神と人とは相容れぬ⑥

きなこもち



第六章
 目が覚めてからの時間は穏やかに過ぎた。事故から一年近く眠っていたそうで、高校は一年留年することになったが、友達はお見舞いに来てくれるし、家族も私のリハビリなどを積極的に支えてくれた。
 この年の一年間って意外と大きくて、なんだか浦島太郎の気分だ。
「幸姉ちゃん、お客さんだよー」
「はーい」
 弟の福太が病室の扉を勢いよく開いて誰かを連れてきた。背の高い男の人。見たことある気がするけれど私に年上の知り合いなんていたかな。
「福太、その人どなた?」
「え、幸姉ちゃんの友達なんじゃないのー? 姉ちゃんに会いたいって勇君が言うから、てっきり知り合いなのかと思ったのになー」
 福太は、勇君と呼んだ男性にニコニコと笑いかけながら、私たちの関係性を聞き出そうとしている。関係性もなにも初対面なのだから、彼が答えられるはずもなく。
「すみません、お名前をお伺いしてもいいですか。あとできれば、私たちの関係も」
 彼は困ったように笑いながら、すみません、と呟いた。
「俺も関係はよく分からないんです。ただ、姉さんの見舞いに来たときにあなたを見かけて、最近どこかでお会いしたような気がして。それが妙に気になってしまって。俺は神田勇と言います」
 名前まで言うと、はっとしたかのように、ナンパじゃないですと慌てて付け加えた。
「大丈夫ですよ。私も何故か貴方に会ったことがあるような気がするので。私は神石幸代です。よろしくお願いします」
「本当に初対面なのー? ていうか、姉ちゃんはちょっと前に起きたばっかりだから、最近会えるはずないのにねー。変なのー」
 確かに福太の言うとおりだ。私を初めて見かけたときに、最近会った気がするという印象を抱くのは、私の状況からしておかしい。彼だけがそう言うのであれば、人違いとか他人の空似って言えるのに、私も会ったことがあるような気がするのが厄介だ。
「まあでも、そのうち思い出すかも知れないですし。これからよろしくお願いします」
 そう言って手を差し出せば、何故かその手を福太が掴んできた。私の手を掴もうとした神田さんの手は行き場を失う。彼は苦笑いしながら手を引っ込める。
「福太どうしたの? 神田さんに失礼だよ」
「えー、だってー。よろしくされちゃうと困るんだもん。僕もだし、他の方たちもだし」
 他の方って誰のことだろう。ていうか、私と神田さんが知り合いになったからって、福太だって困らないだろうに。
「とにかく、よろしくしちゃ駄目だよー」
 今日の福太はどうしたのだろう。記憶の中の福太は聞き分けの良い子だったはずなのに。
 このままでは神田さんに失礼だ。
「神田さん、すみません」
「大丈夫ですよ。急に大事なお姉さんに近づく男がいたら、確かに警戒するよね。俺の方こそ突然すみませんでした。また話せると嬉しいです」
「もう会わせないもんねー」
 手を振りながら病室を出ていく神田さんに福太はべーっと舌を出していた。神田さんが病室を出ていったあと、福太は私の手を解放した。
「福太、さっきの態度は失礼だよ。福太が連れてきたのに」
「だって、普通に友達だと思ったから。あんなナンパ野郎だなんて思ってなかったし」
 可愛い。私の弟が可愛い。記憶の中の小学一年生の福太も可愛かったけれど、三年生の福太も可愛い。姉バカって分かっているけれど可愛いものは可愛いのだ。
「僕はね、幸姉ちゃんには幸せになって欲しいんだ」
『僕はね、彼らには笑っていて欲しいんだ』
 え。これは誰の声だっけ。誰かが私に今みたいなことを言った気がする。誰だっけ。
 話し方が福太に似ていた気がする。普段は少し間延びした話し方の癖に、真剣なときはきちんと話す。福太は幼稚園のときからそうで、しっかりした子だなって思った記憶がある。そんな福太に似ている知り合いなんていたかな。
「幸姉ちゃん、どうしたの?」
 福太の声に、意識が引き戻される。
「ううん、なんでもないよ」
「そっかー。あのねあのね」
 私のベッドの縁に腰掛けて足をパタパタさせながら今日あったことを話してくれる福太。そういえば、縁側でも足をパタパタさせていたっけ。
 あれ、私の家に縁側なんてあったっけ。
 私の家は住宅街にある普通の一軒家だ。濡れ縁はあれど縁側なんて無い。
 私は何を忘れているのだろう。誰を福太に重ねているのだろう。
 分からない、思い出せない。
「幸姉ちゃん?」
「んー。ちゃんと聞いてるよ」
「幸姉ちゃんさ、眠ってる間って何か夢とか見てた?」
「夢?」
 そういえば、目を覚ます直前に何か悲しい夢を見ていた気がしないでもない。でも、全く内容は思い出せない。
「何か、悲しい夢を見ていた気がするのだけれどね。思い出せないんだあ。まあ、所詮夢だしね」
「ふーん。まあ、幸姉ちゃんがいいなら、それでいいやー」
 今日の福太はなんだか少し変だ。間延びした話し方のせいで頭が悪そうに見えるが、この子はきっと賢い。勉強もできるが勉強どうのこうのじゃなくて、人の気持ちや雰囲気に敏いところがある。幼さゆえかどうかは分からないけれど。その子が要領を得ない、変なことばかり言っている。
 まあ、可愛いからいいや。
