神と人とは相容れぬ③

きなこもち


前回までのあらすじ
 神社で出会った神・アメに導かれるまま現世(うつしよ)から離れて幽世(かくりよ)で生活するようになったユキ。
 アメにとって自分がどういう存在なのか分からないまま、ユキはアメに渡された絵馬の願いを叶える手伝いをすることに。そこで、スサノオやクシナダヒメ、ウカノミタマ、エビスなどの神と関わりを持っていく。
 初めての絵馬の願いを叶えようとしている時に出会った、願い主の友人・幸助。普通の青年だと思っていたユキは彼のことを忘れていたが、再び出会うこととなる。再会した時の幸助は普通の青年ではなく、火の神・カグツチの一の眷属という立場だった。
 幸助に連れていかれ、初めてカグツチに会ったユキは、カグツチと自分の前世、そしてアメに関わりがあったことを知るも細かいことは分からないままであった。
 その後も絵馬の願い事を叶えるために尽力するユキであったが、願い事を叶えた後、アメの神社に帰りそびれてしまう。夜に境内の外にいてはいけない、というアメとの約束の理由が分からないユキは、何故か猛烈な恐怖に襲われ動けなくなってしまう。
 そんな時、助けてくれたのは幸助だった。
 幸助はユキをエビスの神社に連れていく。
 恐怖に苛まれているユキはエビスや幸助に、アメに対する気持ちを吐露する。
 このままユキが『魔に転じる』ことを幸助は危惧したが、エビスの手によってユキは『魔に転じる』ことなく助かった。

前回までに出てきた世界観
・神社同士なら鳥居を通して移動できる。ただし、行きたい先の神社の神様の許可が必要。
・神社には御神体があり、それを通して現世と幽世を行き来できる。
・絵馬に書いてある願い主の名前に触れると、願い主本人、またはその近しい人のそばに行くことができる。絵馬に書いてある神社の名前に触れると、神社に戻ることができる。
・眷属は普通の人からは見えにくい。絵馬を持った状態で話しかけると普通の人にも認識される。
・神様は自分の認識されやすさを調整できる(らしい)。
・神物は神様の私物のこと。神様はいつでも使える。
・転生の輪:魂の行き来。輪廻転生みたいなもの。


第三章
 目が覚めると、目の前には知らない天井が広がっていた。そばには立膝をついて船をこいでいる幸助さん。
 そういえば、あまり覚えていないけれど、エビス様の所に連れてこられたんだっけ。
「お、目が覚めたか」
 頭を乱暴に掻きながら欠伸を一つ。それから、こちらを向いて顔を近づけてきた。
「顔色は大分良くなったみたいだな。ちょっと手を貸せ」
 彼は勝手に私の手を取ったかと思うと、力を入れろと言ってきた。よく分からないけれど、とりあえず手に力を入れて彼の手を握る。
「体の感覚も戻ってるな。もう大丈夫だろう」
「あの、何があったのか教えてもらっていいですか。あと、あれから何日経っているのかも」
 幸助さんはまた大きく欠伸をした。
「お前が倒れてからはまだ半日程度しか経ってない。ああ、さすがに眠い」
「ひょっとしてずっと付いていてくれたんですか?」
「ああ。お前を守るのは主からの命だからな」
 どうしてカグツチ様が私を守るように言ってくれるのか分からないけれど、そのおかげで助かったのは事実だ。
「あの、助けてくださってありがとうございました。あと、ずっとそばに付いていてくれたようで、それも、ありがとうございます」
「別にそれは構わない。それよりも。ユキ、昨日のことはどの程度覚えている?」
「えっと、ほとんど覚えていることがないんです。何が何だか理解もできていません」
 幸助さんは大きくため息をついた。
「だよな。お前の主は何をしているんだ。こんな大切なことを教えないなんて。俺のような眷属や、ツキヨミ様の眷属ならまだしも、こんなひよっこ眷属を夜に一人で放置させるなんて。その首飾りを渡している割には言ってないことが多すぎる」
 吐き捨てるように言った彼は私を見て再度ため息をつく。
「まあいい。聞きたいことは俺に聞け。包み隠さず全部教えてやる。これでもお前の何十倍も眷属をしているから」
 聞きたいことかあ。たくさんあるけれど何から聞けばいいか分からない。
 考えあぐねていると、バタバタと足音が聞こえてきた。部屋の前で止まったかと思うと障子が勢いよく開かれた。
「幸助君、すぐにどこかに隠れて!」
 エビス様が慌てた様子で早口に叫んだ。私も幸助さんも状況が理解できずに固まっていると、再びこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。幸助さんはその足音を聞いて、エビス様が言いたかったことが分かったのか隠れる場所を探そうとしたが間に合わなかった。
「ユキ!」
 入ってきたのはアメ様で、彼は私を見ると泣きそうに顔を歪めた。私のそばに膝をつくと、優しく抱きしめてくれた。
「良かった。一晩帰ってこなかったから心配していたよ。ごめん、絵馬を持ったか確認せずに送ってしまって。これからは気を付ける。さ、帰ろうか」
「少し待っていただきたい」
 アメ様が入ってきてから気配を消すようにして佇んでいた幸助さんが低い声を発した。アメ様は声の方へ振り向いて静かに言い捨てた。
「何かな。せっかく見て見ぬふりをしていてあげたのだから、口出しはしないでほしいのだが」
 アメ様の顔は見えないが、声で怒っていることが分かる。スサノオ様に対して怒っていたのとは全然違う。これは本気で怒っている。普通だったら臆してしまいそうなアメ様の雰囲気に、幸助さんは怖気づくこともなく答える。
「大事にしているのであれば、全てを話すべきだと思うのですが。今の彼女はあまりにも中途半端だ。同じ、神に仕える者として心の底から哀れに思う」
「君に何が分かる」
 アメ様から殺気が漏れ出ている。ここまで怒る彼を見るのは初めてだ。それに、この話し方からして彼らは初対面ではないのだろう。
「貴方のお気持ちなんて何も分かりませんよ。俺は神ではないのですから。俺に分かるのは、あいつの後悔と、彼女の不安だけ。でも、貴方にとっては一番大事なことではないですか、ミカ様」
「その名で呼ぶな! あの時、何もできずに見ていることしかできなかった君が!」
 初めて聞く怒鳴り声。怒るときも静かに怒る印象だったアメ様がここまで感情を高ぶらせることがあるのか。
 アメ様の発言の何かが逆鱗に触れたのか、幸助さんも声を荒げた。
「貴方がそれをおっしゃるか! そもそも、あいつがああなったのは貴方のせいでしょう! 我が主のせいではない! それなのにいつまでこのような態度を続けるおつもりか?」
 二人の口論の内容は全く分からなくて、混乱するばかり。どうにかして止めたいけれど、止めようがない。
 どうしよう。私のせいかな。私が夜までに帰ることができていたら、二人は会わずに済んだわけだし。
「はいはい。君たち、そろそろ静かにしようか」
 二人を止めたのはエビス様の一声。
「幸助君、君はもう帰った方が良い。カグツチ君には知らせてあるとはいえ、さすがに心配しているだろうからね。アメ君、君は頭を冷やすんだ。ユキ君はしばらく僕が預かろう。そんな状態の君のところには彼女を置いておきたくはないからね。さあ、これは僕の決定だ。異論は認めないよ。はい、解散。二人ともさっさと僕の神域から出ていってね」
「ですが、エビス様っ」
 アメ様が何かを言おうとしたら、エビス様が怖いくらいの笑顔で言った。
「言ったよね、異論は認めないと。それとも僕に逆らうの?」
 アメ様は口をつぐんだ。幸助さんは異論を唱えることなく、エビス様に頭を下げた。
「エビス神。此度は俺の頼みをきいてくださり、ありがとうございました。このお礼はいつか必ず。彼女のことをよろしくお願いします。では、失礼いたします」
 彼は頭を上げると部屋から出ていった。アメ様はしばらく何も言わず私のそばに座っていたが、エビス様がアメ様の名前をもう一度呼んだところで漸く立ち上がった。
「エビス様、申し訳ありませんでした。ユキのこと、よろしくお願いします」
「ユキ君に関しては心配しなくていい。それよりも、君の方が心配だ。少し考え直した方が良いと思うけれどね。君だって分かっているだろう」
 アメ様も部屋から出ていってしまうと、部屋には私とエビス様の二人きり。エビス様は私の頭を撫でながら、いつものように朗らかに笑った。
「ごめんね、怖かったよねー。もう少し早くに止めればよかったよ。聞きたいことが沢山あるって顔してる。僕が知る限りのことは全部教えてあげる。だから、とりあえずはご飯にしようか。すぐに持ってこさせるね」
 エビス様の眷属の方が持って来てくれた食事は美味しかった。一応は病み上がりだからかお茶漬けなのだが、私が小さいころから慣れ親しんだ、市販のお茶漬けの粉をかけてお湯を注ぐものとは違った。
