ジャムセッション

亀村紫



コード#1 タイプ

 誰かと付き合うというのは本来、あってはならない。
 人間はもともとあまりくっついていてはいけない。互いのことを分かり過ぎてはいけないし、そもそもそんなに深く分かり合えない。
 しかし、人間関係に限ってはバカみたいにポジティブになる我々は、つい期待してしまう。互いを完璧に分かりあうこと、そしてそうやって愛し合うことを。それはもはや病気の一種だ。
 木の葉と木の葉の間の距離感。風が吹くと掠(かす)る、それが人間の間でもちょうどいい距離感なのだ。文月香苗(ふづきかなえ)はそう思う。

「......悪いって。ここ数日ずっと残業だったから、帰ったらすぐ眠っちゃって」
「帰り道とかに電話一本ぐらいはできるでしょ?」
「そう、そう。うん、俺が悪かった」
「......もしかして、私は暇だとでも思ってるの? 最近喫茶店も込んでるし、私も暇じゃないよ? だから、別に夜遅くでもいいから......」
「......」
「もしもし?」
「あ、うん」
「聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる。でもさ、俺がどんだけ苦労してるかも考えてみてくれよ。会社の仕事は喫茶店と違うからさ。自分の会社でもないのに頑張って何になる、みたいなこと考えると...... 給料日だけ見て生きていく気分って...... くそっ、おまえに分かるかよ」
「あら、お忙しいのにお酒飲む暇はあったの?」
「......」
「......もしもし? ねぇ、もしもし?」

 しかし、たまには腐った木の葉と掠ってしまう不祥事も起こったりする。

 電話が切れる前、微かに女の声がしたような気がした。若くて可愛い声。

 まあ、それは気にしないことにした。彼氏の気持ちを分からないわけではない。初々しい新入りの社会人だから、上司と仕事に追われていると自分が世界一不幸な人間だと思うのも無理ではないだろう。女子社員とお酒を飲みながら癒されたくなるのも理解できる。でも、彼女がいるのに? わざわざ?
 もしかしたら、彼の目には香苗が楽をしているように見えるのかも知れない。だからこんなに彼女扱いが酷いのかも。前も彼は似たようなことを言っていた。母のやっていた喫茶店を引きついたお前なんか、人生にレッドカーペットが敷かれているようなものだ、とか。
 そりゃ香苗も最初はそう思った。レッドカーペットどころか、宝くじにでも当たった気分だった。生まれつきプライドが高い香苗は他の人に指図をされたら頭が痛くなって吐き気がした。比喩ではなく、医学的にもそうだった。だから香苗は進学や就職に興味を持てなかった。どう見ても自分は母の喫茶店を引き継ぐために生まれたのだと、そう思っていた。
 しかし、それは言うまでもなく甘い考えだった。問題は市内の大学前にある喫茶店の位置だった。おかげで変なお客は数が少なかったが、代わりにまともの客の方の数が多すぎた。昼と夕方の食事後になると、喫茶店の許容量の三倍ぐらいの大学生が一気に押し寄せた。そのせいで注文が遅くなったら、若いお客様たちは訴える勢いで睨んできた。喫茶店の店長は大企業の一介社員よりも頭を下げるべきだと言うことを、香苗は母に教えてもらわずに体で覚えた。
 こんなとき、彼氏と言うのが慰めてくれるどころかケンカを売ってくるなんて。彼は香苗が一般社員ではない雇い主だからって羨ましがる様子だった。しかし、こんな小さな喫茶店の雇い主は雇い人より働くという真実、彼は分かって言ったのだろうか。
 
 九時になって、喫茶店のドアに鍵をかけた。大学前は一見静かそうにも見えるが、路地裏に入ると居酒屋やクラブがようやくピークタイムを迎えているはずだ。静かそうな方を歩きながら、香苗はふと思った。そろそろ別れ際かな。
 そもそも彼は香苗の好きなタイプではなかった。基準未達。アルバイト支援者で例えるなら書類で落としたはずの候補だった。なのに付き合っているのは、なんとなくそうなっただけだ。友達に紹介された男の中で一番積極的にアプローチしてきたのが彼だった。「あなたを逃したら一生後悔しそうです」とか言う、刺激的なセリフで断れない告白をした。その時は就職前だったからあんな、後片付けもできそうにないセリフがポンポン言えたのだろう。
 香苗の目が高すぎると言うかも知れないが、それは事実ではない。香苗の理想の人はたったの四文字で書くことができるのだ。「上品な男」。もうちょっと書くと、大声を出さなくても胸を響かせる人。ちょうど香苗が歩いていた道端にポツンと立っているウィスキーバーの立て看板みたいに、何となく心を引く人。そういう人が理想のタイプだった。
 しかし、何だろう、この看板は。香苗はかけていた眼鏡を取って拭き直した。こんな閑散(かんさん)とする街に置くなんて、客を引きたいという意思が欠けているのではないか。そう思いながらも香苗はその立て看板にひかれ歩いた。そしてネオンサインが壊れているオレンジ色のファサード看板の下についた。バーは地下らしい。
 階段を降りて少し暑くなったと思えば、すぐにまた涼しくなった。音楽もどんどん大きくなってきた。香苗が喫茶店でかけておくのとは違う、ゴツくてうるさいジャズだった。
 
 バーと言うから、狭い通路におじさんが何人か座ってお酒を飲んでいるシーンを浮かべた香苗だった。しかし、すがすがしいほど外れた予想だった。お店はホテルのラウンジぐらいに広く、床と天井は暗いオレンジ色だった。バーテンダーを向かったカウンター席にカップルが一組、そして広いスペースのソファー席には二、三グループの男たちが座っていた。香苗が当てたのはその男たちがおじさんだと言うことぐらいだった。
 何より予想外だったのは、お店の片方にあるカーテン付きの舞台だった。そこに立っているバンドが店中の視線を独り占めしていた。
 バンドと言っても、エレキギターが先頭に立っている四人組のロックバンドではなかった(それが香苗が普段持っている「バンド」のイメージだった)。先頭には両頬をパンパンに膨らませたトランペットの黒人男が立っていた。その後ろに変なテンポでドラムを叩く長い髪の女の人、そして大きなダブルベースを握ってまっすぐ背筋を伸ばしている長身の男がいた。後ろの二人は日本人のように見えた。
 香苗は目立たないカウンタ隅の席に座った。そしてバーテンダーに普通のジョニーウォーカーをロックで注文した。バーテンダーはトルコ人みたいなゴツいひげを生やした50代くらいの日本人だった。
 「おひとり様でしょうか」
 「はい」
 「話し相手が必要でしたら、ぜひお呼びください。もっとも、貴方みたいな綺麗な女性が放っておかれるわけないでしょうが」
「はい?」
 何のことだろう。誰のことだろう。とにかく褒めてもらった気がして香苗はにっこりと笑って見せた。しかし、男は香苗の反応に目もやらずすぐに中の方へ消えた。香苗は少し恥ずかしかったが、カウンターの棚にある色とりどりの酒瓶を見ているうちにそのことを忘れた。そして何か思い出したように、ハンドバックからお気に入りの手帳とペンを出し手に取った。
 実は、香苗に話し相手なんてものはいらない。こう見えて香苗は、ちゃんとした目的を二つも持ってこのバーに座っているのだ。一つ目はもちろん休息だ。昼間接客しながら得たストレスを接客されながら解消する。これはやってみない人には分からない。香苗はそのギャップからカタルシスすら感じた。
 そして大事な二つ目の目的が、ライバル店の偵察(ていさつ)、及び勉強。まだ店長として駆け出しである香苗は、ちょくちょく大学周辺のお店にランダムに座り込み、お店から学ぶところと学んではいけないところをメモするのだ。もちろん香苗の喫茶店でお酒は扱っていないが、このバーからも色々アイデアを得ている。例えばオレンジ色のテーマだとかバンドがある舞台とか、あとバーテンダーのセリフとか。
 香苗はウィスキーを一口飲んだ。そして舞台が目に入るように斜めに座った。やはりライブで演奏をされていると自然にそっちの方に目が行くものだった。ちょうどその時、ダブルベースが新しいテンポで新しい曲を始めた。
 そのベースを弾くのっぽの男が香苗の目を引いた。太ったダブルベースの横だからか、それとももともとそうなのか、ほっそりして上下にありったけ伸ばしたゴム手袋みたいだった。香苗は楽器というものを触ってみたことすらなかったので、あの男の実力は分からなかった。しかし、一音一音押さえる度に踊るように動く指先が印象的だった。もっとも、その男でなくても香苗がベースに目を引かれるのはいつものことだった。テレビにロックバンドとかが出るときだって、香苗はついベースの方に集中してしまうのだ。一番聞こえないのにも関わらずバンドには不可欠だという、まるで大気中の酸素みたいなその楽器が不思議に思えた。
 そうは言っても、男本人に興味がないわけでもなかった。ダブルベースを弾く男ならきっと上品なのだろう。浮気しながら酔っぱらったまま「お前に分かるかよ」みたいなことは言わないはず。そんな先入観が香苗の視線をベース男に縛っておいた。
 