「ひょっとして、神田さんのせいで私がいなくなるとでも思った?」
 期待を大分込めて意地悪く聞いてみた。
「んー。幸姉ちゃんがいなくなるのは、ちょっと寂しいなー」
 ちょっと......。私がいなくなっても、福太にとってはちょっと寂しい程度なのか。かなり悲しい。
 私の表情を読んだのか、福太は笑いながら言った。
「さっきも言ったけれど、僕は幸姉ちゃんに幸せになって欲しいの。幸姉ちゃんが幸せのために僕の前からいなくなるのであれば、僕は何も言わない。でも、勇君は違うからダメ」
 年齢にそぐわない発言のような気もするが、気持ちは嬉しい。頭を撫でてやれば、もっともっとと喜んでくれる。
 こんなに可愛い弟を残してどこに行くと言うのだろう。あー、結婚させたくない。私は絶対口うるさい小姑になりそうだ。
「幸姉ちゃん。大事なことは早めに思い出した方がいいよ。気が付いたときには全部手遅れ、なんて笑えないしね」
 福太の言葉に、何か無視できないものを感じた。
 その一週間後、私は無事に退院した。リハビリや経過観察のために定期的に病院に行くことはあっても、それ以外は事故の前の日常が戻っていた。
「いってきまーす」
 私が事故にあったのは高二の終わり頃だったので、先生たちが融通を聞かせてくれたのもあって、私は高三として学校に復帰した。
 留年だから初めは下の学年だった子たちも遠慮がちだったけれど、部活の後輩が同じクラスにいたことで比較的すぐに馴染めることができた。
 大学生になった友達や、浪人で一緒に受験をする友達たちともたまに会ったりしていた。
 病院で知り合った神田さんとの関係も続いており、病院でリハビリや診察が終わったあとに会って大学の話を聞かせてもらう程度には仲良くなっていた。
「神石さん、大学はどうするの?」
「うーん、一年留年しているせいで推薦は厳しいので、一般でどこかの公立に滑り込みたいところです」
「なら俺と同じところは? 国立だから全学部揃ってるよ。神石さんは何がしたいの?」
「神田さんと同じ大学なんて無理ですよ。私、それほど頭良くないので」
 そんなことないと思うよ、なんて笑って励ましてくれるけれど、私はそこまで頭は良くないと思う。
「それでどういう学部に行きたいとかないの?」
「えっと、日本の古典文学、もっと言うのであれば古事記とか日本書紀とかの日本神話が勉強したいなって」
「なるほどねえ、じゃあ、文学部か。幸助が文学部だったかな。ちょっと聞いてみるね」
 幸助さん......。誰だっけ。会ったことがある気がする。確か弓を使うのが上手な人だ。
「幸助さんって、幸せを助けるって書く人ですよね。人懐こいようで不器用な人。弓がすごく上手な人。就職が決まらないって言ってたけれど、ちゃんと就職できたんですかね」
 自分でも驚くくらいすらすらと彼に関することが思い出された。
 神田さんも驚いたように私を見ていた。
「幸助と知り合いなの? でも、幸助は弓道はやってないし、俺の一つ下だから今就活の最中だよ」
「え、だって、神田さんは幸助さんとは同い年だって」
 二人して首を傾げる。噛み合わない記憶が気持ち悪い。
 私は何を忘れているのだろう。またこの変な感じだ。大事な何かを忘れている感じ。忘れてしまっていることは分かるのに、何を忘れているのか分からない。
「まあ、別の誰かと勘違いしてるんだよ。そろそろ帰ろうか。駅まで送るよ」
「あ、ありがとうございます」
 帰り道は二人で他愛の無いことを話した。駅まで送ってもらったあと、そこそこ長い時間電車に揺られて家まで帰る。
 電車に揺られながら、私はぼんやりと幸助さんのことを考えていた。幸助さんがどういう人かはなんとなく覚えているのに、どうやって出会って、一緒に何をしたのかが思い出せない。私だって弓道なんてしないのに、どうして彼が弓を射る姿が鮮明に思い出されるのだろう。幸助さんはその弓を大切な人にもらったんだっけ。
 福太に似た誰か。幸助さん。幸助さんの大切な人。他にも、真っ白な三角耳の犬や、その飼い主さん。仲の良さそうな夫婦とか。皆の顔も声も朧気なのに、確かに私にとっては大切な誰か。
 私が忘れているのは彼らだけだっけ。誰かもっと、大切な人がいたような気がするのに、何も思い出せないや。
 家の最寄り駅で降りて、家まで歩く。その時、大きな神社の境内が見える。
 雷の神であるタケミカヅチ様が祀られている神社。なんだっけ、イザナギ様の剣がカグツチ様を斬ったときに生まれた神様だけれど、その剣であるアメノオハバリとタケミカヅチ様は同一神であるとする説もあるんだよね。
 この神社にはお正月とかしか行ったことがないはず。なのに、神社のどこに何があるとかが鮮明に思い出せる。年に数回とはいえ、毎年行っているからかな。
 この神社の脇を通る度に不思議な感覚がするから。受験勉強の合間につい神話について調べてしまい、もっと知りたいという気持ちからそういう学部に行きたいと思った。
 家について、ご飯を食べて、お風呂に入って、布団に入っても、このよく分からない記憶ははっきりしない。
*
 そんな風に、よく分からない記憶が戻ってくることも、消え去ることもなく、月日は過ぎ去っていった。私は受験に追われ、なんとか神田さんのいる大学に合格することができた。