 小さなお櫃に入った炊き立てのご飯。急須にはとてもいい匂いのする出汁。多分、顆粒だしではない。そして、胡麻ダレのかかった鯛に漬けマグロ、海苔などがあった。
 お茶漬けってこんなに豪華なんだ、と的外れな感動を得ながら完食してしまった。
 眷属の方が食器を回収に来た際に置いていったお茶を飲みながら、エビス様は話し始めた。
「彼らはねえ、とある眷属のことについて話してたんだよ。ねえ、ユキ君。僕たち神には感情が無いって知ってる?」
「え?」
 そんなことはないはずだ。だって、アメ様は優しく笑うし、さっきみたいに怒ったりも、泣きそうな顔をしたりもする。エビス様だって、普段は笑ってるし、この前みたいに怒鳴ったりもできる。彼らに感情が無いってことないだろう。
「でも、アメ様もエビス様も結構怒ったり笑ったりしますよね......?」
「あー。まあ、そうなのだけれどねー。うーんとね、君が思う僕たちの持つ感情っていうのは人の子からの借り物なんだ」
「借り物、ですか。本物ではないということですか?」
「うん。神は天災を起こしたり人に罰を与えたりしなければならない存在でもあるから、感情というのは邪魔になるときもある。まあ、借りていると言っても、君たちほど感情が豊かなわけではない。もっと単純で短絡的。それでも、無いよりは圧倒的に良い」
 単純で短絡的。そういえば、神様は欲しいと思ったらずっと手元に置いておくってアメ様が言っていた。確かにもっと複雑な感情があったら、自分の物にする前に思いとどまったりもするだろう。
「所作や話し方もそうだ。例えば僕の場合はさ、随分適当な話し方だなって思わなかった?」
 確かに思った。何というか、間延びしてて、良く言えば穏やか、悪く言えば頭の悪そうな話し方。
 頷けば、彼は、そうでしょーって笑う。
「僕のこの話し方は、僕の一の眷属の癖が移ってしまったんだ。ずっと側にいるうちに、彼の癖も、考え方も、感情の機微も僕のものになっていた」
エビス様の眷属にこんな話し方をする方がいただろう。
 思っていることが顔に出たのだろう、エビス様は苦笑いをしながら答えてくれた。
「君の疑問は正しくてね。彼はいると言えばいるけれど、いないと言えばいないんだ。おいで、招福」
 名を呼べば来てくれる神物。それを何故、今呼んだのだろう。
「これが僕の一の眷属さ。もう何千年も昔。君たちは知らないだろうけれど、アマテラス君とスサノオ君が戦をしたんだ。僕からしたら姉弟喧嘩のようなものだったのだけれど、アマテラス君に味方をしてしまった神がいて、そこから戦になってしまった。僕はアマテラス君の味方に付いて戦に参加したのだけれど、そのときに、招福は僕をかばったんだ。馬鹿だよねえ、神は死なないのだから放っておけば良かったのに」
 それがどうして神物に。
「眷属っていうのは、いわばむき出しの魂だ。魂に傷がつけば転生が難しく消滅することが多い。アマテラス君に頼めば回復させて転生させることもできるのだけれど、招福が嫌がった。転生するくらいなら消滅したいと。僕のそばにいられないなら、存在する意味はないと。彼が最後に願ったのは僕のそばにいること。だから、彼の魂を神物にした。君たち人の子は、この結末をどう思うのだろうね。残酷な結末なのかな」
 私には何も言えない。だって、招福さんじゃないから。彼がどこまでエビス様を思っていたのか分からないから。けれど。
「正しくないと言う人もいるとは思います。でも、私はそうは思わないです。だって、彼が願った結末なのですから」
 だから、招福さんはきっと満足していると思う。
 エビス様に告げれば、彼は安心したように、良かったと呟いた。そういえば、今も話に出てきたが、一の眷属とは何を意味するのだろう。
「一の眷属ってどういった方のことを指すのですか。幸助さんも、カグツチ様の一の眷属だって」
 幸助さんの自己紹介からずっと気になっていた。スサノオ様の眷属では、そういう風に名乗る方はいないし、タマちゃんの眷属は動物さんが多いし。
「一の眷属というのは、その神にとって何かしらの一番であることを示す。例えば僕であれば、一番初めの眷属である招福が一の眷属。カグツチ君であれば、一番信をおいている眷属。タマ君の茜君も一番初めの眷属だったはずだ」
 茜さんってタマちゃんの一の眷属だったのかあ。
 でも、じゃあ、スサノオ様やアメ様に一の眷属がいないのは何故だろう。いや、アメ様に関しては眷属いないけれども。
「一の眷属を持たない神も多いよ。スサノオ君なんかは戦神だからね。何かあったときに躊躇いなく転生させられるようにだろう。アマテラス君は三種の神器があるから、そもそも眷属がいないしなあ」
 エビス様は釣竿を大切そうに撫でながら言った。
「眷属が実際のところはどう思っているのか分からないけれど、神からしたら、一の眷属に認められるということは、その神にとっての唯一であることを示すとても誉れ高いことなんだ」
 じゃあ、幸助さんってすごいのか。大分長いこと眷属してるって言ってたしなあ。あれ、アメ様が結局どうなのかはエビス様言ってなかったな。
「アメ様も一の眷属を作らないのですか?」
 私の質問にエビス様が顔を曇らせた。
「エビス様......?」
「アメ君にもね、一の眷属がいたんだよ」
 いたんだよ。いた。過去形。つまり......。しかも、さっきのアメ様と幸助さんの話から考えると。
「彼の一の眷属は、アメ君自身のせいで、魂が傷ついてしまったんだ」
 アメ様自身のせいってどういうこと......。
「ユキ君はさー、アメ君に対してどういう印象を持ってる?」
 唐突な質問だ。アメ様に関してか。
「えっと、優しい。温厚。少しだけいい加減だけれど、でも、やっぱり優しい神様だと思います」
「でしょー。誰もが彼に関してはそう言うの。今でこそ彼は本当に優しいと思うけれど、ずっと親しくしているスサノオ君やタマ君もアメ君のことを優しいって言うんだよ。すごいよね」
 何がすごいのか分からない。良いことなのではないのだろうか。
 エビス様は私の顔を見て、何がすごいか分からないって顔してる、と図星をついてきた。
「僕がすごいと思うのはね、彼にはずっと何かを好きだという感情が無かったのに、その感情が無かった頃から付き合いのある神ですら彼のことを優しいと評価することなんだ。彼は優しくなんてなかったよ。何にも興味がなかっただけ」
 それはとても怖いことだと今だから思えるよ、と言うと彼は釣竿を脇に置き、置いてあった湯飲みに手を付けた。
「彼に好きという感情を教えたのは、彼の一の眷属だ。好きだけじゃない。好きも嫌いも憎いも嬉しいも、もっといえば、喜怒哀楽といった基本的な感情とか、彼が今持つ感情の全ては一の眷属が教えたんだ。もちろん、大切といった感情もね」
 とても嬉しそうに目を細めたエビス様は、アメ様が本当に大切なのだと伝わってきて、彼らに感情が無かったなんて信じられない。
「大切という感情を知った時の彼の顔を、僕は忘れないだろう。でも、感情を知ってしまったが故に、神としての責務を果たせなくなった時期があった」
 それこそがカグツチ様との因縁の一つなのだという。
「アメ君は現世に大きな影響を与える神だ。彼は定期的に現世に影響を及ぼして人の子に罰や天災を与える役割があるんだよ」
 罰や天災。それは感情を持たない神様だから躊躇いなくできることであって、感情を持ってしまった上に優しい性格なら難しいのではないだろうか。
「アメ君は、天災などを起こすのを渋るようになった。何もしていない人の子に何故苦労をさせなければならないのかと。それだと困ってしまう神も当然いるよね。そのうちの一柱がカグツチ君だ」
 火の神カグツチ様。確かに、火は多くの災害を生むから、困ってしまうのかもしれない。よく分からないけれど。
「カグツチ君はアメ君に神としての責務を果たすように言ったんだ。それをアメ君は拒否した。すると、カグツチ君はアメ君が感情を持つ原因となった一の眷属に話を持ち掛けた。アメ君に天災などを起こすように説得してくれと。それが良くなかった」
 ここで誤解があったのだとエビス様は言う。
「一の眷属は自分の意志でカグツチ君について行った。でも、アメ君は彼が攫われたと勘違いをしたんだ。そこからは凄かった。あのスサノオ君も手が出せないくらいに怒り狂っていたよ」
 本気で怒ったアメ様は誰にも止められなかったという。それが未曽有の大災害を引き起こしたと。
「カグツチ君は初めこそ弁解していたが、聞く耳を持たないアメ君に諦めてしまったのもあるのだろうね。神は死なないからと言って、アメ君の怒りを彼一人で受け入れようとした。あれに巻き込まれたら眷属は確実に消滅すると分かっていたカグツチ君は、神物を何も持たず、眷属を一人も連れず、単身でアメ君の前に姿を現した。アメ君は剣でカグツチ君を斬ろうとしたんだ」
