雪影

あいかわあいか


あいかわあいか


【第一章】

「さようなら」

 秋宵、如月雪は一散策子として街を歩いていた。日は西に落ち、空は赤鴇に染まる。また今日も長い夜が始まろうとしていた。
 駅前の商店街に、かつての活気はない。ねずみ色のシャッターや、不動産会社の番号が書かれた看板が並んでいるだけだ。隙間風が抜けていくばかりで、人の姿はほとんどない。見かける影といえば、閉店した豆腐屋の前をわがもの顔で歩く黒猫さんくらいだった。
 わたしは、ふと豆腐屋の前で歩みを止めた。路地裏へと去りゆく猫のしっぽを尻目に、シャッターの前へと屈み込む。コンクリートが割れて剥き出しになった土から、一輪の薄い桃色の花が夕日に向かって咲いていた。顔を近づけて、中を覗き込む。
 花はタンポポのようにギザギザした白い葉っぱを地面にべったりと放射状に広げていた。その中央から一本の細い茎がすらりと伸びて、先端に蓮華に似た薄桃色の花を咲かせている。その花の中央、尋常ならば雌蕊があるその位置に、白くぶよぶよとした肉の塊が胎児のように丸まって鎮座していた。
 わたしは花に向かって「イトヌキさん、こんばんは」と声を掛けた。白い肉塊はぶよぶよと震えると、裂けた声帯で呼吸するような声で「く......ぐぉ......か」と返事をした。
 彼はわたしが生まれてからずっと、豆腐屋さんの前で胎児の姿のまま鎮座している。何を考えているのかはわからないし、言葉が通じたこともない。イトヌキさんという名前も小さい頃のわたしが即興でつけたものだ。しかしそれでも、彼はそこに「在る」のだった。
 わたしは莞爾と白い胎児に微笑むと「また会いましょう」、と挨拶をして立ち上がった。そして、ふたたび夕暮れの商店街をあてもなく歩き始める。

 世界はイトヌキさんのような、「彼ら」によって満たされている。わたしの側には常に「彼ら」の影があった。これはわたしが生まれたときから、否、きっと生まれるずっと前からそうだったのだろう。

 わたしは商店街を離れて、山陽本線と並走するアスファルトの道を歩いていた。日輪は西に落ち、あたりは宵闇に満たされていく。わたしは夜の闇に溶け、輪郭がかすれ始めた自分の影の方をむいて「ねえ、影法師さん」と声を掛けた。
「次はどこへ行きましょうか」
「......」
 影法師さんはわたしの歩調に合わせて、一緒に歩いてくれるだけで、沈黙を守っていた。彼はわたしの影だ。ごくまれだけれど機嫌がいい時は、わたしの言葉に頷いてくれるけれど、普段はこうして黙りこくっているだけ。それでも黙って私の話を聞いてくれるのはとてもありがたかった。
「そうですね。海の方へ行きましょうか」
 わたしと影法師さんに、ひとりごとを呟きながら道を歩く。山陽本線の高架を、赤穂へと向かう快速列車が気持ちよさそうに走り抜けていった。

 しばらく歩いて、街の海側に出るため高架をくぐることにした。高架下は歩行者用のトンネルのような通路になっていた。コンクリートを固めた灰色の壁は、ジジジと点滅する白熱灯によって薄暗くも照らされていた。両側の壁には、たくさんの下品な落書きが展覧会の絵のように並んでいる。
 ふと、わたしは足元に佇むシバマタさんの影に気がついて歩を止めた。軽く屈んで「シバマタさんもお変わりなく」、と声を掛ける。
 シバマタさん――鏡餅くらいの大きさで、白くてのっぺりとした肉の塊は、いつものように「カンカンナロリマスカンカンロ」とくり返している。わたしも「はは、カンロカンロ」とお返事する。
 動物図鑑はおろか、妖怪図鑑にすら載っていない彼らは何者なのか。それはわたしも知らない。わたし以外には、彼らを見ることも認識することもできない。しかしそれでも、彼らはわたしの精神疾患が見せている夢や幻ではなく実在する。たとえば、なぜか人間は彼らのことを自然とよけて歩く。だから梅田駅の混雑の中で、なぜか人の波が及ばない小島みたいな場所があったとしたら間違いない。そこにはきっと彼らがいるのだ。
 チリンチリン、と狭いトンネルにベルの音が響き、スーツ姿のサラリーマンがわたしを自転車で追い越していった。そしてシバマタさんの前を過ぎようとする。
 その瞬間、人影が消えた。シバマタさんの白くて小さな肉体がぱっくりと真二つに裂けたかと思うと、その内側から巨大な、鬼灯みたいに赤黒い口が姿を見せて、生臭い息を吐いたかと思うとサラリーマンを自転車ごと一飲みにしてしまった。彼がはじめてシバマタさんを認識した、その瞬間にはもう遅く。彼は何が起きているのかの理解すら追いつかないまま目を見開き......その次の瞬間には、シバマタさんの大きな口が閉じられた。バキリ、バキリと肋骨が割れ、脊椎がへし折られ、自転車のフレームが粉砕される音がトンネルに響いたかと思うと、シバマタさんはもとの小さく、のっぺりとした白い肉の塊へと戻っていった。
 轟と大きな音をたてて、高架橋の上を列車が走り抜けていく。サラリーマンがこの世から消えたことによって、力学の原理に従って空気が動いた。かつては人間の体温だった熱が、まるで残り香のように、トンネルの中に広がっていった。彼の真後ろで自転車をこぎ、一緒にわたしを追い越していった少女は、その生暖かい風を不思議に思って背後を振り返るが、彼女はシバマタさんの姿を認識することはできない。少女は眼前のサラリーマンが食われ、消えうせたことなど、まるで気付かないで高架下のトンネルを抜けていった。わたしはシバマタさんの胃の中と消えていったサラリーマンへ向けて、「さようなら」と小さく口にした。
 古来より彼らは人を食い生きてきた。きっとこれは太古の昔、わたしたちの祖先が暗闇に得も言えぬ恐怖を覚えた瞬間からの絶対普遍のルールに違いない。わたしは物心ついたときから、彼らが人を食べる様を見て生きてきた。......今から思うと、わたしは随分と多くの人に「さようなら」を告げてきた。

 わたしが最初に「さようなら」と訣別の言葉を告げたのは、親友のKちゃんだった。二歳のころからずっと一緒に遊んできた幼馴染で、その日も公園の砂場で一緒に山を作って遊んでいた。Kちゃんは砂場に住んでいるナカリヤさんに向かってわたしが「こんにちは」しているようすを不思議そうに見ていた。
 それから暫くして、Kちゃんの足が不意にどろりと溶けて、土の中に沈み込んだ。まるで、砂に注いだ水が地面に吸い込まれるようだった。彼女はとっさにわたしに向かって、助けを求めるように指を伸ばした。わたしがそのことに気がついて、手を差し出した瞬間には、彼女のすべてはどろどろの液体となって砂の中に消えていった。わたしはその場に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。さいごに、彼女が水面へと向かって伸ばした、かつて指だったマーブル色のゼリーの塊が、小さな砂の波紋を描いて地中に消えうせた。かつて人間だった彼女がナカリヤさんの体内に溶けた、そのことを理解した瞬間、わたしの脳に浮かんだのは運命の二文字であった。彼らは人を喰う。そして彼女は彼らの食糧となる運命であった、ただそれだけだったのだ。わたしはナカリヤさんのお腹の中に消えた親友のKちゃんに向かって、人生ではじめての「さようなら」を告げた。
 彼らは人を喰う。これはわたしが生まれる前からも、生まれた後も続いてきたことだった。しかし、わたしはKちゃんを目の前で食べられるまで、そのことに気づきもしなかった。
 私見になってしまうけれど、「気づく」という言葉はテレビのチャンネルを切り替えるようなことだと思う。教育番組からテレビのスイッチを一つ押すだけで、下品なコメディや、子供が見るに堪えない残酷劇を見ることができるように、わたしたちの認識はチャンネルを少し外してしまうだけで、この冷酷な世界を見せてしまう。
 イトヌキさんもシバマタさんも本来ならば人間が見るべきでない、見てはならない別のチャンネルの住人なのだろう。だから、普通の人間ならばペアレンタルコントロールのような仕組みが働いて、そちらの世界を見ることはできないようになっているのだ。
 きっと、わたしはセーフティが壊れた状態で生まれてしまったのだと思う。そしてこの事件によって、既に切り替わりかかっていた認識が完全に変化してしまったのだろう。
 わたしはそれから多く「さようなら」をしてきた。はじめ四〇はいたクラスメイトたちも、小学校一年生の終業式には三七人になっていた。授業中に前の席のTくんが、突然心臓を机の上に残したまま、彼らに貪り食われたこともあった。
 しかし、そのことに誰も気づくことはなかった。たとえば、Kちゃんのお母さんに聞いてみても、Kちゃんのことをまるで忘れているし、わたしがKちゃんと一緒にとった写真を見せても、Kちゃんの姿はまるで見えていないようだった。彼女は家の子供部屋が何のために存在しているのか、そればかりか、子供用の玩具がそこにあることにすら、何の疑問も抱くことができなかった。
 隣の家のおばあさんは、おじいさんとずっと仲良しだった。二人には子供もいるのに、食べられてしまったおじいさんのことを、おばあさんは完全に忘れてしまった。帰省する子供たちも、自分たちには父親がいないことに何の疑問も抱かない。こんなことはそこら中で起きている。わたしはそのたびに「さようなら」をしてきた。
 そして最後に別れを告げたのは、わたしの両親だった。いままで見たこともないおばけの口の中から、必死に私に向かって「逃げて」と叫ぶ母の姿を見て「さようなら」と呟いたことをごく鮮明に覚えている。バキリと骨が砕ける音が聞こえて、認識が食われる音が響いて、わたしは――――。

 空が菫色に染まりつつある。「どうしたものかなぁ」と、わたしは行くあてもなく歩いていた。影法師さんは何も言わない。わたしが両親を失ったのは、ほんの二時間前のことだった。
 人々は、わたしに父も母もいないことに何ら疑問を抱くことはないだろう。今日も世界は平和に進む。
 やがて夜の帳が下りた。わたしは所在なく、海の近くにある飲み屋街を歩いていた。酒は彼岸と此岸とを接続する霊薬である。酔った人間はつい世界のチャンネルを超えて、彼らの存在に接続してしまう。閾を跨いでしまった餌に対して彼らは容赦しない。時計は九時を指している。赤い面でよろよろと歩く大学生や会社員で街は溢れていた。また人が溶けた。誰にも気づかれることなく。わたしはネオンの街を歩く。酒の精が踊り、人々は溶けていく。
 わたし自身は怪物でも何でもない。いっそ、わたしも彼らのように人を食って生きることができたならば困ることはなかっただろう。しかし現実としてそんなことはできない。生きていくためにはどうしても衣食住が必要なのだ。それもこれも、わたしが人間であるのだから仕方がないことである。ないないづくしでもうどうしようもない。
 本当のことを申し上げれば、わたしは別に生きていたいなどとは毫も思っていないのだ。これから先に、何ら希望的な展望があるわけでもなく、やがてはわたしも彼らの肚の中に消えてなくなる運命であると思う。そんなあきらめが私の心を埋め尽くしていた。......しかしそれでも、わたしは人間であるのだから、生きていかざるを得ないのだ。
【第二章】

 肉親の死を前にして、涙の一滴さえも流すことができない。わたしはそんな人でなしだ。心なんてものはとうの昔に壊れたかなくしたものとばかり思っていた。しかし情というものは意外にも簡単にはなくなってくれないらしい。家にいると両親が怪異に殺される瞬間が自然と思い出され、形容しがたいメランコリに包まれて胸の奥がぞわぞわするのだ。
 きょうも夜の町を廻る。両親を失ったあの日から、わたしはなぜか夜に眠ることができなくなってしまったのだ。だからわたしは仕方なく毎夜、街を彷徨っている。
 そうして何か月かが過ぎた。冬空の下、忘年会の季節になった。人間たちは夜遅くまでどんちゃん騒ぎをしている。よろよろと千鳥足でわたしにぶつかったおじさんの「ごめんよ」の声も酒の臭いがする。みんな顔を赤くして楽しそう、なんて少し羨ましく思った。
 酒を飲む。人が溶ける。わたしは歩く。とける、きえる、たべられる。

