど......泊められる部屋は二つしか残ってないですね。お客さん、運がよかったんですよ!」
「そうか」
「何日お泊りになるんですか?」
「さあ。探しているものを見つけたら、すぐにでも出るつもりだが」
「なるほど! じゃ、えっと......何日になるんですか?」
「君が思うには、何日かかりそうだい?」
「うん......そうですね。お客さんは頭がよさそうですから、三日?」
「では、三日にしよう」
「ありがとうございます!」
 宿の主人もまた、酷いと言うほど親切だった。彼女は管理部を作成しながらも、チラチラエイベンの方を見ながら笑って見せた。エイベンが主人を魅了してしまったのではないかと思うくらいだった。
 何かの企みがあるとも思えない。商売人としてお金を取るつもりだったら、三日などではなく、もっと長く答えることもできたはずなのに。
 エイベンはふと恐怖を感じた。代償のない好意とは、どれほど怖いものか......。
 そう思っていると、再びキアに殴られた。余計なことは考えなくていいから、お礼をちゃんと言え、とのことだった。
「......助かる」
 エイベンはキアの行動に疑問を感じた。なぜ殴るのだろう。言葉にすればいいものを。

 しかし、今度の国は何かいい予感がした。この国の人々が持っている理由なしの親切。それはきっと、エイベンが探しているものと何らかの関係があるはずだ。

*

「母上」
「なんですか?」
「愛とは、何なのですか?」
「......」
 エイベンは生まれて十三年になったころから、絶え間なくこの質問をして来た。だが母上は一度もまともな回答をくれなかった。くれるとしたら、「大人になったら、お分かりになるでしょう」みたいな、よく分からない回答だった。
 大人になると分かる、とは何か。まるで大人が子供より優れた存在であるかのような言い方ではないか。エイベンが見るに、大人と子供は大して変わらない存在だった。むしろ、肌がつやつやで筋肉が丈夫な子供の方が、優れさで言えば優位だった。
 
 ある日は、一人の女性がエイベンに近づいてきた。彼女は一輪の花を差し出しながら言った。
「エイベン様、貴方を愛しています。付き合ってください!」
 エイベンは嬉しかった。
 彼女こそはきっと、愛が何なのか分かっているはずだから。
「愛するとは、どういう意味なのだ」
「......はい?」
「どういう意味なのだ」
「えぇと、あの、エイベン様と一緒にいたいし、手もつなぎたいし......」
「手はなぜつなぎたいのか?」
「愛していますから?」
「おかしいではないか。愛しているから手をつなぎたいのに、手をつなぎたい理由は愛しているからとは。どっちが先なんだい?」
「......それで、告白は受けてくれるんですか? くれないんですか?」
「告白? 今、私に告白をしたのかい?」
「ええ、そうですよ」
「なぜこれを、告白と呼ぶのだ」
「私が隠していた本心を......一点の曇りもなく申しましたからです」
「隠していたとは。君がやけに私の方を見つめるのは、前々から知っていたつもりだが」
「......もう分かったから、付き合ってくれるんですよね? そういうことにしますよ」
 エイベンはその女性と付き合ってあげることにした。しかし、それが正確に何を意味するのかは理解できなかった。彼女は不意にエイベンの住処へやって来たり、エイベンの髪の毛を撫でたり、エイベンの服を脱がせようとした。とにかく、エイベンは三ヶ月ぐらい、彼女の言いなりになってあげた。
 三ヶ月が経ち、花が咲き誇れた庭でだった。彼女がエイベンの膝を枕いたまま言った。
「もう、愛とは何か、分かったんですか?」
「いや、分からない」
「......」
 そして次の日から、彼女はエイベンにやって来なくなった。エイベンはそれ以来しばらく、彼女と会えなかった。
 
 結局、親や周りの人からは分かることができなかった。
 エイベンは旅に出るしかなかった。愛とはどういうものなのか知るために、また、その愛と言うものをどこかで見つけ出すために。

*

 「キア、今回の国は言い予感がする。私はそう感じる。君はどうだい?」
 小さくて用心深い息が聞こえた。キアの寝息だった。
 エイベンはそんなキアが気に入っていた。キアは絶対にやって来なくなったりしないから、愛する必要もないだろう。


