月蛾

葦夜るま



 屋上の扉を開けてはじめに目に飛び込んだのは、風に靡く金の髪だった。
「あれ、アンタ」
 こちらを振り返って目を丸くした彼女の頬に貼られた湿布が痛々しい。すぐに扉を閉めてしまいたかったが、そんなあからさまなことも出来ずに固まってしまう。
 御園理沙。彼女のことは知っていた。筋金入りの不良と言われていて、怖い人たちといつもつるんでいる人だ。しかしひとりの彼女は、別にそんな恐ろしい形相はしていなかった。面白そうににっと吊り上げられた口端。
「確かおんなじクラスの......藤見......だっけ」
「うん......御園、さん」
「アンタもサボり?」
「......今は昼休みだよ」
 そう言えば、「寝すぎたな~」と彼女が悪戯っぽく笑った。
「じゃあ昼飯食べにきたの?」
「うん」
「せっかくだし一緒に食べようよ」
「......いいよ」
 彼女と話すのは初めてだ。存外な人懐こさに少し驚きながらも、屋上の扉から一歩踏み出す。その瞬間私の頭上には綺麗な青空が広がった。この瞬間がいつも好きだった。ちょいちょいと手招きしてくる少女の隣に腰を下ろす。もくもくと弁当を出し始めた私に、御園は少し愉快そうな顔をした。
 それが彼女と私の第一の始まり。



「アタシ、アンタみたいなタイプには大抵怖がられんだけど、アンタ、怖くないの?」
 理沙が面白そうに言ったのは、それから一週間後のことだった。私は理沙のいう「またね」を真に受けて、毎日彼女と昼を食べていた。もぐ。昨日の夕食の残りのハンバーグを口に含む。
「......怖いと思ってたけど、こうして話してる時ちっとも怖くなかったから」
「へー。まあ何もしてないのにびくびくされても困るからありがたいや」
「御園さんこそ、私みたいなタイプは苦手かと思ってた」
「だから理沙でいいって。別にそういうわけでもないんだけどさあ、まあ話してて楽しい奴の方がいいしね」
 じゃあ、何で私と弁当を食べようと思ったんだろう。お世辞にも口が上手いとはいえないし、はしゃぐのも苦手だ。今も言葉が見つからなくて、彼女の口元を見た。綺麗に口紅が塗られたそこが存外豪快に開いて、菓子パンを飲み込んでいく。マスカラが睫毛の先まできっちり乗っていて黒々としている。目の下や瞼はきらめいていた。
「気になる?」
「え?」
「化粧。よく見てるでしょ」
「............」
 何を見ているか、彼女は分かっていたらしくこちらの顔を覗き込んでくる。急に恥ずかしくなって顔を背けた。化粧っけもなければ何の手入れもしていない顔を見られたくない。
「あー、ちょ、見せてよ」
「......見てもいいことない」
 私の顔は可愛いとは言えない。母がそう言うからきっとそうなのだ。それを恥ずかしく思って前髪は眼鏡にかかるまで伸ばしているし、おしゃれな髪形なんて似合わないからおさげにしている。ダサいと陰口を叩かれているのは知っていたけれど、「ブスが似合わないことをしている」と言われるよりよっぽどマシだと思っていた。
 ぐい、と頭を無理やり彼女の方に向かせられる。理沙がぷくーっと頬を膨らませているのが妙に幼げで可愛い。
「なんでさ、アタシ、藤見って化粧映えるだろうな~って前から思ってたんだよね」
「......え?」
「むしろそれで名前覚えてたまであるからね」
 予想外の台詞に私は彼女の目を見た。御園がうまくいった、という風に笑う。
「化粧してみたい?」
「......でも、お母さんが似合わないからやめなって」
「はあ~?これだからいい子ちゃんは。やってみなきゃわかんないじゃんね。ね、化粧してみようよ」
 好奇心なのだろうか。彼女の瞳はきらきらと輝いていた。そのきらきらに呑まれてしまいそうになって、押されるままに気づけば頷いていた。カラーコンタクト、というのだろうか。彼女の目は少し青みがかっている。
「んじゃ、今日の放課後私んちね。校門で待ってっから!」
「......うん」

