大人の階段を一人で登る

藩荷原課


                            やまどり	  放課後、片思いをしている山鳥さんが、教室でキスしているのを見かけた。 
 山鳥さんは美少女で、噂には聞かなかったけどそういう相手もいるだろうなーとは、なんとなく思っていた。 
 だけど、相手が女の子だとは予想していなかった。  隣のクラスの、名前も知らない女子。派手で、学校行事で中心になって盛り上がってそうな人で、山鳥さんと交友があるタイプには見えなかった。 
 二人は窓際で幸せそうに抱きしめ合っていて、夕日に照らされたその光景は美しかったと、思う。見かけた瞬間、驚き過ぎて頭がまっ白になった。 
 鞄が落ちる音を聞いて、二人はばっとこっちを向いた。僕は慌てて言い訳をしたけど、何を言ったか覚えていない。なんで言い訳したかも分からない。 
 僕の弁明に二人の顔はどんどんこわばっていって、その顔が怖くて僕は逃げ出した。 
 家まで全速力で走り、ただいまとだけ叫んで自分の部屋に駆け込んだ。夕飯まで、ずっとベッドに潜っていた。 
 夕飯を食べて風呂に入って、僕は考える。もちろん宿題なんかじゃない。山鳥さんのことだ。  片思いをしていたことは、もうどうでもよくなってて、山鳥さんが、女の子が好きな女の子、同性愛の人だということに、ただただ驚いていた。 
 保険の時間に、そういう人達がいることは習ったことがある。テレビでもそういう特集を見たことがある。  だけど、自分の周囲にそういう人がいるとは、考えたことがなかった。 
「いるんだなあ......」 
 僕が知らなかっただけで、山鳥さんはずっとそうだった。そう思えば、山鳥さんの行動の全てが、それっぽく思えてくる。 
 恋バナに乗り気じゃなかったのは、おしとやかだからじゃなくて男子に興味がないから。女友達が多いのは、女の子が好きだから。 
そこまで考えて、僕は自分の頬を引っ叩く。 
「決めつけだ。よくない」 
 思えば僕は、山鳥さんのことを何も知らない。友達じゃないし、用がなかったら話しかけることもできない。  それなのに、山鳥さんがああなのはこうだからだ、と決めつけるのは、たぶん、いや絶対、違う。 
 僕だって女友達より男友達のほうがずっと多いけど、男子を恋愛的な意味で好きになったことはなかった。考えては否定し、考えては否定し、僕はすっかり頭が煮詰まってしまった。 
 スマホで、「LGBT」を検索する。出て来たサイトを、上から順に開いていく。 
 色んな人が色んな言葉で色んなことを説明しているけど、LGBTの人達に会った時、どうすればいいのかというのは、よく分からなかった。情報量が多すぎたし、意見が食い違っていることもあった。 
スマホを投げ出す。 
 きっと皆悩んでいるのだ。どうしたらいいのか皆分からないから、一生懸命考えて、ちょっとでもいい方向に行こうとがんばっているんだろう。 
 結局、僕が山鳥さんにどう対応したらいいのかわからないままだ。考え疲れたからもう寝てしまおうかと思ったその時、スマホにLINEが来た。 
送ってきたのは、山鳥さんだった。 
 山鳥さんとはクラスのグループでも話したことがない。こうして送ってきたのは、間違いなく今日見たことに関してだろう。 
少しためらって、開く。送られてきたメッセージは、
『今日見た?』 
の、短くて誤魔化しようのないものだった。 
『ごめん。見た』 
 と僕は返す。見てないなんて言っても信じてもらえないだろう。がっつり言い訳をした後なんだから。 
 送った瞬間既読がつき、 
『明日の放課後に話があるから残ってて』  と返ってきた。僕は、 
『わかった』 
 としか言えなかった。 
 それきり山鳥さんからは何も来ず、僕はスマホの電源を切って眠る。明日の宿題も予習も知ったことじゃなかった。 
「どうしよう......」 
