ステップ・ファザー・ギフト

ビガレ



「行ってきます」
 僕は和室の隅にある小さな仏壇に手を合わせ、呟いた。中央で笑っているのは、半年前に病気で亡くなった妻の美代子だ。立ち上がりながら、傍らにあったスーツジャケットを羽織って玄関へ向かう。
「行ってきます」
 その途中でもう一度、今度はダイニングで朝食を食べている高校生の娘の美鈴ちゃんに届くように、叫んだ。
 目玉焼きを迎えようとしていた横顔が、小さく会釈するように動いたように見えた。
 僕はそれを確認して、玄関のドアを開く。

 出勤中、車を運転しながら美鈴ちゃんのことを考える。最近、ふと気づくと美鈴ちゃんのことを思い浮かべてしまっている。
 美鈴ちゃんは、僕の実の娘ではない。彼女の肉親は、両方とも既に他界している。母親である美代子は半年前に病気で、父親は美鈴ちゃんが生まれて間もなく事故で亡くなったそうだ。
 実の親子でないとなれば、当然、僕と美鈴ちゃんとの間には微妙な距離感が生じる。ドラマのように明らかな嫌悪感を示されているわけではないが、家族として受け入れられている感触もない。お互いがお互いの出方を窺う日々が続いている状態である。
 しかし、僕にはこの状況を打破しなければいけない理由、というか宿命がある。
 さっきまでスムーズだった車の流れが、信号待ちによって徐々に動かなくなる。
 僕は、ブレーキペダルを踏みながら、病室で横たわる美代子の姿を思い浮かべていた。
 ある日、美代子と僕は病室でテレビを見ていた。見るといっても、集中してその内容を捉えようとしていたわけではなく、ただ流れてくるものを視覚に取り入れているという方がふさわしかった。その頃には美代子の身体はほとんど衰弱し切っており、二言三言喋るので精一杯だった。
 僕がテレビの電源を切ろうとリモコンに手を伸ばすと、美代子が僕の腕を掴んだ。それは、動くこともままならない病人のものとは思えないほど、強い力だった。まだテレビを見たかったのかと思い、美代子を見つめていると、彼女は口をはっきりと動かし、言った。
「美鈴と、仲良くやってね」
 僕はその流暢な口ぶりと内容に驚き、少し時間をあけて「もちろん」と応えた。
 そして、それが美代子と最後に交わした会話となってしまった。
 そういうわけで、僕は、美代子と一生をかけて誓った約束を守るため、何が何でも美鈴ちゃんとの距離を縮めなければならないのである。
 車の流れは、次第に動きを取り戻しつつあった。

