手紙

白内十色



 私の友人曰く、近頃の高校生は侮れない。
  彼が駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいると、隣にカップルと思しき二人の高校生が座って、会話を始めたのだそうだ。盗み聞きしたところによると、彼らはこのようなことを話していた。
「僕たち、こうして話してるでしょ」
「あー、うん。話してるよね」
「でもさ、誰かがこの話を聞いてたとしてさ、それをまた別の人に話すとしてさ、」
「ふんふん。隣に座ってる人とかよね」
「そしたらさ、僕たちが本当に居たかどうかって分からないんじゃない?」
「うーん、どういうこと?」
「だってさ、隣の人はいくらでも嘘をつけるわけで、だったら僕たちのことなんて捏造し放題だよ」
「そだねー。本当かもしれないのと同じくらい、嘘かもしれなくなるよね」
「でもさー、僕たちこうして話してるわけじゃん。でもそれは聞いてる人には伝わらない」
「ちゃんと生きてるのにね」
「そしたらそしたら、その人にとって僕たちって、嘘かもしれない人間なんだよ」
「怖いね」
 その会話を耳にした友人はひどく満足して、よくできた高校生だと思ったのだそうだ。言葉が本当は信用できないことを彼らはよく分かっている、と。
  ところでその彼らはどうなったのか、と私が聞くと
「次振りむいたときには煙のように消えていた」
  と友人は答えた。
「そうかそんなこともあるだろう」
「そんなこともあるのだ。相手は高校生なのだから」
 私の友人は飄々としている。高校生とは、果たして懐かしい響きだ。国民の大部分がかつては高校生であったはずなのだが、誰も彼もそれを忘れてしまって、遠い物語の住人のように思っている。
  はて、この友人というのは誰だったか、というとこれまた思い出せない。どこで彼と話をしたのだったか。コーヒーを飲む友人も、飄々としたその話し方も、どうやら心当たりがないようだ。成る程、彼もまた消えてゆく人物だったのだろう。
  
  駅へと続く大通りを歩いていると、一枚の紙きれを拾った。十センチ四方のメモ帳のような紙で、こう書いてある。

『本日、綺麗な虹がかかります。いちばん高い塔の上から、海の方をごらんなさい。
                    少女より』

 虹と言われてふと空を見ても、雲一つない空の中で太陽が私を見下ろしている。天気予報も、今日は一日中快晴であると言っていた。雨の気配はないが、気持ちいい天気ではある。
  コンクリ作りの橋の欄干によりかかり紙片を眺めていると、背後から流れてきた空気の塊が、紙片を宙へと浮かせてしまった。つんのめるように手を伸ばした私の指の隙間をすり抜けて、紙片は川へと漂っていく。見る間に白い正方形は、川の乱反射と区別のつかぬ場所へ消えてしまう。
  川に手を振って、欄干から手を離す。特に何をするという日ではないので、今日は塔から景色を見ることにした。この辺りでいちばん高い塔、といえば駅から少し離れたところにある電波塔だろう。中に入れる作りになっていて、展望台もある。海がよく見えるいい場所だ。
  少女とは誰だろう、と思う。私に少女と呼ばれる知り合いはいないし、そもそもこれは道で拾ったものだ。けれど、差出人の分からない手紙に従うのも、悪くない。
 展望台は閑散として、私以外の人はいなかった。錆びかけた双眼鏡が窓の一角に据え付けられている。窓からさしてくる太陽光がフロアを明るく照らす。かつては深紅の高貴さを持っていたかもしれない、煤けたソファが四脚、散り散りに並んでいる。ここではかつて、カフェが開かれていた。若いころはよく来たものだが、カフェが無くなってからは訪れなくなっていた。
  海側の窓に寄り外を見ると、果たしてそこには虹がかかっている。視界の端から端まで渡るような、多色刷りのアーチ橋。青空に直接ペンキで描いたかのようにくっきりとして、さぞかし高名な芸術家の作品であろうと思えた。展望台の調度品も、この時ばかりはいくばくか色を取り戻していたのではないだろうか。
  しばしの間見とれていたが、ふいに私は我に返った。周囲に現実が戻ってゆく。雨は、降っていただろうか。私の服には一滴も水はついていないし、展望台のよく拭かれた窓ガラスにも雨の気配はない。
  塔を下りて、管理人に聞く。雨は、降っていたか。管理人も、降っていないと答える。外に出て、道行く人に聞いて回る。誰もが、降っていないと答える。水たまりもできていない。渇き煤けたアスファルトの色。
  思い立って虹を見たか、と聞いてみた。見ていない、と答える。海を包み込むような大きな虹がかかっていた、と言っても信じてもらえない。嘘をつくんじゃない、と言われる。嘘ではない。あれほど綺麗な虹だったのに。
  ふと空を見上げると、そこに虹はなくなっていた。嘘のように、消えている。そこにはただ、澄み渡る青空だけが広がっていた。
  
