不純

ビガレ



 ようやくミッションが終わった。
 私は、ここ最近、彼氏と過ごす時間のことを、自分の中で「ミッション」と呼んでいる。別にミッションというのは、彼氏と会うことが嫌だとか、そのたびにへとへとに疲れてしまうとか、そういうことを表しているわけではない。この場合のミッションとは、すなわち「禁煙」と言ってもいいかもしれない。
 私は、一年前から、いや、正確に言えば一年と二か月前から煙草を吸っている。きっかけは、その頃好きだったロックバンドのボーカルが煙草を吸っていたからという、些細でくだらないものだ。今となっては彼らのCDもグッズも全て捨ててしまい、私のもとに残ったものは自堕落な喫煙習慣だけとなってしまった。
 そして、私は彼氏に煙草を吸っていることを隠し続けている。彼氏は、私とは違い、実に健康的な生活を送る好青年である。一度だけ、賭けるような祈るような気持ちで煙草を吸う人をどう思うか聞いてみたところ、
「別にどうも思わないよ。煙草を吸うかどうかは、その人の人格を判断する材料にはなり得ないでしょ?」
という、私が好きな彼の優しさを詰めたような返答をしたあと、「ただ、煙草を吸うに至った背景がどんなものかによっては、その人を僕とは合わない人だと思ってしまうかもしれないけどね」と付け加えた。
 歌詞のついた曲よりもクラシックを好む彼に、「ロックバンドの追っかけをしていたらいつの間にか煙草を吸ってました」なんて言ったらどうなるのか。きっと彼のことだから、一度は笑って受け止めてくれるだろうけど、心の中で「合わない人」と思われるのかもしれないと想像しただけで、真っ暗な部屋に置き去りにされたような気持ちになる。
 何度も打ち明けることを考えたけど、やっぱり今の関係を崩す(可能性を生む)くらいなら、と、結局言えずじまいの状態をずるずる引きずっている。
 つまり、彼氏と一緒に過ごす時間とは、私から煙草という存在を生活の最も遠いところに置いておかなければならない時間ということになり、私に禁煙というミッションを課す時間でもあるということになる。