*
 大学に入る前の春休み。福太を連れて東京に遊びにいった。福太がスカイツリーに上りたいと騒いだからだ。じゃあ、ついでにと近くの浅草や浅草寺も回った。
「浅草寺ってお寺なのにどうして大黒天っていう神様がいるのかしら」
「幸姉ちゃん、そういうの勉強しに大学に行くんでしょー。分かったら教えてー」
 私の手をぎゅっと掴んで浅草寺の中に入る。有名な観光地とだけあって、人も多いし建物も大きい。
「幸姉ちゃん、見てみてー」
 お寺の地図が大きく描かれた看板の一ヶ所を指差して福太が騒いだ。
「ここってエビス様もいるんだってー。エビス様って、福を招く神様だよねー」
 僕の名前と似てる、と嬉しそうに話す福太。でも、私はそれどころではなかった。
「福を招く神......。エビス様......。福を招く......」
 私は彼と約束したじゃないか。ちゃんと自分の手で返すって。何を借りていたんだっけ。彼にとって大事なものを私は貸してもらったのに。
「ねえ、福太。私、貴方に何か大切なもの借りてないっけ」
「んー。僕は貸してないけれど、僕に似た誰かさんが貸したんだろうねー。さすがはエビス君」
「エビス様を知っているの......?」
「知っているよ。よく知っている。だって、僕は彼の一の眷属だから」
 何を言っているのだろう、この子は。一の眷属って。いや、知っている。私はそれが何かを知っているはず。
「でも、あともう少し自分で頑張って。全部思い出したら、一緒に話そう」
 まるで知らない人のような福太は、そこまで言うといつもの福太に戻って、私の手を引っ張って歩き始めた。浅草寺やスカイツリーではしゃぐ福太は年相応に見えるのに、たまに知らない人のような応答をする。私よりもずっと大人のような対応。
 家に帰っても福太はずっと嬉しそうにしていた。お母さんに、何があったとか、スカイツリーが高かったとか、そういうことをずっと喋っていた。こういう福太は年相応なのに。
 彼が大人びた態度をするようになったのはいつからだっけ。
 それに福太は言った。自分が一の眷属だと。エビス様の一の眷属。
 それはどういうことだろう。もう少しで思い出せそうなのに、ギリギリのところで思い出せない。
 福太とスカイツリーに行った次の日。部屋の西日が強くなる時間帯。
「来て下さい、招福さん」
 部屋でポツリと呟いてみた。何となく口にしたことがあるような言葉。
 すると、目の前に一本の釣竿が現れた。ああ、これが。
「招福さん。エビス様の一の眷属であり、彼が私に貸してくれた神物」
 そうだ。私はこれを彼に借りたままだ。エビス様が一番大切にしていたものなのに。返さなきゃ。
 思い出した。全部思い出した。
 どうして忘れていたのだろう。一番大切な神様を。私は彼のために魂を賭して、彼に立ち向かったのに。
「アメ様......」
「思い出した?」
 いつの間にか部屋の扉のところに福太がいた。彼は私のそばにやってきて釣竿に触れる。
「貴方は招福さん?」
「んー、招福は僕の前世だよ。この釣竿は僕の魂の欠片で作られたものだ」
 福太はもう一度、思い出した?って聞いてきた。
「思い出した。思い出したよ。なんで、なんで忘れてしまっていたの。あんなに大切だったのに」
 福太は私の目を見て聞いてきた。
「幸姉ちゃんはどうしたい。ここで僕やお母さんお父さんと暮らしたい? それとも、アメ君たちと暮らしたい?」
 福太もお母さんもお父さんも大事だ。一年間目を覚まさない私をずっと信じて待っていてくれた人たち。そんな人たちをおいて行くなんて。でも、私は、アメ様たちのことも大切なんだ。即答できないくらい、どちらも大事だ。
 そのくせ、向こうにいるときは福太たちのことを忘れて、こっちにいるときはアメ様たちのことを忘れていた。
「幸姉ちゃんはさ、誰を自分で幸せにしたい?」
「え?」
「誰といたいか、なんてさ、幸姉ちゃんは優しいから皆の気持ちを考えちゃって選べないでしょ。だから、幸姉ちゃんが誰を自分で一番幸せにしたいのか。それで決めればいいよ」
 私が一番幸せにしたいのは。そんなのは決まっている。決まっているけれど。
「でも、私、アメ様のことずっと忘れてた。大切なはずなのに帰ってきてから全然思い出せなかった。それなのに彼のところに帰りたいなんて烏滸がましいよ」
「それは幸姉ちゃん悪くないよ。現世と幽世の理だから。普通はどちらか一方の記憶しか重視できない。現世にいるときは現世の記憶、幽世にいるときは幽世の記憶。思い出せた幸姉ちゃんはすごいんだよ」
「私、向こうに行ったら福太のことも忘れちゃうよ」
「うん、知ってるよ。僕もそうだったし。それでも、幸姉ちゃんはアメ君を幸せにしたいんでしょう?」
 ごめんなさい。
 そう言って私は頷くことしかできなかった。
「謝ることじゃないよ。僕は幸姉ちゃんが幸せなら嬉しい」
「お母さんとか友達に心配かけるかな」
「彼らは覚えていられないよ。普通の人の子だからね。体ごと幽世に行ってしまったら、少しずつ不自然のないように記憶から消える」