  駅前の喫茶店に立ち寄る。友人の話を思い出したからではないが、突然ここに来たくなった。ブレンドコーヒーをたのんで席に着くと、男女二人の若者が隣に腰かける。近くの高校の制服を着ているから、そこの生徒だろう。彼らもコーヒーをたのむと、おもむろに話し始めた。
「ねえ、過去の出来事って、本当は存在しないんじゃないかな?」
「どうしてどうして、そうおもったの?」
「だって、本当にあったってこと、誰も証明できないから」
「えー、今ここにいる私たちも、未来では証明できないの?」
「そうだよ。証拠なんていくらでも作れるし、伝聞も当てにならない。僕たちがいたことだって、死んでしまえば捏造できる」
「それは、そうだけどさー」
「僕たちに見えるのは今この場所のことだけ。それから先は、見えない」
「そうかなー? それなら、存在しててもいいと思うけどな」
「えー、どうして? 証明できないんだよ?」
「だってさ、結局分からないんだったら、存在してることにした方が楽しいじゃん。存在していないことも、証明できないよ」
「確かにね。じゃ、存在することにしちゃおうか」
「うん。見えないところがどうかなんて、私たちの認識しだいだよ」
 思わず私は振り返って彼らの方を見た。既視感のようなものが襲う。彼らは、存在しないのではなかったのか。かつて友人が語ったカップルの話と今隣に居る彼らは、まるで瓜二つだ。そう、私は確かに駅前の喫茶店にいる。
 飲みかけのコーヒーを机に置いて、彼らに話しかけようと思った。しかし、彼らの姿が消えている。少し目をそらした瞬間に、席を立ったのだろうか。ではどこか、と探してみても見当たらない。店内に人は少なく、彼らが紛れている様子もない。

  先ほどまで彼らが座っていた机に、一枚の紙が落ちている。正方形の白い紙だ。橋の下で拾ったものと同じような、十センチ四方の紙片。

『過去を、思い出して』

  短い、簡単な文章だ。過去を思い出せ。彼らは私に何を伝えようとしているのか。唐突に現れ、そのまま消えてゆく。彼らは何を示すのか。
  裏返すと、そこにも文字が書いてあった。少し驚く。以前に拾った紙は片面だけだったのだが。

『この紙を水に浮かべてください。鯉が泳ぎます。
                    少女より』

 マスターに水を一杯頼んで、その上にそっと紙を乗せる。紙は静かに溶けだして広がり、やがて集まって小さな五匹の鯉を形作った。赤と白の錦鯉や、黒々として大きなもの、黄みがかかって小さなものなど、色とりどりの鯉がガラスに包まれた水の中で泳いでいる。紙に混ざっていたのだろうか、木々に囲まれた湖にいるような、爽やかな香りも漂ってくる。
  鯉たちはしばらく円を描くように泳いだあと、一匹ずつ水面に潜っていってしまった。一つの鯉が沈むごとに、優雅な波が器に広がる。最後の一匹が沈んで水面の波紋が収まるまで、私は呆けたように動けなかった。透明感のある幻想的な光景は、私を魅了していた。
  帰宅し、シャワーを浴びて床に就くまで、私の中ではこの日に見た美しい光景が渦巻き続ける。まるで、その世界にこちらが取り込まれてしまったように。
  