 アパートの部屋で半日過ごし、帰っていった彼氏を玄関で見送ったあと、私はその場にへたり込んだ。ニコチンの含まれていない空気を深く吸い、物足りなさを感じながら吐く。それを数回繰り返し、リビングに戻る。ソファの二つのへこみが、お気に入りのおもちゃを奪われたような感覚を思い起こさせる。寂しいな。自然と心の中でつぶやく。その寂しさを埋めるように、キッチンの換気扇の下で、私は煙草を吸う。
 白い色のついた吐息が、私の感情や考えすぎな性格をフラットにしてくれる。ような気がする。この感覚が刹那的なことくらい、とっくに気付いている。その持続時間が徐々に短くなっていることにも。
 誰に向けられているのか分からないニュースが、テレビから垂れ流されている。未成年の犯罪についてキャスターやコメンテーターが議論を交わしていた。こんなものを成人済みの大人たちが話したところで、どうせ当事者の未成年は聞く耳などもたない。むしろ、彼らはこういう賢いふりをした大人たちを嫌悪して、社会からそっぽ向こうとしているのではないか。私は煙草を指に挟んだまま、うるさいテレビの電源を落とした。
 何も音がしなくなった部屋に、私の携帯から軽快な電子音が鳴る。彼氏からのラインだった。画面には、
「ごめん、忘れ物しちゃった。鳥に戻るね」
と表示されていた。「取りに」を「鳥に」と誤字していることは微笑ましいが、内容は穏やかではない。
 今から彼氏がこの部屋に戻ってくる。まずいことに、既に私は煙草を吸い始めてしまっている。換気扇の下でだけならまだ良かったが、煙草を持ちながらリビングまで来てしまった。煙の臭いは、既に彼氏に煙たがられるほどには部屋に充満してしまっているだろう。このままでは、私が喫煙者であることがバレてしまう。
 いや待て。先に彼氏の忘れ物が何なのかを聞いておいて、それを彼がここに戻ってくるまでに見つけ出しておけば、部屋に入ることなく彼を帰すことができるのではないか。我ながら名案だ。早速ラインで彼の忘れ物の内容を聞き、返信を待つ。一分もしないうちにメッセージは返ってきた。
「いや、恥ずかしいから自分で探す笑」
 何だ。大の大人の男が恥ずかしがる忘れ物って。ご機嫌に笑っている場合ではない。こっちは緊急事態なのだ。
 こうなったら、部屋の臭いを消すことに専心するしかない。
 私は、物置から消臭スプレーを取り出し、中身が空にならんとする勢いで部屋中に振りまいた。これだけでは足らないかもしれないと思い、今度は自分の部屋に眠っていたコロンも出動させ、煙の臭いを抹消しようとする。いつかの誕生日に友達からもらったこのコロンも、まさかただの臭い消しとして活躍することになろうとは思いもしなかっただろう。
 できる限りの消臭活動を済ませた私は、一旦玄関に戻り、リビングに入る。なるべく客観的に部屋の臭いを判断するためである。すんすんと鼻を鳴らす。
 多分、多分大丈夫だろう。私の嗅覚が既にニコチンにやられていて、煙草の臭いに鈍感になっている可能性もなくはないが、私の鼻は臭いだけで彼氏のおならを嗅ぎ分けることができる。とりあえずの信頼は置けるだろう。
 再び私の携帯が鳴る。彼からのラインだ。
「今交差点の前! もうすぐ着くね!」
 忘れ物を取りに戻る人とは思えない、天真爛漫なテンションである。彼の言う交差点とは、ここから徒歩で三分もかからない、コンビニが対角線上に二つもある、あの交差点だろう。となると、彼は三分以内に部屋へ到着するということになる。
 私は改めて部屋を見渡す。やはり彼氏のものと思われるものは見当たらない。煙草の臭いも恐らく消えている。私は、心臓の動きを落ち着かせるように、深呼吸をした。さっきのような物足りなさは感じない。
 よし、これで最大限の努力は施した。あとは彼氏の襲来を待つのみだ。まるで道場破りの挑戦者を待つ空手師範代のような心持ちで、玄関に仁王立ちをする。
 ブー。
 一分ほど待ったあと、玄関のベルが鳴った。まるで今までの私の必死の行動を不正解と決めつけるような音に聞こえたが、絶対にそんなことはないはず、と頭の中でイメージをかき消す。
 私は、ゆっくりと、ドアを開ける。目の前には、少し息を切らした様子の彼氏が立っていた。走って道を引き返してきてくれたのだろうか。不意な彼氏の優しさに張り詰めた気が緩む。
「ごめん、また今度遊びに来たときに持って帰ろうかとも思ったんだけど。あんまり家に置きっぱなしにしていいものじゃなかったから」
 一体何なんだ。その、恥ずかしくて、私の家に置きっぱなしにしてはいけない忘れ物って。全然いいよ、と愛想笑いして、とりあえず彼氏を家にあげる。
 気づかれないようにまた鼻を鳴らし、煙草の臭いがしないか確認する。
 ここで、私は重大なミスに気付いてしまった。部屋の臭いに気を使いすぎるあまり、自分自身のことを全く気にかけていなかったのだ。つまり、私についてしまっている煙草の臭いを消すことを考えていなかったということである。ふと、灯台下暗しということわざを思い出す。これまでは意味を聞いてもよく分かっていなかったが、今は身に染みて理解できる。