 その曲が終わると、観客たちが間欠的で息の合わない拍手を送った。バンドのメンバーたちはお辞儀をして楽器から手を離した。そして舞台を降りカウンターの方に向かってきた。休憩時間のようだった。特に、トランペットの黒人は顔が赤く膨らんでいて汗だくだった。
 ライブ演奏はこんな問題があるのか、と香苗はまたメモを取った。普通の喫茶みたいにパソコンにスピーカーを繋げておけば、休憩はいらないだろうに。音楽は大事だった。喫茶店に来る客はみんな静寂を恐れる。急に音楽が絶たれると客のしゃべり声は一瞬で勢いを失った。自分の声がお店で一番大きなものになるのが嫌なのだ。......しかし、舞台まで用意しているこんなバーは、そもそもバンドのライブがメインのはずだ。そんなお店で香苗みたいに商売人の立場から悩んでみたってどう仕様がない。
 黒人と髪の長い日本人はソファー席に座って汗を拭きながら喋り始めた。そんな中、ベースの男だけがカウンターの方に向かってきた。あの人もメンバー分のお酒を持ってすぐ戻るのだろう、と香苗は思った。しかし、その男はバーテンダーと短い会話を交わした後、そのまま長い脚を伸ばして香苗の隣に座った。動揺した香苗は指一本動かず動揺していないふりをした。そうすると、何分かが経ってようやく男が言った。
「いいお店でしょう?」
「ええ、そうですね」
 接客の癖で香苗は思わず答えてしまった。幸い、答えたら頭がちょっよ冷静になった。その頭を巡らせて考えた。バーで男が隣に、それも他の席もガラガラなのに香苗の隣に座ったのだ。その目的は聞くまでもなかった。
 香苗は浮気をする気がなかった。今の彼氏とちゃんと別れる前に、新しい出会いはいらない。しかし、それとは別に男にだらしない姿を見せたくなかった。こんな上品なバーで、上品そうな男を相手にみすぼらしくなりたくはなかった。もしこの男が話す途中、逃げるかのように去ってしまったりしたら、香苗の人生があまりにも哀れに見えそうな気がした。メイクは崩れてなかったっけ? なるべく早くトイレに行ってこなくちゃ。そんな予防策を立てながら香苗は眼鏡をかけ直した。そして自分の左顔が見えるように座り直した。自分の顔は左の方がきれいだって分かっていたからだ。