 話の展開に思わず息を飲む。
「怒り狂っていた彼は全く気が付かなかったのだろうね。一の眷属がカグツチ君の後をずっと付いてきていたことに。一の眷属はカグツチ君を庇う様にしてアメ君の剣に貫かれたよ」
「そ、そんな......」
「カグツチ君も焦ったのだろうね。少し違うとはいえ、眷属は神物のようなもの。ましてや一の眷属を主たるアメ君に何も言わず連れ出してしまったのだから、アメ君が怒るのも無理はない。だが、アメ君が神としての責務を怠っていたのも事実だ。その上、カグツチ君はきちんと弁解し、謝罪もしたのにアメ君は聞く耳を持たなかった」
 どちらも悪いのだろう。確かに大切なものを勝手に持って行ってしまったカグツチ様も悪いのかもしれないが、話も聞かずに一方的に決めつけてカグツチ様を斬ろうとしたアメ様も悪い。
「それ以降アメ君はずっとあんな感じなのさ。カグツチ君や彼の一の眷属である幸助君にはね。でも、おかげでアメ君は今ではきちんと責務を果たすようになった。この結末を一の眷属が望んでいたのかは分からないよね」
 望んでいたのだろうか。こんな結末を。
「私には分からないです。彼女が何を願ってカグツチ様について行ったのか。でも、カグツチ様を庇った気持ちは何となく分かるような気がします。その後、一の眷属の方はどうなったのですか」
「どうなったと思う?」
 まさか消滅してしまったのだろうか。でも、消滅したとしたら、アメ様はここまで立ち直れないような気もする。
「消滅はしていないような気がします。かと言って、アメ様は常に持ち歩いているような神物はないし」
「残る選択肢は一つだよねー」
 消滅もしていない。神物にもしていない。あとは......。
「転生の輪に戻した?」
「そう。アメ君は、アマテラス君に頭を下げて、一の眷属の魂を無理矢理に転生の輪に戻してもらったんだ。アメ君が転生の輪に戻すには損傷が酷すぎて、アマテラス君に頼むしかなかったみたい」
 大事な人の魂をそこまで傷つけてしまったアメ様の気持ちは計り知れない。
「その魂は今、幸せなのでしょうか」
「うん、幸せだよ。実は僕、その魂が今どこで何しているのか知ってるんだ。だから、保証する」
 エビス様がそう言うのならそうなのだろう。アメ様の大切な魂が幸せで良かった。でも。
「でも、アメ様とカグツチ様はいまだにあまり仲良くはないですよね」
「そうだねえ。カグツチ君はどうにかしたいと思っているみたいだけれど、アメ君がねえ。意外と頑固なんだよねー」
 ていうか、現世にまで影響を及ぼした未曽有の大災害を起こしたアメ様は何のお咎めもなかったのだろうか。
「アメ様やカグツチ様はその後どうなったのですか? 両者とも悪いことをしたのだし、罰せられたりしそうですが」
 未曾有の大災害を引き起こしたアメ様も不本意でありながらもその原因を作ってしまったカグツチ様も、誰かに罰せられそうなのだが。
「あー、そっか、ユキ君知らないのか」
 おいで、五豊(ごほう)。
 エビス様が呼んだ神物は刀。アメ様やスサノオ様が持つ剣とは違って所謂日本刀だ。彼はそれを持って立ち上がると鞘から抜いて、私の首もとに刀の切っ先を当ててきた。
「え、エビス様......?」
「今僕がここで君を殺したとする。それは間違ったことだと思う? それとも正しいことだと思う?」
 殺されることをしただろうか。何かしてしまったなら分かる。でも、彼に何かをしたつもりはない。だとしたら、少なくとも正しくはないだろう。
「正しくはないと思うのですが」
「そうだね。人の子の世界では殺人は罪だ。非だ。でも、神は何をしようと正しい。是だ。たとえ僕が君を殺したとて、是なんだよ」
「どうして、そんな」
「どうしてって、人の子が決めたんだよ。人が人を殺めるのは罪なのに、僕らが自然を動かした果てに起きた天災で人を殺めることとなっても人は神を責めない。挙句、望んでもいないのに人柱を捧げ始める。神を是としてしまったのは君たち人の子だよ」
 彼は刀を鞘に戻すと、柏手一つに刀を消した。
「忘れないで。神は是。それは人の子が決めてしまったことであり、人の子が否定できることではない」
 話がそれちゃったね。
 彼は伸びをしながら笑って、私の隣に座り直した。
「罰せられたのはカグツチ君だけ。何故って、同格の神同士が争った場合、是か非かを決めるのは最高神であるアマテラス君だ。アメ君はアマテラス君にとっては大事な宝で、カグツチ君はアマテラス君にとっては親の仇だから、まあ分かってたと言えば分かってたし、カグツチ君も非は自分にあるとして何も言わなかった」
「カグツチ様に与えられた罰は何だったのですか」
「大したことではなかったよ。百年ほどの謹慎だけだったし。アマテラス君もカグツチ君が悪くないことくらい分かってたからね」
 その罪が軽いのかどうか私には分からないけれど、カグツチ様は悪くないと分かっているのにその判断は酷いのではないだろうか。悪いのはどちらかと言うとアメ様だ。
「そんなの酷いですよ。ずるいですよ。そしたら、アマテラス様が大事にしている神は、いくらでも悪いことができてしまうじゃないですか。それに、もしアマテラス様が間違えたらどうするのですか!」
「言っただろう、神は是だと。しかも、アマテラス君は最高神。彼女が何をしようとそれは全て是だ。でも、彼女に異を唱えることのできる神が四柱いる。まずは、ツキヨミ君とスサノオ君。彼らは三貴神だからね。次に僕。僕は全ての神にとってのお兄ちゃんだから。そして、もう一柱。分かるよね?」
 ここまで言われたら分からないはずがない。
「アメ様ですね」
 エビス様は頭を上下に振った。ああ、そういうことか。
「だから、アメ様を非と認めるわけにはいかなかったのですね。アマテラス様を非と認められる神を非としたら、他の神に示しがつかないから」
「そういうことー」
 エビス様は空になっていた二つの湯飲みにお茶を注いで、一つを私に差し出してくれた。
「これが僕の知る真実だ。他にも色々なことがあるのだろうけれど、とりあえずはこれで終わり。明日、幸助君に来るように頼んでおいた。彼にも話を聞くと良い」
 彼は一拍置いてから質問を投げかけてきた。
「ねえ、ユキ君。アメ君に対する君の気持ちを聞いても良い?」
「私の気持ち......?」
「うん。アメ君のことをどう思ってる?」
 アメ様のことを、私は......。
「大切です。そばにいたい」
「さっきの話を聞いてもそう思う?」
 彼は探るような目で私を見つめていた。
「はい。彼は人である私からしたら間違ったことをしたと思います。でも、それは彼の一の眷属の方に対する想い故でしょう。それを否定したくはないです」
「そっか......。人の子は、大切とか、そばにいたいとか、そういった感情は恋や愛からくると聞いた。君はどう?」
 恋なのだろうか。私は彼を恋慕っているのだろうか。分からない。
「分からないけれど、私はどんな形でも良いから彼のそばにいたいです。それでは駄目ですか」
「それでいいよ。でも、神に同じものを求めてはいけないよ。存在する世界が違うから。それに似たようなものは持っていても、人の子の求める感情を僕らは持ち合わせていない。神と人とは相容れない」
 優しく言いきかせるような口調に対し、有無を言わさない目をしていた。
 同じものを求めてはいけない。つまり、神は同じものを返せない。彼にとっての、人と神の越えられない一線なのだろう。
 私は別に、返してほしいわけじゃない。そばにいることを許してほしいだけ。
「私は、そばにいられればいいです。それだけで十分です」
 私の答えを聞いた彼はにっと笑う。
「忘れないで。相容れないからといって共にいられないわけではない。方法はいくらだってある」
 そう言うと、お茶を勢いよく飲み干して立ち上がった。私のことも立ち上がらせると、そのまま私の手を握る。
「さあ、何する? 逢魔が時まではまだ時間あるから境内の外に出ても良いし、あ、僕の神域を案内しようか? 来るの初めてだもんねー」
 彼は私の手を引っ張って、神域の中のお社を巡り始めた。驚いたことに、エビス様の神域には海があった。
「僕は海に縁(ゆかり)のある神だからね。欲しくて作っちゃったー」
 これでいくらでも釣りができるしね。
 その言葉は、なんとなく寂しげだった。
「ユキ君、釣りはしたことあるかい?」
 首を横に振れば、彼は釣竿を二本呼んだ。
「おいで、招福、勇魚(いさな)」
 エビス様は勇魚と呼んだ方の釣竿を私に差し出してきた。
「さあ、一緒に釣りをしよー。大丈夫、その釣竿で魚が釣れないなんてことは絶対にないからね!」
  エビス様の言うとおり、魚はよく釣れた。実はその魚たちは、エビス様に奉納された供物であると知ったときは再び驚いた。
*
「よっ」
