パペット輪舞曲 亀村紫 1 そのカフェは、どう考えても南良(なら)星佳(せいか)がいるような場所ではなかった。 世界の期待を一身に背負っている若いミュージカル俳優が、そんな高貴な身が、こんな貧弱なところに......。 そんな下らない話ではなかった。世界? 期待? ましてや、若い? そんなものが何の役に立つというのか。重要なのは実力で、意思だ。若き星佳はそう思った。若いからこそ思えることだった。 そのような話ではなかったが、このシーンはどこか不自然だった。南良星佳がカフェでお茶を飲んでいるこのシーン。空から落ちた額縁の写真だって、このシーンよりは自然なはずだった。 南良星佳は、いつも授業が終わると真正面だけを向いて帰り道を歩いたし、さらに、人の多い道だけを歩いた。自分がミュージカル界の希望ではなくただ点描画(てんびょうが)の中の点の一つになれるように。舞台じゃないところでは目立ちたくないのだ。しかも、もう一つ。今彼女が飲んでいるニルギリティーなら、家にもっといいやつを持っていた。もっといい茶葉といいティーカップが、彼女のキッチンに置いてあったのだ。だから、たとえ星佳にお茶を嗜(たしな)む趣味があったとしても、彼女が帰り道にこんな、ぬっと突き出てる岩のようなカフェに寄るはずがなかった。 「学生さんだね。そして......」 カフェのマスター(みたいに着飾った若い男)が砂糖と練乳を置きながら言った。星佳はそのような人が嫌だった。彼女を名前で呼ばない人。要らないとでも言うように、彼女の名前すら聞かない人。ましてや、 「俳優さんでもあるか」 彼女をそう呼ぶ人はもっと嫌だった。(もっとも嫌なのは「女優」と呼ぶ人だったが、嫌なのに特に理由はなく、ただ「ミュージカル女優」よりは「ミュージカル俳優」の方が響きもよく、星佳自信に似合うと思っていたからだった。それはさておき、) 星佳は星佳であって、「女優」とか「俳優」等ではないのだ。俳優なら、もっと立派な人たちがブロードウェイとかに何百も散らばっているではないか。南良星佳は世界でたった一人だった。たった一人で、今ここでマスターと会話を試みている人だった。 「そうよ。マスターは? マスターって呼ばれるにはまだ若いと思うけど、まあそう呼ばせてもらうわ。マスターも学生でしょ?」 「そうだね。あと、俳優さんと同じ授業を聴いている」 「あら、ごめんなさい。知らなかったわ」 いろんなものが無視された会話だった。敬語に対する敬意、尊重、出会いのときめき、上下関係、そして前後関係までも。 「謝ることもない。こんな顔はよく忘れられるからね。犯罪をやらかすか、舞台にでも上がらない限りは」 星佳は、彼の声が何の色でもないと思った。 声の色? その通りだ。赤、青、黄色といった名前を付けるのは無理だったが、星佳には声に塗られている色が見えた。例えば星佳の友達を名乗る同じ学科の子は、星佳のマネージャーと同じ色の声で喋るのだった。 マスターは星佳の隣のテーブルを拭き始めた。そして色を失ったのか、それともわざと脱色したのか分からない声で言った。 「そういえば、ブロードウェイに行くらしいじゃないか。随分と遠くへ行くのだね」 「どこからそれを?」 「噂を聞いたのだが」 「てことは、最初から私が南良星佳って知っていたのね?」 「そうだね」 気に障ることではなかった。南良星佳は有名人だったし、通っている大学ではもっとそうだった。彼女の顔も名前も、しかも仮名までもが公然と知られていた。だからマスターが彼女を知っていたといってストカー扱いはできなかったし、むしろそれは彼が平凡で健全な大学生活を送っているという証拠だった。 星佳がブロードウェイに留学するというのも別に秘密ではなかった。ミュージカルの聖地ブロードウェイ。彼女の成功を意味する場所だった。ただ、一つ引っかかったのは、留学のことはミュージカル学科の学生以外知らないはずだった。 すこし黙って考えた後、星佳がマスターに聞いた。 「ごめん、もしかして、授業だけじゃなくて学科も一緒だったかな?」 「そうだね。専攻は違うのだが」 マスターはそこまでしか言わなかった。会話を成立させるためには、もっと言うべきことが色々あるだろうに。まるでそこまでしか録音できていないレコーダーみたいだった。星佳はしかたなく質問を重ねた。 「ちなみにマスターの専攻は?」 「俳優さんが読む台本を書く方だね。」 「それは......」 ミュージカル学科は人数が多い方ではない。しかも学科全体の共同作業も多かったので、星佳は少なくとも一度以上、彼と顔を合わせたのに違いなかった。顔だけじゃないだろう。彼が書いたセリフを言って、彼が創造したキャラクターになって......。考えてみると、公演の後の打ち上げで隣に座ったのかも知れない。 「言ったはずだ。謝る必要はない」 しかし、星佳が覚えていないのは彼のせいでもあった。こんな何の色もしていない声を、いや、あえて言うなら、窓ガラスについた指紋みたいな色をした声を、覚えられるものか。 「マスター、名前は?」 「......仮名でもいいかね」 「......からかってるの?」 そうは言っても、マスターが人をからかうような男には見えなかった。多分誤解されやすい人なのだろうと、星佳は思った。 「いや、複雑な事情はこっちにもあるのだよ」 カフェのマスターだという事実を隠しているのだろうか。そりゃ、そうだろう。そうじゃないとおかしいのだ。同じ学校に通う同じ学科の人がやっているカフェなのだ。それを星佳が今日初めて訪れたというのは、今日まで知らなかったというのは、ひどくおかしい、あってはならないこと。そんな鈍感な女では、南良星佳をやっていけないのだ。 だからマスターが本名を隠していることに、星佳は救われた気がした。 「とにかく、ブロードウェイに行くのはやめておくんだな」 ......いきなり何を言い出すのかしら。 いきなり......いや、この反応はあまりにも陳腐だ。星佳は何か他のことが言いたかった。「うん? 今なんて?」としらばっくれ。「なんであんたが」と真顔。あるいは、「行かない理由なんてないわ」と論理の押し付け。......ダメだ。何一つ斬新なものがない。ミュージカルスター南良星佳は、陳腐になってはいけないのだ。だから......。 「いやよ」 そう、これだ。自分の好きなように、勝手にするべきなのだ。これこそが星佳の取るべき行動だった。 そのはずだったが、マスターがこう聞いた。 「いやって...... 何が嫌なのかね」 答える価値のない、小説だったら文字数を増やすために書かれたはずの無意味な質問だった。星佳もそう思った。