 頭も体も疲れ果てている。だけど、どうしてもそう考えずにはいられなかった。 
  翌日、山鳥さんはまったくいつも通りだった。 
 いつも通り授業を受けて、友達とおしゃべりして、昨日までの山鳥さんと何も変わらないように見えた。 
 移動教室の時にちょっとだけ隣のクラスを覗いたけど、山鳥さんの恋人も、少なくとも挙動不審ではなかった。 
 友達と楽しそうに話していて、一瞬目が合っても何事もなかったように逸らした。 
 僕は一日中上の空だった。昨晩はずっと眠れず、どうしようと考え続けていたから、頭が働かなくなっていた。  全部の授業で居眠りをして、友達と話している時もボーっとしていた。サッカーの授業では、顔面にボールを受けた衝撃で気絶するように眠り、ちょっと騒ぎになった。 
 保健室の先生に睡眠不足の原因を聞かれた時は、ゲームのし過ぎだと答えた。 
 そして放課後、僕は部活をサボり、日の暮れた教室で山鳥さんを待っていた。 
 ずっと考えたけど、どうすればいいかは分からないままだった。これから来る山鳥さんに何を言われるか、何を言えばいいのか、不安で気が重かった。 
 カラカラと教室の戸が開く。そこには、山鳥さんとその恋人が立っていた。 
 二人は何も言わず僕の席に近寄り、並んで僕を見下ろす。 
「山鳥さ」 
「誰かに言った?」 
 言葉を遮られ、僕は動揺した。山鳥さんは見たこともないような冷たい顔で、聞いたこともないような冷たい声で、僕を問い詰める。 
 今まで見ていた山鳥さんからは想像もできない姿が、堪らなく怖くて、僕は首を縦に振るしかできなかった。 
「ふうん。言ってないんだ」 
「う、うん」 
「それってさ、証拠とかってあんの?」 
 山鳥さんの恋人は、僕を凄い目で睨みながらそう言った。冷たい表情の山鳥さんとは対照的に、怒りを隠そうともしていない。こんなに怒った女子を目にするのは、生まれて初めてだった。 
「証拠なんて、ないよ。証明するのも、無理」 
「はあ?」 
「香(か)耶(や)」 ほ

「だって詩穂」 
 恋人、かやさんの恫喝を、山鳥さんがとりなす。僕は張り詰めた空気に委縮してしまい、口が開けなくなる。昔からそうだった。怒っている人を見ると、怯えて何もできなくなる。 
「こいつが周りに話したら、あたしら終わりだよ」 
「そうだけど、あんな威圧的な言い方」 
「こいつが話さない保証とかあんの?」 
「それは、まあ、ないけど......」 
 山鳥さんが疑いの目を向けてくる。教室の隅から眺めていた、穏やかな眼差しはどこにもない。好きな人に疑われるのは、とても辛かった。 
「......狩谷(かりや)くん。気づいてるだろうけど、私はこの子、蝶野(ちょうの)香耶と付き合ってるんだ」 
「それは、うん。分かってる」「でも隠してるの。女同士だからって、変な目で見たり、からかってくる人っているから」 
 そう言った山鳥さんの顔は本当に冷たく、僕はぐっと胸が締め付けられる。 
 何があれば、こんな寒気のするほど怖い顔ができるのだろう。僕には分からない、想像もつかない悲しみや苦しみがあったのだろうか。 
 蝶野さんが、引き継ぐように口を開く。 
「だからさ、あんたが昨日見たことを誰かに話されたら困るんだよね」 
「い、言わないよ。絶対、誰にも」 
「信用できない」「そんな......」 
 当たり前と言えば当たり前かもしれない。山鳥さんとは信頼関係があるわけではないし、蝶野さんにいたっては今日初めて話す。 
 ただ、面と向かって信じられないと言われるのは、僕の人間性が足りないのかと思わされて、辛い。 
「とりあえずさ、携帯に写真とか残ってないか見せてくれない?」 
「い、嫌だよ! いくらなんでも無茶苦茶だ」 
「なに? やましい物でもあんの?」 
「それは、あるけど......。でも二人とは関係のないやつだよ!」 
「じゃあ見せてもいいじゃん。あたしら別にそれをどう
