白百合の記憶

霧立昇



名もなき市民

 あれを見ろ、あの裏切り者どもを乗せた馬車を。万死に値する罪人どもを。
 奴らはオーストリアへ逃げる気だったのだ、俺たちを皆殺しにしてもう一度地上の神などとうそぶき、この国に君臨するために。
 しかし俺たちは二度と王権神授説などという戯言には騙されない。革命派の絵入り新聞やパンフレットが俺たちの目を覚ましてくれた。曰く、国王ルイは豚のように食うことしか頭にない無能。王妃は底なしに欲深く淫蕩なオーストリアの雌豚だ。ああ、考えただけで吐き気がする。俺たちはそんな奴らを国父、国母として崇め、奴らの愚かしい道楽のために苦しめられ続けてきたとは!
 だがそんな時代も遂に俺たちの代で終わる。これからは俺たちが選んだ代表がこの国を治め、導いていくのだ。この日は、バスティーユ牢獄襲撃の日と並んで俺たちの勝利の日として語り継がれていくだろう。悪辣な暴君と貴族どもから人間の尊厳を奪い返した日として。
 
ラファイエット
 
 遂に国王夫妻がこのパリに戻ってきた。いや、私たちが連れ戻したと言うべきか。
 国王夫妻がチュルイリー宮殿から姿を消したと早朝に知らせを聞いた時、私の胸を占めたのは驚きではなく大きな失望だった。これで、私が提唱してきた立憲君主制への移行はありえなくなった。国王が己の治める国から逃げるなど、背信以外の何物でもない。そんな王を戴きたいと思う国民がいるものか。
 私は宮殿に近づいてくる馬車を窓から見つめた。道は国王夫妻をこの目で見てやろうという民衆でごった返しているが、もはや国王が帰還したことの歓声も、国を裏切った王への罵詈雑言もない。私がパリ市民に通達させたからだ。「王に敬意を表する者は鞭打ち刑、王を侮辱するものは絞首刑」と。こうしなければ暴動は避けられなかっただろう。その代わりに今のパリは憎悪のこもった沈黙に包まれている。私はもうすぐこの沈黙の中で陛下を迎えなければならない。
 思わず苦笑が漏れる。遂に私の陛下への忠義は伝わることはなかった。国王の監視をもっと厳重にしろという国民議会の要請に、私は国王の亡命などありえないと請け負ってきた。そもそも亡命するならもっと以前からチャンスはあったのだ。それをしなかったのは、陛下の国王としての誇りが、国を見捨てるなどという選択肢を選ばせなかったからだろうと信じていた。そして、いずれは立憲君主制への移行に耳を貸してくださるだろうとも。
 陛下は、本当に理解されておられなかったのか。アメリカ合衆国が成立し、人権思想が民衆にまで広がった今の時代に純粋な絶対王政など存続はできないということを。
 こうなってしまった今、私にできることは革命の熱を無理矢理にでも抑えることしかあるまい。たとえそれで民衆の憎しみを買うこととなろうとも。
 
ルイ十六世
 
 私の人生とは何だったのだろうか。死んだ兄の代わりとして玉座に据えられ、陰では愚鈍な王と嘲弄され、今は民衆の憎悪を浴びながらパリに連れ戻されている。
 分かってはいたのだ。逃亡するのであれば、もっと早く決断すべきだったということを。忘れもしない十月五日、ヴェルサイユ宮殿を暴徒たちに取り囲まれ、あろうことか王妃の寝室を襲撃されたあの直後に、とにかく宮殿から出るだけ出て、まだ王党派の勢力の強い地域に避難できていれば、局面は変わっていたかもしれない。しかし私はその機会を逃した。王妃も、臣下たちもどれほど苛立っていたことだろう。
 結局私は信じたかったのだ。国民の、私への愛を。王家への国民の敬意を。かつての敵国だった王妃を憎む浅はかな者はいたとしても、国父たる私を本気で憎み殺したいと考える者などごく少数だと考えていた。
 そうでなければあまりにも惨めだったのだ。貴族たちが求めたのは誰よりも尊大で、優雅な王だった。しかし私にそれを演じ切るだけの力はなく、そんな私を貴族たちは上辺だけの忠義を見せ、陰で嘲笑っていた。だからせめて貴族ではなく国民に愛される「国父」のまま死にたかった。
 王妃とそのお気に入りのフェルゼンが言っていたように、亡命した先で連合軍を作り、フランスに攻め込むなどという気は毛頭なかった。フランス国王が、なぜ国民に銃を向けられる? 逃亡はオーストリア国境近くのモンメディまで。そこで王党派を募り、新憲法を発布して王権を守るつもりだった。
 だが、もう私の言葉に耳を貸す者はいないだろう。国民の愛を望みながら、ここを逃げたいと言う家族の望みも叶えたいと思ってしまった、こんな優柔不断な王の言葉など。この首は暴徒たちの槍の穂先で揺れるのだろうか?
 ああ、神よ。せめて我が血と引き換えに、王冠が息子へと渡りますように。
 
