桜散るころ

紫苑ミリ



 お花見と、答えたから。
 
「どうしてその人と付き合うことにしたの。彼氏なんていらないってずっと言ってたのに」
 恋人ができたと告げると、きまって聞かれた。彼の見た目が、あまりぱっとしないのもあったからかもしれない。いや、年齢が二十歳も違うからか。あるいは、その両方。とにかく、幾度となく繰り返されたその質問の答えは、誰もが首をかしげるものだった。
「お花見と、答えたから。」


 私を好きと言う人に、問うことはひとつだけ。
「私とどこに行きたいか」。
 誰もが、名の知れたバーや夜景の見えるレストランを挙げる。それを聞くたびに私は彼らの「好き」がアクセサリーに対するのと同じくらいに過ぎないことを理解するのだった。自分の見た目が、並みより上であることは経験として自覚していた。そんな私を連れて歩くことが、彼らのステータスになり得るということも。
 これが俺の女だ、俺はこいつを手に入れられるくらい、強いんだ。
 そんな風に、周りに自分の力を誇示するための道具。

 口先の好意とは裏腹に、みんな、私と会おうとするのは夜だけだった。オレンジ色の暗い照明の中に私を閉じ込めようとする。そのあとの行先も、みんな同じ。
 正直、うんざりしていた。私というよりも、女であるこの入れ物だけに価値があるのだと、思わずにはいられなかった。


「葵さんの頭のいいところが好き。努力家で、誠実で。選ぶ言葉に品がある所も。」
 もちろん顔も身体も、声も。あなたの全てが好きです。
 照れたように付け足して、正治はこちらに向き直った。

 実のところ、容姿を褒められるのは慣れていた。むしろ褒められない方が異質、そう思うほどに。こんなことを友達に言えば罵られてしまうだろうが、決してそれは喜ばしい理由からではなかった。
 ただ、興味がないから。私の外見以外の全てに。そして、容姿を褒めて、その気にさせるため。彼らが必要なのは私の中身ではないから、知ろうともしない。手っ取り早く肉欲を満たすために、口から滑り落ちただけの言葉だった。
 脳ではなく下心から伝達された「かわいい」など、いくら重ねたところで何の厚みもない。
 だけど。
 「頭の良いところが好き」と言われるのは、初めてだった。「小賢しい。お前は、黙って抱かれてたらいいんだよ」と言われたことはあったけれど。
 この人なら、もしかして。

「私と、どこに行きたいですか」

 淡い期待を込めて、聞く。
 少し考えて彼は大まじめに答えた。

「お花見。」

 瞬間、火が付いたように笑いだした私を、後に彼が「答えを間違えたのかと不安だった」と語った通り、不安そうに見つめていた。
 その逆、大正解だった。
 私と、春の光の下で過ごしたいと。
 そんなことを言う人は初めてで、私はその健全な響きがすっかり気に入ってしまった。
「ねえ、正治さん。お付き合いしましょうか。」