 私は眠る。そして。
  気付けば私は黒い空間の中にいた。光のないひたすらな暗闇の中に、私は一人立っている。成る程これは夢なのだろう、と結論づけた。昨日は、紙片から生まれた幻想の光景が意識を占めて、何も手がつかなかった。良い夢が見られるだろうとは思ったが、果たしてこの空間はそのような夢だろうか。夢、というにはどうも意識がはっきりとしているようだ。
  背後から、暖かい塊を手渡された。手のひらに収まるような、赤紫の組織。瑞々しくさりとて動きはせず、断面から液体を滴らせるそれは、誰かの心臓だった。表面はゴムのように固くしなやかで、私の手の中で次第に温もりを失ってゆく。
  振り向くと、そこに友人が立っている。私に高校生の話をした友人だ。名を忘れたはずなのに、不思議と懐かしいような心持ちがする。全身を黒の服に包み、闇に溶け込むように佇んでいる。
「これは」
  と聞くと、友人は微笑んで言う。
「この世で最も美味な食事さ」
 手元を見下ろすと、そこにはやはり心臓がある。男のものというにはいささか小さいので、女性のものだろうか。器のようにした私の手には、心臓から流れ出した血液が溜まってゆく。
「成る程これを食べろと言う。悪趣味な夢もあったものだ」
 私が言うと、友人は眉をひそめて首を振る。
「君は、人を愛したことはあるかい」
 私は、ない、と答える。
「君はそう言ってしまう。ならば、この気持ちは分かるまい」
 友人は私の前に歩いてきて、私の手から心臓を取り上げ、ひとくち齧る。そのまま、ふたくち、みくち、硬い繊維を犬歯で噛みちぎって咀嚼する。ねばつくような口調で彼は私に語りかける。
「いいかい、愛とは受け入れることだ。その人の全てを飲み込むこと。光りも影も、余さず肯定して包み込むことだ」
 彼は見る間に心臓を食べ終え、最後に残った大動脈を口に入れて噛み砕く。
「これが本当の愛の形だ。服を取り払えども肌は残る。頭蓋の中を覗く術もこれまたない。彼女と僕はどこまでも異なり、包み込むことなどできはしない。ただ一つ、こうすることを除いては」
 友人の瞳に狂気を感じ、私は後ずさる。背中が壁に突き当たる。空間と同じ、漆黒の壁。友人が私に追いついて、私の広げた手に手を添える。私が律義に抱えていた血液が、私の口元に流し込まれる。
  唇から入り込む血液に、不思議とおぞましさはない。さらりと舌を伝い、甘美な香りとともに喉へと流れ落ちる。舌をくすぐる刺激が、脳を酔わせてゆく。
「愛を忘れたとは言わせない。どうやら君は、僕のことも忘れているようじゃないか。ならば僕は、何度でも君のもとに訪れる」
 友人の顔は、既に鼻が触れそうなほどまで近くにあり、私が血液を飲み干すのを見守っている。瞳孔もまた漆黒で、周囲の闇が全て友人の一部であるかのようだ。
「過去を忘れた君を、迎えに来た」
 友人の唇がゆっくりと動き、言葉を吐く。私は睨まれ、動けない。美酒の最後の一滴が喉を通り過ぎる。いつしか意識も空間に飲み込まれ、黒く染まってゆく。友人の姿が消えると思えば、閉じているのは私の瞼であった。
  意識が消え、そして目覚める。
  