 エビス様の神域生活二日目。エビス様に呼ばれた幸助さんが遊びにきた。
「幸助さん。先日は本当にお世話になりました」
「ああ、別に気にしなくて良い。それより、俺に聞きたい話があると伺っているが」
 彼は縁側に座っていた私の隣に躊躇いなく腰を下ろすと、すぐに本題に入ってきた。
「えーっと、聞きたいことはたくさんあるんですけれど、とりあえず、夜に出歩いてはいけない理由から教えて欲しいなあって......」
「ああ、確かに、お前は夜に境内の外に出る恐怖を知らなかったな。これを機に知っておいた方が良いだろう。眷属でなくとも現世に身を置かぬ者であれば知らなければならぬことだ」
 現世に身を置かない存在に重要なことかあ。お寺に行ってはいけないのと似たようなものなのだろうか。
「夜の現世ではツキヨミ様を除く神の力が弱まる。俺たちは主である神の加護で本来はいるべきではない現世も行き来できる。神の力が弱まる、つまり加護が弱まる夜は神聖であり、幽世でもある境内にいた方が良いんだ」
 なんだかよく分からないなあ。要するに魔に転じるというのはどういうことなんだ。
「魔に転じるとは加護がなくなることですか?」
 私が問えば、幸助さんは案の定首を横に振った。
「お前、幽世に初めて来たときのことを覚えてはいないか。呼吸ができないような苦しさは無かったか」
 そういえば、食べ物を口にするまではとても苦しかった。
「本来は身を置くべきではない場所にいることはできないんだ。それを俺たちは神の加護によって可能にされているだけに過ぎない」
 現世に身を置く時に幽世に来てしまえば、最終的に死を招く。幽世に身を置く時に現世に来てしまえば、魂に傷がつくのだという。
 そういえばエビス様が、僕が消滅させようと言っていた気がする。
「何故、傷がついたら消滅をさせるんですか。神は転生させることもできるのでしょう?」
「魔に転じる、とは、負の感情に支配された状態で魂に傷がつき、最終的に自我を失うことを指す。そうなってしまった魂を転生させるわけにはいかないんだ」
 私はきっと恐怖に支配されたということになるのだろう。
「あれ。今の話を聞く限り、私の魂には傷が付いているということですか?」
「ああ、そうだな。だが、お前の主は高位の神だった故、力も強くそこまで傷がつかずに済んだんだ。お前が消滅せずに済んで良かったよ」
 おそらく本心からの言葉だ。でも、どうして彼が私の無事を喜んでくれるのかが分からない。
「他に俺に聞きたいことは何かあるか?」
 聞きたいことはいっぱいあるけど、この人の逆鱗に触れたら面倒だろうしなあ。
 まあでも、何でも答えてくれると言ったは幸助さんだし、気にしなくていいかな。
「えっと、幸助さんはアメ様の一の眷属がどういった方か知っていますか」
「知ってる。よく知ってるさ。あいつとは現世からの関わりがあったから」
 彼はしばらく黙ってから、
「少し長くなるけど大丈夫か?」
 と問うてきたから、私は一つ返事で頷いた。
「あいつと俺は現世でも関わりがあった。現世での名は忘れてしまったが、あいつが俺の妹だったのは覚えてる。俺たちは普通の人の子だったよ。作物を育て、年貢を納め、貧しい暮らしをしつつも幸せだった。いつもと変わらない日だったよ。いきなり幸呼が消えたのは」
「ゆきよ......?」
 幸助さんの口から出てきた名を思わず復唱してしまった。一の眷属の方の名前だろうか。
「ああ、お前が知りたがっている眷属の名さ。現世での名ではなく、お前の主が彼女に与えた呼び名だ。幸せを呼ぶと書いて幸呼だ」
 幸呼さん......。
 聞いたことのない名前。なのに、何故か懐かしさを感じるような名前。それが、アメ様の一の眷属の、アメ様が与えた呼び名......。
「幸呼がいなくなって俺は必死に探した。大人たちが神隠しにあったんだなんて言うから可能な限り神社を回った。それでも、幸呼は見つからなかった。そのうち何故か周りの人間が幸呼のことを忘れていった。俺も幸呼のことで思い出せないことが増えた。次がダメなら諦めよう。そう思って赴いた神社こそカグツチ様の神社だ。俺なんかに声をかけてくれたのはカグツチ様だけだった」
 カグツチ様の名前を出した途端、幸助さんの声色が和らいだ。顔も少しだけ緩み、口角が上がっている。
「カグツチ様は俺を眷属にはしなかった。ただ、妹を探したいと願った俺を幽世に行けるようにしてくれた。何の見返りも求めなかった。ただ笑って『見つかると良いね。大事な人なのだろう』と笑ってくれた。俺はカグツチ様に礼を言って幸呼を探した。眷属ではないがカグツチ様の許しを得た存在、つまり今のお前のような存在だ。カグツチ様の力を借りつつ、現世と幽世のあちこちを探し回った。そして見つけたんだ」
 お前の主の下で幸せそうに笑う幸呼を。
 その声は酷く悲しそうだった。悲しそうで、でも、どこか嬉しそうで。私には推し量れないような色々な感情が重なっているのだと思う。
「ミカ様、ミカ様って嬉しそうにさあ。女って好きな男にはあんな顔するんだなって思った。あいつが幸せならいいかなって思って、俺はカグツチ様にこれを返そうと思ったんだ」
 これと言って握ったのは首飾り。アメ様の首飾りは最も信のおける眷属に渡す物だったけれど、カグツチ様の首飾りは何を意味するのだろう。周りからは眷属に見えるけれど、二人の間では眷属ではなかったというだけなのだろうか。
「その首飾りは眷属の証ですか? あ、すみません、話を遮ってしまって」
「別に気にしなくていい。この首飾りは元は眷属の証ではない。簡単に言うと通行証かな。いつでも幽世に行けるようにするための。今は眷属の証になっているがな。で、まあ、これを返して現世に帰ろうと思っていた時だ。あんなことが起きてしまったのは」
 カグツチ様が幸呼さんを呼んでしまって、それでアメ様が激怒して、結果として幸呼さんを幽世には留めておけなくなったと。
 確認するようにエビス様の話を思い出しながら話せば、彼は一瞬怯えたような顔をしてから、すぐに笑って私の話が間違っていないと告げた。
「そんな出来事があったから、カグツチ様は全ての眷属を転生の輪に戻した。謹慎というのは神としては屈辱的なことで、その神に仕える眷属もいい顔はされない。彼はアマテラス様の決定に対し文句の一つも言わず、周りを思って孤独になろうとした。俺は彼を孤独にはさせたくなかった。何もできないのは分かっていたが、それでも俺は彼のそばにいようと思った。それに、恩も返さねばならないしな」
「恩、ですか?」
 私の問いかけに幸助さんは人差し指を口元に当て、内緒と呟いた。その仕草が妙に様になっていて、不覚にも見惚れてしまった。なんか癪だ。ていうか、この人何歳だ。
 私が少し考えているのをどう受け取ったのか分からないが、彼は話を再開させた。
「話がずれたな。幸呼がどんな奴かってのを聞きたかったんだっけ。うーん、あまり賢くはなかったな。今で言うアホだったよ。でも、真っすぐで優しかった。身内贔屓かもしれないが、俺はそう思う。幸呼はただ純粋にお前の主を愛していた。お前の主も幸呼を大事にしていたのは確かだ」
 幸助さんは現世での幸呼さんの思い出を色々と話してくれた。その話からも、幸呼さんが明るく魅力的な人だというのは分かる。
「幸呼が眷属だった期間はとても短い。一年ほどだった。でも、お前の主は幸呼の影響で大分変わったそうだよ。それこそあんな結末を招くほどに。エビス神や他の神は幸呼を一の眷属と呼ぶが、お前の主が幸呼を一の眷属としたのは幸呼を転生の輪に戻してからだ。最初で最後の唯一の眷属。それがお前の主の一の眷属だ」
 確かにアメ様には眷属がいない。宮司さんは眷属のようでいて眷属ではない。代々神社の宮司を引き継いでいく力を持った家系の人というだけだ。
 あれ。最初で最後の唯一の眷属が幸呼さんなのであれば、アメ様はどうして私にこの首飾りをくれたのだろう。アメ様からしたら眷属ではないとしても、他の神様からしたらこの首飾りをつけている私はアメ様の眷属だ。幸呼さんを唯一の眷属とするのであれば、これを私に渡すべきではなかっただろうに。
 アメ様やエビス様の隠し事が幸呼さんに関しているのは分かった。でも、どうして隠す必要があったのだろうか。わざわざ言う必要はないと言われればそうだが、何か釈然としない。エビス様は幸呼さんの生まれ変わりが今は幸せだと言った。今どこで何をしているか知っていると。
 そう言えば、カグツチ様は私の前世に何をしたというのだろう。酷いことって何。
 ちょっとずつパズルのピースがはまっていくような気持ち悪さと、早鐘を打つ心臓。
「あの。幸呼さんの魂はその後どうなったのですか」