――――

 一台のビートルが夜の国道二号線を東に向かって走っていた。ダッシュボードに置かれたデジタル時計は夜の一一時を指している。七十近い老人が慣れた調子でハンドルを握り、助手席には齢十三の少女の姿があった。

「なあ、下府くん」
 車を運転する私の上司、阿川康三先生は神妙な口調で助手席の私に語り掛けた。
「この決定は、君にとって厳しい内容に違いない」
 阿川先生はハンドル片手に、コンビニで買った紙コップの珈琲を飲みながら、そう私を案じるように言った。私は「いいえ」と首を振った。
「だとしても、私情は挟みません」
 暫くの沈黙が車内に続き、ふたたび阿川先生は口を切った。
「......君はまだ十三歳だ」
「それは関係のないことです」

 神祇省調査官、それが私の仕事だった。この世界の裏側には「他界」と呼ばれる何かとてつもなく大きな場が存在する。阿川先生の話によれば他界は、純粋的原質の海であり、対立軸に分化される以前の根源的な場であるという。そして、他界が人間の無意識・阿頼耶識によって意識となることによって「怪異」は生み出される......らしい。とにかく調査官とは、この怪異による被害を食い止めるため、神祇省の内部に非公式に設置された役職だった。
 ベテランの調査官である阿川先生は、車のハンドルを握ったまま悔やむように言った。
「まさかこんなことになるとは」
 私は小さく頷き、手の中にあるタブレット端末にふたたび目を落とした。青白く光る画面には、私と同じ中高一貫校の制服を着た少女の姿が映っていた。


〈如月雪〉 メヴィル症候群第三期発症者

 如月雪(以下甲)は五歳よりメヴィル症候群第二期の症状が確認され、阿川康三調査官を責任者として消極観察が継続的に行われた。担当は下府神楽調査官であった。
 二○□□年九月六日、神戸支部の観測所が小規模な領域崩落現象を確認。起点は甲の実家であった。甲は無傷。甲の父□□□□、および母□□□□は本件により死亡したものとみられる。
 以後観測により、甲を起点とする小規模な領域崩落現象の発生が三度にわたって確認された。いずれも規模は二アール前後。他界深度は0.30から0.43。犠牲者は十八名前後と想定される。
 以上より評議会は甲をメヴィル症候群第三期発症者と認定し、ここに浄化を決定する。

 観察者 神祇省事務官〈下府神楽〉
 観察責任者 神祇省調査官〈阿川康三〉
 浄化決定責任者 神祇省調査官〈宮崎一〉


 私は情報端末から目を離した。脳裏には自然と、彼女のことを追いかけて過ごした一年と半年が思い出された。
 私は小学校五年生の夏に、怪異によって両親を殺され、自分も食べられそうになったところを阿川先生に助けられた。彼はもう七十近い老人だが、孤児となった私を拾い神祇省の職員としての仕事を与えてくれた。雪先輩の観察を私の初めての仕事として、阿川先生が任せたのは、私が中学校に入ってすぐのことだった。
 雪先輩は一歳年上の女の子で、阿川先生の話によれば、私と同じ他界や怪異の存在を認識できてしまう病気――メヴィル症候群の第二期を発症している患者だった。すなわち彼女も、怪異による残酷な捕食現象を日夜問わず見ているに違いなかった。
 しかし雪先輩の態度は、私が見てきた第二期の患者たちの、精神病棟内で発狂した姿とはまるで違っていた。彼女はあまりにも落ち着いていた。
 私が初めて雪先輩と会ったのは、学校の図書室だった。窓際の安楽椅子に腰かけ、前髪を後ろにかいて、文庫本に視線を落としている彼女を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。雪先輩は肩あたりまで艶のある黒髪が伸びていて、その肌は雪のように白く、その美しい容貌は雪女を連想させた。しかしたしかに血の通っている頬の温もりがあって、微笑む姿はとても可愛らしくて、どこか安心したことを覚えている。
 雪先輩は私の視線に気がつくと、読みさしの難しそうな本に栞を挟み目線を合わせて、「どうかしました?」と優しげに微笑んだ。その日は他愛もない挨拶を交わして、雪先輩と携帯の番号を交換しただけだったが、やがて気楽に週末を一緒に過ごしたりする仲になった。阿川先生はそんな私のことを微笑ましそうに見守ってくれた。
 私は中学校に入ってからの一年と半分を、ずっと雪先輩のことを追いかけて過ごしてきた気がする。彼女に送ったメールが返ってくるこないで一喜一憂するさまは、我ながら平和ボケしていたと思う。
 雪先輩は本当にメヴィル症候群の第二期患者なのか疑問に感じることは少なくなかった。そこで彼女に怪異のことなどをそれとなく暗示して試してみても、彼女はあまり興味がなさそうに流してしまうからよくわからなかった。
 雪先輩はいつもにこやかに微笑んでいるけれど、時折氷のように冷たい、残酷な目をすることがあった。そのたびに、雪先輩は私のことをどう思っているのか不安になった。
 雪先輩はもしわたしに何かがあって、わたしが死んでしまったとしても、きっとそれをあっさりと受け入れるのだろうな。なんて考えたりもする。彼女の笑顔の裏には常に絶望的なまでのあきらめが宿っていた。私はいつかそんな雪先輩の心に触れたいと思っていたのに。――まさか、私が雪先輩を殺さなければならないなんて。

 私はタブレットの電源を落とすと目を閉じた。静かに呼吸をして、瞼の上から眼球をそっとなぞった。既に決意は終わっていた。自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「決定には従わなければなりません。第三期の患者を放置すれば何百、何千もの命が失われるのですから」
 メヴィル症候群は他界接続症とも呼ばれる精神の障碍で、第一期から第四期までと、終末期に分類されている。
 メヴィル症候群第一期は偶発的に他界を観測してしまう状態であり、全人類の十人に一人の割合で生じる。多くの場合、彼ら自身は「ちょっと霊感がある」程度に認識しており、問題なく日常生活を送っている。怪異の犠牲者となる者の多くがこの第一期の患者であり、偶然にも他界を観測してしまうことで怪異に狙われてしまうことがあるが、その把握は困難である。
 メヴィル症候群第二期の患者は、常に他界および怪異の存在を認識できてしまう状態である。割合はとても低く、発症率は一千万分の一程度である。第二期の患者の多くは精神に異常をきたし、発狂するか自殺する者が殆どである。ごくわずかな例外として、宗教の教祖やシャーマンになる者や、私たちのような怪異と戦う調査官になる。
 そして、雪先輩が発症したのは、メヴィル症候群の第三期。通称「門」と言われている。他界とこの世界とを接続する能力に覚醒してしまった患者のことである。
 他界の存在を常に認識している私たち調査官も、同じくメヴィル症候群の第二期患者である。ゆえに雪先輩と私との違いは、雪先輩のほうが少しだけ「門」としての才能があったということだけだった。彼女は運がなかったのだ。私がかわりに第三期に発症したら、きっと雪先輩は死ななくてよかったのに。
 そんな思いに浸っていると、不意に車に設けられた通信装置が非常信号を受信した。目的地まではあと三キロほどの地点、神戸の高層ビル群に差し掛かったあたりだった。阿川先生のほうをちらりとのぞくと、彼も顔を固くしていた。
「来るぞ」
 彼は小さく呟いた。その瞬間、視界がぱっと赤色に染まった。
 次に見えたのは変わり果てた街の姿だった。さっきまであったはずの不夜城のビルの群れは、視界から消えうせ、そこには肉の粘土を無造作に積み上げたような、不気味な高層楼閣が立ち並んでいた。
 空は彼岸花のような紅に染まり、曼荼羅のように大小さまざまなサイズの眼球が、変わり果てた神戸の街を見下ろしている。街を行く人影も消え、そこには大小さまざまな怪異の群れがパレードをつくっている。車は特殊加工の施されたわたしたちの乗るビートルを除いて、すべて巨大な猪のような怪異の姿に変わり、生気を失った運転手たちの顔が表面からぬっぺりと突き出していた。
 あわてて太ももに巻く形で装備していたフォン・ノイマン型霊界探査機に着けられた深度計をチェックする。深度を示すゲージは振り切れたまま停止していた。こんなことははじめてだった。
「先生......」
「わかっているとも。もはや猶予はない」
 阿川先生は厳しい表情でこたえた。アクセルを踏み、領域崩落現象の発生した震源地へと近づいていく。ちょうどそのとき、ベルが鳴り響いた。神祇省からの無線通信だった。
「こちら神戸支部、阿川さん聞こえますか。どうぞ」
「こちら下府、阿川の代理です。どうぞ」
「了解、下府さん、こちら神戸支部。神戸の港湾部にて大規模な領域崩落現象が発生、規模はレベル6。中心は如月雪さんという一四歳の少女です。至急向かってください。詳細な座標はノイマン型探査機を用いての走査をお願いします。どうぞ」
「了解、神戸支部さん、こちら下府。走査完了しました。あと十分程度で到着します。可能であるのならば、状況の説明をお願いします。どうぞ」
「了解、下府さん、こちら神戸支部。感謝します。木下調査官および事務官数名が浄化対象者如月さんに接触、および攻撃を行いました。同時に大規模な領域崩落現象が発生。それ以後、木下調査官との通信は途絶し、事務官からの支援要請が届いています。このことから、木下調査官は如月さんの浄化に失敗し、それによって彼女の能力が暴走したものと見られます。どうぞ」
「了解、神戸支部さん、こちら下府。状況を確認しました。しかしわれわれは木下調査官の動向を知りませんでした。どうぞ」
「了解、下府さん、こちら神戸支部。木下調査官付きの事務官によれば、神祇省本部からの指示により直接浄化を指示されたと聞いております。どうぞ」
 この通信内容に私と阿川先生は顔を見合わせた。何か裏で動いているようだった。しかし通信手にこれ以上の質問をしても答えはでないだろうと結論を下した。
「了解、神戸支部さん、こちら下府。現場に到着次第、領域崩落現象の解消を図ります。どうぞ」
「了解、下府さん。こちら神戸支部。感謝します。追加での質問はありますか? どうぞ」
 私はちらりと阿川先生の方を確認した。先生は小さく首を振った。どうやらわたしと同じ考えらしかった。
「了解、神戸支部さん。問題ありません。以上」
 こうして、通信は終了した。車は変わり果てた姿となった街を走っている。車輪がぬかるんだ灰色の泥と化したアスファルトをかき分けながら、めちゃくちゃに明滅するさびついた信号機の下を通り抜けていく。
「先生、状況はわかりましたか?」
「ああ。我々が知らないうちに本部も動いていたらしい......それで木下君が派遣されたと」
「上層部は、私たちだけでは力不足と考えたのでしょうか」
「かもしれない。甘い私のことだ、もしかすると如月くんに手心を加えるのではと心配するのもわかる」
 阿川先生はぐっとハンドルを握りしめた。既に彼は覚悟を終えたようだった。私は今から尊敬する人を、だいすきな先輩を、如月雪という少女を。人間社会の存続のために切り捨てる。――その覚悟を決めなくては。

――――

 わたしはあてもなく、夜の歓楽街を歩いていた。酔ったサラリーマンの身体が「彼ら」の胃の中に消えうせる。カップルの片割れが溶ける。まったくもって、いつも通りの日常だった。
 しかし今夜は一つだけ違うことがあった。ネオンの明かりが並ぶ夜の町に、一人の男の姿を見つけた。彼は長い黒髪に、二メートルはあると思われる、すらりとした長身で、ガス灯の下に佇んで大きな影を作っていた。雑踏の中、黒の外套をはためかせるその後姿は十九世紀のロンドンから抜け出した郷紳を連想させた。わたしがその姿に見惚れて立ち止まると、後ろ姿の男がふと笑ったような気がした。
 ......気がつけば、男の姿は夢か幻であったように消えうせていた。わたしは呆然とその場に立ち尽くした。理由はわからないが、胸の奥がずきりと痛んだ。あの男を探さなくてはならない。わたしはどこから湧き出したのかすらわからない使命感に駆られ、男の姿を追いかけて、ふらふらと夜の町を歩き始めた。