コード#2 きっかけ

 有栖拓光(ありすたくみ)は、正直に言うとベースではなくギターを弾きたかった。大学のバンド部に入る時も「ギター志望」と書いて出した。しかしギターは日本で最も人気のある楽器の一つだった。拓光よりギターが上手い人はやまほどいた。拓光はギターの実力においてはあまり巧みではなかった。そしてプロとは違って、趣味レベルの大学バンドでは、ギターの実力が劣る人がベースを弾くというのが公然の決まりだった。ギターから弦を二本除けたのがベース、そう信じる人たちがいたからだ。結局拓光はベース担当になった。よりによってギター担当になったのは同じ学科の同期だったので、拓光がギターに昇進する機会はこれからも永遠になかった。
 無理やりベースを手に取ってから三年が経った頃、バンドの先輩が演奏のバイトを紹介してくれた。実力は構わないから空いているパートで演奏さえしてくれれば結構の給料をもらえると言う話だった。ちょうど生活費に困っていた拓光は何の疑問もなく受け入れた。運よくベースのパートも空いていた。しかし、バンドの先輩は一つ教えてくれるのを忘れたようだった。空いているパートが拓光が引き慣れているエレキベースではなく、見知らぬ巨体のダブルベースだったということだった。
 ダブルベースは人見知りが酷い無口な男の子みたいだった。なかなか親しんではくれなかった。大きくて弾きにくいのはともかく、目盛りになるフレットすらなかったので、正しい音を押さえるためには感を頼るしかなかった。いわばガラス瓶に目分量で水を入れて演奏するシロフォンみたいなものだった。よって拓光は一音鳴らす度に目を充血するほど大きく開いて頑張るしかなかった。もちろん、難し過ぎて無理だと直感的に分かって飛ばした部分も少なくなかった。そういう時は弾くふりだけをした。動作を大きく、まるで踊るようにすれば観客に気付かれないのだ。
 幸い合奏した仲間たちは優しかった。トランペットのジョンさん、ドラムのユイさんと息を合わせたのはもう三度目になるが、度々起こる拓光のミスを彼らは笑って見逃してくれた。だが二人とも日本語ができなかった。ジョンさんは言うまでもなく、ユイさんは韓国生まれのアメリカ育ちだった。
 休憩時間になって、英語で意気投合した二人がお喋りを始めると、拓光は大概一人でカウンターの方に向かった。今日はソファー席がかなり空いていたが、一人でソファー席に座るとマスターが睨みつく。どうせ客も少ないくせに、何が不満なのだろう。仕方なく今日もカウンターの方に歩いて、左のカップルとも右の女独りとも離れた真ん中に座ろうとした。しかしマスターは首を横に振った。真ん中の椅子たちは昨日ペンキを塗り替えて、まだ乾いてないということだった。
「じゃ、右の椅子と取り換えて座りますよ」
「君ね、それは女性の方に失礼ではないかね」
 何を言っているかはよく分からないが、マスターの表情は頑固だった。拓光は右の女性の方に意見を聞いてみようと振り向いた。振り向いた瞬間、拓光は一瞬息を止めて目を光らせた。よくありえないと思われるが、人の息はたまに死んだ魚のように止まり、人の目はたまにガラス破片よりも鋭く光るのだ。
 拓光の理想のタイプは確固不動だった。「知的な女」。中学と高校時代にかなり荒れていた拓光だから、その反動なのかも知れない。高校卒業のころやっと気づいたこの好みは、以来衰えることなく彼の人生を支配してきた。とにかく拓光はペンと紙、本と眼鏡を持っている女に一目惚れするのが常だった。
 一目惚れする。それは顔に惚れるということではなかった。顔に惚れるのは性欲、あるいは自己顕示欲だった。拓光が惚れる時は、鼻をしかめる程度、瞬きする周期、歩き方、そして眼鏡のかけ直し方みたいなものに惚れるのだった。
「いいお店でしょう?」
しかし、まだ拓光がこの手帳を持った女に惚とは言えない。手帳を持っているからって知的な女だという保証はないのだ。拓光はただ、演奏のあとの疲労感と英語の世界からはじかれた疎外感からの逃げ場が必要なだけだった。女が持っている手帳とペン、そして鼻の眼鏡はとても魅力的な逃げ場のように見えた。
 彼女は何を書いているんだろう。拓光はそれが気になって仕方がなかった。
「そうですね」
 突然、ある予感が剥がれたビラのように拓光の考えにくっついた。
 もしかして、この人は作家なのではないか? 作家たちはよく雰囲気のいいカフェやバーに行って作業を進める、みたいな話もあるのではないか。手帳に書いているのは小説のアイデアだろう。ペン、眼鏡、ジョニーウォーカーに、しかもあの知的な目。そうやって一つ一つ根拠を増やしていくと、もはや拓光には彼女が作家以外の職業を持つことがありえないとまで思えた。
 拓光は我慢できなくなり、すぐに言った。
「もしかして、作家さんですか?」
「はい......」
 彼女の声がさっきより小さくなった。恐らく自分が作家だと紹介するのは想像以上に恥ずかしいことなのだろう。拓光が知っている限り、本というものは作家の頭の中を切り取ったように暴いてしまうみたいだから。
「やっぱり。何かを一所懸命書いていらっしゃったからね。この店は何かに集中するのにとてもいいと思いますよ。酒場なのに何となく落ち着いて、静かで。あ、もしかして、演奏が邪魔になりましたか?」
「いえ、まさか。良かったですよ。特にベースが」
「あはは、光栄ですね、それは」
「音楽に詳しいわけじゃないけれど、このお店に似合う上品な音でした。プロだと言っても信じるくらい。何年くらい練習なさったんですか?」
「さあ、ざっと九年ぐらい。」
 嘘だった。いや、小学校のころギターの塾に通ったのを数えると完全に嘘ではなかった。ギターから弦を二本除けたのがベースだったはずだ。すこし良心が痛んだがしょうがない。たった三年ベースを弾いていて、ここでバイトしているただの大学生。そんな男はこの作家さんと向かい合うにあまりにもちっぽけで惨めな存在だった。しかも先に近づいたのは(椅子のペンキのせいではあるが)拓光の方だった。
 幸い彼女はまだ拓光のことをプロ並みのベース奏者だと思っているらしい。その嬉しい誤解が解ける前に、拓光は素早く話題を変えた。
「しかし、そっちこそすごいですよ。僕は作家が好きなんです。失礼でなければ、どんな作品を書かれているか聞かせてくれますか?」
 拓光は知的な女が好きなだけで、拓光自身はそれほど知的ではなかった。本もあまり読まない。本物の作家と小説の話を交わすほどの教養なんて、拓光にあるはずがないのだ。結局素直に「作家が好きなんです」と言うしかなかった。しかもそこからどう会話を進めればいいのか分からなかった。
「うーん、そんなに面白い話じゃないですよ」
「それは聞いてみた後に考えてみるとしましょう」
「あら、面白くなくても面白いって言うんでしょ? 知ってますよ。」
 彼女は手で口を塞いで知的に笑った。拓光もつられて笑った。
「そう言わずに」
「......独りでカフェを経営する女が主人公の...... 推理小説です。周りで殺人事件が起きて、その女が解決にとりかかる」
「ほう」
「......」
「うん? 終わりですか?」
「いえ、実は、まだプロットを完成してなくて......」
「なるほど。なんか、すみません。変に邪魔してしまったみたいで。」
「いえ...... よかったら、少し手伝ってくれますか?」
「もちろんです。僕なんかがお役に立つのなら、ですが......どれ。では、その女の過去......とかは?」
「過去」
「はい。過去を分かれば癖や性格も分かるって言いますからね。キャラクターを作りやすいのではないかと」
 拓光はそう言いながら自分の過去を浮かべた。中学時代、拓光は圧倒的な身長のおかげで不良な連中の頭(かしら)に選ばれた。拓光の学校がある地域にはそんな輩(やから)が山ほどいた。たまには横の学校の連中と大喧嘩もしたが、拓光が直接戦うことはなかった。拓光はただ一番前に出される旗みたいなものだった。旗が必要になるほど「拓光派」の勢力はそのあたりでも特に強かった。敵も同盟も裏切りもあるその世界は、まるでイタリアにある島々のマフィアのようだった。でもある日、連中の中の一人が大けがをし病院に運ばれた。そしてその親が警察に通報し、それをきっかけにすべての派閥が次第に解散していった。そうなると拓光は心を入れ替えて勉強に邁進した。目標ができたのだ。知的な女にあう確率を少しでも上げるには、なるべくいい大学に入らねばならかった。その一念で都内の四年制大学に合格したのは、誇ることでもあったが何となく恥ずかしいことでもあった。
 一方、彼女が口を開けるまでかなりの時間が経った。確かに、初対面の人にまだ完成もしていない小説の話をするのは難しいかも知れない。拓光も説明が上手な方ではなかったので、その気持ちが分かるようだった。
「......その女の父は暴力的な人でした。お酒を飲んできて毎日のように妻と娘を殴ったんです。次の日の朝には悪かったと泣きながら謝ったけど、夜になるとまた殴りました。女の母はもともと居酒屋をやっていたのですが、娘と一緒に家から逃げ出した後は居酒屋を畳んでカフェに変えました。お酒が死ぬほど憎かったのでしょう。そしてそのカフェを娘に譲った......というのは、どうでしょう」
 彼女が予想外にすらすら言い出して、拓光は驚いた。そして嬉しかった。口数が増えたのは彼女がある程度警戒を解いたという証拠だった。
「いいですね。じゃ、その娘もお酒を憎んでるんですか?」
「いえ。いや、昔はそうだったかも知れません。でもお酒が悪いわけじゃないんだって、彼女は気づきました。お酒は嬉しい時祝ってくれて、悲しい時慰めてくれる友人なんです。悪いのはそんな友人にすがろうとばっかりする、恥知らずの人です。」
「はは、それは面白い意見です。作者さんの考えも入ってるんですか?」
「もちろんです」
 と言い、彼女はジョニーウォーカーが少し残っているグラスを挙げ乾杯するふりをした。そして飲み干した後新しいジョニーウォーカーを頼んだ。
 やはり作家さんだからだろうか。緊張がほぐれた彼女は驚くほど弁が立った。どこか暗くて悩んでいる、拓光の表現で言うと知的な目をしてグラスをいじくる彼女に、拓光はますます好感を抱いた。
「それで、彼女のタイプは?」
「タイプ......? そんなのも必要なんですか?」
「いや、小説に恋愛も出るんじゃないかなと思って」
「そうですね......あとで入れるかも知れない。タイプか。えっと......あっ」
 彼女はほっぺに含んでいた言葉をウィスキーのように飲み込んだ。拓光の肩越しに何かを見たようだった。拓光も後ろを振り向くと、ジョンさんが片手を振っていた。演奏を再開するようだった。ちぇっ、と拓光は舌打ちをした。なぜかは分からない。彼女が言いかけたのは、せいぜい小説キャラクターの好きなタイプだったはずなのに。
「もう行かないと。演奏は最後まで聞いてくれるんですか?」
「そうします。忙しくはないから」
 拓光はいい印象が残るよう笑ってみせて席を立った。喉が乾いていた。自分がお酒も頼まずにいたと、やっと気づいた。そんなに楽しかったのだろうか。
 しかし、ふと不安になった。彼女はまたここに来るのだろうか? もしかしたら、この演奏が終わったらもう来ないかも知れない。彼女と会えるのもこれが最後なのかも。連絡先を聞くか? いや、それは陳腐すぎる。拓光が女だったら、そんなベタな手法を使うやつには連絡先をあげたくなかいはずだ。拓光は悩んだ末にマスターを呼んでささやいた。
「マスター、今日僕の給料出ますよね?」
「出るね」
「それであちらの女性の方の分、半分だけ払ってください。」
「半分だけ? 払うのなら全部払った方がよくないかね?」
「半分だけです。もちろん僕が払ったってことは内緒にしてくださいよ」
 どうせ彼女にとって、拓光は掠っただけの他人だった。そんな人がお酒代を奢ってドヤ顔をしたところで何もならない。彼女が短い感謝を言ってお店を去り、今度は他のところで他の他人と掠るだけだ。しかし、彼女がこのお店を雰囲気のいい安いところに勘違いしてくれれば。かりに、二千円だと思ったジョニーウォーカーが千円になっていることを分かったら、彼女はいつかまた来るかも知れない。
「君は本当に、とんでもないことをするんだね」
 こう見えて拓光は経済学部だった。四年以内に卒業できるかは怪しかったが。
 拓光は最後に彼女を振り返り舞台に向かった。彼女は再び手帳を出し何かをメモしていた。