「何度も何度も生まれ変わっているよ。あの小さな社は、生まれ変わった幸呼の魂が作ったものだ。記憶がない上、アマテラス様の意向で随分と遠い地での転生だったというのに。何故社を建てたのか尋ねれば、『分からないけれど、お世話になった気がするので』と言われた。祀られれば神は気付く。あの社が建てられてから彼の地は神の加護があり、幸呼の魂はあの地で転生を続けた」
「今はどうされているのかご存知ですか」
「転生し、あの地で暮らすはずだったが、物心つかぬうちにどの神の意向かは分からないが別の地に移った。そして今は......」
 幸助さんはそこで言葉を切って、私の方を向いた。
「俺の目の前にいるよ。幸呼は」
 ああ、やはり。やはりそういうことか。
「私が、幸呼さんの生まれ変わりなのですね」
「ああ。顔も性格も何一つ似ていないけれど、ユキは確かに幸呼の生まれ変わりだ」
 そうか。そうであれば皆の行動や態度にも納得がいく。
 初めて会った時にアメ様が泣きそうであったのも、アメ様やエビス様が妙に過保護なのも。アメ様が私を大事にしてくれるのも。
 全部全部、私が幸呼さんの生まれ変わりだからだ。
「辛いか」
 質問の意図が分からず黙ったままでいると、彼は私の頭に手を置いた。優しく撫でてくれるその様は本当に兄のようだった。
「自分でない誰かの代わりにされていたのであれば辛いのかと思って。少なくとも、もし俺がそうだったら俺は辛いから」
 辛いのだろうか。辛いと言えば辛いのかもしれない。結局誰も私自身を見てはいなかったのだから。ここでも私自身の居場所はなかった。辛いというよりも寂しいの方が正しいかな。
 でも、少しだけほっとしているのも事実だ。だって、私が幸呼さんの魂である以上、私はここにいてもいいということだから。
「寂しいような気はします。でも、そこまで気にはならないですよ。仕方のないことでしょうし。それに大事にされていることには変わりないですから」
 半分くらいは本当で、半分くらい嘘だった。気にならないはずがない。しかし、ここで本音を言ってしまったらアメ様と幸助さんの仲が余計に拗れかねないし。
 幸助さんは私の答えに何かを言うこともなく、頭をぐしゃぐしゃと撫でまわしてきた。髪の毛乱れるからやめていただきたい。
「ちょっと、何をするんですか」
「なあユキ。俺たちが兄妹だったのは事実だ。多少なりとも縁は深いだろう。何かあったら頼るといい」
 その目は随分と優しくて、一瞬彼は私を通して妹である幸呼さんを見ているのだと思った。でも、違う。彼にはお見通しだったのかもしれない。本当はとても寂しいことも、少しだけほっとしていることも。
「ありがとうございます」
 気にするなと言って再び頭を撫でまわす幸助さんに、お兄ちゃんがいたらこんな感じだったのかな、なんて思ってしまった。ぐちゃぐちゃにされた髪の毛を手櫛で直していると、軽い足音が聞こえてきた。多分エビス様だ。
「エビス神が来るな。俺はそろそろお暇しよう」
 幸助さんが縁側から立ち上がると同時にエビス様が廊下の曲がり角から姿を現した。
「えええ、幸助君もう帰っちゃうのー。カグツチ君には連絡しておいてあげるからもう少し遊んでいきなよー」
「大変嬉しいお誘いですが、少々野暮用がありまして。また近いうちにお伺いさせていただきます。あ、次は是非こちらにもいらしてください。カグツチ様も喜びます」
 頭を下げて失礼しますと歩を進めようとした幸助さんの腕をエビス様が掴んだ。
「今日は、どこへ」
「それを言うことはできません。ただそこまで難しいものではありませんよ。子の刻までには戻るつもりですので、ご心配には及びません」
 にっこりと綺麗に笑った幸助さんは、今度こそ帰っていった。最後の二人の会話は全く理解できなかった。エビス様は黙って彼を見送った。
 少しの間静寂が流れた。
「ユキ君さ」
 幸助さんの去っていった方を見つめながらエビス様が尋ねてきた。
「幸助君のことどう思う?」
「え......」
「彼はとても長い時を眷属として過ごしている。幾百年、いや千年近く経つかもしれない。普通の人の子が耐えられる時の長さではないし、新参の神よりも長い。多くの眷属は百年を越えると耐えられず転生の輪に戻る。僕が知る限り、彼よりも長く眷属をしている人の子はいない」
 もはや神の領域だ。
 言い放たれた言葉は何とも言えない感情を含んでいるような気がした。
「彼を欲しがる神は多いんだ。魔に転じず、長い時で心を壊すこともなく自我を保つことのできる忠臣。高位の神でさえ彼を欲しがる。まあ、幸助君自身も断るし、カグツチ君も拒否するからどうということはないのだけれど」
「あの。自我を保ち続けることはそんなに難しいことなのですか」
 エビス様の言い方からして、百年間自我を保つのが難しいというのは分かったが。実感がわかない。千年間眷属をしている幸助さんは確かに凄いとは思うけれど、高位の神が欲しがるほど凄いことというのが分からない。
 私の質問に、エビス様はこちらを向くことなく静かな声で説明をしてくれる。
「生を持つものにはいずれ終わりが来る。死というものを君たちがどう捉えるのかは僕の知るところではないけれど、生を持つものは無意識ながらに死を自覚している」
 彼の声は何故かずっと強張っていて、血が出るんじゃないかってくらい手を握りしめている。
「だからこそ、生を全うするともいえる。眷属というのは、神によって無理矢理に『死』から切り離された存在だ。『死』から切り離されるというのは、同時に『生』からも切り離されるということだ。だから、眷属は体が成長しない。老いたりもしない。そのことが次第に眷属の心を蝕んでいき、遅かれ早かれ耐えきれなくなる」
 心が壊れてしまうのだ、と。
 実感がわかない。不老不死の研究なんかもあったりするのに、死ななくなると心が壊れるなんてあるのだろうか。
「危ないと思った時点で主たる神が転生の輪に戻す。境内や神域内であれば魔に転じることはないのだけれど、たまにね、外で心が壊れてしまう眷属もいる。そうなると、僕らの加護は関係なく魔に転じてしまうから、可哀想だけれど消滅させるしかない」
 彼は漸く私の方を向いた。
「君からしたら、幸助君はどう見える」
 言い方が違うだけで、最初と意味が同じ質問。どうと言われても、私は彼とそこまで深く関わったことはないし、眷属としての幸助さんとしっかり話したのも今日が初めてだ。
 今日一日で、彼に関して思ったこと......。
「何というか、少しだけ心配になります」
「心配?」
 小首を傾げながら、彼は幸助さんが座っていた位置、私の隣に腰かけた。
「はい。彼って凄い人なのだと思います。今日話した印象から、人の機微に聡くて頭がいいんだろうなって思いました。でも、あの人、自分のことを誰にも見せていないような気がして。カグツチ様には見せているのかな。でも、一度だけカグツチ様とお会いした時は、主従関係を全面に出していたから」
 初めは仲が悪いのかなって思った。でも、カグツチ様が幸助さんを信用しているのは見て分かったし、何よりカグツチ様は幸助さんを一の眷属として認めているのだから、カグツチ様は幸助さんを大切に思っているはず。
 幸助さんだって、一の眷属であることを受け入れているし、先ほどのエビス様のお話から分かるように、他の神の誘いを断ってまでカグツチ様の眷属をしているのだから、幸助さんもカグツチ様を大事には思っていそうなのにな。
 私の答えにエビス様は同意するように首を縦に振る。
「僕もね、彼のことが心配でたまらない。何が彼を千年もの間、一の眷属たらしてめいたのか分からない。それだけならまだしも、彼は僕たちに一切の本音を見せない。だから彼がいつ壊れてしまうのか不安で仕方ない」
 彼を眷属たらしめているもの。それはきっと、幸助さんが内緒と言っていた恩なのかもしれない。内容も分からないし、内緒と言われたからエビス様には言わない方がいいのかな。でも、恩だけで千年も耐えられるかと聞かれたら少し微妙か。となると、幸助さんのカグツチ様への気持ち以外にはなさそうだ。
 そういえば、エビス様がここまで幸助さんのことを気にしているのは何故だろう。
「幸助さんのことが大切なのですか」
 彼は困ったような顔をした。
「君の期待に応えられず申し訳ないけれど、幸助君が大切というわけではないよ。ただ、感謝はしてる。彼がいなかったらカグツチ君は孤独になってしまっただろうからね。彼を一人にしないでくれて本当に感謝してもしきれない」
「では、カグツチ様のことが大切なのですね」
 だから、幸助さんのことを気にするのか。
 私の問いに、彼は腕を組みながらうーんと呻りながら頭をゆらゆらさせている。
「大切。大切かあ。うーん。君が言うならそうなのかもしれないね」
 神は感情を持たない、というのはこういうことなのかもしれない。エビス様の感情はきっと、招福さんの感情を中心に作られていて、招福さんと私では生きる時代も考え方も違うから、エビス様と私には感情の差があるのだろう。