 結局、わたしはぐるりと街を廻って、もう一度同じところに戻ってきてしまった。歩き疲れてすこし休憩しようかと立ち止まり、道端にいい具合のベンチを見つけたのでそこに腰かけた。――しばらくして、不意に一台のライトバンがわたしの座るベンチの目の前に停車した。
 横開きの扉がガラリと開き、黒のスーツを身にまとった数人の男たちが銃口を向けながら、わらわらと飛び出してきた。おそらくイスラエル製の短機関銃だろうか。
 黒スーツ姿の男の中に一人だけ恰好の違う男の姿があった。彼はスーツの上から白衣を身にまとい、銃は持たず、そのかわり左腕に何か四角い機械のようなものを身に着けていた。
 一人の少女に向かって短機関銃を向けるスーツと白衣の集団は明らかに異質な存在であるように思われれる。しかし、周囲の人間たちは彼らの存在にまるで気付いていないようだった。それはまるで怪異のように......。わたしは立ち上がり、何かを言おうとした。し
 かしそれを静止するかのように、次の瞬間に彼らの銃口が瞬いた。無数の弾丸が身体にめり込み、熱病にかかったようにかっと身体が熱くなった。わたしの内蔵が破裂して血が噴き出す様子が不思議と冷静に見えた。「死ぬの......?」わたしは呆然と、今から死ぬということを何となく考えていた。死ぬことはあまりに身近すぎてまるで恐ろしくない。しかし、しかし......。
 視界が紅に染まった。頭が熱を帯びて割れるように痛んだ。その瞬間、脳内に浮かんできたのはいままで見たことのない、原質的なイメージだった。まるで壊れた堰から水が一気に流れ出すように、主体と客体の区別すらつかない純粋的な原質が思考のすべてを埋め尽くしていく。「門が開く」。
 ゴトリ。不格好な音を立てて、機関銃を持ったスーツ姿の男の頸が地に落ちた。まるでサッカーボールのようにごろりと転がって、一瞬遅れて取り残された身体の切断面から血液が間欠泉のごとく噴き出した。「何を......!」彼らの間に緊張が走り、機関銃のトリガーに指がかけられる。
 次の瞬間、また頭が落ちた。短機関銃を持った彼らに気づかないで街を歩いていた老人や女性たちの頸が五つ。無差別にごとりと地に転がった。他界に迷い込み、その光景を観測してしまったサラリーマンらしき男は、べぎりと音をたてて壊れた。彼の頭の皮が、頭蓋が、脳みそによって食べられてしまった。まるで服の表と裏をひっくり返すかのように、人間の頭がめくれかえって反転したのである。それは身体も同様だった。彼のスーツが内側に引き込まれ、内臓が剥き出しとなった肉の塊がそこにあらわれた。それでもまだ彼は生きているらしく、肉はびくりびくりと波打っていた。ややあって、ばぎり、ばぎり、と不気味な音が響き渡る。よく見ると、瓦斯灯によって照らされた、かつてサラリーマンだった肉塊の下にできた、黒い影が巨大な口となって、まっしろい歯を時折覗かせながら、ばきばきと骨を砕いてその肉塊を飲み込もうとしていた。
 悲鳴一声。恐怖は一瞬にして伝播し、パニックが巻き起こった。この世界が何か別の世界、すなわち「彼ら」の住む世界によって上書きされたのだということが直感的にわかった。もはや霊感や精神障碍の有無にかかわらず、誰もがこの残酷劇を観測し、そしてすぐに次のキャストとなっていった。人々は逃げようと走り始める。しかし、そこはもうかつての飲み屋街ではなくなっていた。空は血のような赤色に染まり、曼荼羅のように並べられた無数の眼球がわたしたちを見下ろしていた。アスファルト敷きの道路はどろりと粘性を持った灰色の泥のようなものに変わり、時折気泡が浮かび上がる。かつて飲み屋だった店には意味の分からないナンセンスな看板がかけられ、廃墟のような場所へと変わってしまった。
 走って逃げようとする、右手にビジネスバッグを持った老人がいた。わたしがちらりとそちらを向くと、その右腕がどろりと溶けだした。腕が液体となり、ビジネスバッグへとしみこんでいった。老人が絶叫と共に地に倒れると、その尻がべちゃりと液体となり、内臓の液があたりにぶちまけられた。そのまま倒れ込んだ背中、脳も一気に溶けてあたりは血の海になった。
 聞こえてくる人々の悲鳴。悲鳴。悲鳴。感染した恐怖が次々と伝播し、一面に広がった異形の世界は五感を通じて人々の意識作用を汚染していった。
 貴婦人の纏うレースが、液状になった皮膚と筋肉の間に沈み込み、彼女は悲鳴をあげ、次の瞬間には血みどろの肉塊となっていった。
 横を振り向くと、若いサラリーマンの左腕がぐるりと、雑巾を絞るようにして回転した。つづいて両手両足が螺子のようにぐるりと回されて、宙に固定され捩じ切られた。そればかりか突き出した舌さえも根元から回り始めた。そして最後には、助けを求める眼球がぐるりと回り、螺旋を描いた血管が引きずり出されてぷちんと引き抜かれた。しかしそれでも絶命できない男は四肢を捩じ切られ、舌や眼球でさえも失い、大量の血の中に倒れながらも、悲鳴にならない悲鳴をあげている。
「化け物め......」
 銃を持った男たちを従える、白衣の男がわたしを忌々しそうに睨みつけた。
 わたしが自分の身体を見ると、蜂の巣にされたはずの身体は時間を巻き戻すようにして元通りになっていた。ぽとり、ぽとりと、ひしゃげた九ミリのパラベラム弾の弾丸が身体から排出されて地に転がった。時間遡行の対称は身体だけではなかった。わたしは身にまとっていた白のアウターも含めて、すべてが元通りになった。白衣の男は怒気を隠すことなく叫ぶ。
「よくもやってくれたな、如月!」
「何のこと」
「とぼけるな! これは貴様が引き起こした領域崩落現象だろう」
「知らない」
「ああそうかい......ここを俺に任せて、お前たちは神戸支部に応援要請を送った後は民間人の保護にあたれ。ただし、危険を感じたら見捨ててでも撤退しろ」
 男は武器を持った部下たちにそう叫ぶと、白衣のポケットから煙草箱のようなサイズのガシェットを取り出した。それを左腕に装備したデバイスに挿入する。装置に青白い電光が走った。男は静かに唱える。
「フォン・ノイマン型霊界探査機を起動。模擬霊核【Rakshasa】インプット完了。デッドマン装置よし。聖別武装【Trident】展開!」
 言葉と共に男の身体が青白い光に包まれた。そして光が消えると、男の手には、ギリシア神話の海神ポセイドンの武器と同じ、三叉の鉾が握られていた。鉾の石突の部分に設けられたテスラコイルによって生じた巨大な電気の塊が瞬いている。
「如月雪、お前は怪異だ。パラベラム弾では怪異は殺せない。怪異を殺せるのは怪異の力だけだからだ」
 彼はそう言って、【Trident】を肩の上に構えた。三叉の刃がテスラコイルの放つ雷光を受けてぎらりと輝く。
「覚悟」
 そのときだった。わたしの視界が漆黒に染まった。一瞬遅れて何が起こったのかを理解する。わたしと白衣の男の間に、一人の男が黒い外套が揺らめかして現れた。夜の町でわたしが見つけた男だった。彼はわたしを庇うようにして、悠然と白衣の男に向かった。
「門を閉じよ。贄の娘」
 影のように黒い男は振り向くことなく、わたしに向けて厳かな口調で言った。
「門......贄......?」
 わたしは意味も分からないまま単語をオウム返しする。けれど、きっとそれこそ、いまわたしがこの白衣の男に殺されようとしている原因であるということは、容易に想像ができた。
「邪魔をするな!」
 叫び声とともに白衣の男が構えた三叉の鉾、【Trident】を投擲した。そうわたしが認識した瞬間に、男が投げた三叉の鉾は一筋の光条と化し、わたしの心臓をめがけて迫り来る。
 刹那、影の男の腕がわたしの前にすっと翳された。男の腕を銀色に輝く三叉が貫通し、そして静止する。鉾は次の瞬間に白衣の男の手元に戻っていた。貫かれた男の腕から、黒いタールのような液体が流れた。
「トライデントを防いだか」
 白衣の男は忌々しそうに鉾を構えなおすと、軽快なステップで距離を詰めた。影の男は無言のまま右の指先で空を凪いだ。次の瞬間、男の腕には一本の吸い込まれそうなほどに黒いダガーが握られていた。白衣の振るう【Trident】と黒の刃がぶつかり合い、カンと軽い音を立てる。火花が散った。鉾の有効射程を守るために後方に飛びのく白衣の男。それを追うようにして、影の男は握った黒のダガーを投擲した。
 甘い、白衣の男はそれを鉾でことなげなく斬りはらった。黒の刃は粒子の波となり幽かな霧を残して消えうせた。
 刹那、ちょうどダガーを払いのけた鉾の軌跡、かつてだがーだった霧の中から影の男が現れた。彼は長剣を上段に構え、白衣の男に斬りかかる。
 白衣の男は足を一歩引き、トライデントの柄でその刃を受け止めた。カンと軽い音が響き、長剣は同じく粒子の霧となった。白衣の男は、即座に無防備となった男に向けて鉾を振るった。
 しかし黒い男の姿は既に鉾の先からは消えうせていた。そして次の瞬間に、白衣の男の足元の影の中より現れ、長剣をもって男を斬り上げた。
 槍は本来、適度な距離があってこそその真価を発揮する武器である。白衣の男はさっとステップを踏んで身体を回転させると、下からの攻撃をテスラコイルの輝く鉾の石突を使って受け止めた。
 軽やかな剣戟が二度、三度と響き、ややあって影からの奇襲が迫り、また打ち合いに戻る。白衣の男は影の男の動きに翻弄され、防御に回るしかなくなっていた。
 ついに男の連撃に対して、防御が追い付かなくなり、刃が白衣に届いた。影の男は、上段に構えた長剣で、白衣の男を肩口から一気に袈裟斬りにする。
 一瞬の静寂ののち、ぱっくり裂かれた白衣の切れ目から、大量の血が堰を切ったように漏れ出した。
 しかし白衣の男の闘志は未だ尽きない。影の男が剣を上段に構え、とどめを刺そうとしたその瞬間、白衣の男は雄たけびをあげながら、地に向かって【Trident】を突き立てた。刹那、大地が裂けた。
 三叉の鉾が大地につけた切れ目は、放射状に広がり、わずかな間だけ静止すると、巨大な地割れが四方八方へと広がっていった。ちょうどわたしの足元にも。
 その瞬間わたしの視線の先から、白衣の男に向けて剣を振り下ろそうとしていたはずの影の男の姿が忽然と消え失せた。
 次の瞬間、わたしの身体が不意に浮かび上がった。はっと気がつくと、影の男はわたしのことを抱きかかえ、異界の空を飛翔していた。一瞬遅れて巨大な地割れがわたしのいた場所を飲み込んでいく。クレバスから底は見えなかった。
「......ありがとう」
 わたしは彼に抱きかかえられて、はじめてこの影の男の顔を見た。清潔感のある白い肌に、彫りの深い顔。わたしはぼんやりと彼の真剣な眼差しを見つめていた。どうしてこの人はわたしのために戦ってくれるのだろう。どうして、こんなにも必死になってくれているのだろう。どうして......。
 彼は地割れの届かない場所へ、そっとわたしを下ろしてくれた。白衣の男は立っているのもやっとという状態らしく、地に突き立てた【Trident】を握り締めたまま、数十メートルの向こうからこちらを睨みつけている。影の男はわたしの方をちらりと振り返った。その瞬間に視線が合った。
「助けてくれたのね......影法師さん」
 わたしの言葉に彼は驚いたように眼を開いた。
「......いつから気がついていた」
「最初から。だってあなたはわたしの影だもの。わからない筈がない」
 わたしはそう言い切った。影法師さんはいつもわたしのことを見守ってくれていた。生まれてからずっと、ずっと。
「ねえ、影法師さん。あなたはどうして私を助けてくれるの?」
 彼はいつものように沈黙を守っていた。そしてわたしから視線を外すと、白衣の男に向かって剣を構え直した。