 大抵社員食堂というものは、つかの間の休息を過ごすため、午前の業務で削られた体力を食事で取り戻すため、大勢の社員で賑わうはずだが、我が社の社員食堂には昼休みでもほとんど人がいない。理由は定かではないが、僕が入社した当時から閑散としていたため、今更みんな使うに使えなくなっているのだろう。しかし、人が出入りしないということを逆手に取れば、他人にあまり聞かれたくない話をするにはもってこいの場所であるということだ。僕はその社員食堂に、今日の昼休み、同僚の向井を呼び出した。
「お前、化粧品のサイトなんか見てんの?」
 先に座って待っていた僕の隣に、向井が突然現れる。
 僕はぎょっとして、持っていたスマホをポケットの中に隠す。
「そんなに驚かなくてもいいだろ。まあ、驚かせたんだけど」
 向井はカレーライスが乗ったお盆をテーブルに置き、固い丸椅子に座る。
「悪いね、突然呼び出したりなんかして」
「全くだよ。しかもこんなかび臭いところに」
 そう言って、向井は目の前の空気を振り払うようなジェスチャーをする。食堂で働いているパートのおばさんたちに聞こえなかったか心配になる。
「お前からじゃなきゃ、来なかっただろうよ」
 向井は、口調こそ荒っぽいが、僕はひそかに彼のことを面倒見の良い奴だと思っている。
「今日は、義理の娘について相談があるんだ」
「亡くなった奥さんの子どもさんか」
 向井は、僕の現在の家庭状況を知る数少ない人物だ。下手な気遣いや詮索をされないために、あまり公にはしていない。
「彼女と距離を縮めるために、何かプレゼントをしようと思ってるんだけど、年頃の女の子は何をあげたら喜ぶんだろう?」
「随分と他人行儀な言い方だな。仮にもお前の娘だろ」
 実際他人のようなものだ、とは言い返さなかった。
「そうか、それでさっき化粧品のことを調べてたのか」
 向井は、合点がいったような顔で、僕のスマホを隠したポケットを指さした。
「確かに俺の娘も義理の娘さんと同じくらいの年齢だな」
 向井はそう言って、指を顎に当て、考えるようなポーズをした。彼には、高校三年生の娘がいる。そんな彼なら、美鈴ちゃんが欲しがりそうなものが分かるのではないかと思い、こうして相談したのだ。
 しばらく黙ったあと、ようやく向井が口を開く。
「小学生くらいまでは『パパあれ買って』とか『これ欲しい』とか言ってたが、高校生にもなれば自分の欲しいものは自分のお小遣いで買ったりするから、何をプレゼントしたら喜ぶかは、ちょっと分からねえな」
 そう言って、ごめん、と言葉を次いだ。
 僕も、それもそうか、と項垂れ、小さく溜息をついた。
「今日は、わざわざ来てくれてありがとう」
「いや、大した案も出せてないんだから、礼を言われる筋合いはねえよ」
 そのあとは、向井はカレーライス、僕は醤油ラーメンを食べながら、お互いの近況を話したりして、別れた。

 それから数日、僕は美鈴ちゃんの動向に目を光らせた。一般的な女子高生が欲しがるものが分からない以上、美鈴ちゃん個人に焦点を絞るしか方法はない。彼女と一緒にいる時間は一日の中でもごくわずかであるため、プレゼントについての有益な情報が得られる可能性は高いとは言えなかったが、それでも藁をもすがる思いでやった。
 そしてある日、僕は一本の藁を発見した。
 普段、美鈴ちゃんはお風呂にスマホを持ち込むのだが、その日は忘れていたのかダイニングテーブルに置きっぱなしにされていた。僕が夕食の皿を下げようとしたとき、その液晶画面がぱっと点灯し、メッセージアプリの通知を表示した。そこには、『手芸用品店なら駅前にあるよ』とあった。僕は皿を持った手を止め、その文章を凝視した。美鈴ちゃんが手芸用品を欲しがっている。これは僕にとっては大きなヒントだ。しかもそれが売っている場所まで教えてくれている。何と都合の良いことか。ありがとう、名前も知らない美鈴ちゃんのお友達。
 僕は頭の中で、これは事故だ、これは事故だ、と念じて他人のやり取りを覗いてしまった罪悪感を振り払い、とにかくすぐにでも手芸用品店に向かわねばならないと思った。そうでないと美鈴ちゃんが自分で先に買いに行ってしまいかねない。
 自分のスマホを取り出し、明日のスケジュールに『残業禁止』と書き込む。
 僕は和室へ行き、仏壇の前に正座する。美代子は、その中央でいつもと変わらず笑っている。
「美代子、約束は忘れていないよ」
 やはり美代子は、笑っているばかりだった。

