冬は君に会える!

葦夜るま


 息を吸うだけで、喉が凍てつくような場所で生まれた。
 お母さんどこ、とすれ違うこどもが泣いていた。街は賑わっていて、それもそのはず、もうすぐ新年なのだ。街中にヨールカが飾られ、行き交う人々は、忙しいながらも楽しげな笑みを浮かべている。
「ねぇ、ボク、大丈夫?」
 向きを変えて、さっきの男の子に声をかけると、涙の凍る上から泣いていた。やわらかそうなほっぺをぬぐってあげる。
「お母さんがいないの」
「うん、じゃあぼくと一緒に探そっか」
 ね? と、茶色の手袋を嵌めた手を差し出すと、男の子はやっと笑った。
 
「お兄ちゃん、ありがとー!」
 ニコニコ笑顔の男の子は、お母さんに手を引かれて去っていった。よかった、家族と離れ離れは寂しいもんね。ぼくは何処に行こうかな。人に踏みしめられて固くなった雪の上をてくてく、歩く。ヨールカの下や電柱のそばに、スニェグーラチカが立っているのをぼんやり見ながら通り過ぎる。
 スニェグーラチカ。ジェット・マロースの孫娘で、雪の姫。長い銀の髪に、青と白の毛皮を身にまとった少女たち。この季節になると、どこからともなく沢山やって来て、夏までには消えている。言葉は話さないし、ほとんど表情も変えない。それでも、ミランはスニェグーラチカがきれいなので好きだった。
「あいたっ」
 余所見をしていたせいか、誰かにぶつかった。じんじんする鼻を押さえて見上げると、どうやら男がいた。ミランがフードを被っているせいで、見上げてもよく見えないが男は笑顔ではないようだった。
「ごめんなさい、おじさん」
「どこ見てるんだよ! 糞餓鬼が」
 来い! と乱暴に腕を掴まれて、裏路地へと連れ込まれる。大通りをそれれば治安の悪いこの街で、哀れなこどもを助ける物好きはいない。
 誰もいないところまで入ると、地面に転がされ、顔のすぐ近くを男が踏みにじる。お前の顔面をそうしてやってもいいんだぞ、と言わんばかりだった。
「今丁度、苛々してたんだ。付き合えや、坊主」
 無精髭を生やした男がそう言って、ミランに向かって黄色い歯を見せた。
 
「ゆ、ゆるしてくれ」
「え? どうして」
 ザク、と軽い音を立てて(まるでパイを切り分けたような!)男の肘のあたりが壁に縫い止められる。煉瓦の壁に悠々とナイフの先を食い込ませる膂力が、小さな体のどこにあるのか皆目検討もつかない。そんなの、ミラン自身にだって分かっていなかった。ただ、生まれた時から人と違うということしか。
 濁音混じりの悲鳴をあげた男の、腕にも、足にも、脇腹にも、まるでダーツの的にでもされたかのようにナイフが突き刺さっていた。男の足は最早地面についておらず、本当に、あはは、壁にはりついてるみたい。
「ぼくと、遊んでくれるんじゃないの?」
 相当な箇所を切られているのに、地面には僅かの血が滴るだけ。極度の寒さの中で、皮膚も血管も収縮し、傷口が拡がらないのだ。それだけで抑えきれず溢れた血は分厚いコートに吸われている。
「い、いやだ。たすけ」
 ちょっと上の方は刺しにくくて、やっぱり椅子を持ってきたのは正解だったのかな。ゴミ捨て場に置かれていた、かびた椅子の上に立って、おっと、とバランスをとる。
 手を伸ばして、戯れに指をさしこむと、にゅる、と気持ちいい感触がした。
「え......?」
 男の不思議そうな声。失血の為、意識も痛覚も朦朧としていた。ミランは手に取ったものを、男のもう片方のそれによくみせてあげる。
「みて、自分の顔、鏡なしでもよく見えるねぇ」
 ぷに、と弄ばれているそれが、己の眼球なのだと一瞬遅れて気づいた男は、喉が張り裂けるくらいに絶叫した。もっともそれは男の悲鳴も女の嘆きも茶飯事のそこで、当たり前のように聞き流されていった。恐怖に薄れていく意識の中男の目に焼き付いた、自分の目と、それと、翠とも碧ともつかぬ色。
 