 それが私たちの始まり。
 数秒の空白の後、破顔した彼の頬に軽く口づけた。
 健全な言葉から始まる健全なお付き合いは、三度目のデートまでまるっきりクリーンだった。
 誰も私自身には興味がないと、求められているのは私の女性性だけだと、本気で思っていた。実際、深夜に呼び出されて、早朝には返されるなんてことも、度々あった。うんざりはしていたけど、自分はその程度の人間なのだと諦めてもいた。
 自分がいかにひどい扱いをされてきていたか、ということは、大切にされて初めて分かるものなのだ。
 正治さんは私の全てが好きだと言う。ともに歩く、手に触れる、それだけでこれ以上の幸せはないと。
 午後七時までに家に送り届けられるなんてことが私の人生に起こるとは。
「名残惜しいな」
 この人をもっと知りたいと、思った。この人ともっと話したい、もっとそばにいてほしい。
「正治さん、お茶でも飲んでいきませんか」
 そのお誘いに彼が喜んだのは言うまでもなく、私は久しぶりに家に人を招き入れていた。
 ベッドと収納があるだけの殺風景な部屋。床に座ろうとする正治を、ベッドに促す。
「葵さんが望むなら、俺はプラトニックでも構わない」
 お付き合いを始めた日、彼はそう言った。その提案は、ただ身体だけを求められてきた私を包んでくれた。
 だけど、今。この関係を先に進めたいと思った。誰かに強制されたわけではなく、自分で、正治さんと次に進みたいと。
「ずっとこうしてくっつきたかったんです」
 寄りかかって、正治の手を取る。少し湿った手の平と自分のを重ねる。桜の開花時期にはまだ早く、今日は近場の観光地を回ってきたのだった。顔を上げると、どちらともなく口づける。いまだに正治さんは、たったそれだけのことで信じられないくらい喜ぶ。私が彼女ということも、まだ夢かなにかのように思っているらしい。
 いいかげん、慣れてください。私は正治さんの彼女なんだから。
 そんな言葉にも、いちいち喜ぶ。
 溺愛されている自覚はあった。ひどく大切にされている自覚も。それは私にとってまるっきり初めての感覚だったが、とても快いものだった。
 この人は私のことを大好きなのだと、理解したうえでの恋愛。
 私の紡ぐ言葉、そして一挙一動が彼の心を動かす。
 唇を少し開いた。遠慮がちな舌が分け入ってくる。ゆっくりと頬をなぞり、首を引き寄せる。熱を増した口腔と、腰のあたりをさまよう手。
 その手が背中から胸に移りかけて、ふいに止まった。私に手を出すこと、そして、自分がした提案を違えることを、躊躇しているのだろう。
 でも、今さらためらいなんていらない。お互いの芯が火照っていることなど、とうに気づいているのだから。
「さわって」
 耳元で囁かれる甘言に、正治の喉がこくりと鳴った。


 あの夜から三か月。私は辟易していた。あれから、会うたびに求められることに。そしてそれが一度では飽き足らず、二回戦、三回戦と続いていくことに。
 相手の熱情を感じるとすぐにその気になってしまう私が悪いのかもしれない。決して断らないから。
 だけどそれでも、私の頭が良いところが好き、と言ってくれた人との会話が減り、身体をまさぐられる時間ばかりが増えていくことは、ただ悲しい。
 確かに、男性を喜ばせることはできる。それだけが私の取り柄で、存在価値だったから。
 そして回数を増すごとに彼の形に馴染んでいく身体と、どんどんあふれていく蜜は、彼を絡めて離さない。それは私の意思ではなかったが、同時に自分ではどうにもならないことだった。
「君が悪いんじゃないか」
 彼は言う。私の誘うような顔が、闇の中に柔らかく発光する肌が、肉が、香りが、悪いのだと。
 今まで幾度となく言われてきた言葉だ。
 何度車両を変えようと、時間をずらそうと、新たに沸いて出る痴漢が。友達だと思っていた男が。信頼していた先生が。人気のないところで襲ってきた見ず知らずの男が。
 揃いも揃って口にする言葉。「君が刺激するのが悪い」。
 私はどうも、ただ生きているだけで男性を刺激してしまうらしい。自嘲気味に笑った。

 正治さんはそんな男たちとは違うと、思っていたのに。

 立ち上がった途端、透明になった精液が足を伝った。

 いつの間にか拭かれることもなくなったそれを一瞥する。ため息をついて、シャワーを浴びた。

 この顔も身体も、男性を喜ばせるためだけの道具ではなかったはずなのに。自分でもそうだと言い切ることが出来なくなっていた。要求を突っぱねることも。
 どうしようもない感情をぶつけるように、桜色の斑点がいくつも浮かぶ白い皮膚を、強く擦った。


 結局、花見にはまだ行っていない。
 二人で会うのはいつだって暗い部屋の中。彼が見ているのはこの桜色の斑点だけ。
 私が見ているものは。

 私が見ているものは、いったい何だろう。気づけば正治さんの顔も、おぼろげにしか描けなくなっていた。目の前にいるはずなのに、もうずっと顔を見ていないような気がした。

 流したままのテレビから、明日から続く長雨を予報する声がする。桜はきっと、散りきってしまうのだろう。


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