 エイベンは気持ちよく目覚めた。部屋のドアを柔らかくノックする音がした。カーテンの隙間から陽が射してくるのを見るに、もう遅い朝のようだった。
「パイを焼いたんです! 一皿どうぞ!」
 ドアを開けると、宿の主人が立っていた。
「うむ。ありがたい」
 エイベンはキアに殴られる前に、ちゃんと例を言っておいた。
 パイの臭いに目覚めたのか、いつの間にかキアがエイベンの頭上を飛んでいた。
「待ちなさい、キア。念のために、私が先に食べてみよう」
エイベンはパイに飛び込むキアを手で塞いだ。小鳥は人間に比べて体が弱い。少量の毒を飲んだだけですぐ死んでしまうのだ。
 宿主が優しい人なのは間違いないが、ここが見たことも聞いたこともないよその国だと言うことを忘れてはいけない。旅人には全てのものが新しいゆえに、全てのものに期待し、また全てのものに警戒もしなければいけない。
「どれ......」
 宿主が置いて行った鋭いナイフで、エイベンはパイを一かけら切り取った。パイなどを切り取るにはややもったいないぐらいの鋭さだった。ドアの前でナイフを持って立っていた宿主に殺意を感じるほどだった。
 ともかく、パイを食べる分には問題なかった。
 エイベンには、「美味しいものを食べること」こそ地上に存在する最もの幸福であり、生きていく理由であった。エイベンの親やあの女性は「愛」が食欲より幸せで大事なものだと言っていたが、エイベンはもちろん同意できなかった。
 食べることより大事なものはないだろう。
 しかし、エイベンが得ようとした至高の幸福は、噛めば噛むほど光を失って行き、やがて地底の煉獄に変わった。
「か、辛い。キア、水......水はどこだ」
 しかし、キアはエイベンの頭上をぐるぐる回っているだけだった。確かに、キアが水の在り処を知っているはずもなく、知っているとしてもそれを持って来る筋力がないはずた。
 エイベンは唾を集め辛うじて、口の中の火を消した。そして思った。
「パイ、であるはずだ。確かパイだと言っていたではないか。なのに、どうして辛いのだ」
 辛いパイと言うのは聞いたこと事がない。今まで寄ってきたどの国にも、そのようなものはなかった。
 しかも、辛くて美味しいのならともかく、これは明らかに不味かった。まるで唐辛子を黒く燃えるまで焼き、その上に塩と胡椒をかけたような不味さだった。
 そんな中で毒は入っていない。ということは、宿主に悪意はなかったということだ。間違って殺人兵器を作ることができるとは、実に恐ろしい。
「キア、やはり用心するべきだ。この国は油断はできない」
「......」
 キアはいつの間にか、パイから遠く離れたところに浮いていた。エイベンは注意深くパイの皿を取って、中身を窓の外に吹き捨てた。そして空いた皿を主人に戻してきた。
 しかし、キアはまだお腹がすいているようだった。エイベンも美味しい食事をしたかった。なので二人は、宿の外に出て適当なお店を探すことにした。

 エイベンは街に出て一番に出くわした娘に話かけた。この親切な国では、誰にどう話しかけようが答えが返ってきそうだった。
「やあ、一つ聞きたいのだが」
「はい! どうぞ!」
「この辺りで最も美味しいお店はどこだい?」
「美味しいお店、ですか? この国にあるお店は全部美味しいですよ!」
「いや、そんな訳はない。実際、この宿のパイは前例を見ない酷いものだった」
「......そうだったんですか。お口に合わなかったみたいですね」
「いかにも」
「すみません、私が代わりに謝りますから。たまに個性的な味を出すお店もあるけど......本当に、みんな最善を尽くして作ってますよ!」
「そうか。しかし、私は最善を尽くして作った美味しい料理が食べたい」
「なるほど......じゃあ、あっちにあるピザ屋さんはどうですか?」
「ピザか?」
 娘が指したところは、宿の隣にある小屋のような建物だった。この小屋もまた、屋根に幾つかの穴が空いていた。しかし、窓越しに見たお店の内部には空いている席がなかった。何人かは立ったまま、席が空くのを待っていた。
「なるほど。あれだけ客がいると、間違いないははずだ」
「はい! おすすめはバターオレンジ焼ピザです!」
「参考にする。ところで、何と言った?」
「バターオレンジ焼ピザです」
 エイベンはそのメニュー名から、辛いパイと同じぐらいの不吉さを感じた。しかし、少女の太陽のような笑顔がエイベンを向かっていて、そのような疑心を雪のように溶かしてしまった。
 ちょうどその時、誰かが近づいてきた。
「あ、ヘナ」
「こっちよ、アレン」
「遅れてごめん。母さんの仕事の手伝いで......」
「ううん。そんなに待ってないよ」
 娘と同じ年ぐらいの、若い男だった。娘はこの男と一緒に食事するためにピザ屋の前で待っていたようだった。
 それを眺めていたエイベンの目がつるんと光った。キアがエイベンを阻止しようとしたが、無駄だった。
「二人は、どういう関係なんだい?」
「はい?」
「どういう関係なんだい?」
「関係って......ただの幼馴染ですよ。小さいころから一緒の学校に通ってた。」
「ちぇっ、そうか」
 エイベンは失望を隠せようともしなかった。
 しかし、キアは気づいた。二人はお互いにある程度の恋愛感情を持っていて、その感情をお互いにはもちろん、エイベンみたいな初対面のおじさんにもバレたくないと思っていることを。
「私たちもこのお店で食べようと思うんですが、一緒にどうですか?」
 ヘナと言う娘が言った。
「そうしよう」
「......」
「助かる」
 キアがさせる通り例を言いながら、エイベンは何かを忘れているような感覚を覚えた。それは、テーブルに座ってメニュ版を見てからやっと、エイベンの頭の中に蘇った。
 バターオレンジ焼ピザ。
「ヘナと言ったが」
「はい」
「これは、本当に美味しいのか?」
 ヘナとアレンは惚れたような目でメニューを見ていた。全部美味しそうで何を選べばいいのか分からない、とでも言うような顔だった。
「もちろんです。我が国の料理はみんな素晴らしいけど、その中でもここのピザはトップクラスですよ」
 アレンが幼馴染に代わって答えた。その声にはほぼ狂信にも近い確信がこもっていた。
「そうか」
 エイベンは自分の不安よりも、この男女の確信に頼ってみることにした。一般的に不安には根拠がないが、確信には根拠があるからだ。
「しかし、この国の人々は皆親切だね。旅人を嫌う国も多いのだが」
 エイベンは注文を終え、窓の外を眺めながら言った。行き通う人たちの中に笑顔じゃない人はいなかった。馬車の車輪を泥に落とした御者さえ、幸せそうな笑顔で馬をなだめていた。
「そりゃそうですよ。私たちは、他のどの国の人たちよりも幸せですから。ね?」
「うん、本当に」
 若い男女が向かい合って笑う姿も、とても幸せそうだった。エイベンはその姿にこそ、何かが隠されていると思った。この独特な国についての秘密か何かが。
「なるほど。自らが幸せになると、他の者に親切になれると」
「そういうことです」
「だが、他のどの国よりも幸せだと、なぜ確信できる? 他の国行ってみたことがあるのか?」
「いえ、それはないんですけど......」
 アレンの声が小さくなると、ヘナが代わりに答えた。
「この国には、立派な司祭様がいらっしゃるんですよ。不幸な人がいないようにと気を配ってくれる、立派な方なんです」
 すると、アレンが少し怯えた顔で言った。
「ヘナ、それ......言ってもいいんだっけ?」
「うん? 別に、秘密ではないんじゃない? そう思ってたけど」
「そうだったかな。あはは、すみません。旅人さんが来るの自体、ずいぶん久しぶりで......思い違いだったみたいです」
 アレンがでれ照れ臭そうに笑った。ヘナも一緒に笑った。
 しかし、エイベンだけは先よりもまして真面目な顔だった。
「その司祭様は、どこにいるんだい?」
 しかし、ちょうど注文したピザが出た。若い男女は食べたくてもう我慢できないという顔をしていた。エイベンは聞きたかったことを後回しにするしかなかった。
 
