世界が終わる前に笑ってくれ 葦夜るま いつも目覚まし時計がなくても目が覚める。 すっと意識が浮上して、少しだけ開けて置いた西向きの窓のカーテンから光が差し込むのに眩しく感じる。 ベッドから起きてまずすることはテレビをつけることだった。一人暮らしを始めてから毎朝同じニュースを見ている。まずは近頃起きた事件、それから天気。穏やかな声の女性アナウンサーの言葉を聞きながら身支度を整える。丁度ブラウスのボタンをふたつ締めた辺りでニュースの三番の項目に入った。 『それでは本日の怪物情報です。まず市ノ川にて......。次に......』 「......近いな......」 市ノ川は隣町だ。電車が止まっていなければいいけど、と考えながら服を着終える。次に洗面所に向かって髪を結ぶ。飾りけのない黒いヘアゴムは学校指定のものだったけれど、きっと指定がなくともキリヲは派手なものはつけないだろう。前髪と顔を確認して、うん、と頷いた。玄関に置いた鞄を持ってローファーを履く。そしてキリヲはアパートの一室を出た。 「おはよ~キリヲ! 今日は遅かったね」 「うん。電車が遅れてて」 「あー市ノ川の怪物? 迷惑だよね、ホント」 「でもアレ、ヒーローが退治してくれたんでしょう?」 学校につくなり話しかけてきたのは、クラスメイトのハナタとサク。キリヲはサクの問いに頷いた。 「そうみたいね。途中でアナウンスがあったから」 「朝っぱらからヒーロー様もご苦労様だねぇ」 ハナタが言う。それにサクが言った。 「うちの地区はヒーローがひとりしかいないから、余計に大変でしょうね」 ヒーロー。それはしばしば出没する怪物から人の街を守る者だ。 何でも昔は英傑と呼ばれていたらしいが、今ではヒーローという呼称に統一されていた。人間より力の強い彼らはそれぞれの地区に数人ずつ存在し、怪物から街を守っている。 この地区には、ひとりのヒーローがいた。十数年前までは二人組だったのだが、怪物との闘いで片方が命を落として以来、そのヒーローはずっとひとりでこのミツオリ地区を担当していた。 「どんな人なんだろうね。『セヴン』って」 「さあ......」 「キリヲは気にならないの? 年齢不詳、顔出しもNGのアワーヒーローのことがさ」 「うーん」 気にならない訳ではないけど、そんなに興味があるわけでもない。いつも街を平和に保っていてくれていることへの一定の感謝はあったが、彼を無闇に詮索したいとは思わなかった。 「他の地域だと、娯楽みたいに怪物を倒すヒーローの姿を放映していたりしますもんね」 「でっしょ? でもうちの地区はそういうのないし。近くにいた人が撮ったのがSNSにあがってるけど、フードに口元マスク、手袋してるしもう何にも見えないじゃん」 「特定されたくないんでしょうね」 セヴン。それがこの地区のヒーローの通り名だった。年齢も素顔もまったく不明で、その体格から男であるということだけは分かっているが、謎の多いことに間違いはない。十数年前まではナインというヒーローとコンビを組んでいたが、彼が怪物によって殺されてからは一人で活動している。 ヒーローというもの自体警察などと同じようなものとして定着しているため、人の口の端にしょっちゅう乗るというようなことはない。ハナタとサクも、すぐに話を切り替えた。 「ああそうそうキリヲ、今日パフェ食べに行こうって話してたんだよ」 ハナタがそう言うのに、キリヲは眉を寄せる。 「ああ、ごめん......今日はバイト」 「毎日じゃん! あんまり根詰めてると体壊すよ?」 キリヲとも遊びたーい!と素直に叫ぶ友人にくすりと笑った。 「大丈夫、からだは丈夫な方だから」 「そういうことじゃないよ~! もう!」 バン、と机を叩いて突っ伏すハナタにもう一度謝る。今度休みの時に誘おうと思うのだけれど、それは当分先になりそうだった。 