思ったのに、星佳には簡単に答えることができなかった。答える瞬間、マスターの裏側、窓際に立っている花瓶が落ちてバラバラの破片になりそうな気がしたのだ。 不愉快なことに、マスターはそんな星佳の心配に気付いているかのように、笑っていた。 2 気が付いた星佳は、既にあんな話やこんな話をマスターに打ち明けていた。五歳のときから疑う余地もなく際立っていたミュージカル俳優の才能。その後に置かれた、丸木橋みたいな俳優の道。そしてブロードウェイ行き。マスターは話を聞きながらたまに相槌を打つだけだった。何か特別な相槌でもなく、せいぜい「そうか。そうだね」みたいなものだった。なのに星佳のティーカップは空いていたし、全てがはっきりしていた。星佳は結論を下した。 しかし、何かが変だった。「気が付いた星佳」って、星佳が気を失ったりでもしたっていうのか? 彼女にそんな覚えはなかったが、そうでないと説明がつかなかった。 彼女はなぜ誰にも言わなかった話を、こんな不慣れな上に不審な場所で言っちゃったのだろう。そしてその「結論」が、本当に彼女自分の意志によって下されたと言えるのか?彼女は、はたして正気だったのか? 星佳は呼吸を整えて、ゆっくり周りを見た。破れそうな木の床、本物なのかどうか分からないヤシの葉、葉に覆われて外がよく見えない窓。そして、窓際には紫色の芳香剤みたいなものが置かれていた。もしかしてあの芳香剤が、星佳を惑わした催眠剤なのではないだろうか。 いや、そんな回りくどいことをするまでもないだろう。星佳が飲むニルギリティーに催眠剤を入れた方が簡単だったはずだ。きわめてリラックスした状態の星佳はそう思った。 この場合、ブロードウェイに行くか行かないかは本題ではない。それはもう行かない方に結論を出したのだ。本題は、「マスターが一体なぜ、彼女がブロードウェイに行かないように誘導したのか」だった。どう考えてもマスターに何か得があるはずがない。彼とちゃんと話したのは今日が初めてなのだ。なら、誰かに使嗾(しそう)された可能性もあるだろう。彼女のブロードウェイ行きを止めたがる群れは少なからず存在するのだ。星佳も詳しいわけではなかったが、この業界にも派閥争いがあって、複雑な利害関係があるのだから。とにかく、マスターが彼女に何かをしたのは確かだった。芳香剤なのかニルギリなのか、他の方法なのかは知らないが。だって、星佳が何か月もかけて悩んだブロードウェイの件についてこうも簡単に結論が付くわけがないのだ。 カウンターの闇の中で、女の子がこっちを見ていた。多分アルバイトの子だろうけど、それにしては変な態度だった。お客さんさんと目が合った瞬間そらしてしまうなんて。 あの子もぐるかも知れなかった。ニルギリティーを作ったのは恐らくあの子だったのだから。 星佳は何の疑いもしていない顔を作って、マスターに言った。 「ここ、バイトはないの? マスター独りじゃ、人手が足りなさそうだけど」 洗っているお皿から目を離さず、マスターが答えた。 「そう、やっと秘密に気が付いたようだね」 すごく静かだった。 星佳はひどく驚いたが、ミュージカル俳優らしくすぐに愉快な表情に切り替えた。彼、あるいは彼らは星佳に何かをしようとしたのだ。下手に動いたら危険な目にあうかも知れなかった。 「......五歳に踊って歌って演じるためには、いろいろ優れないとダメなのよ。とくに、感が優れていないと...... ねえ、もう一杯もらえるかな」 「もちろん。僕が奢るとしよう」 マスターは待っていたかのように、茶葉が積もっている革袋を出した。 星佳はそれを落ち着かない目で見ていた。 「一つだけ教えて。私に催眠をかけたのは、あの芳香剤なの? それとも、その茶葉なの?」 「催眠、か。それはまた、」 「教えてよ」 それからしばらくは沈黙が流れた。そういえばこのカフェには、カフェとしては珍しくも音楽が流れていなかった。時計の針の音すらない。ただマスターの足音、あるいはスプーンがカップを殴る音だけがメトロノームみたいに響くだけだった。そしてマスターはなぜかがっかりしたかのような表情をしていた。 マスターがようやく答えた。しかし、時計がなかったので、実際には「ようやく」じゃなく「一瞬間を置いて」だったのかも知れない。とにかく時間は止まらず流れていた。 「魔法、って言っておこう」 「魔法。」 もちろん、星佳は驚くか、少なくともマスターを馬鹿にしたかった。でも、どっちもしてはいけなかった。彼女は天才ミュージカル俳優だったし、そんな彼女が魔法などに動揺してはいけないのだ。 「なるほど、そういうことね」 幸い、そう言った瞬間、魔法みたいに彼女の緊張がほぐれた。 魔法を受け入れるのは思ったよりもずっと簡単だった。星佳は四歳のころから魔法少女を憧れてきたし、十二歳のころはハリーポッターシリーズを読破した。だから多くの現代人がそうであるように、彼女も胸の中のどこかに「魔法が存在するかも知れない」というわずかな期待を残しておいたのだった。 「だから、魔法なんだね」 「そう」 「魔法を使って、私をこんな辺鄙なところまで連れてきたのよ」 「そうだね」 「催眠魔法をかけて、ブロードウェイを諦めるようにあおったでしょ」 「催眠という言葉に随分とこだわるのだね」 「紅茶がこんなに美味しいのも...... 茶葉に魔法をかけといたのね」 「それは普通の茶葉なんだが。」 スリランカ産だね、とマスターが言い添えた。 その言い添えに、星佳は呆然と「普通の」茶葉を見直した。確かに特別な気配などまるでなかったった。しかし、彼女は自分の勘違いを恥ずかしいとは思わなかった。もちろん南良星佳は勘違いなんかしない優れた存在でいるべきだったが、魔法は例外だった。星佳が魔法を経験したのは今日が初めてで、だから間違っても仕方がないのだ。魔法の前で南良星佳は例になく小さい存在だった。例になく気持ちが落ち着いた。 時間がどんどん流れている気がしたけど、どれだけ流れたのかは知るすべがなかった。もう丸一日が経ってしまったのかも知れなかった。 「それで、誰なの?」 「何が、かね」 「知ってるくせに。首謀者よ。誰かに私を足止めするように頼まれたんでしょ? 誰なのよ。」 星佳が舞台の上でのように、軽快に言った。その赤い口から出る音は歌声のようにも聞こえた。 「また、行きたくなったのか? ブロードウェイに」 マスターの声も少し染まっている気がした。どんな色なのか星佳には分からなかったし、分かろうともしなかったが。 「そんなはずないでしょ。ただ気になるから聞きたいだけよ。誰が何でそんなことを企んだのか」 「こっちの企みを聞いてどうするのかね。