 ピザを一口噛むと、アレンとヘナは幸せそうに微笑んだ。エイベンもその様子をしっかり確認してから、用心深くピザを持ち上げた。キアが緊張した表情で見ていた。
 しかし、バターオレンジ焼ピザは不味かった。何だかよく分からない悍ましい味が料理全体を支配し、バターの味もオレンジの味も、そしてパンの味ももろとも飲み込んでいた。さらに、パン部分の食感は煉瓦のように硬かった。
 それこそ、辛いパイなどは軽く超えるほどの災いだった。
 エイベンが再びアレンとヘナを見ると、二人もエイベンのように吐きそうな酷い顔になっていた。一口、二口とピザを噛むのが、とても辛そうに見えた。
「......ヘナと言ったか。味はどうだい?」
「あの......美味しい、です......ねえ、アレン?」
「う、うん。やっぱりこのお店のピザは最高だぜ」
 そう言いながらも、二人は押され切ったばねのように眉を顰めていた。
「正直に言いたまえ。それは美味しいと言う者の顔には見えないんだが」
「いえ、それは......」
 エイベンが何回か重ねて追及しても、アレンとヘナは最後までピザが美味しいと言い張った。そしてそれぞれの分のピザを残さず食べ切った。
 一方、エイベンはたった一かけら以外、全部残した。残すほかなかった。
「吐き出すのなら止める気はない。安心して出したまえ」
「そんな......」
 ヘナはそう答えながらも、今にも吐きそうな顔だった。
「......そんな必要、ないですよ」
「......そうか。では、そろそろ店を出るとしよう」
「ちょっとだけ待ってくださいね」
 食事を終え会計を済ましてからも、ヘナは席には立つ気配を見せなかった。
 その代わり、彼女はハンドバックから小さいガラス瓶を取り出した。横で見ていたアレンもポケットから同じものを出した。
 二人は約束でもしたように、ガラス瓶の蓋を開け、その中に入っている桃色の液体を飲み干した。食後に飲む消化剤にしては変な色だった。
「それは、何なんだい?」
 エイベンが慌てて聞くと、ヘナが口元を拭きながら答えた。
「司祭様にもらった薬ですよ。幸せになる薬」
 液体を飲んだアレンとヘナは、どこか違った。お互いを眺め合い、軽く冗談を交わしながら笑っていた。悪夢のようなバターオレンジ焼ピザの味なんかは、もうすっかり忘れたようだった。
 いや、「忘れたよう」なのではなく、本当に忘れてしまったのだろうか。
 エイベンは低い声で聞いた。
「......どうだったかな? バターオレンジ焼ピザの味は」
「ピザ? あ、ピザを食べたんですね」
「多分、美味しかったんでしょう。ほら、横の人たちもあんなに美味しそうに食べてますから」
 アレンとヘナがほぼ同時に答えた。今度は顰める気配もなく、本気でそう言っているように見えた。
 二人は、エイベンの親がそうであったように、限りなく幸せそうだった。


