存在消去―統合魔術研究所―

白内十色



 世界観コンパスを片手にハンドルを握る。頼りなく揺れ動くコンパスは、私が目的としている世界観がいまだに不安定であることを示していた。コンパスの観測している世界観は、緩やかに上下を繰りかえしている。一つところからの情報しか私は得ることができないが、仮に複数の観測機がこの町に配置されていたならばある一点から波紋を描くように広がる世界観の変化を見ることができるだろう。そして、その中心には、世界観変動を巻き起こしている人物が居る。
  高速から外れて十分ほど走っただろうか。徐々に町の中心部に向かっているようだが、まだまだ人通りは少ない。土地勘のない道に生来の方向音痴である私、とくれば本来は遭難が確約されたようなものだが、今回に限ってはコンパスの示す先に進路を向けるだけであるから簡単なものだ。片手ハンドルは危険だがこの際仕方がない。
  コンパスの反応は先ほどから次第に激しさを増しているようだ。私の所属する統合魔術研究所の所長、エス嬢に伝わった情報が正しければ、不審な世界観変動が感知された座標にもうじき辿り着くだろう。碁盤の目の支配が行き届かない、雑多な古民家の集合体のどこか一つに、反応の中心がある。
  コンパスの反応がいつまでも続くとは限らない。世界観の変化は人物の思考に依存し、中心人物が素人であれば、その変化には感情が大きく関わる傾向にある。脈動し、不安定な世界観は基礎となる思考が未熟であることを意味する。もちろん、基本的には。とにかく、私が現在目指しているものは生まれたての世界観であり、いつ反応が消えるともしれない。自然、足はアクセルを踏みたがるのだった。
  大通りを外れ、裏路地のような道を車は走っている。針が狂ったように周り、コンパスが震えて異常を伝える。コンパスが示す値は、私の目指す世界観が現在の人類の総意である共通世界観に対して、一時的に上回ろうとしていることを示していた。すなわちこのペースで変動を続けるならば、局所的に世界観が上書きされ、私たちの認識ではなくこの世界観の中心人物の認識通りにこの付近が支配されることになるだろう。新しい「魔法」の誕生だ。誕生すること自体は問題のないことだが、それが周囲に危害を及ぼすものであれば、魔術師として対処する義務がある。
  なおも走る。もう少し。曲がり角を曲がった先に、緑屋根の一軒家が見えてきた。石塀の古び方からしてなかなかの年代物だろうか。ブレーキをかけ、車を降りる。もはやコンパスに頼らずとも、世界観の変化が肌感覚で理解できるほどだ。明白な異常。塀を越えようと助走を始めた矢先に、民家の中から叫び声が響く。
  「そんなの知らないって言ってるでしょ!」
 ――閃光。否、これは光ではない。白く、扁平な板状の「何か」が古民家の中から広がり始めている。先の尖った平行四辺形。私の腰の高さから上、大地と平行に数十枚、世界がその部分だけ欠落しているような板状の空間が広がる。視神経がバグを起こしたのではないかと疑うような違和感が襲う。胸ポケットに押し込んでいた世界観コンパスが音を立てて壊れた。ブレーカーが落ちるのと同じ原理だ。より致命的な破損を招かないように、分かりやすく壊れることになっている。
  板状の空間は次第にその数を増してゆく。世界を上書きしながら、古民家があった空間を埋め尽くす。互いに重なり合い、板同士の隙間を埋めながら広がる。既に板の集合体は地上へと下ろされた入道雲のような巨大構造物へと変化している。地面より一メートルほど構造物は宙を浮いており、古民家がその部分だけ顔をのぞかせている。
  とっさに飛びのき、様子をうかがう。古民家の敷地が広いためまだ隣の家には被害が出ていないようだが、この構造物の浸食がそこまで及ぶのも時間の問題だろう。部品が次々と付け足されるようにして、入道雲は広がってゆく。このまま拡張は止まらないかと思えたが......
『事態は収束した』
  入道雲はひときわ大きく膨らんだ後、突如掻き消えるように姿を消した。電池が切れたかのようだ。残された空間に音を立てて空気が吸い込まれる。次第に世界観は通常世界のそれへと治まっていく。魔法災害の終焉だ。終了してくれたこと、巻き込まれなかったことに安堵するが、事態はしかし重大なものだった。
  閃光の消えた後の空間は廃墟のようだった。古民家は地面から一メートルより上が切り取られたように消滅し、跡地には少女が一人倒れていた。
 