「ふん、ふふーん」
 讃美歌を口ずさんで、元いた通りを歩く。さっき手に入れた古びた財布から何ルーブルか取り出して、露店でコズーリャを買う。人型やシェーヴェルニィの形をしているそれは、にっこり笑った顔が描かれていて、ミランまでにっこりしてしまった。
 パキ、とその顔を食べる。ぐちゃぐちゃ、口の中で崩れてく。ごくん、飲み込んで、今度は手を食べてみようとした時、あ、とミランは声を上げた。
「忘れもの......しちゃった」
 手袋が片方ない。首をかしげ、そういえばさっきのおじさんのところかもしれない、と考えた。
「うんうん、て、寒いのやだしね」
 踵を返して、コズーリャを食べながら歩くこどもを、すれ違う人々はあたたかい目で見た。
 
 女の人の声や、怒鳴り声が響く裏路地を通って、おじさんを置いてきたところに戻る。その途中に、男の足跡と、自分の足跡とは違う、小さな足跡があるのに首を傾げた。だれか来たのかな。路地を進んで、突き当たり、曲がったところでミランはそれを見て、目をぱちくりさせた。
 壁にぶらさがっていたおじさんが、地面に落ちている。そして、その体に覆いかぶさった、女の子。
「スニェグーラチカ......?」
 それは、この季節だけ見る、雪の姫によく似ていた。違うことと言えば、普通は青い毛皮と白銀の髪が、色をなくしたような雪色をしていることくらい。
「......だ、れ?」
 ミランが呟いたのに振り向いたその少女は、唇からしたたる鮮烈な赤を拭おうともせず、白い毛皮を汚しながら、首を傾げた。その瞳も金色じゃなくて、薄紫色をしている。あ、ミランは気が付く。すっごく可愛い子だ、って。
「ぼくはね、ミランって言うんだ」
 駆け寄って、手を差し出す。
「君は、なんていうの?」
 少女は出された手には戸惑った顔をしたまま、「キールカ」とあどけなく高い声で答えた。
 