 二人と別れた後、エイベンは司祭がいる所を探り回った。道を通う人たちに尋ねると、少し躊躇いながらも結局、皆親切に教えてくれた。
「司祭か。一体誰に仕える司祭なのか......気になるところだね、キア」
「......」
 キアは昨日からずっと無口だった。今も黙ったまま、エイベンの後ろに浮いているだけだった。
 
 親を含めた人々は、愛というものがご飯よりも大切だと言っていた。それと同じく、ある人たちは「宗教」というものがご飯よりも大切だという。
 もちろん、エイベンにはどっちも理解できなかったうえ、理解するつもりもなかった。最も大事なものはやはりご飯だ。
 しかし、今まで寄ってきたほとんどの国には、神官か司祭か、もしくは部族長か、どれか一つは必ず存在した。つまり、宗教と言うのは人々にとって本当に大切なもののようだった。
「司祭は、何か知っていればいいのだが」

 司祭が住んでいると言う教会は急な坂道の上にあった。教会も他の建物と同じく、酷く粗末な姿だった。扉の上に木作の十字架がかかっていなかったら、馬の厩舎と区別がつかないくらいだった。
「たのもう」
 もったいぶって言うエイベンの頭を、キアの爪が引っ掻いた。もう少しまともで礼儀正しい挨拶をしろ、とのことだった。
 エイベンは今一納得がいかなかったが、頭を抱えながら言い直した。
「......失礼する」
 すると、中から一人の老人が杖を突いて出てきた。曲がった腰としわしわな顔から察するに、早速明日息を引き取ってもおかしくないような年に見えた。
「君がこの国の司祭か」
「そうじゃ」
 老人は機嫌を損ねたように顔を顰めた。しかし、単に腰が痛いからだったのかも知れない。
「お主は......見慣れぬ顔じゃの。旅人さんかい?」
「そうだ」
「立ち話もなんじゃ。中へいらっしゃぬか」
 狭い廊下を抜けると、台所が出た。建物の外観と違って、台所だけは立派だった。十人が脚を伸ばして食事できるぐらいは広く、よく拭かれた木色の床からつやが出ていた。
 しかし、台所にしてはどこか不自然だった。食卓の横に怪しげな革袋が何玉も置いてあって、そこから変な臭いがにじみ出ていた。草の根みたいに野暮ったく、鼻をかきむしるような臭いだった。
「ほれ、こんな老いぼれになんの用じゃ」
「大したものではない。ただ、一つ聞きたいものがある」
「聞きたいもの、か」
 そこで老人は、ゲホゲホと、体中が揺れるほど激しい咳を吐いた。エイベンは老人が死んでしまうのではないかと心配したが、老人はすぐ「すまんの」と結んで、咳を止めた。人間の生命力とは実に粘り強いものだな、とエイベンは感心した。そして質問を続けた。
「君がこの国の人々を幸せにすると、そう聞いたが」
「ほほ、そりゃあ褒め過ぎじゃ」
「特に褒めてはいない」
「どっちでもよかろう。そんで、お主も幸せになりたいのかい?」
 エイベンは少し考えてから言った。
「幸せとは何なんだい?」
「......難しいことを聞くの」
 老人はしばらく頬杖をしたまま、凍ったように動かなかった。エイベンは老人が死んだのかと思い、顔を近くして探ってみた。しかし、老人の鼻からはまだちゃんと息が出ていた。
 エイベンが興味を失って顔をそらしたころ、老人が口を開けた。
「不幸じゃないのが幸せじゃ」
「それは知っている」
「そうかい」
「だが、不幸とは何なんだ?」
「不幸か......お主が望むことが起きなかったり、望まないことが起きたりすると、お主は不幸じゃと言える」
 エイベンはまたしばらく考えてから、答えた。
「しかし、人生とは大概望む通りに行かないものだ。すると、全ての人生は不幸なのか?」
「......その通りじゃ」
 老人の声はとても小さかったが、しっかり聞こえた。
「この国の人々は、そんな意味で、極めて不幸だったんじゃ。わしが来る前まではの」
 老人は腰を曲げたまま席から立ちあがった。そして棚の方へ向かい、どこかで見たようなガラス瓶を取って戻った。桃色の液体が入った、細い瓶だった。
「これが何か、分かるかの?」
「幸せにしてくれる薬、だそうだが」
「......正確には、不幸を忘れさせてくれる薬、じゃ」
 老人がガラス瓶をエイベンに投げつけた。ぼうっとしていたエイベンは飛んでくる瓶に反応できず、代わりにキアが飛び込んでそれを掴んだ。
「その薬を一本飲むと、飲んだ瞬間から前後二十四時間以内に起きた「不幸な記憶」を消し去ることができるんじゃ。つまり、二日に一本飲むと絶えなく効果が続く。飲み続けると神経が馴染んで、永久な効果を得ることもできるがの」
 エイベンは頷きながら、キアが掴んできたガラス瓶を見つめた。
「この国の人たちは皆、これを飲んでいるのか?」
「二十歳以上の国民は皆、じゃ」
「それはなぜだ」
「理由は二つじゃ。一つ目は、基本的な教育のため。幼いころは、勉強すること、親に叱られること、などなどもすべて不幸なことだと思ってしまうんじゃ。そんで薬を飲むと、人間としての常識や教養も全て忘れてしまう。そんなんじゃまともな人間にはなれないからの」
「なるほど」
 エイベンはこの国の様子を思い浮かべた。衰えた道路と家々、見慣れぬ旅人にさえ親切な人々。
 この国の技術と教育は、二十歳で止まっているのだ。二十歳を超えた人はみんな薬を飲んで、仕事、研究、勉強など、「不幸なこと」を全て頭から消し去ってしまう。だから穴が空いた屋根を直せる技術者も、よそ者を警戒できる大人っぽい人もいないのだ。
「二つ目の理由は?」
 延々と黙っている老人を、エイベンが急き立てた。
「二つ目は......大人が子供より不幸だからじゃ」
 老人の声はいっそう小さくなっていた。なぜか腰も先より曲がっているようだった。
 しかし、エイベンは老人の言葉を理解できなかった。
「なぜ、そうなんだ」
「お主は不幸ではないようじゃの」
「そう見えるか?」
「......」
 老人は黙ったまま、エイベンの光る眼を凝視した。そして時計の時針のように、ゆっくりと首を振った。
「その薬は持ってって構わん。飲むか飲まないかは、お主の勝手じゃ」
「いくらだ?」
「タダじゃ。金を取ったことは一度もないわい」
「助かる」
 片手を振る老人に、それ以上話す意思はないようだった。その片手で、だぶだぶな手袋が一緒に揺れていた。手袋をするほど寒い季節ではないはずだった。
 エイベンはそのまま席を立とうとした。しかし、とても大事なことを聞き忘れたと、ふと思い出した。
「悪いが、もう一つだけ聞こう」
「なんじゃ」
「この薬を飲むと、愛とは何なのか、分かるのだろうか」
「そりゃ......場合によって違うじゃろ。分かるかも知れんが、一生分からなくなるかも知れん」
「......なぜだ?」
 慎重に言葉を選ぶのか、それともしわくちゃな口をまた開くのがしんどいのか、老人はかなりの時間が経ってからやっと答えった。
「......さあの」
 そう言った老人は、また体中を揺らしながら咳を吐き続けた。今度こそ死ぬのかも知れないと思ったが、やはり老人はそのうち咳を止め、「そんじゃ、お気をつけて」と別れを言った。エイベンにそんな老人を追求することはできなかった。

