箱庭とココア

沢井畔・蒼空夕・走ル高麗人参・葦夜るま


沢井畔→蒼空夕→走ル高麗人参→葦夜るま
 
 労力なしに楽しめたらいいのに、と思う。
 実際、作り終わってしまえば楽しいものだとは、私も思う。けれど、毎年、二月十三日から十四日の深夜にかけて、私は焦燥に駆られ続けている。
 学校の部活、クラス、あと家族。今年手作りしなければならないバレンタインのチョコレートは、二十一個だ。

「毎度毎度、ギリギリで間に合うんやから感心するわ」
 リビングの方から、兄の嫌味が聞こえてきた。キッチンからそちらに目を向ければ、パソコンから目を離さず、マグカップを呷っている。
「そう言うなら手伝えや、どうせ夜更かしするんなら」
 今年作ることにしたのは、カップケーキだ。一人一個。中身はもう完成しているのだが、クリームでのデコレーションに苦戦していて、まだラッピングもしなくてはいけない。
 正直、デコレーションをしなくてもよかったな、と後で思ったけれど、三分の一ほどの個数に装飾を終えたあたりで気付いたので、今更どうすることもできないのだった。
「時間無いなら、そのごてごて要らんやろ」
 今、まさに考えていたことを言われて苛ついたので、無視することにした。

「お、終わった」
 包装済みのチョコレートを紙袋に詰め込み、脱力する。
 机の上に顎を乗せながら、キッチンに置いてある、家族の分と余りの中から一つを手に取った兄に気付いた。
 深夜にも関わらず、兄は躊躇なくそれに齧りつく。
 不健康ではあるけれど、細身なので気にしなくてもいいだろう。私は黙って感想を待つことにした。しかし、いつまで経っても兄は口を開かない。
「なんか言えや」
 すると、いつの間に淹れたのか、ココアの入った私のマグカップを片手に、兄がこちらに近づいてくる。
「ええんとちゃう。まずくはない」
 例年通りの評価を頂けて、一息吐く。今更、もっと上手い言い方をしろ、なんて思うこともない。
 温かいココアを啜ると、ココアの粉と牛乳に加え、砂糖も溶けているだろう甘ったるさ。
きちんと、甘党の私に合わせられた味がした。

 翌朝。まだ完全に覚醒していない体に鞭を打ち、キッチンへ向かう。兄はすでに朝食を食べ終え、昨晩と同じようにパソコンに向かっていた。
「おはよう、寝坊助」
「やかましいわ」
 いつものように軽口を叩きながら朝食の準備をする。戸棚から食パンを取り、袋から出す。トースターにセットしたところで兄が隣にいることに気付いた。私のマグカップを手にしている。
「何しとるん? 自分でやるからええよ」
「どうせ時間無いんやろ、俺がやるわ」
 昨日遅かったし、と付け加える兄は牛乳を温めている。どうやら昨晩と同じココアを作っているようだ。
「今日優しいやん、何か気色悪」
「アホ。そんなこと言うてる暇あったらはよ顔洗え」
 マグカップから一切視線を離すことなくそう言う。はーい、と間延びした返事をして、私は洗面所に向かった。
 踵を返す直前、兄の口元が弧を描いたような気がした。

 教科書も文具も入れた。あと、今日一番大事なカップケーキも持った。よし。
「行ってきまーす」
 兄にそう告げ、ドアノブに手を掛ける。今日も授業かめんどくさいなあ、なんて思いながら一歩を踏み出した。――はずだった。
「え......? な、何やこれ......」
 玄関先に置かれていたものが目に飛び込んでくる。私の思考を妨げるには十分だった。
 片膝を付き、恐る恐る置かれているそれに手を伸ばす。
「は、花束......?」
 一般的なものと比べるとやや小ぶりだが、花束と呼んで遜色ないほど立派なものだった。色とりどりの花が淡いピンク色の包み紙を纏っている。普通、この類のものは人をときめかせるのであろうが、今の私にとっては恐怖の対象でしかない。どうしてこんなものが......。
「どないした? はよ学校行かんと遅刻するで」
 いつまでたってもドアを閉めない私を不審に思ったのか、兄が顔を覗かせた。私が手にしている花束を見て微かに顔を顰めた。
「......気色悪いプレゼントやな。俺が片しとくから行き」
 そう言って私から花束をひったくるようにして取る。いつの間にか落としていたカップケーキの入った紙袋を私に持ち直させ、兄は私を送り出した。

 ......あれ? 何で花束が私へのプレゼントやって分かったんやろ?
 妹を見送ってから、俺は花束に視線を戻した。足早にリビングに戻り、飲みかけだったコーヒーを飲み干して、花束を三百六十度眺めまわす。やっぱりそうだ。包み紙よりは濃いピンク色のリボン、その結び目あたりに、白い小さなメッセージカード。同じだ、何もかも。俺はこの花束を知っている。この花束が全ての始まりだった。