 塾がない日でよかった。水曜日だけは、何も習い事がないのだ。だから本当は図書館で勉強をして帰るように言われているのだけれど、理沙の誘惑は罪悪感を上回った。それが、彼女との第二の始まりだった。
 その部屋は静かだった。カーテンは閉め切られ、灯りはついていない。微かな夕焼けの光が波打つ布の裾から漏れ出てくるのみだ。一人用のベッドで、まるで元はひとつの生物だったかのように、ふたりで抱き合って眠っていた。
 しっとりとした肌に体をくっつけているのはいつだって心地よかった。その体から微かに響いてくる鼓動の音がなければきっと生きている人間だなんて思えないほどに心地よく、ぴったりと溶け合っている。彼女より先に目覚めてしまって、ぼんやりとその心地よさを味わっていた。しかしやがて理沙が微かに身じろぎをする。そうすればまるで肌と肌が溶け合って境界線がなくなるような感覚が消えて、いつもがっかりした。
「ん~、あやね......?」
「おきたの?理沙」
「うん」
 ふぁ、と彼女が欠伸をした。化粧をしたまま眠ったから、口紅が少し擦れている。それがまた婀娜っぽくて綺麗だ。いつまでだって抱き合っていたかったけれど、もう家に帰らなければならない時間で、私は渋々起き上がる。次いで起き上がった理沙が、私を見上げてにひ、と笑った。
「やっぱりそのチーク、似合うじゃん」
「そう......かな」
 一週間に一度理沙の家に来るようになって数か月が経っていた。その間に色々なことを知った。化粧の楽しさがまず一番に来るだろう。彼女に色々な粉をはたかれて、ルージュを塗られて、恐る恐る鏡を見た時別人がいるのかと思った。生まれ変わったかのような気分になったのだ。今までのダサくて惨めな自分でも、こんな風になれるんだって、目を輝かせた私に理沙は嬉しそうにしていた。両親がきっと怒るから化粧が出来るのはここでだけだけれど、それで十分だった。この小さな部屋で、まったく違う人間として生きている気さえした。
 また、理沙のことも知った。彼女に父親がいないこと。あの時湿布をしていたのは暴力を振るう男と付き合っていたからだということ。青みがかった目はイギリス人の祖母の血だということ。彼女の身体を覆う沢山の傷跡。
「母親がクソでさ~。まったく子供に当たんなっつの」
 そう言って頬の近くの髪をくるくると指に巻きつける理沙は何でもない風だったが、その普通さがかえって痛々しかった。理沙は自分の不幸をひけらかす人間ではなかったが、彼女の中には漠然とした諦めのようなものが横たわっていた。
 一緒に眠るようになったのは、たまたま彼女の家にいるときに一緒にうたたねをしたのが心地よかったから。その時はちゃんと服だって着ていて、けれど身を寄せ合って眠ると酷く安心した。制服が皺になってしまうと両親に気づかれる可能性があるのと、相手の肌に触れる安心感も手伝って、段々と殆ど何も纏わずに抱き合うようになった。眠るだけで、他には何もしないけれど。
「文音と寝たらいい夢見れるんだ」
 そう言って、子供っぽく笑う理沙は嬉しそうだった。

