メルトブルー(修正版後編)

レーゴ




「私を、溶ける場所まで連れて帰って。私も、あの人たちみたいに、綺麗に溶けて、消えてしまいたいから」

 



 月の光も星の光も届かない、真っ黒に塗りつぶされた夜だった。今日に限ったことではない。空を覆う有害物質の厚い層は月や星の柔らかい光を塞いでしまい、夜はいくら天気がよくとも重い闇に包まれる。俺のたてる微かな金属音と少女の咳き込む音だけが、昼間よりも濃度を増したような増した空気に溶け出していった。
 車を拝借することにした。何度も修理が繰り返され、人々が着ている服と同じような継ぎ接ぎの外見をした車だ。ぼろでも、この街にたった一台しかない車で、近隣の街との往来に使っていたものだ。
 この車がなくなれば、住民たちは近隣の街まで行くには徒歩しか手段がなくなってしまう。徒歩でも一日か二日で行ける距離ではあるが、途中で何らかのトラブルに遭遇して命を落とす可能性はかなり高い。それに、運ぶことのできる荷物もかなり少なくなる。まともに交易できる量の物資を運ぶことさえしばらくはできないだろう。どこからか別の車や馬を調達するにしても、それにさえかなり時間がかかる。交易ができなければ物資は入ってこない。物資がなければ飢え、寒さを防ぐことができなくなり、街の人間はそのうち死に絶える。
 しかし、廃車も同然だったこの車を修理し、走らせるための燃料を確保し、実際に街をこまめに往復していたのは俺だ。修理したと言ってもいつ動かなくなるか分からない。エンジンを上手くかけ、壊れない程度にアクセルを踏み、具合の悪いブレーキで速度を調節する術を、住民たちは知らない。たぶん、俺以外の者が運転しようものなら一瞬で事故が起こり、人命もろとも車はお釈迦になる。それほど、扱いに困る代物だ。
 だから、俺がこの街に戻らないとなれば、車が使えないこととイコールで繋がる。だから、ここで俺が車に乗って消えてしまっても、たいした問題ではない。お手伝いロボットが一体消えた、それだけだ。だから、俺がこのまま車とともに少女と街を出ていってしまっても、大丈夫。大丈夫だ。
「どうしたの」
 少女が顔を覗き込んでくる。出会った時よりも遥かにかすれてざらついた声が、もう少女の身体のタイムリミットが迫っていることを示している。時間はそれほどないのだ。迷っている暇はない。いや、と呟いてボンネットを閉めた。
 少女の持つ懐中電灯の光さえ反射しないほどに車体は傷付き、錆びていた。可能な限り手を入れてきたが、吹きつける汚染物質はすぐに金属を劣化させてしまう。まだらな茶色の車体を撫でると、ざらざらと表皮に錆が引っかかる。
「私、本物の車、初めて見た」
 ガスマスクの奥から聞こえる声は、弾んでいた。
「金属の塊、ってかんじ。こんなものが、形が変わっただけで空を飛べるの?」
「まあ、正確に言えば材質も何もかも違うが......よく知ってるな、飛行機なんて」
 もう何十年、空を飛ぶ機体を見ていないのだろう。この白い、視界が不明瞭な空を飛ぶなんて自殺行為な上に、機体の状態を維持するのさえ、車と同様、いやそれ以上に難しい。まだ車やバイクは他のコミュニティでも使われているが、飛行機は終戦直後からほとんど使われなくなったようだった。
「教えてくれたの」
 私より前に、溶けた人たちが。
 少女は懐中電灯を持っていない方の手で自分のコートの裾を握った。少女には大きすぎるコート。この時代には綺麗すぎるコート。もう二度と見る筈のなかった紋章が縫い付けられたコート。
 君は、一体どこで、誰と一緒に生きてきたんだ。
 そう問いたくなるのを堪え、少女の背中を押した。
「家に戻ろう。荷物をまとめたらすぐに出る。夜が明ける前に......他の住民に、見つかる前に」
 少女は素直に頷いた。



 もう、この街に戻ってこられるとは思っていなかった。
 少女が正確に方角や距離を理解しながらこの街までやってきたとは到底思えない。おおよその方角と、彼女の記憶をたよりに例の施設を探すしかないが、この環境ではそれは容易ではない。何しろ、街がそれぞれの間にかなり距離をもって点在している以外は、すべてが粉塵で白く覆われている。人工物は時間と自然と汚染に負けて倒壊し、その瓦礫を死の粉が覆い、景色を塗りつぶしてしまった。
 その上、新興宗教もどきの荒っぽい連中はしぶとく外の世界を徘徊している。普段、比較的平坦で安全な、申し訳程度の安全が確保された交易ルートでさえ、連中の姿をぽろぽろ見かける。そのルートを外れた場所で、雑音をまき散らして走る車を奴らが見逃すはずがなかった。つまり、街に戻ってくるどころか、目標地点にたどり着けるかどうかも怪しいのだ。
 車が街から離れた場所で故障する。有害物質に汚染されて動けなくなる。他者の襲撃にあって倒れてしまう。一面が白の景色の中で右も左もわからなくなり、そのまま行動不能になる。考えられるケースはいくらでもあった。
 それに、このまま街を離れて、本当に良いのだろうか。
 良心、なんてものは俺には存在しないはずだけれど、それでも車とともに街を去ることには抵抗がある。好かれてもいない人間のために働いていたことに、俺自身からは嫌悪も憎悪も発生しない。ただ、頼まれたことを着々とこなしていく。人間のために働く。それだけが俺の存在の理由だったから。
 嫌悪も憎悪も、感情を知覚する器官が存在しないのだから、感じる、なんてことはないはずだった。この街から去ることにも、何の抵抗も感じないはずだった。しかし、今、キーを回す手は震えていた。自分が背後に置いて行こうとしているものと、これから実行されるただ一人のための任務と、どちらが重いのか。
 頭が弾きだした計算は、明確に街に残ったほうがメリットは大きいことを示していた。最低限の生活の確保。人々が苦しまない期間の延長。救える命の数。新しく命が生まれる可能性。未来のための可能性。

 

