あなたの名前ではない名前

加江理無




 手がかりは、利き手とあんたの想い人の名前。


※  ※ ※

 何一つ変わらない、いつもの夜。お勧めの店があるのだと、連れてこられた店で酒を頼み、その友人がトイレから出てこなくなった頃合いに店を出た。外の冷気を心地よく感じながら、ちらりとスマホを一瞥。示された時刻は日付が変わって暫く経っていることを告げていた。とうに終電を逃している時間に、またか、と舌打ちを零す。
「おい、起きろよ」
「......」
 肩にもたれかかったままの友人に声を掛けるが、反応はない。もう一度舌をならし、友人を半ば引きずるようにして歩き出す。しばらくして到着した最寄りの駅で、適当に捕まえたタクシーに友人を放り込む。店を出るときにはまだ飲めるのだと騒いでいた友人だったが、この頃にはすっかりおとなしくなっていた。普通なら家まで送ってやるべきなのだろうが、コイツのこれは酒を飲んだ時のお決まりのパターンである。むしろここまで送ってやったことに感謝して欲しいくらいである。
 走り去るタクシーを見送りながら、未だアルコールが入った頭でこの後のことを考える。気分的にはこのまま次の店に行っても良いのだが、生憎明日も講義がある。もう既に二回の欠席を記録しているのでこれ以上の欠席は許されない。カプセルホテルに泊まるか......いや、アプリで送迎を頼んだ方が安いか? そう思ってスマホを開くと、左上部分に先ほどには無かったアイコンが目に入った。女が好みそうなハート型のアイコンは、最近使っている出会い系サイトのアプリだ。何気なくアプリを開くと以前からメッセージを交わしていた女からの返信が来ていた。
 
[よしひとさんはいつも何をされているんですか?]
 
 よしひと、とはサイト内での俺の名前だ。まあ、友人の名を拝借したのであって、本名とは全く被らない偽名ではあるのだが。
[居酒屋巡り。今も駅近くで歩いてる]
 忘れる前に返信しておこうと、端的にメッセージを送る。すると、送信した直後に既読状態になり、すぐにメッセージが返ってきた。
 [そうなんですね。私も今駅近くにいるんですよ]
 その後に、今から会えませんか、とメッセージが続いた。
[今から?]
[もし良かったら]
 アプリを通して女と会うのは初めてではない。特別、断る理由もなかった為、女の誘いに承諾する。この時間帯に男女で会うということは、まあ、そういう意思があるということだろう。今晩のホテルが決まったな、そう思いながら女が待つ場所に向かう。駅から近く。そう遠くもない待ち合わせ場所には女への想像を膨らませている間に到着した。時間のせいもあってか、周囲に人はほとんどいない。腕を組みながら歩くカップルと、水商売の男女が数組だけ。その中で、携帯を持ったまま佇む女を見つけた。
「すみません」
 声を掛ける。背後からかかったはずの声に女は少しも驚いた様子を見せず、ちらりとこちらを一瞥。少しの間だけ重なった目線は、興味がないのだといわんばかりに逸らされた。
「ようこさん、ですか」
「......ええ」
 サイトに登録されていた名を口に出すと、女はようやく振り向いた。特に良くも悪くもない顔立ち。街中ですれ違ったとしても気づけないような、所謂量産系。強いてあげるとするなら、一度も染めたことがないような艶やかな黒髪だけが特徴的だ。特別タイプでもない女だが、ゲテモノと比べれば幾分もマシだろう。
 女は小さくうなずいた後は、殆ど無言で歩き続けた。俺から話題を振っても相槌で返されておしまい。向こうから誘ってきたににしては余りにもつれない反応だ。その態度に舌打ちをこらえながら、こちらも黙って後を追った。
 女に連れられて辿り着いたのはとあるバーだった。そう大きくもない、こじんまりとした店。煉瓦で作られたその店は、騒々しい街からかけ離れた世界のように薄暗く照らされていた。扉を開けて中に入ると、店内も同様に薄暗い照明で照らされていた。
 カウンター席に座り、酒を注文する。余り混んでいないからなのか、頼んだ品はすぐに出てきた。俺はスクリュードライバーを、女はカシスオレンジを。俺はぼんやりと、橙色と紅紫色のグラデーションがマドラーで台無しになる様をぼんやりと見つめていた。その中でふと、彼女がグラスを手にするのを見留めた。
「左利きなんて珍しいよな」
「......」
「プロフィールに左利きって書いてあっただろ? それで、どんな子か気になってメッセージを送ったんだ」
 これは本当のこと。女のプロフィール欄には「左利きです」と、一言だけ書かれてあった。他の女が趣味や職業など話のネタになりそうな事柄を書き連ねたのとは対照的だった。それを見て、そういえば左利きの女と遊んだことはなかったかもな。ふうん、左利き。そんな具合でこの女に目を付けたのだ。
 女は、ふうん、と気の抜けた声を吐いた後、また黙ってしまった。俺はもう、無理に話題を振ることなく手元のアルコールを引き寄せた。一杯、二杯とグラスをあけ、ついでとばかりにおつまみを腹に入れる。どうせ俺が払うことになるのだから、気にすることはない。舌も鼻もきかなくなった頃合いに、また新しく頼んだグラスを傾けた。
「それ、おいしい」
 小さくかかった声。俺に尋ねているのか、それとも味を主張しているのか、いまいち判断しかねる声音だ。照明が薄暗いせいで表情からも読み取れない。分かりにくい女。心の中で吐き捨てながら、ただ一言、ああ、とだけ返した。それからまた、アルコールを一口含んで女を見やった。
「ようこさんは、何でこのサイトに登録したんだ?」
「......」
 女はカシスオレンジが未だに残ったままのグラスを爪ではじいた。マニキュアの塗られていない、しかし透明感のある爪。女が小奇麗にしていることに対して少し意外に感じながら、指先をまじまじと見つめた。その間にも女は沈黙を貫き、それから暫く経ってようやく口を開いた。
「友達に、彼氏ができたから」
 友達。阿呆のように女の言葉を繰り返した。何の話をしていたか、と一度目を泳がせる。ああ、そうだ。理由だ。ここにきてようやく、自分の問いがくだらないものであったと思い至る。出会い系に登録するなんざ、遊ぶ相手を探しているか、パートナーを探しているかの二択に限られるだろうに。俺は今度こそ、女に気遣うことなく舌打ちをした。女は、そんな俺の様子など意に介さず話を続ける。
「それに嫉妬したの。その腹いせ」
 嫉妬、嫉妬ねぇ。女の言葉に何とも返せず、つまみを手にしたまま言葉に詰まった。
「......今までに彼氏ができたことは?」
「私が?」
「そう、あんたが」
「一度だけ。洋子に彼氏ができてから。特別好きでもない男と、ね」
「ようこ。それが友達の名前?」
 女は質問には答えず、ただ自嘲するかのように微かに口の端を吊り上げた。それからもう一度、女はグラスを鳴らした。カツン、と音が響く。
「友達から何か言われた?」
「......貴方が決めたんなら別に良いんじゃないって」
 私もやったことあるし、って言われたわ。
 女は無表情で、それでも腹立たしそうに告げた。グラスから離れ、組まれた指。殆ど動かない顔の代わりに指が次々と表情を変える。
「彼氏ができたって聞いた時、訳わかんないくらいに嫉妬して、ラインには死んでしまえって送って。最後にはおめでとうって返してやったわ」
 イイ女でしょう?
 女はその一言を流すように、グラスを空にした。カン、と軽い音をたてた。俺は何となく、ああ今だろうなあ、と感じて。
「それでも俺と会ったのは」
 肘をついた女の腕を強く、引き寄せる。
「全部台無しにしてやりたくて?」
 女からは、微かに金木犀の香りがした。

