ミズワタリの伝説三

居待月



◆あらすじ
 受験と部活の板挟みで苦悩していた少年、椿佑司は家出をして東京から遠く離れた渡利村を訪れる。そこは幼い頃、佑司がキャンプで訪れた村だった。
 村で謎の少女、黒井さつきと出会い、佑司は彼女と協力して村に伝わる伝説の存在、ミズワタリを探し始める。
 役場の図書館に行き、村に伝わるミズワタリの伝説を聞く佑司。そこで二年前の水神祭の日、行方不明になった民俗学者の潮瀬が、六年前のキャンプでリーダーを務めたカマクラその人であったことを、満月から聞かされる。大きなショックを受けながらも、佑司は次の目的地である、水渡神社に向かうのであった。

◆登場人物
椿佑司(つばき ゆうじ)
 東京に住む中学三年生。家出してミズワタリを探している。渡利村では、満月の家に泊まっている。
小野田満月(おのだ みづき)
 渡利村の中学三年生。佑司の友人だが、再会した彼に冷たい態度を取る。清という小学生の弟がいる。
黒井さつき(くろい さつき)
 潮瀬源の後継者を名乗る謎の少女。ミズワタリを探している。
潮瀬源(しおせ げん)
 渡利村の民俗学者で、佑司が見つけた新聞記事の筆者。
二年前ミズワタリを探して行方不明になった。六年前はカマクラと名乗る。

(六年前:渡利村のキャンプ)
・ウメボシ  佑司のキャンプネーム
・マンゲツ  満月のキャンプネーム
・カマクラ  チームリーダーで唯一の大人
・ミヤ、ナシ 六年前のキャンプの参加者

渡利村.........ミズワタリの伝説の残る山間の村。水神川を中心に集落が形成されている。
ミズワタリ...渡利村の伝説の存在。迷える者の前に姿を現し、進むべき道を示すと言われている。
水神祭.........村を救ったミズワタリに感謝を伝える祭り。二年前、この祭りの最中に潮瀬は行方不明になった。今年の祭りを明日に控える。

 簡単に昼食を済ませた佑司は、水渡神社に向かっていた。
 水神川の上流の橋を渡って、カマクラの家があった場所の脇をすり抜け、神社の鳥居をくぐる。高さの不揃いな石段を駆け上がり、一気に境内までたどり着く。明日祭りがあるというだけあって、五、六人の男たちが、境内を忙しそうに行き来していた。
「祭り、か......」
 東京の花火大会には毎年何度か行くけど、祭りの季節にはまだ早い。だからこういうのは、今年初めてで、何だか新鮮だ。
 境内をきょろきょろしていると、不意に背後から「祭りは明日だぞ、誰だお前?」と声をかけられた。
 振り返ると、背の高い少年が立っていた。部活の服装をそのまま普段着に使ったような半袖半パンのスポーツウェアを身に纏ったその少年は、歳こそあまり変わらなさそうだが、よく日焼けした肌と、よく鍛えられた手足で少し大人びたような雰囲気をしている。境内の掃き掃除をしていたのか、サンダルを履いたラフな格好をした彼の手には大きな竹ぼうきが握られていた。
「渡利中のやつじゃねーだろ? 誰だ?」
 もう一度、少年は口を開いた。
「え、えっと......キミは?」
「清水(しみず)洋介(ようすけ)、渡利中三年。この神社の一人息子」
 ぶっきらぼうに答えた少年の眉間には不審がるように皺が寄っている。
「中三!? オレと同い年じゃん」
 オレの言葉に清水と名乗った少年は、少しびっくりしたように目を丸くして「まじで」と呟いた。
「渡利中の三年生ならさ、満月のこと知ってんじゃねーの? オレ、椿佑司。満月の家に泊めてもらってるんだ」
 清水は、今度は本当に驚いたようで、「まじで!?」と再び言った。
「え、満月の親戚とか? あいつからそういう話あんまり聞いたことねぇんだけど」
 親近感を抱いたのか、清水は食い入るようにオレのことを見つめる。
「違う違う。小さい頃の知り合いでさ、東京から来て、満月んちに泊まらせてもらってるんだ」
「小さい頃、東京から......もしかしてお前、ウメボシ?」
 少年の口から出た言葉に、今度はオレが目を丸くする。
「え。なんで、その名前......」
 オレがそう言うと、途端に清水は顔に笑みを浮かべてオレの背中を嬉しそうにバンバン叩いた。
「なーんだ、ウメボシかよー! 早く言えよなー。誰かと思ったじゃねーか!」
 急に親しげになった清水に、オレは目を白黒させる。
「え? 何? もしかして、満月からオレの名前聞いてたとか?」
 清水は少し不満そうに「なんだ、満月のことは憶えてて、俺のことは憶えてねーのかよ」と言った。
「俺、ミヤだよ。キャンプの時同じグループだったろ?」
「ミヤ!?」
 全然気づかなかった。そう言われれば確かに、男らしいというか、大雑把な性格というか、そういうところはなんだか似ているような気がする。
 清水は「ようやく思い出したか」と呆れたように笑った、
「だって、ミヤの本名知らなかったし。お前、洋介っていうんだな。全然ミヤじゃないじゃん。分かんねーよ」
「あーそれな? なんかこの村同じ苗字が多いからさ、俺よく『お宮さん』とかって呼ばれてんだよね。家が神社だから。で、この名前を付けた潮瀬さ......えーっと、カマクラだっけ? が、それを引きずってミヤって名付けたってわけ」
 昼ご飯を買った店の名前も、同じ「清水」だったことを思い出す。水にまつわる苗字。この地域では多いのかもしれない。
「それで、ミヤだったんだ......」
 清水は「分かんねーよな」とケラケラ笑った。
「カマクラはさ、この神社のすぐ下に住んでたの。だから、まあ小さい頃からよく面倒見てもらったし、ミヤって名前の方がなじみ深いと思ったんじゃね?」
 神社の下の木造廃墟。二年の時を経てボロボロになっていくその家を、こいつはどんな気持ちで見つめていたんだろうか。
 そう思って、ふっと寂しい気持ちになった。
「それで? お前は何しに来たんだよ。受験生が土日に、ただ遊びに来たっていうわけでもないんだろ?」
 清水に問われ、オレは頷いた。
「清水、この神社ってミズワタリを祀ってんだろ? ミズワタリについてなんか知らねーの?」
 その言葉に、清水が一瞬怪訝な顔をしたのが分かった。
「知ってどうすんだ」
 その言葉にオレはハッとした。
 満月と、同じ......
「会いたいんだよ。ミズワタリに」
 清水の顔は真っすぐオレを見つめる。まるで、オレの心の奥を貫くかのように。
「ミズワタリなんていないのに......?」
 清水と満月。性格は全然違うのに、何だか似ている。ミズワタリはいない。どうして伝説を聞いて育ったはずの二人は、その伝説を否定するのだろう。
「お前がこの村に来たのって、もう六年も前のことだろ? よく憶えてんな。......いい加減そんな言い伝え忘れちゃえよ。もうガキじゃねーんだから」
 オレが何も言わず黙っていると、清水はふう、と息を一つ吐いた。
「ま、教えてやるだけならいいけどな」
「ほんとに!?」
 ぱっと顔を輝かせたオレを見て、清水はなぜか憐れなものでも見ているかのように、小さく頷いた。