 翌日、僕は普段の一・五倍くらいのスピードで業務を終わらせた。終業間際に上司に仕事を回されそうになったときは、必死で電話がかかってきた振りをして逃げ切った。
 外の景色は既に赤みがかかり始めている。西日に目を細める人たちがゆっくりと横断歩道を渡る。僕はその人混みの間を縫うようにして歩みを早める。
 駅前の手芸用品店の場所は既にリサーチ済みだ。スマホ上で見た地図はほぼ完璧に頭に入っている。身体は、プログラミングされたルートをひたすらに進むアンドロイドのようだ。
 大通りに垂直に交わる橋を渡り、商店街を通り抜ける。角のファストフード店を左に曲がり、もう一度開けた場所に出る。実際に見ている景色と液晶画面で見た景色が、頭の中でリンクしていく。
 そして、とうとう目当ての手芸用品店に辿り着いた。白いレンガの壁に、ピンク色の屋根が乗った小さな店だ。店頭のショーケースには、おそらく手編みのクマの人形が収まりよく座っている。
 ここで美鈴ちゃんへのプレゼントを買うことがゴールではない。むしろここから始まるのだ。美代子との約束を果たすため、美鈴ちゃんと良好な関係を築くための過程を、ここから始めるのである。
 僕は一息ついてから、店内に足を踏み入れる。
 その踏み入れた右足の隣に、ローファーの左足が並ぶ。
 僕がふと横を見ると、そこには制服姿の美鈴ちゃんがいた。
 頭の中で「やってしまった」という声が反響する。手芸用品を、まさしく自分のために買いに来た美鈴ちゃんと遭遇してしまった。背中に冷や汗が走る感覚がある。もう少し早く店に来ていれば僕が先に買うことができたのに。しかし後悔している場合ではない。このままでは、美鈴ちゃんにプレゼントをして距離を縮めることはおろか、手芸が趣味のおじさんだと思われてしまいかねない。僕はとにかく何か自分の中から発さなければと思い「何しに来たの?」と聞いた。
 何しに、って自分が欲しいものを買いに来たに決まっているだろ、とセルフで突っ込んだときには、もう口から言葉は出きっていた。
 そう思っていたが、目の前の美鈴ちゃんは、なかなか口を開かない。顔を赤らめてもじもじしているだけだ。まさか、彼女にとって何かまずいことを聞いてしまっただろうか。もしかして、自分の欲しいものを買いに来たわけじゃない? 美鈴ちゃんも誰かのために店に来たのか?
 僕はそこまで考えて、ある仮説を思いついた。
 美鈴ちゃんも、僕と同じ約束を美代子と結んでいる? つまり、美鈴ちゃんも僕と距離を縮めるために、プレゼントを買うためにこの店に来たのではなかろうか、という仮説だ。
 しかし、その仮説は僕にとって都合が良すぎるし、そうだとしても僕に手芸用品をプレゼントというのは、あまりよく分からない。
 いやしかし、彼女が手芸用品を欲しがっていたのは昨日の携帯の件からも事実だし、美代子なら美鈴ちゃんと約束していてもおかしくはない。
 僕がもじもじする美鈴ちゃんを前に、しかししかしを繰り返していると、ついに美鈴ちゃんが口を開いた。
「あの、マフラー貰うなら、何色がいいですか?」
 予想外の質問に、僕はすぐに答えることができなかった。頭の中で言葉を司る部分に蓋をされているような感覚がする。しかし、ここで何か答えなければ次はないぞ、と誰かに急かされているような気がして、僕は何とか「白」と答えた。本当に白が好きなわけではないが、とにかく早く答えなければならないと思ったのだ。
 僕がそう言うと、美鈴ちゃんが「分かりました」と、少しだけ笑いながら言った。
 それにつられて、僕も声を上げて笑い、自分が笑えたことに安堵し、さらに笑った。気味悪がられるかと思ったが、美鈴ちゃんも僕と同じように笑っていた。

 結果から言うと、僕の仮説は的中していた。
 美代子は、美鈴ちゃんにも僕と仲良くするという約束をしていたのだ。
 そして、僕がその約束を果たすために美鈴ちゃんにプレゼントをしようとしたのと同じように、彼女は僕に手編みのマフラーをプレゼントしようとしたのだ。その材料を買うため、彼女はあの日手芸用品店に現れたそうだ。僕の登場は彼女にとっても予想外だったらしいが、それならいっそと思い、僕にマフラーの色を尋ねてきたのだ。今考えても彼女のその行動は、相当勇敢だったと思う。
 僕は今、白色のマフラーをし、会社へ向かっている。運転する車内にはエアコンの暖房が効いているのだが、それでもお構いなしにマフラーを着けている。
 少なくともこの冬の間は、ずっと着けているつもりだ。


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