 そうか。そうなのか。確かに、そうでなければ行方不明の扱いになっちゃうか。
「それなら安心だね」
「僕は覚えているよ。僕は覚えていられるから」
 福太はそう言って微笑んだ。ああ、エビス様にそっくりだ。いや、エビス様が福太に似ているのだろう。
「貴方は何者なの?」
 おかしな質問だ。福太は自分の弟で、エビス様の一の眷属である招福さんの生まれ変わり。分かっている。でも、疑問に思ってしまった。どうして福太は忘れないでいられるのだろうって。
 私の疑問に、福太は苦笑した。
「僕はほとんど君と変わらないよ。普通の人の子だったのに、神に愛されてしまった哀れな魂。いや、愛してしまったのは僕たちの方か。違うとすれば、僕はアマテラス様に記憶の保有を許された魂であるということ」
「じゃあ、どうしてエビス様に会いに行かないの」
 大切な人のことを覚えているのに、どうして会いに行かずに人として転生を繰り返しているの。私と違って、覚えていられるのに。
「僕たちの終わりのことを誰かに聞いた?」
「エビス様を庇って魂が傷ついて、転生もできたけれど神物になることを願ったってエビス様が」
「それがエビス君に伝えられた真実で、まあ、嘘はないけれど隠し事があってね」
 福太は、ちょっと借りるね、と言って釣竿を手に取る。静かに撫で上げると、釣竿は日本刀になった。また撫で上げると今度は弓に。まだ役目は果たせそうだね、とクスリと笑う。
「これは僕の魂だけれど、ほんの一部分だ。僕はアマテラス様に頼んで魂まるごとエビス君に捧げようと思った。でも、アマテラス様が許さなかった。転生の輪に戻ることのできる権利をそう易々と手放すな、と怒られてしまったよ。それでも、エビス君のそばにいたい、彼との記憶を失いたくないと願ったらアマテラス様が叶えてくれた。大事な兄を守ってくれた褒美だと言ってね。魂の一部分を神物に変え、残りを転生の輪に戻すことで、記憶を持ち続けることができたんだ」
「だったら、なおさら。どうして戻ろうと思わないの?」
 福太は弓になったものをもう一度撫で上げて釣竿に戻すと、私に返してきた。
「あの終わりは、僕たちにとっての最善だった」
 どこか遠くを見て懐かしむように目を細めた福太は言った。
「僕は多くのものをエビス君に与えたと自負している。それは、あの時代の招福であった僕だからできたこと。招福であった頃に、僕は自分の持てる全てを彼に与えた。だから、今はもう会おうとは思わないよ。僕はこれ以上彼に与えられるものはないからね。それに、僕はあの時、エビス君を庇ったからこうやって記憶を持ったままの転生を許されている。もし、他の理由で神によって転生することになったら、記憶の保有は許可されないだろう。僕はこの記憶を、魂尽きるまで持ち続けたいんだ」
 福太はくるりとこちらを向いた。真剣な顔をしていて、どことなく緊張した空気が流れる。
「七福神が一柱、福の神エビスの一の眷属であった僕から君に願いたい。どうか、僕たちの終わりを非としないでくれないか。あの結末、そして今の僕たちを是と認めてほしい」
 それは、つまり。
「エビス様に貴方のことを言うなということですね」
「頼まれてはくれないだろうか」
 私たちは姉弟だ。弟の願いは基本的に叶えてあげたいし、間違ったことをしていたら叱ってあげたい。
 でも、今この瞬間だけは私たちは姉弟じゃない。彼は福の神エビスの一の眷属で、私はイザナギの剣アメノオハバリの寵愛する魂。
 姉としてだったら彼に考え直すように言ったであろうが、今は。
「私が貴方の行いに是非をつけることはできません。なので、私は貴方のことを自分からは言いませんが、誰かに尋ねられたら教えるつもりです」
「ああ、それでいい。感謝する」
 緊張した空気が緩み、お互いに微笑んだ。
「僕は、幸姉ちゃんのこと大好きだったし、これからも大好きだよ」
「私も、貴方のこと大好きだった。貴方を忘れてしまったこと、これから忘れてしまうことを許してね。ダメなお姉ちゃんでごめんね」
 夕日が沈みかけていた。夜と昼が混ざる黄昏時。逢魔ヶ時。
「そろそろ行くといいよ。夜は危ないしね」
「うん。ありがとう、福太」
 さようなら。私はそう言って、家を飛び出した。

*

「さようなら、神石幸代。行ってらっしゃい、ユキ」

*

 あの日から、再び僕の世界は静かになった。
 宮様がユキと何を約束していたのかは分からないが、彼女はユキの行動を全て是とした。ユキが是となったことで、最高神の勅命を妨害した幸助は不問。カグツチも神域の縮小を免れた。
「まさか、呪を送ったのが、水の神だったとはねー」
 今日も今日とて僕の神域に来ていたエビス様が感慨深く呟いた。
 そう。あの呪を送ったのはカグツチではなかった。カグツチを邪険に思う水門神たちの起こしたことだった。
「水の神なら、火の神をわざわざ陥れなくてもいいのにねー」
「火と水は切っても切り離せないものですから。僕たちには分からない何かがあったのでしょう。まあ、ユキをこちらに送りつけ、僕に呪を送ったところを見ると、僕のこともあまり良くは思っていなかったのもあるのでしょうね」
「そうだねー。雷や地震と火災は大体一緒だしねー。中々に策士だよねー」
