黎明の紫煙

蒼空夕



 ふう、とゆっくり息を吐き出す。口腔を埋め尽くしていた苦い煙が空中へと解き放たれる。
 眼前の空間に名残惜しそうに残るそれじっと見つめる。ゆらゆらと揺蕩うそれを手で軽く払うと、すうっと跡形もなく消えてしまった。泡沫、その言葉が良く似合っていた。


 時刻は午前五時。本来この時間は、俺は毛布に包まって横たわっているはずだ。しかし今日に限っては、目が覚めてしまった。大事な何かを思い出したように、ふっと瞼が開いたのだ。どうも二度寝する気分にもなれず、かと言って散歩などという年寄りみたいなことはしたくなかった。
 しばらくぼうっとした後、弾かれたようにベッド脇に置いてある机の引き出しを開けた。最奥から発掘したのは、数週間前に辞めたはずの煙草の箱。まだ数本残っていた。その感触を確認すると、同じく封印されていたライターを手に取り、ベランダへと向かった。

 ガラッとガラス戸を開けると同時に、ひんやりとした空気が肌を刺した。まだまだ暑いと思っていたが、朝方になればそれなりに気温は下がるようだ。カーディガンでも羽織ってくれば良かったか、と未だ冴えない頭でそう考える。
   まあ、いいか。どうせこれを吸ったらすぐに戻る。頬を滑り落ちる髪を掬いながら、そんなことを考えた。指間から逃げる毛束が鬱陶しい。舌打ちを一つすると、くしゃくしゃに潰れた箱の中から煙草を一本取り出し、口に咥えた。懐かしい感覚だ。
 オイルの切れかかったライターで火を付ける。カチッという硬い音が鼓膜を刺激する。それは冷たい空気の中で反響し、黎明の静けさを切り裂いているようでもあった。

 流れ込んでくる主流煙を喉の奥へ引き込む。たったの数週間とはいえ、久々に有害物質を摂取したからであろうか、ゴホゴホと勢いよく咳き込む。気道を侵される感覚に生理的な涙が目尻に浮かんだ。

「......まっず」

 吸い始めた時もそうだった。体質的に煙草をあまり受け付けないのか、咳が止まらなかった。無理やり吸い続けていると体が麻痺してしまったのであろう。大分マシにはなったが、それでも煙草が美味いだなんて思ったことは一度たりとも無かった。

 ひとしきり咳き込んだところで、ようやく呼吸が整った。もう一度、白い煙を大きく吸い込む。やはり不味い。口内に纏わりつくような苦さが不快である。
 しかし、まずいと知りつつもこの悪癖を止められないのは、立派なニコチン中毒者であることの証明であろう。口寂しさを誤魔化すためなら、ガムでもキャンディでも、何ならキスでも良かったのだが  。
 喫煙は緩やかな自殺である、と誰かが言っていたのを思い出した。どこかの団体が打ち出したキャッチコピーであったかもしれないし、はたまた学生時代の保健の教科書に書いてあったのかもしれない。いずれにせよ、俺は今、じわじわと自分を殺しているのだろう。

 ふう、とゆっくり息を吐き出す。口腔を埋め尽くしていた苦い煙が空中へと解き放たれる。
 眼前の空間に名残惜しそうに残るそれを見つめ、指先で弄ぶ。朝焼けに乱反射する紫煙が美しかった。


「あ、やっぱり兄貴また煙草吸ってる~。止めたんじゃなかったの?」

 ふいに背後から能天気な声が飛んできた。弟だ。早朝からコイツの声を聞くなんて。

「......うるせぇな」
「うわ、相変わらず辛辣。折角可愛い弟が心配してあげてるのに」

 まあ、最初から失敗すると思ってたけどね、と言いながら、弟は灰皿を俺に寄越した。コイツはいつも一言多いのだが、気は利く奴なのだ。奪うように灰皿を受け取ると、その上に煙草の灰を落とした。
 朝日に焼かれる街を眺めていると、弟が視界の端でゴソゴソと動いているのに気付いた。視線を左へと滑らせると、弟はポケットから何かを取り出した。  煙草、それに真新しいライターだ。きまりが悪そうに見せびらかす様子に呆気に取られていると、弟はこのように言った。

「実はさ、俺も吸い始めたんだよね」
「はぁ? あんだけ『煙草吸うなんて早死に希望なの?』ってディスってたお前が?」
「その俺がだよ......元カノが置いてったから勿体なくてさ」
「......そうかよ」

 嘘だ。コイツが彼女と別れたのは最近じゃない、かなり前のことだ。置いていった煙草なら手付かずな訳ないし、吸い始めたとしても一週間も経ったら全て無くなるだろう。それに勿体なくて吸い始めるなんて、後々のリスクを考えたら正気の沙汰ではない。
 やはりコイツと俺は兄弟、同じ穴の狢、似た同士なのだ。行動原理が全く同じだなんて癪だが。

 弟は少し覚束ない手つきで煙草に火を付け、ゆっくりと煙を吸い込んだ。紫煙をくゆらす弟の姿は、随分大人びたように感じる。だが、僅かに苦しげな表情を浮かべている彼は、今にも泣き出しそうな子どものようにも見えた。

「ねぇ兄貴」
「......何だよ」

 こちらに視線を向ける弟は、一瞬口を開き、そして閉じた。言葉を喉の奥へと押し込めるように、真一文字に結ばれた唇が痛々しい。耳が痛くなるほどの沈黙が去った後、弟ははにかんだ笑みを作った。思い出したように彼の唇が動き始めた。

「これさ、すげぇ不味いね」

 体に良くない味がする~と、おどけてみせる彼は少し前の俺のようである。コイツも俺も、自分の気持ちを煙で隠して、有害物質と共に体内に流し込む手段を取った。女々しくも、未練がましく過去に縋り続けていたのは俺だけではなかったのだ。
 弟の肩にぐいっと腕を回す。弟は素っ頓狂な声を上げ、慌てたように俺を睨みつけた。

「何すんだよ、この馬鹿兄貴。火付いてんだから危ないじゃん」
「ンだとこの野郎。お兄様に向かって口の利き方がなってねぇな」

 弟は何か言い返してきたが、俺が全て聞き流していると諦めたのか、そのままの体制で再び煙草をふかし始めた。溜め息と酷似した音が、彼の口から吐き出される。『これだから兄貴は』という聞き捨てならない言葉が聞こえたが、今日に限っては見逃すことにした。

 眩しい太陽、澄んだ空気。清々しい朝の代名詞を、俺たちは煙草で汚している。でも、俺たちの肺と心はもっと汚れている。
 これから先も、俺たちはこの虚しい行為を繰り返すのだろう。だが、それでもいい。煙を吸って、吐く。ただそれだけの無意味な行動は、空っぽな俺たちを誤魔化すのに都合がいいのだ。

「あー、クソ不味い」

 俺に拘束された弟がポツリと呟いた。弟は陽光に照らされた街をぼうっと眺めている。

「でもよ、癖になるだろ」
「......ホントだね。でも、癖になったら余計に忘れられない」

 俺たちの錆び付いた恋心も、煙と共に吐き出せたら楽なのに。


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