「エビス様にとって、カグツチ様と幸助さんはどういった存在ですか」
「僕は君の求める答えをきっと持ってないよ」
「エビス様の思うように言ってくださって構いませんよ」
 彼は少しだけ驚いたような顔をした。
「僕の言葉でいいのかい」
「え、だって、エビス様の気持ちはエビス様の言葉でないと伝えられないでしょう」
 私の言葉に鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたエビス様は小さく笑ってから、そっかー、と嬉しそうに呟いた。足をパタパタと揺らす様子は、朧げな記憶の中の弟と似ていて可愛い。
「カグツチ君も幸助君も可哀想。カグツチ君はあれ以来多くのものを失って可哀想。幸助君はカグツチ君という頼れる存在がそばにいるのに頼ることを知らなくて可哀想。僕はただ、彼らにも笑っていてほしいだけなのになあ。上手くいかないなあ」
 可哀想という言葉を使ってはいるが、カグツチ様や幸助さんがエビス様にとって大切な存在であるということは間違ってはいないはず。表現する言葉が違うか、あるいは、昔はこういう気持ちを可哀想としたのか。でも、彼の抱く感情は、私の言葉でいう大切だと思うのだ。だって、大切ではない人の笑顔を願ったりはしないはずだから。
「そうなのですね。私も、出会ったばかりですが、カグツチ様や幸助さんには笑っていてほしいと思います」
「僕、君に酷いことをしていたみたいだ」
 何の脈絡もなく、唐突にエビス様がポツリといった。
「ユキ君は自分が何者であるか聞いた?」
「私が幸呼さんの、アメ様の一の眷属の生まれ変わりということですか」
 彼は、うん、と言ってから、私に頭を下げてきた。
「ごめん。僕は君と一の眷属を重ねて見ていたよ」
「謝ることないですよ。魂が同じですからね。仕方ないですよ」
「君は一の眷属とはまるで違うんだね」
 エビス様はじっと私の目を見て、私の手を掴んできた。
「ユキ君。僕は数少ない、最高神に異を唱えることのできる神だ。その僕が君に約束してあげる」
 約束と言った瞬間、不思議な光が私たちを包む。
「全ての神の兄であり、七福神が一柱、福の神エビスの名の元に、この人の子の全ての行いを是と認める。この子が非となれば僕もともにその非を背負おう」
 光が集まって一つの小さな玉になる。彼はそれを掴むと、私の手を開かせて手のひらにそっと転がした。
「ユキ君。僕は君を信じよう。君の行いを僕が全て肯定してあげる。僕が肯定するというのは、アマテラス君以外は君を非とできないということだ。だから、君が正しいと思う方に進むんだ。決して僕を失望させないでね」
 手のひらに転がる小さな玉を見つめる。うっすらと光を放つ真珠のような玉。
「それは僕が君に約束をした証だ。肌身離さず持ち歩くんだよ。忘れないで。今この瞬間から、君は常に是であるということを」
「どうして、私に......」
 手のひらの玉は、私には荷が重すぎる。
「君にアメ君のそばにいてほしいから。それに、君ならアメ君やカグツチ君、幸助君を幸せにしてくれる気がしたから」
 エビス様は唐突に私の頭を撫でてきた。
「近いうちにカグツチ君のところに行ってみようか。お呼ばれしたことだしね」
 僕も久しぶりに行くから楽しみだなあって笑う彼は、先ほどまでの真剣な雰囲気とは打って変わって、可愛いとさえ思えるようだった。
*
 その一週間後、エビス様に連れられてカグツチ様に会いに行った。
「ユキ、久しぶり。幸助に聞いたけれど大変だったね。大丈夫だった?」
「お久しぶりです。ご心配ありがとうございます」
 どこかおどおどとしながら私を見る彼に、おそらく私が前世のことを知ったということを幸助さんに聞いたのだろうなと思った。
「カグツチ様、以前、お話しようと言ったのを覚えていらっしゃいますか。私、貴方に会えるのを楽しみにしていたんです」
「しかし、エビス様もいらっしゃるし」
 エビス様を見て困ったように声を出すカグツチ様にエビス様は笑う。
「僕のことは気にしないでー。幸助君と矢馳せ馬(やはせうま)でもして待ってるよ。行こう、幸助君」
 幸助さんの腕を掴んで引っ張るエビス様。カグツチ様の、え、というか細い声は完全になかったことにされていた。聞こえていたであろう幸助さんも無かったことにしてエビス様の提案を受け入れていた。
「分かりました。厩(うまや)でお好きな馬を選んでください」
「カグツチ君の所は良い馬揃っているよねー。僕のお気に入りだった子はまだいるの?」
「ああ、江戸の頃に献上された馬ですか。まだまだ現役ですよ」
 江戸の頃の馬ってなんだろう。ていうか、矢馳せ馬って何だろう。
 私と一緒に残されたカグツチ様に矢馳せ馬とは何か尋ねてみた。
「馬を馳せながら鏑矢を射ることだよ。昔は実戦で用いられていたが、いつからか儀式の一つになったものだよ。あ、今の時代は流鏑馬(やぶさめ)って言うのかな」
 え、流鏑馬するの。どっちが馬に乗るの。二人ともできるのかな。ちょっと、というかすごく気になる。見たい。流鏑馬とかテレビしか見たことがないし。
 表情に出ていたのか、カグツチ様が苦笑しながら、流鏑馬を見ながらお話することを提案してくれた。自分からお話しましょうとか言ったくせに我ながら自分勝手で恥ずかしい。
「えっと、すみません」
「いいよいいよ。私も久しぶりに幸助の矢馳せ馬を見たいしね。それにエビス様が弓を射るなんて珍しいから、見ないなんてことできないよ」
 そう言って、カグツチ様とともに馬場まで行くと、幸助さんとエビス様は丁度馬を連れてきたところだった。
「あれー、君たちも見るのー」
「エビス様が弓を射るのを見る機会を逃すのは惜しいですからね」
「恥ずかしいから嫌だなー」
 とか言いつつ、エビス様は嬉しそうだ。先に幸助さんが矢を射るらしく、ひょいっと身軽そうに馬に乗った。流鏑馬のルールとかはよく分からないが、とりあえず的に矢が当たればいいのかな。等間隔に置かれている俵がきっと的だろう。
「エビス様が矢馳せ馬を行うと知っていたら、正式な的を用意しましたのに」
「えー、別に本気でやるわけでもないのだから、練習用で十分だよー」
 俵は練習用なのか。一の眷属である幸助さんが矢を射るからか、カグツチ様の他の眷属もちらほらと見に来ていた。
 幸助さんが馬を走らせて矢を構える。一本目は的のほぼ中心に刺さっていた。腰につけていた入れ物から二本目の矢を抜いて構える。放たれた矢は真ん中よりも少しだけ右側に刺さる。続いて三本目の矢を構えて放つ。今度は真ん中に刺さっていた。
 全部的に当たってる。すごい。
「へえ、さすがだねえ」
 どこか含んだように笑いながらエビス様は馬に飛び乗る。刺さった矢を抜こうとした眷属の方に声をかける。
「ああ、抜かなくていいよ。十分空いているからね」
 確かにまだ矢が刺さるくらいの場所はあるが、無い方がやりやすそうなのになあ。
 エビス様が所定の位置につくと、幸助さんの時とは比べ物にならない緊張感が走った。エビス様が馬を走らせて矢を構えて放つ。幸助さんの矢よりも中心だと思える場所に矢が刺さる。二本目も同様、的のど真ん中に刺さった。三本目。幸助さんの放った矢も真ん中に刺さっているがどうするのだろう。躊躇なく放たれた矢は、幸助さんの矢に刺さっていた。
「お見事」
 いつの間にか隣にいた幸助さんが呟いた。誰もが唖然として静寂が流れたが、幸助さんが拍手をすると、その場の全員が喝采を送った。
「エビス様は何でもできるが、特に弓と結界に長けている」
 幸助さんが私に説明してくれた。
「そうなのですね。確かに、素人の私でもあれがとても凄いということは分かります。でも、幸助さんも凄かったですよ。全部的に当たっていたではないですか」
「あれくらい多少練習すれば誰でも当てることは可能だ」
 そうなのか。私には絶対無理そうだけれどなあ。
 幸助さんはエビス様の方へ向かい、エビス様の乗っていた馬を預かると厩の方へ向かった。カグツチ様の眷属の方にエビス様は囲まれていて、嬉しそうに話をしている。と思ったら彼はこちらに向かって歩いてくる。
「ねーねー、カグツチ君。弓道場使っていい? 幸助君と普通の弓の勝負をしたいし、彼らも見たいって言うからさー」
「大丈夫ですよ。私も拝見させていただいてもよろしいですか」
 承諾とお礼を短く伝えたエビス様は眷属の方とおそらく弓道場へ歩いていった。私もカグツチ様に連れられるままに弓道場へ入る。見学のできる場所で正座をする。遅れて入ってきた幸助さんは立てかけてあった弓を手にとる。
「エビス様、形式はどうなさいますか」
「んー、神である僕が礼法などを欠くのもどうかとは思うけれど、面倒だしね。手っ取り早く三本勝負。より多く真ん中に当てた方が勝ち。これでどうだい」
