医者の不養生

ビガレ



 男は、木造二階建ての、古びたアパートを長らく住まいとしていた。敷かれた畳は所々腐りかけ、部屋の隅には蜘蛛や百足が這うような住まいである。しかし男はそんなことを歯牙にもかけていなかった。ただ今日ないし明日生きるためだけの食事と睡眠と、時々の酒があれば自分についてはそれ以上のことは求めなかった。
 くすんだ窓から見える山々が雄大すぎる。男はそう思い、寝返りを打って窓から背を向けた。
 男は山奥の小さな田舎町で生まれ育った。一家は、百姓で生計を立てており、裕福なわけでもないが取り立てて貧乏でもないという、要するに平凡な家庭だった。彼は幼い頃から読書を好み、とりわけ人体について書かれた本に興味を示した。そうして得た知識は、ときにかかりつけの医師を驚かせる程であった。当然とも言うべきか、彼はその知識を生かし、高校卒業後国立大学の医学部に合格し、そこで精神科医を志した。
 周りの大人は彼のことを天才だ、神童だと褒め称えた。確かに彼には類い稀な学才があったかもしれない。しかし一方で、彼は社会と関わる能力には恵まれなかった。
 具体的に言えば、まず大学の同輩と満足のいくような会話が取れない。此方の言いたいことが相手に上手く伝わらないのだ。説明しようとすればするほど、相手との距離が開いて、結局愛想笑いで茶を濁されるのがオチだった。他で言えば、アルバイトを始めようとしたときも駄目だった。適当に自宅から近い蕎麦屋で働こうとしたが、そもそもどうやって「働きたい」という意思を伝えて良いのかが分からず、二度その店で食事をしただけで、アルバイトは断念してしまった。こんなことを繰り返しているうちに、彼は次第に家から出る気力を失い、ただ余った時間を古臭い部屋で消費するだけの生活を送るようになった。

 風の強い冬の日のことだった。咳をしても一人、とはよく言ったもので、孤独の虚しさや寂しさを巧みに表している。尾崎放哉もこの句を詠んだのはこんな古びた部屋にてではなかろうか、と男はむせながら思う。男は風邪を引いていた。恐らくここ数日酒を飲んで裸のまま寝ていたのが原因だろう。医者の不養生と呼ぶにはあまりに酷すぎる。
 男は天井を見つめ、またむせた。孤独の風邪というのは、かかるのも自分なら治すのも自分しかない。男は意識半ばながら、風邪薬と玉子酒を作るための卵を買いに行かなくてはならないと考えていた。昔読んだ漫画だか小説だかで風邪には玉子酒が効くとあった。幸い酒はある。男は一眠りしてから買い物へ出かけた。
 やはり冬の北風は病人には堪える。しかし寒いのは身体だけでなく懐もまた同様だった。ドラッグストアに着いた男は、なるべく安価な薬を探していた。風邪薬などただの気休めにしかならないと考えていた彼は、包含している成分などは度外視で、とにかく値段だけを眺めていた。
「風邪薬をお探しですか?」
 男は混乱した。突然、自分の右の方から女の声が聞こえたからである。男は最初、自分が話しかけられているとは気づかなかった。しかしもう一度同じ声が隣から聞こえたとき、まさかと思い直し、男はゆっくりと振り向いた。
「風邪薬、お探しですよね?」
 話しかけてきていたのは店員のような恰好をした女だった。というか店員だろう。
「はい、そうですね。探してます」
 男にとってそれは久方ぶりの人との会話だった。予想外の店員のセールスに多少戸惑ったにもかかわらす、案外自然に声が出たことに男は安堵した。
「でしたら、お勧めの商品がございまして」
 そう言いながら、女は慣れた手つきで陳列してあった商品を手に取り、その説明を始めた。
 男はそのとき、女のことを馬鹿だと思った。風邪薬をまやかしとしか考えていなかった男にとって薬にお勧めも何もなかったからだ。しかし、男はその女の説明をいつの間にか最後まで聞いてしまっていた。途中何度か挟まれた質問にもまともに答えた。そして、その説明の間じゅう、男は何かにとり憑かれたように女をじっと見つめていた。
「こちらの商品お客様の症状によく効くと思うんですが、どうされますか?」
 どうやら女は説明を終えたようだった。男はただ言われるがまま「はい、買います」と答えていた。それを聞いた女はにこりと笑って男をレジへ案内し、会計を済ませた。男は、気付けば小さなレジ袋を持って店を出ていた。頭の中で「ありがとうございました」という高い声が反響する。男は自分の吐く白い息を見つめる。先程より寒くない。男が購入した風邪薬は、そのドラッグストアで一番高価なものだった。