  ///
  
 後部座席で目を覚ました少女は、白峰冷華と名乗った。どうもヘアピンが消滅してしまったとかで、先ほどから鬱陶しそうに前髪をいじっている。彼女は先ほどの魔法災害の収束した跡地に倒れていて、それを私が抱えあげて車に詰め込み、今に至る。
 原因が不明ながらに家一つを消滅させてしまった魔法災害の、彼女にとって一番の災難は、彼女の衣服までもまとめて消えてしまったことだった。元はワンピースであっただろうそれは、心臓を基準として上半分が、鋭利な刃物で切断されたかのように消滅している。下半身が残っているのが不幸中の幸いというべきか、とにかく私は着ていたコートで彼女をす巻きにし、暖房の効いた車内に保護したのだった。
「ねえ、本当に誘拐じゃないんだよね? 怪しさ抜群なんだけど。目が覚めたら知らないおっさんの車の中で服が半分脱げてることなんて、ある? おっさんが変態だった方が納得いくしー。てか、何さ、魔法って。いい年した大人が言うことじゃないから。そりゃこんな器用に服を切るのって、難しいと思うけど......」
 目を覚ました時から冷華嬢は不満気だ。それはそうだろう。私だって自分の行動が著しく怪しいことくらいは自覚している。緊急避難に当たるので違法ではない、ことにするが。ちなみに、ちゃん付けを却下されたので彼女の呼び方は「嬢」を付けることになった。私はおっさん呼ばわりである。どうも私に対してあたりがきつい彼女であった。
「てかさー、ヘアピンがないのって魔法ってやつのせいなの? めちゃくちゃ不便なの。私の心臓から上が危険地帯で、そこにあるものが全部消えちゃったってことよね」
 足をぶらぶらとさせながら聞いてくる。どうも、現状を認識して整理することには長けているようなので、話が楽だ。統合魔術研究所に所属していること、魔法災害の対処として保護していることを伝えるだけで、理解を示して落ち着いてくれた。
「おそらく、その認識で正しい。微弱だけど、その時感知された世界観は今も君の周囲に存在する」
 少しの間沈黙がおりる。車は高速を外れて、私の住む街に帰り着いた。少し、後悔。私は口下手だから、そっけない返事をしてしまったかもしれない。正しく語ろうとするほど、口数が減るのは良くない癖だ。
  次の話題を。冷華嬢は所在なさげに前髪を触っていて、車内には余所余所しい雰囲気が立ち込めている。気の置ける相手ならこんな沈黙も悪くないのだが、緊張と警戒の気配が残っている現状ではどうも落ち着かない。
「証拠の写真があるけど、見る?」
 赤信号になったので、手を後ろに伸ばして写真を渡す。その場で現像できる、いわゆるポラロイドカメラを私は常に持ち歩いていて、こんな時に役に立ったりする。冷華嬢は考え事をしていたのか、はっとしたような顔をして写真を受け取った。
「ふーん。え? 何これ、コラじゃなくて?」
「本物だよ。正真正銘、君の家、の跡地」
「すっぱり切られてるじゃん。下しか残ってない。すごい、家まで切られてやんの。おっさんがしたの?」
 冷華嬢は写真を人差し指と中指で挟んで、私に突き付ける。この子、現状を楽しみ始めているような。
「惜しい。この車の中にいるって意味では悪くないよ」
「私がしたって言いたいわけ? まあ、分かってて聞いたけど」
「そう。君は今日から魔法使いだ。自覚はないだろうけどね。だから、保護させてもらった」
「やるじゃん、私。魔神とか倒しちゃう?」
「事と次第によれば。まずそんなことはないだろうけど」
 現在冷華嬢の家では、私の所属する統合魔術研究所、略して統魔研の職員によって、隠蔽作業が行われている。先ほどの魔法災害では、私の腰の高さ、もしくは、彼女が椅子に腰かけた時の心臓の高さを境界として上側が、十メートルほどにわたって「消滅」した。壁は切断面から木材をのぞかせるのみ、クローゼット内の衣服は全滅し、原形をとどめている物は床に転がっていたバッグが一つだけだった。原因となった世界観は彼女のもので、動機は彼女だけが知っている。彼女が話したくなるまで、気長に待つとしよう。私の仕事はひとまずは保護だけなのだから。
「それで、今はどこに向かってるのさ? とーまけんってやつ? 大穴でホグワーツとか?」
 冷華嬢から話しかけてくれた。座席を後ろから蹴ってくる。私もちょうど、切り出し方を考えていたところだったので、内心安堵する。
「今日は日曜日だから、統魔研は閉まってるんだ。君の家の始末をしている人だって臨時で来てもらってるんだよ。無理はさせられない」
「ホグワーツはスルー、と。グリフィンドール?」
「私の家に行く。空き部屋を用意するよ。」
 ふえっ? という声を出して、冷華嬢が顔を上げる。視線が痛い。
「魔法災害を引き起こした人をホテルに泊めて、丸ごと吹き飛ばされたらどうしてくれる。ほかの職員の家も遠いんでね」
「最悪じゃん。おっさん、変態? 実は手の込んだ誘拐だった?」
 非難がミラー越しに伝わってくる。こっちだって苦渋の決断なのだ。彼女が安全である保障はできず、今もいつエンジンが破壊されるかとひやひやしながら運転している。現在のところ世界観は常識の範囲内で収まってくれているが、潜在的な危険人物には違いない。
「変態ではない。そろそろ、おっさんと呼ぶのもやめてくれないかな。過剰に老けた気分になる。私の名前は桐生迷人という。迷う人、と書いて迷人だ」
「信頼できない男は全部おっさんだよ。その方が気が楽だって」
 合理的。なんてこった。早くもおっさんデビューとは。名乗ったにもかかわらず名前として設定されなかったのは初めての経験だ。
「君にもメリットはある。魔術について知りたくはないかい?」
「常識は嫌い。でも、非常識は怖い。無理に知らなくてもいい」
 そっけない返事。それはそうかもしれない。
「魔術は新しい常識を作り出すものだから、厳密には君の言うどちらの側でもないと思う。魔術は常識を相対化して、それを制御する」
「うん、何言ってるか分かんない」
「そのうち話すよ。世界の真実は、君の思っているものと違うんだってことは言っておこう」
「楽しいの、それ? 宗教の勧誘みたいだけど」
「君が楽しいかは、分からない。でも、どのみち私たちは君を保護しなくてはならないから、楽しんだ方が良い、とは思う」
 ミラーを介して彼女と目が合う。何かを探るように、一心にこちらを見つめている。瞳を覗き返す。笑顔は人を安心させるそうだから、すこし口元を緩めてみる。彼女は何回か瞬きをすると、ふっと目をそらした。
「おじさんって、正直だね」
 何と答えればよいか分からず口ごもると、「いいよ」、と小さく声が聞こえる。目を合わせないようにしながら、それでも確かにこちらを向いて、彼女は言う。
「いいよ、行ってあげる」
 そうして、彼女は窓の外を見る。実のところ車は私の家の近くまで来ていて、彼女の意思が定まるまでその周囲を回っていた。「もうすぐ着くよ」、と言うと、彼女は何かを切り替えるように首を横に振る。
「おじさんの家、紅茶はある?」
「ダージリン一択、それもティーバッグだけどいい?」
「許せない。ミルクとレモンは?」
「ミルクは上質なのが。レモンは最寄りの書店に行くといい。誰かが置き忘れてるはずだから」
「夢ならばどれほどよかったか。てかそれ、爆弾じゃない?」

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 この世界の本質は人類の「認識」だ。初めに物体があり、それを人が認識するのではなく、人がそうであると認識した物体が世界に存在している。
  世界は人類同士の認識の多数決のようにして構成される。ある物体Aに対し、それをどのようなものだと認識しているかを比べ、最も多数派の認識が現実として適用される、というものが基本的な仕組みとなる。
  ただし、認識力には個人ごとにそれぞれ違いがある。道端の石をただ眺めているだけの人間と、それを注視している人間では、世界への影響度が異なってくる。認識の強度の概念だ。また、人間が認識できる範囲にも限界があり、地球の反対側にあるものを常に認識できる人間はほぼいない。
  この構造のため、意図的に認識のしかたを変化させることで現実に影響を与えることができる。別に地球人類を相手にしなくても、周囲にいる複数人を認識の総量で上回ればいいのだ。個人であれ集団であれ、その地域の認識の合計がいわゆる「常識」と異なるものであれば、現実が書き換わる。この現象を統合魔術研究所では「魔法」と呼ぶ。
  例えばリンゴが一つあるとする。リンゴを赤色と認識する大多数と、白色と認識する個人がリンゴの前に立っている。通常は赤色の集団の勢力のほうが強いためリンゴは赤色で固定されており、白色だと認識している特殊な個体としては「リンゴは白いはずなのに赤く見える」となる。ところが、白色の個体が他の全員の合計より高い認識強度でリンゴを認識した場合、認識が上回り現実でのリンゴが白く変化する。
  物体一つに対しての認識であればその物体が変化するだけだが、世界そのものに対しての認識の在り方が常識と異なるものである場合、その認識が優位に立った時に物理法則すらも書き換わることがある。世界に対しての認識のことを特別に「世界観」という。リンゴが白い世界観の人物であれば、周囲のリンゴが自動的に白く書き換わってゆく。自由に空を飛べる世界観であれば、その人物の周囲では人は容易に宙を舞うことになる。
  白峰冷華の場合であれば、その世界観は「周囲のもの全て存在しない」というものだ。未だ世界観が固まっていなかったため、その世界観が常識に対して上回ったのは彼女の心臓より上の部分だけだったが、統合魔術研究所に保護された彼女は魔法の仕組みを知り、やがて自身の世界観の制御を覚えることだろう。
  