 水門神たちは複数で手を組んで今回の策を練ったようだった。僕とカグツチの過去の出来事で、僕たちの因縁を使えば再びカグツチを謹慎させることができると思ったのだろう。
 ユキをこの地に移動させた神。カグツチから力を盗み出した神。呪にして送りつけた神。分担して行ったようだった。エビス様と幸助のおかげで彼らの悪行は表沙汰となり、彼らは謹慎。力を盗まれ勝手に悪用されたカグツチも本来であれば軽い処罰が下されるが、やはりユキのおかげで不問となった。
「宮様が再び引きこもらないと良いのですが」
 今回のことで宮様は一部の神にこっぴどく怒られたという。エビス様もその場に居合わせたらしく、話を聞かせてもらったが、あの最高神でさえも兄や父には敵わないと言ったところだろうか。特に何かあるわけでもなく、??責だけで済むのは最高神の特権だろうとも思うが、宮様は引きこもり癖があるため、少し心配だ。
「あの子だって子どもじゃないんだから、そんなことしないさ」
 御神木の上に腰かけているエビス様は僕を見下ろして薄く笑った。
「後悔しているかい?」
 相変わらず嫌なところを突いてくる神だ。書物によっては第一子ではないのに、自分は全ての神の兄だと言って憚らない。彼を慕う神が多いのも事実だが、彼を恐れている神が多いのも事実。宮様とて、この神を怒らせないようにしている。
 この神を動かしたユキは一体何を願っていたのか。
「僕はまだ、後悔というものが分かりません」
「うーん。僕のいう後悔がユキ君と同じかは分からないけれど、後悔っていうのは、自分のやってしまったことが納得いかない時にするものだと思っているよ。だから、僕は今後悔している」
 エビス様は真っ直ぐと射抜くように僕を見つめる。
「君は?」
 彼の今言ったことを後悔だとするのならば。
「後悔だらけですね。ユキやカグツチ、幸助の言葉にもっと耳を傾けるべきだったのでしょう。でも、カグツチを討たなくて本当に良かった」
「そっかそっかー。ユキ君はただひたすらに君に後悔をさせたくないと言っていた。彼女の願いは叶ったみたいだ」
「それであれば、僕は後悔しているのだから彼女の願いは叶っていないと思うのですが」
 彼は僕の言葉に、そうだねー、と返してきた。
「僕たちと人の子は決して相容れることはない。何故なら、僕たちは感情を持たないからだ。きっと、君の思う後悔と、彼女の思う後悔は違うと思うんだ。僕も人の子の感情の全てを理解しているわけではないから断言できないけれどね」
 エビス様は僕よりも人の子の感情に詳しい。そのエビス様が言うのだから、ユキの願いは叶っているのかもしれない。
「そう言えば僕さー、君に聞きたいことがあるのだけれど」
 僕の返事を待つ前に彼は言葉を紡ぐ。
「どうして、ユキ君をあの状態のまま幽世に置いておいたの?」
「え......」
「彼女は肉体を持たず魂だけの状態だった。君がそれに気が付かないはずがない。別にその状態で眷属にすれば、現世に残された体は現世から消えてこちらに来るから良いと思うけれど、君はそれをしなかった。なのに、魂を体に戻すこともしなかった。彼女を初めて見た時は一の眷属と同じ魂だからだろうとしか思わなかったが、それだったら彼女と一の眷属がまるで違う人の子であると分かった瞬間に体に戻すだろうし、彼女自身を気に入ったのであれば眷属にすればいいし。どうしてあのまま放置していたのかなって思ってね」
 彼はどうせ全て分かった上で聞いている。自分の答えが正しいかを確認したいのだろう。正しかったら何か兄らしく言葉を残し、違ったら違ったで、そっかー、と笑うのだ。はぐらかしたところで、きっと悟られる。素直に話した方が良いだろう。
「貴方の言う通り、初めは幸呼の生まれ変わりで、しかもあの状態でしょう。自分が一度は囲った魂ですから、守ってあげようと、一時的な保護という気持ちでした。でも、共にいればいるほど、ユキと幸呼が違うことは明白で、でも、それが不服なのではなく、何故か共にいて楽しかったのですよ。彼女が帰りたいと言うまではこのままでと思ってしまった。いつでも魂を戻せる状態にしておけば、彼女が望んだ時にすぐ帰してあげられると。帰す気なんてさらさらなかったにも拘わらず。ねえ、エビスの兄上」
 ユキの笑顔が鮮明に思い出される。
「僕のこの気持ちは、借り物で偽物なのでしょうか」
「君は父上の剣だから、僕は君の兄上かは微妙なのだけれどなー。まあ、タケミカヅチ君からしたら兄上でも間違いではないか」
 エビス様は軽い動作で木から飛び降り、音もたてずに着地する。
「偽物かもしれない。でも、今の僕たちにとっては確かに本物だ。それでいいじゃないか」
 そう言った兄神は、宮様すらも恐れる神とは思えないほど柔和な笑みを湛えていた。それは、この神が全ての兄として相応しいのだと思わせるには十分だった。
 人の子からしたら借り物で偽物。時には偽物と切り捨てて、なさねばならぬこともある。だが、人の子からもらったこの感情を、自身が否定してやる必要はないのかもしれない。
「そうですね......ところで、エビス様はなぜあれから毎日ここへ? ここには僕と宮司しかいないのですから、面白いものは何も無いでしょう」