コード#3 交際中

 香苗は家に着くやいなやソファーに身を投げた。皮のソファーは冷たくて気持ちがいい。今の香苗にはそれが必要だった。自分の気分がいいという確信が。
 今日は素敵な日だった。ベースの男は予想通り上品だったし、お酒も飲まなかった。香苗はもうお酒を憎んでいなかったが、それでも禁酒は好ましいことだと思っていた。
 しかし、彼の相手だった香苗はどうだったか。男に合わせてなるべく上品に振る舞おうと思ったのが、かえって変な口調になってしまった。ましてやいきなり作家かと聞かれ「はい?」と驚くべきだったのが、声がぶれて「はい......」になってしまった。言い直そうとした時は既に香苗が作家だと言う前提で話がどんどん進んだ後だった。
 なぜ自分の話をしてしまったのだろう。小説の話なら、別に昨日読んだ推理小説でもよかったはずだ。あんな裸になったかのような打ち明け話をしておいて、またあのバーに行けるのだろうか。香苗は下の方の唇を噛んだ。めったに見れないいいバーだったのに。安かったし。
「しかし、そっちこそすごいですよ。僕は作家が好きなんです」
 でも、むしろ都合がよかったのかも知れない。ベース男は作家が好きだと言っていたし、本当にそう見えた。本ではなく作家が好きだというのはどういう趣味なのかよく分からないが。とにかく香苗が作家でいる限り、ベース男はずっと好感を持ってくれるはずだ。香苗の言うことも全部小説の話だと思うだろう。それでいい。
 どうせベース男と今以上の関係になるつもりはない。今香苗には彼氏がいるから。
 どれだけ冴えないやろうでも、別れるも前に別れる計画を立てるのは失礼だ。人間はカードゲームの札(ふだ)ではないのだ。いい札が入ったからって手に取っている札を捨てるようなまねはできない。
「おかけになった電話は......」
 ......でもそれは彼氏がちゃんと電話に出る時の話だ。まったく、週一のデートはおろか、週一で電話に出る彼氏がいるか。いい札悪い札言う前に、これはもう先が破れた不良札なのではないか。
 香苗は受信音が二回鳴るも前に、五つ目の発信を切ってしまった。押してダメなら引いてみる、か。別れ際に使う言葉でもなかったが、とにかく香苗はそれに従うことにした。何日か放置しておけばあっちから電話が来るだろう。一回くらいは。もしその間に他の男とうまく行ったりしたら、彼氏はやっと後悔したり怒ったりするのだろうか。知ったことか。香苗はそう考えながら携帯をベッドに投げ出した。
 やはり上品な人にはなれない。彼氏も香苗も。
 理想のタイプが上品な人だと言っても、本人がこんなでは何にもならない。香苗は上品でも、おしゃれでも、一緒懸命でも、知的でもない。上品な男が呆れて逃げるような性格なのだ。
 しかし、さっきはなんで言えなかったのだろう。理想のタイプが上品な人だって。どうせ小説の話だったはずなのに。

コード♯4 過去

 朝の八時、香苗は鍵を開けて喫茶店に入った。一限目に出る大学生たちが来るまではまだ余裕があったが、近ごろ香苗は朝日より早く目が覚めていた。店長を気取っていたら年も一緒に取ったのだろうか。もちろん、バイトさんたちにまで早い出勤を強要したりはしなかった。世の中には自分みたいに早起きする人ばかりではないと、香苗は知っていた。
 香苗が早い開店時間を厳守する理由はもう一つあった。早く開店すれば、少なくともお客さんが来るまでの時間、喫茶店は香苗のものだった。どうせ午後になるとフランクトンみたいに殺到するお客さんたちに奪われる始末だったが、それでも朝の間所有感を確認しておくことは大事だった。そうすると戦争みたいに忙しい一日を凌いで行く力が湧いてくる気がした。
 朝の時間、香苗は日差しが圧倒的にいい窓際席に座り本を読んだ。自分の喫茶店の席なのに普段はなかなか座れないところだった。
 別に本を好きなわけではなかった。高校の教科書を読むのすらきつかったし、それが大学に行かなかった理由の一つだった。だから香苗の本読み速度は想像以上に遅かった。しかし、毎日狭い喫茶店を回しながら余裕を持って楽しめる趣味は本ぐらいしかなかった。主に読むのは推理小説で、お店の運営には何の役にも立たなかったが、趣味と言うのはもともとそういうものだったはずだ。しかも、おかげであのベース男の前で作家気取りができたから、まったく使えなかったわけでもない。

 ちりん、とドアに欠けておいた鈴が鳴った。こんな早い時間に客が来るはずはない。きっと母さんが何か忘れものでも取りに来たのだろう。そう思った香苗は読んでいたページを切りのいいところまで進んでからやっと顔を上げた。
 しかし、相手の背が予想以上に高かったので、香苗は多少大幅に顔を上げなくてはいけなかった。
「あ」
「やっぱり」
 男は驚きもせず平穏に笑っていた。「あ」とか言って驚く段階はとっくに過ぎていたのだ。それほど長い時間香苗のことを待っていたのだろう。香苗が一ページを読むのにかかる時間は平均五分だった。
「僕、毎朝ここ来るんですが...... お会いするのは今日初めてですね。普段より早く来て正解でした」
「......常連さんだったんですね。すみません、覚えられなくて」
「謝ることはないですよ。その分商売がうまく行ってるってことでしょう、いい方向に考えれば」
 香苗の記憶には確かに、喫茶店に来たベース男の顔はなかった。いつもバイトさんしかいない時間に来たのだろうか。しかし、もし香苗がいたとしても、覚えられなかったはずだ。昼は忙しすぎて、客の顔なんて空に流れ雲くらいにしか見えないのだ。
「作家が直接やってる喫茶店か、興味深いですね」
 香苗は苦笑いをした。
「ふふ...... ご注文は?」
「アイスコーヒーで」
「シンプルですね」
「はい。コーヒーにはあまり詳しくないので」
 香苗が本を閉じコーヒーを作りに行くと、ベース男は香苗が座っていた向かい席に座った。そしてちらっと本を見たが、なぜかその本に関する話はしなかった。
「前書いていた小説は......どうですか? 進んでますか?」
「小説ね。どうだろう......」
「そういえば、あの小説にも喫茶店が出たんでしたっけ。作家の経験だったんですね」
「ええ、まあ」
 小説と聞くと頭が痛くなってきた。でも今更全部嘘だったと打ち明けるわけにもいかない。せっかくいい雰囲気なのだ。偶然入ったバーで出会ったのも充分奇跡と言えるのに、ここでまた会うとは。これは信じたくなくても信じるべき運命、あるいはそれ以上のものだった。
 しかし、どれだけ飾っても、結局は嘘をついているだけではないか。「運命」という言葉は「嘘」と一緒に使っていい言葉ではないはずだ。
 アイスコーヒー以外のメニューだったら、もうちょっと時間があっただろうに。香苗は一瞬で出来上がったアイスコーヒーに蓋を閉じながら覚悟を決めた。嘘はもうこぼしたコーヒーみたいなものだから、仕方ない。でも少なくとも真実で包んだ嘘をしよう。
「好きなタイプ」
「はい?」
「私の......主人公の、好きなタイプ。上品な男ですよ」
 ベース男は香苗が差し出したプラスチックコップに手を伸ばした。彼はコップを握ったまま動かなかった。笑っている顔がそのまま固くなった石膏像(せっこうぞう)みたいだった。香苗も差し出したまま手を離さなかったので、二人はプラスチックコップを通して繋がっていた。冷たかった。冷たいのがアイスコーヒーなのか、男のゴツい手なのか、それともその瞬間の静寂なのかは分からなかった。随分の時間が経ってから香苗が手を離すと、ベース男は言った。
「い、いいですね。幼いころお父さんの暴力を見て育ったから、その反動で上品な男を好きになるかも知れない。さすが作家さん、考えに秩序が立っていますね」
「ご冗談も。まだまだです、私なんか」
「はは、では、また来ます」
「はい、また」
 ベース男はまだ笑っていた。しかし、鞄を握った手は慌てていて、足も素早くドアの方に向かった。まるで鬼面を被ったまま盆踊りをするように顔と手足が別々に動いていた。
 香苗の言いたいことは伝わったはずだ。香苗が男のベースを上品だと褒めたことを、彼も覚えているはずだ。だとすると、コーヒーコップを握っていた瞬間の微妙な空気は何だったのだろう。香苗はそれが気になって小説を読み続けることができなかった。しかし間もなく勤勉な大学生のお客さんが鈴を鳴らしたので、どうせ本はすぐ閉じるべきだった。