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 私、白峰冷華は見知らぬおじさんの家に連れ込まれてホットココアを飲んでいる自分に現実感を抱けないでいる。桐生迷人と名乗った男性の家は意外に広く、与えられた部屋も快適そうで文句はない。服とか必要なものも買ってくれたし、料理も美味しかった。でも、端的に言って嘘みたいな状況だ。急に魔法を使えるようになるなんて、少年漫画じゃあるまいしって思う。
  迷人さん、口に出しては恥ずかしくて言えないけど、心の中ではこう呼ぶことにした迷人さんは、机を挟んだ反対側で私と同じくココアを飲んでいる。桐生って呼びにくいよね。きりゅう。紅茶もコーヒーもろくな設備はないくせに、なぜかココアだけは充実しているこの家なのでした。甘くて温かくて、なぜか安心する味。迷人さんは時々変な目を向けてくるけれど、それはいやらしいものじゃなくて、観察と心配が混ざったものに見える。
  迷人さんに教えられた魔法の仕組みは正直のところよくわからなかった。信じたものが現実になるって認識でいいのかな。私は確かにあの時、世界なんて全部消えちゃえって思ったのでした。そうしたら目の前が真っ白になって、いつの間にか気を失ってた。あれが、魔法なんだろう。
 とにかく、ココアは美味しい。私はしばらく保護されなければいけないようだから、学校に行かなくてもいいのは良い知らせだと思った。いっそこのまま、統合魔術研究所とやらの職員になったりできるかしら。魔法少女は必要かな? 両親は海外に行ってしまっているので、どこかへ連れ去られても問題はないのでした。
「魔法の簡単なデモンストレーションがあるから、してみる? そろそろ遅い時間だけど」
 迷人さんが話しかけてくる。タイミングをうかがっていたのかな。この人はどうも話し方が下手なところがある。時計はもう八時を過ぎてるけど、このくらいではあまり遅いとは言わない気もする。
「いいよ、試してみる。魂とか抜かれるんだったらお断りだけど」
「写真じゃあるまいし、そんなことはないよ。命にかかわるようなことにはならない。魔法の仕組みがよく分かっていないみたいだから、実際に使ってみたら分かるかな、と思ったんだ」
「え、写真って魂抜いてるの。おじさん怖い」
「いや、言葉の綾。昔は写真を撮られると魂が抜かれるって信じてた人が沢山いたからね。そんな人にカメラを向けるとそっちの世界観が勝って本当に魂が抜けたかもしれない。魂って何なのかも定かじゃないけど」

 連れてこられた部屋は実験室のようだった。大きくて頑丈そうなテーブルが二つと棚が無数にあって、その上にはよくわかんない機械がごちゃっと置いてある。床にコードが絡まっていまにも踏みそうだ。あと、変な色をしたごついパソコンがある。研究のことはよくわからないけど、化学とかよりは物理な雰囲気の部屋だった。この人、というか統合魔術研究所は、本当に研究してるんだな、と実感する。
  私はパソコンの乗っている机の上に連れてこられて、椅子に座ってと言われた。椅子とか手術台に拘束されて......とか一瞬考えたけど、そんな器具はどこにもついてない。とりあえず安心してもいいのだろうか。いや、この人は見知らぬおじさんには違いないのでした。気を確かに持たなければ。
  迷人さんは机の上の機械を棚に運び始める。どこから取り出したのか白衣を着ている。スペースを空けると、パソコンの電源を入れた。ひゅん、と音がして光がつく。
「さて、これから君に試してもらうのはラバーハンド魔術という。魔術っていうのは魔法の一種でね、世界観を自分の意思だけで操作するんじゃなくて、操作しやすくするように体系立てたものをいうんだ。誰でも使えるようにした魔法が魔術だと言えばいいかな」
 また迷人さんがよく分からないことを言い始める。理屈っぽいけど、不思議と学校の授業みたいな退屈さはないのだった。
  
  ///

 私と冷華嬢はビスマス結晶のような文様がボディにあしらわれたデスクトップPCの前に座っている。このPCは統合魔術研究所の支給品だ。見た目に魔術的な意味があるわけではなく、職員の誰かの趣味であるらしい。魔術的な意味が深いのは内部構造で、魔術行使用のプログラミング言語であるルーン・スクリプトを読み解くための特別製となっている。
 私がデスクトップ上のアプリケーションを起動しコマンドを入力すると、低く唸る音とともに画面が暗転する。横で冷華嬢が息をのむ音が聞こえた。
  
≪魂紋認証完了 アクセス許可≫
≪アカシック・レコードへ接続≫
≪過去断片の再生を開始します......≫

『ようこそ、デジタル魔導書システムへ。僕は魔術解説AIのASCAだよ。どうか気軽に話しかけてほしいな』
 ぴこん、と音を立てて画面上に3Dモデルの妖精が出現する。緑と白の配色で、滑らかなカーブを描く渦のような文様がボディにあしらわれている。我らが統合魔術研究所の飛鳥職員が趣味で制作していたデジタル・ラバーマン技術の成果の一つなのだが、このような形で役に立つとは思わなかった。
『デジタル魔導書では、魔術のことを知ったばかりの人を対象として、僕ら統合魔術研究所の主な研究成果を紹介するよ。本式の研究成果ではなくて、あくまでも非常に良くかみ砕いたものであることを理解してほしい。例えば、詳細な実験記録や発掘物などの情報は原則としてここでは取り扱わないよ。統合魔術研究所本部のデータベースをあたってほしい』
『それと、リアルタイムで人が背後にいるわけじゃないから、答えられない質問もある。その場合は、最寄りの統合魔術研究所の職員に尋ねてほしいな。でも安心して。僕には軽度のAIが組み込まれているから、音声での曖昧な質問も理解するよ。質問するべきことが分からない時のために選択肢を用意しておいたから、そこから聞いてみるのもいいんじゃないかな』
 ASCA君が空中で横に一回転すると、体から幾何学的なエフェクトが飛び散り、画面に張り付いて形を変えると選択肢になる。リストは無数にあり、飛鳥職員が思い立った時に順次追加されている。
「と、いうことなんだ。魔術のデモンストレーションを今から行うから、彼に手伝ってもらおうと思う。具体的には、機械類の操作だね。今から君に見せるのはラバーハンド魔術といって、統合魔術研究所がかなり初期のころに開発した魔術になる。シンプルで、魔術の行使に慣れていなくても発動してしまうほど強力な暗示がかかるから、初心者向けってわけだね」
「ふーん。話長いね、おじさんもこのロボも。とりあえず、ロボは可愛い。これは良いことだよ。私、気に入ったな。ぬいぐるみとか、売ってない?」
「......非売品だけど、存在する」そう、何を考えているのか、存在するのだ。この少女、鋭い。
「うっそ。あるんだ。後で見に行かせてね。とにかく、今は魔術だよね。私、魔術も楽しみ。面白そう」
 冷華嬢は少し真面目な顔で、椅子の上で足をぷらぷらさせている。椅子に座ると足を振らなくてはいけない病気なのだろうか。足の動きは振り子のように定期的であるから、思考のリズムを整えているのかもしれない。ともあれ、目線は鋭利さを帯びて、リスト上の文字をなぞっている。
  デスクトップPCの置かれている机の下から二番目の引き出しには、「ラバーハンド魔術」と題されたラベルが張ってあり、そこには必要な機械類と小物が用意されている。
「必要なものは揃ってるから、いつでも始められるよ。心の準備はいい?」
  冷華嬢はすうっと息を吸って、私を見つめる。
「大丈夫。安全なんでしょう? なら、やってみる」
  