大事なのは俳優さんの企みだったはずだが。」 「......その通りね」 星佳が行かないって決めたのは、誰かにそうやらされたからではなかった。たとえ催眠や魔法に背中を押されていたとしても、このカフェに座ってそんな決心をしたのは正真正銘の南良星佳だった。もしかしたら、ここに座る前からそう思ったのかも知れない。彼女は今日やっと十九歳になるのだ。十九歳になる少女には誰もいないアメリカより、何人か友達が残っている国が向いているはずだった。その十九歳になる少女が、あの南良星佳だとしても。変わることはない。 マスターが新しいティーポットを出してきた。彼が空いているお皿を下げている間、お皿同士でぶつかる音だけが響いた。星佳が突然こう言った。 「マスターはいい声をしているのね。何の目的もなさそうよ。きれいでさっぱりした声。」 本当は色のない声だと言いたかったが、星佳はそれを口にしてはいけない気がした。口にすると、全然違う意味に変質しそうだったのだ。そもそも、マスターは理解してくれないだろう。声の色というのはあくまで星佳の頭の中で使われる言葉だったし、頭の外のどの言葉でも表現されてはいけない。彼女はそう思った。 「......」 マスターは何も言わなかった。しかも、なぜか急に居心地が悪くなったかのような気配になっていた。そんな反応は星佳の想定外だった。さっき、彼女が自分の話をだらだらと喋ったときは喜びも驚きもしなくて、まるで神妙な岩に向かって告白していた気分だったのに。星佳はカフェに入ってはじめて、自分が今まで人間に向かって話していたことを実感した。 岩ではないマスターが、また時間をかけて答えた。 「そうか、ありがとう。」 黙ってキッチンに戻った彼はカウンターの椅子に座った。一瞬で彼が十年ぐらい老けて見えた。そして疲れたように片足を叩く彼の姿は本当に人間みたいだった。 「うん、決めた。私、ここでバイトするわ。給料はいいから、代わりに魔法を教えてよ」 そうは言ったものの、星佳は別に魔法を使えなくたって構わなかった。今、正に今の自分に何の不満もなかった。ただ試しに丸木橋から飛び降りてみたい気分になっただけだったのだ。 「教わって使えるようなものではないのだが」 「いいのよ。天才ミュージカル俳優だから。できるに決まってるのよ」 星佳はマスターが持ってきた紅茶を飲んだ。紅茶は魔法でないと説明がつかない味だった。それを一口飲んで、彼女は信じられないとでもいうようにマグカップの水面を見つめた。魂が抜けた人のように......。そして言った。 「じゃあ、練習してみるね。魔法、まほうか。えっと、 マスター、最近別れたのよね?」 マスターは胸の中でつぶやいた。「それは魔法じゃなくて、占いのたぐいのようだが......」。そして疑い始めた。本当に彼女に出した紅茶に、何か不思議な力でも宿っているのではないかと。 3 あの女優さんは勘定を済ませた後、振り向きもせず店を出た。ただ入るときよりほんの少し明るくなった顔をしていた。恐らく彼女は明日もこのカフェに来るはずだった。 その可哀そうな背中を見つめ、ヒマリは言った。 「お兄ちゃん、いい加減にしたら?」 彼女はあの女優さんが帰るまでキッチンに引きこもっていたし、さっき一回だけ女優さんと目が合ったのを悔しんでいた。別にそうする理由もなかったが、ただ単に二人の会話に巻き込まれたくなかったのだ。 しかし、やっぱり巻き込まれるべきだったのかも知れない。巻き込まれて、お兄ちゃんの横暴を止めるべきだったのだ。 「自分がダメだったからって八つ当たりなの?」 妹の責める言葉に、ソラは言った。キッチンに戻ってそろそろ窮屈になった義足を外しながらだった。 「そうかも知れないね」 ヒマリはミュージカル俳優になれなかったお兄ちゃんが気の毒だと思ったし、そのような苦境を乗り越えて劇作家を目指している、諦めないお兄ちゃんを尊敬していた。だからこんな辺鄙なところでカフェなんかを始める奇行も許してあげたし、お客さんが来なくて赤字になったときだって何も言わなかった。 なのに、もうこれ以上は見ていられなかった。最近のお兄ちゃんにはいくつか気持ち悪い趣味ができた。例えばさっきみたいに、たまに来るお客さんに変なことを言ってたぶらかすこととか。 もちろん、一見そこまで悪いことをしているようには見えないかも知れない。ただお客さんにお茶を出しながらお喋りを、それもろくに返事もせず「そうか。そうだね」みたいな相槌を打っているだけだったから。しかし、やっぱりおかしいのだ。このカフェにはなぜか道を間違って流れ込んだお客さんしか来なかったし、そんな人たちはきまって何か悩み事を抱えていた。そしてカフェを出るときは、その悩み事が必ずとんでもない形で解決されているのだった。ブロードウェイ行きみたいな大事なチャンスを投げ捨てるとか。これはお兄ちゃんが何か悪いことをしているとしか言えないのだろう。 「しかし、僕は何もしてなかったのだが」 「いや、今言ったよね? そうかも知れないねって」 「まぁ、そう言ったかもしれない」 お兄ちゃんに簡単に認める気配がなかったので、ヒマリは怒りはじめた。 「魔法って、ふざけてるの? アホじゃないの二人とも」 あのお姉ちゃんも大概だ。魔法って、お兄ちゃんが何の脈絡もなくそう言ったのをそのまま信じるなんて。アホにも程がある。道端で彼女を拉致(らち)するためには、きっと飴玉一つで充分なのだろう。 「なんでそんな...... 何がしたいの? お兄ちゃんは今、あのお姉ちゃんの未来を台無しにしたのかも知れないんだよ?」 「未来、か」 彼は少し考えた。考えずには何も言えないのが彼の癖だった。 「少なくとも店を出るとき、彼女は幸せそうに見えたのだが」 「今は、ね。そうかも知れないけど」 「それでいいのではないかね。カフェのマスターはお客さんさんを笑わせればいいって言ったのはヒマリだろう」 「お兄ちゃんは...... その才能がないの」 「そうか」 妹に睨まれて、ソラは言い続けた。 「実は、どうなっても構わない。僕はただ聞いていたのでね。決定は彼女がしたし、今も未来もそう決めるしかないのだろう」 ヒマリは会話をつなぐ力がなくなるのを感じた。 こうなるとは知っていた。お兄ちゃんに怒っても、それは怒りとして成り立たない。お兄ちゃんは何の言い訳も言わないし、反省もしない。こっちはお兄ちゃんが何を間違ったのかすら分からない。だから彼に対して怒っても、ぬいぐるみにパンチを食らわせながらぶつぶつ言う可笑しい人にしか見えないのだ。泣いたりでもしたら鬱症に見えるだろう。何か月か前もそんなことがあった。 ヒマリは窓際に置いてある、紫色の芳香剤を見た。