小さな頃に怪物関係で立て続けに両親を亡くして、キリヲは中学校を卒業するまで孤児院で育った。この国には怪物による被害者遺族には手厚い保障がある。それを利用して、キリヲは高校からは一人暮らしを始めたのだ。 保障があるとはいえ、そればかりに頼ってもいられない。学生と言うのはただでさえ金が入り用で、大学まで出ようと思ったらどうしても自分でも稼がなければいけない。その為にバイト可の学校に進学して、せっせと貯金をしているのだ。 バイト先は公園のクレープ屋台だった。学校にも駅にも程近いので通いやすいのが気に入っている。怪物が比較的出没しやすい区域というのもあって、危険度からか時給もそれなりに良いのも決め手だった。 ただひとつ問題があるとすれば、変な客がしばしば来ることだけである。 「おじょーちゃん、いちごバナナクレープひとつください」 聞こえた声に、キリヲはまたかと心の中で顔を顰めた。 「いらっしゃいませ。四百五十円になります」 「千円でいい? ああ、あとスマイルもよろしく」 へらりと笑う目の前の男は、このクレープ店の常連だった。笑うと言っても、口元は黒いマスクで隠されているので見えないが雰囲気で分かる。 「五百五十円のお釣りです。それから当店ではスマイルは取り扱っておりません」 「相変わらずクールだねぇ」 「はあ」 「女の子の笑顔だけで死ぬほどがんばれちゃう可哀想なおっさんにちょっとくらい優しくしてくれない?」 何を言っているんだこの人は、という視線を向ければ、男はけらけら笑った。目つきの悪さを胡散臭い微笑みで包み隠している。キリヲには彼はそういう印象に見えた。 だいたい平日の夕方にラフなパーカー姿でいる時点で不審だ。在宅ワーカーと言うよりパチンコ帰りだと言われた方が余程納得がいくくらい服はよれている。それに反して代金を出す手の袖から覗く腕は鍛えられているのがちぐはぐだった。 「はい、こちらクレープになります」 「わー、あんがと」 美味しそうだねえ。そう言ってへらりと笑った男はじゃあねと手を振ってくる。それに頭を下げて返した。 キリヲがここでバイトを始めてからあの男の顔を見なかった日の方が少ない。店長が言うには丁度キリヲがここで働き始めてから来るようになったらしいから、何というかタイミングが悪かったのだろう。 仕事を終え、店長が送って行こうかと提案するのを謝辞して公園を出た。ここから駅までは大通りだし、夜でも明るいので心配はいらない。店長の家は丁度逆方面だそうだから甘えるわけにもいかなかった。 帰りは怪物が出ることもなく乗りたい電車で帰ることができた。リビングの電気を点けて、手を洗ったら夕食を作りにかかる。味噌汁と、昨日一切れ残していた鮭を焼いてしまうことに決めた。白米は朝炊いてあるので今から何かする必要はない。 ひとり暮らしの寂しさで、食事中はなんとなくテレビをつけてしまう。内容はどれでもいいけれど、あまり音や画面が激しくないもの。食べ終わったら食器を洗って課題に取り掛かる。今日のものは結構難易度が高く、終わる頃には十一時を回っていた。いつも十二時過ぎには寝ているので眠たい。お風呂を沸かすのは諦めてシャワーを浴び、歯磨きをしてベッドに入る。いつもと変わらぬ日常は、たまに寂しくなることこそあれど、穏やかに過ぎていく。 変な客は何もあの人だけではない。そうなのだが最近はとんといなかったもので、すっかり油断していた。キリヲは内心歯噛みする。 目の前でにやにやと笑っているのはいかにもガラの悪そうな若い男だった。恐らく二十代前半くらいの。公園で遊ぶ子どもに何か怒鳴りつけた後、キリヲを見てオモチャでも見つけたような顔をして寄ってきたのだ。 「お姉さん、可愛いね。何時にバイト終わるの?どっかお茶いかない?」 「お教えできません。ご注文をどうぞ」 「オレは客だけど?」 