 坂道を下りながら、エイベンはガラス瓶の中身を見つめていた。
「キア、飲んでみるかい?」
「......」
 そう聞くと、キアは間隔を空け遠くに逃げてしまった。エイベンも飲みたい気分にはならなかった。
「しかし、人間は思ったより賢いんだね。私より多くを知っているに違いない」
「......」
 キアが同意するのかどうか、分からなかった。
 そりゃ確かに、人間ではないキアに聞いても仕方のないことだった。
 また、人間ではないエイベンが考えても、仕方のないことだった。

*

 コホ、コホコホコホコホコホ
 乾いて鋭い咳の音が続いた。エイベンはその音が耳に障るとは思わなかった。むしろ、その女性が近いうちその咳を止めるという、永遠に止めるという事実が、エイベンの神経に障っていた。
「なぜ、そんなに咳をするんだい」
「年を取ったからです」
「人間は年を取ったら、咳をするのか?」
「咳だけではないんです。醜くなるんですよ。身も心もたくさん傷ついて、しわしわになって、こんなみっともない姿になるんです」
「私の目には、みっともなくないんだが」
「そうなんですか?」
「そう。むしろ、前より美しく見える。身も心も」
「......それを昔言ってくださったら、もっと嬉しかったでしょうに」
 かつて照れ臭そうにお花を渡した女性は、いつの間にか、明日死んでもおかしくない老婆になっていた。年を取らないエイベンは、彼女の友達として、その横に座っていた。
「神様って羨ましいですね」
「なぜだ」
「死にませんから」
「ふむ。私は、君の方が羨ましいんだが」
「何でですか?」
「周りの人より早く死ねるからだ」
「......」
 女性は、エイベンの目できらっと光る雫を見た。神も涙を流すのだと、女性は知らなかった。それを死ぬ寸前に目撃することになろうとも、知らなかった。
「......それで、エイベン様。愛が何なのかは、分かったのですか?」
「いや、分からない」
「よかった」
「なぜよかったんだ?」
「私ではない人と分かってしまったら、少し悲しくなりますから」
「......なるほど。愛は独りでは分からないと。参考になる」
「やめてください」
「何を、だ?」
「私が死んだら、愛を探し回るのは止めてください」
「......」
「約束してくれますか? してくれなかったら......」
「してあげなかったら、どうなるんだい?」
「今すぐ舌を噛んで死にます」
「どうせもうすぐ死ぬんではないか」
「もういい。どうせエイベン様に、愛は無理でしょうね」
 女性の咳は数日後、永遠に止まってしまった。エイベンは三日間休まず涙を流した。それが悲しみだと言うことは、エイベンにもすぐに分かった。