 そのとき、暗闇の世界に突如として光条が差した。軽妙なエンジン音を響かせながら、一台のビートルが地割れを避けながらこちらに迫ってくる。運転しているのは六十を過ぎた老人。そして助手席に座っている少女の姿を見たとき、わたしは少しだけ驚いた。彼女はわたしの通う中学校の後輩、下府神楽だったからだ。なぜかわたしに懐いている、犬のような可愛さをもった後輩、わたしの数少ない友達だった。彼女は悲痛な表情を浮かべ、車の助手席に座っていた。影法師は彼らからわたしを守るように、外套をなびかせて立ちはだかった。
 彼らは車を降りると、警戒をゆるめることなく、ゆっくりとわたしの方へ歩み寄った。距離にしておよそ十メートル。老人は白衣の男とは違い、わたしに同情するような視線を向けると、やさしい口調で諭すように語り掛けた。
「私は阿川康三。調査官をしている。......君がこれを引き起こしたのかな? 如月くん」
 わたしは老人の言葉に何も返すことができなかった。後輩の神楽はなぜだか哀しそうな表情でこちらを見ていた。
 しかしわたしは、相変わらずの気怠そうな表情を崩すことはできず「わかりません」と返すほかになかった。ちょっと不思議なことはあったけれど、だからといってこの出来事はわたしにとって特別なものではなかった。多くの人が死んだ、けれどそれはいつも通りのことだった。
 阿川はわたしの態度をみて小さく頷くと、わたしの前に立ちはだかる影法師に呼びかけた。
「では影よ、君はどうして如月くんを助ける。女王が恐ろしくはないのか」
 阿川の言葉に、彼は沈黙で答えた。
 そのとき、影法師と相対していた白衣の男が動いた。テスラコイルの電流が消えた【Trident】を杖にして、彼はゆっくりとこちらに向かってきた。
「まったく、遅いぞ阿川先生......」
「恨むな。それに君たちが勝手にしたことではないか。それに我々もあやうく地割れに巻き込まれるところだったのだぞ」
「でも当たらなかっただろ。だから許せ。それに俺だって命令受けて動いてるんだ」
「それでこのざまか」
「ああ。反論できない......車借りてくぞ。病院行くからな」
「好きにしたまえ」
 阿川は白衣の男に素気なく返すと、改めてわたしの方を向いた。
「私としては、君のような若者を屠ることは本当に心が苦しい。それでも、災害と化した君をそのままにしておくわけにはいかないのだ......許してくれとは言わない。しかし、君を殺さなければならない」
 阿川の声を合図として、後輩の神楽は小さく頷くと、コートの内側から煙草箱のような形をしたカートリッジを取り出し、それを太ももに巻き付けられた機械へと挿入した。同時に青白い光があたりに満ちた。
 テスラコイルによって生み出される電気の塊が闇夜に瞬く。酸素が高エネルギーによってオゾンに変化し、つんと鼻をつくにおいがあたりに広がった。神楽を囲むようにして五つの聖別機の砲門が展開され、楕円軌道を描いて周回する。
「フォン・ノイマン型霊界探査機を起動。模擬霊核【Indra】インプット。聖別機【Dreadnought】展開!」
 老人も同様に腕に装着したデバイスにカートリッジを挿入した。
「起動。模擬霊核【Euphemia】インプット。聖別機【vorpal bunny】展開」
 光が消えると、老人の両腕には柄の部分に電気の球が瞬く、刀身だけでも二メートルを超える大剣が握られていた。その武骨な造形はまさしく大質量の鉄の塊であった。
「実を言うとね、私も下府くんも、君と同じ能力を持っているのだ。確立にして一千万分の一になる」
 そう口にする老人の瞳は紅に輝いていた。隣の神楽の瞳も同様に燃えるような赤色であった。
「しかし、君のように門としての才能を覚醒させる確率は、さらにその二十分の一になる。君はおそろしく運がなかった。もしそうでなければ下府くんのように、私たちと一緒に仕事をしていたかもしれない」
 阿川はそう言い放つと大剣を下段に構えた。に構えた。大剣の鍔と刀身が十字に交わる箇所には、大きな電気の塊が宝石のように瞬いていた。このテスラコイルの輝きこそ、ニコラ・テスラがはじめて研究し、フォン・ノイマンによって完成された霊界探査機の兵装「聖別機」の心臓だった。この兵器はテスラコイルの高圧電流によって他界とこの世界のバランスを意図的に崩し、小規模な領域崩落現象を引き起こすことで奇跡を実現させる。まさしく科学による魔術だった。
「私は君を殺さねばならない。......影よ。もし邪魔をするならば君ごとに斬る」
 影法師は何も言わない。一瞬の静寂ののち、先に動いたのは阿川だった。彼は【vorpal bunny】を力強く構えると、剣に施されたブースター装置を起動し、十メートルの距離を一瞬にして詰めた。同時に影法師の手にも一本の黒い長剣が握られていた。大質量の鉄の塊を影の刃で受け止める。キンと剣がはじけ合った。その次の瞬間に、影の刃がその姿を失った。
 阿川は自らの兵装を【vorpal bunny】と呼んでいた。"vorpal sword"とは、ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』の『ジャバウォックの詩』に登場する、怪物ジャヴァウォックの頸を刎ねた武器である。おそらくこの兵装とジャバウォックの詩には何らかの関連性はあるはずだ。たとえば模倣のような......。
 先の白衣の男は自らの武器を【Trident】と呼んでいた。そして地に突き立てることで地割れを生じさせた。まるでギリシア神話に登場する海神ポセイドーンのように。
「影法師さん!」
 わたしは叫んだ。ヴォーパルの剣は混沌を切り裂く刃だ。影の刃は【vorpal bunny】と打ち合った瞬間にその形を失いもとの影に戻る。そして、影法師の身体に大質量の鉄の刃が迫ろうとしていた。
 キン! 影法師は即座に次の剣を手元に繰り寄せると、一トンはあるように見える大剣を上にはじいた。同時に影の剣は形を失う。それと同時に阿川は【vorpal bunny】のブースターを再点火した。剣から炎が溢れ、巨大な鉄の塊が影法師へ向かい迫った。
 影法師は新しく作り出した剣でその攻撃を一瞬だけ受け止める。【vorpal bunny】の能力により影の刃は完全に切り裂かれ、そのまま大剣は影法師を一刀両断しようとした。
 膨大な質量が圧倒的な加速で地に打ち付けられ、破砕が巻き起こった。放射状に広がった衝撃波はあらゆるものをなぎ倒していく。
 しかし影法師はその破砕を生き延びた。彼はとっさに生み出した剣によって阿川の渾身の一撃を受け流したのだった。老人の剣が鞭のように動き、攻撃をかわした影法師を斬りはらおうとする。
 また剣と剣が打ち合わさる音が、異形の世界に響いた。攻撃を軽やかに受け流す影法師と、質量と速度で圧倒する阿川の戦いは互角に思えた。
「......許してください」
 そのとき夜空に一筋の光条が見えた。神楽の展開した【Dreadnought】の五門の聖別機の砲が青白い光を帯びる。神楽の瞳が閉じられ、涙が頬に零れ落ちた。一瞬の間隙があり、兵装のすべての砲門から雷霆が放たれた。膨大な光熱の塊が一直線に私に向けて迫り、心臓にて収束しようとする。
 わたしはその光景をみて「ああ、死ぬのか」とぼんやりと考えてきた。しかし次の瞬間、阿川の眼前から影法師の姿が忽然と消えた。同時に彼はわたしの影の中からすっと姿を見せると、右手で眼前の空間を薙いだ。その瞬間に闇が広がり、はるか遠くの神楽の姿が蜃気楼のように揺らめいて見えた。
 放たれた雷霆は男の右腕に着弾する、その白雷はプリズムに差す陽光のように七色に分化して屈折し、歪められた軌道で大地に着弾した。それと同時に轟音が響き渡り、莫大な質量と熱量の嵐が灰の泥が敷き詰められた大地を粉砕した。それでも勢いはとどまりきらず、エネルギーは地面を真二つに切り裂き、数百メートル先までの異界化した建造物をすべて一刀両断にした。わたしは無傷のまま、その景色をただ茫然と見つめるほかなかった。
「重力の......虹......」
 そう呟き何が起こったかの理解すらできていないまま、次の行動に移れない神楽をそのままに、阿川は彼女の攻撃が失敗したと判断した。次の瞬間には、【vorpal bunny】のブースターを再点火し、影法師に向かって斬りかかろうとする。
 しかし、その足取りはふと止まった。彼は大剣を地面に突き立てると、忌々しそうに背後を振り返った。
「来たか......」
 阿川がそうつぶやいた瞬間、異形と化した空間に変化が生じた。この戦場となり怪異すら逃げ出した街の片隅の地面が、突如としてすべて血管の走る内臓へと変化したのである。それだけにとどまらず、高層楼閣や【Dreadnought】によって倒された建物、ガードレール、信号機......周囲のあらゆる物質が肉腫のテクスチャで上書きされていった。
「随分と早い」
 影法師はそう吐き捨てると、雪を背後から抱き抱えた。百メートルほど遠くの地面からボコリ、ボコリと肉腫の泡がはじけた。やがてその中心から巨大な一つの肉の塊が姿をあらわした。そして、どろどろに溶けだした肉の壁の内側から、種子がはじけるように大量の触手があたり一面を侵食するかのように広がり始めた。
「あれは......?」
「灰の女王。俺たちの最大の敵だ」
 わたしの疑問に影法師さんは端的な言葉で答えた。あの貪食する肉の群れが女王......? というわたしの疑問は、触手がある程度広がったあとの姿を見て完全に消えうせた。
 触手の群れの中心には一人の銀色の髪をもつ佳人の姿があった。彼女は蠢き合う触手の中で、両手両足を肉の壁の中に埋め込まれた一糸まとわぬ達磨の状態で、瞳を閉じて静かに佇んでいた。彼女の身体のあらゆる箇所を無数の触手が蠢き合い、その胎は臨月のようにぽっこりと膨らんでいた。
 ふと、はるか百メートル先の彼女の小さな口が動いたような気がした。「みつけた」と。
 その次の瞬間、ぼこりと泡がはじけるような不気味な音が鳴り響き、肉腫に覆われた地面から二本の巨大な腕が姿を見せた。どろどろに爛れながらも、なんとか形状を保ち、空にその指先を躍らせている。その高さは高層ビルの屋上よりも高く、半径は優に20メートルを超えていた。二本の腕は揺らめきながら、わたしたちの菅方を俯瞰していた。
 突如として、地面にその腕が叩きつけられた。大地が大きく揺さぶられ、あらゆるものが宙に舞い上がった。
 次の瞬間、倒された二本の腕は周囲の空間すべてを薙ぎ払った。粉砕されたあらゆるものを巻き上げながら、四十メートルを超える高さの瓦礫の津波が周囲すべてを更地へと変えていった。
「神楽くん!」
 阿川は【vorpal bunny】によって生み出された大剣型の聖別機を解除すると同時に神楽のもとへと駆け寄り、少女の身体を掴むと一気に地を蹴って飛翔した。
 兎としての能力が飛翔を助け、彼らの身体は触手の腕を大きく飛び越える。そして更地と化した肉の地面に一瞬だけ着地し、迷いなく灰の女王から逃れる方向にジャンプした。
 神楽も阿川の撤退の意図を即座に理解し、【Dreadnought】の反動吸収装置を解除した。夜空に向けて雷霆を全力で一斉射した。夜空を轟雷が駆け巡り、聖別機から放たれたエネルギーは推進力となって神楽と阿川をはるか後方まで撤退させていく。