  目を開き辺りを見回すと、部屋の中央にある黒机の上に、十センチ四方の紙片が置いてある。拾い上げてみても、何も書かれていない。仕方がないのでコップに水を用意し紙片を浮かべると、『丘の上へ』と浮かび上がる。
  私はもう、行くべき場所を理解している。服を着て、朝食を食べずに外に出る。電車も車も必要ない。私の通っていた高校の裏手にある些細な丘は、その高校の学生のひそかなたまり場になっており、当時の私もその例にもれなかった。
  私の、いや私たちのお気に入りの場所は、丘の中でも少し木々の開けた場所で、そこからは街が綺麗に見渡せるのだった。近くには小さな池があり、鯉が何匹か泳いでいる。私と彼女は、いつもその場所で遊んだものだった。今はいない彼女。
  これが、今まで私の忘れていた、最初で最後の恋だった。それとも、愛と呼ぶのだろうか。私は彼女を愛し、それは彼女も同様だった。
  高校は授業がある日なので、生徒の姿は見えない。踏み荒らされて獣道のようになった部分を通り、思い出の場所へ向かう。
  池には変わらず鯉が泳いでいる。少し、顔触れが変わっただろうか。減れば誰かが継ぎ足しているのかもしれない。木々のトンネルを抜けた先で、果たして彼らは待っていた。
  見覚えのある高校生の二人組だ。友人が語り、喫茶店で私の隣に座った、少年と少女。いや、もう記憶に嘘をつくことはやめにしよう。血液を飲みこむとともに、私は過去を思い出した。彼らはいわば、当時の私たちの残像だった。私が最も愛を持っていた時から一歩も年老いぬ姿で、彼らはここに居る。
「思い出したみたいだね」
 少年の方が口を開く。少年は次第に成長し黒い服を纏うと、夢で見た友人の姿になる。
「久しぶりだね、『僕』」
 と私が言うと、
「僕はずっと君を見ていたけどね」
 と友人が答える。
  友人が私の肩にもたれかかるようにすると、次第に私と友人の境界が曖昧になり、気付けば私たちは一つとなっていた。不思議な違和感とともに、本来の自分に立ち戻ったような感覚がある。はて、自分は「私」なのだろうか、「僕」なのだろうか。確かに言えることが一つだけ。私は彼女への愛を、取り戻した。
「また会えた」
 彼女が言う。私はあれから少し背が伸びたけれど、彼女は変わっていないようだ。少しかがんで、目の位置を合わせる。柔らかな白い肌にほんのりと施された化粧の香り。見つめると照れたように笑うところも、あの頃のままだ。
  彼女の腰に腕を回し、そっと抱きしめる。存在するのかしないのか、まるでそこで生きているかのように、彼女は温もりを伝えてくる。
「長く、会えなかった」
「すまない。愛を、忘れてしまった」
「でも、いま、ここにいる」
「ああ、愛している」
「私も」
 耳元どうしでささやきあう。彼女の声の波長が全身に共鳴し、心地よさを伝えている。きっと、彼女も同じなのだろう。私を掴む手に力がこもる。
「展望台のカフェのこと、覚えている?」
「さっき、思い出した」
「あそこで君が言ってくれた。私を食べたいって」
「大きな虹がかかっていた」
「私は嬉しかった。とても、嬉しかったの」
「なら、良かった。私も幸福だった」
 彼女は私の目を見て、泣きそうな顔で笑う。うるんだ瞳に、紅潮した頬。とても、綺麗だ。これまでに見た、どんなものよりも。
「だから今度は、私の番」
「ああ、分かっている」
 心臓の音を伝え合うように、ひときわ強い抱擁を交わす。どれくらいの間そうしていただろうか。彼女がそっと腕を離し、私の目を見る。私も目で答え、身体を傾けて彼女に首をさしだす。
 彼女のなめらかな唇が、私の首に触れる。唇の隙間から這い出た舌が動脈を舐める。彼女の牙が私に入り込み、私の身体は喜びで震える。私の一部が流れ出し、彼女に包み込まれてゆく。
  溶けてゆく思考の中で、私は確かに彼女と一つになった。どうして記憶を捨ててしまったのか。今、私は愛に追いつかれ、彼女のいる場所に戻ってきた。


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