 大学の午前の授業が終わり、午後の授業が始まるまでの一時間。その時がいわゆるピークタイムだった。一日の売上の半分がその時間にかかっていると言っても過言ではなかった。こんな街では喫茶店同士の競争に意味などない。いくつの喫茶店があろうが、この時間になるとすべて満席になるのだ。
 こんな中客一人一人に気を配る暇はない。しかし、香苗には鈴が鳴る音だけ聞いて区別できる客が一人だけいた。きっと鈴の音は誰が来ても同じだろうに、その人が鳴らす音だけはやけに禍々しくて吐き気を起こした。
「はっ、いそがしそうじゃねぇか」
 グレイのスーツに青いネクタイをした散髪の男を見て、香苗は思った。こんなにスーツが似合わない人も珍しいだろうと。
「忙しそうなんじゃなくて忙しいんです。だからさっさと飲んで帰ってください、父さん」
「おめぇ、親に向かって......」
 香苗の父は喫茶店の場所を分かってから月に二回ぐらい予告もなくやってきた。幸いまだそこまで酷いことはしていない。コーヒーを一杯頼んで四人分の席に二時間ほど座り込んだり、「つけとけ」って言ってお金を払わず帰ったりするぐらいだった。この程度、昔彼がやっていた乱行に比べれば「上品」になったものだった。まだあまり上品という言葉を使いたくない人だったが。
「いや、まあいい。それで、考えてみたのか」
「いいえ。嫌だって言ったはずです。絶対に嫌」
「この......」
 男は格闘技の選手みたいに素早く手を持ち上げたが、すぐに下げた。後ろで待っていたお客さんが睨んでいた。スーツを着るようになってからはある程度慎重さというものを覚えたようだった。
 香苗と母が家から逃げた後、この男は残りの財産を全部かけて怪しいビズネスを始めたらしい。周りの人たちはついに彼がくるってしまったと指指した。あるいは、人でなしがようやくつぶれに行くんだと喜ぶ人もいた。しかし、そのビジネスは皆の予想を破ってこれ見よがしに大成功した。今彼は最高級の腕解けをまとい、靴からもつやが出て、外に止めておいた車はこの喫茶店の一年分の売上より高そうだった。
 そんな父が毎月欠けずにやってきて言うことは決まっていた。香苗と母に家に戻って来いと、脅迫みたいな提案をするのだった。
 家。その言葉に香苗は笑いが出そうだった。怖くて布団を頭まで被ってやっと眠ることができる、そんな場所を家と呼べるのか。地下鉄駅のホームレスもそれよりはましな家を持っているはずだ。
「悪いって言っただろうが。もう殴ったりしねぇよ」
「お酒は止めたんですか?」
「調節できるくらいしか飲んでねぇんだ。昔も......別に、お酒のせいであんなだったわけじゃねぇから」
「じゃあ、どうしてあんなだったんですか?」
「......とにかく、もう金の心配なんてしなくていいんだぜ? こんな喫茶も辞めちまうんだ。おめぇ、よく考えてみろ。俺の年収いくらか知ってんのか?」
「父さんがビル・ゲイツになっても、母さんと私は戻りません」
 そのものすごいスケールの拒絶が伝わったのだろうか、男の顔が赤く腫れあがった。彼がまた広げた手を高く持ち上げた。今度は勢いを失うことなく、その手が香苗の頬に向かって飛んだ。まるで弦を離れた矢みたいだった。
 バシッと、喫茶店の音楽よりもうるさい音がした。
 次の瞬間には音楽だけが残っていた。客たちは一斉にお喋りを中止して二人を見た。涙目でぼうっとしている香苗、そして赤い顔で周りをちらちらと覗く男。彼は後悔しているようだった。香苗の頬を殴ったことよりは、こんな人前で目立つ行動をしたことをについての後悔に違いなかった。
 香苗は左手で左の頬を触った。そうしてはじめて頬が涙で濡れているのが分かった。痛くはなかった。彼が殴る前に戸惑ったのか、力が入っていなかった。だからせいぜいちょっと強いデコピンをくらった感覚だったが、それでも、何となく、涙が止まらなかった。布団の中に身を隠していた昔に戻った気分だった。香苗は床に倒れたまま、目の前の男が何かしゃべるのを呆然と見上げた。
「だから、生意気なこと言うんじゃねぇって言ったろうが...... これだから...... あっ」
 一瞬だった。突然しゃべっていた顔が打たれたボールみたいに歪み、遠くに飛んで行った。その短いいくつの瞬間がパラパラ漫画のように目に焼き付いた。女性の客が何人か悲鳴をあげるながら椅子の後ろに隠れた。
 飛んで消えた顔があったところには、代わりに太くて凸凹な拳(こぶし)が止まっていた。拳がついている腕を辿って行くと、知らない坊主頭の男が見えた。上に着たアロハシャツと下に履いたコットンパンツが不吉な威圧感を匂わしていた。
「......だれ?」
 坊主頭の男はにっこりと笑い、親指をあげてビビっている客たちの中を指した。沢山の客の中にいてもよく見える、背が高い男が走って来ていた。