 手袋は、おじさんの近くに落ちていた。よかった、結構気に入ってるから。ミランは、キールカを椅子に座らせて、煉瓦の壁に凭れかかっていた。
「ねぇ、なんで、食べてたの?」
 おじさん、おなかの中身が減ってるし。それをしたのは目の前の彼女に違いなかった。赤く汚れた毛皮は、彼女が手をひとふりすると、真っ白に戻った。雪が降っている時は、そんな魔法も使えるんだって! スニェグーラチカとおしゃべりするなんて初めてだったし、こんなかわいい子に会ったのもはじめてで、ミランは少しどきどきしていた。
「おいしいの?」
「......わからない、けど、あったかいのね」
 人の身体って。ミランはこくりと頷く。
「うん、でも、新鮮だともっとあったかいよ!」
「......すごい」
 キールカは?そう聞いて、手を差し出すと、今度は素直に右手が伸ばされる。自分の手袋を外して、彼女の手袋も外して、ちょんと指先を触れ合わせてみた。
「えへへ、なんか照れるね」
 彼女の指先はびっくりするくらい冷たかった。ぎう、と人差し指の先を握ると、とろりと蕩ける感覚。慌てて手を離すと、彼女の指先から水が滴っていた。彼女はびっくりしたみたいに手を引っ込める。
「あつい......やけどしそう」
「ごめんね、痛かった?」
「ううん」
 降りしきる雪の中に手先をつけて、数秒すれば、雪から引き抜かれた彼女の手は元通りになっていた。そっか、スニェグーラチカって雪でできてるんだ。だから、あったかくなると消えちゃうんだね。
「ひとになりたいの」
 手袋をはめなおしたキールカは言った。白い睫毛に雪が乗っている。瞳の色は、紫色に雪をとかしたみたいな淡い色。帽子も手袋も白くって、雪に寝転がったら、見失ってしまいそうなくらいだ。
「だから、食べたら、なれるかと思って」
「そっかぁ。なんで、ひとになりたいの?」
 ひとになったら、魔法とか使えなくなっちゃうかもよ?そう言うと、彼女は伏せていた瞼を上げる。
「わたし、はんぱものだから」
 スニェグーラチカはみんな、一緒の格好をしている。青い毛皮に帽子に手袋、明るい金色の瞳と白銀の髪。けれど、キールカは色素がいっとう薄かった。髪は白銀というより、曇りのない白だし、瞳なんて、金色はどこにも見当たらない。
「みんなわたしをのけものにするわ。でも、ひとでもないから、あたたかな家には入れない」
 さびしいの。とっても。
 彼女は言った。
「だれかといっしょがいい」
 毛皮を青く染めたって、瞳の色は変えられない。スニェグーラチカだけど、スニェグーラチカじゃない。でも、いっぱい人を中にいれたら、もっとひとになれるかもしれない。
 ふらふらと、毛皮からでた茶のブーツを揺らしながら、彼女は言う。そのつま先がかわいくって、かなしげな顔がかわいそうで、キールカの笑った顔が見たくなった。
 ミランは、うん、と頷いて、壁から離れる。そして、手袋越しに、キールカの両手をぎゅっと握った。
「うん、わかった。じゃあ、きみのために、いっぱい人間をあげるね!」
 小さい子も、大人も、男の人も、女の人も。たくさん、たくさんあげる。きみがひとになれるよう、ぼくが応援する!
「だから、あのね、」
 ミランは恥ずかしそうに目を逸らした。心臓がばくばく音を立てている。がんばれ、言うんだ、ぼく。
「だから、ぼくのともだちになってくれない?」
「え......?」
 びっくりしたみたいに、ぱちぱちってキールカが目を瞬かせる。そのぱちぱちに合わせて、目の前がきらきら輝いたみたい。
「うん、いいよ。今日からともだちね」
 ややあって、そう言って少しだけ笑ったキールカに、ミランは天にも昇る心地になった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ね、おいしい?」
 机に両肘をついて、対岸の彼女を見やる。キールカが溶けてしまわないよう、暖炉の火は最低限。町はずれの、冬の間は誰も寄りつかないような小屋で、「お食事会」をする。
「うん、ミランは食べないの?」
「んー、ぼく、あんまり好きじゃなかったから」
 コズーリャの方がいいや。そういうと、彼女はふうん、と言って、またフォークを動かし始める。最初はもつのも難しかったのに、今ではぎこちないながらも刺して口に運ぶことができるようになった。ひとは、皿に顔をつっこんだり、手づかみでものを食べたりしないんだよって、教えてあげたんだ。
 木目の目立つ古びたテーブルは、ふたりが向かい合って座るのにちょうどよいくらいの大きさだ。椅子は大人用だから、ミランはつま先をふらふらさせているし、きっと彼女もそうだろう。テーブルクロスは、初めの何回かは敷いていたけれど、あんまりにも汚してしまうから取った。そろそろ、使っても汚さずに済むかもしれない。
 赤いというより、濃いピンク色の肉が、彼女の舌に乗る。舌の色もひとより淡い彼女が生々しい肉を食べているのは、どこか本当じゃないみたいだった。
「ん、ん」
 飲み込むときに、少し喉につっかえる感覚がして慣れないのだと言っていた。だから、もっとゆっくり噛むといいと教えると、キールカは本当にゆっくり、何度も何度も噛んで、やわらかくしてから飲み込むようになった。上の歯と下の歯を離してはくっつける度、彼女の口元が動くのを眺めるのが好きで。食べる、ということをしたことがなかったようで、たまに口の端から肉汁を滴らせる。そういう時は、ミランが拭いてあげるのだ。内臓液が口の端に滲むのに、ミランは仕方ないなあと頬を緩めた。白い布でふき取ってあげて、また食べるのを眺める。やがて彼女は皿の上のものを全部口に収めて、ふうと息をついた。
「食べられた?」
「うん」
 キールカは、あまりいっぱいは食べられない。でも、新鮮なものを食べさせたいから、毎回、ひとつのからだから採ってくるのは少しだけだ。その代わりに、いっとう美味しそうな場所や、栄養のありそうな場所を切り取っている。今日は肝臓だ。煙草も吸わないし、まだウォッカも飲めない年頃のこどもの。
「ごちそうさまでした」
 カトラリーを置いてそう告げるキールカに、名残惜しいと思いながら、「うん」と返事をした。
 