 そういえば、流鏑馬も弓道も神社とかの行事で行っていることも多いから、神事の一環なのだろうか。礼法を欠くのがどの程度無礼なのかは分からないけれど、神事の一環であるとしたらそれなりに無礼ということかな。まあ、神であるエビス様が良いって言うのなら別に気にしなくてもよいとは思うが。
「分かりました。では、俺が先に」
 幸助さんはそれだけ言うと、的の前に立つ。エビス様が言ったように礼などは一切せずに、いきなり矢を構えた。呼吸すらも許されないような緊張感の中、ひゅっと空気を割くような音が響く。その後すぐに的を射抜く音が響き、見れば真ん中に命中していた。
 手を叩きながら、エビス様も的の前に立つ。先ほどの流鏑馬の影響か、幸助さんの時よりも空気が変わる。矢を構え、放つ。こちらも的の真ん中に当たる。
「流石です。このまま引き分けに持ち込みたいですね」
「引き分けなんてないよ。僕が外すか、君が外すか。どちらかが外すまで、この勝負は続く」
「先ほどと言ってることが違いますよ。でも、そうでなくては面白くない」
 エビス様も幸助さんも顔は笑っているけれど目が笑ってない。これはしばらく終わらないのだろう。カグツチ様も同じことを思ったのか、苦笑いしながら私の方を向き弓道場の入り口を指さす。すっと立ち上がり、入り口に向かったカグツチ様について行く。二人で弓道場から出て、座ることはできないが、外で立ちながら幸助さんとエビス様の勝負を眺めることになった。
「ごめんね。本当は座って話せればいいのだけれど、あの空気で声を発するのは気が引けてね。ここなら、彼らの勝負を見ながら君と話ができるから」
「私も、カグツチ様とお話はしたいけれど、エビス様と幸助さんの勝負も見たかったから、とても嬉しいです」
 タン、と音が響いて弓道場を見てみると、幸助さんが的の真ん中に矢を当てた音のようだった。
「凄いですね」
「だろう。あの子は何でもできるんだ。だから、別に私の所にいなくてもいいのに、何故かずっと私の一の眷属をしてくれている。いや、理由なんて分かってる。あの子は、私に対して恩を感じすぎている。まだ返せていないと思っている。とっくに十分すぎるくらい返してもらっているのにね」
 恩だけでここまで誰かに尽くせる人間なんているとは思えない。幸助さんはおそらく、カグツチ様が大切だからそばにいるんだと思うけれど、ひょっとしたら幸助さんがそれに気が付いていなそうだしなあ。
「カグツチ様は、幸助さんにどうしてほしいのですか?」
「私なんかから解放されて幸せになってほしい」
「一の眷属が自分から離れても、ですか」
 カグツチ様は少しだけ悲しそうな顔をした。その顔の真意が私には分からない。
「そうだね。いなくなったら寂しい。でも、私は彼が幸せになることを優先したい。これが正しい感情なのかは分からないけれど、私は私なりに幸助を愛しているつもりだよ」
 幸助には内緒ねって言って人差し指を口元に持っていく。その仕草は幸助さんに似ている。
「ところで、君は私に話したいことがあると言ったね。聞いていいかな」
 もうおどおどはしていないが、少し緊張した様子でカグツチ様が問うてきた。
「えっと、特別話したいことがあったわけではなくて、ただ、もっと貴方を知ることができたらなと思っただけなんです」
「え?」
「私の前世のことを全て聞きました。アメ様との間に起きてしまったことも。でも、そんなの関係なしに、私は貴方のことが知りたいです。好きな物、嫌いな物、幸助さんをどう思っているかとか、あと、アメ様をどう思っているのか、とか。話しても分かり合えないことが多いのですから、話さなかったら分かり合えるはずがない」
 神と人とは相容れない。エビス様が教えてくれた。存在する世界も違うのに、神には感情が無い。それなのに相容れるはずがないだろうと。話をしたからと言って相容れるわけではない。でも、話をしなければどうにもならない。
「だから、教えてください。貴方のこと」
 私の言葉に、カグツチ様は二、三度瞳を瞬かせるとふっと微笑んだ。
「では、君のことも教えてくれるかな」
「はい! もちろんです!」
「ゆっくり座れるところの方が良いよね。ちょうど勝負もついたみたいだし」
 彼の言葉に促されて弓道場を見れば、エビス様が打った後のようだった。何本目なのかは分からないが、彼の放ったであろう矢は中心から少しだけずれている。
「幸助の勝ちみたい」
 どこか誇らしげなカグツチ様からは、本当に幸助さんが大切なんだってことが感じられた。
「行こうか。縁側で庭でも見ながら話そう」
 彼に連れられてたどり着いたのは、御神体のあるお屋敷の縁側だった。でも、来た時に通った場所とは反対側だから気が付かなかった。
「綺麗ですね」
「だろう。ここは幸助がいた時代の代表的な庭園を元に作ったんだ。あの時代のものは本当に美しい。人の子は時に、神でさえも驚くものを作り上げるから面白い」
 この神様の感情のどれほどを幸助さんが占めていて、そして、幸助さんの感情のどれほどをカグツチ様が占めているのだろう。
「カグツチ様は感情が豊かですね」
「そうかな。そうなのだとしたら、それは眷属たちのおかげだよ」
 眷属のおかげ、か。カグツチ様は一度眷属を全て失ったんだよね。
「あの、失礼なことを聞いていいですか」
「ああ、何でもどうぞ」
「謹慎を言い渡された際に、全ての眷属を転生の輪に戻したと聞きました。その時、どういう気持ちだったのですか」
 我ながらかなり失礼だ。傷口に塩を塗るようなものではないか。スサノオ様やヒメ様にばれたら絶対怒られる。
 私の質問にカグツチ様は少しの間呆気に取られたようにし、そのあと思い切り笑った。少ししてから、
「確かに失礼な質問かもね」
 そう言って彼は少し寂しそうに目を伏せた。思い出すように、言葉を探すように目を右往左往させた後、ふっと微笑んだ。
「悲しかったよ。他の神に何を言われようと、立場が悪くなろうと私のそばにいたいと言ってくれた子だっている。でも、私はそれを許せるほどまだ感情が育っていなかったのだろうね。私は、自分の全てを捨ててでも相手に尽くす愛というものを理解できなかった。だから、泣いて喚いて、残りたいと言ってくれた子たちを転生させた。今なら、随分酷いことをしたと思うよ」
 相手に尽くす愛。それを向けてもらえるくらい、この神様は眷属の方たちに愛されていた。そんな人たちの願いも虚しく彼は転生をさせた。転生してしまった魂は何も覚えていない状態で新たに幸せになろうとする。
 何というか皮肉なものだと思う。どれだけ愛していようと、切り離され転生してしまえば全て忘れてしまう。だからと言って、そのまま残ったところで、耐えきれず魔に転じて転生させられる。
 結局、どれだけ望もうと私たちは共にいられないのかもしれない。
「私は、そういう愛があるって知った。きっと、幸助も同じことを言うのだろうね。でも、それでも、私はきっと同じことをする。どれだけ願われようと、私は彼らを転生させる。酷いと泣かれようと、感情がないと罵られようと、私は彼らを転生させるよ」
「そうなのですね」
「おや、酷いとか言われると思っていたけれど違うのかな」
 意外そうに呟かれる。きっと、長い年月の間でそういったことを言われてきたのかもしれない。
「酷いかどうかは、彼らにしか分からないではないですか。私はまだ、全てを捧げてでもという気持ちは分からない。そばにいたいとは思います。でも、全てを捨てられるかと問われれば即答はできない。だから、貴方の行動が酷いかどうか私には分からないです」
 カグツチ様は私の言葉に首を傾げた。
「では、どうして君は幽世にいるんだい」
「え?」
「一応は全てを捨てて現世から幽世に来たのではないのかい」
 私、私は。どうしてここに来たんだっけ。全て捨ててきたんだっけ。全てって何。私は何かを捨てたの。
「私は、捨てたのかもしれないですね。でも、分からない」
「では、もしアメが現世に帰してくれるって言ったら君は帰るのかな」
 何も覚えてなくとも、それはない。私は彼のそばにいたい。
「帰りませんよ。私は彼のこと笑顔にするって決めたんですから」
 言葉にしたら、アメ様に会いたくなってきた。まだ一週間くらいしか経っていないのに、変なの。
「そっか。君が今後どういう道を歩むのか私には分からないが、私は君がアメを幸せにしてくれるよう願っておくよ」
「ありがとうございます」
 私とカグツチ様はそこからは他愛ない話を続けた。お互いに好きな物だったり、苦手な物だったり。カグツチ様の眷属の話とか。もちろん、アメ様のお話も出た。
「あれは、我が父の宝だ。そして私にとっては兄のような息子のようなもの。彼が大切でないはずがない」
 カグツチ様の父って言えばおそらくイザナギ様だ。カグツチ様がイザナギ様に斬られたのは有名な話だ。