*

 しかし、その悲しみは愛だったのだろうか、愛ではなかったのだろうか。
 幸福だったのか、不幸だったのか。
 今になっては見当も付かないことだ。あの時も付かなかったのだが。

 エイベンは大通りを歩く人々を見ながら、そう思った。
 やはり、笑顔じゃない人は見当たらなかった。不幸をさっぱり忘れ去った人たちの表情とは、実に美しいものだった。

「私も、ああなれるのだろうか、キア」
「......」
「この薬を飲むと、飲んで全てを忘れると、私もああ笑えるはずではないか」
「......」
 キアは相変わらず返事をしなかった。
 
 
 宿に入ると、アレンとヘナがカウンターに並んで立っていた。
「やあ、こんなところでまた合うとは。どうしたんだい」
 二人は宿の主人と話をする最中だった。エイベンが呼ぶと、びっくりした様子で後ろを振り向いた。二人の顔が一双のチェリーみたいに赤かった。
「部屋は、お一つでよろしいですね?」
 ちょうどその時、宿主がふと言った。恐らく、二人が最も隠したかった秘密がそれだったはずだ。
 宿の同じ部屋で泊まる、二人の男女。
 エイベンはこの場合部屋で何が起こりうるのか、全く分からなかった。エイベンは愛を知らないゆえに、愛する二人がどのような行為をするのかも知らなかった。
 だからこそ、エイベンは抑制できない興味を感じた。それは、誠実な学生が未知の学問に対して抱く向学心に近かった。
「ほお」
「お願いですから、見ないふりして消えてくれませんか」
「もちろん。私は何も見ていない」
「ありがとうございます」
「ところで、私が見学をしてもよいかな」
「はい?」
「見学、だ」
「何を?」
「君たちの部屋」
「......」
 アレンが変質者を見る目で睨みつき、ヘナは狂人を見るような怯えた顔をした。
「いいわけないでしょ」
「心配はいらないよ。私は君たちにはまるで興味がない。君たちが何をするかに興味を持つだけだ」
「何を言ってるのか分かりません。行こう、ヘナ」
「うん......」
 アレンはヘナを庇うような姿勢で階段を上り、二階へと消えた。二人の表情がこの上なく不愉快そうに見えた。
 しかし、不愉快さは小さい不幸のようなものだ。彼らは間もなく、エイベンの不愉快な要求をさっぱり忘れてしまうだろう。
 司祭にもらった桃色の薬を飲むことで。
「ふふ、若い人たちは放っておいてあげましょう。人生の一番いい時ですから」
 宿の主人がやらしく笑った。 
 一番いい時、か。エイベンはこう考えた。それがこの国の人たちに何の意味があるのだろう。
 どうせ不幸なことを全て忘れるのなら、彼らの人生はいい時だらけではないか。死ぬ前まで、ずっといい時が続くわけではないか。
 それを本当に「いい時」だと呼べるのか。
 人は道端で銅貨一枚を拾うだけでも嬉しがるが、毎月袋いっぱい入ってくる月給には、足りないと愚痴を言う。
 人は自分が持っている幸運に喜ぶが、自分が持っている日常には喜べない。

 幸福が日常になると、人は本当に幸せになるのだろうか。

......という話を、エイベンは向かいに座った宿主に言っていた。彼女とエイベンの手には、いつの間にかでっかいジョッキのビールが握られていた。
 宿主は半分ぐらい酔った口調でこう答えた。
「でも、喜ぶべき日常すら持ってない人ただって、いるもの」
 エイベンは頷いた。そして宿主の顔があるところをちらっと見た。そこには、世界で最も哀れな、あるいは最も哀れだった女の笑みがあった。
「だから、幸せな人たちは、そのまま放っておくべきなんですよ」
 いかにも、その通りだ。エイベンはもう一度頷きながら同意した。
 が、計画を諦めるつもりはなかった。アレンとヘナの部屋を見学させてもらうよいう計画を。