 ――誰の為のメリットか? 俺のため?
 いや、違う。人間にとって、もっと言えば、この街の住民にとってのメリットだ。俺にとってのメリットではない。俺には、この街の住民を選んだからといって、何も恩恵は得られない。満足感なんてないし、感謝のひとつも与えられないだろう。――俺が住民を守ることは当然。人間のために働くことは当然。本当に、当然なのだろうか?
 隣の助手席に沈んだ少女が乾いた咳をした。ゴーグル越しの、半開きの瞼の奥の眼球は、意識が薄いのかぼんやりと焦点が合っていない。呼吸のたびに異音をたてる喉。熱があるはずなのに蒼白の肌。彼女の身体は住民よりも貧弱で、住民よりも死に近い位置へとあっという間に移動した。しかし、その身体は急激に弱ったせいか、毒素にじわじわと蝕まれている住民よりも、遥かに美しく病んでいた。
 ――この少女を選んで何が悪い。
 上層部の犬の精神。あの男が言ったようにそれがまだ俺の中に燻っているのなら、それに従おう。少女の肩の天使の紋章にそっと触れて、キーを回した。
 大きな音で唸りながらも、一発ではエンジンはかからなかった。無音の夜明けにこの音は大きすぎる。いくら他の家と離れているとはいえ、あまりにもこの音は響く。もう一度。かからない。もう一度。かからない。
 バックミラーを見遣ると、戸口から半身を覗かせた女がいた。何をしようとしているのか理解できていないようで、ぼうっとこちらを見ていた。その向こうからあの、少女を殺せと言った男が走ってくるのが見えた。
 キーを回した。一際大きな音と振動とともに、エンジンがかかった。
 アクセルを踏んだ。慎重に踏んだつもりだったが、がくんと車体は揺れ、急発進した。このまま故障するのではないかと思ったが、スピードを保ったまま車は男の姿を小さくしていった。呆然と、バラックの間に立ち尽くした男。男は、何が去ったと、何を失ったと思っているのだろうか。役に立つものが、物資が、未来が、希望が?
 そんなこと、俺には関係ない。この後街がどうなろうと、俺の責任ではない。
 そう、思おうとした。

 

 ごめんね、と少女が呟いた。
「......何に対しての謝罪だ」
 思ったように声が出なかった。変に抑揚のついた、奇妙な発音だった。
「......いろんなことへの」
 それきり、少女は何も言わなかった。
 車はバラックの廃墟を抜け、本格的に街の外部へと進んでいった。



 少女の様子を見ながら少しずつ聞き出した情報は、大して役に立つものではなかった。少女はあてがあって施設を出たわけではなかった。自分のいる施設と地上にあるものとの位置関係はおろか、おおよその方角さえ把握しないまま歩いてあの街にやってきたのだ。
 地上がどうなっているのか、地上の人間はどうやって暮らしているのか、そもそも人間はまだ自分以外に生き残っているのか。それさえも分からないまま、少女は外へ出た。
 ただ、外に出てみたかったから。
 少女はそう言った。マスクとゴーグルのせいで表情は読みとれないが、声は明るかった。世間知らずで無鉄砲。このご時世ではいなくなってしまったタイプの人間だ。それに、ありえないほどの幸運の持ち主。
「満足してるの」
「......こんな状態になったのに?」
 深く頷いて、少女は再び微睡み始めたようだった。
 少女は街の中央の通りを南側からやって、そこで力尽きて倒れていた。街の南側から来た。それだけが確かな情報だった。
 少女が施設から街まで歩いていた日数はおよそ五日だという。完全に太陽を拝めるわけではないが、白い靄の向こうに太陽が昇れば明るくはなる。そこから少女は五日ほどだったと考えたらしい。ただ、もちろん天候も一定ではない上に空を覆う粉塵の量も日ごとに変わるから、空が明るくなった回数で日にちを数えるのは信憑性に欠ける。せめて腕時計でも着けていてくれたら少しは正確に日数が分かったのだろうが、少女はそんなものは持っていなかった。
 少女が一日に三十キロ歩いたとして、五日を信じるならば百五十キロ。しかし施設にずっと閉じ籠っていた少女の体力は人並み以下であることは間違いない。歩いた時間、ペース、街に倒れていた時の状態から考えると、そこまで歩いていたとは思えない。おそらく、百キロも移動していないはずだ。
 ひたすら、南に向けて走るしかなかった。少女が歩いた距離は百キロ前後だとしても、街に向かって真っ直ぐ北に歩いてきたわけではないだろう。車のおかげで距離自体は大したものではないが、どこに施設があるのか、ということが問題だった。
 少女がまだ幼い頃に親から聞いた話によると、地上の人間に見つからないように地下への入口は隠されていという。入口はたった一つ。その入口は重度の汚染地域のど真ん中に作られた。汚染が重度であればあるほど周りの植物も人工物も排除され、何も無い真っ白の景色が出来上がる。実際、少女は地下を出た先には何も目印になるようなものはなかった、と語っていた。そして入口自体も、地面から飛び出した部分はなく埋まった形であると。塵が積もってしまえば、すぐに入口は姿を消してしまう。目印は、何も無い。



 百キロはとうに移動したはずだった。しかし、ただ直線的に移動しただけで運よく入口が見つかるはずはなかった。街周辺よりも、辺りはより一層白の純度を増してはいたが、まだ重度というには足りない汚染状態に見えた。もしかすると、施設が出来た数十年前よりも、風や雨など自然現象で汚染濃度が薄まっている可能性もある。汚染濃度が周囲と同等になっていたとすると、さらに入口を探すことは困難に思えた。
 それに、入口は大人が二人通れるかどうか、というほどのものだという。もともと地下に籠るために作られた施設なのだから、入口が最低限のものだったといてもおかしくはない。施設の者は皆、地下の空間で一生を穏やかに終えることを目的としていたのだから、わざわざ危険な地上に出ることは想定されていなかったのだろう。
 この広大な白の平原のなかで、そんな小さな入口を見つけられるのだろうか? 入口を探すためには車よりも徒歩のほうが良いのではないだろうか?
 考えながらもアクセルを踏み続けていた。街を出てすでに五時間が経過していた。街に対して垂直に移動した後に、水平方向に移動してはいるものの、汚染は均一だった。まだ先に進んだほうが良いのか、それともこの辺りで一度車を降りたほうが良いのか。
 そのうち、アクセルを踏んでもスピードが上がらなくなり、異音がするようになった。まさか、と思ってガソリンメーターに目をやるが、まだ半分以上残量がある表示になっている。しかし車は完全に動きを止めた。アクセルを踏んでも、全く動かない。
 メーターが壊れていたのだろうか。このボロ車では、どこが壊れていてもおかしくはないが、とにかくメーターの表示と実際のガソリンの残量は食い違っていたのだろう。他にも壊れた箇所があるのかもしれない。何にせよ、もう、車は使えない。
 仕方なく、眠っていた少女を揺り起こした。
「すまない、車が動かなくなった」
 ゴーグル越しの目はぼんやりとフロントガラスの外を眺め、俺を見る。
「ここからは歩く」
 少女は静かに頷いた。
 移動することは不可能でも、拠点として車を使うことはできる。雨風も防ぐことができるし、外よりもまだ車内のほうが空気は綺麗だ。しかし、この何も無い景色のなかで、ぽつんと車が停まっているのは目立つ。人を襲うことを目的にしている輩にとっては格好の目印になることは明確だった。
 車は、ここに捨てていかなければならない。
 リュックに詰め込められるだけの物資を詰め、少女とともに歩き出した。