  私が指示を出そうとする少し前に、冷華嬢が言ってしまった。
「へい、ASCA君。ラバーハンド魔術」
 ぴこん。認識される。ASCA君がまたしても一回転すると、画面上の文字が吸い込まれるようにして消滅し、ASCA君の顔がアップで表示された。
『うん、いい質問だね。ラバーハンド魔術は統合魔術研究所の発足初期から存在する最もシンプルな魔術の一つと言ってもいい。この質問をするってことは、統合魔術研究所に新しいお客様かな? 初心者にはうってつけだ。ああ、うん、違うなら無視してくれてもいい。僕はもう確定された音声データだから、画面の前にいるであろう君のことは知る由もない。それっぽく繋ぎ合わせてるだけでね。実のところ、最初に言ったいい質問、という台詞だって、何を聞いたとしても最初に付け加えるようプログラムされているはずだ。たとえ、フィッシュ・アンド・チップスのフィッシュとチップス、どちらがより美味いのか、なんて質問でもね。その場合、いい質問だと言った後に回答できないと発言するだろう。最寄りの職員に好みを聞いてみると良い。くれぐれも職務の邪魔にはならないようにね』
「長い、スキップして」
「うん、その判断で正解だと思う。ASCA君には手伝ってもらうだけにしよう。説明は私が行うよ」
『おっと、スキップされちゃったみたいだね』
『じゃあ、実験に移るよ。ここからは事務的なASCA君だ。さあ、デバイスを接続して』

 まず、冷華嬢の右手をテーブルに固定し、数か所に電極を取り付ける。そのうえで上から箱を被せて、冷華嬢からは見えないようにする。次に、冷華嬢の前にゴム製の腕の模型を配置する。これは、柔らかなゴムで肘から先を精巧に再現したもので、冷華嬢に付けた電極と同じ位置に相当する部分に電球が埋め込まれている。ゴムの腕と冷華嬢の腕から延びるコードをPCに繋げば準備は完了だ。
「ASCA君、始めて」
『カシコマリマシタ、ゴシュジンサマ』
「え? 君ってそんなキャラだっけ」
「いいから、始まるよ。ちょっとピリッとするから気をつけて」
 ASCA君の操作に従って、冷華嬢に電気刺激が加えられる。
  
  ///
  
 ラバーハンド魔術の体験は不思議な感覚だった。箱の中に隠された私の腕のあたりで痺れるような刺激が一定の間隔で加えられていて、それと同じタイミングでゴムの手に付けられた電球が点滅する。箱の中の腕とゴムの腕に、同じような刺激が加えられている。まるで、ゴムの腕の光っている場所が痛んでるみたいに。
  それまで本当だと思ってた腕は箱に隠れて見ることができない。だから、私に見えるのはゴムの腕の電球が光っているところだけ。だんだん私は、ゴムの腕の方が自分の本当の腕なんじゃないかって思い始める。本物と偽物を混同し始めている。なんだかくすぐったい。腕がゴムに変わってしまったかのよう。これがゴムゴムの実の能力か、なんてね。
「勘違いしてるかもしれないけど、これはまだ魔術じゃないよ」
 と、迷人さん。てっきりこれが魔法だと思ってたからビびっくりする。
「この現象は、ラバーハンド錯覚という。魔術ではなく、科学の枠組みに入る現象だね。自分の身体が自分の物である感覚が歪むことがある、という錯覚だ。私たちの身体のつくりはどうやらかなりあいまいらしくて、視覚や触覚やその他の感覚が、互いに補い合って物事を感じ取っている。だから、視覚情報と触覚情報を一貫性を持って与えることで、脳を騙せてしまう。光ってるゴムの方が自分の腕だと感じているだろう?」
「うん。変な気分。これが科学、ねえ」
「そう。ここからが魔法の話で、君がゴムの方を本物だと完全に信じ込むことができれば、それを自分の手であるかのように動かすことができるようになる。最も強く認識されている事柄が現実として反映されるから、認識の在り方を変えれば現実を変化させられる。私たちは、より強く認識を変化させられるように補助をする方法を研究しているんだ」
「このゴム、動くの? 全然動きそうにないけど」
「動かないと思わないほうがいい。あくまで、この腕は動くと信じ続けるんだ」
「ゴムの方が本物だって、自分を騙すってこと?」
「そう、その通り。そのゴムの腕は自分の腕だと認識するようにしてほしい。今から刺激のパターンを増やす。より錯覚が発生しやすいパターンなんかも発見されていてね、君の認識を補助することができるはずだ」