 部屋に戻ったエイベンはベットに腰かけた。そして窓際に座ったキアを慎重に見つめていた。まるでお祈りする信者のような熱烈な眼差しだった。
「いいかい、キア。彼らの部屋は、ここから東に三つ離れた所にある。窓越しに彼らが何をしているのか綿密に観察し、戻って私に伝えてくれるんだ。なるべく生々しく、正確にね」
「......」
「君が乗る気じゃないのは理解する。だが、考えてごらん。これは人間たちが俗に言う犯罪ではない。すべての部屋には窓がついていて、君みたいな小鳥が飛びながらその中を覗くのは仕方のないことだ。人間たちは部屋を作る時に、公然と同意しているのだ。飛べる存在には窓の中を見られてもよい、とね」
「......」
「しかも、観察の後、私に伝えたくなくなったら、それでいい。君は私に指図を受ける存在ではないからね。君はあくまで「偶然」に、窓の中を見るんだ」
 エイベンの部屋にある窓には、日差しを防ぐための薄いカーテンしかなついてかった。アレンとヘナの部屋も同じであるはずだった。キアの優れた視力を用いると、いくらでも中を覗くことができると言うことだった。
 キアはそう簡単には納得してくれなかった。しかし、次の街で一番高価なミミズを食べさせてあげると言う約束にはついに心が動いたのか、結局いやいや窓の外へと飛び上がった。
 エイベンはそれでもじっとしていられなくなり、部屋の壁に耳をくっつけていることにした。三つも離れた部屋ではあるが、運よく間の部屋はすべて空のはずだった。静かにすれば辛うじて、二人の声ぐらいは聞こえるだろう。
「......れは、なに......?」
 ヘナの声だった。何だか怒っている様子だった。
 おかしい。愛する二人が同じ部屋にいるのに、どうしたら怒ることができると言うのか。
 エイベンは聞き間違いかも知れないと思い、また耳を澄ました。
「いや......」
「......ても、私......信じてたのに......」
「ヘナ......その......じゃなくて......」
「いや! ......消え......」
「......ついて......んで......」
 途切れ途切れに聞こえるだけだったが、どうやら尋常じゃない雰囲気だった。
 エイベンはこう思った。あれは愛する人同士というより、まるで殺意を抱いた敵同士みたいではないか。
 だが、エイベンは何もせずにいることにした。例え今、あの二人の関係が間違って行っているとしても、エイベンはそもそも、正しい関係が何なのか知らないのだ。従って、矯正の仕様がない。
 もしかすると、愛する人たちはもともと、ああやって対抗し合うものなのかも知れない。まるで敵みたいに。

「......」
 だんだん大きくなっていたアレンとヘナの声が、急にばったりと切れた。
 その後は、聞いているだけでも苦しい静寂がやって来た。
 風の音だけが激しくなり、やがてキアが窓際に戻ってきた。そしてゆっくりそのくちばしを開いた。
「これは大ごとだぞ、エイベン」
「そのようだね」
 エイベンはドアを開けて走り出した。余計なことではくちばしを開かないキアが、喋ったのだ。本当に大ごとになったに間違いない。
 廊下を走る途中、キアは本当に生々しく、正確に現場を伝えてくれた。その説明によると、こうであった。ベットに座ったアレンとヘナの体がどんどん近くなって行き、二人の顔が触れ合おうとしたその瞬間、ヘナがアレンの首筋から見知らぬ口紅の跡を見つけたのだ。
 キアの説明が止むも前に、エイベンはかつて愛し合っていた人たちの部屋に着いた。
「あ......あ......」
 部屋にはどこか幻のような空気がにじんでいた。鼻を刺激する血の臭いのせいだったのかも知れない。
 ベットにアレンが倒れ、逆流する排水口のように血を吹き出していた。その胸にはナイフが刺さっていた。たかがパイなどを切るには、あまりにも鋭いナイフだった。
 ヘナはベットから落ちたような姿勢のまま、床に座り込んでいた。両手で顔を覆い、止まらず肩を揺らした。
「ヘナと言ったか。一体何があった」
「私が、私が......」
「よくわかった。先ずは少し、落ちつきたまえ」
「ぐ、ぐぇえっ......」
 ヘナは何の栄養も含まれていなさそうな、胃液みたいなものを吐き出した。床が濡れていることから見て、初の嘔吐ではないようだった。
 彼女の惨めにゆがんだ目鼻立ちを見ながら、エイベンは思った。不幸は残酷だ。しかし、幸福だったものが不幸に変わる様はもっと残酷だ。
 そして最も残酷なものはこういう時だ。幸福が不幸に変わる様を、ヘナみたいな、不味いピザほどの不幸すら知らない者が迎える時。
 そりゃ、床に反吐を吐いてもおかしくはない。

 エイベンは宿の主人を呼ぼうとした。しかし、それより先にどんどんと、階段を鳴らす音が近づいてきた。
「何でこんなに騒がしい......ひ、ひいっ」
 宿の主人はドアを開け切れず閉じてしまった。一瞬ため息に近い悲鳴が聞こえた気もした。エイベンはすぐ走り出して彼女の肩を掴んだ。
「た、助けてください!」
「君に危害を加える気はない。それより、何か手を打ったらどうだい。ここは君の宿ではないか」
「しら、私は、何も、しらな......あっ、そうだ!」
 宿の主人はそう叫びながら、少し正気を戻したみたいだった。するとエプロンの中に手を入れ、桃色の液体が詰まった瓶を出し、飲み干した。
「......」
 エイベンは、ただただその様子を見守っていた。

 しばらくしてから、宿主の表情は目立つほど明るくなった。それを見たエイベンが再び聞いた。
「先ほど来た、若い男女の客があるだろう。彼らは、どうするんだい?」
「え? さあ......私の覚えでは、ここに泊っているのはお客さん一人、ですけどね」
「そうか」
 宿主は口笛を吹きながら階段を下りて行った。その後ろ姿を見ていたエイベンが、また言った。
「もう一つ聞こう」
「はい! どうぞ」
「この宿には空いている部屋が山ほどあったね。だが、君は二つの部屋以外には客を入れなかった。それは、なぜか?」
「......私には、分かりません。司祭様が空けないように注意してくれた部屋たちなんですよ。不幸を招く悪魔がやどった部屋、ってね」
 エイベンは思った。そう、「不幸を招く悪魔」か。間違ってはいないだろう。
 ここにある他の部屋を開けてみたい気分には、エイベンもならなかった。
 