「おはよう、今日早いやん。槍でも降るんとちゃう」
「お前の頭上だけな。バレンタインのお返し貰いに早よ学校行かなあかんの。うちの担任、教室来るん早過ぎやねん」
「あー、先生そういうの異様に厳しいもんな。でも、お前がチョコ配ったのって女子ばっかりやろ?」
「そうやけど、バレンタインは都合悪いから、ホワイトデーにお返しするって子が居ってん。その子がフォンダンショコラ作ってくれたらしくて、授業始まる前に食べよってことになったんや」
「貰ってすぐ食べるんかい。食い意地張っとるな」
「私だけやないし。その子パティシエ目指しとるから、その場で感想聞きたいんやって」
 去年のホワイトデーだった。珍しく妹が早起きしていて、そんな話をした。それから妹を見送って、外に出たついでに玄関先でタバコを吸い始めた。そこで、うちの庭をのぞき込んでいる女の子を見つけたんだ。妹と同じ制服だったから、妹の友達かと思って声をかけた。
「リカならもう学校行ったで」
 女の子は驚いたように俺のほうを見た。ちょうど対面する形になり、女の子が少し大きめの保冷バッグを左肘に引っ掛けて、両手で花束を持っているのが分かった。そう、これが初めてあの花束を見た瞬間だった。
「リカちゃんのお兄さんですか?」
「そうやけど」
「えっと、コレをリカちゃんに渡してくれませんか?」
 女の子は、両手で花束を突き出してきた。何故リカに花束を? 学校で直接渡せばよいのでは? 訊きたいことはいろいろあったが、花束を差し出した状態で固まってしまった女の子に、急かされるように花束を受け取った。
「ありがとうございます。あ、よかったらお兄さんもどうぞ。作り過ぎちゃって......」
 女の子は、保冷バッグから個包装のクリームでデコレーションされたカップケーキらしきものを取り出した。ああ、確か妹がフォンダンショコラ貰うって言ってたな。
「これ、フォンダンショコラってやつ? リカがめっちゃ楽しみにしとったで」
「そうなんですか。嬉しいです」
 心の底から幸せそうな、そんな笑顔だった。
 被検体5550 花戸リカ。投薬過程、異常なし。
 もう提出する先もないのに報告書を書き続けるのは研究者のサガだろうか。
「はぁ、ホンマ暇やんなぁ」
 誰もいない家で一人呟いた。リカは先ほど学校に行ってしまったし、帰ってくるのはまだ先だろう。家の外からも内からも、自分が立てる音以外何の音もしない。まるで世界に自分だけが取り残されたような。いや、実際そんなようなものだ。
 二〇一九年二月十四日、政府は極めて危険な人造ウイルスが流出したと発表した。瞬く間に世界中に広がったそのウイルスは、人を簡単に死に至らしめる力を持っていた。感染から約二日でほとんどの人間は死ぬ。運良く適性を持っている人間もいるが、それはおよそ百万人に一人と言われた。というわけで、現在地球上に存在する人間は一万人にも満たない。いや、たとえ生き残れたとしても周りの人間はほぼ死んでいる訳で、常人が耐えられるものではない。それを考慮すれば、恐らくもっと少ない。机の端に置いた瓶を何気なく見つめて声をあげた。
「あ、あとこんだけしかないんか」
 薬が少なくなっている。明日はまた施設に薬を取りにいかなければ。リカが楽しく生きられるための薬を。
 
 目の前でたくさんの人が死んで、普通に生きていただけのリカはめちゃくちゃになってしまった。
『お兄ちゃん、わたしもうしにたい』
 そう言って泣いたリカの顔が脳裏に焼きついている。それを許さないと怒鳴ったことも。でも結局、リカはどんどんおかしくなって、だから、仕方なかったんや。
 施設で開発していた麻薬のような代物。本人の望む夢を見ることが出来る、金持ち共に売りつける予定だった薬をリカに飲ませた。ココアでも作ってやると言って、与えるのは簡単だ。一日一回、それだけでリカは何も苦しまず生きていける。少なくとも備蓄が尽きるまでは。
 リカが耐性があると知り、自分はすぐに特効薬を飲んだ。ないとされているそれを何故持っていたか、答えは簡単で。バイオテロに使用するはずのウイルスを作っていたのは他でもない自分の所属する研究所だったというだけ。効果を弱める前に馬鹿が流出させてしまったのは誤算だったが。ともかく、夢を見続けるリカは、最後のバレンタインがよほど印象に残っていたらしい。リカへの花束を受け取った直後、ウイルスの流出が明らかになったせいで、花束のことは自分もよく覚えている。
「ハッピーバレンタイン、リカ」
 リカから受け取った、枯れて朽ちた花束を眺め、今年何度目かのバレンタインを祝った。


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