 彼は少しだけ考えてから唐突な質問を投げかけてきた。
「君は、神であることをどう思う?」
「えっと......。恥ずかしながら、生まれながらにして決められていたことですし、疑問に思ったことすらも無いと言いますか」
 僕の答えに、だよねえ、と返す。
「僕はさ、神で良かったと思うんだ。人の子は、永遠ともいえる生に耐えられないけれど、僕たちは耐えられる。永遠を生きることができる。永遠を生きていれば、大切な魂を見守れる。奇跡をこの身に感じることができる」
 彼の真意を掴みあぐねているうちに、エビス様は困ったように笑った。
「まあ、つまり、僕はここに奇跡を願いに来ているんだ。願掛けだよ」
 神が願掛けをするなんて面白いこともあるものだ。ましてや、彼の神社の方が願いは叶うだろうに。
*
 あれからちょうど一年くらいだろうか。
 相変わらず願掛けに来ていたエビス様がそろそろ帰ろうとしていた時。黄昏時。この神社は時間に限らず常に参拝可能で暗くなっても人が来る。誰かが走ってくる足音が聞こえるが、何か願いでもあるのだろうか。
「アメ様!」
 聞こえた声に自分の耳を疑った。
 こんなことがあるのだろうか。
「ユキ......?」
 そこには確かに彼女がいた。以前とは違い魂だけの状態ではなく、現世にあるべき形で彼女はそこにいた。
 彼女は走ってきたからか肩が忙しなく動いていた。息を整えて僕の方を見ると嬉しそうに、ただいま、と微笑んだ。帰ろうとしていたエビス様も固まっていて、そんなエビス様にユキは小走りで駆け寄る。
「エビス様」
「ユキ君......。君は......」
「約束、守りに来ましたよ。お待たせしてすみません。私、エビス様のおかげで全部思い出せたんです。招福さんを貸してくださっていたおかげで」
 ユキが招福を喚べば、彼女の手元には一本の釣竿。彼女はそれをエビス様に差し出した。
「一の眷属である招福さんを貸してくださってありがとうございました。それと、私と幽世の繋がりを残してくださって本当に感謝しています」
「良かった。君が帰ってきてくれて、本当に良かった」
 エビス様の願掛けとはこういうことだったのか。神物を人の子に貸与することで、幽世との繋がりを切らずにおく。だが、それをしたからといって、人の子の意思でこちらに戻ってこられるかは分からない。それでもエビス様は信じて待っていたということだろう。
「賭けだったんだ。神物を貸与し、絶対に返すと約束させたところで、本当に帰ってくるかは分からない。でも、僕は信じてみたかった。人の子の気持ちを」
 エビス様はユキから釣竿を受け取り、神物と彼女との契約を切った。
「確かに約束は果たされた。おかえり、ユキ君」
「ただいま、エビス様」
 エビス様が僕の方を向き、子どものように破顔する。
「僕はこれでお暇しよう。アメ君、奇跡をありがとう」
 僕の返事も待たずに彼は帰っていった。おそらく明日にはスサノオ様やクシナダヒメ様、タマ、カグツチにもユキが帰ってきたことが伝わっているのだろう。
「アメ様」
 ユキはいつの間にか僕のすぐそばにいて、僕の目を覗き込むようにして笑った。
「アメ様、私の名は神石幸代と申します。神様の神に道端にあるような石と同じ字で神石、幸せの代わりと書いて幸代です。私の名をもらっていただけませんか?」
 突然の申し出に驚かなかったわけではない。自分の真の名を神に渡すなんて現世と切り離されるも同義だ。
 しかし、彼女の目を見て分かった。おそらく何を言っても無駄だと。
「後悔しないか」
「私が後悔するとしたら、それはあなたを幸せにできずに消滅をしてしまうときです。だから、私を」
 ユキが何かを言い切る前に、僕はユキを抱き締めていた。この感情は何と表すのが正しいのだろう。
 欲しい。大切。失いたくない。
 僕が知っている感情の名前では、これらの言葉が一番近いが何かが足らない。
 ユキは僕に最後何と言ったっけ。ああ、そうだ。
「愛しているよ、ユキ。この感情が君の言う愛と同じかは分からないが、僕はこの感情を愛としたい」
 腕の中でユキが微笑む気配があった。
「一緒でなくとも良いではないですか。私は、貴方が貴方の思う愛を向けてくれただけで十分です」
 腕を緩めれば彼女は僕から一歩離れ、僕の手を取った。
「私はずっと貴方のそばにいたいです。ですが、狂わないと約束することはできません。だから、もし狂ってしまったら、私を貴方の神物にしてください。そうすればずっと一緒にいられるから」
 転生をさせればいつかまた巡り会える。記憶がなくとも、君が幸せそうにしていてくれればそれでいい。僕はそのために君のいる地に加護を与えることだってできる。
 でも、彼女はそれを望んでいない。
 幸呼は転生を望んだ。また出会えるからと。
 同じ魂でもここまで違う。これほどまでに変わってしまう。
 同じ魂でも、ユキとは違う人の子は嫌だな。
「僕も、君にずっと一緒にいて欲しい。だから、約束しよう。何かあったら君を救えるよう最善を尽くし、万が一の場合は君を僕の神物にすると」
 ユキはくしゃりと笑った。
「名を聞いてもいいですか」