 人工物の残骸なのか自然の地形なのか、ぼこぼこと不安定な地面になっていた。所々に大きな塊が転がっていたが、白く覆われたそれが一体何なのか分からない。劣化したタイヤでこの上を通ったら、すぐにパンクしていたかもしれない。
 ふらふらと足取りの覚束ない少女を連れての移動は思うようにいかなかった。いっそ俺がおぶってしまえばもっと早く歩けるのだが、少女はそれを拒否した。自分の足で歩くと言って聞かない。
 仕方なく少女の歩調に合わせてはいるものの、気を抜けばずっと後方に彼女の姿を見ることになる。その度に立ち止まって、少女が追い付いてくるのを待った。
 必死に俺についてこようとしている少女をぼんやりと眺めた。真っ白の景色の中、積もった粉塵に足跡を残しながらいう事をきかない身体を無理に動かす様子は、雪の中の行軍を思わせた。
 最後に雪を見たのは何十年前のことだろうか。太陽に温められない凍てつく空気を舞うものは今も白いが、それは雪ではなく、有害物質の混じった塵だ。少女がよろける度に、粉塵が撒き上がる。少女の体内に、自分の体内に、どれほどこの有害物質が溜まっているのだろう。
 俺は、死にはしない。それでも、この塵のせいでどれほどの機能が奪われたのだろうか。眼から得られる情報は人間並み、耳も人間と同等、身体だって昔からは考えられないほど動かなくなった。死にはしない。俺には、死は存在しない。それでも、自分の終わりは確かに、ゆっくりと、近づいてきている。身体の末端からじわじわと、頭からの命令を受け付けなくなり、何もかもが動かなくなってしまう時が、いつか。
 ようやく追いついた少女は、ただ歩いていただけなのに肩を揺らして呼吸していた。体調はどんどん悪化しているようだった。
「少し休もうか」
「いや」
 少女はぶんぶんと頭を振り、自分ままだ歩ける、と言うように、今までよりも早足に先へ進む。
 少女には何も荷物を持たせていないが、背中に何か背負っているかのように、前屈みになりながら歩いていく。少女がそこまで一生懸命に進んでも、俺が歩けばすぐに追いついてしまう。
「休まないほうが後からばてて歩けなくなるぞ」
「そんなことない、私は大丈夫」
「急ぎたいのなら俺が君をおぶって行った方が良い。もう、体調は限界だろ」
「いや!」
 肩にかけた俺の手を振り払い、少女は駆け出した。
 小走り程度のスピードでしかなかったが、立ち止まっている俺を置いて少女は行ってしまう。どうして嫌がるのだろうか。どうして頑なに自分で歩こうとするのか。理解できなかった。
 少女を追おうとした時、乾いた音が一度、右後ろから響いた。少女の足音以外は音のしなかった空間で、それはよく反響した。少女の身体が傾く。石にでも躓いたのかと思ったが、左腿から噴き出した鮮血が、そうでないことを語っていた。
 少女の倒れていく背中に手を伸ばしかけた時、後頭部に激しい衝撃があった。ブラックアウトしかけた視界を無理矢理起動させるが、手足が反応しない。目前に地表が迫る。ばき、とマスクが嫌な音をたてた。
 顔面から倒れたせいで、視界は真っ暗になった。ゴーグルのレンズを突き破った石が右目に刺さっている。さっきまで静寂で満たされていたはずが、高音と低音が混じった大音量のノイズに耳を聾された。
 不意に右腕が変な方向に捻じ曲げられ、リュックが肩から外されていく。身体を触る手の数から、少なくとも二人はこの場にいるようだった。
 仰向けに身体が回転させられる。視界いっぱいに広がった顔は、ゴーグルもガスマスクもつけていない二人の男のものだった。白目は充血してピンク色になり、黒目は白濁し、ぜえぜえと掠れた呼吸が口から漏れている。一人は俺から奪ったリュックを手に、笑っていた。
 男の一人が、両腕を振り上げて腹に棒のようなものを叩き込んだ。一撃はそれほど強くなかったが、何度も繰り返されるうちに体内で何かが潰れる音がするようになる。鼓膜を覆う雑音が大きくなっていく。
 リュックを持つ男の右腕が視界の端で持ち上がった。手には黒い物体が握り込まれている。残った左の眼球だけが回転して、男の持つ銃を認識した。発砲音とともに、胸で熱が弾けた。
 男たちは俺から離れていってしまう。一歩一歩、地面に足がつくたびに白い靄が生まれる。限界まで眼球を回した。靄の先に、少女が見えた。
 少女のもとにはすでに別の男がいた。その男は少女の顔からゴーグルとマスクを剥ぎ取っているようだった。二人の男も少女に近づき、地面に転がった少女を見下ろした。
 男の脚が少女を蹴った。ノイズの隙間を縫って、複数の笑い声が聞こえる。二人の男はしゃがみ込み、少女の身体に手をかけた。
 よく見えない。視線が伸びない。見えない。もっと、もっと、視界は広かったはず。もっと、遠くまではっきり見えたはずだ。もっと早く、身体は起動したはずなのに。
「――......」
 やめろ、と叫んだつもりだったが、それが男たちに聞こえたのか、言葉になっていたのか、音になっていたのか、分からなかった。
 少女の声が聞こえる。何を言っているのかは全く聞き取れない。それでも、ぎりぎりの視界に捉えたのは、身体から引き剥がされようとしているコートを掴んで、全体重をかけてそれを奪われまいとする少女の姿だった。
「それだけはだめ! 返して!」
 少女の叫びが、明瞭に頭に届いた。
 動け、動け。身体を起こそうとする。内部でめきめきと、組織が崩壊していく音がする。手。指。指先。動け。ぴくりと、右手の人差し指が反応を返す。動け!
 それまでの命令を一気に受諾したかのように、右手が跳ね上がった。それに続いて左手が反応する。両脚が脳の統率下に戻る。足先で地面を蹴った。動け、動け、動ける。一番損傷の激しい上半身も動いた。腹から真っ黒の粘ついた液体が溢れた。立ち上がれ。
 酷く緩慢な動作で、俺の身体は立ち上がっていった。
 少女の目が俺を捉えた。
「助けて」