 清水は社務所にいた父親を呼んできて、オレのことを「昔のキャンプで一緒だった友達」と簡単に紹介した。
「どうも、神主の清水です」
 袴姿のその男性は、オレの父親よりも年配で、白髪も大分混じってはいるが、息子に似て細身ながらいい体格をしていた。
「すみません。お忙しいところ」
「いいのいいの。力仕事は全部若いのに任せてるから。ちょうど休憩したかったし。――それで、キミは私に何の用だい?」
「オレ、ミズワタリの伝説について調べてるんです。図書館に行ったら渡邊さんって人が、神社に行くといいって言っていたので......」
「渡邊――ああ、あの渡邊くんね」
 神主さんはしきりに頷く。やっぱり小さな村の神主さんともなれば、村民の顔なんて憶えてしまうものなのだろうか。
「そっかー。でも渡邊くんに一通り聞いたんだろ? 私が言うこと、ある?」
「えっと......」
 オレが言い淀んでいると、横から清水が、
「あれは? 御神体の話。佑司聴いた?」
「い、いや。聴いてない......多分」
 神主さんは「そうか、じゃあその話をしよう」と頷いて、口を開いた。
「ミズワタリはね、その姿が往々にして鏡に例えられるんだ」
「鏡......? でもミズワタリは獣の姿をしているって」
 オレが見たミズワタリの姿も、渡利村の歴史の伝説でも、ミズワタリは四つ足の獣だった。
「獣っていうのは、輪郭の話だろう? ミズワタリの姿は水晶のように透き通っていて、見る者によって姿が変わると言われているんだ。ある者は見た目通りの獣の姿をしていたと言い、またある者は輪郭が歪んで人の形になり、死んだ母の顔が目の前に現れたと言う」
 何だかとても奇妙な気がしながらも、その話を聴いていると、「こんな話がある」と、神主さんは話し始めた。
 
   その昔、渡利村に住むある男が、山に入ってミズワタリを捕まえようとしたという。
 男は怠け者で、それ故に貧乏だった。村を救ったその伝説の存在をわが物にすれば、簡単に富を得られると考えたのだろう。もしくは、村の者たちが讃える存在を捕まえることで、他人より上に立とうと思ったのかもしれない。
 男は山を彷徨い、ついに幻の獣を罠にかけて捕まえた。
 しかし、捕まえたと思ったその獣をよく見ると、それはこの世のものとは思えぬほど恐ろしい形相をした悪鬼だった。男は慌ててその鬼を逃がし一目散に山を下りて行った。
 男が家に帰って、水瓶に映った自分の顔を見てみると、その顔は先ほど捕まえた悪鬼と全く同じ顔をしていた。自分が鬼だと思っていたその顔は、私利私欲に溺れた醜い自分の姿だったのだ。
  
「これは、ミズワタリが、相手を映す鏡となり、邪道へと進む相手の心の内を映したのだろう、と解釈されるね。他にも、家族の死に打ちひしがれていた男が、森の中で死んだはずの母に会ったみたいな話もある」
 今まで聞いてきた話と、かなりテイストの違う話だ。これもまたミズワタリの持つ一面ということなのだろうか......?
「もちろんこの話が事実か否か、事実だったとしてそれは本当にミズワタリだったのか。考える余地はあると思うよ」
 だけどね、と神主さんは続ける。
「この神社の御神体は鏡なんだ」
 ミズワタリは幻の存在だ。もちろんミズワタリそのものを神社に祀ることはできないけれど......
「それは、何か曰くのある鏡なんですか?」
 神主さんは頷く。
「この神社に伝わっている話によると、その鏡っていうのが、ミズワタリが干ばつに苦しむ村を救った時、湧き水の傍に残されていたものらしいんだ。もちろん事実かどうかは不確かだけれど」
 ミズワタリが残した鏡......。
「この村では、様々なミズワタリに関連する伝説が残っているけど、見たものから起こったことまで様々だからな。何が本物かっていうのは断定できないんじゃないかな」
 知れば知るほどミズワタリの謎が深まっていく。カマクラが生涯をかけて研究したというミズワタリ。それだけ本当に不思議な存在だ。
「キミは、何かミズワタリに会いたい訳があるのかい?」
 オレは小さく頷く。神主さんが続きを促しているような視線を感じた。
「会いたいと思う理由はあります。でも、すみません。それをあまり話したくはないんです」
「そうか、じゃあ訊かないよ」
 神主さんは目を細めて頷いた。
 清水のお父さんや、満月のおばあちゃんくらい無干渉な親だったらいいのに、と思う。「お前のことを心配して言っている」という言葉はきれいごとだ。ただ親の望むように子供を動かしたいから、親の手柄にしたいから、自分がいらぬ不安を抱かないように子供に干渉する。
 じゃあ、親が何も言わなかったとしたら、オレは自分の道を自分で見つけることができるだろうか。
 それも、分からない。
「教えてくださってありがとうございました」
 オレはぺこりと頭を下げる。
「どういたしまして。......キミにもいつかワタル日が来るといいな」
 また、ワタルだ......。満月のおばあちゃんと同じ言葉。地域の方言か何かなんだろうか。
 神主さんはオレの疑問には気づいていないように、言葉を続ける。
「でも不思議だな、さっきも同じようなことを訊きに来た子がいたんだ。キミや洋介と同じ歳くらいの女の子だったけど......」
「それって――」
「あ、椿くん!」
 不意に背後から声をかけられ、振り向くと、話題の少女が社の奥の方から駆けてきた。
「さつき!」
 神主さんに対して「奥の池、見せていただいてありがとうございました」と頭を下げるさつきは、昨晩とは打って変わって、Tシャツにジーンズという活動的な格好をしており、背中辺りまであった髪を頭の高い位置で結んでいた。
 昨日は清楚とか高貴という雰囲気が似合ったけど、今日は気の強そうな雰囲気をしている。何ていうか、学級委員の女子って感じ。
「キミたちは知り合いなのか?」
神主さんの言葉にオレは頷く。
「あ、はい。えっと......友達です」
 さつきのことよく知らないけど、友達って言ってよかったのかな。さつきはオレと目を合わせて小さく頷いた。
「と見せかけて、彼女?」
 そう言ったのは清水。
 さつきはすかさず「違いますよ~!」と否定して、こちらの方を見た。
「椿くん、ここで会えたのはちょうどよかった! 一緒に来てくれる?」
 こいつ本当に昨日と同じさつきか? なんか昨日よりフレンドリーというか、急に距離が縮まったというか......。
 オレが少しまごついていると、「ほら!」と手を引いて境内を駆け出した。
「神主さん。どうもありがとうございました!」
 背中で、清水の「彼女と仲よくなー、佑司!」の声。オレは慌てて「だから違うって!」と否定した。

