袋小路

紫苑ミリ


 
 誰かを好きになるよりも先に、抱かれた。
 枕を共にするのに好意なんて必要ないことを知ったとき、あたしは一七歳だった。そして、行為のあとに好意が追い付いてくるのを知ったのも、同じ時だった。
 ぱちん。錠剤が手のひらに落ちる。毎日、夜十時にあたしはこれを飲む。お金は出してくれていた。でも病院に通うのはあたし。クリニックの営業時間は学校と被っていて、土曜日の午前、友達と遊ぶと嘘をついて薬をもらいに行く。三年生になったら土曜日も補習だ。それまでには、終わらせないといけない。
「今日会える?」
 携帯に浮かび上がったメッセージを、既読をつけないように慎重に長押しして読み返す。この人の「会いたい」はイコール「やりたい」だ。わかっている。わかっているのにほんの一瞬だけ、心が揺らいだ。
 友だちリストから送り主のプロフィールを確認する。名前欄には翔とだけ。ひとこと欄には経済三回生であることと、よくわからないサークル名が示されている。翔によると、その正体は「飲みサー」らしい。そして、アイコンは彼女との写真。アルバイトもしてない高校生のあたしとは交わるはずもないところにいる人で、そして、こんな風に交わるべきでもない人だった。どういう運命のいたずらか、あたしは翔に出会い、そして身体を許すようになった。
 夜型の翔があたしを呼ぶのは決まって夜だけ。実家暮らしのあたしは「コンビニに行ってくる」と小さく声をかけて家を出る。たぶん、声をかけようがかけまいが、たいして気にも止めないだろうけど。この家の関心は六つ下の優秀な妹一人に注がれていて、あたしはまるで空気みたいな扱いだった。それも、割り切ってしまえば気楽と言えなくもない。
 戸建ての住宅が並ぶ街を、憂鬱と高揚を携えて歩く。迎えにも来ないような男のもとに、抱かれに行く。やっぱりやめよう、でも、を繰り返しているうちに、学生向けアパートの立ち並ぶ通りに出た。 
 翔の家まであと少し。もしかしたら、今日はただ顔を見たかっただけで、「会いたい」は文字通りの会いたいなのかもしれない。そんなことを夢想しながら、一方でこの夢想が失望となって後から響くことをあたしはもう理解していた。
 インターホンを押すと、マリンの香りとともに翔が私を出迎えた。燻る煙草の煙を消すために、翔は香水をつける。あたしはそのきつい香りがあまり好きじゃなかった。
「なーなちゃん。おいで?」
映画でも観よっか。そう言って手を広げた翔の足の間に座る。リモコンを片手に、あたしを後ろから抱きしめた。
「シャンプーの匂いがする」
「シャワー浴びて来たから」
 耳の後ろで空気が震えるのがくすぐったい。
 何観たい、翔はリモコンを操作しながら聞いた。この人の家で映画をまるまる一本見終えたことなんて、一度もない。続きを見ることもなく、途切れ途切れの冒頭十分だけが記憶に溜まっていく。だから、何を見たって変わらない。
 結局翔が選んだのはミュージカル映画だった。道路で、カラフルな衣装の人たちが歌い出す。案の定、開始五分もしないうちに彼の指はあたしの身体を彷徨いだす。ポップなBGMがうっとおしい。あたしたちにはこんな人生の喜びを歌うような歌なんて、似合わない。
「テレビ、消して」
「ん」
 声が震える。見られたい、見られたくない。あたしを暴かないでほしい、すべてを暴いてほしい。愛されたい、  愛さないでほしい...相反する気持ちが、欲情とともに全身を駆けめぐる。
「キスして」
 向き直ると翔は激しく口付けた。
 この激しさがなくなったときが終わりだと思う。わかっているから、確認せずにいられない。大丈夫、今日もまだ、大丈夫。