百円ショップでは一番高いやつで、2か月はリラックス効果があるラベンダーの香りがもつはずだった。 「魔法の話、どうするのよ。あのお姉ちゃん、本当に信じていたからね?」 「もちろん、精を尽くして教えるべきだろう。僕は魔法には疎いのだが......」 「だから、本当のことを言ってあげなさいよ」 「たまに魔法使いがお茶を飲みに来るではないか。彼に頼んでみるとしよう」 「うん...... もういいわ。アホ同士で仲良くやればいいもんね。バカバカしい......」 どうしてこのカフェにはこんな人たちしか来ないのだろう。ヒマリは額に手を当てた。最近頭痛がひどくなった気がしたのだ。 「どこか痛いのか?」 「いいって言ったでしょ」 マスターはしわしわな雑巾で、取り外した義足を拭いた。 「しかし、さっきは驚いたね。バレたのかと思ったが......」 「うん? あ...... どうでもいい、そんなこと。それもやめなさいよ。どうせ聞かないだろうけど」 「カフェのマスターは退屈な職業だからね。ちょっとしたゲームなのだが」 ヒマリはその話にあまり興味がなかった。言った通り、お兄ちゃんはいくつか気持ち悪い趣味を持っていたが、自分が義足をしているということをお客さんに隠すのもその一つだった。南良星佳っていうお姉ちゃんが「マスター独りじゃ人手が足りなさそう」とか言ったときは彼女がゲームで勝ったと思った。だから久しぶりにお兄ちゃんの負け顔を見れるかもと期待したヒマリだったが、案の定、すぐ催眠とかいって変な方向に流れてしまった。彼女みたいな人に期待をしたヒマリがうかつだったのだろう。 それ以上話しても無駄だったので、ヒマリはそろそろカフェを出ようと思った。どうせ今日はもうお客さんも来ないだろう。もう近所の大学生たちがカフェの代わりに居酒屋を探し回る時間だった。ヒマリは最後にお兄ちゃんの方に振り向いて言った。 「やっぱり変だよ。心優(みひろ)さんと別れてから、もっと変になって。」 お兄ちゃんがおかしい行動をするのはいつも通りだったが、一年ぐらい付き合った心優さんと別れてからはもっとおかしくなった。お客さんたちで遊び始めたのもそのころだった。 「......」 彼は何も言わなかったが、今度は何かを考えているようにも見えなかった。いくら考えても返せる言葉がないと、すでに知っていたのだ。 「言いたくないなら、いいよ」 「そうか」 ヒマリは鞄をもって店を出た。そしてさっさと携帯電話を出し、彼女の親友である心優さんに電話をかけた。 ヒマリのお兄ちゃんの気持ち悪い趣味についていくつか話したが、これから話すこの趣味に比べると、まだましなものばっかりだったはずだ。ヒマリがこの趣味についてまだ知らないのも、お兄ちゃんのソラがまだ妹に明かしていないのも、もっともらしい理由があるのだ。 4 彼を初めて見たとき、だから、お母さんのお腹から出たときから、ヒマリはそう思っていた気がした。彼はよく笑って親切だったが、それが上手すぎだったと。彼が天に恵まれた役者だと。だから彼の夢が経たれた時ヒマリはすごく悲しかった。 そして後から彼の話を聞いて、ヒマリよりも悲しんだ人がいた。彼女は今ちょうどヒマリと一緒に、大学周辺のベンチに座ったところだった。 「ソラ君は、もう新しい女の子に目を付けたんだって?」 彼女、加冷心優(かれいみひろ)は笑いながら言った。季節に似合う きれいな笑顔だった。 「そんな、違いますよ。そんなことだったらまだましだったのに...... あ、ごめんなさい!」 「いいの、いいの」 心優の表情が一段と和(やわ)らいだ。ヒマリは自分が失言したと思ったが、実はそんなところこそ心優が心から愛おしいと思うところだったし、それが違う学科の違う学年である心優とヒマリが仲良くなったきっかけでもあった。つまり、心優の元カレがヒマリの兄だったのは出会いのきっかけでもなんでもなかった。それはただの奇跡に近い偶然だった。 二人は座った後しばらく黙っていた。けして気まずい沈黙ではなかったし、事実、沈黙ですらなかった。周りで歌やダンスを練習する大学生の群れが代わりに騒いでくれて、何も言う必要がないだけだった。 晴れていい天気だったが、ヒマリは真面目な話に合わない場所だと思った。 心優は今からする話が真面目な話だと思わなかった。 「気遣いはいいって。私が出たのはただ、ソラ君が心配だったからだよ。」 「心配......」 「彼はね、台本を書くときは何日も部屋に閉じこもろうとするくせに、寂しがり屋だから...... 誰かがそばにいて彼の気分が晴れるのなら、いいことじゃない」 なんてね、と彼女が笑った。 ヒマリは彼女に尊敬を超えた愛まで感じた。そう感じるほど、お兄ちゃんの考えが分からなくなった。いや、生まれてから今日まで、それが分かった瞬間なんてそんなになかったのだが......。 心優さんが椅子に座って組んだ脚、喋っていると出る、飾り気のないしぐさ、そして海水のようにしょっぱくて涼しい笑み。このすべてを、お兄ちゃんはどうやって断ることができたのだろうか。 ヒマリは変に悪い気がした。 「私がお兄ちゃんに、うまく行ってみます。お兄ちゃんも悪い人じゃ......なくはないけど、でも、心優さんの気持ちを分かればきっと、」 「いや、違うよ、ヒマリちゃん」 ヒマリはその声が横じゃなく、どこか遠いところから聞こえた気がした。 それと同時に、ガラスが割れるような音がした。大学生たちの歌とダンスが一斉に止まった。誰かが腕を振り間違えて飲み物の瓶を落としたようだった。 「言ったよね? 私は彼のことが心配なだけだって。」 「......」 ヒマリはもう一度相手の顔をよく見た。確かに、それは誰かに恋をしている人の顔というより、むしろ、 「問題はねぇ、ソラ君がまだ私のことを好きだっていうことなんだよ。他に問題なんてないの」 「でも...... 別れようとしたのはお兄ちゃんだったんですよね?」 「そう」 好きな気持ちは、好かれる気持ちより難しいのよ。 心優が軽く頷いたが、ヒマリはどうも簡単に頷くことができなかった。何も納得できなかったし、まだ真っ暗な部屋に閉じ込められている気分だった。六面が黒い壁になっていて、灯りを点けても何も見えないそんな部屋に。お兄ちゃんはどうだったんだろう。お兄ちゃんはどんな気持ちで、自分が好きな人と好きのまま別れたのだろう。ヒマリを真っ暗な部屋に閉じ込めたのはお兄ちゃんだったが、彼もまた、そこから脱出する方法なんて知らないはずだった。 * そう。真っ暗な部屋に閉じ込められているのはヒマリではなく、むしろソラだった。それはそばから見ればすぐに分かることだった。