 境内から石段を下りずに山に入ると、五分くらいしてキャンプ場が見えてきた。
 六年前来て以来のキャンプ場。オレの渡利村での思い出は全部ここに詰まっている。
「境内から山に入ると、キャンプ場への近道ができるの」
 さつきはそう言って、オレの手を離す。
「懐かしいな、ここ。小さい頃来たんだ、このキャンプ場。そこでミズワタリのことも知ったんだぜ」
 オレが辺りを見回しながらそう言うと、少し間を開けて「......そう」とさつきは相槌を打った。
「あのさ、さつき。ずっと忘れてたんだけどさ、オレ潮瀬さんに会ったことあるっぽいんだ。このキャンプ場で。カマクラって呼んでたから、本名知らなくてさ」
「そう、なんだ」
 もっと食いつくかと思ったら、案外さつきの反応は淡白だ。なんだかちょっと拍子抜けした気分になる。
「椿くん、水渡神社で何してたの?」
「ああ、ミズワタリについて聞いてたんだ。午前中は図書館にも行ったんだぜ。......でも、さつきはどっちももう行ってたんだな。同じこと訊きに来た子がいたって言われちゃったよ」
「ふふ、そうね。椿くんは一足遅かったみたいね」
 いたずらっぽく笑うさつきの顔は、昨夜見たものと同じで少しほっとする。
「じゃあ、少し情報交換しましょうか。あそこのバンガロー、私が借りているところなの」
 赤い屋根の小さな小屋は、オレが六年前に使ったものより小さかった。
 壁も床も木で作られていて、部屋に入った瞬間濃い木の匂いがした。
 床に散乱している資料は、さつきが調べたものだろうか。小さい文字がたくさん書かれていた。
「どうぞ、好きな場所に座って」
 そう言って、さつきは床に座る、
「どこまで調べたのかしら?」
 散らばった資料をかき集めながらさつきは言った。
「いろんな話を聴いたよ。渡利村の成り立ちの話とか、神社の御神体の話とか」
「なるほどね」
 さつきは頷きながら、資料をめくる。
「椿くんがその中で気になった話とかある?」
「気になる話はいろいろあるけど......そうだなぁ」
 少しの間悩んで、口を開いた。
「小さな村なのに、ミズワタリに関する伝説がたくさんあるっていう話が気になったな。図書館の人が、人によって違う話をするって言ってたけど、本当にその通りなんだ」
 オレ自身の体験、満月のおばあちゃん。渡利村の成り立ち。水渡神社に伝わる伝説。ところどころ似ていて、でも全く同じわけじゃない。
「ミズワタリが何なのか、よく分からなくなったよ。さつき、お前はいると思うか、ミズワタリ」
「愚問ね。信じていなきゃこんなところまで来ていないわ」
 さつきの言うことはもっともだ。いると信じているから、信じたいからここまできた。それを否定すると言うことは、東京を飛び出したオレの決意を否定することになる。
「でも、それは私の意見。いたらいいなっていう、ただの願望。この村の人たちが出会ったのは本当にミズワタリか、実際それが存在するのかはもしかしたら重要なことじゃないのかもしれないわ」
「どういうこと?」
「つまり、この村の人にとって、ミズワタリはいると信じることに意味があるのよ」
 さつきの言わんとする意味が分からず、なおも首を傾げる。
「椿くんも言ったけど、この村には無数の伝説があるのよね」
 さつきは、一枚の資料を見せる。「これは、渡利村の村民に聞き取りをしたものをまとめた資料なんだけどね」と、さつきは説明した。
 資料には、聞き取りをした人の名前と日付、伝承の内容がまとめられていた。その日付を見ると、古いもので一年くらい前のものもある。
「さつきはこの村に何回も来てたんだな」
「言ったでしょ。潮瀬先生の後継者だって。この村でちゃんといろいろ調べてるんだから」
「今回この村に来たのも、水神祭に合わせてのこと?」
「分かってるじゃない? あなたもそうなのかしら?」
「いや。オレはただの偶然」
 さつきは面白そうに「すごい偶然ね」と笑みを浮かべた。
「話を戻すわ。この村に伝わる伝説をまとめて、分類してみたんだけどね、本当に話は多岐に渡るの。一番多いのは、山で迷っていたらミズワタリに助けられたっていう伝承ね。森の奥深くで迷っていたら、聞こえるはずのないせせらぎが聞こえたとか、昔話にあるように濡れた足跡を辿ったら沢に出たとか、実際にミズワタリの姿を見たっていう人もいたわ」
「オレのお邪魔している家のおばあちゃんは、真冬に蛍の光を追って森から抜け出したって言ってたよ」
「そういう証言もあったような気がするわ。えっと......これね。小野田静江さん」
 さつきが示した資料のところに、満月のおばあちゃんと思われる名前と、彼女から聞いた昔話が記されていた。
「この証言全部本当だと思う?」
「どうかしらね。森の中で迷ったっていう体験の大多数は十五歳以下の子供。迷子になるのは子供が多いから、当然と言えば当然なんだけど。そのせいで、証言が曖昧なのよね」
 子供の頃に味わった夢のような体験が事実かどうかなんて、体験した本人も絶対的な確信を持てる訳がない。実際オレだってそうなのに。
「でも、信じることによってこの村の人々が救われていたのなら、その存在のあるなしは問題じゃないんじゃない?」
「救われていた?」
 さつきは頷く。
「昔話や言い伝えっていうのは、宗教と似たようなものよ。人の心を助けたり、支えたり。実際この村は、その伝説に支えられて発展してきたんだから」
 オレはこの渡利村という場所について思い返してみる。
 川を中心に、発展した集落。川の上流にあるミズワタリを祀った神社。パンフレットに書かれたこの村の伝説。さつきの言う通り、この村はミズワタリによって支えられている。
「オレの友達が言ってたんだけど、この村には暗黙の了解があって、村に生まれた子供に水にまつわる名前を付ける、って。これも関係してる?」
「ええ。ミズワタリを元に発展している確たる証拠だと思うわ。それに名前だけじゃなくて、苗字もね」
 さつきは別の資料を示す。資料には円グラフが書かれていた。
「これはこの村の苗字の割合を示したものよ。村民の三分の二が、『渡辺』もしくは『清水』っていう苗字なんですって。潮瀬っていう苗字もあるくらいだし、きっと八割くらいは水にまつわる名前なんじゃないかしら」
 満月が言っていた。カマクラは、村の中では名前が似通ってしまうから、あえて水と関係ないキャンプネームをつけたのだと。このデータを見るとその気持ちもなんとなく分かる気がした。苗字も含めてこんなに似ていると、少し奇妙に思えてくる。あと、きっと「さんずい」が付く名前だと書くときに画数が多いとか、多分そういう理由もあったんだろうな......。カマクラのことだから。