コード#5 プライド

 拓光は今日午前授業しかなかった。だから昼ご飯の後はもう一度あの喫茶店に寄ることにした。高校時代の友達である野球玉にいいお店を紹介してあげるという言い分だった。しかし、よりによって喫茶店が一番込んでいる時間帯だった。拓光は若そうなバイトさんに席を案内され、忙しそうな作家さんの働きっぷりを眺めることしかできなかった。
「あ、あの人が兄貴をベタ惚れにしたお嬢さんなんっすか?」
「兄貴はやめろって。卒業して何年経ったと思ってる?」
 野球玉は単純に外見のせいでついたあだ名だったが、本人も気に入っているようだった。実は彼は友達と言うより手下だった。荒れていた高校時代、誰よりも充実に従ってくれた拓光の右腕だったのだ。拓光がやるべきだった荒事を代わりにやってくれたのも彼だった。未だに充実すぎると言うのが唯一の短所だったが。
 とにかく、拓光はそんなことを思い出しているほど暇ではなかった。眼鏡をかけずあっちこっちにサービングしている彼女を見ると、また胸が躍り頭が複雑になった。
 昨日拓光はバーのマスターに作家さんに対する気持ちを打ち明けた。隠すほど親しい仲でもなかったのだ。そしたらマスターは、彼女がこの辺りで喫茶店をしているかも知れないという高級情報を教えてくれた。彼がなぜ、そしてどうやってそれを知っているかはよく分からなかったが、とにかく拓光はこの数日間、この辺りの喫茶店という喫茶店は全部見て回った。そして今朝、ようやくガラス越しに読書中の彼女を見つけた。常連のふりをして自然に入ったのも成功的だった。
 しかし、まさか朝一からあんなに慌てるとは思わなかった。彼女がいきなり好きなタイプを告白したのだ。もちろん、表向きには小説の話だったが。
 上品な男、か。彼女はバーでも拓光のベースの音が上品だと言ってくれた。だから何の意味もなく言ったわけではないだろう。
 拓光は向かいに座っている野球玉を見てため息をついた。彼の丸々している頭には何の罪もないが、それを見ていると自分の過去が蘇(よみがえ)るようだった。上品とは程遠い、上品と言う言葉を知っていたかどうかすら怪しい過去だった。彼女に肩の刺青(いれずみ)をバレたりでもしたら、それでおしまいなのだ。
 それでも、まだ何の問題もない。彼女はまだ拓光の正体を分からない。九年経歴の上品なベース奏者でいる限り、拓光は間違いなく彼女の好きなタイプの男だ。
 これぐらいの嘘はいいだろう。誰にだって隠したい、隠してもいい過去があるのだから。
「あれ? ありゃ誰なんっすかね?」
 カウンターが見える席に座っている野球玉が顎で遠くを指した。拓光も振り向いてそっちを見た。作家さんがスーツを着た中年の男と向かい合っていた。中年の男は後ろの客たちが並んでいるのも気にせず大声を出していた。その内容が拓光たちの席にまで聞こえるくらいだった。
「あら、ディーブイっすか。あのお嬢さんも大変だったんっすね......てか兄貴、行ってみなくていいんっすか?」
「......」
 拓光の膝が反射的に動いた。だが席からは立てなかった。今立ちあがってあっちに行ったら、拓光の本姓を出さなくてはいけなくなるかも知れない。上品ではない、元ヤンキーとしての本性だ。そうなると彼女を助けられるかも知れないが、それ以上は彼女に近寄れなくなるだろう。
 もうちょっとだけ様子を見よう。まだ何か起こってたわけでもない。それに親子の会話に部外者が口を出すのもよくないかも知れない。どうか、暴力沙汰にはなれないように......
 拓光がそう願った瞬間、喫茶店中を鳴らすパシッという音がした。
 周りの皆が目を丸くしていた。拓光もそうだった。その中でただ野球玉ひとりが、間髪を容(い)れずカウンターの方へ飛び出た。
 拓光は失意に落ちてぼうっと立っていた。なぜ僕は飛び出せなかったのだろう。過去だの上品だの、いらんことばっかり悩んで。その悩みというのはほとんどあの女に対したものなのに、彼女を守れなければ何の意味もないのではないのか。
 そう拓光が自分を責めている間、野球玉はとうとう拳を振ってしまった。彼の全盛期を思い出させるような威力的な拳だった。どかんという音とがたんという音が入り交じった。その混乱している音を合図に、拓光も飛び出した。そして彼女のそばでしゃがみ、震えている背中を支えた。
「ごめんなさい」
「えっ、なにが......」
「いや、何でもないです。体は大丈夫ですか?」
「ええ、おかげ様で。ありがとう」
 こめんなさい、大丈夫、ありがとう。上品でも知的でもない陳腐な言葉ばかりだった。拓光は陳腐なものが大嫌いだった。特に恋愛や異性に関してそうだった。それなのに、今は彼女と一緒にいた瞬間の中で最も幸せだった。拓光は彼女に初めて真心(まごころ)というものを見せることができた気がした。にっこり笑っている彼女も同じことを考えていると信じた。
「兄貴、早く!」
 野球玉が叫んだ。彼は中年の男と睨み合っていた。女のお父さんらしいその男はおとなしく引き下がってくれそうになかった。
「おめぇら、俺が誰だか知ってんのか? チンピラのくせに。俺が俺の娘と話をしようとしてんのに、首突っ込むんじゃねぇよ......訴えるぞ」
 中年の男はナイフでも握っているように野球玉を脅した。彼にナイフはなかったが、彼が握っている本当の武器はお金だった。裁判まで行かなくても、彼が警察にちょっと話を通せばこの件は軽く収まってしまうはずだ。喫茶店に侵入し親子を脅した二人組暴力団の乱暴、という形で。
 拓光が加勢すれば、声だけ大きいおじさん一人くらい軽く制圧できるはずだ。しかしそれでは決着がつかない。運よくこの場を治めることができたとしても、拓光がいなくなったら、あのおじさんはまた娘にやって来るに違いない。それでは彼女を守ったとは言えないだろう。
 なにより、拓光は彼女の前で暴力を振りたくなかった。既にある程度バレたかも知れないが、それでも直接過去の姿を見せるのだけは死んでも嫌だった。
「な、なんだおめぇ! 聞いてねぇのか!」
 拓光が一歩踏み出すと、中年の男が赤い顔で叫び始めた。まるで腹中の空気を全部吐こうとでもしているようだった。
 拓光は瞬きもせず一歩一歩前に進んだ。男の叫び声は拓光が近づくにつれ電気ポットのように小さくなっていった。拓光はぼうっと眺めている野球玉の隣を過ぎ、やがて相手の目前までたどり着いた。
「へっ、殴るのか? おめぇら、集団暴行は正当防衛にもならないって、分かってやってんだろうな」
 男が論理的に言った。それに比べると拓光の行動は、まるで論理では説明がつかないものだった。
 男の唾が飛んでくるほど顔が近くなると、拓光はぐるりと後ろを向いて男に背中を見せた。拓光の目にはいまだに涙目のままへこたれている作家さんが見えた。拓光と目が合うと、彼女は慌てて目をこすった。
 拓光はバンジージャンプのときみたいに目を閉じた。そして唯一上に着ていたシャツを脱いだ。不思議なことに、大衆の前で服を脱ぐことはちっとも恥ずかしくなかった。しばらく運動をやめたから腹がちょっと垂れていたり筋肉がどろどろになっていたりするかも知れないが、肩の後ろ、僧帽筋(そうぼうきん)あたりに刻まれた刺青(いれずみ)だけは消えていないはずだ。
 目を開けるのが怖かった。目を開けると真正面から彼女の顔が見えるはずだ。驚いた顔だろうか、怒った顔だろうか、がっかりした顔だろうか。いずれにせよいい顔ではないだろう。だから拓光は目を閉じたまま言った。幸い拓光の震えているまぶたは、後ろの中年男には見えないはずだった。
「......ここから出ていただけますか。そして、二度と来ないでください。警察に通報なさってもいいんですが......その場合、警察が着く前にあなたがどうなるか、保証はできません」
 静かだった。今度は朝と違って、喫茶店中の客の吐息が全部混ざったような暑い静寂だった。たまに誰かの携帯からカメラの音がした。拓光は気にしなかった。どうせ噂と言うのは流行りに敏感な春服みたいなもので、一時盛り上がるとしても、すぐまた潮のように引いて消えるはずだった。
 そして上品なベース奏者に抱いた彼女の恋心も、そうやって消えるだろう。
「ちぇっ、出ればいいじゃねぇか、出れば」
 中年男の乾燥な声が拓光の背中を超えて聞こえた。そのまま高価そうな革靴の音が遠ざかった。拓光はその音が完全に消えるまで肩の刺青(いれずみ)を盾のように差し出していた。男は最後に一言を残してやっとお店を出た。
「俺が......俺がそんなに悪いのか? やっと金ができて、おめぇら呼び戻して、できなかった夫のふり、父のふりでもしようと思って来てみたら......変なチンピラやろうまで呼びあがって......二度と来ない。いいか? 二度と来ないぞ!」
 その声を聞いても勝った気はしなかった。娘に暴力を振るゴミやろうであろうとも、彼は本気の声を出していた。誰かみたいに嘘をついてはいなかった。
 客たちは一瞬で静かになったドアの方をしばらく見つめ、ぼつぼつ席に戻ってお喋りを再開した。聞こえないようにささやく声が多いのからして、お喋りの話題は明らかだった。
 拓光は作家さんに顔を向いたまま手に取っていた上着を着直した。最後まで僧帽筋の刺青を彼女に見せなかったのは、拓光なりのプライドだった。もちろん、そんな小細工で隠し切れるはずがなかったが。服を着てから拓光はゆっくり、そしてかろうじて目を開けた。
「......悪いことをしちゃったみたいですね」
「いえ、まさか。父さんの言ってたことは無視してください。ほんとうに......」
「いえ。それじゃなくて」
 段々笑顔になっていた彼女の顔が、また固まった。なぜか恨みに満ちている両目が拓光を責めていた。「それ以上言わないで」。彼女は無言でそう言っていた。
 拓光は大きく息を吸った。これが最後かも知れないから、全部言うべきだった。最初から最後まで。野球玉は空気を読んでこっそり席に戻っていた。
「僕が、嘘をついていたからです。見ての通り、僕は中学のころヤンキーをやってました。今は止めたけど、でも今の仲良しは全部あの頃に合った友達ですよ。あと、もう一つあります。僕がベースを始めたのは三年前でした。九年って、自分で考えても盛りすぎですね。もともとギターを弾きたかったんですが、腕が足りなくてベースをやらされたんです。元ヤンキーだって、そんな時は尽くす手がないんですよ、これが。だからベースは何となく続けているだけで、ミュージシャンなんて呼ばれるにも恥ずかしいレベルなんです。あなたが気づかなくて幸いだったんですが、実は弾いてるふりだけしたところも結構ありましたよ」
 そこまで言って拓光は黙り、彼女の返事を待った。しかし、貝みたいにつぐんだ彼女の口は頑固だった。これから先二度と開かないのかも知れない。実は、拓光も自分が何の返事を聞きたいのかよく分からなかった。
 いや、聞きたい返事はただ一つだった。嘘だったとしても、上品じゃなくても、それでも相変わらずあなたに興味があります、という返事。でもそれは自分で考えてもあり得ない返事だった。
「なんで......」
 彼女の声が聞こえた。見えないほど小さく開いた唇の間から出た音だった。
「はい?」
「いったい......私......」
 何か言いたそうに見える彼女は、それ以上何の音も出せなかった。そして後ろを振り向いて逃げだし、すぐに厨房の方へ身を隠してしまった。 
「あっ、あの?」
 拓光は独り残されあてもなく何分間立っていた。いくつかの波乱があっという間に過ぎて行った場所だった。そのうち諦めて席に戻ってからも、また何時間かを座って待った。退屈な顔の野球玉がコーヒーを三回注文し直すほどの時間だった。バイトたちが厨房に入って料理を持って来るのを見ると、作家さんは中でちゃんと仕事をしているようだった。しかし、彼女は最後まで顔を出さなかった。
「まあ、そうだろうな」
「はい?」
「いや。そろそろ帰ろう」
 拓光はそれでやっと気づいた。もう何もかもおしまいだ、と。