しかし困ったことに、心優もどうすればソラをその部屋から出してあげられるのか知は知らなかった。知ろうと頑張ってみたが、それでも最後まで分からなかった。 ソラは恋人としてこの上なく完璧な人だった。自分のことをなかなか話してくれないという欠点はあったが、それも秘密を隠しているわけではなかった。むしろその償いでもするように心優の話なら何でも聞いてくれた。 二人は記念日を一々記念するカップルではなかったが、それでもお互いの誕生日やクリスマスにはプレゼントをあげたりもらったりした。ソラが選ぶプレゼントは一度もハズレることがなかった。どうやって知ったのか、犬のぬいぐるみや変わった色のお箸や小さいポストカードなどを、占い師のように当てて買ってくるのだった。一方、心優も彼の妹を買収してまでプレゼント選びを頑張ったわけだが、彼に本当に喜んでもらったのかは今でも分からない。ありがとうとは言っていたけど、何せ、自分の話をなかなかしない人だったから。 ソラは別れるとき、こう言った。凄絶におねだりをしてやっと聞いた貴重な答えだった。 ―別れるのは僕のためじゃない。君のためでもないが。ただ...... 仕方がないと思う。 ソラが自分の考えていることを説明したのはそれが初めてだった。彼はとても慎重にそれを言った。 ―それじゃあ、ソラ君も実は別れたくないってことよね? 何かほかに理由があるんだよね? ―...... 二度目の質問に、彼は黙った。 黙った彼に、心優は腹が立った。なんで黙ってるの。そんな風に黙ってると、本当に、ほんとうに別れたいって言ってるのと同じじゃない...... いいのよ。そういうことなら消えてあげるわ。 心優はまだそのときは彼を好きだったので、本心をもって怒った。 心優も自分のことが嫌だって言う人にすがるのは性に合わなかった。彼女の理想は愛し合う、恋され会う関係。向こうが嫌だって言うのなら、そこでもう予選脱落なのだ。 なのに数日後、ヒマリから電話がかかってきた。 ―心優さん? お兄ちゃんが、お兄ちゃんが...... 心優さんとなんかあったんですか? ―どうしたの? ソラ君が何、倒れたりでもしたの? ―いや、お兄ちゃんが、さっきまで泣いてたんですけど...... いったい...... ヒマリが言うには、彼の泣いている姿はほぼ十年ぶりだそうだった。片足を失ってミュージカル俳優を諦めたときも泣かなかったらしいから。ヒマリはどう対処すればいいか戸惑っている様子だったが、それは心優も同じだった。別れたくて別れた人がどうして泣くのだろうか。もちろん、心優とは関係ない別の件なのかも知れなかったが......。 くよくよするのもまた性に合わなかった。心優は最後にソラに電話をかけ、最後に顔を合わせて話した。 * 「その話はもういいのよ」 心優は軽くヒマリの手の甲を叩いた。ヒマリは手の甲を整然と膝の上に乗せていたので、心優がそれを叩くにはかなり距離を詰める必要があったし、かなり不自然な動きになってしまった。とにかく二人はもっと近くに座るようになった。 「そんな話より、私はヒマリちゃんの話が聞きた院だけと。最近どうなのよ」 「どうって、どういう......」 「誰かいい相手はいないかって話でしょ? 一年生だったら、いろいろ真っ盛りじゃない。」 「ないですよ......! まだ興味もないし、」 「まだ?」 愛おしい後輩の失言に心優は再び笑いを堪えた。そう、堪えるべきだった。彼女としては、むしろこれからが真面目な話だったから。 「後悔するよ? ずっと何もせずにいたら、後で私みたいに変な男に出会っちゃうかも知れないし」 「それは、そうですけど......」 「あの子は? カフェによく顔を出すって言った、あの...... ストーカーの子」 「心優さん? 今その話題はおかしくないですか?」 恋話をしていたはずなのに、ストーカーって。「彼」はどう考えてもこの話に登場する資格がなかった。ストーキングは犯罪なのだ。ヒマリはそんな不満を心優に吐露した。 「まぁ、いいじゃない。恋愛とストーキングは紙一重なのよ。片方がもう片方について詳しく知って行き、結局やらかしたら終わる...... 何をやらかすのかに寄るけどね。」 ヒマリはまたとして肯けなかった。ヒマリはお互い同時に知って行って同時にやらかす、公平な恋愛をしたかった。こっちが知らない間に、あっちで何かをやらかすなんて、(それが犯罪でも、花束の告白でも)嫌だった。ヒマリはそう反論した。 「そっかそっか。ヒマリちゃんはきっといい相手に出会うだろうね。きっと幸せになるし」 それはどこか、心優が自分自身に言っているように聞こえた。あるいは、いつか自分自身に言っていた言葉だったのかも知れない。ヒマリは彼女が自分とは違う、尊敬できる人だと思った。 「だから、あの子と話してみたら? いいじゃないストーカーで」 いや、やっぱり、後輩にストーカーと会ってみるようと二回も言う先輩は尊敬できないのだ。しかも、あまり冗談っぽい口調でもなかった。 「前も言ったけど、あの人は気持ち悪いだけですよ。話したくもないし」 「厳しいな...... でも魔法使いでしょ?」 「いや、だから気持ち悪いって言ってるんですよ?」 しかし、実はヒマリも既に覚悟していた。あの自称魔法使いはカフェの常連さんだったし、たまにお兄ちゃんに用事がある日はヒマリ一人で店番をするから、結局いつかはあの子と話さねばならない。実は、彼に何らかの期待もしていた。お兄ちゃんに敵う人がいるとしたら、それはあの魔法使いしかないと決まっていたから。 「そう? 面白そうなのに......」 心優は思った。自分はうまく行かなかったが、ヒマリには幸せになってほしいと。彼女は幸せになるべきだと。 あと祈りもした。ソラが妹にだけは、自分にしたような真似をしないようにと。 5 黒いワインの瓶に挿した、赤い花。 そんなものがずっと前からカウンターに置かれていた。レジの横、マスターがいつも過る場所に。それは美しくも有用なわけでもなかったが、もともとそういう目的をもって置いておいたわけでもなかった。ヒマリが資源ごみ回収の日に寝坊をしたし、ちょうどソラが誰かにもらった花を挿しておくところがなくて困っていた。それだけだった。 ヒマリとソラがカフェを始めたのもそんな感じだった。ソラは挫折した夢の代わりに努力を注ぐものが必要だったし、ヒマリは大学の近くに家とバイト先があったら便利だろうと思っていた。そうやって二人で二階建てのお家を入手し、家兼カフェで使うようになった。 同じ家、そして同じ仕事場にいたけど、ヒマリはお兄ちゃんとそんなに話し合う方ではなかった。