「お客様にお教えすることではないので」 あしらうが、男はめげなかった。はあ?と顔を近づけてきた男から酒気が漂ってきてキリヲは内心顔を顰める。昼間から酔っている男にいい印象など抱けるはずもない。生憎店長は買い出しに行っていていない。それが気に入らなかったのか男は身を乗り出してキリヲの手首を掴んだ。 「ちょっと」 「いいじゃねえか。仕事より楽しいからさ」 「やめてください」 ぎり、と掴む手に力が入って痛みを覚える。酔っ払いの癖に力が強い男をきっと睨みつけるもまるで堪えていなさそうな男が楽しげに笑って。 その時、横からにゅっと見覚えのある手が伸びてくる。 「やめなよ。女の子の手は気安く握るもんじゃないぞ?」 あの男だった。いつものよれた服に、黒いマスク。突然現れた不審者にキリヲの手を掴んでいた男が顔を歪める。 「は? 誰だよおっさん」 男はそれに少し考えてから言った。 「んーー、その子のファン」 「お前だって一緒じゃねえか!」 「それでも、アンタみたいに痛いことはしてないよ」 ほら、離しな。柔らかい口調だが、いつもの微笑みがないため威圧感がある。三白眼の瞳に見据えられた男の手を、彼はさらに強く掴んで。 「ぐっ」 キリヲの手が解放される。金髪の男は少し酔いが冷めたのか、こちらを一度睨んで立ち去って行った。 「だいじょうぶ?」 男の背中から目を離して、彼が今度はこちらを見てくる。その瞳にはもうさっきのような怖さはなく、ただ心配の色だけが乗っていた。 「あの、ありがとうございました」 「んー?」 強い力で掴まれていた手はじんじんと痛くて少しだけ震えていた。男はこともなげに「いいのよ」と言ってへにゃりと笑った。そしていつものように注文してくる。 「いちごバナナクレープひとつくれる?あとスマイルもね」 これが彼なりの気遣いだということは流石に察せられた。普段の雰囲気に戻そうとしているのだ。それにありがたく便乗して、キリヲはわざと突き放すように言った。 「急に笑えって言われてもできません」 「あら? ちょっと仲良くなってくれた?」 その言葉にはノーコメント。キリヲはクレープ生地を天板に広げる。せめてとびきり美味しいクレープを作らなくては、とは思って。 ......それで本当にお礼になる? そう、心の声が囁いてきた。だって、これは相手のお金で作るのだ。受け取らなければよかったが、もうすでにレジで精算を済ませている。この時点で自分の財布から出すのも何だか違う気がしたし。なら、どうすればいいだろう。考えた結果、生クリームと具を乗せたクレープ生地を巻きながらキリヲは言った。 「......あの、良ければこの後ファミレスでも行きませんか」 「え?」 「お礼がしたいので」 そう言えば、驚いたような顔をした。けれどすぐに目元を緩ませて言う。 「お客様にそんなことしていいの?」 「バイトが終わった後はプライベートの範疇なので」 彼は迷っているようだった。はしばみ色の瞳が左右にほんの少し揺れる。やがて彼は困ったような笑顔で頷く。 「......いいよぉ、いつ終わるの?」 「あと三十分です」 「思ったより早いね」 じゃあクレープ食べて待ってる。そう言い残して、男は噴水近くのベンチの方に去っていった。 「おねえちゃん大丈夫?」 「え?あ、いらっしゃいませ!」 「ごめんなさいね。声をかけられなくって」 その後ろ姿を見ていたから、新しいお客がきていることに気がつかなかった。この公園でよく見かけるこどもと母親はどちらも心配そうな顔をしていて、キリヲは「大丈夫です」と答えて少し唇の端を吊り上げてみせた。うまく笑えているかは分からないけれど。単純に喜怒哀楽を意図して表情に出すのは苦手なのだ。 「お待たせしました」 「んーん、全然」 急いで制服に着替えたキリヲは、店の前で待っていた男の元へ駆け寄る。