 キールカがベッドで眠っているのを、椅子に座って眺める。実際眠っているのかは知らない。スニェグーラチカは夜になると山の方へ消えてしまうから、誰も寝ているのを見たことがない。出会ってすぐは、広場で待ち合わせをして夜には別れていたのだが、気づけばこの小屋で夜を過ごすようになった。勿論、ミランは寝ているかもしれないキールカを起こすようなことはしない。ただ、眠れない夜は、じっと見ていた。
 呼吸は、しているように見える。心臓は動いているのだろうか。ミランはキールカのことをあまりよく知らない。キールカは口下手で、おまけに殆ど人と喋ったことがないから、何を話していいのか分からないらしいのだ。ミランに聞かれたことは、何の衒いもなく答えるが、それだけ。そもそも自己があまりないから、好き嫌い、なんてものも少ない。
 やっぱり、かわいいな。ミランはキールカを見ていつもそう思う。キールカと出会って数週間が過ぎて、どんどんかわいくなってるようにも見える。だって、一緒にいたら、ちょっとだけど何を考えてるのか分かるようになった。ぼくが獲物を探しに出る時は、すこしだけ悲しい顔。おいしいところを食べた時は、ほっぺたがほわってする。綺麗な花を見た時は、嬉しそうにこっちを見る。どれも新鮮で、もっともっと見ていたくなって。眠っている顔も、好きだけど、すこしだけこわくもなる。溶けて消えちゃいそうなくらい白くて、肌の下に赤い血がないせいかな。首筋も、浮き出たところがひとつもなくただ細くて白い。たまにのぞく手首も、ぼくの親指と中指でぐるっと囲めてしまう。ナイフを刺しても、やっぱりすぐに塞がるのかな。溶けた指が元に戻ったみたいに。
「あ」
 気づいたら、椅子を離れて、ぼくはベッドに座っていた。軋む音に気づかなかったのか、キールカは目を開けない。その瞼も、青みがなくただ透き通る白で。
「ミラン?」
 唇がくっついてしまいそうなほどに顔を近づけた時、キールカは目を覚ました。ミランは慌てて後ずさる。
「ごめんね! 起こしちゃった......」
 どきどきと心臓がうるさいのは、近くで見た彼女の瞳がものすごく綺麗だったから?
「いいよ」
 こちらを見るように首を曲げた彼女が、口を開く。
「どうしたの?」
 この寒さで、喉を凍らせてまで鳴く鳥も、虫もいない。ただ静かな帳が落ちている。自分のささやかな息遣いだけがその場に響く。
「キールカって、心臓、うごいてるのかなって」
 言えば、彼女は首を傾げた。動悸は大分収まっていて、好奇心の方が勝ってきている。
「わかんない。きいてみる?」
「......いいの?」
「うん」
 おいで、とでもいうように、彼女がこちらに小さな手を伸ばしてきていた。ミランはそっと近寄って、その胸に耳をあてる。
「............」
 ミランの頭に手をあて、まるで抱きしめるみたいな格好になったキールカがどう?と聞く。その言葉の振動だけが、その体の中で跳ねまわっている気がした。
「なにも、きこえないや」
 でももうちょっと、こうしてていい?
 そう聞くと、またいいよと返ってくる。冷たい手が、溶けない程度に髪の表面を撫でている。ミラン?と聞く声に、まだ、と呟いた。建付けが悪いせいで、閉め切った窓からわずかに月の光が入ってきて、シーツの上を青く照らしている。まるで、ここが世界の中心みたいだ。
「あったかい」
 あったかい。気がする。そう言ったら、キールカはぜったいミランの方があったかいよと言った。
『人殺し!』
 ふと思い出す。ぐわん、と今でも頭の殴られるような声。誰のだっけ。ぼくをよく叱った声。でも大好きだった。細い体が震えていて、かわいそうだ、って思ったことは覚えている。かわいそうで、かわいくて、静かにしてあげたかった。手元には濡れたナイフがあって、それは簡単に持ち上がって、ぼくは。
 気づいたら、その人は壁に凭れて眠っていて、ぼくはそのそばに座り込んでいた。流れ出す血がぼくの服の裾を染めていく。触れてみると、からだはまだ暖かくて、ぼくはなんとなくまたナイフを振った。振って、今度は深く刺して、抉って。
 とく、とく、と命の音を響かせるそれが、折った骨の合間から出てきて微笑んだ。ナイフを投げ捨てて、両手でそれをもつ。大事なものみたいに。ぺちゃ、とすこし気持ちいい感覚に、ぼくは自分の頬もそれにあててみる。とく、とく。耳元で聞こえた、脆く息をする心臓。すり、と頬が赤くなるのもかまわずすり寄った。動かないからだはまだ柔らかくて、隙間のないようにくっつく。胸がぽかぽかして、ミランは笑み崩れる。
「えへへ......あったかいなぁ」
 その人が、いちばんあったかかったのはその時だった気がした。
「ひとって、死ぬ前はもっとあったかいのね」
 キールカがぽつぽつと話す。キールカの横に寝転んで、寝物語の気分で聞いていたミランはそれに頷いた。
「うん、死んだときって、お腹の中もすごくあったかくて、落ち着くんだ」
「ふーん......ちょっと、見てみたいな」
「あ、じゃあ今度一緒に来る?」
「いいの?」
 ミランはこくりと頷いた。彼女のお願いなら何でも聞いてあげたくて、それにまさか、丁度あの連中に見つかってしまう日にキールカを連れて行ってしまうなんて思っていなかったから。
 