 名前はまだ分からないけれど、きっと聞いたところでカグツチ様も教えてはくれないのだろう。
 まあ、とりあえず、カグツチ様がアメ様を嫌っていないようで良かった。
「あー、ユキ君いたー。そろそろ帰ろー」
 トタトタと軽い足音を響かせながらエビス様がお迎えに来てくれた。ゆっくりと落ち着いた足音も聞こえてくる。
「お迎えが来たみたいだ。今日は話せて楽しかったよ」
「こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました」
 挨拶をしてエビス様のそばに近寄る。彼もカグツチ様に挨拶をして、私たちは帰ることになった。
「では、俺が鳥居まで送りましょう」
「ああ、任せたよ、幸助。エビス様、ユキ、またいらしてください」
 私とエビス様は幸助さんに連れられて神域から出て鳥居の前に立った。幸助さんにもお礼を言って、私たちはエビス様の神社へと戻った。大分日は傾いているが、まだ夕暮れには時間がある。
 エビス様はどうしてこんなに早く帰ろうとしたのだろう。何か用事でもあったのかな。
「ねえ、ユキ君。そろそろ帰りたくなったでしょー」
「え......」
「まだ気持ちの整理がついてないとか、帰りたくないのならここにいてもいい。もっと言えば、君が現世に帰りたいというのなら僕が帰してあげる。さあ、君はどうしたい」
 この問いに対する迷いなんてない。
「私は帰りたいです。アメ様のところに。私は仕方なくあそこにいたのではないです。私は私の意志で彼のところにいたんです。あ、でも、もし彼に嫌われたらエビス様が拾ってください。着せ替え人形になりますよ」
 えへへと笑えば、エビス様も笑い返してくれる。
「いつでもおいで。着せ替え人形じゃなくとも君だったら大歓迎さ」
 じゃあ、神社まで一緒に行こうかー、というエビス様のお言葉に甘え、私はエビス様と一緒にアメ様の神社に行くべく鳥居を潜る。少し歩いて拝殿や本殿の方へ行くと、宮司さんが歩いていた。彼はこちらに気が付くと驚いたように目を見開いた。
 エビス様はそこで、じゃーねー、と手を振って帰ってしまった。
「えっと、ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
 宮司さんがどの程度説明を聞いているのかは分からないが、いきなりいなくなったくせにいきなり帰っているから少しだけ気まずい。
「いきなりいなくなってごめんなさい」
「いえ、何も言わずに貴女をここに留めていたあの方や私に非があるのですから。......。全部お知りになったようですね」
 頷くと、宮司さんは漸く微笑んでくれた。
「でしたら、これ以上私が貴女に何か言うことはありません」
「私、ここにいてもいいですか」
 何度もしてきた質問。その度に困った顔をして返されていたが、今回は違った。
「貴女は全てを知った上でそれを選んだのでしょう。それが貴女の決断なのですから、自信を持ってください」
 初めて、笑顔でここにいることを肯定してもらえた。
 どうして困った顔をするのかずっと分かっていなかった。でも、それも彼らの優しさだったのだ。私がここに来たのが、私の意思ではなかったから。帰りたいのに帰りたいと言い出せないのではないかと思われていたのだろう。
「もう一度言わせてください。おかえりなさい」
「はい。ただいま戻りました」
「あの方も神域にいらっしゃいますよ。会いに行ってあげてください」
 宮司さんにお礼を言って、慣れた手順で神域に入る。
 お屋敷のいつも三人でご飯を食べていた部屋の縁側に彼は座っていた。
「おかえり」
 こちらを振り向くことなく、でも確かに私に向けられた言葉。
「ただいま戻りました。ごめんなさい、掃除とかお手伝いとか放っておいて」
「そんなことは別に良いよ。それよりも、戻ってきてしまって良かったのかい」
「私が戻ってくることを選んだんです。私が貴方のそばにいたいという思いを、否定しないでください」
「ごめん」
 彼は漸くこちらを振り向いた。その目は一言では言い表せないような色をしていた。
 神は感情を持たない。全て人の子からの借り物である。
 そうなのだとしても、借り物であったとしても、今の彼には確かに感情に似た何かがある。
「私が帰ってくるの嫌でしたか」
 もし嫌なのであれば、エビス様が歓迎してくれると言ったから大丈夫。行く当てはある。
「嫌なはずがない。嬉しいよ。ただ、君がどこまで聞いた上で戻ってきているのかが分からないから」
 そっか。何も知らずに戻ってきてしまったという可能性を憂慮しているのか。
「全部聞いたと思います。私の前世も、一の眷属についても。あと、アメ様とカグツチ様の関係も」
「それは全てではないよ。もう一つある」
「アメ様のお名前ですかね?」
 もう一つと言われて、真っ先に思い付いたのがこれだった。
「それは僕に関することだろう。そうではなくて、君に関することだ」
 これではない。私に関すること......。
「どうして私を眷属にしないか、ですか?」
「うん」
 彼は立ち上がると、私に近づいてきた。背の高い彼は私を見下ろす形になる。
「君は、現世に戻れるよ。それでも、幽世にいたい?」
「それもエビス様に言われましたよ。帰りたいのであれば帰してくれるとおっしゃってくださいました。私はそれを断ってここにいます」
 きちんと伝えなければ。自分の気持ちを。
 ただでさえ、分かり合えないのが私と彼なのだから。
「幽世にいたいです。確かに私がここに来たのは逃げるためだったような気がします。もう覚えていないんですけれど。でも、たとえ現世の居心地が良かったとしても私は幽世にいたいです。貴方のそばにいたいんですよ」
 私はもう現世のことをほとんど覚えていない。でも、だからここにいたいわけじゃない。初めは確かにそう思ったけれど今は違う。私は、この神様を幸せにしたいんだ。
「僕がカグツチにしたことを知っているのに、まだそう思うの?」
「誰にだって失敗はありますよ。それに悪いことをしたと後悔しているのであれば謝ればいいんです。カグツチ様は、アメ様と仲直りしたそうでしたよ」
「僕たち神は後悔をしない。僕たちは常に是だから。それにあの時も僕は是だったから悪くはないはずだ」
 そうか。この神様は後悔が何かまだ知らないのかもしれない。後悔と物事の是非が一致しないことも多いことを知らないのだ。
「正しいから後悔しないわけではないと思います。正しくても後悔はするし、逆に正しくないとされていることをしても後悔しないこともある」
 後悔が何か、なんて私も言葉にはしづらい。後悔なんて常に隣にあるような感情じゃないか。
 それに、神様は是というが、それは誰にとっての是なのだろう。正しいことなんて、倫理観の違いで全然違うものになりうるのに。
「正しいから悪くない訳でも、正しくないから悪い訳でもない。そもそも正しいっていうのは誰にとって正しいんですか。貴方にとって正しくても、皆にとって正しいとは限りません。誰かにとっての是は、誰かにとっての非です。だから、是非にばかり惑わされてはきっと駄目です」
 神は是。それはきっと彼らが神として生まれてしまった瞬間から決まっていたことなのだろう。必要なことなのだと思う。
 だって、神が是でなければ、自然を動かすことが許されない。自然を動かして起きる天災によって多くの生き物を殺めることを許されない。天災は人にとって害であるが、自然を動かすことは恩恵でもある。自然はなくてはならない。だから、神は是でなければならない。
 でも、神様たちも分かってる。むやみやたらに天災を起こすことや、人の子を殺めることが是ではないと。
 感情があったら、それに振り回される。だからこそ、彼らは本物の感情を持たないんだ。何かあったときに、偽物だと切り捨てることができるように。
 悲しい。とても悲しいことだと思う。
 不意に彼の指が頬に触れる。そこで漸く自分が泣いていることに気がついた。
「どうしてユキが泣くの」
「アメ様、一緒に感情を探しましょう。感情がもっと見つかれば、後悔が何か自ずと分かるはずです。でも、私は貴方には後悔してほしくないなあ。私たち人間はいずれ死するから後悔すらも何かの原動力ですが、貴方は死ねないから。永遠に残るような後悔はしてほしくない」
 ああ。分からない。神様たちが分からないよ。感情がないって。感情が偽物ってなんだろう。
「私、ここにいても良いですか」
「うん。君がいてくれたら、僕も嬉しい。それに、僕を笑顔にしてくれるって言ったのは君だ。約束守ってよ」
 そう言って笑う彼の顔は優しかった。
 
 私はこの神様のために何ができるのかな。



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