「少しだけ、お邪魔します」
 ドアを開けている私のそばを通ろうとする彼氏から、急いで身をのけぞらせる。一瞬不思議そうな顔をする彼氏の後ろで、私の腕の支えを失ったドアが豪快な音を立てて閉まる。
「どうしたの? 大丈夫?」と言って、彼氏が私の顔を覗き込むが、私は、大丈夫、と言って、早く早く、と探しを催促した。
 彼氏が先にリビングに入ったのを見計らい、シャツの胸元の部分をつまんで鼻に押し付ける。
 くさい。
 数年着続けている私のTシャツには、明らかに煙草独特のあの臭いが染みついている。乗り越えなければならない壁が増えたことに怯む一方、私はほんの少しほっともしていた。このシャツがくさいのが分かる、ということは、部屋の臭いについての判断は正常にできていたということだ。
「あれ? ここに置いてたと思ったんだけど」
 廊下とリビングを隔てるドアの向こう側で、彼氏が間抜けっぽい声で叫んでいる。
 私は掛けてあったカーディガンをとっさに羽織って、彼のもとへ向かう。焼石に水だろうが、無いよりはましなはずだ。
 彼は、ソファのクッションをめくったり机の下を覗き込んだりして、部屋を縦横無尽に歩き回っている。こちらとしては、そんなに動き回られては臭いの異変に気付かれそうで、肝が冷える。
 しかし、立ちぼうけで探し物が見つかるはずもないので、早く彼に帰ってもらうためにも、私も忘れ物探しに参加した。
 改めて何を忘れたのか尋ねても、彼は耳を赤くしてはぐらかすばかりで答えようとしない。
 ここで、彼氏が何かに気づいたように顔を上げる。
「ん? 何か、変な臭いしない?」
 耳から入り込んだその言葉によって、私の体中の筋肉は一切の動きを止めた。その代わり心臓は勢い余って口から飛び出るかと思うほど強く跳ねている。
 視界の端で彼がすんすんと臭いを嗅ぐ動作をしているのが何となく確認できる。
 やばい。勘付かれてしまったか。臭いの発生源は何だ。やはりこのTシャツか。それとも部屋の壁にじっとり染みついてしまったヤニか。考えたところで無意味だ。それよりも次に打つべき手を案じなくては。必死で平静を装うことに努めるが、どうにもこうにも脳が追いつかない。とりあえず、彼氏の動きだけは捉えなくては。かろうじて動いた眼球を右に動かす。するとそこには、私の方に近づく彼の姿があった。嘘でしょ。
 いや待て、待て。私は煙草臭いんだぞ。私のこの臭いに、あんたに一番気付いてほしくないんだぞ。こんなことなら、煙草なんて吸わなきゃよかった。あんなロックバンド、好きにならなきゃよかった。そんなことを走馬灯のように考えているうちに、彼氏と私との距離はどんどん近づいていく。ソファに押し倒されるような形になり、私は、ゆっくりと死を覚悟する。ああ、嫌われる。
 私が大きく唾を飲み込んだとき、彼氏が小さく呟いた。
「あった」
 あった? 何が?
 縄の結び目のように固く閉じていた瞼を恐る恐る開けると、彼氏は右手に見覚えのある四角い物体を持っていた。
「忘れ物、煙草。ソファの隙間に挟まってた」
 彼氏は左手の人差し指で鼻を掻いている。私は何が何だか分からない。煙草? 彼の? 私のじゃなくて?
「俺、実は少し前から煙草吸い始めて」
 どういうことだ。私があれだけ恐れていた、彼と煙草との接触が、とっくに行われていたというのか。
 私が彼氏に理由を尋ねると、彼氏はあっけらかんと「何となく」と答えた。何となく煙草を吸う人なんて、彼と最も合わないだろう存在なのに、どういう理屈なのか。
「でも、彼女からしたら、煙草吸ってる彼氏って、あまり印象は良くないだろうと思って。そう考えたら、言うに言い出せなくて」
  彼氏は終始俯き加減で話している。しかし、そこに悲観的な色はない。むしろ、これを機に打ち明けることができてスッキリしたというような面持ちだ。いやいや、こっちは全然スッキリできていない。私の今までの苦労は、いったい何だったのかと、肩の力ががくっと抜ける。
 さらに、彼は何か思いだしたように言葉を次いだ。
「あと、職業柄言いにくいってこともあるし」

「じゃあ、また学校で」
 私は、本日二度目の見送りを終え、先ほどと同じように床にへたり込む。今度こそ、ミッションを終えたと呼ぶにふさわしい。
 彼が喫煙者であることが発覚した後、私はざわつく心の中で、自分も喫煙者であることを打ち明けるかどうかをずっと悩んでいた。胸中に溜めていた思いを吐露して気持ちよくなっている彼の姿を見て、羨ましいとも思った。
 しかし、やはり言うのはやめにした。私はこれからも彼氏に煙草を吸っていることをひた隠しにし、自分自身にミッションを与え続けるのだ。
 何故なら、彼は大人。私は未成年。そして、彼は教師。私は生徒だからだ。



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