コード#6 真心

 「ほら、香苗、出てみなさい。誰か来たよ?」
 香苗は母の呼び声を無視した。ベッドに折れた木の幹みたいに倒れている体が動かなかった。最近よく倒れているな、と香苗は思った。
 自分の左頬をもう一度触ってみた。それで思い出す人は父ではなく、その瞬間どこかで現れたベース男だった。いや、もうベース男ではないか。本当はギターを弾きたかったらしいから。
 一体いつから見られていたのだろう。よりによってあんなところを。殴られたのもそうだったが、それよりも正体がバレたことの方が恥ずかしかった。恥ずかしすぎて、まるで大勢の前で上着を脱いだのが自分だったかのように逃げ出してしまった。喫茶店をやっている女、暴力的な父親。そして好きなタイプ。こんなに明らかだと、いくら察しが悪い男でも気づいたはずだ。再び彼に合うには、香苗も最初から最後まで説明しなければならない。
 なぜ彼は全部言ってしまったのだろう......お互いに知らんぷりを続けていれば、ミュージシャンのふりを、作家のふりをしていれば全部うまく行ったのに。
 香苗はベース男に言うセリフを頭の中でシミュレーションしてみた。先ず最初はすみません、でしょ。その次は「実は......」。しかしそこで香苗は首を激しく横に振った。今まで作家のふりをして虚勢を張っていたなんて、告白できるはずがなかった。そんなことをしたら香苗が今まで守ってきたプライドがジェンガのように崩れてしまう。人生が崩れてしまう。
「香苗? 聞いてる? あんたの恋人みたいよ?」
 恋人? そう。その言葉に香苗は動揺した。ベース男と付き合いたいのか? しかし、そんな可能性は最初から排除しておいたはずだ。ただカッコいいバーであったカッコいい男の前で失態を犯したくなかっただけで、だからうっかり作家のふりをしてしまった。男がカッコよくなければ、上品そうでなければそんな馬鹿なことはしていない。
 でも、男は元ヤンキーとか言ってなかったっけ。香苗が実は作家などではなかったように、彼も......
 その時、母がドアを強く放った。
「香苗! 何回言わせるの! 出てみなさいって」
「うん、わかったよ」
 香苗は枕のせいでもつれた髪を整えようともせず玄関に向かった。物がベルトコンベアで運ばれるようなやる気のない歩き方だった。

「お前な、電話ぐらい出ろよ」
「先に出なかったのはそっちでしょ」
「それを謝るために電話したんじゃん?」
 彼氏は本当に謝りに来たよう、片手にはリボンを結んだチョコレートボックスまで持っていた。しかしちっとも謝る人間の顔には見えなかった。喫茶店で新メニューのマンゴープラプチーノが売り切れだって言ったら、鋭い顔のお客さんが「くっそ......じゃもう普通のアイスコーヒーで」と言いながらこんな顔をしたっけ。腹は立つが、腹を立てる名分がない顔。こいつの場合は、多分他の女と浮気同然のことをしていた果てにうまく行かなかったのだろう。
「しばらく、その、忙しくて、連絡もめちゃくちゃ忘れたし......ああ、全部俺が悪かった! だから、謝るから、またうまくやってみようよ」
 香苗はべたついた髪を後ろにかきあげた。彼氏のぐだぐだな言い訳は驚くほど何の感情も招かなかった。三流映画のセックスシーンを見ているようだった。なんで、なんのため、なにをしているかは頭で分かるけど、胸では到底共感してあげられない。
「もしもし、聞いてんのか?」
「あんた、ジム通ってるって言ったよね」
「は? まあ、うん」
「服脱いで後ろ向いてみてよ」
「ふく......は?」
 嫌そうに顔をしかめる彼氏を見て、香苗も少し驚いた。自分は何を言ったのだろう。しかし、驚いたのは少しだけで、今やっていることを止める気はなかった。とにかく背中を見たいという気持ちしかなかったのだ。
「あ、もう。脱いでみてよ」
「急に何言ってんの。なんで脱ぐんだよ。頭でも打った? 大丈夫?」
 そこだけ妙に優し気だったので、香苗は何となくイラっとした。
「どうでもいいでしょ。どうせすぐ別れるんだから。最後の願いよ」
「わかれ......は?」
 少し戸惑ってはいたが、結局彼は状況把握もできず上着を脱ぎ後ろを向いた。ベース男に勝るとも劣らない立派な背筋だった。刺青はなかったが、名前も難しそうな筋肉たちが凸凹と威勢を誇示していた。
 しかし何も感じられなかった。驚き、逞(たくま)しさ、安定感、安全、やわらかさ、硬さ、好奇心、勇気、色気のうち何も。前違う背中を見たときと違う。あの時は空気が液体になったみたいに息が苦しくさえなったのに。何が違うのだろう。
「ふむ」
「もういい?」
「うん、いい。じゃねぇ。気を付けて帰ってね」
「は......?」
 もじもじ上着を着ていた彼が眉を持ち上げた。香苗は無視して目を閉じようとしたが、ふと止まった。腐っても一時は付き合っていた仲だ。害虫扱いして追い出すのはちょっと酷いかも知れない。せめて人間としての礼儀を保ってあげることにした。
「......ありがとう。ありがたくないことも多かったけど、それでも。今度はもっといい人に出会ってね」
「いや、こちらこそ......って、ちょっと待って」
 いらない経験はない。いらない人もいない。世の中のすべての出来事とすべての人間は蜘蛛の巣みたいに繋がっている。彼氏の存在は香苗の知らない何らかの超越的な方法でベース男との出会いに貢献したのだろう。だから彼にも感謝を言っておいた。
 それ以上は言うことも、聞くこともなかった。多分彼氏も香苗を呼び止めたかっただけで、特に言いたいことはなかったのだろう。
 