マリー・アントワネット

 もう全てが終わった。旅は終わり、最後に残った希望も潰えた。
 それでも、これは必然だったのかもしれない。私たちの内の誰一人、「逃げる」ということを本当の意味で理解できていた人間はいなかったのではないか。
「ラファイエット候は必ず追っ手を差し向けます。くれぐれも馬を急がせてください。そして無暗に馬車から降りませぬよう」
 これが、最後まで私の身を案じてくれたフェルゼンの忠告で、私たちはそれを何一つ守らなかった。きっと私たちの慢心がそうさせた。彼はあれだけ真剣に忠告してくれていたのに......。
 ふと、横に座っている夫の顔を見た。ちゃんと彼の顔を見たのは、何年ぶりだろう。今の夫は、どっと老け込んで、国王であることそのものに倦み疲れているように見えた。それを見てなぜか急に、彼に同情を覚えた。
 彼も私も、王家になど生まれるべきではなかった。ただの貴族の家に生まれていれば、どれほど幸せだっただろう。
 私はそう考えると、思わず彼の手を取って握りしめた。
すると彼は驚いたようにこちらを見て、ほんの少し微笑んだ。
 まだ嫁いだばかりの頃、私は母への手紙の中で夫を「あのかわいそうな人」と呼んでしまったことを思い出す。あの時は母にひどく叱られたものだったが、今では単に宮廷生活に浮かれていた頃と違う意味で、彼をかわいそうだと思う気持ちは日に日に強くなる。
 彼は決して暴君などではなかった。むしろ、優しすぎたのだ。だからこそ、王として、夫として、父として、全ての責任を一人で負おうとして、全て取りこぼしてしまったのだ。そして、私は王妃として、妻として彼を真の意味で支えることはできなかった。そのことに今になってようやく気付いた私には、王妃になる資格などなかった。
 もうすぐこの馬車は宮殿に着き、私たちは国民議会によって裁かれるのだろう。その覚悟はもうできている。しかし、なぜか恐ろしい予感が私の頭から振り払えない。
 我が息子、ルイ・シャルルまで民衆による生贄の祭壇に捧げられるのではないか。私は身震いをした。
 
 どうか、それだけは避けられますように。
トゥルゼル伯爵夫人

 はい、私は「ヴァレンヌ逃亡事件」と呼ばれるようになった、国王夫妻亡命計画に加わり、陛下と同じ馬車に乗っていました。私は、王太子の養育係として、自分の意志で最後までお仕えする気でいたのです。
 私はチュルイリー宮殿まで連れ戻された後に牢獄に入れられ、虐殺も覚悟していましたが、王党派の手引きによって脱出に成功し、今日まで生き永らえています。
 辛うじて生き延びた、あの頃を知っている方々にはまるで奇跡だと言われたものですが、私は嬉しいとは思えないのです。あのお気の毒な陛下と王妃、そして王太子と最期を共にする気でいたのですから。
 私に言わせれば、陛下も王妃も、全てにおいて運の巡り合わせが悪かった、ただそれだけのために断頭台に登らされた方々なのです。
 王妃は、当時の人々が糾弾したほど途方もない贅沢をしていたというわけではありません。そもそも、王妃の娯楽に仕えるお金など、予算のほんの一部だけでした。 
 本当に国を傾けたのは、イギリスとの戦争で恐ろしいほどの税金を投入した大貴族たちなのに、彼らはあの頃にはもう亡くなっていたか、とっくに財産を抱えて亡命していました。私には、陛下と王妃は民衆たちの鬱憤を晴らすために殺された、そう思えてなりません。
 あの恐ろしい粛清の嵐が吹き荒れた後、ルイ十八世としてプロヴァンス伯爵が国にご帰還され、私も国王に尽くした忠臣として女侯爵の称号までいただきました。
 今では、色んな方にヴェルサイユ宮殿での思い出を聞かれます。しかし、私の脳裏に今でもはっきりと焼き付いているのは、皆さんの想像するような、豪華な宮殿に神のごとく君臨した王侯貴族の姿ではなく、まだ生まれたばかりの王太子を自らの手で抱く王妃と、それを穏やかな眼差しで見つめる陛下のお姿です。
 
 あの時の、静かでありながら満ち足りた様子だったお二人の姿こそ、私が思い出したいことで、そのお姿だけが、私が皆さんに話したいと思う唯一のことなのです。


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