復しゅーゲキ

走ル高麗人参



「おはよう、お姉ちゃん。今日もいい天気だね」
 妹は今日もまた同じ言葉を発した。姉は今日もまた返事をしなかった。姉妹はずっと同じような日を繰り返している。姉が事故に遭ったあの日から。

 姉は職場からの帰り道で車に轢かれた。運転手は救護の義務を果たさず、姉を置き去りにして逃げた。いわゆるひき逃げだ。
 もしあの時、運転手がすぐに救急車を呼んでいれば、姉は寝たきりにならずに済んだかもしれない。これは妹が医者から聞かされたことだ。
 運転手は、前科もなく、過去に交通違反もない初犯であり、今回の事故も飲酒や速度超過、無灯火などの過失がなかったことから、執行猶予付きの判決が下された。
 運転手からの謝罪は一度もない。姉をこんな姿にした男が、そんな罰にもならない量刑で許されてなるものか。

 妹は決意する。
 姉を傷つけた男への復讐を。
 司法が裁かないのなら、自らの手で。
 妹はまず男の情報を集めた。男のSNSを見つけ、アカウントの初投稿から最終更新まで読み込む。写真など文字以外のデータも徹底的に。もちろん、基本情報も見逃さない。複数種類のアカウントを分析して男の情報を整理した。
 男は中小企業勤務のサラリーマン。独身。彼女無し。家族構成は両親と弟が一人。父親は自営業、母親は専業主婦、弟は無職、どうやら引きこもりらしい。その弟と実家を離れ、アパートで二人暮らし。男の職場もアパートも、妹の家からそう離れていない。

 妹は男の職場に電話を掛けた。
「おたくの会社にひき逃げ犯がいます。○○という男です。被害者は今も寝たきりです」
 こんな具合の事を言った。一日に何度も、何日も何日も電話を掛けた。自分の携帯は使わず、公衆電話を転々として掛け続けた。会社のオペレーターは明らかに返事に困っていた。「申し訳ございません」と何に対しての謝罪か分からないことを言う者もいれば、「会社とは関係のないことです」と強気な対応をする者もいた。
 しばらくそんなことを続けていると、ある日、オペレーターから会社の上役であろう人物に引き継がれた。「被害に遭われた方には同情しますが、弊社の業務にも支障が出ますので、申し訳ございませんが、今後同様のお電話はご遠慮願います。これ以上続くようでしたら、大変心苦しいですが、然るべき対応をさせていただきます」だそうだ。先のオペレーターの反応をごちゃ混ぜにしたような内容だ。上辺だけの低姿勢では、滲み出る不快感を隠しきれていない。
 妹はこれを境に会社への電話を一切やめた。もう十分だと判断した。決して大きくはない会社だ。連日、名指しの電話をして、とうとう上役まで出てきた。それならば、解雇とはいかないまでも、男の立場は確実に悪くなったはずだ。同僚から向けられる批難の視線。どこからともなく聞こえる囁き声。目に見えない圧力に、男はただ精神を消耗させる以外、為す術がないだろう。

 妹は、会社への電話と並行して男の友人を標的にしていた。男のSNSから現実に仲のいい友人を数人見定め、やりとりを始めた。新しいアカウントを取得し、同一人物と怪しまれぬよう、男性と偽ったアカウントを活用したり、それぞれとやりとりを始める時期をずらしたりした。オンラインゲーム内のチャット機能など、様々なコンテンツで友人に近づいた。男の知人だといえば、だれも疑わなかった。
 他愛ない会話を続け、打ち解けた頃を見計らい、男の話題を取り入れる。不定期かつ簡潔に。ただの世間話のような軽妙さで。「そういえば、○○さんがひき逃げしたって噂があるんですが、知っていましたか」「○○さん、駅前で見ましたよ。若い女性と歩いていました。他人の空似でしょうが、あなたの彼女に似ていた気がします」「金融会社で働いているんですが、○○さんが来ましたよ。借用書の連帯保証人があなたの名前でしたが、本当に信頼しているんですね」
 時折、写真を添えて送った。男と友人の彼女が一緒にいる写真や、友人を連帯保証人にした借用書など。もちろん合成だ。そんな事実は存在しないし、写真の出来も画質が悪く、良いとは言えない。そもそも、写真を撮っていること自体おかしい。冷静に考えれば矛盾に気付きそうなものだ。
 けれど、男の友人関係はみるみるうちに崩れていった。妹が直接確かめたわけではない。その必要はない。頻?に更新されていた男のSNSが沈黙したのだ。男の投稿のほとんどは、友人との飲みやツーリング、釣りの思い出などで占められていた。それが途絶えたのなら、当然、先の結論に行き着く。