 鏡の前に座って髪をとかし、化粧をしながら香苗は思った。好みというものは大事だ。香苗は今も変わらず上品な人がタイプだ。もちろん自然なきっかけも、恋人がいるかいないかも大事だ。でも、そんな条件が全部奇完璧に整っているとしても、真心(まごころ)がなければ何もならないのではないか。
 逆に言って、真心さえあれば、他のものはどうでもいいのではないか。

助っ人

 拓光がベースをほったらかしてもう数日が経った。マスターがいなかったら彼は既にこのバーと縁を切っていたかも知れない。マスターと別れるのが寂しいとか、そんな理由ではない。そもそも二人はそこまで親しくないのだ。ただマスターが毎回バイト代が入った封筒を拓光の鞄にこっそり入れておいたので、拓光はそれを返すために仕方なくバーに来ていた。
「やめてください、マスター。もう来ないって言ったじゃないですか」
「君じゃなきゃ誰がベースを弾くと言うんだい。ジョンが寂しがるぞ」
「マスターがやればいい。昔習っていたって、言いましよね、たしか」
「そんなんじゃバーは誰が回す。君がバーテンダーをやってくれるのかね」
「バイトは? 入れないんですか?」
「金がないんじゃよ」
 あの娘が来なくなった以来、拓光は毎日ジョニーウォーカーだけを頼んでいる。他のお酒を知らないわけではないだろう。ウィスキーについては彼の方がマスターより詳しいはずだ。なんと中学のころから自分で色々割って飲んでいたらしいから。
「まあ、もうちょっとゆっくり待っていたらどうだい。一週間来ないからといって絶落ち込むこともない。むしろ、毎日来る方がおかしいじゃろう」
「いや、でも......」
「ほら、あっち行って久々に演奏でもしてきなさい。すると少しは機嫌が直るんじゃないかね」
 そうかな、とつぶやきながら拓光はぐったりと席を立った。すこし酔っっぱらっているみたいだが、大丈夫。かのマイルズ・デイビスも常に麻薬に酔っぱらっていたから。人間とは疲れるほど緻密に組み立てられた生命体なので、たまに精神を緩めておかないといけない。弾かないギターの弦を緩めておかないといけないように。
  
 マスターは頬杖をついて、長く曲がっている背中を見つめた。何となく悪い気がした。あの娘がこの辺りで喫茶店をやっているかも知れないと教えてあげたのがマスターだった。どうやって分かったかというと、ただ彼女の手帳をちらっと盗み見ただけだ。しかしマスターは後悔していた。息子と同じ年である拓光をかわいがって手伝おうとやったことだが、拓光の反応を見るとうまく行かなかったようだ。年寄りが余計なちょっかいを出したのかも知れない。
 カツカツと、階段を下りる音がした。この薄暗い地下のバーにはほぼ常連さんしか来ない。そしてそのような客たちが来るにはまだ早い時間だった。お店には今二人しかいない。演奏者たちに口笛まで吹きながら応えてくれるジャズファンのおじさんたちだ。
 マスターは気怠く入り口の方を振り向いた。女性が履いた深紅のヒールが見えた。モノクロのようでさっぱりしないこのバーに落ちる、一滴の絵具みたいだった。
「おひとり様ですか」
「はい」
 マスターと彼女は向かい合って笑った。誰かにバレないように悪だくみでもしているみたいだった。彼女は前座っていた席に同じく座り、マスターは今度もその隣を除いて全部のカウンター席にペンキを塗り直すつもりだった。
 ジョニーウォーカー二杯をカウンターに置いて舞台の方を見た。拓光がやっと彼女のことを気づいたようだ。ちょうど一曲目が終わったところだった。
 拓光の視線があっちこっちに揺れた。何の罪もないベースとカウンターに座った彼女を代わる代わる見て、結局諦めたように首を横に振った。そしてベースを立てておいたまま大きな歩幅でカウンターに向かってきた。観客二人が彼に変な目線を送った。
 マスターは彼に向かって目で笑ってやった。そして舞台に出てベースを握った。ジョンとユイには次の曲を変えてほしいと合図をした。コール・ポーターの「Let's do it」くらいならちょうどいいだろう。久々に演奏するマスターにも弾けるほど遅めの曲で、不器用な若者二人が本心をぶち明けられるほどロマンティックな曲だった。
「あの、また来ましたね」
「いいお店ですから」
「その、僕は......」
「構いませんよ。あなたが何であれ。私も作家じゃないですから」
「はい?」
「......はい? あ、もう気づかれていたと思ったのに」
 拓光は彼女を見つめ、つい笑ってしまった。彼女もつられて笑うようだった。明るい二人の顔が舞台のマスターにまでも見えた。
「僕も構いません。あなたが作家だろうが何だろうが」
「ねぇ、あなたの名前、まだ知らないですよ。もうベース何とかとは呼べないから......聞いてもいいですか?」
「拓光です。有栖拓光」
「いい名前ですね。上品そう」
「あなたは?」
「文月香苗」
「いい苗字ですね。文月か、好きです。賢そうで......あっ、もしかして、お父さんの」
「いえ、母のです。家を出てから変えました」
「なるほど。それは......」
「ありがとう」
「はい?」
「喫茶店で手伝ってくれたこと、ですよ。あと、先にぶち明けてくれて」
「いえ。紳士として当然の......」
「もう上品な振りしなくていいですよ?」
「......そうしましょう」
 拓光と香苗はお店が閉まるまで話し合った。たまに片方が笑い、片方が泣いたりもしたが、すぐにまた笑った。まるでそれぞれ自分の部屋にいるかのように素直で落そうだった。マスターはその日、生まれてから最も長い時間の演奏をしなくてはいけなかった。ここで店番をして以来もっとも大変でやりがいのある一日だった。

 実は、マスターはこのバーのマスターではない。もともとは息子の店長なのだが、彼が大きい手術で入院してしまったので、しばらくマスターが代わりをしているだけだった。バーテンダーの資格も持っていない。ネットを参考にして適当にお酒を割って出している。幸いこの店のお客さんたちは皆演ライブ当てなので、お酒にはうるさくないのだ。最近バイトに入った拓光は何か誤解をしているようだったが、あえて解くまでの誤解でもないとマスターは思っていた。
 拓光と香苗の間にもそんな類の誤解があったのかも知れない。しかし、マスターが考えるにそれはあまり重要な問題ではなかった。誤解が解けようが解けまいが関係ない。誤解と言うのは頭がするものだ。しかし、大事なのを決めるのはいつも胸だったはずだ。頭が胸より強くなることなんてない。二人が初めて会った瞬間互いの胸を躍らせたのを、マスターは確かに目撃した。強い風が吹き、特別な掠りがあったのだ。


さわらび124へ戻る
さわらびへ戻る
戻る