 一方そのころ、わたしは影法師さんに抱き抱えられたまま、女王と対峙していた。迫りくる瓦礫の大津波に対して、わたしを抱き抱える影法師は右手に黒の長剣を構えると、そのまま一直線に女王の懐へと迫った。
 刹那、花が開くように、膨大な数の触手が四方八方からあふれ出し、わたしたちに向かって襲い掛かかる。影法師は地面を力強く踏みつけ、弾丸のような速度で迫りくる触手の群れを右手の刃一つで的確に切り裂いていく。影の刃に触れた触手は黒色に染まり、次の瞬間には塵となって消えていった。
 そしてさらに地を蹴って、一歩踏み込むとそこは触手によって形成される肉の繭の内側、女王の胎内だった。わたしという異物を排除するために、文字通り桁違いの量の触手が迫り来る。その直後、わたしたちのすぐ後ろを膨大な量の瓦礫の波が通り過ぎていった。あと一歩でも前進が遅れていたら、きっと二人とも飲み込まれていたに違いなかった。
 影法師はあらゆる角度から迫る触手を切り伏せていった。鞭のようにしなる触手を分解し、弾丸のように突進する触手を刃で以て受け止める。
 しかし多勢に無勢であった。突如として彼の胸に巨大な穴が空き、そこから黒いタールのような液体が零れ落ちた。きっと、彼はわたしに命中する触手を優先して防いでくれているのだろう。わたしはその事実に泣きそうになった。しかしわたしにできることは何一つとしてなかった。
 影法師の剣が女王と十メートルの距離にまで迫った。影法師は全身から血のような黒い影を流しながら、わたしを守るというハンデを抱えながらもここまで肉迫したのである。
 その時だった。これまで無感情に瞳を閉ざしていた苗床の少女が、ようやくに顔をあげた。ゆっくりと瞳を開ける。その眼球は白衣の男や阿川、神楽ちゃんが聖別機を用いた時と同じ、否、それ以上に深紅を宿していた。
 刹那、赤鴇色の空に無数の光明が瞬いた。同時に影法師は身を翻す。上空数千メートルの位置に設置された女王の分身から発射された弾幕が、流星群のようにわたしたちめがけて降り注ごうとしていることが即座に理解できた。
 影法師は肉壺を蹴りつけると、そのまま苗床少女の佇む中心部を横切って、前進した。夜空には、無数の弾幕が流れ星のように降り注ぎ、上空数百メートルで花火のようにはじけ飛ぶ景色が見えた。まるでキャニスター弾のように空中で炸裂した弾幕は、膨大な数の子弾をまき散らして地表を薙ぎ払う。犠牲を顧みることのない徹底的な焦土化が視界のすべてを残骸の山へと変えていった。
 わたしはどういうわけかその状況の中生き延びていた。いや違う、弾幕が地表に到達すると同時に触手の海を抜け出した影法師さんに庇われたのだ。彼は右ひざをついた状態で黒の剣を握り、わたしのことをしっかりと抱きしめ続けた。
 しかし彼の身体には無数の穴が開き、そこら中から黒い影が流れ出していた。白かったわたしのコートも彼のタールのように黒い血でぐしょぐしょになっていた。
 わたしは悔しかった。影法師さんはわたしのためにここまでしてくれたのに、わたしは何もできないのだ。彼はそんなわたしの様子を見て、安心させるように笑うと、ぼろぼろの左手でわたしの視界を覆った。そして小さな声で囁いた。
「大丈夫だ。安心して眠ってくれ......」
【第三章】

 気がつけばわたしは寝台の上に寝かされていた。もう眠気はない。こんなにもぐっすりと眠ったのは何年振りなのだろうかと思うほどに目覚めがよかった。
「目を覚ましたか」
 影法師さんは手に持っていた本をパタリと閉じて、何でもないように言った。
「ここは......?」
「あれから何とか逃げ延びてホテルの一室だ。他界に迷い込みながら、気持ちよさそうにぐっすりと眠るのは流石、とでも言うべきか」
 少し呆れたように呟く影法師。どうやらわたしが起きるのを待っていてくれたようだった。なるほど、だからこんなにも気分がいいのかもしれない。
「助けてくれたのね。ありがとう影法師さん。本当に」
「死なれたら困るだけだ」
「それでも」
 時計を見ると、夕方の六時、窓の外からは夕日がのぞいている。影法師は気をきかせてテレビのスイッチを点けてくれた。
 六時のニュースはいつもの通りだった。アメリカの大統領選挙と日本の経済と、交通事故についてしか報道されていない。
 わたしのせいで港町にすむ数百人規模の人命が喪われたという事実に、世界の人々は誰も気がついていない。神戸からの中継では、膨大な数の崩れた建物や未だに食べきれていない死体が映し出されているのに、リポーターはそのことにまったく気づくことなく、街ゆく人々に平然と醜聞じみた質問を繰り返していた。
「ありがとう......冷静になった」
 わたしの言葉に影法師さんは小さく頷くと、テレビの電源を切った。わたしはとりあえずベッドから起き上がろうとした。しかしその瞬間、ずきりと眼球の奥が痛み、瞼に指をあてた。わたしは腹筋から力が抜けてベッドにパタリと戻されてしまった。
「どうした」
「ちょっと頭が」
「無理もない。ひたすらに休め」
「ありがとう。そうさせてもらう」
 わたしはそう言ってもう一度瞳を閉じた。まるで眠くはないけれど、また頭痛に襲われることがおそろしかったのだ。
「......他界を開いたことにお前の責任はない。お前はただ門として選ばれただけだ」
「慰めてくれるんだ、見かけによらず優しいのね」
「......」
「ありがとう」
 わたしが「ありがとう」とか「大好き」とか言うと、影法師さんはきまって黙ってしまう。これは昔からそうだった。しばらく心地いい沈黙が続き、ふと何か思い出したようにわたしに尋ねた。
「......なぜ起きようとした?」
「晩ご飯を食べようと思った」
「なるほど。心配は不要だったか」
 彼は愉快そうな口調で呟くと、しばらく席を離すと言った。そして部屋の中から影法師さんの存在感? のようなものが消えてなくなった。なぜだか、影法師さんがいないことを寂しく感じた。
 わたしは瞼の裏の暗闇で、彼の言葉を反芻する。どうして影法師さんはわたしのことを助けてくれるのだろう。わたしは彼に何かをした記憶はなかった。生まれてこのかた、なんとなく彼に愚痴を言ったり、相談をしたりと一方的におしゃべりに巻き込んできただけだった。面倒くさがられる理由はあっても、こうして何かをしてもらえるような理由は思いつかなかった。
 ......それならば、逆にわたしは影法師さんのことをどう思っているのだろう。命を助けてくれた恩人? お話をだまって聞いてくれるお友達......? どれもしっくりこない。
 もし、わたしがもっと感情が豊かだったら体当たりなやりかたでも、彼に色々と突き付けることができたかもしれない。そのまま、何らかの形で前に進むこともあり得たかも。そんな気力すらわいてこない、無感情なわたし自身がもどかしかった。
 ふと部屋の空気が動いた。瞳を開けなくても影法師さんが帰ってきたのだとわかる。けれどわたしは、なぜだか嬉しくなってしまって、そっと瞳を開けた。頭痛はしなかった。
 彼の手には小さな土鍋が握られていた。わたしは頭痛がしないようにゆっくりと起き上がると、土鍋を受け取った。中には炊き立てのお粥が入っていた。
「いいの......?」
「ああ」
 わたしはベッドに腰かけたまま、スプーンを使ってお粥を口に運んだ。優しいお米の味が口の中に広がった。
「おいしい......ありがとう」
「......」
 影法師さんは黙ってしまった。けれど彼はわたしの影なのだからわかる。きっとこのお粥は影法師さんが、彼らの住む世界に戻って、そこで材料を集めて炊いてくれたものなのだろう。彼はどんな表情をして、これを作ってくれたのかな、なんて考えると少しうれしくなった。
 黄泉戸喫という言葉がある。日本神話において、伊邪那美命は黄泉の国のものを食べてしまい、黄泉の国の住人となった。ギリシア神話では、デーメーテールの娘ペルセポネーは、ハーデースから渡されたザクロの実を食べてしまったことで一年の三分の一を冥界で暮らすこととなった。......いまこうして、異郷のものを食べているわたしはどうなのだろう。わたしも影法師さんの世界の住人になれるのかな。......そうだったらいいのに。
 ベッドの上からちらりとホテルの部屋を覗くと、部屋の四隅には紫水晶が見えた。わたしをあの女王や人間たちから守るために彼がおいてくれたのだろう。わたしが熱心にお粥を食べている様子を見て、影法師さんは少しだけ、ほとんど顔には出さないけれど目を細めて笑った気がした。
「尋ねないのだな」
「何を?」
「他界について、女王について、......、ほかにもわからないことは多くあるだろうに」
「あまり興味ない」
「そうか」
 そっけなく答えるわたしに対する、影法師さんの反応はどこか愉快そうだった。
「では説明は省こう。お前はあの怪物みたいな女王に命を狙われている」
「そう」
「恐ろしくはないのか?」
「それよりもお粥のおかわりと、熱いお茶がこわい」
 彼はどこか安心したように「......そうか」と返すと闇の中に溶けて消えた。

 わたしはあの「他界」について自分なりの直感的な認識をもっている。それはあの門が開かれた瞬間に、脳に飛び込んできた膨大な原質的なイメージだった。しかし、わたしはこの認識にそれ相応の自信を持っていた。
 ......他界とはすなわち神である。もっとも、神という言葉が指している対象は、わたしたち現代人が普段神社に行って「神様」と拝むものとはかなり異なっている。ここでいう「神」とは、あらゆる言語を、もちろん神という単語ですら絶対的に超越した究極者のことだ。
 男と女、生と死、善と悪、私とあなた、これとあれ、光と影、......。こうしたあらゆる二元的な対立軸に分化される以前の根源的な「一者」。それこそが神であり「他界」である。あれは純粋的な原質の海だ。あらゆる時間場所に偏在し、人間の意識作用をはるかに超越した、語りえず、考ええない何かだ。
 もちろん、そのようなものをわたしたちは意識することはできないし、認識することもできない。だからこそ、わたしたちはあの「他界」を意識の領域へと持っていくため、無意識や阿頼耶識によって個人の経験と結び付ける。このことによって、本来認識できないはずの他界を意識作用に変えていくのだ。
 ぱっと浮かんだ直感的な認識ではあるが、わたしは自分の信念が間違ったものであるとは思っていない。しかし多くの疑問は残ることになる。
 では怪異とは何か。なぜ人々は他界に対して同一の意識を持つのか。神祇省職員が持つ聖別機という武器はどのように他界を用いるのか......。わからないことは多かった。しかし、わたしはそれでもいいと思っていた。言語というナイフを使って超越的なものの断面を覗くことに特別な意味があると、わたしには思えなかった。
 部屋に影が戻ってきた。彼はまた土鍋にお粥を入れて、あついお茶を持ってきてくれた。
「ありがとう」
 そうお礼を言って土鍋を受け取る。二度目の黄泉戸喫も美味しかった。真理なんていらない。わたしにはこの影法師さんと一緒にご飯をたべるその須臾だけで十分だった。彼はふと、思い出したかのように語り始めた。
「昔話をしよう。あるところに一人の娘がいた。そいつはお前と同じように門の能力を持っていて、ついにはその才能によって、自らの能力を神の領域にまで高めていった。しかしある時、そいつは醜い触手の怪物に襲われてしまう。あまりに純粋無垢だった娘は戦い方すら知らず、そのまま触手の怪物の胎内へと消えていった。しかし、何を間違えたのか、その娘はスクリオトトロスという醜い触手に恋をしてしまう。そうして神の領域にまで達したはずの自らの魂を二束三文で怪物に売り飛ばした娘は、死後の安寧も、天国もすべてを投げ捨てて、ただの怪異になり下がった」
「それがあの女王なの?」
 彼は小さく首肯すると「馬鹿な女だよ」と付け加えた。