仲が悪いわけではなかった。ただヒマリは大学青春の真っ只中だったので、決まったバイトの時間以外はほとんど外で遊んでいた。また彼女のバイト時間はほとんどソラの用事がある時間だった。だから二人は会話どころか、一緒に働くこともほとんどなかった。 「兄の言ったことは無視してください」 カモミールティーを出しながらヒマリが言った。お客さんにする言葉ではなかったが、既に彼女は普通のお客さんではなかった。ヒマリはお兄ちゃんにたぶらかされた哀れな女優優さんを助けてあげたかった。 「マスターのことかしら? そうか、マスターの妹なのね」 星佳もまた礼儀をわきまえる気はなかった。彼女はもうマスターととんでもないタメ口を交わした仲だったので、その妹に改める必要はまったくなかった。 「でも、無視しろだなんて、何を無視すればいいのよ」 「全部です」 「うん...... そもそも私は、マスターの言ったことをそのまま信じたりしてないわ」 「本当ですか?」 「魔法とか催眠の話なら、マスターから聞く前にとっくに気が付いていたのよ。私、感が鋭いから」 「そんなところですよ。魔法、催眠、それ全部無視してください。兄がふざけただけですから」 怒りでヒマリの手が震えて、カモミールティーも一緒に揺れた。コップからはみ出た赤い水が星佳の白い袖につき、ヒマリは怒る最中に謝るべきになった。当の星佳は謝られるまで、袖の赤い跡に気付いてすらいなかった。 「うん、わかったわ。あなたの言う通りにする。でも......ここでバイトはさせてくれるのよね?」 「人では足りているんですけど......」 「構わないわ。給料ももらわないから。私は魔法を教わってみたいだけなのよ」 ヒマリは確かに星佳と会話をしていたが、その会話によって変えられるものは何もなかった。星佳は絶対に魔法を諦めないだろうし、ブロードウェイにも行かない。ヒマリはそんな彼女に対していらだちを感じたが、それはけして見知らぬいらだちではなかった。そう、お兄ちゃんと会話する時のそれだったのだ。二人ともふざけと本心の境界が雲のようにあやふやな、そんな人たちなのだ。 その証拠と言うのもなんだが、星佳は店に入ってから一回も笑顔を失わなかった。ヒマリにカモミールティーをぶっかけられたときにすらそうだった。 「私は十二歳のころ、魔法使いになりたかったのよ」 「今はミュージカル俳優になったんですよね?」 「そう...... でも、昨日気づいたの。私は南良星佳で、魔法使いにもミュージカル俳優にもなれる。そうでしょ?」 ヒマリはじっくり考えた後、頷くしかなかった。それだけではなかった。彼女は自分でも知らない間に星佳の向こうに座ってお喋りをしていた。 「魔法使いになるためにミュージカルを諦める理由はないのよ。ブロードウェイに行かないからってミュージカル俳優じゃなくなるわけでもない。あと、今私はすごく魔法を教わってみたいの。」 「だから、魔法なんてないですよ」 星佳のどこかぼやけている瞳に吸い込まれる前に、ヒマリが慌てて言った。 「本当に? 本当に......そう思うの?」 「......」 ヒマリは答えられなかった。何か気にかかったのだ。だからちょうどそのとき気弱く開いたカフェのドアに、彼女は一瞬救われたと思った。しかし、ドアの後ろから現れた人を見た途端その思いは散ってしまった。 二人の女性の視線が一人の男に向かった。男は何ともない顔をしていたが、実はすごく不安がっているということに女性二人とも気づいた。そして男は、そういう類の人がみんなそうするように、カウンターから遠く離れた二人席に座った。 男はヒマリと同い年ぐらいに見えたが、きょろきょろしながらどこか落ち着きがない、とても怯えている顔をした。ヒマリはやっと接客をするべきの自分がまだ座っていることに気が付いた。 「いらっしゃいませ」 ヒマリが近づくと、若い大学生は一段ときょろきょろするようになった。ヒマリはこの男が誰なのかも、誰を探しているのかも知っていたが、直接会話をしたい気はまるでなかった。だから必要なこと以外は言わなかった。 「ご注文はお決まりでしょうか?」 「はい、え...... アールグレイと、あと...... トーストを......」 「かしこまりました。少々お待ちください。」 男も必要以上のことは言えなかった。 キッチンに戻る途中に星佳が話をかけた。 「ここ、私以外にも人が来るのね」 「あたりまえでしょ?」 ヒマリは一言、正気の人は来ないんですけどね、と言いたかったが、今はキッチンに戻るのが先だった。戻りながら彼女は思った。はたして南良星佳と魔法使いを一緒に放置しておいていいのだろうかと。 * そのとき、ソラはある広場の階段に座っていた。カフェが位置した大学周辺から遠く離れたところだった。階段は真ん中の舞台を丸く取り囲んでいて、舞台では若き大学生たちがミュージカル公演を披露していた。ボタンが付いた、青いジャンパースカートの金髪の少女。オズの魔法使いを脚色したものだった。 「あの、ちょっと見えないのですが......」 ソラは後ろの人の声が聞こえないぐらいミュージカルに集中していた。しかし一方では、カフェにやってきた魔法使いとの出会いを思い出していた。 ―その気になれば人を操ることができて、何なら心の声も聞こえる。つまり、魔法使いってことかね。 ―......そういうことにしておくか。 彼は紛れもない魔法使いだったが、それを見せびらかそうとはしなかった。その魔法というのはあくまで特定な場所でしか具現できなくて、ソラのカフェはその場所ではないらしい。しかし、魔法を見せることができたとしても多分、謙遜な彼は見せてくれなかったんだろう。 ヒマリは「その男、お兄ちゃんに付きまとってるよ。 夜中にカフェの周りをうろうろするのを見たからね? ストーカーみたい」って言ったが、ソラは魔法使いがけしてそんな人ではないと思っていた。いや、そんな人だったとしても別にいいと思った。それは彼がカフェを愛してくれる熱烈な常連さんだということだから。 舞台の上で魔法使いのオズが言った。 「「この世に真実なんてない。だけど、私が作った私だけの世界にはー」」 ドロシーはひどく驚いた顔をした。 ソラも魔法使いの青年を無鉄砲に信じるわけではなかった。でも、信じるってなんだろうか。彼の言うことがすべて正しいと思うこと? そもそもソラ自身、何が正しいのかすらわかっていない。だからソラにできることは彼らの話を聞いて、(それが魔法だろうが、ブロードウェイだろうが)ただ「そうか。そうだね」と頷くことしかない。経験上、そうするとき相手が笑う確率が一番高かった。 