こう言うつもりないし」 
「プ、プライバシーってあるじゃん」「先に覗いたのはそっちでしょ?」  あんまりな発言に僕は絶句する。 
 人に見せたくないもの、恥ずかしい秘密なんて誰でも持ってる。それを見せないように、見ないようにするのが人としてのマナーだろう。 
 第一、僕が二人のキスを見たのはわざとじゃない。あんな所でしているのが悪いのに、覗き呼ばわりされるのは受け入れられない。 
 眠れないほど悩んだのに、最大限気を遣おうとしたのに、この仕打ちは酷すぎる。 
 だけど、それを言葉にすることができなかった。腹の底が熱くて舌がもつれる。蝶野さんの追及が怖くて、山鳥さんの侮蔑が辛くて、頭がまっ白になる。 
 山鳥さんはさっきから黙っていて、蝶野さんを止める気はないようだった。せめて何か言い返そうと思い、僕は勢いよく席を立つ。 
「あ、あのさぁ! そもそも二人が......」 
「きゃっ」 
 山鳥さんの短い悲鳴で、僕は我に帰る。  山鳥さんは震えていた。無表情だった顔に、今はっきりと恐怖が浮かんでいて、怯えた目で僕を見上げていた。  蝶野さんは、そんな山鳥さんをかばうように前に出た。  僕を睨みながら、だけど何も言わなくなった。下を見れば、山鳥さんの袖を強く握っている。 
 その瞬間、彼女たちが僕のことを怖がっていると、やっと気づいた。 
 山鳥さんは華奢で、体育は熱心さと結果のバランスがとれていなかった。身長も僕より頭一つ分小さい。喧嘩になったら、たぶん負けることはない。 
 蝶野さんは背が高くて、荒事にも耐性があるだろうけど、それでもやっぱり女の子だ。僕もバレー部でそれなりに頑張っているから、力は僕の方が強いはずだ。 
 僕は今さらになって、二人がどんな気持ちだったかを考える。 
 僕にキスを見られた時、二人はどう思った? 
 驚いた。焦った。混乱した。噂を流されないか怖くなった。 
 二人が隠れて付き合っていたのは、どうしてだ?  嫌なことがあったから。傷つけられたから。それでも、好きだったから。 
 二人が僕を責め立てたのは、なぜ? 
 ついさっきの僕と同じ。『被害者』だったから。  自分の行動を見返す。僕は誠実な対応をしただろうか。腹を割って話しただろうか。彼女らの気持ちを慮っただろうか。安心させようとしただろうか。 
 全て、違う。 
 改めて二人を見る。黙ったまま僕を見上げていて、さっきまでの気勢はもうなかった。パワーバランスはこっちに傾いていた。 
 落ち着くために、大きく深呼吸をする。 
僕はやっと、どうするのかを決めた。 
 二人を見下ろさないよう、僕は床に正座した。少しでも威圧感がなくなるように。 
「な、なにいきなり」 
「大きな声を出して、ごめん」 
 深く頭を下げる。土下座はしない。この状況ではそれも一種の脅迫になるかもしれないから。 
 山鳥さんと蝶野さんに向き直り、目を見て僕は言う。 
「それと、昨日はすみませんでした」 
「......」 
 二人は困惑している様子だった。僕の態度の豹変についてこれていないのかもしれない。 
「わざとじゃないんだ。忘れ物を取りにきただけなのは、本当なんだ。でも、二人に嫌な思いもさせたのも本当だから、ごめんなさい」  僕は携帯を取り出し、ロックを解除して二人に差し出す。蝶野さんはそれを受け取らずに、見下ろしている。 
「......なにそれ」 
「携帯に写真や映像が残っていないか、気が済むまでチェックしてほしい」 
「いいの狩谷くん? さっきは見せたくないって......」「そりゃ、見られたくないものはあるけど、それで山鳥さんと蝶野さんが不安じゃなくなるなら、いいよ」  少し言い過ぎだっただろうか。腹を割ってみせるのも、やり過ぎればやっぱり脅しになる。 
 山鳥さんは困惑したままだけど、蝶野さんはより警戒を強めたようで、険しい声で言った。 