スマホを見ていた男は、キリヲに気づくとそれをズボンのポケットにしまった。 「どこのファミレス行く?」 「駅前ので」 「了解。あと、急に仕事入るかもだからそうなったら許して」 「ああ、それは全然......」 「? なによ、その目」 「いや、ちゃんとお仕事しているんだなあと」 「うっわ、ニートだと思われてた?」 「少し」 まじかあ。男がけらけらと笑う。 「これでも結構真面目なのよ」 「へえ......」 「あ、信じてないでしょ」 そんな話をしている内に、駅に着く。ファミレスはそこそこ混んでいたが、奥の方の二人席が空いていたのですぐに座ることができた。 「こんなに遅くまで出かけてていいの?」 料理を注文して、何をしゃべっていいか分からずテーブルに目を落としたキリヲに男......ナナミが話しかけてくる。さきほどファミレスまでの道で名前を聞いたのだ。 「はい、一人暮らしなので」 へえ、と男はそれ以上詮索してくることはない。高校生で一人で生活しているというのは珍しいにもかかわらずだ。それで逆に、話したくなったのだろうか。 「父も母も、私が小学校に上がる前に他界したんです」 「......そっかあ」 「二人とも怪物の事件の被害者で、遺族用の保障で今は生活してて」 「そうか」 ナナミが短く相槌を打つ。キリヲは急に、自分が焦るように話していたのが恥ずかしくなった。ナナミには何の関係もない話なのに。黙り込んだキリヲに何を思ったのか、彼は問うてくる。 「お父さんとお母さんのことは、覚えてるの?」 「......少しだけなら」 その問いに、考えて答えた。彼らが死んだ時の記憶はまったくないものの、それ以外の断片的な記憶ならある。お医者さんが言うには、辛い記憶を脳が忘れたがっているんだとか。 「父は明るかった気がします。あんまり家にはいなかったけど、帰ってきた時にはよく遊んでくれて」 「ウン」 「母は優しいひとでした。夜寝るときの子守唄がとても好きで」 十数年経っても彼らへの恋しさが消える訳ではない。思い出すたびに胸を突き刺すような寂しさと懐かしさが胸を焼く。 「いいお父さんとお母さんだったんだねぇ」 ナナミは可哀想だ、と憐れむわけでもなくそう言ってくれた。ただ思ったままの感想を述べるように。それが妙に嬉しくて、キリヲはふ、と微笑む。 「......そう、大好きでした」 彼がそれに何故か驚いたような顔をする。そしてその顔がふにゃりと緩んだ。 「俺、キリヲちゃんの笑顔好きだなぁ」 「そうですか、それはどうも」 「アレェ、もう笑ってくんないの?」 「そんなこと言われても......」 料理が来るまでそんなやり取りをしていた。名前もその日に知った、素性不明の男とするには気安い会話。彼と話すのは何故だか妙に落ち着いた。こちらを見る瞳がまるでうろ覚えの父のようだと思うのは、己が心のどこかで寂しく思っているせいなのかもしれない。 ――そんな少し前のことを何故思い出したのだろうか。走馬灯、というものかもしれない。ずきずきと痛む足はうまく動かない。キリヲは地面にしゃがみこんで、「それ」を見上げるしかなかった。 「ヒーローはまだか!」 「女の子が取り残されてるぞ!」 公園から逃げていくひとのそんな声が聞こえる。 逃げなきゃ。そう思うのに、からだはちっとも言うことを聞かない。 「ア、゜ア」 この世のものとは思えないような鳴き声を上げる「それ」は、おぞましい姿をしている。キリヲの目の前にいるのは、巨大な怪物だった。 今日だって、いつもと違うことは何もなかった。休みの日は平日より遅く起きる。それから家事と課題をして、昼前からバイトに行った。そして、二時間も経たないうちにあたりが急に騒がしくなって。キリヲは公園に飛び込んできた大きな影と目が合ってしまった。翼を生やしたそれはキリヲを見て確かににたりと嗤ったのだ。