 < request: No. 21850>

 黒いコートを持った男に突進した。コートを男の手から奪い、そのまま少女に覆いかぶさって地面に倒れ込んだ。腕の中に、少女を強く抱き締めて、じっと動かなかった。それしかできなかった。この身体では俊敏に動くことも、ましてや人間を攻撃することも、できないのだから。
 発砲音とともに背中で振動が弾ける。少女の籠った悲鳴。表皮を粘ついた液が垂れていく感覚。
「荷物は全部くれてやるから、放っておいてくれ」
 声にはノイズが混じっていた。壊れたゴーグルを外し、もう何も見えない右目で、男たちを睨めつけた。左目に、ぎょっとした男たちの顔が映る。男たちの年齢は四十くらい。もしかしたらもっと若いのかもしれない。どちらにせよ、終戦よりも後に生まれた世代だ。実際に動いているアンドロイドを見たことは、なかっただろう。
 口から、鼻から、粘液が漏れ出ていく。マスクの亀裂から染み出た体液が、少女の髪に絡まった。
 男たちは後ずさり、互いに顔を見合わせ、俺の顔を再度凝視した。そして、顔を引き攣らせながら、リュックを引きずり、走り出した。

 < /request: No. 21850>

 安堵の溜息が出た。マスクの中に溜まった液がごぼりと膨らむ。身を起こし、マスクを外すと黒い液体が糸を引いた。
 倒れた体勢のまま小さく震えている少女の顔に触れた。殴られていたのか、左の頬が赤く腫れ、鼻血も出ていた。袖で血と、付着してしまった俺の燃料も拭う。しかし粘性の強い液は拭き取れず、薄く少女の額を汚してしまった。
 少女が、じっと俺の顔を見つめる。淡く澄んだ青の虹彩に、壊れた俺の顔がうつりこんでいた。その目が一体何を思っているのか、分からなかった。怖がっているのだろうか、怒っているのだろうか。そんなことは、分からない。俺なんかに、分かるはずがなかった。
 少女の顔から目を逸らし、左の腿を見た。出血はあるが、太い血管は外れていたらしく、激しいものではない。止血剤も包帯も、全てリュックの中だ。それほど効果があるとは思えない上に、衛生面も最悪だが仕方ない。コートの中のシャツを裂いて、傷口を縛った。
「......立てるか」
 少女は力なく首を横に振る。
「俺が背負っていく。いいな?」
「......うん」
 今度は、拒絶しなかった。
 少女の上半身を起こし、コートを着せて、背負いあげる。立ち上がろうと足を踏ん張ると、負荷がかかった腹が軋む。
 それを無視して、歩き出す。



 背中では、確かに体温を持ったものが絶えず呼吸を続けていた。間隔の短い呼吸に合わせて、耳元で息の抜ける音がする。首筋に押し付けられた鼻から流れ出た液体は、瞬間細い温かさを感じさせたが、すぐに冷たくなった。
 少女の身体は軽かった。どこの部位も欠損していない身体であるのに、軽かった。五十年前、下半身が千切れた仲間の上半身を背負って後退した時の重さよりも、はるかに軽かった。
 仲間の上半身の切れ目から溢れた燃料はどろどろと重く、いつまでも熱を含み、尻や太腿をつたって、ブーツの中にまで侵入した。一歩進む度に足の裏がブーツの底にくっつき、歩きにくいことこの上なかった。
 背負った仲間は泣き叫んでいた。両目から黒い涙を流し、叫んだ。死なせてくれ。もう嫌だ、修理されたくない。
 周りの兵士はそんな声がまるで聞こえていないかのように、無感情に銃を撃ち、前進していた。その流れに逆らいながら、俺は大声で喚く仲間を後方へと運んだ。
 いくらその仲間が懇願しようとも、俺はそいつを壊してやることはできなかった。アンドロイドには貴重な金属や高度なプログラムが組み込まれており、自国のアンドロイドを破壊することは資源の無駄になる。自国のアンドロイドを攻撃してはならない。そう、俺たちの頭にはインプットされていた。
 大戦の初期は、ほとんど人間の命を消費しない戦争だった。アンドロイドや、自動操縦の戦闘機や戦車が互いを破壊しあっていた。
 人間は死んでしまえばそこで終わりであるし、重度の怪我を負えば戦場には立てなくなる。赤子が一瞬で成長することはないし、失った手足を完全に再生することはできない。生物では、失った量を瞬時に補充することができない。しかし、機械ならある程度の速度で不足を補っていくことができる。機械は壊されても新しく製作され、修理され、戦場に現われ続ける。
 戦争のためだけのステージで、シュミレーションゲームのように、命を持たない機械たちが戦った。同じ戦場で、繰り返し繰り返し、欠けては補い、壊れては直し、各国は自国の技術力で資源を食いつぶしていった。
〝戦場〟で機械同士が壊しあっているだけだったから、一般人の生活圏に危険が及ぶことはほとんどなかった。家族が徴兵されて戦地に赴くことはないし、空からの爆撃を恐れる必要もなかった。ニュースで伝えられる戦場の様子を、自分たちの生活とは程遠い世界で行われている、たかが今まで通りの国同士の揉め事と、感じていたことだろう。
 戦線はだらだらと膠着した。長引けば長引くほど、補充しなければならない兵器の数は増えていく。兵器を作るために、各国がこぞって資源を求めた。資源は消費すればあっという間に尽きる。材料がなければ兵器は作ることができない。次第に戦場への兵器の供給が追い付かなくなり、より多くの資源を手にした国が優勢となっていく。
 劣勢となった国は、思いついた。兵器を生み出す頭脳がある人間を潰してしまえばいい。そうしてまず、技術を生み出す頭脳となった人間の殺害がはじまる。その人間が死んで哀しむ遺族がいる。人間、生き物が死んだことで世論は沸き立つ。もっと、もっと、兵器を作れ。はやく、はやく、敵に復讐を。次第に攻撃は個人を越え、工場へ向く。より多くの民間人が死ぬ。働き手が消え、施設が燃え、資源が灰になる。攻撃対象は一般人の生活圏へと移動したことで、多くの資源と高度な技術を必要とされた兵器は製作不可能となっていった。
 そして、最終的には人間同士の殺し合いに立ち返っていった。僅かに残った無人兵器は有人のものへと作り替えられ、人の操る兵器が敵地に爆弾と有害物質の雨を降らせた。人々の生活圏が破壊され、汚染され、地上は生物が住むのには適さない環境になっていった。
 アンドロイドについては、まだ機械による代理戦争が主だった頃、何かの拍子に人間を殺してしまい「やはりアンドロイドは危険だ」と一般人から声が上がること、国の責任を問われること、他国から批判を浴びることを恐れた政府が、「アンドロイドは人間に対して殺傷を行ってはならない」ということをプログラムするのを義務付けていた。細部は違うにしろ、それはどの国のアンドロイドも同じだったようだ。結果、人間対人間の構図となった戦場からは、機械兵士は姿を消した。人間同士の殺し合いの戦場で、人間を攻撃できないアンドロイドはただの人形でしかないからだ。せいぜい、盾くらいの役にしかなれない。
 ――殺せ。
 ――死なせてくれ。
 だからその命令は、最も俺が実行できないものだった。
 一歩が重い。ただ地面から足を浮かせるだけで、身体の内部が悲鳴を上げる。俯いた顔から垂れる黒い液体が白い地面を汚していった。粘液が粉塵を絡めて玉になる。右の眼窩から、胸から、腹から、体液が流れ出していく。ノイズがましになった代わりに、今度は限界を叫ぶ甲高い警告音が頭の中で鳴っていた。すぐに修理を。すぐに燃料補給を。
「ごめんね」
 少女が呟いた。
「......何に対しての謝罪だ」
「街から連れ出してごめんなさい、怪我させてごめんなさい、我儘言ってごめんなさい」
 二人分の体重を乗せた足先から、粉塵が舞い上がる。壊れたマスクとゴーグルは捨ててしまった。直に体内に毒素が入ってくる。
「君が謝ることは何もない」
 一歩、一歩、脚が重い。動きづらい。動きたくない。この場に倒れてしまって、指先の一本も動かしたくない。そのまま、全てが壊れて機能停止するまで目を閉じていたかった。