彼は急に舞台の上のオズがバカバカしく見えた。カフェに来た青年みたいに謙遜でもない、あの傲慢で無能な魔法使いが。オズは魔法が使えない嘘つきのおじいちゃんだったし、主人公でもなかった。ただ周りの人をうまく使って、ドロシーたちを騙していただけなのだ。 ―私が作った私の世界には...... 自分が作った世界? それがどうした。その世界を作るために涙と別れが必要なら、そんな世界に真実などあるわけがない。 ソラが何か言うと、相手は笑わなかった。だからソラは何も言いたくなかった。同意も、許可も、主張も、宣言もしたくなかった。 ―マスターはいい声をしているのね。 あの後、彼女はなんと言ったんだっけ。確か、初めて聞いたことではなかったし、そのことを聞くたびソラは自分の声が嫌になった。人を傷つけることしかできないこの声が、いい声な訳ない。 * カフェのドアが開いたその瞬間、星佳は一時的な嫉妬を感じた。この突っ立っている岩みたいなカフェに入ってくる人が自分以外にもいたなんて。しかし、そのドアが閉ざされるも前にそんな感情は消えた。普段もそうだったが、星佳はあまり他人に興味がなかった。それは彼女が今まで恋愛をしたことがない理由だったし、また学校で受ける無数で気持ちい悪い視線を無視できる理由でもあった。よって星佳は今二人席に座った男の存在を完全に忘れていた。 しかし、マスターの妹がキッチンに消えると、視線を感じはじめた。すごく執拗な、例えば初めてオーディションを受けたとき審査委員長にもらった視線と似たようなものだった。誰の視線なのかは振り向かずとも分かった。しかし、そんなことがあり得るのだろうか。さっきまでは人が座っている気配すら感じなかったのに、いきなり。二人きりになって星佳の方から彼を意識するようになったのか? いや、そんなはずがない。星佳はまだ彼の顔すら見ていない。 星佳が我慢できず振り向こうとした瞬間、足音が聞こえ始めた。マスターの妹ではなかった。さっきから彼女の電話する声がずっと聞こえていたから。とにかくその足音は彼女を向かって近づいていた。このカフェで、こんな真昼に、まさかこの南良星佳になにか変な真似ができるとは思えなかったが、それでも足音は彼女に何らかの恐怖を与えた。 星佳は振り向くしかなかった。もう心の底からそうしたくなったから。 「......」 星佳に見えるのは黄色(こうしょく)の、少し赤い黄色の顔だけだった。カフェの天井も床も見えなかった。この人は、顔がちょっと大きい方なんだろう。いや、だとしても近すぎる。舞台の上でキスをするふりをしたときだって、こんなに顔が近くはなかった。二人の鼻がたったホコリ一粒をはさんで離れている気がしたが、どれだけ目を寄せてもそれを確認することはできなかった。 「......」 慌ててはいない。少なくとも星佳自身はそう思っていた。ここで慌てては、その辺の普通でか弱い少女たちと違わない。南良星佳は舞台で堂々と自信あふれるミュージカル俳優だったし、ここで顔を赤くしたりはできなかった。南良星佳と顔を合わせたとき、顔を赤くするのはむしろ相手であるべきだった。 しかし、この顔の大きい男は顔を赤くするどころか、息すらしてないように見えた。瞬きをすることも、何かをしゃべることもなかった。五分はそうしていた気がした。そんなことができるのだろうか。もしかしたら、星佳の勘違いだったのかも知れない。 「あの......」 彼は普通の人だったら何かを言うべきだったタイミングを二回もスルーしてからやっと言った。 「あなた、恋人はいますか?」 「ううん、ないわ」 「じゃ、昔いたことは?」 「それもないわね」 星佳は戸惑うことなく答えた。そもそも彼女に戸惑うという選択肢はなかったのだ。南良星佳が「セリフ」を戸惑うなんて、ありえなかった。 さすがの彼も、星佳の答える早さには驚いたようだった。普通の人だったら戸惑ったはずの質問だったのだ。いや、普通の人だったら答えすらしなかったのだろう。 彼はやっと息をしはじめた。 「あなた、魔法に興味があると聞いたのですが」 「そうよ。そうだけど、どこからそれを?」 「ここのマスターから」 「だと思ったわ。マスターにしか言ってないもの」 星佳はあとでこの発言を後悔した。あるで言い訳みたいに聞こえたからだった。しかし、そのときの星佳はしゃべり続けるしかなかった。そうしないと相手になめられるような、言い換えるとオーディションに落ちるような気がしたからだった。 「それで、それがあなたとどういう関係なのかしら」 「僕は魔法使いです。」 星佳は一瞬、しゃべり続けることを忘れた。 「マスターがそう呼ぶのですよ」 そしてそれを機に、彼はしゃべり続けた。 「残念ながら、ここでは魔法をお見せできないのです。しかし、それでも...... あなたは信じられますか? 私が、その...... 魔法使いということを」 星佳は慎重になるべきだった。これは恐らく、何を審査しているのかは知らないが、最終質問だった。彼女は本能的にそれを感じて緊張した。 「......お客さん?」 声が聞こえた。星佳が正面を向くと、マスターの妹がとても怒った顔をしていた。その怒りが星佳に向けたことではなくてよかったと思うくらい、怖い顔だった。 「他のお客さんの邪魔をしたら...... いけないですよ?」 星佳は彼女に救われた気分だったが、それを表に出すわけにはいけなかった。この南良星佳にとって、先ほどの状況は危機でもなんでもないはずだったから。そのとき、星佳の後ろからさっきとは違う音がした。星佳は思わずまた振り向いた。首の筋肉が忙しい一日だった。 「す、すみません......」 「お料理の方はまだですから、席に戻ってお待ちください、お客さん。」 男はひどく、ほぼ可哀そうなぐらいに怯えた顔をしていて、そのまま逃げるように自分の席に戻った。その顔、素振り、そして後ろ姿は、さっきまでと同じ人のものだとは到底思えなかった。はじめて会うミュージカル俳優に鼻を突きだす勇気のある男が、その二つ下の、カフェの店員の言葉に怯えるというのは...... 星佳はやけに不愉快だった。 飲みかけのカモミールティーが涼しく冷えていた。星佳の乾いた喉をぬらすにはちょうどよかった。 「ごめんなさい、あのお客さん、常連さんなんですけど、ちょっと...... おかしい人で。」 ヒマリはそう囁きながら、まるで自分の席に戻るように星佳の向こうに座った。 「いいの。私は...... 私も、面白かったのよ」 また男の気配が完全になくなっていた。星佳は不思議に思いながら聞いた。 「それで、本当なの? あの人が魔法使いだってこと」 ヒマリは眉間にしわを寄せた。