「あ~ちょっとさむいな」
 彼女がぼやく。下着だけを身に着けて眠っていたものだから、文音も少し肌寒かった。理沙が服を探すため、ベッドに肘をつく。文音も探そうと思ったけれど、白い彼女の背中を眺めるのに存外夢中になってしまった。まだ夢から覚めていないのだろうか。両方の肩甲骨のあたりに丁度、焼け爛れた跡があった。子供の時にストーブに押し付けられたのだという。まるで天使が羽を?がれたみたいだと言えば、「そんなことを言ったのはアンタが初めて」と笑われた。
 黒いブラのホックは留まっていない。背中の真ん中を走る窪みから何となく目が離せなくて。
「おーあったあった。......文音?」
 その白い白い肌にくちづけをした。ゆっくりと顔を離せば、口紅の色が移って赤く掠れている。それが何だか自分と彼女を繋ぐ鎖のように思えて嬉しかった。いつか彼女に羽が生えても、これさえあれば一緒にいられる気がした。窒息しそうなほど狭い世界で、彼女といるときだけは息ができる。それを喪うだなんて考えられなかった。
「もー、くすぐったいんだけど、何?」
「りさ、羽が生えちゃいそうだなって」
「ああ、この怪我の話?ふふ、文音はやっぱロマンチストだな」
 ああそうだ、後ろ向いてよ、と理沙が言った。それに従って後ろを向く。ルージュを手に取った理沙がそれをクレヨンを持つように持った。パチンとブラのホックが外されて、肩甲骨にとろけるルージュが滑らされるのが感覚で分かる。
「りさ......?」
「これでお揃いだよ」
 ほら、と促されて大きな鏡の前に行く。それに背を向けてみれば、理沙の傷跡のような、天使の羽を切り落とした跡のような、赤い線がそこに引かれていた。
「わたしらさ、まだ蛹なんだよ。ずっと羽化を待ってるの」
 いつか脱皮するときの切れ目なんだよ、これって。いつかここから大きな羽をはやして、空を飛ぶんだ。
 そう言う理沙だって、ロマンチストだな、と思う。くるんと一回転して楽しくって笑った。
「まだ、蛹なのね。じゃあもっと、広い世界にいけるかな?」
「行けるよ、絶対。もっと楽しいとこにさ」
 理沙がぎゅうっと私の両手を握ってくる。まるで恋人繋ぎのように指を絡めてくるものだから少しおかしかった。
 彼女が私に聞く。
「羽化したら、何になりたい?」
羽化。あまり虫には詳しくないのだけれど、それなら。考えて、口を開く。
「蝶々、綺麗だから」
そう言うと、理沙は「アンタならなれるよ」と言った。
そしてそれから寂しそうに笑う。
「あたしはそんな綺麗なのにはなれないかな。きっと蛾がせいぜい」
「そ......」
 本当はそんなことはないって叫びたかった。理沙は一番綺麗だった。けれど、彼女の底の方には私がいくら言葉を尽くしたって埋まらない何かがあることも知っていた。だから、それを呑み込んで代わりに言った。
「......理沙ちゃんと一緒ならわたし、蛾でもいいよ」
 綺麗で可愛くて、格好いい、たったひとりの私の友達。






















 理沙との日々は長くは続かなかった。彼女の母親が再婚し、引っ越すことになったのだ。随分と急な別れで、碌にさよならも言えなかった。暫くは勉強も手につかず両親に随分と叱られた。次第に彼女は夢だったのかとさえ思った。
 順当に近くの国立大学に行って、順当に就職した。所謂ブラック企業、だったのだろうか。朝は六時に出勤し、夜帰れるのは早くて十時。無能は切り捨てると毎日怒鳴られ続け、同僚が入れ替わっていく中ただ黙々と働き続けた。ストレスの捌け口になってたまに手をあげられてもどうしていいのかなんて分からなかった。逃げていい、と言ってくれる人はいなかった。両親とは別居していたし、きっと一緒に暮らしていても、そうは言わなかっただろう。娘が会社を辞めたなんて外聞の悪いことを彼らは嫌うだろうから。あんなに楽しかった化粧も、マナーの為にするのはちっとも楽しくなかった。社会人になって何年経っても、彼女がしてくれたみたいには綺麗になれなかった。生まれ変わるための力をなくしてしまったから、余計に気が滅入っていく。
 やらなければならないことでいっぱいで、もうどうしたって何処にも動けなかった。きっともう限界だったのだ。殆ど死んでいるような日々。だからもう一度だけ、夢を見たのだろうか。
*
 深夜に帰路を歩いていた。歓楽街の近いそこは賑やかで、思わずふらふらとはいりたくなってしまいそうに明るかった。その横をただ歩いて、歩いて、目の前に赤いハイヒールの先が見えた。避けようと顔をあげて、固まった。振ってきた声が、私の名前を呼んだ。
「あれ、あやね?」
 綺麗な女の人だった。金髪を靡かせて、真っ赤なドレスを纏っていた。ルージュに彩られた唇の端があがる。へらりと笑ったその顔に、どうしようもなく見覚えがあった。
「......りさ」
「そーだよ。久しぶり、元気?」
 でもないか。
 そう言って笑った彼女は酷くやつれているように見えた。