 時計の針は気がつけば夜の十時を指していた。影法師さんは何も言わずに椅子にこしかけて本を読んでいた。「何を読んでいるの?」と尋ねると「金枝篇」とそっけなく答えた。
「人類学に興味があるの?」
「そういうわけではない。しかし、これは人間による他界観測の記録だ」
「そういう見方もできるのね」
 彼は小さく頷くと、真剣そうな表情でこちらを向いた。
「お前は生きたいか?」
 その質問は核心だった。わたしはすぐには返事することができなかった。
「わからない」
 なんとか絞り出した答えだった。わたしは「門」として多くの人を殺した。他界からあらわれた彼らが人を殺していく姿を観測し続けてきた。あの白衣の男も、阿川という老人も、後輩の神楽ちゃんも、わたしは死ななければならないと考えていた。きっとそれが、正しいことなのだろう。
 男はそっと目を伏せた。その表情はどこか哀しげだった。わたしはなぜだかそれが辛かった。影法師さんはきっと、わたしに「生きたい」といってほしかったのだと思う。わからない。考えがまとまらない。けれど。
「わたしは......」
 何かを言おうとした。しかしその瞬間にパキンと軽い音が部屋に響いた。四隅に置かれた紫水晶の一つが音を立てて粉々に劈開する。そして順番に二つ目、三つ目と次々と割れていった。
「......つ」
 わたしは猛烈な頭痛を感じて、額を抑えた。影法師さんはそんなわたしを守るようにして眼前に立ちはだかり、右手に黒の刃を握った。
 次の瞬間、世界は紅に埋め尽くされた。清潔感のあったホテルの一室は内蔵の内側のようなどす黒い赤色をした小部屋となり、シルクのベッドは肉の塊となって脈打ち、電灯は青白い炎に変わった。部屋の床も一面が臓物のパイプで埋め尽くされ、その中から無数の眼球がわたしを見つめていた。
 ――来る。生暖かい空気が揺らいだ。怪異の王が、女王が、わたしを殺しにやってくる。
「下がれ、雪」
「いま雪って......」
「そんなことはいい、灰の女王が来る」
 臓物の床か一人の佳人が姿を見せた。彼女は触手の群れに身を委ね、一糸まとわぬ姿で佇んでいる。触れれば壊れそうなほどに華奢な手足は醜悪な肉塊にみっちりと隙間なく埋め込まれ、白磁の肌は蠢く触手が我が物顔で這いまわり、白濁の粘液で汚されていた。触手の粘液に塗れてまとまった白銀の髪が足元まで伸びていることから、少女がこの肉壺の中で相当の年数を過ごしたことが伺えた。しかし、異質な容貌の中でもひときわ目を引くのは、彼女のぽっこりと膨らんだ臨月の腹だった。窈窕は両目を閉じたままぴくりとも動かない。ただ膨大な触手だけが彼女を大事そうに抱き抱えたまま、そこに蠢いていた。
「灰の......女王............」
 わたしは呆然とその名を呼んだ。
「雪!」
 影法師の声、わたしはぱっと手を引かれ、そのまま彼に抱き抱えられた。その瞬間、灰の女王はゆっくりと瞳を開けた。眠たそうにのんびりとこちらを見つめる。わたしは気がつくと、彼女の燃えるような紅の眼球をすいこまれるように眺めていた。
 刹那、部屋のあらゆる箇所から触手が噴き出した。まるで沈没する船の四方八方から海水が流れ込んでくるように、あまりに膨大な数の触手が部屋のすべてを覆いつくしていく。足元を見ると、触手に覆われた影法師さんの両足がどろどろに溶解され、吸収消化されて消えて行くのが見えた。
 黒い炎が瞬いた。次の瞬間、わたしは浮遊感に包まれる。新月の夜に星が瞬いていた。はっと振り向くと、部屋のすべてが完全に肉の塊と化したホテルの一室が見えた。どうやら影法師さんはわたしを抱き抱えたまま、部屋の窓を突き抜けたらしかった。シュウシュウと音をたてて溶解された彼の両足が回復していく。その向こうで肉の壁が蠢いたような気がした。
「影法師さん!」
 わたしは叫んだ。彼ははっと何かに気がついて、肉に埋め尽くされたホテルを振り返る。それと同時に朱色の光線が夜空に光条を描いた。わたしたちを目指して一直線に向かってくる。しかし、彼の突き出した右腕に触れた瞬間、赤の光線は超重力によって七色の虹に分かれてオーロラのように夜空に広がった。
「大丈夫......?」
「ああ」
 さっと彼が右腕を振るうと、完全に失われたはずの腕が元通りになった。それだとしても、かなりの霊的なエネルギーを消費したには違いなく、昨夜の戦闘のダメージもあるのだろう。彼の口ぶりには明らかな疲労が見てとれた。極彩色の虹は未だに空に残っていた。
 影法師さんは即座に判断すると、空気を蹴り付け、夜の町を飛翔した。俯瞰する都市には膨大な数の電飾が瞬いている。ここは神戸の中心部だった。もしここで戦闘が始まれば、また数えきれないほどの犠牲者を出すことになる。そう判断したわたしは海の方を指さした。
 そこには巨大な人工島、ポートアイランドと神戸空港が見えた。彼は小さく頷くと、わたしをがっしりと抱き抱えたまま夜空を駆けた。

――――

 私と阿川先生が緊急出動の要請を受けたのは、夜の十一時頃、神戸支部の仮眠室でようやく眠りにつけると思ったその時だった。
 話によれば、先日の如月雪が引き起こしたものを超える大規模な領域崩落現象が市街全域で発生しているらしかった。震源地はマーレボルジェという港湾部にある高層ホテルだった。そして問題なのは、この破局的な領域崩落現象を引き起こした起点こそ、如月雪の命を狙う怪異「灰の女王」だった。
 阿川先生の運転するビートルの助手席で、私は神戸支部との通信を代行していた。先生は木下調査官の血がシートに残っていて顔をしかめていたが、緊急事態ということだから仕方がないとそのまま乗り込んだ。
「了解、神戸支部。こちら下府。指示通り灰の女王を叩き、神祇省本部からの応援の到達までの時間を稼ぎます。以上」
 私は通信を終えると阿川の横顔を眺めた。表情はどこか嬉しそうに見えた。
「私の顔に何かついているか?」
「いえ。嬉しそうですね」
「勿論だとも。今回の仕事は人殺しではなく、暴れる怪物を抑えることだ。こちらのほうがよっぽどいい」
「ええ本当に」
 私の頭に浮かぶのは一人の少女の姿だった。如月雪。私の通う中学校の一つ上の先輩で、私の友人、私の尊敬する人。そして私が殺さなければならなかった人だ。
 私と阿川先生は、雪先輩を人類社会のために殺そうとしたけれど、彼女を守る影の怪異と、彼女を殺そうとする怪異の女王の出現によって撤退を余儀なくされた。
 しかし今回、私たちに与えられた仕事は、神祇省本部から調査官の応援が到達するまで、灰の女王の注意を惹き続けることだった。私に死に対する恐怖はもはやなかった。それ以上に、今度こそ雪先輩を助けることができるのだという喜びがあった。
「なあ、神楽くん。たしか記録ではあの少女は自らの肉体を再生させてみせたのだよな」
 阿川先生は通信が切れたのを確認すると、愉快そうな口調で私に語り掛けた。彼がこうして私のことを「下府くん」ではなく「神楽くん」と呼ぶときはきまって、本当に私のことを案じているときか、もしくは何か悪い悪戯を思いついた時だった。
「私に一つ。考えがあるのだが」

――――

 影とわたしは、灰の女王の追手から逃げてポートアイランド南部のコンテナヤードに辿り着いた。三重に積み上げられたコンテナの上に降り立ち、わたしたちは息をついた。コンテナヤードには積み上げられたコンテナや、それを移動させるためのクレーンがずらりと並んでいた。
 わたしたちの視線の先には夜になってもなお輝く神戸の夜景があった。しかし、それ以上に目につくは、かつてわたしが影法師さんに介抱されていたホテルのあった場所に聳え立つ、巨大な肉の柱だった。その肉塊が触れている空が赤鴇色に染まっていき、段々と街の明かりが触手の波に飲み込まれていった。
 本州の新港第四突堤と人工島を結ぶ神戸大橋の赤色のアーチを、膨大な量の肉が埋め尽くしながら迫ってくる様子が見えた。この様子だと、コンテナヤードにまで灰の女王の触手が迫るまで十五分程度の猶予だろうか。
 わたしはちらりと影法師さんの表情を覗き見た。彼は堂々とした態度で佇んでいる。しかし、それはわたしを勇気づけようとしてくれている空元気なのだということをわたしは薄々と感じていた。
 わたしは息を吸った。わたしは所詮子どもだ。ただの憶病なメスガキだ。だからわたしは、自分のしたことの責任をとることはいやがるし、自分で何かを決めようとしなかった。ずっとお姫様のつもりで、誰かに助けてほしい子供のままだった......けれどわたしは、いい加減何もしなかった罪を受け入れなければならないのだと思う。
「ねえ、影法師さん」
「......」
 影法師さんはわたしの呼びかけに答えなかった。生まれてからの付き合いだ。わたしの言おうとしていることが既にわかってしまったのだろう。「それ以上言うな」と彼が思っていることもわたしは知っていた。
「わたしはあなたに生きてほしい」
「......」
「だから、わたしを殺して影法師さん。殺されるのならあなたがいい」
 わたしの言葉に彼は何も言わずに沈黙していた。しかし、かしこい影法師さんはこれ以外の選択肢があり得ないことを理解しているにちがいなかった。
 灰の女王わたしを殺そうと暴れている。その上わたしは「門」として他界をこの世界と接続してしまう。まさしく生きた災厄そのものだ。そして何よりもわたし自身、影法師さんに心臓を貫かれて死ぬのなら、それ以上の終わりはないと思っている。
 たしかに影法師さんは強いけれど、灰の女王は彼よりも何倍も大きく、そして強い。もし彼と女王がこのコンテナヤードでぶつかり合ったとしても、勝てる確率は万に一つもないだろう。影法師さんがわたしのために戦ってくれるのは本当にうれしい。けれど、その帰結はわたしも彼もわたしと共に灰の女王によって殺されるという最悪のものになることは火を見るよりも明らかだった。
 もし戦えば彼もわたしも無駄死に。でも戦わないためにはわたしが死ぬしかない。努力とか、情熱とかそういったものではどうにもできない絶望がそこにあった。影法師さんはわたしに何を言うこともできず、ただ時間だけが刻々と過ぎていった。

 その時、闇に包まれたコンテナヤードに一本の光が差した。軽快にエンジン音を響かせ、コンテナヤードに一台ポルシェ入ってくる。あの阿川という老人がハンドルを握り、助手席には後輩の神楽ちゃんが座っていた。
 彼らは車を降りると、きょろきょろとコンテナの群れを見回した。わたしは、影法師さんのほうをちらりと確認した。彼は頷くと、わたしを後ろから抱き、コンテナの上から阿川の前におろしてくれた。
「なんだ、そこにいたのか」
 阿川はいかにも好好爺といった様子で笑った。彼は両手を服の外に出して、ひらひらと手を振って見せた。左手には【vorpal bunny】を展開するデバイスが装着されているが、戦う意志はないらしかった。彼は表情を硬くして、わたしに尋ねた。
「なあ、如月くん。......君は生きたいか?」
 わたしは一瞬だけ詰まった。それは影法師さんに問われた質問と同様だったからだ。前は答えることができなかったけれど、今ならはっきりと答えることができた。
「生きたい......わたしはまだ生きていたい」
「そうかそうか」
 阿川はわたしの言葉に嬉しそうに頷くと、すっとアウターのポケットから小さな紙箱を取り出した。
「君にこれをあげよう。もし君がまだ諦めていないならば、静脈に注射したまえ」
「これは......」
「木下君の研究室からくすねてきたメヴィル症候群を悪化させる精神毒だ。もし第三期まで進行している君に注射すれば病状は第四期にまで発展するだろう。そうなれば君はかつての灰の女王と同じ神の領域まで到達することができる。そうなれば、君は今の灰の女王をはるかに凌駕する力を手にすることになるさ......運が良ければ」
「もし運がなければ?」
「君は精神毒の作用によって発狂死する」
「わかった」
 わたしは阿川から紙箱を受け取った。中には注射キットが入っているらしかった。彼としてはわたしがどのような選択をとっても損はしないのだろう。もしわたしが精神毒により死ぬことがあれば女王は手を引くだろう。もしわたしが毒に耐えて、女王を倒すというのならばそれでもいい。どちらにせよ神祇省の目的は達成されるということだった。
 阿川は言葉を続けた。
「なあ、如月くん。なぜ女王が君のことを執拗に狙うのか、その理由がわかるかね?」
 わたしは首を横に振った。阿川は満足そうにうなずいた。
「実はね、われわれがメヴィル症候群と呼んでいるこの精神障碍は、他界を支配する王を選出するための仕組みなのだよ。俗に喩えるなら将棋のタイトル戦のようなものだ。私や下府くんのような第一期、第二期の患者はそもそもゲームの対象外になる。しかし第三期。つまり君のよう他界の門にまで至った者には、いまの他界の王を殺し、次の王になる資格が与えられるのだ。......つまりだね、如月くん。君には灰の女王を殺し、次の王となる可能性があるのだ。もうわかっただろう。どうして灰の女王が君を執拗に狙うのか。そう、君に殺されないためだよ。......勿論わかっていると思うが、灰の女王を殺して君が次の女王となる場合は、君だって門に覚醒した挑戦者たちを殺していくことになるだろう。生き残るためにね。ゆえにこの戦いに正義も悪もない。ただ、遥か昔から続いてきた残酷な王位継承の儀式なのだよ」
 わたしは阿川の言葉に、何も言うことができなかった。しかし、わたしに残された選択肢は、彼の与えてくれた薬でメヴィル症候群を進行させ、わたしが女王を倒すこしかないことだけははっきりとわかった。
「神戸空港の地下には、神祇省が非常事態発生時に利用するための無人の核シェルターがある。このコンテナヤードはもうもたないだろう。もし薬を打つならば使うといい。影の能力があれば鍵はいらないだろう」
 わたしは静かに頷いた。阿川は満足そうに微笑むと、ポケットから煙草型のカートリッジを取り出し、左腕に装備したフォン・ノイマン型霊界探査機に挿入した。青白い雷光が瞬き、老人の指先に無骨な鉄の塊【vorpal bunny】が形成された。彼は背後を振り返って叫んだ。
「下府くん。武器を構えたまえ。われわれはこのコンテナヤードにて女王を迎撃する」
 神楽は阿川の言葉に頷き、聖別機【Dreadnought】を展開した。彼女はちらりとこちらを振り返ると、気まずそうに目を伏せながら言い始めた。
「雪先輩。私にこんなことを言う資格がないことはわかっています。......私は最低です。けれど、それでも言わせてください」
 彼女は一瞬ためらい、最期の言葉を口にした。
「......どうか、どうか生きてください。信じています」
 わたしは神楽の言葉に小さく頷いた。