 腕に伝わる刺激はだんだんと複雑になっていった。ゴムの腕のランプがクリスマスの街中で飾られるイルミネーションのように点滅し、それに合わせて痛みが走る。私の腕は、次第にゴムへと入れ替わっていく。最初はゴムを動かそうとして無理な頭の使い方をしていたけれど、流れてくる刺激に身をゆだねていた方がより強く錯覚が発生することに気付いた。光るところが痛んでいる、そう自分に言い聞かせながら、点滅する腕を眺めている。
『君の腕は、こっちだよ。私はそう思う』
 迷人さんがゴムの腕を指さして言う。そういえば世界は周囲にいる人の認識の合計で決まるのだから、迷人さんの認識も大事な要素なのだった。迷人さんは今、私を助けてくれている。
  根本から波が打ち寄せるように光が灯る。一瞬、奇妙な瞬間があった。確かに、ゴムの腕に血が流れていたような。その感覚を思い出すようにして、目を凝らす。頭の働きをそちら側へ寄せてゆく。
  動いた。人差し指がぴくりと曲がった。そのまま慎重に、感覚を途切れさせないように指を動かす。中指、薬指と続いて曲げる。小指と親指も内側へ動かす。ゴムの腕、いや、もはやゴムには見えないこの『私の腕」は、握りこぶしを作るような形になった。
「迷人さん! 動いた、動いたよ。すごい!」
 しまった、と思うけど迷人さんは瞬きだけして触れてこない。代わりに、魔術が成功したことを喜んでくれる。
「よし、よくできました。凄いぞ。この感覚を覚えておくといろんな魔術が使いやすくなるよ」
 手首を前後に動かしたり、全体をひねって転がったり、人間の腕だったころにできたことは全部ゴムでもできる。肩に繋がっていないぶん、動ける範囲が広いくらいだ。慣れると、指を足のように動かして前に進むこともできた。手首の切断面からコードが伸びてパソコンまでつながっているのが血管みたいで少し気持ち悪い。夜中に見たら怖いだろうな。枕元まで忍び寄ってくる手首の妖怪。しかも光る。遠くのものを取りに行きたいときとかも、使えるかもしれない。文字通りの、マジックハンドだ。
  箱の中に入っているそれまでの腕は、動くことがない。それまで繋がっていたことを私が無視して、新しい腕を動かし始めてしまったからだ。たぶん、箱を取り除いてそっちが本物だと私が思ったら、戻るんだろうな。
  不思議なことに、物を触っている感触も伝わってくる。本当はゴムなのに。脳が、見ている情報から感覚を補っているらしい。腕が乗っている机の硬さと滑らかさが、確かに感じられる。鉛筆を掴んで文字を書くこともできた。鉛筆を通して振動が伝わってくる。字は少し汚いけれど、慣れの問題かな。もとからそこまで綺麗って訳じゃないし。
「ラバーハンド錯覚を実現するのに筆でなぞったりする方法もあったんだけど、ゴムの腕が自由に動き回れるように、埋め込まれた電球を光らせるという形式をとっているんだ。これを応用すれば義肢とかも作れるかもしれないし、身体全体の模型を作ってそれを動かしたりもできる。視界はカメラを取り付けて共有すればいいからね。人が簡単に操縦することのできるロボットの完成だ。全身模型を用いたものはラバーマンと呼ばれたりもする」
 私が腕で遊んでいる間に、迷人さんが語り始める。説明モードに入った迷人さんはまさしく研究者だ。もしくは学校の先生か。説明しないといけない義務感に駆られているのか、それとも単に自慢したいだけのなのか。
「ラバーマン技術をデジタル化したものがこのASCA君だ。VRゴーグルを使えば電子的に作った空間に完全に入ってしまったかのような錯覚を起こせる。その中に配置した人形とラバーハンド錯覚を発生させれば、まるで生きているかのようにASCA君を動かせる。現状だと動かしているだけだからモーションキャプチャーでも代用できるけど、そのうち電子空間の中で冒険したり人と会話したりすることもできるかもしれないね。私たち統合魔術研究所は、科学と寄り添った魔術を発展させることを一つの目標としているんだ」
 手首のばねを使って腕を起こし、逆立ちのようにする。肉体から切り離された『私の腕』だから、こんなこともできる。科学と寄り添った魔術、と迷人さんは言った。私が考えるに、このゴムの手が動く現象はちっとも科学的じゃない。誰に聞いてもそう答えるだろう。でも、その前段階だったラバーハンド錯覚は、科学のものだった。科学が魔術を手助けするように、科学の都合のいい部分だけを利用している。
「魔術って、納得できればいいんだね。理屈が通らなくても説得力があれば、魔術は発動するんでしょ?」
 そう言うと、迷人さんは驚いた顔をして、それから不器用な笑顔を見せる。
「そう、よく気付いたね。結局は私たちの認識しだいだ。言ったもの勝ち、ダブルスタンダード大歓迎だ」
 私にはそれだけ筋力があったことにして、腕を思いきり跳ね上げる。宙を舞った腕は迷人さんの顔の近くまで飛び、察した迷人さんも手を上げてくれた。ハイタッチ。非常識も、悪くないものなのでした。
  
  ///
  
  午前六時、普段通り目を覚ました私は朝食の用意をしている。冷華嬢はあの後疲れ果てたように眠ってしまって、まだ起きてこない。魔術は脳の普段使わない部分に負荷をかけているので、慣れないうちは疲れるだろう。脳に疲労があるうちは、糖分をとって寝るのがいい。
  彼女はどこまで魔術に適応できるだろうか。昨日の様子からすると、随分とラバーハンド魔術のゴムの手に馴染んでいたので、自分の世界観を手足のように使えるようになるのもすぐかもしれない。
  今日の朝食はスクランブルエッグとトーストだ。今日の、というよりほぼ毎日このメニューで私は暮らしている。研究にしか興味がなかったため、作れる料理はさほど多くない。食べ盛りの少女にこれで足りるだろうか。それとも、女性にそんなことを言えば怒られるのか。女性に対して何を言えばいいかは、どうもわからない。
  昨晩の彼女は少しうなされていたようなので、心配している。幸い、昨日彼女の家で起こったような事態には至らなかったが。あの日古民家の前で魔法災害を目撃した時に聞こえた叫び声、あれは何かしらの感情が爆発したもののように聞こえた。彼女の世界観は、何か特異な感情に基づいたもののように思える。世界を憎み、消滅させようとするほどの何か。
  感情を制御する方法は存在しないので、今私たちがするべきことは、彼女に世界観の扱い方を教え込み暴走しないようにすることだろう。昨日行ったラバーハンド魔術の実験もその一環だ。ひとたび常識を上回るまでに育ってしまった世界観を常識の範囲内まで矯正しなおすよりは、魔法少女が一人増えるほうが現実的だろう。
  彼女が無事に社会に紛れ込めるようになるか、それとも統合魔術研究所の職員として働くことになるかはわからないが、それまでは私たちで保護することになる。
  朝食ができたので、彼女の部屋の扉の前に立って、声をかける。今日は統合魔術研究所に向かい、彼女に世界観制御訓練を受けてもらうことになるだろう。
  