 週に一度ほどの外出が、二度に増え、三度に増え、いつの間にか男はほぼ毎日のように出かけるようになっていた。その目的地というのは、専らかのドラッグストアである。大して金もない男が一体何をするのかというと、例の女を見つけるために店内をうろつき回るのであった。男がドラッグストアで風邪薬を購入して以降、男の頭の中はあの店員の女のことでいっぱいだった。今俺は風呂に入っているがあの女は何をしているのだろう、俺はこんな質素な飯を食っているがあの女は何を食うんだろう、というようなことを、四畳半の部屋でぐるぐると考えていた。そうして、夜が明けてドラッグストアが開店する午前十時になればそこへ赴き、女がいないか探す。もし見つけたとしても話しかけるわけではない。遠くから商品を眺めるふりをしてただじっと見つめるだけだ。女が動けば男も動くし、女が帰れば男も帰る。それだけだった。
 男は恐らく、女にいわゆる恋をしていた。しかし男は、それを自身の中では一向に認めなかった。「恋愛感情」という獣臭いものに蓋をし、上から「人間としての興味」というラベルを貼り付ける。そういう名目で、男は女を追っていた。
 この生活が日課のようになってから、およそ一月が経過した。出会った日を除けば、その間も男は一度も女に話しかけることはしなかった。男が店に入り浸っていることは、次第に店員たちの間でも噂になっていた。生気のない男が毎日のようにやって来て何も買わずに出ていくことが一ヶ月も続いたのだから、それも無理はない。さらには、男が店にやって来る目的があの店員の女なのではないか、ということまでいつしか噂として囁かれ始めた。そんな様子に全く気付くこともない男は、変わらず店へ行くことをやめなかった。
 それから更に半年が経ったころ、女に対する男の感情はより強いものとなっていた。あの女を我が物にしたい、そういうような気持ちをふつふつと心の中で沸きあがらせていた。
 男はその日もいつものように開店時間直後に店へ足を運んだ。すると、普段は見ない小柄な男が、店の前で誰かを待つように立っていた。男は、そいつを弱気そうな奴だなと思うくらいで、特に気に掛けず店に入ろうとした。しかし、そうはいかなかった。振り返ると、さっきの小柄で弱気そうな男ががっしりと右腕を掴んでいた。
「何だ。離してくれ」
 日課を邪魔された怒りからか、体型に似合わない強い力に不快感を覚えたからか、腕を掴まれた男は苛立ちを滲ませた。
「君ねえ、もうここ来ちゃ駄目なんだよ」
 小柄の男が柔和な口調で語りかける。
「どういう意味だ」
「君がどういう目的でこの店にほぼ毎日入り浸ってるかはあえて聞かないけどね、どちらにせよ何も買わないのに一日中店に居られたら流石に迷惑でしょ」
 男の口調は相変わらず優しい。しかしそれを語る目の温度は、決して生温いものではない。
「つまり何が言いたいんですか」
「分からない? 要するに、君は客として受け入れられてないんだよ。店にとって何の利益も生まない人は、そもそも客ですらないの。客でも何でもないただのストーカーに、店を訪れることができると思うかい? ここまで言えば、もう分かるね?」
 小柄な男の腕を掴む力が一層強まった。
 じっと見つめられた男の歯が、ぎしぎし鳴る。男の中の矜持が、ぶるぶると震え始めているのだ。
 男が声を振り絞る。
「どの立場で、あなたは、そんなことが言えるん、ですか」
 小柄な男が微笑みながら胸元から出したのは警察手帳だった。
「君、ここ出入り禁止ね」

 男は茫然自失としていた。普段であればこの帰路を午後三時ほどに通るのだが、今はまだ午前十時十分にも満たない。視界の端で見える車の往来が、今日はやけに遅い。突きつけられた様々な現実が、まざまざと瞼の裏に飛びかかってくる。
 自分でも分かってはいた。「居てはいけない」と言われないことと、居て良いということは同義ではないと。自分はただ見て見ぬふりをされていただけだったのだ。いつか誰かに「居てはいけない」と伝えられただけでいつでも消してしまえる存在だったのだ。男はここまで考えて、道端で嘔吐した。
 そして、自分があの店員の女に恋をしていたことも、男は漸く認めた。自分が風邪で悪寒に震えていたとき、あんなにも眩しい笑顔を向けてくれた彼女は、今自分を拒絶している。優しさはときに残酷である、というチープな謳い文句でさえも、今の自分には当てはまらない。それほどに惨めな恋を惨めに終えた。男はまた嘔吐した。
 結局男がかの古びたアパートの一室に辿り着いたのは正午ほどのことだった。むかむかする胃を抑えながら、無心でドアを開ける。畳の腐った臭いが嗅覚をつんと刺激する。そこで男は、到底信じられないものを見た。
 何と、部屋の中央に、あのドラッグストアの店員の女がちょこんと座っていたのだ。女はアンドロイドのように焦点の合わない目をしていて、格好も店の制服のままだ。
 男は、何が何だか分からなかった。つい先ほど、間接的ではあるが拒絶を受けた相手が、不思議なことに自室に佇んでいる。男は夢だと思った。試しに漫画のように頬をつねってみるが、目の前の女は消えない。
 男は、恐る恐る女の方へ近づいてみる。女は動じない。次は話しかけてみる。「ねえ」と言うと、女がこっちを向いた。男はぎょっとして少し退く。すると、女が「おかえり」と呟いた。
 男は腰が抜け、しばらくそこから動けなかった。女が「おかえり」と言ったとき、こちらを見て微笑んだからだ。先ほどの警官のような憎たらしい微笑みではない。慈愛に溢れ、俺を想ってくれているのが、よく分かる微笑みだ。
 そこで男は全てを悟った。これで良いのだ。俺はこの世界に存在していい人間であることが、認められたのだ。この鬱蒼とした世界で、愛情という高級嗜好品を有するに値する人間なのだ。
 気が付くと男は笑っていた。この世の全てが可笑しく思えてくる。そして、次に我に返ったときには女を抱きしめていた。それでも女は微笑み続けていた。これが幸せというものなのだ。この二人だけの幸せは、誰にも邪魔されないだろう。二人だけ、二人だけのものなのだ。


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