逃げようとしたが怪物はキリヲを逃がさず、いたぶるように壁にたたきつけられ変に曲げた足は悲鳴をあげるように痛んだ。 怪物の爪がキリヲに迫る。その鋭利な先端が、確実に獲物を殺すために頭に向かってきて。脱力したままキリヲはそれを見つめた。明確な死が己に迫っていた。 その時視界がぶれる。怪物の方を向いていた筈が、気がつけばキリヲは空を見ていた。 「......え?」 自分の体が宙に浮いていると気づいたのはすぐだった。誰かに抱えられている。キリヲは瞠目する。目元を隠す灰色のフード。口元には黒い布。 「......セヴン......?」 下から見上げた先の三白眼に、見覚えがある気がした。 ** 生まれてこの方、大事な人間を守りたいという人並みの感情に乏しかった。両親は貧しく己を孤児院に預け失踪し、一度も顔を見ていない。年下のチビをそれなりに可愛がってはいたが、何に代えても守ると燃えていた訳でもなかった。目の前にいる相手とそれなりに親しくするのが得意で、けれどそれは所詮上辺だけの付き合いでしかない。 どうやら自分は常人ではないらしいと気づいたのは学生の頃。そこからヒーローの管理をする組織だとかに連れていかれてヒーローになり。 そしてミヤコという男と出会った。 ミヤコは己とは真反対に正義感が強く情に厚い男だった。彼の言うことを理解できないと思うこともままあったが、まっすぐな彼の傍の心地は悪くなかった。セヴンとナインという安直な名前で彼とヒーローをやるのは中々に楽しく、彼はナナミにヒーローというのも悪くないなと思わせてくれた。 女の影一つないナナミを横目にミヤコは同い年の恋人を作って結婚した。結婚式には勿論ナナミも参列した。やがて子供が生まれて、可愛くて仕方がないとやに下がるミヤコを何度見たことか。 ミヤコの人生はそこまで順風満帆だったが、ずっとうまくはいかない。コンビを組んで五年目、ミヤコの奥さんは怪物に殺された。酷く珍しい、知能を持った怪物による凶行だった。何でも以前ミヤコに手傷を負わされたのを恨んでいたらしい。 その怪物は己とミヤコで倒したものの、それ以来ミヤコは人が変わったようになってしまった。あんなに大事にしていた一人娘を手放すと聞いた時には耳を疑ったが、ミヤコの意思は固かった。 『オレの近くにいたらアイツまで死んでしまう! そんなのは耐えられない』 そう言って髪を振り乱して泣く男に、ナナミは何と言っていいのか分からなかった。その彼の選択肢を己が咎めることができようはずもない。ナナミは変なところに預けるよりはと、かつて己のいた孤児院をミヤコに教えた。 少し経って、ミヤコも後を追うようにして死んだ。遺影のミヤコは晩年のやつれた様子とは似ても似つかないほどに快活で、どうにもやりきれなかった。 後続のヒーローを送ろうかと連絡もあったが、ナナミはそれを断った。元々ミツオリ地区は小さな区域で、怪物による事件も多くない。自分一人でも対処可能だと判断した。......ミヤコ以外とコンビを組むことへの抵抗があったからではないかと聞かれると否定はできない。 それから数年して、ひとりでの仕事も慣れた頃、ふとミヤコに子供がいたことを思い出した。孤児院にたまに寄付をする時も郵送で済ませていたが、顔を見てみたくなったのだ。訪れた場所は昔と変わらなくて懐かしい。院長に会ってどの子か聞けば、彼女は窓の外を指差した。小学校にもあがってないくらいのチビに囲まれた、彼らより頭一つ大きな少女。 「あの子だよ。ほら、ミヤコさんの子だ」 「へえ」 『キリヲおねえちゃん、こっち!』 『うん』 『はやくはやくー!』 キリヲと呼ばれた少女はこくりと頷いて、手を引かれるがままにチビの相手をしていた。 「全然笑わないのな」 「そうなのよ。面倒見のいい良い子なんだけどねぇ」 「へえ......」 