 
 
 何度もそう願った。遠い過去、何度も、もう動きたくない、このまま破壊されたいと願った。腕が、脚が、下半身全体が吹き飛ばされようとも、頭さえ無事であれば何度も何度も戦場に送られ続けた。自分の身体が欠けていく感覚を蓄積させながら、何度も同じ戦場に立ち続けた。
 痛覚はないはずだった。今も、痛みは感じない。恐怖も感じないはずだった。感情なんて、俺たち機械兵士に用意されているはずがなかった。
 それなのに、感情を伴わないはずの戦場で、恐怖を訴えるものや、自壊を選ぶ機械兵士が出現した。戦場に戻りたくないと訴えるもの、わざと敵の攻撃に頭から突っ込んでいくもの、自ら頭を破壊するもの。数こそ多くなかったが、一定数、不可解な行動をする兵士が現れた。
 きっと、俺もそのバグが発生したうちの一人だった。それでも頭を吹き飛ばさなかったのは、俺に勇気がなかったからだ。今まで積み上げた記録を全てなくし、この、まがいものでも〈生きている〉という感覚を失うことに〈恐怖〉していた。もう動きたくない、もう壊れてしまえ、そう思っていても、全てを失い消えることが怖かった。矛盾していた。俺たち命を持たない兵士にとって、矛盾は最大のバグだった。その頃から、俺の頭はエラーで埋め尽くされる。エラー、エラー、エラー。
「どうしてここまでして、私の我儘を聞いてくれるの」
「......君の、頼みだから」
 人間の命令は絶対。人間のために働け。人間の身代わりとなれ。それが俺たちに組み込まれた絶対のルール。人間に逆らわない。そのルールを守って、今まであの街で働いていた。俺がいたから、あの街で生き永らえた人間が少なくないことは、自惚れでも何でもなく、事実であることは分かっている。少女の頼みとあの街の人間の生活を天秤にかけて、ほぼ同等の重さを示すほどには、あの街の人間のことも大切だった。
 それでも、俺はあの街を出た。少女を選んだ。あの人が消した紋章を持った少女を選んだ。過去の人間に執着して、現実の問題よりも利己的な、まがいものの意思に任せた判断をするなんて、機械失格だ。まるで、人間のすることだ。俺は、偽物なのに。
 やがて機械兵士を必要としなくなった戦場から追放された俺は、本部で備品の管理や予算の計算など、身体が壊れる心配のない倉庫の奥で雑用として使われた。欠陥品。役立たず。どうして人間様の代わりに死ねなかった。時折浴びせられる罵倒にも、何も感じない。殴られても、蹴られても、それしきのことでは壊れはしない。反論することもできない。欠陥品。役立たず。その通りだった。人間を守るために生み出されたはずなのに、俺はその役を果たさないまま、戦場を後にしたのだから。
 そして、戦場に立たなくていいことに、俺は心底安心していた。
「どこまで行っても、真っ白だね」
 背中の少女が顔を持ち上げ、咳をしながら空を見た。
「きっと、世界中がそうだ」
 大戦も終盤に差し掛かった頃、基地や軍部を潰すため、敵の数を減らすため、有害物質は投下された。はじめは、汚染されたのは一部の地域だけだった。しかし、有害物質は空気に溶け出し、風に運ばれ、雲に混ざり、雨になり、世界中に広がった。広がる間にも、各地に化学兵器がばらまかれる。攻撃を受けた基地にあった兵器が爆発し、周囲に有害物質を振りまく。小国ひとつが簡単に吹き飛ぶ規模の核爆弾が投下される。そうやって、汚染は世界を侵食していった。
 ――俺も、その汚染に加担した一部だった。
「一度でいいから、本物の青空を見てみたかった」
 少女は再び俺の首に頭を預けてそう言った。
「君は物知りだな。青空も、飛行機も、君が生まれた頃にはすでに無くなっているものなのに」
 ふふ、と少女は微かに笑った。
「おじいちゃんたちが、教えてくれたの。青空の中、雲の上、そこを飛ぶのはすっごく気持ちが良かったって」
 今にも止まりそうだった足が止まった。
「......どうしたの」
「そのコートは」
「え?」
「そのコートは、誰から」
「その、おじいちゃんから。最後に溶けた、おじいちゃんから貰ったの」
「そうか」
 ブーツの先で地面の塵を払った。本来なら、どこまでも白く続くであろう地面。しかし、すぐに地面の色は変わる。
「君は本当に運がいい」
 マンホールの蓋よりも少し大きい円盤が現れた。