「今の話を聴いてると、ミズワタリはあくまで渡利村の人たちの心の中だけにいるって言ってるように感じるんだけど」
 さつきは「そうねぇ」と少し考える仕草をした。
「これは全部潮瀬先生がまとめた研究。それに私が自分で聞き取り調査をして、裏付けをしたもの。『いるかいないかは分からない。でも、その存在がこの村の人々に大きな影響を与えてるのは確実』これが潮瀬先生の結論なの。......ここから、私の考えを言ってもいいかしら」
 オレが頷いたのを確認してさつきは口を開く。
「――これもすべて、ミズワタリの伝説の一部だったとしたら?」
「え?」
 すぐには意味が呑み込めなかった。
「この村にはこんな言葉があるわ。『ミズワタリ 求める者には現れぬ 迷える者に現れる――』。私はこの言葉が、全ての本質を表していると思うの」
 渡利村に来てから何度か聞いたこのフレーズ。
「『ミズワタリ 求める者には現れぬ 迷える者に現れる――』」
 口の中で復唱する。
「ずっと不思議だったんだ。ミズワタリは求める者には現れない。じゃあ、オレたちが昨日見たものは何だったんだ? 自信はないけど......やっぱりあれはミズワタリだったんじゃないかって思うんだ。でも、カマクラは出会えなかったミズワタリの姿を、どうしてオレたちは見ることができたんだろう」
「私と椿くんが、潮瀬先生と絶対的に違うところって何かしら?」
「えーっと......年齢? 若い人の前にしか現れない、とか」
「ミズワタリをロリコンか何かと勘違いしてない......? 昔話でも、大人がミズワタリに会った例、あったでしょ?」
 おっしゃる通りで......。でも、年齢じゃないとすると、何だろう? 
 オレが頭を抱えていると、さつきは言った。
「考え方を逆転すればいいのよ。『求める者』はミズワタリに会えない。『迷える者』はミズワタリに会える。だから、潮瀬先生は『求める者』だった。そして私たちは『迷える者』だった。これが違い」
 カマクラが「求める者」なのは納得できる。生涯をかけて彼はミズワタリを求め続けた。でも、オレとさつきが「迷える者」って......?
「椿くん、心当たりがあるくせに」
 すべてを見透かすようなさつきの瞳に、思わずドキリとする。
「ミズワタリに会える者は、必ず心や体にどこか欠けたところがあるの。飢えに苦しんでいたり、不誠実な心を持っていたり、進むべき道を見失っていたり。迷うってきっとそういう意味。......何かしら自力で越えられない壁にぶち当たって、心に不安を抱えている者だけがミズワタリに会えるんじゃないかしら」
「さつきにも、何かあるの......?」
 さつきは薄く微笑んで「ひみつ」と人差し指を口に当てた。
 カマクラが会えなかった理由、それはカマクラには「会いたい理由」がなかったからなんだ......。カマクラはそれに気づけなかった。いや、きっと気付いたけど、どうしようもなかったんだ。ミズワタリを求めることは簡単だけど、ミズワタリに会いたい理由を付けるのは難しい。
 さつきはおもむろに口を開いた。
「ミズワタリは、迷える者の進むべき道を示す、って言われているわ。この村はミズワタリによって支えられている。それはこの村の人の名前や地名を見ることからも明らか。まさに、この村が迷うことがないようにミズワタリが基盤を作っているように感じるのよね」
「この村の存在そのものがミズワタリと人々の関係を表してる......この村の存在そのものがミズワタリの伝説ってこと?」
「あくまで私の考えだけどね」
 と、さつきは付け足した。
「――じゃあさ、さつき。この話、どう思う?」
 オレの話にさつきは「何?」と首を傾げる。
「オレと同級生でこの村に住む友達が、二人そろってミズワタリの存在を真っ向から否定するんだ。この村はミズワタリによって支えられてきたはずなのに......」
 満月と清水のあの態度、なんだかすごく奇妙に感じた。
 その話をした時に、さつきは少し悲しそうな顔をした。
「やっぱり、椿くんも気づいた?」
「お前も気づいてたのか。変だよな。オレが昔あいつらに会った時は全然あんなじゃなかったもん。ミズワタリに興味津々だったのに」
「あんまりこの村の同世代の子と話したわけじゃないから、詳しくは分からないんだけど、この気持ちには心当たりがあってね」
 オレは「心当たりってなんだよ」と、聞くと、さつきは少し間を開けて口を開いた。
「クリスマスの晩に目を覚ましたら、枕元にお父さんが立っていたような気持ちかしら」
「何だその例え......」
「つまりね。サンタさんが現実にいるかいないかは別として、誰も否定してなんかいないのに、いると信じていた心を完全に裏切るような出来事が起こってしまうってこと」
 つまり今回の件について言えば、満月や清水に何かが起こったんだ。ミズワタリの存在を信じていた二人の心を完全に裏切るような出来事が......
「さつきは、何が原因か知ってるんだろ?」
「ミズワタリの存在を誰よりも信じ、調べ続けていた人に裏切られたら、そんな気持ちにもなるんじゃないかしら?」
 さつきの視線はバンガローの窓から外を見つめる。
 さつきの顔に落ちる影が、彼女の表情を愁いの帯びたものにしていた。
「――ああ」
 そういうことか。
――彼が山で行方不明になった時は、それだけにみんなショックだったんですよ
 渡邊さんの言葉が頭をよぎる。
 カマクラは大人のくせに子供みたいな人だった。オレたちの話をバカにせずに聞いてくれたし、オレたちの面白がるような話をいっぱいしてくれた。子供の心を持ったまま、年齢を重ねたような人。それがカマクラだ。
 そんなカマクラは、ミズワタリを追い続けて、その途中で消息を絶った。
 いつまでも、いないものを追いかけているから。いつまでも子供のままだから。――だから、カマクラは消えた。
 オレの心が一斉に騒ぎ、問いかける。
――いつまで、こんなことしてるんだ?
――ミズワタリなんて本当は幻想じゃないのか?
――いもしない幻想に惑わされてるだけじゃないのか?
――昨日のあれも、六年前もすべては夢
――そもそも、カマクラがいなければ、ミズワタリなんて知りもしなかった
――こんなことで家や学校を逃げ出してよかったのか?
――カマクラの二の舞になっていいのか?