――――

 雪先輩が影の怪異に抱き抱えられて、コンテナヤードから姿を消してから数十秒。肉の津波が私達の視界すべてを覆いつくした。
「覚悟はいいかね。神楽くん」
 阿川先生の言葉にはっきりと首肯する。......私は雪先輩を裏切った。ここでならもう一度、彼女のために戦うことができるのだ。私はその幸運を深くかみしめながら【Dreadnought】のデッドマン装置を起動する。一分でも、一秒でも、どれだけのわずかな時間であっても雪先輩のために稼いでやる。その覚悟だ。
「死ぬなよ」
「先生こそ」
 阿川先生は大剣【vorpal bunny】を構えると、触手の群れに迫った。向かう先は数キロ先にある触手の海の中心。膨大な数の触手と肉塊に守られた灰の女王の本体だった。先生は迫りくる極太の触手の群れを大剣で一閃し、切り倒す。【vorpal bunny】の効果によって、斬られた触手はその姿形を保てなくなり霧散した。私も負けてはいられない。先生の道を切り開くべく、展開した五門の聖別機から雷霆を一斉射した。夜空に雷光が瞬き、わずかに遅れて轟音と共に破壊が巻き起こった。雷霆が触手に着弾すると同時に餅のように大きく膨れ上がり、須臾のうちに膨大な熱量によって蒸発した。
 焦土と化した大地を阿川先生は大剣を鞭のようなしなやかさで扱いながら走り抜けていく。陣形の瑕疵を埋めようと集まってくる触手を【vorpal bunny】は力強く切り裂き、次々と灰色の塵に変えていった。
 轟、轟と爆音をあげながら、聖別機は雷霆を放つ。【Dreadnought】が脳にかける演算処理が限界に近づき私は眼球の奥がずきずきと痛んだが、攻撃を止めるつもりはなかった。この躰がどうなろうと知ったことではない。大事なのは、私たちの戦闘がどれだけの時間を稼げるのかということである。
 ――灰の女王はいまだ遥か彼方に佇んでいた。

――――

 核シェルターの最下層にある総合指令室にわたしは座っていた。そのすぐ後ろには影法師さんの姿があった。
 わたしは覚悟を決めると、左腕に突き立てた注射針のシリンダーを力一杯に押し込んだ。中に入っていた茶褐色の精神毒が、わたしの静脈へと流れ込んでいった。影法師さんは何も言わず、わたしのことを後ろからじっと見守ってくれていた。そんな彼にわたしは「大丈夫だよ」と言おうと背後を振り返って口を開いた。その瞬間、視界がぱっと暗幕に覆われるようにして失われた。
 

 わたしは気がつけば夢を見ていた。いま自分は夢を見ていると認識でき類の夢だった。目が覚める兆しはまるでなかった。わたしはまっくろな海の中にいた。どっちが上だか下だかもわからないまま、ぐるぐると回転していた。することもないので、口を開けてまっくろな水を飲み込むと、□□□□の□□□□□□が□□□□□□□□□□だった。□□□□□□□□は□□□□□□□□□□□□に。□□□□の□□□□□□□□。しばらくして、嚥下したまっくろな水が胃の奥に吸い込まれていった。わたしはこの精神毒の作用が何であるか、この最初の時点で理解できた。きっと、この水は主体と客体に分化される以前の純粋経験を、情報量を減らす形で患者に経験させるためのオブラートだ。わたしはもういちど口を開き、まっくろな水を口いっぱいに飲み込んだ。

 このまっくろな水を吸い込んでいるうちに色々なことが分かってきた。このまっくろな水は他界によって与えられる□□□□を□□□に□□□□することによって□□□□するためのものだ。言語化することのできない超越体験を比較的安全な形で□□するために□□□□□□□□するものと考えられる。

 まっくろな水を飲み続けて、はるかに長い時間が過ぎた気がする。わたしは時折、なんのためにこのくろい海に浮かんでいるのか、忘れそうになることがある。それほどまでにわたしは長い時間をこの海ですごしてきた。

 わたしはくろい水の中におぼれていた。飲めども、飲めども水はつきない。けれど飲むたびにわたしが溶けていく様子がはっきりとわかった。わたしとあなたの境界がぼやけていく......。わたしは......誰だったのだろう。

 気がついたときには、まっくろな水はわたしのまわりからなくなっていた。そして残されたのはただ広大無辺なだけの真っ白な空間だった。口を開けてみても何も入ってこない。なぜたか退屈は感じなかったけれど、わたしはこの白の世界に浮かんでいることしかできなかった。わたしは何をすればいいのかも忘れてしまった。

白。白。白。白。白。白。
白。白。白。白。白。白。
白。白。白。白。白。白。
白。白。白。白。白。白。
白。白。白。白。白。白。
白。白。白。白。白。白。

 白の世界で永遠にすら感じられる時間をすごしてきたわたしの胸に、とつぜんある感情が沸き上がってきた。それは孤独であった。ようやくわたしはこの世界で一人ぼっちな。ことに気が付いた。

 孤独の二文字が心に浮かんでからというもの、心が晴れない瞬間はなかった。あまりに遠すぎて過去のことも未来のこともわたしには遠すぎてわからない。けれど、わたしはかつて「何か」と一つであったという確信だけは確かにあった。かつて一つだったものが切り落とされていまのわたしになっている。
 ......そうだ影だ。この世界には影がない。

 はっとそのことに気がついた瞬間、わたしはすべてを思い出した。――夢が覚める。

「どうやら生き延びたようだな」
 わたしが目を覚ますと、影法師と視線が合った。口調は平然とした様子だけれど、片時も目を離すことなくわたしを見守っていてくれたのだということはすぐにわかった。時計を見ると、わたしが注射してから十分程度しか経っていなかった。わたしは彼を安心させようと、明るい口調でこたえた。
「ええ、おかげさまで」
「............そうか。それはよかった」
「やけに素直だね」
「そんなことはない」
 わたしは試しに軽く念じてみせた「指令室の埃よ、すべて消え去れ」すると指令室全体が青白い光で包まれて、指令室は完成当初の状態に戻った。
「これなら女王だってかなわないかも」
「ああ......そうだな」
「どうしたの、喜んでくれないの?」
 わたしの言葉に影法師は少し黙ると、何かを隠すように、いつも通りを装って答えた。
「本当に良かったと思っている」
「嘘でしょ」
 わたしは彼の瞳をじっと見つめた。はじめは首を振るばかりだったが、しばらくしてようやく口を開いた。
「お前は祝福された。......第四期はお前が死なずにすむたった一つの冴えたやり方だ。どうか認めてくれ」
「どうい......」
 わたしの言葉を待たずにどくんと音を立てて心臓がふるえた。わたしはそこで初めて、自分の身体や精神、そして魂が、徐々に別種の何かへと変わろうとしているということを理解した。
「なるほど。わたしは本当の意味での神になるのね......」
 阿川の手渡した精神毒が適合し、「わたし」という肉体の殻にひびを入れた。それによって、上位次元の存在への進化の道が切り開かれたのである。わたしはこのメヴィル症候群の第四期の発症こそが、全人類が夢見て、そして目指し続けてきた進化の到達点なのだということを理解した。
 既に賽は投げられた。坂道を車輪が下っていくように、時間がたつにつれてわたしの魂は本物の超越者、すなわち他界そのものへと書き換えられていくだろう。この変化の速度だと、人間の肉体は一時間ももたないに違いない。
 もちろん、わたしはこの人為的進化こそが一番の正解であるということを理解している。わたしは女王に殺されて確実に死ぬ。もし万が一の確立をひきあてて女王を殺せたとしても、次の挑戦者による死を恐れて人を殺す運命だ。しかし、もしこのまま神の領域に到達することができたのならば、女王など何も恐ろしくはないし、運命なんていくらでも塗り変えられる。だから、わたしはこのまま進化を受け入れるべきだ......。

「......ありがとう」
 わたしは何も言わずに見守ってくれていた影法師さんに、これだけははっきりと伝えた。そしてわたしはじっと彼の瞳を見つめた。
「ねえ」
「どうした」
「影法師さんは女王のことを馬鹿な女と言ったよね」
「ああ」
「神の力を手にしながら、スクリオトトロスという低級な触手怪異に神にも等しい魂を二束三文で売り飛ばした馬鹿な女だって」
「ああ。そうだな」

「......それじゃあ、わたしも馬鹿なのかな」
 わたしはそう言って、影法師さんを押し倒した。
 ......わたしは夢の中で正気を失いかけた。わたしがあの精神毒を耐えることができたのは影法師さんがわたしのそばにいてくれることを知っていたからだった。
 メヴィル症候群の第四期へと覚醒しつつあるわたしは、いま自分が徐々に異次元の存在へと変貌しつつあることがわかった。このまま時間が過ぎ去れば、わたしは灰の女王などはるかに超えた本物の超越者となるだろう。
 ......でも、そんなものはいらない。

「何を......」
 影法師さんが何かを言おうとする前に、わたしは彼の口を接吻でふさいだ。初めてのキスの味はよくわからなかった。けれど、わたしの心は、これでわたしは影法師さんのものになれたと歓喜していた。
「わたしはそんなものいらない......天国も、全能も、一者も、永遠も、神様だっていらない。わたしはただ、あなたと生きていたい。この世であなたに仕えたい」

 影法師さんは何も言わない。ただ、力強くわたしを抱きしめた。今度は彼が強引にわたしの唇を奪った。その瞬間、わたしの身体から神聖な力が消えていった。目と鼻の先に思えた神の座がすっとかき消された。わたしの魂がどこまでも地続きの現実に押し戻されていくのがわかった。
 怪異は接吻を接吻で返すことによって、その相手を生涯の伴侶と認める。怪異の伴侶となった者はもはや、怪異に他ならない。霊薬の効果は反転した。わたしは神に近しい存在の位をそのまま反転させる形で、最悪の怪異へと変貌する。これが、人間たちのいうメヴィル症候群の終末期、すなわち「怪異化」であった。わたしはここではじめて理解した。阿川は、きっとわたしのこの結末を予想していたからこそ、あの助言を添えて霊薬を渡したのだろう。

 皮肉にも、わたしは灰の女王と同じ結末をたどった。彼女は自らの才能によって。わたしは阿川から渡された霊薬によって、神の領域に触れることができた。しかし怪異への恋情によってその昇り詰めた魂は反転し、災厄もたらす怪物になり果てたのである。

 名残惜しくも唇を離すと、わたしの身体は不可逆的に怪異のものへと変化していた。わたしの髪は、外が光すら併呑する漆黒に、内側が夕日のような赤鴇色のインナーカラーに染められていた。眼球は紅に爛々とかがやき、白い肌の表面には、赤黒い幾何学的な紋様を描いた刺青が深く掘られていた。内蔵はすべて消失し、身体の皮膚一枚隔てた裏側は影法師さんと尾内ように、タールのように黒く濃い影が満ちていた。
 わたしは影法師さんの方をちらりと見た。彼は少し気まずそうな表情をしながらも、わたしの姿を背後から覗き、どこか嬉しげに佇んでいた。
「ねえ、影法師さん。結婚というのは分化された二つのものがもういちど一つに戻る儀式なの。たとえば男と女、陰と陽、光と影、生と死......」
 わたしはそこまで言うと、彼の身体をもう一度抱きしめた。そして耳元で囁く。
「ありがとう影法師さん。わたしをあなたにしてくれて。あなたをわたしにしてくれて」



 ゴウン。ゴウン。はるか上にある核シェルターの入り口を塞ぐ円形扉を、質量の塊が殴りつける轟音が響き渡る。刃渡り三十センチほどの短い刃を右手に、わたしは地下シェルターの螺旋階段を疾走した。鉄の階段を踏みつける音を、はるか地の底に置き去りにして。
 契約により、わたしと影法師さんは完全に同化した。それはまるで、スクリオトトロスと灰の女王がそうであるように。わたしは影となり。影はわたしとなった。