 一体この宿で、この国で、今日みたいなことが何度起きたのだろう。
誰も覚えてはいないだろうが。


 エイベンは中途半端な睡眠をとった。ぐっすり眠れてはいなかったが、寝れなかったわけでもない。エイベンとキア、そして宿主以外誰も生きていない宿は、ものすごく静かだった。
 日が昇るとすぐ、エイベンはキアを起こした。この国で向かう三日目の朝だった。
「残念ですね。本当に三日で立ってしまうなんて。もうちょっといらっしゃったらいいのに」
「心から遠慮しよう」
 エイベンは激しく手を振った。一方、宿主は最初に合ったころと同じく、幸せそうに笑った 。

 宿の外に出ると、多くの人々がお別れを言いたいとエイベンを待っていた。道を案内してもらった村人から、ピザ屋の料理人、通り過ぎた御者、城門の門番まで、エイベンに向かって手を振った。
 もちろん、その中には、夜中に家に帰っていたヘナもいた。
「近くを通ることがあったら、是非また寄ってください!」
 ヘナを含めた群衆は、本気で別れを悲しんでいるように見えた。
 しかし、それが本気なら、彼らにとって別れは不幸だ。別れも、別れを招いた出会いも、彼らはまもなく忘れてしまうだろう。
 エイベンは手を振るヘナの方に近づいた。ヘナが覚えているエイベンは、ただお昼で美味しいピザを一緒に食べた旅人に過ぎないはずだった。
「ヘナと言ったか」
「そろそろ覚えてください。もう三度目会うのに」
「なぜ、三度目なんだい?」
「ピザ屋で一回、あとは......あれ?」
「それはいい。ところで、君が覚えている最も幸せな記憶は、何だい?」
「うん......初収入で親にスカーフを買ってあげたら、喜んでもらいましたよ」
「そうか。アレンとはそんな思い出がなかったのか?」
「はい?」
「......いや、悪かった」
 エイベンはぎこちない動作で後ろを向いた。背後から、ヘナを含めた皆が「さよなら」とか「また来てね」とかのお別れを言っていた。
 エイベンが首を上げると、いつの間にか、そこには老いた司祭が立っていた。
「......あの子にとって、愛は不幸だったんだね」
「そうじゃ」
「だが、君の薬のおかげで、誰も不幸にはなんていない」
「その通りじゃ。死んだ人は、幸福な記憶だけを持ったまま死んだ。生きている人は、皆、死そのものを忘れた。この国での死は、ハエ一匹よりも無害なんじゃ」
「そうか」
 死とか、そんなのはどうでもよかった。エイベンが気になることはただ一つだった。
「あの子、ヘナという子は、いつか幸せな愛をすることができるのか?」
 人間だったら皆不幸を記憶し、二度と不幸にならないために足掻く。幸せは、そのような足掻きから得られるものだ。
「運任せじゃ」
「運、か」
「そう、運じゃ。覚えない人間には足掻くこともできない。代わりに、全てを運に任せるんじゃ。人によっては、それが楽な人もおる」
「......なるほど」
「......」
「......」
「......何も言わんのじゃの」
「何か、言うべきだったのか?」
「昔、ここに来たある男が言ったんじゃ。この国は間違っている、だから変わるべきだと。そして自ら前に出て、この国を「救う」ために頑張ったんじゃ」
「それで、どうなった」
「......さあの」
 そこで、老人は口を噤んだ。エイベンは直観的に、それ以上の返事は期待できないと知った。
 だから、思うまま言うことにした。
「私は、その男が正しい行動をとったと思うんだが」
「......そうかい」
「ただ、私にそんな真似はできない」
「そうかい?」
「いかにも。私はただの、無知蒙昧の旅人なんでね」
 老人は杖に体重のすべてを任して突っ立っていた。まるで根を下ろした古木みたいだった。エイベンが今度こそ死んだかと思い近づいたが、やはり老人はまだ息をしていた。何かを考えこんでいるようだった
 エイベンはそんな彼にお別れを言った。
 

 城門が完全に見えなくなるまで、エイベンは振り向かなかった。そこにエイベンが探すものはないと、もう分かっていたからだ。
「キア、私はこの国に住みたくはない。だが、この国で生まれていたら、よかったかも知れないね」
「......」
 キアはやはり答えてくれなかった。これからまた続く新しい国への強行軍に対し、好ましくなく思っているのかも知れない。
「ここでは、愛と言うものを見つけられる気がしたんだけど」
「......」
「むしろ、遠ざかった気がするね」
 キアには悪いが、エイベンは求めるものを見つけるまで、足を止める気がなかった。ここにないのならあそこに、あそこにないのならどこかに。何十個も、何百個も、新しい国へと尋ねに行くつもりだった。

 



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