――いつまで、子供でいるつもりなんだ?

    *

「――くん。椿くん!」
 さつきの声に、ハッと我に返る。
「大丈夫? ぼーっとしてたようだけど」
「あ、ああ......」
 力ない返事に、さつきは心配そうにオレの顔を見る。
「気持ちは分かるけど、ブレちゃだめよ?」
 言い聞かせるようにさつきは言って、「今日はもう帰った方がいいわ」と、資料を片付け始めた。
 いつの間にか、日は大分傾いてきている。
「忘れないで、私たちにはミズワタリに会いたい理由があるんだから。ミズワタリを信じる根拠なんてそれだけで十分よ」
 さつきの眼には揺るぎない意志を感じる。オレは強く頷いた。
「すまないな、さつき。お前、すごいよ。オレ教えてもらうだけで、何ひとつ力になれなかった」
 さつきは首を横に振る。
「ううん、そんなことない。たった一日でここまで調べられる椿くんもすごいよ。私感心しちゃった!」
 いつも、澄ましたような態度をしているさつきに、素直に褒められたのが、なんだか照れ臭い。
「一緒にミズワタリを見つけましょ。いつか、きっとワタル日が来るはずだから」
 オレは驚く。
「さつき......その言葉」
「この集落ではね、自分の探していた答えが見つかるって意味で『渡る』って言葉が使われるんだって。渡利村のおばあちゃんたちがよく使うから憶えちゃったの......」
 さつきはそう言っていたずらっぽく笑った。
 ワタル――渡る
 オレはその不思議な響きを復唱しながらバンガローを出た。
「渡るといいな......」
 その願いは色の薄くなった空に溶けていく。
 会えるかどうかは分からない。だけど、もうオレはミズワタリの存在を疑ってはいなかった。

 キャンプ場のある森を抜け、神社の鳥居の前まで戻ってくる。昼過ぎに来た時よりも、人が忙しそうに行き来している。三人の大人が、鳥居の前に『水神祭』と書かれた立て看板を立てていた。
 小さな集落ながらも、人々はこうやって助け合い、何十年、何百年もの間、伝統を守ってきた。
 田んぼの中を通る道に沿うように、一本の電線が通っている。道を歩きながら、辺りを見回した。太陽を反射する田んぼは昨日の夜見た時とはまったく違って見える。青い空を写し取った水田の海。風が吹き抜けると遮るものもなく、水面と稲の苗を揺らす。
 道の向こうから、自転車が来る。荷台に木箱を括り付けたシルバーの自転車には、少し太ったおばさんが乗っていた。
 おばさんはにこやかに、「おかえりなさい」と言った。
「こ、こんにちは」
 どう返事していいか分からず、そう返しながらすれ違う。
 オレ、この村の子じゃないんだけど。
 おばさんはそのまま集落の中心の方へと行ってしまった。
 斜面に沿って作られた階段状の田園。森の傍の竹林の下に小さな祠があって、お地蔵さまが置かれていた。
 いるかいないかは問題じゃない。ただ、信じることだけで、ここまで発展できたのなら、それがミズワタリは道を示したということになる。
 確かにそうかもしれない。
 道を違えず、ここまで発展したこの村が、この村の人々が羨ましかった。
 オレは、どうしたらいいんだろう。
 遠ざかる自転車を見ながら、身震いした。
 もう、帰ろう。
 オレは再び、田園の道を、電線を沿うように歩き出した。