「どういうつもり? 見せたくないって言ってたのに、な
んでそんな急に素直になったの?」 
「......僕が、二人の気持ちを考えていなかったから」 
「はあ?」 
 蝶野さんの威圧的な態度は、まだ少し怖かった。それでも、言うことにもう迷いはない。 
「僕は、僕にも、好きな人がいるんだ」 
「......それがなに」 
「その人と付き合えたら何をしようとか、どうイチャイチャしたいとか、そういう妄想もしたことがある。健全なやつも、ちょっと人には言えないようなのも」「あのさぁ、話しが見えないんだけど。いきなりエロい妄想してますとか告白されても困るだけだし」 
「それで思ったんだけど、恋人と一緒にいる所を邪魔されたら僕だって嫌だし、実際に見られた二人はもっと嫌だったと思う」 
「!」 
 僕が一番にすべきだったのは、LGBTの検索なんかじゃなかった。人を不快にさせたら謝る、単純でとても大事なことだった。それをしなかったから、二人を不安にさせて、ここまで話がこじれた。 
「山鳥さんと蝶野さんは付き合ってるのを隠してるから、余計に不安だったと思う。その気持ちを考えずに僕は自分の都合ばっかりで、それが申し訳なくなったんだ」 
「............」 
「だから、どうか二人の気の済むまで調べてほしい。僕が信用できないなら、携帯の中身を弱みとして握ってもいい。僕の周囲に迷惑をかけない範囲なら、二人を安心させるために何でもする」 
 もう一度頭を下げる。言うべきことは言った、後は二人の反応次第だった。 
 誰も何も言わず、聞こえるのは運動部の声だけになった。僕は机の影を見つめながら、二人の言葉を待った。 
「..................わかった」 
 ぽふ、と。 
 頭を撫でられる感触がし、僕は顔を上げた。しゃがんだ蝶野さんの顔が目の前にあり、僕は慌ててのけぞる。 
「なにその反応。傷つくじゃん」 
「いやえっと」 
「狩谷くん、携帯しまって。私たちもう狩谷くんのこと疑ってないから」 
 山鳥さんは軽く携帯を押し戻し、そう言った。その声色は穏やかで、いつも耳を澄ませていた、あの優し気な声だった。 
「言いがかりをつけてごめんね。そもそも私たちが不用
心だったのがいけなかったのに......」 
「あたしも酷いこと言い過ぎたわ。マジでごめん」 
 立ち上がる蝶野さんに、山鳥さんが寄り添うように立つ。二人のスカートの裾が目線の高さにきて、僕も慌てて立つ。 
「いやいや、僕も自分のことばっかだったし、冷静じゃなかったから」 
「それはあるわ。あたしが言えることじゃないけど、『なんでもする』とか、あんま言わん方がいいよ。変なことさせられるから」 
「ちょっと香耶」 
「ああまあ、そこら辺はだいぶ勢いだったというか......。あっ、嘘だったとかではなくてね?」「わ、分かってる、分かってるから」 
 悪戯っぽく舌を出す蝶野さんの頬を、何故か顔を赤らめた山鳥さんがつねる。もう剣?な雰囲気はどこにもなく、僕も胸を撫で下ろす。 
 咳払いをして、二人は真剣な顔で僕を見て、頭を下げた。 
「狩谷くん。改めてお願いなんだけど、私たちのことは誰にも言わないでほしいの」 
「あたしら、からかわれたくないだけなんだ。だから、お願いします」 
「それはもちろん。絶対に誰にも言わないから、顔を上げてよ」 
 どうこうしようなんて気は元々ない。二人が真剣に交際していることが分かった今は、なおさら話せない。「というか、そもそも僕が言いふらした所で誰も信じないというか、セクハラ?つき野郎認定されるだけというか......」 
「そうなん? あんた友達少ないん?」 
「香耶!」 
「あはは......」 
 友達はいるけど、僕もそいつらもクラスの中心ではないし、優等生の山鳥さんとの信用は比べるまでもない。噂を流した所で、山鳥さんの友達に袋叩きにされるだけだ。 