※  ※ ※


「羨ましかったわ」
 肌触りの良いシーツに転がった女が、また一言啼いた。
 羨ましい。羨ましい。あの子を彼女にできる男が羨ましい。恨めしい。
 何となく、そういっているような気がして、何度も頷いて。それから女の唇を塞いでやった。


※  ※ ※

 起きなければ。ふと、そう感じて目を開く。ジクジクと鈍く痛む頭を押さえて起き上がると、周囲には見知らぬ家具ばかり。少しの間、呆けたように辺りを見渡すが、そこでようやく自分がいる場所に思い至る。連れ立ってホテルに入ったはずの女は既に消えており、何の痕跡も残っていない。最後まで愛想のない女だなあ、なんてぼんやりと思った。
 ふとスマホを確認すると、時刻は七時を示していた。なるほど、単位の為になけなしの危機感が仕事をしたわけだ。朝飯でも頼もうと、ホテルの電話を探す。ああ、そういえば、あといくら持っていたか。覚束ない足で歩きながら、財布を探す。シーツに埋もれているのだろうか? ない。棚の上には? ない。もしかして廊下に落ちているのかも? ない。部屋を一周して、ようやく見つけたのは小さな紙きれ。

[ホテル代ぐらいは払っておいてあげるわ]

 紙を裏返して、部屋をもう一周回った。それから先ほどとは別の意味で頭を抱えた。
「......あんのクソ女」

※  ※ ※

「それからというもの、俺の頭からは彼女のことが頭から離れなくなった」
「どんな女性といても、いつだって彼女のことが脳裏によぎったもんだ」
「また財布を盗られたらどうしよう、ってね」
「今度盗られるのは財布と限った話じゃあないしな」
「結局、その女性はどうしたのかって?」










「ちゃんと捕まえたに決まってるだろう? じゃなきゃお前は生まれてこなかったよ」


さわらび122へ戻る
さわらびへ戻る
戻る