  ///
  
  迷人さんの料理は今日も美味しかった。本人は魔術の成果だと言い張るけれど。『魔術味の素』というのだとか。プラシーボ効果を利用して料理が美味しい方向に認識を誘導しているらしい。
  車で走ること二十分ほど。統合魔術研究所の本拠地は、鉄でできたホールケーキのような見た目をしていた。周囲を滑らかな壁に覆われて、尖塔のロウソクが突き刺さり先端から煙を吐き出している。上側は増築を繰り返しているのか、建物が不規則に積み重なって乱雑な印象だ。中で何をしているだろう、ピンク色の煙なんかも昇っているのが場違いにファンシーに見える。
  廃れた工業地帯の一角を買い取って作ったらしいけれど、一体どんな偽装工作をしているのだろう。私がSF好きなら毎日カメラ片手に通っていたくらいの近未来感だ。これが蓋を開ければ魔術の世界だというのだから恐れいる。
  迷人さんが壁の一角に近づくと、≪魂紋認証完了≫という声が聞こえて、壁が下にスライドした。すごく滑らかに、音もなく。ASCA君を呼び出すときも言ってたけど、魂紋認証ってなんだろ? オーラの色とか、そんなのかな。
  開いた壁を通り抜けるとそこは正方形の不愛想な空間で、机の一つも置いてない。壁は鈍色の金属質で覆われていて、しんとして冷たい。背後で入ってきた壁が閉まってしまった。恐ろしいほどの静寂が発生する。
「エアロックみたいなものだよ。安心して。この研究所の内部では世界観が隔離されていて、外部の人類の認識の影響を受けないようになっているんだ。つまり、この中では魔法も魔術も発動しやすい」
 部屋の四隅に取り付けられたダクトから煙とともに「何か」が注入されている。すわガス室、とも思ったけれどここまで来てそれをされたら諦めましょう。住んでた家を消滅させた時からだんだん私は戻れなくなっていたのでした。煙はだんだんと晴れてきて、それとともに空気が色を変えるような感覚があった。ここは、私がこれまで暮らしていた世界から、常識ごと異なっている。
「行こう。ようこそ、統合魔術研究所へ」
 来たのと反対側の扉が開き、迷人さんが歩きだす。後を追って中に入ると、その広さに圧倒された。円卓会議でも開くのかと思うような巨大なテーブルに、私のまだ知らない方法で浮いている円柱状のディスプレイが目を引く。職員は仕事中なのか、人影は少ない。ただ二人、白いコートを着た肩幅の広い男の人と、セーラー服の女子高生が通路の先に消えていこうとしていた。私以外に女の子が居るんだな、と思っていると迷人さんが二人に声をかける。広い部屋の反対どうしにいるから、なかなかの大きな声だ。
「飛鳥さん、報告していた新入りです。雷雨嬢ともどもよろしくお願いします」
 白コートの人がゆっくりと振り向く。でも、私の目は隣の女子高生しか映っていない。視界が拡大されたように、細部まで把握できる。少し茶に染まったショートカットと、切れ長の目。なぜ、彼女がここにいる。彼女が学校に来なくなって、もう会わなくて済むと思っていたのに。
  彼女が振り向いた。目が合う。気付けば私は駆けだしていた。彼女は、私にとっての敵だ。
  
  滑らかな床を蹴りつけて走る。迷人さんが焦った様子で呼び止めているけれど、聞く気にはなれない。私はそう、彼女を憎んでいたんだ。全部、彼女のせいだ。彼女が居たから、私は世界を嫌いになった。せっかく忘れていた記憶がよみがえってくる。
  不思議と体が軽い。いや、『体が軽い』と私が思ったから、体が軽くなっている。常識なんてもので私を縛る世間はここにはいない。誰も体にまとわりつかないと、こうも自由に動けるのか。もっと、速く。打ち出された矢のように私は駆ける。
  昨日の出来事を思い出して。私が世界を消そうとした時の感情を。あの時の世界観をもう一度。足場も消えては進めないから、握りしめた拳の周りだけ。私の世界が適用される場所を限定する。白く欠落したように変化した空間を、丸めて固めて殴りつける。
  硬い壁にぶつかるような感触がした。どうして。振り下ろした私の手は、彼女に届かない。数センチ手前で止まってしまった。同時に、雷雨が動いた。振り向く勢いを利用して回し蹴りが飛んでくる。
  誰かに腰を抱きかかえられた。迷人さんだ。いつの間にか追いついていた。みしり、と音がする。雷雨の蹴りは迷人さんの腕に当たった。すさまじい力で後方に吹き飛ばされる。入ってきた扉の所まで。なんで、彼女がこんな力を。ひと月前までは私と同じ高校で暮らしていたはずなのに。いや、それはさっきの私も同じことか。私の手の周りに残った世界観が床と接触して長々と溝が刻まれる。世界に消しゴムを使ったみたい、なんてどこか冷静な頭が考える。
  私をかばったまま受け身をとった迷人さんが、壁に手をつきながら起き上がる。左手があり得ない方向に折れ曲がっている。雷雨に蹴られた手だ。
「迷人さん!」
「私のことはいい。君は、少しおとなしくしていなさい」
 迷人さんが私の首を後ろから掴む。締め付けるのではなく抑え込む、という掴みかただ。
「でも、私のせいで......」
「私は大丈夫だ。今はこれ以上の被害が出ないことが優先される」
 振り向くと迷人さんの顔は少し怒っていて、私はしゅんとなる。反省。見つけてすぐに殴りかかるのはいただけませんでした。
「飛鳥さん、彼女は押さえておくので雷雨嬢をお願いします」
 雷雨の方を見ると、ゆらりと体を戻してこちらを見ている。彼女は、自分に気に食わないことがあると徹底的に叩き潰さなければ気が済まないたちだった。きっと、今もそうだろう。私が先に攻撃して仕留めきれなかった以上、彼女からの反撃があるのは必至だった。
「あなた、冷華じゃない。あなたも私を否定するの? なら、私の方が正しいってことを証明しなくちゃ。間違いは正さないとね」
  そう言って、雷雨が走り始める。速い。おそらくさっきの私よりも。足のひと踏みでとんでもなく加速して、施設の床がひび割れる。
「迷人、よくやった。雷雨くん、施設内での戦闘行為は禁止されている。立ち止まりなさい」
 白コートの男が口を開いた。確か飛鳥さんと呼ばれていただろうか。だとしたら、魔術書のASCA君を作ったのと同一人物? それにしては口調が重厚で、ASCA君のような親しみやすさはない。
  雷雨は声など聞こえていないかのように走り続ける。当然だ。彼女は人の話になど耳を貸さないし、むしろ彼女を否定した人物をも敵とみなして襲いかかるだろう。迷人さんの私を掴む手に力がこもる。
  飛鳥さんが白コートの下から何かを取り出してこちらへ投擲した。くの字型をした金属の塊が、雷雨を追い抜く速度で飛んでくる。近くまで飛んできてようやくわかった。拳銃だ。映画でしか見たことのない武器。
  でも、拳銃なんかを投げてどうするんだろう、と思っていると、拳銃は私たちの目の前で空中に静止する。そのまま、雷雨が来るのを待っているようだ。
  拳を振りかぶって雷雨が走ってくる。完全に、やる気だ。迷人さんが私を引っぱって雷雨から離れようとする。でも、このくらいの速さじゃすぐに追いつかれる。間合いまで迫ってきた雷雨の拳が、音を立てて私に近づく。
  と、宙に浮いていた拳銃が火を噴いた。どん、と重い音がして空気が振動する。青白い光が雷雨の胸のあたりではじけて、雷雨を吹き飛ばす。どん、どん、どん、どん、とさらに四回音が鳴る。宙を舞う雷雨の飛んだ先に拳銃が追い付いて、さらに銃弾を吐き出している。そのたびに青白い閃光が走り、雷雨は拳銃を投げた白コートの男がいる場所へと押し戻されていく。
「『三式衝撃魔術弾』だ。雷雨嬢は魔法を無視して行動できるけど、力学の範囲なら影響を受ける、というわけだね。殺傷性はないから大丈夫」
 迷人さんが耳元でささやく。こんな時も解説するのか、と呆れたような気分になる。
  飛んでくる雷雨をキャッチした飛鳥さんは、白コートを脱いで雷雨をくるみ、小脇に抱えた。あれ、私もされた奴だ。私の時は意識がなかったけれど。そういえば、迷人さんもいつもコートを着ている。迷人さんは黒だけど。二人には何か関係があるのだろうか。
「雷雨くんにはこちらで話を聞いておく。迷人は、その子を部屋に連行して事情聴取を行いなさい」
「了解しました」
 迷人さんは返事をすると、「立って」と私に声をかける。手を引かれて立つと、今度は「ついてきて」と言われる。やっぱり、怒っている。でも、さっきは普通に話していた。それに、左手が変な曲がり方をしているのに苦しそうな様子を見せない。痛みを感じていないのだろうか。とにかく今は大人しく従うことにする。
  