ミヤコの遺した子供。可愛げのないすまし顔。全然似ていないな、というのが第一印象。第二印象に、ああ、でも奥さんには似ているな、と。パワフルなミヤコと違い奥さんは落ち着いた人だった。暴走しがちなミヤコを止めてくれそうで、いかにも似合いだなと考えていたものだ。 その子供をじっと見ていたが、あっちが振り向いてくるはずもない。その横顔を見るのも飽きて、ナナミは窓から離れた。 気がつけば院長はどこかに行っていた。肝心の寄付金を渡していないのにどこだと歩き出す。食堂か、院長室か。どちらに足を向けるか悩みながら玄関の近くを通った時。 「こんにちは」 「......こんにちはぁ」 外からたまたま帰ってきたミヤコの子供と鉢合わせた。名前はキリヲと言ったか。律儀に挨拶をしてくるのに、一拍遅れて返事をする。孤児院の子は皆おさがりの服を着ていて、キリヲも例に漏れず何人の子供が着てきたか分からないようなシャツとスカート姿だった。 「ねえ、ここ楽しい?」 そう聞いたのは気まぐれで。自分が紹介した場所で、何か嫌な思いはしていないだろうかと。少女はこくりと頷く。 「院長先生はやさしいし、みんなもかわいいから」 「そうかぁ」 小学生とは思えないほど大人びた返事。それがかえって物悲しく感じられた。この年頃のこどもが両親がなく、ただ「楽しい」訳がないのに。最初から愛情がなかったか会ったこともないなら話は変わるが、少なくともこの少女は当たり前に両親の愛を受けていたはずだった。 「いい子だねえ」 その頭に手が伸びたのは己でも無意識で。小さく形の良い頭をよしよしと撫でてから我に返って苦笑した。 「あ、ごめんね。知らないおっさんが急に」 そして、その言葉は途中で止まる。 「......」 少女はこちらを見て、頬を染めて嬉しそうに微笑んでいた。その反応があまりに予想外で固まってしまったのだ。 「......おとうさんの手ににてる」 「あ、そ、うなの」 そう言った子に、己はどんな顔をしていたのだろう。直後に外から彼女を呼ぶ声が聞こえてきて、キリヲはぺこんとひとつお辞儀をして去っていった。その後ろ姿を見て、ナナミは困惑した。 何だか、妙なものがこみあげてきたのだ。 あの子を守ってやりたい。あの子の暮らす世界が少しでも平和であるようにしてやりたい。そんな感情を抱いたのは、正真正銘初めてだった。 彼女と別れて向かった院長室に院長はいた。寄付金を入れた封筒を手渡そうとして、考えたナナミは財布からもう数万取り出す。彼女がボロボロの服を着ていたのを思い出したから。 「センセイ、もうちょい追加しとくわ」 「おや、いいのかい?」 「それでチビどもに新しい服でも買ってやって」 「じゃあありがたくいただいとくよ」 院長が微笑む。小さな頃はよく彼女の手に頭を撫でられたな、と不意に懐かしく思った。 それからは一年に一、二回ほどキリヲの様子を見に行った。魔物による被害者遺族には十分な保障がされるから、彼女は高校にあがるとそれを利用して一人暮らしを始めた。そして同時に、偶然にも自分の見回り範囲の中央にある公園でクレープ屋のバイトを始めたという訳だった。 少し様子を見るだけのつもりが、ずっと見守ってきた彼女と喋るのは思っていたより楽しかった。感情的だったミヤコとは似ても似つかないけれど、たまに彼女の中に彼の面影を見ては昔を懐かしんだ。 正体を明かす気は毛頭ないし、過度に自ら距離を詰めることもする気はなかった。その筈が、だ。なんと先日は一緒に食事まで行ってしまった。本当は断るつもりだったのに、ひたむきな目に気づけば頷いていて。 「あの目は、ミヤコに似てんなぁ」 彼と組んだばかりの頃にはよく無理やり連れ回されていた。だから懐かしくて、というのは言い訳にはならない。 あまり近づいてはいけないのだ。ミヤコがせっかくヒーローというものから遠ざけたのに、ナナミが近づいてどうする。