 田んぼですれ違った自転車のおばさんはどうやら回覧板を届けに来た、近所の人だったらしい。家に帰ると、玄関でおばあちゃんが回覧板を眺めていた。 
 部屋に戻ると、まもなくして清が、宿題を手伝って欲しい、とオレの部屋を覗いてきた。居間で清の宿題を見ていると、六時ごろになって満月が帰ってきた。テニスラケットを提げた彼は、昨日の緑の学校指定の体操着とは違う、黒色のスポーツウェアを着ていた。
「満月おかえりー、お疲れ様」
「兄ちゃんおかえりー!」
 居間に顔を出した満月は、オレを一瞥して「ただいま」とだけ言って、廊下へ引っ込んでしまった。廊下の奥で「ばあちゃん、ただいま。先にお風呂入るね」と言う声が聞こえた。
「お疲れなのかなぁ。朝は図書館で勉強。昼は部活だもんなー」
 オレがそう呟くと、清は相槌を打った。
「仕方ないよ。だってジュケンセーだもん。......ユージは勉強しなくていいの?」
「オレは――」
 清のまっすぐな問いかけに思わず言葉に詰まる。
「......いいわけないよ。だけど......このままで帰る訳にもいかない」
 オレの言葉に清は首を傾げながら「ふーん」と言って、また宿題に目を落とした。

 晩御飯は冷やし中華だった。
 満月のおばあちゃんが、オレの好物が漬物だと言うことを知って、ご飯もないのに机の上にはなぜか大量の漬物が置かれている。
 夏の訪れを感じながら冷やし中華の麺を啜っていると、不意に満月が口を開いた。
「佑司くん。洋介に会ったんだって?」
「会ったけど......なんで知ってんだ?」
「部活の時聞いた」
 昼に会った時、清水がスポーツウェアを着ていたことを思い出す。
「あいつテニス部なのか、似合わねー」
 あいつの性格だと、サッカーとかバスケとかやってそうなのに。
「似合うとか、似合わないとか関係ないよ。うちの学校、男子の運動部はテニスか卓球しかないし」
「そうなのか?」
「チームスポーツだと、人数少なくて試合に出られないから」
 そうか、そう言われればそうだ。
 オレが妙に感心していると、満月は少し低い声で言った。
「ミズワタリについて訊かれたって」
「あ、ああ。ほら、図書館の渡邊さんがいただろ? あの人が、神社に行くといいって言ってたから」
「知らない女の子と」
「え?」
 オレは、一瞬虚を突かれて目を丸くする。
 すぐにさつきのことだと分かり、慌てて取り繕う。
「あ、あの子は、ただ昨日のバスで一緒だっただけなんだけど、清水に彼女って勘違いされちゃってさ。いやー、困った困った」
「ユージのカノジョじゃないの?」
 清が口を挟む。
「ちっげーよ、清。ただの誤解だから」
「何を企んでるの?」
「企んでるって......」
 ただ事ではない満月の雰囲気にオレは思わず、彼の顔を見る。満月の目は真剣そのものだ。
 一体、満月は何が言いたいんだ。
「突然ミズワタリに会いに来たとか言ってこの村に来て、理由も説明せずに、ミズワタリの伝説や渡利村について嗅ぎまわって。その女の子も、キミも、何をしようとしてるの」
 オレは言葉に詰まった。
「......べ、別に、満月には関係ねーだろ」
「正直迷惑なんだ。ぼくたちの日常に勝手に踏み入らないでくれ」
 満月の強い言葉に一瞬たじろぐ。
「オレは、お前の日常を壊したりなんてしてないだろ。オレはオレのやりたいように動いてるだけで」
「それが迷惑だって言ってるんだ!」
 満月は思わず声を荒げる。
 オレが圧倒されていると、満月は俯いて、歯を強く噛みしめた。
「......出て行ってくれないか」
 絞り出すように、満月は言う。
「明日朝一番のバスで。この村から出て行ってくれ。ミズワタリなんていない! だから、これ以上、この村を荒らさないでくれ!」
 それは叫びのように聞こえた。
 満月は言ったあと、一瞬後悔したような表情を見せたが、すぐにその色を消し、居間を出て行ってしまった。
 またやっちまった......
 朝と同じだ。
「何なんだよ、あいつ」
 今朝から、いや昨日再会した時からずっとだ。あいつの気持ちが分からない。
 ミズワタリを否定したくなる気持ちは分かる。だけど
「嫌なら猶更、オレのこと放っておいてくれたらいいのに」
 今日の朝も、今だって、先に干渉してきたのは満月の方だ。
 腑に落ちず、モヤモヤイライラするオレを心配するように、清は「ユージ......」と呟いた。