「結局さ、上手くいかなかったんだわ、うちの親」
「そっか」
「父親はアタシに手出したのがバレてどっか行っちゃったし、母親にも追い出されてさあ」
 近くの壁に凭れかかって、少しの間ふたりで話をした。今は歓楽街でホステスとして働いているそうだった。あまりいい暮らしは出来ていないらしい。今なら分かるが、彼女の化粧品はあまり高級なものではない。髪も何度かの脱色で痛んでパサパサしている。
「アンタと一緒に居た頃がいちばん楽しかったよ」
 カチリ。鳴ったのは、彼女がライターを点ける音だった。煙草の銘柄には詳しくないが、かなり甘いバニラの匂いがその場に漂う。蛾が集まる街灯の下で煙草を吸う彼女は何となく様になっていた。
「いや~、人生っておもんないねぇ」
 乾いた笑いがその場に浸透していった。理沙も、行き場がないのだと気づく。あのワンルームを懐かしむような瞳に堪らなくなった。
 私の愛する人が平穏であれとずっと願ってきたのに、誰もそれを叶えてくれなかったのか。幸せとは何なのかいまだに分からないでいる。
 その時魔が差した。とっても甘やかで、ふわふわとした綿菓子みたいな思いつき。
 あの時私の手を取ってくれた彼女に、今度は私が手を伸ばせばいいんじゃないか。そして、手を繋いでどこまでも行けばいいんじゃないか、って。
「ねえ、理沙」
 口を開いた。理沙は断らないだろうという漠然とした確信があった。だから、微笑んだ。笑ったのはいつぶりだろう。

「私と一緒に――」

「......いいよ」
 ゆっくりと放った言葉に、彼女はややして頷いた。確信はあったけれど、その言葉に救われた気持ちになる。彼女は嬉しそうに笑っていた。ひと晩何円で売られるのだろうか分からぬ笑みを至上の宝石のようだと思った。


 もう疲れてしまったのだ。大人になれば自由になると思っていた。解放されると思っていた。あの日あの時彼女とワンルームで味わった以上のものを浴びられると思っていた。けれどそんなことなくて、ただずっと、汚泥の中にいるように息が詰まって。だからきっと、もう終わりにしてもいいはずだ。手を繋いでいる彼女がそれを与えてくれたように思えた。


「アンタ、ちっとも変わってないね」
「理沙だって変わってないよ」
「そぉ?」
 大きな隙間を埋めるように話しながら階段を登る。息が切れてしまって、まるで学校の屋上に行くときみたいだと二人で笑いながら休憩した。
「爪、いいね」
「ああ、ネイルサロンでしてもらったの。......アンタの爪も、綺麗よ」
「ありがとう」
 ずっとキーボードを叩いているから指先はぼろぼろだった。それでも理沙が優しく手を包んでそう言ってくれるものだから、自分の手が良いものに思える。
 階段を登り切ったらそこは開放感が溢れるところだった。空には月や星が燦燦と輝いていた。近頃はずっと、見上げることもなかったそれらが優しく背を押してくれている気がした。フェンスを乗り越えて、ふたりでビルの縁に座って少し黙った。

 理沙が隣にいて、その肩に身を寄せていられる今が永遠になるのは、きっととても甘美だ。下の方に見える真っ黒な地面だってちっとも怖くなかった。あの時くちづけをしてよかった。きっと鎖が、私のとこに理沙を連れてきてくれたんだ。

「理沙、ほんとにいいの?」
「うん。きっとこうなる運命だったんだよ」
 ゆらゆらと足を揺らす。綺麗なハイヒールを彼女は脱いでしまった。後ろには真っ赤な靴と、真っ黒な靴が仲良く並んでいる。彼女の赤いドレスの裾が風に靡いてふわふわと揺れていた。私も一度くらい、こんな服を着てみたかったな、なんて思う。飾りけのないグレーのパンツスーツは窮屈だった。けれどもうそんなこと全部どうでもよくなる。
 今から彼女とまた始まるんだ、と思うと心が浮足立ちさえした。何となくあの日の理沙のように尋ねてみる。
「ねぇ、羽化したら何になるだろうね、私たち」
 理沙がんー、と悩む素振りを見せてから答えた。
「天使になるんだよ、わたしらさ」
 へへ、と子供っぽく笑う彼女はやっぱり可愛くて綺麗で。てのひらを合わせて手を繋いで、向かい合って少し照れたように笑った。
















































朝の静謐な空気の中、彼女たちは発見された。それを見つけた者は恐怖と共に、その光景に息を呑んだ。
まるで羽の開いた蛾のように散った血の中心に、手を繋いだふたりの女が眠っていた。まるでそれは一枚の絵画だった。


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