 妹の策略は、男の住むアパートにも及んでいた。二棟からなる小規模な団地だ。ごみ捨てついでに、主婦たちが井戸端会議に花を咲かせている。妹はそれに目を付けた。さも住人であるかのように顔を出し、主婦たちの間に溶け込んでいく。そこで男の友人達にしたように、男の噂を、あることないこと吹聴していく。
 それが真実か嘘かなどどうでもいい。平穏といえば聞こえのいい、暇を持て余した主婦たちにとっては、他人の噂はただの娯楽だ。家庭に持ち帰り、夫に話す。別の集まりで話のネタにする。悪意の無いそれは一度広がれば、回収するのはインターネット上よりも困難だ。

 職場、友人、近所付き合い。そして家族。地理的な世界は広いが、一個人のセカイなどこんなものだ。妹の復讐とは、男のセカイを壊すこと。もう少しだ。家族をどう壊すか。親元を離れた兄弟二人暮らし。ならば先に兄弟仲を裂くべきか。
 そんなことを考えていた時、妹のアカウントにダイレクトメッセージが届いた。男の友人の一人とやり取りをしていたアカウントだ。中身を確認すると、男自身からのメッセージだった。
「友人にあなたのアカウントを教えてもらいました。私について、思うところがあるようなので、一度会って話しませんか」
 妹の返信は「分かりました。図々しいとは思いますが、あなたの家にお邪魔しても宜しいでしょうか」だ。
 強引ではあるが、兄弟仲を裂く機会を逃すわけにはいかない。
 男の返答は「了解しました。では今週土曜日、十三時に××アパート△△号室へお越しください」だった。
 
 土曜日、妹は男の部屋を訪れた。
「はじめまして。ささ、中へお入りください」
 男は、妹を部屋に招き入れた。リビングテーブルにはコーヒーとお菓子が用意されており、まるで客人を迎え入れているようだ。妹と男はテーブル越しに向かい合って座った。
「単刀直入にお訊きします。あなたは、あのひき逃げ事故に遭われた方の親族ですね」
「妹です」
 妹は一切の動揺を見せずに答えた。そのくらいは見当がついて当然だろう。
「あなたの僕に対する一連の行為は、お姉さんを事故に遭わせたことへの復讐ですか」
「むしろそれ以外に何がありますか」
「そうですか。なら良かった」
 男が微笑む。
「もう少し質問します。あなたは、僕の弟を覚えていますか」
「もちろん。姉さんの、元恋人」
 妹は、気づいていた。男の情報を集めているとき、弟の名前が、姉の元恋人と同じだということに。
「何故別れたかは知っていますか?」
「......いいえ。ただ、彼氏のほうが一方的に去っていったとだけ」
 また男が微笑む。その笑みを張り付けたまま、語りだした。
「あなたは嘘をついている。あなたが仕組んだのでしょう? 僕にしたように。人間関係を滅茶苦茶にして、追い込んでいく。正直参りましたよ」
 妹は立ち上がりテーブルを拳で叩いた。カップが倒れてコーヒーがこぼれた。
「あなた達が悪いのよ。私から姉さんを奪ったんだから」
 男の笑みがますます深くなっていく。
「やはりそれが動機ですか。あなたのお姉さんの言う通りでしたね」
 立ち尽くしたまま、妹の表情が凍り付いた。こぼれたコーヒーが妹の服にシミを作っていく。
「どういうこと、とでも言いたそうですね。いいですよ、これから説明します」
 まずはコーヒーを淹れなおしますね、と男が倒れたカップに手を伸ばす。妹はその腕を掴んで阻止した。
「早く話して」
 男と妹は、最初のように座り直した。男は今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気で話し出す。
妹は俯いて膝の上の拳を握りしめ男の話を聞く。
「どこから話そうかな、弟が引きこもるようになった切っ掛けは君も良く知ってると思うから、そうだ、ここに引っ越してきたところからにしよう。僕らは実家暮らしだったんだけど、君がご近所さんに出鱈目ばかり吹き込んでくれたおかげで、居づらくなってね、僕の職場も近いし、ここに逃げてきたんだ。もうお姉さんとは別れた後だったのに、すごい執念だよね。でも、さすがにここに引っ越してきてからは、君からの嫌がらせも無くなった。それからしばらくして、君のお姉さんから、僕の会社に連絡があったんだ。付き合ってるときに、弟から聞いてたらしいよ。それで、仕事終わりに君のお姉さんに会って、君のことを知ったのさ。君が僕の弟にしたこと全部ね。君は何も気づいてないと思ってたのかもしれないけど、お姉さんは全部知ってたよ」
 男はすっかりぬるくなったコーヒーを啜った。
「それからお姉さんと何度か会って、今回の事件の計画を立てたのさ。あのひき逃げ事件のね」
 妹は顔を上げ、男を凝視した。
「どういうこと? 姉さんは事件が起こることを知ってたの? 意味が分からない」
「本当に分からない? 君が僕や弟にしたことと同じだよ。お姉さんは、彼氏を奪われたことに対する、もっと他にもあるんだろうけど、君への復讐をしたんだよ。君からお姉さん自身を奪うことによってね」
 妹は勢い良く立ち上がった。コーヒーのカップがぐらぐら揺れる。
「適当なこと言わないで! 姉さんがそんなことするわけない! 仮にそうだとして、どうしてあなたが協力するのよ! だって姉さんを殺そうとしてたんでしょ、どうして姉さんの復讐であなたがそこまでするの? 犯罪者、殺人犯になるんだよ?」
 男は目を丸くした。
「それも分からない? 君なら分かると思ったんだけどなあ。これも君と同じだよ。僕にとって弟が何よりも大事なんだ。その弟の幸せを、君が踏みにじった。絶対に許さない。あの事件は、僕の君への復讐でもあるんだよ」
「は、はは......」
 妹の口から乾いた笑いがこぼれる。