 三年生になった。あたしは三年生になるまでに、翔との関係を終わらせなきゃならなかった。土曜日の午前に通っていた産婦人科は、補習があって通えない。だけど、あたしはピルの通販を見つけてしまった。彼との関係を続けて良い理由を、見つけてしまった。安全性の不確かな海外通販サイトで購入ボタンを押す。配送に時間がかかるらしく、お年玉貯金を引っ張り出して、まとめて買った。怪しげな通販のピルは、クリニックで貰うものの半額だった。だけど、翔にはそれを伝えないまま、かといってその差額を何かに使ってしまうこともできないまま、引き出しに入れた。
 あたしたちの関係は何も変わらない。あたしは毎晩、翔からの連絡に備えて早めに風呂に入る。「今から会える?」と送られてきたら向かい、何の連絡もなかったら携帯を握りしめて何時間も画面を睨む。その繰り返しだった。
 今日は会える。生理が来たと伝えてからちょうど一週間後のメッセージに返信して、翔の家に向かった。
「煙草、吸っていい」
「あたしにも、一本ちょうだい」
「だーめ。ななちゃんはまだ子どもでしょ」
 煙草の箱でこつんと小突かれる。子ども。まだ、煙草もお酒も許されない歳で、だけど選挙権は持っていて、身体はもう大人で、セックスもできる。ちぐはぐだ、一八歳なんて。
「子どもとセックスする変態」
「確かに」
 翔は笑った。
「でも、ななちゃんだけだよ。俺が興奮するのは」 
馬鹿みたい。そんなの、全然褒め言葉じゃない。嬉しくもない。
 「無料でいつでも生でやれる女子高生」、翔の中であたしの価値はそれくらいしかない。「無料でいつでもやれる女子大生」は、翔の周りにはいくらでもいるだろう。ゴミ箱の中に見えるコンドームの切れ端を見てため息をついた。ほら見ろ。あたしの生理中はこうして他の女が家に来ている。でもあたしは、ここでヒステリックに叫ぶ権利を持っていない。
 生まれたままの姿で抱き合って、親よりも誰よりも深いところで繋がっているのに、どうしようもなく他人だ。
思考が暗く深いところに行こうとして、慌ててかぶりを振った。あたしが彼への好意を正確にラベリングしてしまったら、そしてそれを彼にも求めてしまったら、この関係は終わる。だから、「相性が良いから一緒にいるだけ」と言い聞かせた。翔への好意を、欲情にすり替えて、もう一度抱かれる。
「いつの間にななちゃんはこんなにエッチな子になっちゃったの?」
「翔のせいでしょ」
 本当はセックスなんて全然好きじゃない。ピルを飲んでいても次の生理が来るまで気が気じゃないし、終わった後はなんだか内臓のあたりが気持ち悪くて、ひりひりする。
 でも、しがみつく理由が欲しかった。翔の指にからめとられる理由が、翔の背中にしがみつく理由が。
 翔の熱を受け止めたかった。この瞬間だけでもいいから、翔の目の前にはあたしだけで、翔の頭の中も、あたしだけになりたかった。
 そのための手段がセックスだった、それだけ。
 
 例年より暖かい冬を越した。あたしは第一志望に落ちた。元々あたしに期待をしてなかった親は、特に何も言わないまま、第二志望の短大の入学手続きを済ませた。翔は難なく卒業して、一般企業に就職した。酒、煙草、セックス。絵に描いたようなダメ大学生だったはずの翔は、「学生時代力を入れたこと」を聞かれて、「カンボジアに学校を建てたこと」と答えたらしい。あたしは、そんなことを知りもしなかった。
「ま、ななちゃんならどこでもやってけるって」
 翔はそういうとあたしの髪をかき回した。たぶん、どこでもやってけるのは、翔の方だった。
「最後に、キスしてよ」
 唇が触れるか触れないかの淡白なキスだった。ああ、終わった。あたしの恋愛はこの部屋で生まれて、彼の新居行きの段ボールに詰められることもなく、この部屋で終わった。
 引き出しにしまったままのピルの差額は一万八千円になっていた。あたしはそのお金で翔がよく使っていた香水を買った。きつくて苦手だったはずの香りは、煙草の匂いがないとただの良い香りで、なんだか物足りなかった。
 香水をひと吹きする。記憶よりもずっと柔らかい香りを抱きしめる。好きだとは言わなかった、最後まで。それを言ってしまったら終わると思っていたから。でも、何も始まってない、むしろ最初から終わりのこの関係で、あたしは何を恐れていたのか、もうわからなかった。




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