しばらくの間忘れていたが、女優さんも魔法使いに負けない厄介なお客さんだったのだ。しかも、彼女もそう遠くないうちに常連さんになりそうだった。 「私も一杯、いいですよね?」 ヒマリはキッチンに戻って、ティーバッグをいれたマグカップと一緒に帰ってきた。ストレスの解消に効くハイビスカスだった。ヒマリは席について、目で男を指しながら言った。 「お兄ちゃんが気に入っただけですよ。魔法使いも、魔法使い呼ばわりするのも。だから、いい加減分かってください」 「そうなのね」 カフェ、マスター、芳香剤、ニルギリ、カフェ、マスターの妹、カフェ、に来た魔法使い。魔法。まほう。 星佳は瞬き一回の分だけ考えて、言った。 「だから、あの人はマスターの師匠なのね?」 「......」 ヒマリはひどい頭痛を感じた。額に手を当てても、ハイビスカスを飲んでも、それは治る気がしなかった。 6 夕方の駅は彼が好きな場所だった。ベンチに座っているだけの彼の前を、沢山の人たちが走って通るのが好きだった。好きというより、有用だった。 あの女優を近くで見たとき、彩仁(あやと)は確信を得た。興奮に近い確信だった。彼女が自分にとってどうしても必要な存在だということを一目見て気づいたのだ。純粋と情熱、そして虚栄。彼女はそのすべてをもれなく持っていた。彩仁にはそういう存在が必要だった。そういう存在を一人でも多く見つけるために、平日の夕方に駅のベンチで観察なんかをしていたのだ。しかし、駅でそういう人が見つかっても近づくのは容易ではなかった。それは彩仁が持っている変な性質のせいだった。 ―周りに他の人がいると、会話ができないということなのだね。相手と君が完全に独りでいる状態じゃやいと、君は...... カフェのマスターが言った通りだった。彩仁はけして勇気がない方ではなかったし、話ならむしろ上手な方だった。なのになぜか、相手が二人以上だったら何も言えなくなるのだ。無理をして口を開けても、鮒がぱくつくような音しか出なかった。だからこんな人の多いところでは、あの女優にやったようにはできない。 彩仁はなんとなく自分の性質、病に近いその性質の原因を察していた。それは多分、彼が「観察されること」を死ぬほど嫌がっていたから」だ。彼は病院で喉の穴を見られるのを嫌悪(けんお)したし、列に並んでいるとき後ろの人に後頭部を見られるのも同じだった。でも会話をすれば少しましになった。彩仁は相手を会話に集中させる力があったし、(それこそ魔法に近い力だったが、)相手は会話に集中する間彩仁の存在を完全に忘れてくれた。しかし、多数の相手を集中させるのは難しかった。多数の人を同時に同じく、公平に集中させる言葉なんてどこにもなかったのだ。 彼はいつも観察する方にいるべきだった。それが彼の才能だったからだ。 マスターは彼のことを「魔法使い」と呼んでいたが、実をいうと彩仁は「人形遣い」の方があっていると思っていた。彼は舞台に上がりたくなかった。だから自分のために踊ってくれる人形を集めていたし、どこか気に入らなかったら自らの手で修繕することもあった。正に人形遣いだった。人形遣いは主人公になれないしなろうともしない。正に彩仁は人形遣いだった。 そのとき、あのカフェのマスターが彩仁の目の前を通り過ぎた。マスターはベンチに座っている人が誰なのかわからなかったようで、そのままカフェと一番近い出口の階段を上りはじめた。右足と左足を交互に出す動作が、まるで絡み合った糸を解こうとするように見えた。 彼こそが主人公だったし、優れた人形だった。 ―恋愛相談か...... マスター、どう考えても相手を間違った気がするが。 ―何、難しいことはないよ。解決策や慰めの言葉を考える必要もないのだからね。ただ黙って、聞いてくれればいいのだよ。 しかも僕の話は、実は恋愛でも相談でもないのだからね。あえて言うなら...... 人生、そしてそれに関した討論とでも言おうか。 ―討論だったら、僕が聞いていてばかりじゃ進まないんじゃないか。 ―大丈夫。君は魔法使いだからね。うまくやってくれると思う。 それはマスターとはじめて会った日だったが、まさか彼がそんなことを言い出すとは思わなかった。彼の第一印象は、なんというか、祈りを聞いてくれる神妙な岩みたいな感じだったからだ。普通そういう岩が恋人と別れた話をすることはないし、ましてやそれを人生だの討論だだのと名付けることもないだろう。 しかしそのとき、彩仁は驚いた同時に期待を抱いた。 ―僕はね、劇作家になるために、僕が初めて好きだと思った人と別れた。僕の方から無理やり別れたのだよ。 彩仁はその言葉をうまく理解できなかった。夜の空気にちょっと酔っていたのかも知れない。そもそも彩仁には直接恋愛をした経験があまりなかった。 ―彼女もマスターを好きだったんじゃないのか? それなら、なぜ別れる必要があったんだよ。マスターが海外に移住でもするのか? それとも、向こうの親の反対とか? ―そうじゃない。それとはまったく関係がないのだよ。 僕の力量が足りないせいだね。彼女を好きでいられるのと、劇を書くのを共存させることができなかった。どっちも本気でかかるしかない作業なのだが、僕の本気はひどく情けないものでね。大きすぎる二つの感情を同時に取り扱うことができないのだよ。チェスでキングを二人も持てないのと同じだ。 ―...... 彩仁は適切な返事を見つけられなかったが、代わりにはっきりとした確信を得た。後日あの女優に感じたのと一緒の類の確信だった。マスターも彩仁にとって必ず必要な存在だったし、彩仁の人生の主人公になる人だったのだ。彩仁の人生はあまりにも退屈なものだったので、そこには新しい主人公が必要だった。 マスターの話はその辺で終わりだった。直接予告下通り、マスターは何の答えも慰めも求めなかった。 * 「あなたのお兄ちゃんと、南良星佳をくっつけようと思います。 ......あなたも手伝ってくれるよね?」 日差しが強くて、ガンガン冷房がついている夏の午後。ヒマリは何の気まぐれだったのか、お兄ちゃんが急に頼んだカフェの留守番を喜んで引き受けた。珍しく友達との約束がない日だったのだ。そして今日に限って、それは最悪の選択だった。魔法使いと二人きりになっただけでなく、注文を取りに行ったら何かよくわからない変なことを言っているから。 ヒマリは頭痛のせいでこめかみをぎゅっと押さえたが、魔法使いは気にせず台本らしいのを書き始めた。彼によると、主人公二人はもう決まったらしい。
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