先輩と後輩と雨傘

水宮たみ



 図書室のひっそりとした空気と、雨の日は相性がいいと思う。それが放課後ならなおさら。吹奏楽部の練習が、遠く雨音と混じりあって響く。隣で委員会の仕事を淡々と片づけていく、先輩の衣擦れの音がしている。決して無音ではないけれど、深く、沈み込むような静けさがあった。週に一度、図書委員の仕事をこなすこの時間を、私は結構気に入っている。日常に組み込まれた非日常とでも言うべき、柔らかい不思議さがある。淡々と作業をして、時間が来たら切り上げて。シンプルなところが心地いい。
 
 湿気のせいか普段より重い前髪を気にしながら私がパソコンの電源を落としたのと、カウンターから先輩が鍵を取り上げたのは、ほぼ同時だった。
「帰ろうか」
 私は頷いて返す。
 先輩の声はいつもより小さくて、きっと二人、この場所に同じ静寂を感じていたのだと分かる。それは誰にも気づかれずに一瞬目を合わせて笑いあうような、ささやかで秘密めいたものの共有だった。
 荷物を持って図書室を出る。後に続いた先輩が電気を消し、鍵をかける。いつもと同じ仕事が、いつもと同じように終わった合図だ。



「......雨、結構降ってるね」
 朝は晴れてたのに。そう言う先輩の目線は、窓の外を流れていく雨粒を追っている。
 鍵を職員室に返した後は、いつも何となく一緒に帰る。だから先輩の家がどのあたりかは何となく知っていたけれど、たしかに傘がないと帰るのが少々憂鬱になるくらいの距離ではあるかもしれない。
「でも、天気予報通りですよ。午後からは雨」
 朝食をとりながら眺めていた、今朝のニュースを思い出す。午後の降水確率は八十パーセント。お出かけの際は傘を忘れずに。
「そうだったかな。僕たち二人で、見る天気予報が違ったのかも」
 冗談だか本気だか分からないような調子で、先輩がうそぶく。
「じゃあ先輩は明日から別のを見た方がいいですよ。わたしがお勧めの天気予報、紹介しましょうか?」
「それは助かるな」
 他愛のない会話をして、玄関までたどり着く。相変わらず管楽器の音が聞こえている。部活のために残っている生徒のものだろう、傘立てには水色や深緑など、まだ様々な色の傘があった。
「先輩傘、持ってきてます?」
 自分の水玉模様の傘を手に取りつつ、尋ねてみる。
「答えるまでもなさそうだけど、持ってきてないよ」
 先輩は苦笑を浮かべて首を振った。
「それなら、入っていきませんか」
 私は右手の傘を揺らして、誘った。

 丁度そのタイミングで雨音がひときわ強まったものだから、先輩の笑みが深くなる。
「これはちょっと、お言葉に甘えようかな」
 借りるよ、と断ってから、私の傘を開く。なぜ私のものを先輩が持つのか、一瞬疑問だったが、単に背の低い私が傘を差していたら疲れるからだろう。さりげなく左側に回り込んできた先輩を見てそう思う。どうにも掴みどころがないこの先輩が、けれど優しいのだけは確実だから、私はできるだけ、傘の真ん中に身を寄せる。
「先輩、風邪ひかないようにしてくださいね」
 春も終わろうとする季節に、肌寒いくらいの風が頬を撫でる。
「うん。君もね。傘を借りてる立場としては、君に風邪をひかれるのは辛いものがある」
「わたしは平気ですよ。......先輩はもっと、自分の荷物と左肩の心配をした方がいいと思います」
 やはり一人分の傘に二人で入るのは無理がある。私がいくら間を空けないようにしていても、先輩の鞄や肩は濡れてしまっていた。
「え? ああ、これはね、実はあんまり大事なものは入ってないんだ」
 気にも留めていなかった、という風に瞬く先輩に、私はため息をついた。鞄が濡れていますよ、と言われて濡れてもいいんですと返すのは違うだろう。
「そういう問題じゃ、ないですけど」
 私は手を伸ばして先輩から傘を取り返す。それから少し左寄りに差しなおした。私の右肩が濡れて、先輩が眉を寄せる。それからほんの僅かにだが、私の方へ近づく。それがどうにも愉快だった。
 私が先輩に傘を差してあげている。その状況がもたらす、くすぐったいような小さな優越感。
「今度よく当たる天気予報教えますから、次は先輩が傘持ってきてくださいね」



 もう少し後になって、その日学校に置き忘れられたモスグリーンの傘が、先輩のものだったと私は知る。そして先輩は、私がいつも折り畳み傘を持ち歩いていて、この雨の日も例外でなかったことに気づく。笑い話にもならない、雨の日の話だ。


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