天国のはしご

霧立昇


 ラムエルはつい最近神に造られたばかりの天使です。もっとも、天使にとっての最近とは人間にとっての数百年のことですが。
 彼の仕事は、敬虔な人間に神の祝福を届けに行くことです。そのため、彼は人間に関わる機会の多い天使でした。
 しかし、今では、神からの命令はほとんどありません。そのため、今の彼は天使として働くよりも、下界を雲から覗き込む時間のほうが長くなっています。
 ある日、彼は急に上司であるガブリエルに呼び出されたのでした。

「どうなさったのですか、ガブリエル様」
「来ましたか、ラムエル。話というのは他でもありません。あなた自身のことについてです」
「私が何か粗相をしましたか?」
「いいえ、あなたの仕事ぶりに問題はありません。問題は、あなたの表情ですよ」
 ラムエルは少し首をかしげました。
「表情?」
 ガブリエルは天使的な厳かな微笑を顔に浮かべたまま頷きました。
「はい、あなたも知っての通り、天使は常に微笑んでいるべき存在です。しかし、あなたは何故そのような顔をしているのです? 」
「失礼ながら、ガブリエル様。私は今でも微笑んでいるつもりなのですが」
「なんといえばいいのでしょうか、あなたの表情は......憂いを無理に隠すための微笑に見えるのです。私たちの微笑は、神によって造られたという喜びを常に表明するためにあるのに、あなたの笑みからは喜びを感じられない。何か、悩んでいることでもあるのですか?」
 一瞬ラムエルは目を逸らしましたが、やがてガブリエルの方をまっすぐ見て言いました。
「神に生かされている、という喜び自体は感じているのです。しかし、かつてほど強くは感じていません」
「......それは、今の下界と関係が?」
 ラムエルは答えません。ガブリエルはそれを肯定と見做し、ため息をつきました。
「説明したはずですよ、ラムエル。これもまた、大いなる我らが神の御計画の一つだと」
「この静けさも、ですか」
「ええ、もちろん」
 ラムエルは今自分が立っている雲の下に目をやりました。そこには「ヤコブのはしご」と人間たちが呼ぶ、天国と下界を繋ぐはしごが架かっています。今までは、ここまで下界の音が聞こえることがあったのです。怒鳴り声、悲鳴、ごく稀に笑い声や歓声も。しかし今では静まり返っています。
 下界で疫病が蔓延している、とラムエルは聞かされていました。それだけならラムエルが生まれてすぐの頃にも同じようなことはありましたが、それでも何らかの声は聞こえたのです。
「なぜ、祈る声さえ聞こえてこないのでしょう?」
「今の人間が教会に行くことも疫病を恐れてしないからですよ。ほとんどの人間が家に閉じこもっているようです」
 ガブリエルは無感動に言いました。
「ならば、神の祝福も彼らには届けられないのでしょうか?」
「祝福を誰に与えるかは、神がお決めになることです。我々が考えるべきことではありません」
「......私には分からなくなってきました。何もできないなら、どうして私たちは存在するのでしょう」
 
 しばらく、重苦しい沈黙が辺りを包みました。
「ラムエル」
 ラムエルは思わず肩をびくりと震わせました。ガブリエルの声が、今まで一度も聞いたことがないような厳しい声だったからです。
「今の発言は、堕天の兆しですよ。神に造られた自分の存在を疑うなど」
 俯いたままのラムエルに、ガブリエルは少し声を和らげて言葉を続けます。
「私はあなたの真面目さを好ましく思っています。しかし、少し思い詰めすぎるきらいがありますね。一度、違う仕事をしてみてはどうでしょう。」
「違う仕事?」
「ちょうど今、星を磨く天使が足りなくなっていたのです。あなたさえ構わなければ、そこで働いてもらいましょう」
 ラムエルはガブリエルを見つめて、言いました。
「今の自分には星を磨くか、堕天して地獄に堕ちるかの二択しかない、ということでしょうか」
 ガブリエルは無言のままです。
「それなら、今から星を磨きに行きます。どうもご迷惑をおかけしました、ガブリエル様」

(もうお前はいらない、と言われたも同然だな)
 そんなことを思いながら、ラムエルは黙って星を磨き続けています。
 しかし、神への反逆など一度も考えたことのない自分が、無垢なまま堕天使という烙印を押されてしまうというのはあまりにも不本意でした。
(だから、仕方がない)
 そうしていると、何者かが自分に近づいてくるのを感じました。
「一体こんなとこで何をしてんです、天使サマ?」
 それは随分長く生きているように見える悪魔でした。
「すぐに立ち去るがいい、汚らわしい者よ」
 ラムエルは天使の義務として厳しい口調で悪魔に言い放ちましたが、悪魔は肩をすくめるだけでまったく動揺したようには見えません。
「まあそう邪険にするなよ。俺だって昔は天使だったんだからな」
 そう言ってどっかりとラムエルの横に腰を下ろしました。
「もうこの際お前みたいな真面目腐った天使でもいいや。ちょっと話し相手になってくれよ、最近暇なんだ」
 ラムエルは無視を決め込みましたが、悪魔は気にせずに話し続けます。
「俺も天使だった頃にはな、あんたぐらい真面目だったんだぜ。
 そうして、神の覚えめでたい俺はこんな仕事を任されたんだ。ヤコブっていう人間にレスリングを挑んで、しかも負けてこい、だとさ。変な命令だよなあ。何考えてんだか。
 だが、真面目な俺はそのヤコブっていう人間を見つけて組み付いたさ。当然だが、天使が人間に負けるわけない。本気で戦って、それでも負けたって演技をしなくちゃいけなかったんだ。
 それ自体は別にきつい仕事じゃない。俺が我慢ならなかったのはその人間の体臭だ。人間ってなんであんなに臭いんだろうな。しかもあいつ全身汗だくになって、ふうふう息を吐きながら俺に組み付くんだから、たまったもんじゃねえよ。
 だから、仕事が終わってすぐ神に直談判に行ったよ。もう二度と人間に直接関わる仕事はしたくない、って」
 