	///
  
  案内された部屋に入ると、いきなりげんこつを食らった。目の中に火花が散る。
「これは、衝撃弾五発の分」
 と、迷人さん。それから、続けてもう一発。火花再び。
「これは、私の腕の分」
 そう言ってから、迷人さんはふっと表情を緩める。
「他人に迷惑をかけているのだから、そのぶんは清算しないといけない。その代わり、これで遺恨はなしにしよう」
 はい、すみませんでした。反省します。私は思い、そして言う。
「さて、私は腕をなんとかしてくるから、君はここで待っていてくれ。三十分で戻る」
 私が反省している隙をついて、迷人さんが行ってしまった。あっという暇もない。頑丈そうな扉が音を立てて閉まる。
  
  ///
  
 迷人さんが居ない間に思い出す。
  彼女、剣崎雷雨と私は同じ高校の女子テニス部だった。準レギュラー程度にしか成長しなかった私と違い、雷雨はそのテニス部の頂点として、いつも人の輪の真ん中に君臨していた。けど、それは雷雨が強かった、という理由だけではなかった。雷雨より強い先輩は何人かいたし、同級生でも強い人はいた。でも、彼女達は全員、部活を辞めてしまった。
  雷雨は確かに努力をしていたし、実力があったのは確かだと思う。けれど彼女の主な「強さ」はテニスにおけるそれではなくて、人間関係の強さだった。
  雷雨は、自分が必ず正しいという信念のもとに生きていた。そして、それに異を唱える人物を片端から否定して回った。雷雨はグループを作った。それは、雷雨に同意する人だけで構成された親衛隊で、彼女は常にその中心にいた。グループは雷雨が敵と定めた人物を自動的に攻撃し、雷雨の周囲から排除してしまう。
  雷雨の強さにはある種のカリスマ性があった。力強い言葉に従いたい人はたくさんいる。曖昧に言葉を濁す人より明確に断言する人の方が信頼できるように見えるもので、そんな人は雷雨の周りに引き寄せられた。雷雨の言葉は明確だった。彼女にないものは間違いで、彼女にあるものはすべて正しかった。
  最初の被害者は雷雨のフォームを注意した先輩だった。「そんなのじゃレギュラーにはなれないわよ」と、そんな言葉が引き金となる。なんてない言葉のはずなのに、その日から彼女の攻撃が始まった。取り巻きのグループをけしかけて先輩の情報を調べさせると、先輩の「悪い」所は何個も見つかった。それとも、彼女の捏造だったかもしれない。告白してきた人を振った、なんてことも尾ひれをつければ立派な欠点だし、攻撃手段だ。
  先輩は次第に罵詈雑言に襲われるようになった。雷雨からも、その取り巻きからも。何事も攻撃をする意思を持って攻撃することのできる人が強いから、先輩が雷雨に反撃する意思を持っていなかった以上、雷雨の勝利は揺るがなかった。何重にも重なる人格否定の中で、先輩は部活を辞めてしまった。学校にも来なくなってしまったと聞いている。
  その後も、雷雨の犠牲者は出続けた。気に食わない人を、雷雨は次々に否定していった。彼女はいつも犠牲者の身辺を洗い出して、「悪い」所を見つけ出す。まるでその人が間違っていたことを確認して、安心するように。
  だんだんとテニス部は雷雨の一派に占領されていった。雷雨よりテニスが強い人は真っ先に嫌われたから、雷雨より強い人はいなくなった。雷雨は閉鎖されたテニス部という空間における女王か、さもなくば神だった。
  その頃の私といえば彼女らの攻撃対象になることもなくテニス部に居座っていたのだけれど、どうも彼女らに混ざることもできなかった。悪いところのない人なんているわけがないと思っていたし、そのころは他人を嫌って攻撃するような気分にはなれなかったからだ。自分で言うのもなんだけどそれなりに頭も良かったから、空気を読んで隠れて暮らしていた。テニスは好きだったし、ほどほどに楽しめればそれでよかった。
  テニス部に彼女の仲間が増えすぎていたことに気付いたときにはすでに遅かった。彼女を否定するようなことがなくても、同調しないというだけで彼女が攻撃する理由には十分だった。その日から迫害が始まった。
  これまで友達だと思っていた人たちが一斉に牙を剥いた。根も葉もないうわさが知らないところで浸透していく。誰に話しかけても無視されたし、心ない言葉を吐き出された。学校が嫌いになるまで、そう時間はかからなかった。
  これまで辞めていった人たちのことも分かろうというものだ。あの時味方していればと考えてももう遅かった。それに、あの時味方したからといってどうなったというのか。むき出しの敵意で襲い掛かってくる怪物相手に何ができるのか。そんなこと、それこそ魔法でもなければ考えられなかった。
  私はテストでカンニングをしたことにされた。いくら違うって主張しても誰も聞いてはくれない。そもそも、雷雨は自分以外の意見を一切聞かなかった。彼女以外の言葉はどうせ間違えている、とそんなフィルターがかかっている。
  私は、雷雨やその取り巻きを嫌うことで自分を保っていた。他人を許しましょうなんてのはしょせん心に余裕のある人たちの論理で、私はとてもそんな気分にはなれなかった。相手を憎んで否定して、そうすることでようやく生きれるようになった。彼女らと同じことをしている、といえばその通り。雷雨もきっと、私達を否定しなければ生きられない心の形をしていて、私はそれも含めて彼女を憎んだ。
  そんな時、雷雨が学校に来なくなった。取り巻きが彼女の家に行っても、そこに彼女の姿はなかった。雷雨は何の前触れも見せずに私たちの前から姿を消した。
 