 少女が出てきたままの状態だった入口は、蓋を持ち上げただけで簡単に開いた。少女をおぶったまま地下に伸びる梯子を慎重に下りていった。
 白。初めて入った地下施設に対して感じたのは、白。それだけだった。床も、壁も、天井も、何もかもが白い。まるで、外界からの穢れを一切拒むかのような、眩しい白だった。
「地上とそんなに変わらないでしょ」
 少女の言葉に頷いた。
 ただ、ここの白は清潔な白だ。全てを覆いつくして命を奪おうとする地上の白とは違う白。なんだか、奇妙だった。同じ白で、人間がつくり出したものには変わりないのに、病的なまでの清潔さを地下の白には感じた。
 少女に言われるがまま、長い廊下を進んでいく。両側の壁にはいくつもの線が俺の身長よりも高い長方形を形作っている。ノブも取っ手もなくても、それがドアであるということは、五十年前からの記憶で分かっていた。
 この施設は、この世の最高で最後の技術を駆使して造られたのだろう。この型のドアを造るのに、というよりむしろ、このドアを稼働させるだけの建造物を造ることが、今の地上では何もかもが足りなかった。
 ここ、と少女が指さした長方形の前で立ち止まる。背中から伸ばされた少女の右の掌が長方形のすぐ横を触れる。音もなく、下辺の亀裂が大きくなり、長方形のドアは上にスライドしていった。
 暗い室内に一歩足を踏み入れると、勝手に明るくなる。九畳ほどの部屋で、大きなベッドとデスクだけが置かれていた。廊下と同様内装は白一色で、ベッドもデスクも白い。ただ、正面の壁の一面を覆うほどのキャンバスだけが異彩を放っていた。模様らしいものはなく、ただ、青のグラデーションで画面が塗られていた。下の方は白みがかった青だが、すぐにそれは深く濃い青に変化している。上半分以上が、藍色といってもいいほどの深い色で埋められていた。
 少女をベッドの上に降ろす。部屋の外で待ってて、と言われ、俺は廊下に出る。ひとりでに、音もなくドアが閉まる。
 壁にもたれ、座り込んだ。限界だった。廊下は、黒の足跡と赤の点に白を汚されていた。腹に手をやる。上皮を突き破った部品が、乾き始めた粘液で辛うじて体内に繋がれていた。袖で顔中を拭うと真っ黒になり、自分の顔面がどれほど酷い有様なのか思い知る。
 白、白、白、青。部屋にあったあのキャンバス。実際にあんな色を見たことはなかった。見たことは無かったが、あの色が視界いっぱいに広がる光景はきっと、男たちを虜にするほど美しいものだったのだろう。
 ――せっかくこの部隊にいるのに、残念だな。雲の上を、お前にも見せてやりたいよ。
 そう言って俺の背中を叩き、誇らしげに戦闘機を見上げていた男たちは肩に天使の紋章を持っていた。
 戦争も終末期に入ると、再び俺は戦場に近づいた。人間に対して直接攻撃できない俺が戦場に戻ることはなかったが、空を戦場にした者たちの基地で、司令官の下へ配属された。司令官は、まるで人間に接するかのように笑顔で手を差し出し、俺の着任を喜んだ。これで、犠牲になる部下の数も減るだろう、と。
 人間と同じ、天使の紋章があしらわれた制服を与えられ、仕事をした。本部の奥で虐げられながら黙々と計算しているよりも遥かに良い環境だった。無感情の機械兵士とともにいた戦場よりも、俺をただの機械としてしか扱わなかった本部よりも、居心地の良い場所だった。
 司令室で、天気や風速、機体の重さ、搭載している武器の重さ、様々な要因を条件に入れて計算を行った。どのコースを飛べば敵の後ろに回り込めるのか。どの高度が敵のレーダーに索敵されにくいのか。どこを飛べば、目標地点のみに有害物質を投下できるのか。
 しかしいくら計算し予測をたてようとも、相手は自然と、生きている本物の人間だ。予測不可能な要素は山ほどある。結局パイロットたちは減っていき、最終的には十人にも満たない数の兵士しか、司令官のもとには残らなかった。
 一人、また一人と部下が死んでいく度に、あの人の顔は険しくなっていった。戦力が減る、ということよりも、自分が送り出した人間がそのまま空で散ってしまうことが、あの人を苦しめているようだった。あの人にとって、どれほど位が低くとも、どんなに無能でも、部下は部下で、人間だった。司令官として、上官として、軍人として、不相応なほどに繊細で優しすぎた。
 だから、あの人は上層部に何も告げないまま、基地に残っていた非戦闘員も含めた全員を解散させてしまった。もう、飛ばなくていい。天使に火をつけて、あの人は言った。燃える制服を前に安堵の表情を見せたパイロットは、七人だった。
 人々がそれぞれの居場所へ帰った後、俺だけは基地にあの人とともに取り残された。まだお前には仕事があるから、と言っておきながら、あの人は数日俺に何も命令することなく、そもそも俺を遠ざけて、執務室に籠っていた。
 その数日間、俺は眠っていた。俺に休息はそれほど必要がなかったが、何も命じられることがないためにすることがなかった。いつもは喧騒に包まれていた基地は空っぽの静寂に包まれ、フル稼働し続けていた頭を休めるのも悪くないように思えた。基地の入り口に椅子を置き、誰かの気配を感じるまで、眠った。
 スリープ状態の俺を起こしたのは幾分やつれた様子のあの人で、早口に命令を下した。各地に散った元戦闘員たちに会いに行け、と。
 七つのジュラルミンケースが用意されていた。中身は伝えられないまま、俺は車を運転して、国の各地に散っていた元パイロットたちの家を回った。
 独り呑気に暮らしている者。家族と穏やかに過ごしている者。まだ恐怖が抜けないんだ、と力なく笑った者。それぞれが、個々の生活を送っていた。司令官から、と渡したケースは、七人とも訝し気な顔をした。中身は何だ、と訊かれても、俺は勝手にそれを開けるわけにはいかなかったし、俺が去るまでパイロットたちに開けさせるな、と言われていたから、黙って受け取ってもらうしかなかった。
 七人全員にケースを渡した後、基地に戻るために道を走っていると、基地の方向から一台の車がやってきた。すれ違いざまに、相手の車内がみえた。見覚えのある顔ぶれだった。本部の連中だ。
 嫌な予感がした。本部の車に乗っていたのは、総司令官の初老の男と、二人の大将だった。総司令官は、頭は切れるが実戦経験はほとんどない初老の痩せた男だが、二人の大将は本部内でも恐れられていたほどの、凶暴で残忍で暴力的な男たちだった。
 基地内に戻り、あの人の姿を探す。基地を去る前に非戦闘員たちが磨き上げた床は鈍く陽光を反射していたが、所々が土や、赤黒いもので汚されていた。それは、廊下の端、執務室に繋がっていく。
 あの人は、執務室の血溜まりに倒れていた。
 戦争も末期だ。もはや軍の規律は機能していない。本来なら、勝手に部隊を解体したあの人に下されるべき正当な罰がある。しかし、その罰は下されない。軍は末端からばらばら崩壊していく。最後まで武力と権力にしがみつくのはお偉方だ。あの人も階級でいえば上層部の一員だ。その彼が、下層に味方するかたちとなった。上層部の中から出た裏切り者。腹いせと見せしめの私刑(リンチ)だ。
 原型を留めていない顔、変に折れ曲がった手足。血溜まりに沈む破壊された人体は、機械のそれよりも生々しく痛々しかった。
 それでも、あの人は生きていた。生きていたが、目前に死があることは俺でも分かる。こんなに出血してしまえばまず助からない。ここまで壊れた生き物は再生できない。修理できない。頭さえあれば何度でも蘇るアンドロイドとは違う。なお流れ出る血が、扉の前で固まる俺のつま先にまで迫っていた。
 薄暗い執務室の床から、あの人はぎらつく眼光で俺を見上げた。青い目が、窓から差し込んだ太陽の光を吸っていやに眩しい。
 血を踏みながら、あの人の前にしゃがみ込む。あの人の、小指が千切れかけた右手が持ち上がり、黒い物体が胸に押し付けられる。浅い呼吸の中で、言葉が吐き出される。
 ――殺せ。
 あの人は潰れた喉でそう発した。殺せ。殺してくれ。
 頭を横に振って否定した。できなかった。俺は、人を殺せないプログラムが施されている。殺せない。いかに殺したくても、殺せない。どんなにあの人が痛みに苦しんでいるか分かっていても、殺せない。
 ――俺は自分じゃ撃てない。怖くて撃てない。だから早く、お前が殺してくれ。
 ずっと握っていたのか、無理矢理手にねじ込まれた拳銃はなま温かかった。それ自体が得体の知れない生物かのようにぬるつき、気味が悪かった。
 無理だ、無理です、そう叫ぶ俺の脳内では、警告音が鳴っていた。人間を攻撃してはいけません。殺せない。殺してはいけない。殺してあげたい。エラー。
 ――痛い、痛い、はやく殺してくれ!
 下に向いていた銃口が上に上げられる。俺の手ごと、あの人は拳銃を掴んだ。あの人の掌と拳銃に包まれた手は、なぜか灼けるように熱い。
 ――殺せ。