「ああ。僕の神名は天之尾羽張神だ。天空の天に、これと呼んだりもする之、動物の尾と同じ尾に、簡単な方の羽、結界を張るの張に神と書いて天之尾羽張神だ」
 彼女の掌に一字一字指で書きながら名を教えた。
 ユキは嬉しそうに何度も僕の名前を呟く。
 その姿を見ると、何故か僕も嬉しくなった。
 僕たちは相容れることはない。そもそも存在が違うのだから。でも、願わくは、どうか。
「天之尾羽張神様。ただいま」
「おかえり、ユキ」











 君と永遠に共にいられますように。











エピローグ
 俺の家の近所の神社にはよく分からない噂がいくつかある。一番有名なのは、和服を着たお兄さんかお姉さんに会えれば、願いが叶うというやつだ。他にも、和服の高校生っぽい男子がいるとか、狐を連れた美少女がいるとか。
「嘘くせー」
「今どきそんなオカルトじみたこと言われてもな。なあ、お前もそう思わねえ?」
 クラスの連中が面白そうに笑う。俺自身信じているわけではないが、正直今は藁にもすがりたいのだ。こいつらには言わないが。 
「僕はそう思わないけれどね」
 ふっと入ってきた声に皆が顔を上げる。俺たちのすぐ近くに立って彼は見下ろしながら言った。
「理由は別として、奇跡のようなことが起こっているのは事実だ。有名どころで言えば、焼け野原に無傷でそびえ立った姫路城だったり、津波に耐えて生き残った一本松だったり。何かしら理由があったのだとしても、この国の人間はそれを奇跡と呼ぶ。それによく言うじゃないか、信じる者は救われるってね」
 神谷福秀。俺と同じ中学出身、なんなら小学校も一緒で、めちゃめちゃ頭がいい。なのに、こういう訳分からないことを唐突に言う。個性溢れるとは彼のためにあるような言葉で、若干空気読めない感じもするのに、人懐っこい性格からか彼はクラスの中心だ。
「またお前かよ、神谷。お前、神とか信じてんの?」
 さっきまで話してたやつがバカにしたように笑う。
「信じてるよ。君だって、学業守を鞄につけているあたり、結構信神深いと思うけれどね」
 バカにしてたやつは迎撃を食らって押し黙る。他の面子は爆笑だ。
「ていうか、神谷。お前何しに来たの? 一回帰ってなかった?」
 もう一人が聞いた。確かに、福は一度教室から出ていった気がする。
「ああ。廉君に用があったの忘れてたんだ」
「え、俺?」
 福とは高校入ってからはあまり会話をしていない。部活も違うし、グループも違う。たまに駅で会うと一緒に下校をするくらいだ。
「うん。中三の時の担任覚えているかい? 彼女、結婚して寿退職するらしいんだ。彼女にお祝いの品とビデオメッセージを贈ることになったのだけれど、僕がその担当になっちゃって」
「それで、俺に何してほしいの?」
「僕さ、スマホを持ったの高校からだから、ほとんどの人の連絡先知らないんだよね。だから、僕の補佐頼めないかと思って」
「別に俺の他にも同中のやついるだろ」
 俺がそこまで言うと、何故か隣に座っていたやつに頭を叩かれた。
「お前友達甲斐のないやつだなー。神谷が困ってるんだから助けてやれよー」
「本音は?」
「神谷に優しくしたら、女子の目が優しい」
 真顔で言ってのける友人にため息をつく。福はそんな彼の発言にクスクスと笑い続けている。
「じゃあ、廉君を借りても良さそうだね。とりあえず、一緒に帰ろうよ、廉君」
「はいはい」
 俺といたやつらにも、じゃーねー、とにこやかに手を振る福に皆口々に挨拶を返す。こうして一緒に門をくぐるのは中学以来か。
「それでさー、クラス委員だった女の子の連絡先知ってるー?」
「え、お前一緒に委員してたのに知らないのかよ!?」
「うん。スマホを持ったの高校からだってさっき言わなかったっけー」
 二人になった途端、中学校の途中までしていた癖のある話し方になった。
「あの子の連絡先を知ってるなら君がやった方がいいかー。じゃあ、彼女に女子に連絡回すように言っておいてくれない?」
「ていうか、彼女が言い出したんじゃないなら、誰がお祝いしようって言い出したんだよ......」
「当時の隣のクラスの担任の先生だよー」
 なるほど。合点がいった。とりあえず、クラス委員だった上に頭の良い福に全部任せればいいっていう魂胆だな。
「分かったよ。とりあえず連絡しといてやる。向こうに聞かれたら福の連絡先教えていいよな」
「いいよー。いやー、助かるなー」
 そのあと、これから何をするかや、どんな贈り物がいいかなどをスマホで検索しながら話を進めた。
「スマホって本当に便利だよねー。昔はこんなもの無かったのに」
「いや、俺らが小さいときからあっただろ。持ってたかは別として」
 こいつたまにこういうこと言うよな。なんというか、時代にそぐわない雰囲気がある。その癖に成績はめちゃめちゃ良いからなんか腹立つ。特に日本史とか世界史はいつも学年トップだったはず。
 いつの間にかお互いの最寄り駅になっていて電車を降りる。俺は駅から神社とは反対方向、福は神社の方だからここで別れる。
 挨拶しようと思ったら、福はこちらを見て笑っている。
「ねえ、廉君。あの噂、本当だよ?」
「は?」