「その真面目な天使が、どうして堕天したんだ?」
 悪魔に対しては微笑みを一切向けないまま、ラムエルは聞きました。
「さあ? 大昔の話だからな、もう忘れたよ。神の気に障ったってことだけは確かだが」
 相変わらず悪魔はニヤニヤしたまま答えました。
「堕天してからは嫌でも人間と関わらなくっちゃいけないから結局すぐに慣れたけどさ。あんたは人間の臭いを知っているかい?」 
 当然ラムエルは知っています。人間の汗や垢、血の臭いや彼らの作る香水の匂いまで、ラムエルははっきり覚えています。初めに嗅いだ時は衝撃的でしたし、いい匂いだとはまったく思えませんでしたが、なぜかラムエルにとっては忘れたくないものだったのです。汗や血など流す必要のない自分たちと違い、がむしゃらに突き進んでいく人間の姿を、ラムエルはその目に焼き付けていました。
 つい物思いに沈んでいるラムエルを見つめながら、悪魔はまた聞きました。
「じゃあ、バベルの町は?」
「当然知っている。思いあがって天にまで届く塔を築こうとした人間たちの町だ」
「いや、天罰が下る前のバベルの町に行ってみたことはあるか、って話だ」
「......私は最近造られたばかりだ」
 結局悪魔のペースに巻き込まれている自分を恥ずかしく思いながらも、ラムエルはつい正直に答えてしまいました。本当は彼も悪魔と同様に、話し相手が欲しかったのです。
「俺は見たことがある。あの頃のバベルは臭いも騒がしさも、凄まじかったな。......でも、眺めているのは楽しかった。あいつら、汗を流して、必死に煉瓦を積み上げてたんだ。目を輝かせながらな。すぐに神に壊されるとも知らないで」
 悪魔は自分の足元に転がっている星屑を手に掴んで弄びながら話していました。
「バベルの塔はそれで終わっちまったが、結局人間は塔を作るのを諦めなかった。懲りずに『摩天楼』なんてものを今じゃ山ほど作ってるじゃないか」
 今ではもう星を磨く手を止めて、ラムエルは悪魔の話を聞いていました。
「......どうせそのうち、また賑やかになるぜ。ペストの頃よかずっとましなんだから」

 悪魔が立ち去ったあと、ラムエルは星屑の中に寝そべって、目を閉じてみました。これは人間の真似事です。天使は睡眠をとる必要がないのですが、何故かラムエルは今無性に「寝る」という行為をしてみたかったのです。
(人間は寝るときに夢というものを見るらしい。この体勢を続けていれば、見ることができないだろうか)
 しばらくそのままでいると、ラムエルは不意に自分が真っ白な空間の中で一人座っているように感じました。
(これが、夢?)
 ラムエルが考え込んでいると、急に自分の右足の親指に違和感を覚えました。人間でいうと、蟻に噛まれたような感覚です。
 よく見ると、親指くらいの大きさの男がラムエルの足に噛みついています。
 しばらくラムエルは呆然とその男を見つめていましたが、そっと、その男を指の先で弾いてみました。するとその男は簡単に転がっていきました。
 しかし、男はすぐに立ち上がって、今度は自分の爪先を一生懸命蹴ってきます。
 ラムエルには意味が分かりませんでしたが、勝てるはずのない存在に必死に挑むその姿に、畏怖に近いような感情を覚えました。
(この男にとってはきっと、私の存在自体が克服すべき『天災』なのだ。だから、命がけで戦おうとしているのか)
 これが真剣な勝負なのだと理解したラムエルは、今度は本気で男を握りつぶそうとしました。
 しかしその男の体はまるでダイヤモンドのように硬く、しかも必死に手の中で暴れるものですから、次第にラムエルの息はあがっていきました。
 
 そこで、ラムエルは目を覚ましました。
 彼は寝ころんだままぼうっとしていましたが、自分の額が濡れていることに気づきました。
 指で拭って、ぺろりと舐めてみると、塩の味を感じました。
 
 しばらくして、ラムエルはそっと、はしごに足をかけてみました。耳を澄ましてみても、やはり静かなままです。それでも、ラムエルはじっと待っています。そう遠くないうちに天まで響くであろう、人間たちの声が聞けるのを。       


さわらび125へ戻る
さわらびへ戻る
戻る