 
 

 破裂音とともに、あの人の頭は後方に大きく仰け反ったかと思うと、血だまりに勢いよく顔面から落ちた。硝煙と血の臭いが鼻腔に流れ込んだ。
 殺した? 殺してしまった? にんげんをころしてしまった?
 嘘だ、嘘だ、俺はやってない、俺が人間を殺せるはずがない、だって機械なんだから、機械がプログラムされた以外の行動ができるはずがない。そうだ、機械なんだから、そんなことできるはずがない。
 頭の中で警告音が鳴り響く。人間を攻撃してはいけません。人間を殺してはいけません。致命的なバグが発生しました。自壊プログラムが稼働します。
 不良品。欠陥品。故障。暴走。致命的なバグ。自壊プログラム。俺にとっての死。
 いやだ、死にたくない。死にたくない!

「ねえ、大丈夫?」

 目を開けると、少女の顔があった。血も、俺の燃料も綺麗になくなり、殴られた痣だけが痛々しく目立つ、真っ白の肌の少女の顔だった。
 いつの間にか、自動的にスリープモードに入っていたようだった。
「うなされてたの?」
「......」
 少女は笑った。
「アンドロイドでも、夢はみるのね」



 結局、重なったあの人の指と、俺の指では、先に力を込めたのはあの人だった。あの人は自害した。だから、俺は人間を殺していない。機械の頭は、そう判断した。実際、警告音はあの人が自分で自分の頭を撃ち抜いた後は止み、自壊プログラムなんてものは発生しなかった。そもそも、そんなものが仕組まれているなんて、聞いたこともなかった。ただの、俺の妄想だ。
 でも、本当にそうなのだろうか。本当に、あの時俺は引き金に力を入れなかったのだろうか。自分の記憶に確証が持てなかった。機械の頭の記録は、本当にそれが全てで、正しいものなのだろうか。
 少女は柄も装飾もない白のワンピースに着替えていた。ただ、あの黒いコートだけは羽織っていた。
 少女は一人で歩いた。部屋の中で鎮痛剤でも使ったのか、俺の方が遅れてしまうほど滑らかに歩く。それでも太腿からは血が滲み、ワンピースを汚し、床を汚した。裸足の赤い型がスタンプのように付いていく。
 廊下の突き当たり、一番大きなドアの前で少女は立ち止まり、壁に手をかざす。
 静かに開いたドアの向こうには、大きな空間が広がっていた。よくも地下にこれほど大きな空間を造ったものだ、と思ってしまうほど広く、高い天井の部屋だった。ここも他と同様に一面が白いが、床に置かれた複数のものが色彩を放っていた。
 一定の間隔で整列した透明なバスタブのような、人の背丈よりも一回りほどの大きさのそれには、縁のぎりぎりまで青色の液体で満たされていた。原色の青ほど鮮やかではなく、白みがかっているわけでもない、透明感のある淡い青。
 少女が透明の容器の間をすり抜けていく。僅かな振動で水面が揺れる。それぞれの容器の中に、銀色の小さなタグのようなものが浮かんでいるのが見えた。大文字のアルファベットと三桁の数字が彫り込まれている。
 少女は一つの容器の前で立ち止まり、縁に手をかけ、水面を覗き込んだ。〈M185〉とかかれたタグが浮かんでいる以外は、他のどの容器とも、液体とも、違いはなかった。ただの、青色の液体。俺にはそう見えた。
「飛行機の中で死ぬべきで、本物の空に溶けるべきだった」
 少女の無機質な声がそう言った。
「本当は、俺たちは空で死ぬはずだった、死ぬべきだった、って」
 ねえ、と少女の青い目が、俺を見た。
「そうでしょう」
 そうだ、とも、そうではない、とも、返せなかった。
 世界を崩壊させた有害物質を投下したのは、俺のいた部隊のパイロットたちだった。それが最終的に投下された全体の量から見てほんの一部であったとしても、世界の崩壊を助長したことに変わりはない。
 ――そんな俺たちが、のうのうと生きていても良いのか。本当は、俺たちも死んでいった仲間と同じように、空を墓場にするべきだったんじゃないか。
 あの人に頼まれたケースを渡した時に、まだ恐怖が抜けないと言った男が零した言葉だった。今思えば、あの男は戦争の恐怖よりも、死んだ仲間と壊した世界に対する罪悪感に苛まれていたのだろう。
 何が最良で正確な選択だったのかなんて、分かるはずがない。機械の脳が出した答えがあったとしても、それが予測不可能で感情的な人間の心にとっての正解とは限らない。どうすべきだったのかなんて、俺にも、パイロットたちにも、あの人にも、分かるはずがなかった。
「それでも、あの人が部下を生かしたから、君が存在するんじゃないのか」
 ――娘が生まれたんだ。
 司令官から、とケースを渡すと、そう笑ったパイロットが一人いた。司令官が家に帰してくれたおかげで、娘の顔を見ることが出来た。そう言った男の腕に抱かれた赤子は、ガラス玉のような青く丸い瞳で俺を見ていた。
 少女は薄く唇に笑みを残したまま、再び歩き出す。ちょうど部屋の中央あたりに、一つだけ中の液体が透明なままの容器があった。
「これが、私の棺」
 少女は容器の縁をなぞり、俺を振り返る。
「私で、最後」
 周りに何百とある容器は、一つを除いて全てが青色になっていた。溶けた後の液体って、すごく綺麗な色になるの。少女の言葉を思い出す。青色の液体。全て、人間が溶けたもの。