「とにかく言わないから」 
「うん、ありがとう」 
 そう言って、山鳥さんはふっと優しい顔で笑った。その笑顔を見て、僕は山鳥さんを初めて見た日を思い出した。最初に好きになったのは、確かこの笑顔だった。 
「それじゃあ、私たちもう行くね」 
「ありがとね。狩谷」 
「ああ、うん。気を付けてね」 
 鞄を手に取り、山鳥さんたちは言った。扉の方に振り返り、 
  
そして、手を繋いで互いに笑顔を贈り合った。 
   それを見て、僕は胸が締め付けられる。雷のように恋が体を駆け抜けた。 
 山鳥さんの笑顔は、僕が今まで見てきたどんなものよりも、綺麗で、優しくて、暖かくて、愛しいという気持ちで溢れていて。 
 でも、僕にそれが向けられることは、たぶんない。  一目惚れした瞬間に、思いは届かないと分からせるなんて、山鳥さんはとても残酷な人だった。  ぎゅっと胸元を握る。頭に渦巻く思いが、無意識にそうさせた。そうしないと頭がおかしくなりそうだった。 
「そうだ、狩谷くん」 
「はっえっ? な、何?」 
 ドアの所で山鳥さんが振り返り、僕は驚いて変な声が出る。 
「狩谷くん。さっき好きな人がいるって言ってたよね」 
「ああ、うん」 
 まさかあなたですとは言えず、曖昧な返事しかできない。山鳥さんはにっこりと笑って言った。 
「誰かは分からないけど、応援するよ。さっきの狩谷くん、かっこよかったし、きっと大丈夫だよ!」 
「──」 
 その言葉に、腹の底から急速に黒い感情が湧き出る。衝撃で飛んでいた嫉妬の心が溢れてくる。 
 よりによって、山鳥さんが言うのだろうか。僕の気持ちを振り回した、山鳥さんが。 
 いっそ今ここで告白してしまおうかと、暗い考えが鎌首をもたげる。さっきの会話も二人の気持ちも全部無視して、ぶっ壊すように。 
 僕はちらりと目線を下にやる。二人は、指を絡めるように、固く手を繋いだままだった。 
 大きく息を吸い、ゆっくり吐く。気持ちを落ち着けて笑顔を作る。大丈夫、大丈夫、言える。 
「ありがとう。でも」  言わなきゃならない。 
「実は、その人には最近ふられたばかりなんだ。まだ吹
っ切れてないってだけで」  言えた。ちゃんと言えた。 
「ええっ! ご、ごごごごめん! そうだったんだ」 
「うわー、詩穂やらかしたなー」 
「わー、うわー、ほんとにごめん......」 
「いいよいいよ。気にしないで」 
 僕が今一目惚れしたのは、蝶野さんに笑いかける山鳥さんの笑顔だ。だから、告白するのは、きっと違う。  おろおろする山鳥さんを、蝶野さんがなだめるように撫でている。困っているのに幸せそうで、僕は割り込めない。 
「あーえーと、そうしたら」 
 ごほんごほん、と咳払いをして、山鳥さんは僕を指さして笑った。 
「狩谷くんに、また素敵な恋が訪れますように」 
「──」 
 ああ。山鳥さんには敵わない。 
 山鳥さんは酷い人だ。ちっとも優しくなんかない。本当に、本当に酷い人だ。 
 だけど、 
「──ありがとう。がんばるよ」 
 好きになってよかったと、心から思える人だ。寂しさはあっても、後悔はなかった。 
「それじゃあね。ばいばい」 
 山鳥さんと蝶野さんは今度こそ行った。手を繋いだまま、二人で。 
 僕はふらふらと席に座り、息を吐きながら顔を撫でる。  時刻は五時二十五分。雲にオレンジが差し始める時間だった。 
 昨日から今日までを思い出す。僕は独りよがりで自分勝手で、それを深く思い知らされた。 
 何のことはない。 
 思春期には誰もが体験する、未熟と無知からくる、ありふれて酷く凡庸なつまらない普通の出来事があっただけだ。 
 僕は失恋して、少しだけ泣いた。 
 それだけだ。 
 それだけだったけど、  ありがとう。 
素敵な恋でした。 


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