 ガチャ
 リビングのドアが開いた。
「兄貴、今の話本当なのか? 事故ったのは聞いたけど、相手がいたなんて......。わざと彼女をはねたのか? 兄貴、兄貴が、お前が! 彼女を殺そうとしたのか?」
 男の弟がふらつきながらリビングに入ってきた。男は慌てて立ち上がった。
「お前、ネカフェに行ったんじゃなかったのか」
「知らない奴からメールが来たんだよ。今日、女が兄貴を訪ねてくるから、隠れて話を聞いてろってな。彼女のこと話すからって......」
 そのメールは妹が送りつけた。男の兄弟仲を裂く計画、つまり男が弟の元恋人をはねたことを伝えるという計画の事前準備だった。
 弟はおぼつかない足取りでキッチンに向かう。収納を開ける音がして、次の瞬間には手に包丁が握られていた。
 それを見た瞬間、男の顔からすっと血の気が引いた。
「......お前、兄貴、あにき、お、お前のせい、で......」
 文章にならない言葉を呟きながら、弟はよろよろと男に近づいてゆく。男は逃げなかった。いつのまにか、顔色も元に戻っている。刃が振り上げられても、それを己の首に突き刺されても、男はただ、穏やかな表情で弟を見つめていた。
 妹の目には、赤一色しか映っていない。天井も赤、壁も赤、近づいてくる、弟も、その手の包丁も真っ赤。
「赤は私たちが生きてるって証の色なのよ。だから、お姉ちゃん、赤が一番好き」
 幼いころ、姉との記憶。これが姉を見た最期になった。

 「おはよう」の声が聞こえない。大嫌いな妹の声が。確かに姉は意識不明の状態にあった。けれど、何故か妹の声が聞こえる気がして、意地でも目を覚ましてやるものかと、ない意識の中で考えていた。それが、妹の声が途絶えたのだ。姉は目を覚ました。眠り続けていたころの不思議な感覚はまだ残っていて、何故だかもう、妹に会わなくていい気がした。解放された。姉にはそんな確信があった。
「まあ、目が覚めたのね! 良かった」
 姉が目覚めたことに気付いた看護師が話しかけてくる。心の底から喜んでいる、そんな看護師の表情は医師の診察を受けている間にすっかり剥がれ落ちてしまっていた。
「私が眠っている間に何か、あったんですか?」
 期待を隠しながら、看護師に尋ねる。
 看護師は躊躇いながらも、ため息をついて話し始めた。
「気を確かに持ってね。あなたの妹さんが、殺されたの」
 姉は歓喜を抑え込んで、精一杯ショックを受けているフリをした。
「それでね、その、自首した犯人が、あなたの元カレだって言ってるらしいのよ。その男、自分の兄も包丁で刺したみたいだし......」
 姉にはもう看護師の声など聞こえていない。


さわらび122へ戻る
さわらびへ戻る
戻る