ミヤコと違いナナミは素性も何もかもを隠しているが、それでも万が一のことがあればあの世でミヤコに合わす顔がない。 「......」 ふと、耳鳴りがする。頭が軽く揺れるような感覚にナナミは無言で立ち上がった。同時に、男が部屋に入ってくる。 「オイ、仕事だ」 「分かってる。今感じた」 この気配からしてかなり大物だ。この地域でこのレベルの怪物の気配を覚えるのは、それこそ十二年前、ミヤコが命を落とした時以来で。 「場所は?」 短く尋ねれば、相手は答える。その答えにナナミは瞠目した。目の前が暗くなったような錯覚。 「三ノ宮公園だ」 ――真っ先に浮かぶのは、今日もきっと、あそこ......三ノ宮公園内の店で働いているであろう彼女の姿だった。 駆けつけた時には既に公園は酷い惨状で。けれど壊れた遊具やオブジェなんかよりナナミの目に真っ先に飛び込んだのは、うずくまる少女の姿だった。 彼女に鋭利なモノが向けられているのに体の血が沸騰したような気がした。けれどそれとは正反対に思考は冷え切っていて。 怪物が手を振るわんとする。間に合う、大丈夫だ。重心をぐっと低く下げ飛び出した。そして、怪物の爪が彼女を引き裂く前に、彼女を抱え上げてそこから飛びのいた。 けほ、と咳をすれば軽く血が飛ぶ。脇腹の抉られたところから血が静かに流れ落ちていた。肋骨も二、三本折れているだろう、酷い有様だ。他の人間より多少治りが早いとは言っても、大丈夫なのか。 公園に現れた怪物は壊れた噴水の傍で物言わなくなっていた。それはいいのだが、問題は次は自分がそうなりそうだということだった。 死ぬかもな。 そんな思いが胸をよぎる。無性に眠たくて、けれど誰かが己の名を呼ぶものだから、ナナミは目を開けた。 「ナナミさん......!」 「はは、キリヲちゃん、元気?」 ずる、と足を引きずって歩いてくるのは自分が守り抜いた少女。いや、傷がついている時点で守れてはいないか。もっと早く到着できていればと後悔するが、それより彼女が今にも泣きだしそうな顔をしていることが今は気になった。 あ、そう言えば正体がバレてしまったな。そう思うけれど、キリヲがそのことについて問う気配はない。顔を隠していたマスクは戦闘時にどこかに吹っ飛んでしまった。フードは辛うじて被っているという状態だ。目の前の泣きそうな......というか既に涙を零してしまっているキリヲが力づけるようにナナミを覗き込む。 「救急車、すぐに来ますから」 「うん。早く治してもらいな、ね」 「乗るのはナナミさんですよ」 怒っているのだろうか。頭がぼうっとする。この子はどんな表情をしていても良いなと思っているけれど自分がとびきり気に入ってるのは、怒った顔じゃなくて。 「ねえ」 ナナミはいつものようにお願いしてみることにした。今なら叶えてくれる気がしたのだ。 「笑ってよキリヲちゃん」 「こんな時に何を」 「いいから」 キリヲの顔には泥がついている。それを指先で拭おうとしたが、手が上手く動かなかった。ぴくりと指先だけしか反応しない。 その表情からは困惑と逡巡が伺えた。それでももう一度懇願すれば、キリヲはもう理由を聞くことはしなかった。 その口端が不格好に吊り上がる。涙やら汚れやらでぐちゃぐちゃの顔で、いつも綺麗に結ばれた髪もほつれていて、下手な笑顔。けれどそれに、あの日見た微笑みが重なる。 それだけで、体の痛みも耐え難い寒さもどこかへ行ってしまう気がした。このぬくもりを守れたんなら、そのくらいのことは気にならなくて。 救急車のサイレンの音も、物見遊山の人間たちのざわめきも遠くにあった。ナナミは今自分の世界にたったひとり存在している少女を眩しく見た。 ああ、そう。 「俺、アンタの笑顔の為なら死ぬほどがんばれちゃうの」
さわらび125へ戻る
さわらびへ戻る
戻る