 満月は部屋に籠ったきり、出てくる気配はなかった。オレもオレで、わざわざ満月に声をかけようとは思わなかった。
 明日からどうしようか。
 風呂から上がって、布団に寝転がりながら、ぼんやりと考える。
 どのみち満月の家にいられるのは、明日までだったけど、このまま東京に帰る訳にもいかない。
 色褪せた木の天井の木目を辿りながら、途方に暮れていると、不意に部屋の襖を開く音が聞こえた。
 驚いて廊下の方を振り向くと、
「清......」
 清は泣きそうな顔をして立っていた。
「どうしたんだよ」
「ユージ、兄ちゃんを責めないで」
 顔を真っ赤にして、清は言った。
「悪いのは、満月の方だろ?」
 オレが口を尖らせると、清は「違う!」と強く言った。
「違うって何が......」
 清は言いにくそうに、小さく口を開く。
「......多分、兄ちゃんは、ユージに潮瀬のおじちゃんと同じことになって欲しくないんだと思う」
「カマクラと?」
 清はコクリと小さく頷く。
「潮瀬のおじちゃんが山で消えてから、兄ちゃんは変わったんだ。......それまで、おじちゃんについて、よく一緒にミズワタリを探しに山に行ってたのに、今はおれが誘っても全然ついてきてくれないし。ミズワタリはいないって言って」
 キャンプ場で考えたことを思い出す。
 カマクラの失踪が、満月の心に大きな変化をもたらした。
「......でも、満月がオレのこと心配してたようには思えない」
 満月はミズワタリを否定したかった。否定しないと、いつまでも大人になれないから。先に進めないから。......オレを心配してたんじゃない。満月は自分を守りたかったんじゃないのか。
「ミズワタリなんて幻想だと言い聞かせていたあいつの前に、何も知らないオレが現れた。満月の大人になりたいっていう意志を、ミズワタリを信じるオレが揺らがせたんだ。だから、オレがミズワタリのことを知ろうとすると、あそこまであからさまに拒絶した。そうだろ。そうに決まってる」
 今の満月は、オレが知ってた満月じゃない。オレが会いたいと望んだ満月じゃない。カマクラの失踪があいつを変えた。あの頃の満月はもうどこにもいない。
「違うよ!」
 清の瞳に大粒の涙が光る。
「なんでそんなこと言い切れるんだよ!」
「だって......」
 清は絞り出すように言う。
「だって、兄ちゃんは、ずっとユージにまた会いたいと思ってたんだから」
「え――」
 オレは、思わず目を見開く。
「そんな訳ない。だって、そんな素振り一度も......」
「本当は、兄ちゃんに絶対言うなって言われてたんだけど......」
 清の声は掠れていた。
「もう、兄ちゃんとユージが喧嘩してるとこ見たくないから」
 そう言って、清は口を開いた。
「兄ちゃんが、昨日と今日、せっかく東京から来たユージに構わないで、部活の前とか夜遅くとかにずっと勉強してたの、なんでか分かる?」
「そりゃ、あいつが受験生だからで」
「東京の高校に行きたいんだって。兄ちゃん」
「み、満月が!?」
 清は「うん」と頷く。
「東京に住んでるお母さんやお父さんのところに住むために、頑張って勉強してるの。もう二年くらい前からずっと。兄ちゃん、いつも言ってたよ。東京の高校に受かったらユージに会いに行ってびっくりさせてやるんだ、って」
「でも満月のやつ、今までそんなこと一言も......」
 清は少し言いにくそうに、口を開く。 
「きっと兄ちゃんは、ユージにまた会うために、頑張ってたんだと思うんだ。それなのに、ユージが、渡利村に会いに来たから」
 オレはハッとした。
 ずっと勘違いをしてたのか。オレが満月の前に現れて、満月の意志に揺らぎが生まれたのだとすれば、そもそもの原因はオレがミズワタリを探していたことじゃない。いや、それも影響したかもしれないけど、きっとそれだけじゃない。
「オレが、渡利村に来たこと。それ自体が、満月の意志を揺らがせたのか......!」
 清は小さく首を縦に振った。
 唇を痛いほど強く噛みしめる。
「悪い、清!」
 オレは廊下に飛び出した。
「オレ、満月とちゃんと話さないと!」
 小さなすれ違いだった。六年前重なっていた気持ちは、時を経て少しずつずれていった。きっと昔と同じだって、きっと分かってくれるって。根拠もないのに信じ切っていた。
 今の満月は確かに昔とは違う。
 でもそれはオレだって同じことだ。家や学校で追い詰められて、ここに救いを求めたばかりに、満月の気持ちを考えようともしなかった。
「気づかせてくれてありがとう、清」
 オレは廊下を駆けて、奥の部屋の襖に手をかけた。
 満月は、勉強机に向かっていた。足を椅子に乗せて体育座りのようにうずくまっている。
 満月は顔を上げて、こちらを見る。少し驚いたような表情をしていた。
「佑司くん......」
「あのさ、満月。話があるんだ」