 わたしが地下シェルターの入り口にまで戻った瞬間、巨大な触手の腕がシェルターの円形扉を完全にへし折った。腕の根元には白銀の髪の少女が触手に身を委ね、わたしのことを俯瞰していた。二人の視線が交錯したその瞬間、戦いの火蓋は切って落とされた。
 膨大な量の肉が一斉に狭い地下シェルターの入口へと押し寄せる。そのまま一気にわたしに迫り、押しつぶそうとした。質量の塊が眼前にまで迫った。
「......!」
 わたしが肉の塊にナイフの刃を突き立てた。その瞬間、巨大な触手の動きが完全に静止する。そして一瞬の間隙ののちに触手の腕は黒い塵となって虚空へと消えうせた。ナイフに一滴の血もついていない。ただ、刀身に満ちた影が静かに蠢くだけだった。
 わたしの朱色の瞳が輝く。その刹那、この島のすべてが暗闇に包まれた。暗闇、ほんのわずかな光すらない完全な闇――光も臭いも感覚さえも消えうせた完全なる消失の世界をわたしの能力により創出する。

 わたしと影法師さんこそ漆黒世界の王であった。あらゆる感覚が失われ、触手がまったく機能しなくなる三秒間。しかし、わたしたちはむしろ暗闇の方がよく見えるのだ。間隙を縫って一足飛びに女王のもとへと距離をつめ、ナイフを振り下ろした。闇が晴れた。同時に短剣が灰の女王の心臓に突き立てられようとした。
 ――その瞬間、彼女の紅の眼が開かれた。彼女の瞳も私と同じ爛々と輝く赤色をしていた。影を纏った短剣が突き刺さる直前に塵と化した。わたしと灰の女王との距離は一メートルもない。もはやそこに言語はなかった。

 女王は肉の海の中に身を沈めて静かにこちらを見ている。彼女の両目が見開かれ、霊力がはじけた。
 ――右、下、上、右。わたしの肉体めがけて一切の物理的制約を無視した破砕の概念が迫ってくる。わたしは彼女の攻撃と同時に身体の内側から影の剣を生み出し、迫りくる破砕を相殺する。
 ――右、下、右、右。上、上、下、下。左、右、左、右。鈍い音が響き渡り、力と力の衝突が続いた。
 ――右、下、上、右。四発の同時だった。攻撃の三方向を体内から射出した影の刃で受け止めながら、ナイフを持った右腕を振り上げる。わたしがあえて放置した右からの破砕が一つわたしの下半身へと食い込んだ。一瞬遅れて莫大な衝撃波が肉体を粉砕した。下半身が吹き飛ばされ、ばらばらに飛び散った。
 しかしわたしの胴体にはもはや内臓も骨も入っていない。ただどす黒いタール状の液体が血のように撒き散らされるだけだった。わたしは上半身だけの状態のまま、灰の女王へとナイフを振り下ろした。彼女の脳天から縦一文字に切り裂いた。
 わたしの攻撃を受けて、灰の女王の身体はぱっくりと裂けた。しかし彼女の体内もわたしと同様に内蔵は入っていなかった。切り裂かれた白い柔肌の裂け目から、膨大な量の触手の群れが零れ落ちた。彼女の身体の中に内臓や骨はなかった。肋骨のように配置された触手の管、それが蠢くばかりだった。
 宙に浮かぶわたしの身体を捕えようと無数の触手が裂け目からその腕を伸ばした。わたしはすばやく下半身を再生させると、再び影のナイフを握りしめ、それらの触手を切り裂いていく。
 わたしが着地すると同時に大質量の触手による薙ぎ払いが背後から迫ってきた。ナイフを後ろ手に回して受け止める。その瞬間、超高速で触手の鞭が正面から迫ってきた。ナイフの転換が間に合わず、わたしの身体に肉の柱が食い込んだ。猛烈な嘔吐感と共に、裂けた皮膚から黒い血液が零れ落ちた。
 死んでもいい。けれど死ぬわけにはいかない。あの人のためにわたしは生き延びなければならない。生きる。そのためには殺さなければならない。わたしはナイフを握りしめた。


 あらゆるものを併呑する暗闇と、あらゆるものを貪食する触手の衝突は日夜をまたいで続けられた。互いに決定打となる能力はなく、影は触手を呑み込み、触手は影をとりこみ続けた。
 この戦いの最終的帰結を左右したのは、意思や信念などではなく、純粋にして残酷な、怪異どうしの能力差であった。すなわち、低級触手の怪物がベースでは、いくらそれを運用する灰の女王の能力がすぐれていたとしても、影の怪異の性質に力負けし続けたのである。
 漆黒の闇が人工島を覆いつくし、触手の群れは女王をこの闇夜の王から守るための最低限の服として蠢くだけになった。灰の女王は膝をついてわたしに恭順の意を示した。

「わたしの......負けです」
 このとき、わたしははじめて灰の女王の声を聴いた。鈴のような、女の私でも何か心動かされるような美しい声だった。わたしはナイフを握りしめた。
 灰の女王は自らの服だけになってしまった触手たちを力強く抱きしめると口を開いた。
「わたしの命はいりません......この子だけは殺さないでください............」

 かつてのわたしならば、何の躊躇もなく命を奪っていたことだろう。しかし、いまのわたしには彼女の胸元へ刃を突き立てるということがどうしてもできなかった。
 敗北してもなお灰の女王は狂っていなかった。彼女の膝を屈しての命乞いは、敗軍の将校の見苦しいそれではない。灰の女王の敗北の原因は、触手を武器とし続けたことの一つだけだった。もし彼女がほかの怪異と恋に落ちていたとしたら、きっと私などでは手も足も出なかっただろう。
 しかしその恋情は本物であった。灰の女王はこのもはや力を殆ど失った触手の怪物の残滓を一分一秒でも長く生かすためならば、どのようなことでもやってのけるだろう。きっと、......わたしだってそうするに違いないから。
 わたしはどうしても殺すことができなかった。
【第四章】

 夜の神戸、その場末の地下に店を構えるすきやきバーがあった。その店の他の客からは離れた防音のコンパートメント席に、その主従の姿はあった。
 一人は白銀の髪を足元まで伸ばした少女。かつて灰の女王と呼ばれていた怪異の成れの果てだった。そして向かい合って座る(?)彼女の主人こそ、子供のように泣きじゃくるこの女王をあやしなだめる苦労人の苗床触手、スクリオトトロスという異形だった。
「うわああんごめんねぇぇ、スクちゃん......わたし負けちゃったよぉぉ」
 灰の女王は如月雪に負けてからというもの、ずっとこのとおりだった。子供のように泣いて、拗ねて、頬を膨らませて。まるで何百年か前に戻ってしまったようだ。
 ......その割に彼女はちゃんと自分の器に生卵をといて、積極的に神戸ビーフを煮立った鍋の中からかっさらうことだけはちゃんとやっているのだから器用なものである。
 この元女王の醜態に苗床触手はほとほと困り果て、ため息(?)をついた。
 彼が考えていることはただ一つ、どうしたらこの我儘お嬢様の気が収まってくれるのかということだけだった。彼女が敗北し、命乞いまでさせてしまった原因が完全に触手という生物の弱さにあるのだから、彼としては思うところはそれなりにあった。だから、このお嬢様がこれ以上自分の耳に痛いことを言わないようにさっさとなだめる必要があった。この触手は本質的に怠け者であった。お嬢様は神戸ビーフに舌鼓を打ちながら言葉を続ける。
「悔しいよぉ、あんないけすかないメスガキと影法師に負けるなんてぇ......」
 少女の言葉に触手は、自分たちを破った影の怪異のことを思い出していた。神の領域の達しながらもそれを投げ捨て、ただの一塊の怪異へとなり果てた。このお嬢様と同じレベルで馬鹿な少女に彼らは敗れたのだ。
「そういやあのガキ、昔のお前に似てたな。なら負けるのも仕方ない。あとは俺のせいだ」
 触手の言葉に白銀の髪の少女は頬を膨らませた。
「むー、スクちゃんあの女のこと考えてる」
 マジでめんどくせぇ。それが怪物の素直な感想だった。残酷なことに怪異というものはまったく成長しない。それは怪異となったお嬢様や、影の少女も同様だった。触手の怪物はまあまあ、と彼女の頭を撫でてあやした。
「しかし、なんでおれはこんな面倒な女に」
「何も知らずに異界に迷い込んだ私を捕まえてひどい目にあわせたのはあなたでしょ」
「ああ。そんなこともあったな。つくづく運がなかったよ」
「ひどーい。けどねー、大好きだよ」
 結局、すき焼きに浮かぶ神戸牛は八割食べられた。

――――

 あの夜を境に、わたしは人間でなくなり、闇夜に生きる怪物となった。だからといって何か生活が変わるわけではなかった。影の怪異になったはずなのに、なぜか人間からは普通に観測されているので隠すのに苦労した。
 具体的には肌の刺青のせいで銭湯に入れなかったりだとか、赤いインナーカラーの黒髪を地毛だと教師に認めさせるとか。まあ、それほど困ったことはなかった。しかし一つだけあるとするならば、百五十センチしかない身長が永遠に伸びなくなったことだけはそれなりに残念だった。

――教室にて――

 わたしが昼休みに読書をしていると、ちょんちょんと肩を叩かれた。隣の席の女の子だった。
「ごめん、如月さん。さっきの化学のノート貸してもらってもいいかな......どうしても耐えられなくて途中から撃沈しちゃった」
「いいよ。けどわたしの色々と書き込みとかあるからわかりづらいかもよ?」
「ううん。むしろ如月さん賢いから超参考になるし」
「そう? そういうことならどうぞ」


「如月さんって雰囲気明るくなったよね」
「これまではもうまさしく雪の女王って感じたったのに、笑顔見せるようになったもんね」
「わたしが連想するに、これは男だよ」
「あの雪の女王の心を溶かすとはどんな奴なのやら」

――ボランティア部・部室にて――

「やほー雪ちゃん、今日はなんか顔赤いね、いいことでもあった?」
「たぶん夜にデートで緊張しているからだと思いますよ。月子先輩はデート前緊張したりします?」
「うーんいつも一緒にいるからあんまりしないかも」
「そうですか? わたしはいつも一緒にいるくせに、いざデートとなると、いろいろ恥ずかしくなったりして大変になっちゃうタイプです。」
「その割には雪ちゃんの彼氏見たことないね」
「そうですね。それならまた今度、会わせてあげますよ」

――山陽本線高架橋下にて――

「見てよ神楽ちゃん。シバマタさん超かわいいでしょ」
「すごく小さくて......ぶにぶにして.........もちもちして......なんていうか、鏡餅みたいですね」
「カンロナリマスカンカンロ」
「うわ、喋った!」
「カンロカンロ。シバマタさんこんにちは~」
「えっと......こんにちは......?」
「カンカンロンカ」
「ふむふむ、カロカロカロカン」
「ちなみに雪先輩は、シバマタさんがなんて言っているのかわかっているのですか?」
「ううん。全然」

――神戸駅にて――

 金曜の夜の九時、神戸駅の中央口に待ち合わせの約束なのに、わたしは気がつけば三十分も前から駅のまわりをぐるぐるし始めていた。われながらせっかちだと思う。
 この日のデートのために神楽ちゃんと一緒に洋服を見て回ったり、ピアスをいろいろと試したりと、色々準備しているくせに、緊張で心臓はばくばくだった。カチリ、と時計の長針が十二をさす音が聞こえて、夜の九時になった。きょろきょろとあたりを見回していると、黒の外套に身を包んだ紳士が、改札の前でうろうろする私わたしに声を掛けた。そして、彼のためにしたお洒落を見て、嬉しそうに目を細めてくれた。
 
 わたしは背の高い影法師さんのあとをおいかけて、夜の街へと歩き出した。
 
【超影響を受けた書籍】


ジョーゼフ・キャンベル[1949]:
『千の顔をもつ英雄』訳 倉田真木、斎藤静代、関根光宏 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 
ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ[1988]:
『神話の力』訳 飛田茂雄 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 
J.G.フレイザー[1890]:
『初版 金枝篇』訳 吉川信 ちくま学芸文庫
 
西田幾多郎[1911]:
『善の研究』全注釈 小坂国継 講談社学術文庫


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