「私、おじいちゃんたちから空の話を聞くのが大好きだった。青空はとても綺麗で、その中を飛ぶのは最高だったって」
 それは、少女にとっては幻のもの。俺が、パイロットたちが、実際に見た青空を彼女は知らない。パイロットたちにとって空を飛んだことは現実でも、彼女には話の中だけの出来事だ。青空も、空を飛ぶ機体も、彼女にとっては子守唄代わりに聞かされるお伽話でしかなかったのだろう。
「私も本当の青空を見てみたかった」
 それは叶わなかった。空は未だ、生物の命を奪おうとする白の厚い層で覆われている。何十年後になっても、きっとそれは変わらない。俺たちが奪った空は、簡単に帰ってくることはない。
「ごめん」
「どうしてあなたが謝るの」
 少女は笑う。大人びた、達観したような笑みだった。蒼白の頬に浮かんだ赤紫色の痣が、それを痛々しいものにさせる。
 白く繊細なワンピースとは不釣り合いだった、厳めしい黒コートを少女は脱いだ。
「最後に溶けたおじいちゃんが、このコートをくれたの。軍を辞めた後でも、どうしても捨てられなかったって」
 少女は紋章に手を添え、遠くの容器に視線を向ける。
「この施設と、装置を造れたのはおじいちゃんを守ってくれた人がいたから、最後まで助けてくれた人がいるからだって。きっと、私のことも守ってくれるから。そう言われて、溶ける前にもらったの」
 コートは、勲章でも授けるかのように丁寧に、俺に差し出された。
「きっと、あなたが持ってるのがいいと思う」
 受け取ったコートは、俺が過去に着ていたものよりも小さく、軽い。お前は小さくていいな、コックピットが広そうだ、と小柄な体型を揶揄われていたパイロットを思い出す。そんな小柄な男のものでも、少女が着ればあれほどに大きいのだと、いかに少女が小さな身体でここまで生きてきたのか、思い知る。
 五十年ぶりに、天使を身に着ける。
「ちょっと、小さいね」
 片方の袖にしか腕を通せない俺を見て、少女は笑った。無邪気な、曇りのない笑顔だった。
「そうだな」
 たぶん、俺も笑えたはずだ。
「じゃあ、ね。ありがとう」
 少女は小さく手を振り、自ら容器に入ろうとした。その手を掴んで引き留める。なに、と振り返った少女の青い眼球が間近にあった。
 俺には小さすぎたコートを床に置き、少女を抱き上げた。相変わらず軽く、すぐに壊れてしまいそうな身体だった。顔色は出会った時よりも一層白く、虹彩も濁り始めていた。病的な白さに対して異様に暖かい肌が、彼女の身体に回った毒の影響を思わせる。
 あの人が戦場から切り離した命、生かし続けようとした命。あの人が繋いだ命の連鎖を、止めようとしている。
 人間を攻撃してはいけません。人間を殺してはいけません。脳内で警告の音声が流れ始める。少女の自殺を手伝うことも、プログラムに反するのか。機械の脳は、融通が利かない。感情を理解しない。
 でも、もう、いい。どうせ、この損傷具合では、俺も助からない。俺も、近いうちに死ぬ。修理ができなければ、機械も不死ではない。プログラムに逆らってどうなるのかは知らないが、死ぬのなら、どうだっていいことだ。
 少女を容器の中、液体の中に入れていく。手を離すと、深い容器の底に一度少女の身体は沈み、顔と胸、膝だけが水面から浮かび上がった。
 液体に触れた俺の手からは白く煙が出て、表皮が溶け、銀色の内側が露出する。少女を見ると、身体の表面に透明の糸のようなものが纏わりついていた。
「苦しくないのか」
「苦しくないよ」
「痛くないのか」
「痛くないよ」
 少女は薄く瞼を開く。濁っていた虹彩が、透き通った空色に戻っている。
「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」
 水面から少女の手が伸びる。その手を握ると、じゅ、という音とともに煙が上がる。
「楽しかった」
「あぁ」
「怖いこともあったけど、今まで生きてきて、一番楽しかった」
 空色の目が、眩しかった。
「生きてる、って思えた」
 少女はそれきり喋らなかった。瞳が光を失い、手を握り返す力は無くなった。そっと手を離し、液体の中に戻してやる。
 糸がほどけるように、少女の身体は末端から溶け出していく。無色透明だった液体が、徐々に青さを増していく。
 人間を殺してはいけません。人間を殺してはいけません。警告音が鬱陶しい。脳内に響く音声は大きくなっていき、初めて聞く耳障りな甲高い電子音も加わる。頭が割れそうなほど五月蝿い。頼むから、静かにしてくれ。少女を、静かに看取らせてもくれないのか。本当に、鬱陶しい、感情のない機械の脳味噌だ。
 微かにあった呼吸の気配は消え、少女の身体も消えていく。指先から、四肢から、順に消えていく。少女の身体が欠けていけばいくほど、液体は青くなっていく。
 コートを手に取る。天使の紋章に唇をつけ、少女の棺に背を預けて座り込む。かつて少女だったものが、遠い昔に仲間と見上げた空の色に染まるのを見届けて、目を閉じた。







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