 満月は出て行けとは言わなかった。
 ベッドに腰かけるように促し、椅子を回転させてオレと向き合った。
「話って、何?」
「その......ごめんっ! オレ、お前のこと何も考えてなかった。いっぱい迷惑かけたよな」
「渡利村を追い出されたくなくて言ってる? それ」
 満月の言葉には棘がある。オレは、「違う」と言い張った。
「......満月はさ、東京の高校に行きたいんだって?」
 それを聞いて、満月は一瞬驚いたような表情をした後、眉間に皺を浮かべて、「清のやつ、絶対言うなって言ったのに」と呟いた。
「あいつは悪くない。清はオレとお前が喧嘩してるのが見ていられなかったんだって」
 満月は小さく溜め息をついた。
「知らない間に、あいつを追い詰めてたのか......。兄貴失格だな」
「――満月」
 オレは友人の名を呼んだ。
「オレさ、自分のことでいっぱいいっぱいで、お前に全然自分のこと話してなかったんだな」
 オレは苦笑する。
「なんで渡利村に来たのかも言わずに、泊めてくれだの、ミズワタリについて教えろだの図々しいにもほどがあるよな。悪い」
 ちゃんと話そう。どんなに仲のいい友達だって、普通の人間だ。口に出さずに、オレの気持ちを全部汲んでもらえると思うなんて、そんなこと、ありえないのに。
「オレ逃げて来たんだ。家や学校から」
「え......?」
 窓の外の暗黒から、蛙の鳴く声が聞こえる。
 怒っている間も、泣いている間も、今この瞬間も、夜はひっそりと深まっていく。
 オレは話し始めた。
「オレの両親は、教育熱心な人でさ、仕事が忙しくて全然傍にいてくれないのに、オレの進路についてはとにかく口を出す人だったんだ」
 幼い頃から、学習塾や英会話、算盤。いろいろな習い事をさせられた。
「六年前のキャンプだって、その教育の一環だったんだぜ」
 親がどこからか見つけてきたキャンプのチラシ。都会の喧騒から離れ、大自然を走り回るのもきっと子供にいい経験になるはずだから、って。
 その教育熱心っぷりは、年を重ねるごとに拍車がかかっていった。小学六年生の時、中学受験をして、今は少し遠くの私立中学に電車で通っている。
「今は中三だから、余計に親の圧力が強くてさ、家にいる時間よりも塾か学校にいる時間の方が長いんじゃないかってくらい。多分、有名私立の高校に入って欲しいんだろうな」
 でもさ、とオレは続ける。
「両親は部活がオレの勉強の妨げをしてるのが気に食わないみたいでな」
「――佑司くんは陸上部だっけ?」
 オレは頷く。
「朝練や休日練、放課後練なんかでなかなかにハードでさ、塾に自習しに行っても、結局自習室で寝落ちしちゃうのが定番になってんの。元々、勉強なんて得意なタイプじゃないから、やる気もでないし。でも成績が伸び悩むと、また親から文句言われんだよな」
「三年生はもうすぐ引退でしょ? もう少しの辛抱なんじゃないの? 引退すれば、受験勉強に本腰を入れられるじゃん」
 だったらいいんだけどな、とオレは溜め息をつく。
 そう。それだけなら何の問題もないのだ。受験勉強は、高校進学を望むなら避けては通れない道なのだから、ただのオレのわがままで終わったはずなのに。
「すぐには引退できなくて......」
「どうして?」
「全国大会に出られるかもしれないんだ。いや、出る可能性が限りなく高い」
「すごいね! 佑司くん、そんなに足速かったんだ」
 感心したように言う満月に、オレは再び、だったらよかったんだけど、と溜め息をつく。
「どういうこと?」
「オレがスポーツ推薦で進学できるほど足が速ければ、もしくは未練なく部活を辞められるほど足が遅ければ、何も問題はなかったんだ」
 問題はオレが、中途半端に足が速かったこと。
「オレが辞めると、チームメイトに迷惑がかかってしまうから、辞めるに辞めれない」
「でも、陸上って個人競技でしょ? 辞めるも、辞めないも自分の勝手なんじゃ......」
「リレーなんだ」
 満月の言葉を遮るように言う。
 玄関の方で、振り子時計が十回鳴った。
「四百メートルリレーに出るんだ。四人で百メートルずつ走る。他の競技と違って、チームでタイムを作るんだよ。......だけどさ、本当に全国レベルの足の速さを持つのはオレ以外の三人だけ。オレはただの埋め合わせなんだ」
 満月が、息を呑む音が聞こえた。
「他の三人は、何としても全国でいい結果を残して、進学のために推薦をもらいたいと思ってる。だけどオレは......部内で四番目に足の速いオレじゃあ、四継以外で全国なんて出られないんだ」
「他の部員は......?」
「オレじゃなきゃダメなんだと」 
 大きく息を吐く。
「リレーの埋め合わせをする一人は、できるだけタイムロスしないようにして、他の三人のタイムを最大限生かさないといけない。三年間同じチームでやってきたオレが、一番適役だって、部内全員が一致してる」
 満月は薄く笑みを浮かべる。
「頼られてるんだ」
「いいように利用されてるんだよ」
 オレが部活を引退前に辞めるかもしれないと言ったら、チームメイトたちは全力で引き留めてきた。でもそれは、オレのためを思ってのことじゃない。オレが辞めたら全国に出られないかもしれないから、自分の成績に傷がつくから、だからオレには部活を辞めて欲しくないんだ。
「結局みんな自分の保身のことだけ考えてる。そのためにオレを利用してるんだ」
「佑司くんはさ、どうしたかったの?」
「オレは......正直どっちも嫌だ。三年の夏を部活に費やしてまで陸上を続けたいと思うほどの愛着も未練もないし、だからと言って両親の言うように、すべてを勉強に注ぎこむほど受験に血眼にもなってない」
 どうしていいか分からなかった、とオレは続ける。
「だからここまで来たんだ。親にも、部員たちにも何も言わず、家出してきた。......本当は分かってんだ。これはただの逃げだって。どちらかを裏切るくらいなら、両方を裏切るっていう最悪の一手」
 なんて情けないやつだろうって、自分でも思う。だから誰にも言いたくなかった。
「ミズワタリに会ったら、きっと何かが変わるんじゃないかって。バカげたことだとは思ってる。......それでも、そんな伝説に頼るしかなかったんだ」
 満月は、否定も肯定もしなかった。それが正しいとも、間違っているとも。
 ただ静かに頷き、「そっか」と呟いた。
「――佑司くん」
 友人はオレの名を呼ぶ。
「話してくれて、ありがとう」
 優しい、声だった。
「佑司くんが突然渡利村に来た時は驚いたよ。なんで来たのか、ずっと気になってた。でも佑司くん、言いたくなさそうだったから、聞けなかったんだ」
「満月......」
「ぼくも、佑司くんと似たようなものだよ」
 満月は勉強机に置かれた写真立てを見る。六年前のキャンプの最終日、バンガローの前で撮った写真だった。
「潮瀬さんが行方不明になった時、この村に囚われてちゃいけないって思ったんだ。このままじゃいつまでも子供のままだって。ちゃんと勉強して、この村を出るんだって。......自分の進路を決めるってなった時、佑司くんのことを思い出したんだ。佑司くんが東京に住んでたことをね。両親も東京に住むようになってたし、それが原動力になって今まで頑張ってきた」
 でも、と満月は肩をすくめる。
「親がぼくを渡利村のばあちゃんちに置いているのは、ぼくが仕事の邪魔だったからじゃないかって思ったんだ。じゃあ、ぼくがこのまま東京に行ってもお母さんたちには迷惑なんじゃないかって。そう思うと、言い出せなくて......」
 満月は、微かに笑って言った。寂しそうな笑みだった。
「だから今は絶賛迷い中。誰かに囚われて、自分のしたいことができないって不便だよね」
「全くだ」
 オレが笑うと、満月は目を細めて、
「でもそっか。ミズワタリに会えば、渡るんだったね」
 渡る――自分の道が拓けるって意味だ。
「もう長いこと忘れていたなぁ。ミズワタリ。また、会ってみたいな」
 遠い昔を懐かしむように、満月は言った。
 満月は二年前の事件にショックを受けて、それ以来ミズワタリに対して心を閉ざしていた。目の前にある伝説に目を向けることも、きっと考えられなかったんだと思う。
「明日は水神祭の日か。何かが起こればいいな」
 それから、オレは満月に、昨日と今日あったことを包み隠さず話した。
 さつきという女の子のこと、昨夜ミズワタリのような影に会ったこと、図書館や神社で聴いた話。
 振り子時計が十一時を告げる頃、話を終えてオレは満月の部屋を出た。
「あ......」
 廊下を見て、オレは声を漏らした。
「どうしたの」
 満月は、オレの声に廊下を覗き込む。
「清......」
 満月の部屋の戸に、寄りかかるようにして、清が寝息を立てていた。
 その頬には涙が乾いた跡がある、
「まったく、いつまでもガキなんだから」
 満月は溜め息をつきながら、笑って清を抱えた。
「うわ、重。佑司くん手伝って」
 満月に手を貸して、二人で布団まで清を運ぶ。
「でも、ま。今回は清のお陰だからな」
 オレの言葉に、満月は頷いた。
「手がかかって仕方のない弟だけど、今回ばかりは感謝しない訳にはいかないな」
 清は、夢の中で笑みを浮かべていた。
(続く)



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