 絶対的な支配者たる雷雨が居なくなったことで私への攻撃が収束するかというと、そうではなかった。むしろ、目的を見失った集団は暴走した。雷雨を信じる事しかできなくなっていた取り巻きたち。雷雨の言葉を否定することは、彼女たちのこれまで過ごした日々を否定することだった。
  雷雨の遺した罵詈雑言は全て彼女たちの中で真実となり、私を責めることは彼女たちにとっての正義だった。次第に教師までも彼女たちを信じ始める。世の中は多数決、とはなんとも皮肉な魔法の仕組みだ。声の大きい雷雨の言葉が現実として適用されるところなんかも、魔法そっくり。
  勉強しても無駄だから、私は学校に行かなくなった。親は海外に仕事に行ってしまっていて、私を強制するものは何もない。食材を買いに行くほかは、家の外にも出なくなった。本を読むことは好きだったから、退屈はしなかった。
  一人きりの孤独の中で、彼女たちへの憎しみが増していった。家に閉じこもることで憎い人と接触することは避けられたけれど、そのほかのの良い人物との会話の機会も失ってしまった。そのせいで、私は過去にとりつかれたまま感情を増幅させ続けることになる。もっとも、学校に行ったところで楽しく話せる相手は残っていなかったのだけれど。
  私は次第に世界そのものを憎むようになった。私のことを攻撃した人ばかりでなく、潜在的な攻撃者である全員を。だって、いかに仲がいいと思っていた人でも、集団にそそのかされれば簡単に裏切ったのだ。いずれ裏切られるのなら信じることが無駄なように思えた。心の中には醜い言葉を隠しているのなら、会話するだけ無駄だと思えた。皆が私を傷つけるのなら、世界なんて存在しなくてもいいと思えた。
  そんなさなか、雷雨に取り残された取り巻きたちから電話がかかってきた。それまでは電話番号を見て取らないようにしていたのに、わざわざ公衆電話からかけてきた。聞くと、雷雨が消えた後のテニス部は崩壊寸前で、大会に出る実力も失われてしまったらしい。雷雨が優秀な人を次々と追いやったのだから当然だ。けれど、彼女らはそれを私のせいだと言ってきた。私はレギュラーにもなれなかった半端者だけれど、それでも彼女たちよりは実力がある。私が辞めてしまったから、大会に出られなかったのだと私をなじった。
  そうして、私の中で何かが切れた。誰も彼もが自分勝手で醜くて、いっそ世界がすべて消えてしまった方が美しくなる。世界なんてなければよかったのに。そんな思いが頭ではじけて、その先は何も分からなくなった。その時、私の中では世界が本当に存在しなかったように感じられた。何もない白い視界だけがあって、それをぼんやりと眺めていた。
  自分以外の全てが溶けだしていく中で、声が聞こえたような気がした。誰か別の人の世界観が私の近くにあったのだと、今ならわかる。その世界観は私を包み込むように優しく広がって、とても自然な流れでこう言った。
『事態は収束した』
 その言葉とともに、元に戻った世界の姿が見えた。私の混乱した感情が収まって、今までの私の世界観に少しだけ戻っていくような、そんな感触。大丈夫、もう全部元通りになった、これで安心だよ、そう言われているような気がした。
  そうして、気が緩んだのか私は意識を失って、気が付いたら迷人さんの車の中だった。最初は混乱したし見知らぬ相手に怯えていたけれど、不思議と高校の少女たちに対するような敵意は抱かなかった。消した世界がせっかく戻ってきたのだから、もう一度人を信じて生きてみようと思ったのでした。
  
  ///
  
  実際は雷雨に出会ったことで戻ってしまったのですけれどもね。完全に新しい自分にはなれませんでした。昔の憎しみを思い出して、また世界が嫌いになってしまった。今は落ち着いてきたので、これからは雷雨にはあまり近づかないほうがいいかもしれません。
  あのあと帰ってきた迷人さんにありのままのことを話してきちんと叱られたので、私の周りには平穏が戻ってきた。迷人さんは事件を落ち着いた状態に戻すことが得意なようだ。事件なんてなんでもなかったかのように私に接してくれるし、魔術のいろんな発明を私に教えてくれる。飛鳥さんはまだよくわからないけれど、雷雨と一緒に歩いている白い後ろ姿を何回か見かけたことがある。飛鳥さんは飛鳥さんで、日々研究にいそしんでいるらしい。
  雷雨は、私と同じく街中で魔法災害を起こして統合魔術研究所に保護されたのだったそうだ。自分を肯定し他人を否定するその在り方を続けた結果、彼女は他人の世界観の影響が及ばないという世界観を獲得していた。誰かが主張する世界に対しての認識をその都度否定して自分のものに塗り替えてしまうから、彼女の周囲では魔法が使えなくなってしまう。研究の邪魔だから、と普段は塔の上の方に追いやられているのだとか。
  雷雨の世界観は彼女らしく厄介なものだけれど、とても便利なものなのだと迷人さんは言っていた。例えば、どうしようもなく危険な魔法災害が発生した時にむりやり否定してくれるからね、と。私にはよくわからないし、彼女を肯定する論理を認めたくない気持ちもある。でも、迷人さんは彼女のことも否定しなかった。
  他の職員の家にお邪魔する選択肢もあったけど、私は迷人さんの家にとどまっている。理由の一つは、迷人さんの作る料理がすごく美味しいこと。『魔術味の素』はみんな持ってるから誰が作っても同じだよと言われるけれど、私は迷人さんの料理が一番美味しかった。一説には、それを理由にしないと気恥ずかしいからとも。
  これは全然関係ない話だけれど、魔法の効き目は信頼感が強いほど大きくなるのだとか。特に、プラシーボ効果みたいな精神的なものを扱ったものほど影響が大きくなるらしい。うん、どう転んでも恥ずかしいや。でも、悪くない。
  親には火事が起こったとの連絡が行っている。その実魔法少女になったなんて知ったら驚くだろうな。親戚の家に移り住むことになったとのカバーストーリーが統合魔術研究所の工作員の手でばらまかれ、それに伴って学校も転校することになった。世界観の制御訓練を終えたら、迷人さんの家の近くの新しい高校に通うことになる。
  迷人さんはやっぱり教えるのが得意で、私が学校を休んでいた間の勉強を取り返すのに力を貸してくれる。昼間は、迷人さんに研究と私には魔法の訓練があるから、あまり時間は取れない。でも、少しずつ前に進んでいる。
  新しい明日へと歩きだしている。


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