「あの神社。和服、っていうかまあ、巫女装束と狩衣のことなのだけれど、を着ている僕らと同じ年頃の少女と、大学生くらいのお兄さんに会えたら願いが叶うって噂」
 こいつは何を言っているんだ。そんなことあるわけ。
「君は何かに困っているようだったから」
 それだけ言うと、じゃーねーと手を振って駆けていった。何だったんだ。あいつはたまに変なことを言う。それは小学校の時からそうだった。
 そう言えば、あいつ、小学校の低学年の時も似たようなこと言ってたな。
『神社のお姉ちゃんはね、前の前の僕のお姉ちゃんだったんだー。だからもう、百年くらいあそこにいるんだよー』
 その時は、子どもだったし、俺も他の子も、キラキラした目で見ていたけれど、さすがに高校生にもなってそんなことを信じるやつも、もちろん福も言わない。
 でも、子どもは見えざるものが見えるって言うし、ひょっとしたら。
 俺は藁にもすがる思いだった。医者にはどうしようもないと言われ、回復の見込みはないと最後の審判が下されている。それでも、信じていたかった。兄貴がまた笑ってくれるって。
 進路を変更し、神社に向かう。時期が時期だから、早い時間なのにもうすぐ日が暮れる。なんだっけ、古文で習ったな。ああ、黄昏時って言うんだったか。人の顔が見えづらくて、誰そ彼ってなるから黄昏時って言うようになったって。
 駅から走って、境内に入る。くっそ、広いんだよこの神社。
 参拝する場所に着いて辺りを見渡す。お守りを売ったりしている場所はもう閉まっているようで人は一人もいなかった。
「はは。人すらいねーじゃん」
「どうかされました?」
 いつの間にか、後ろに女の人がいた。いや、同い年くらいの女の子だ。巫女装束で、長い髪は一つに纏めている。手には巫女さんが儀式とかで使うような鈴がある。
「あんたが、噂の願いを叶えてくれる人ですか」
「噂になっているのですね。まあ、叶えるかは分からないとして、せっかく来たのであれば願っていってください。よく言うではないですが。信じる者は救われるって」
 はい、と渡されたのは絵馬。書いていけ、と言うことだろうか。
「でも、俺、これ自分の金で買ってないし」
「あげます。特別ですよ。いつも弟が世話になっているようなので」
 俺は巫女の姉ちゃんがいる奴なんて友達にいないのだが......。確実に勘違いしているが、受け取らないと埒が明かなそうな気がしたからありがたくいただくことにする。
 噂が本当かなんて分からないし、どうせ嘘だとしても、別に今以上に悪くなることはないからいいか。
 絵馬に願いを書いて、彼女に促されて絵馬かけに結ぶ。これ以上、何かすることもないので、帰ろう。何で衝動でこんなことをしたんだろう。早く帰って飯の支度をしないといけないのに。
「その子はどうしたの」
「お願い事があったみたいなので、少しお話していただけですよ」
 またいつの間にか人がいた。今度は和服、光源氏とかが着てそうな服を着た大学生くらいの人だった。ここまで気配がないなんてあるのだろうか。
 俺は少しだけ怖くなった。簡単にお礼と挨拶をして踵を返したら後ろから声をかけられた。
「お兄さん、目を覚ましますよ」
 にこりと笑う彼女の顔が、なんとなく福に似ている気がした。
 次の日から俺と福は一緒にいることが多くなった。中学のやつらに声をかけ、ビデオを撮る日付なんかも決めなければならない。
 ある日福が聞いてきた。
「ねえ、廉君。何かあった?」
「別に。何もないけど」
 結局、あの噂はデマだったのか。笑ってやりたいが、一瞬でも信じてしまった自分もいるので下手に笑えない。
 兄貴の時間は止まったままだ。残された俺たち家族の時間も。
「人の脳の研究って、全然進まないよね。まあ、生きている状況で脳波とか見たいのに、生きている人間の脳を見るのは禁忌だから仕方ないけれど」
「急に何の話」
「いや、昨日ニュースやってたからさー」
 相変わらず、こいつは何を考えているのか分からない。
「ごめん、今日は帰るわ。寄るとこあるから」
「それは前もって言ってくれてるから大丈夫だよー。行ってらっしゃい」
 手を振る福に軽く手を振り返して、俺は学校を出た。いつもとは違う電車に乗って、県で一番大きい病院へ。受付で面会札をもらって、目的の病室へ向かう。
「兄貴、二週間ぶり」
 俺は二週間に一回、兄貴に会いに来る。冷たいとか思われるかもしれないが、電車賃とか学校とかそういうの考えると、頻繁に来ることは躊躇われる。
「結局、あの噂は嘘っぱちか」
 思ったまま呟くと、どこからか鈴の音が聞こえた。神社とかで巫女さんが振るような鈴の音。どこからだろうと思って立ち上がろうとしたときだ。
 何かに服の裾を引っ張られた。見ると兄貴の手がしっかりと俺の裾を握っている。顔を見れば、うっすらと目が開いていた。
 もう鈴の音は聞こえなかった。

 俺の家の近所の神社には噂がある。狩衣を着た青年か、巫女装束を着た少女に会えれば願いが叶うそうだ。
 噂は噂。バカにするやつも多いが。
「俺は信じてるよ。だって俺、願いを叶えてもらったから」


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