 
「ほんとだ、あったかい」
 内臓の隙間に手を差し込んで、キールカはほうと息をつく。手を再び出した時には、血と水が溶けたのとで、彼女の指はぐちゃぐちゃだった。彼女が指先を雪に浸すのを横目に見ながら、ミランはどこの部位をキールカに食べさせるか検分する。この人は、子宮が綺麗な色をしているから、そこをあげようか。
  キールカは、もし人間になったらこどもを産めるのかな。年相応にませた思考が浮かんで、ミランは頬を赤くした。そしたら、ぼくと結婚してくれたりしないかな、なんて。だってキールカはかわいくて、かわいくて、一緒に暮らせたらどんなに楽しいだろう。
 そんなことを考えて一瞬気が逸れていたのが悪かった。物音に身体を固くした時にはもう、背後にジャカジャカと、ミランにしてみれば五月蠅い銃器の音らしきものをさせた男たちが迫っていた。
「そこで何をしている!」
 その声に振り向く。隣のキールカが少し怯えたようにしているのに、自分の背に庇った。
「......ミラン、だれ」
「自警団だ」
 そこにいたのは、数人の男だった。いつもの奴らとは違う、光の薄い瞳。つけているバッジでこの街の警備を司る集団だと知れる。それ自体に会ったことがない訳ではないが。
 慣れてる。ミランと同じ、例えば今構えている銃の引き金を引くのに躊躇いのない人間だと一目で分かった。いつも巡回しているような、気の抜けた民間人ではないことは確か。
「キールカ、ちょーっと避けてて」
 初射がくる。まずは足か、それとも腕か。何発避けられるだろう。自分一人ならどうとでもなるけれど、キールカを庇わないといけない。
「きゃ」
 ごめん、心の中で謝る。勢いよく突き飛ばしたせいで、キールカは地面に転がってしまったみたいだった。痛かったかな。いたいって気持ちがあるのか分からないけど。
 パン、とその瞬間乾いた音がして、耳が酷く熱くなった。そこに手をやると、べとりと濡れる。
「今度は足を撃つ」
 最初に足を狙った方が逃げられないのに、子供相手だからと油断したか? いや、キールカを置いて逃げることはしないと、悟っているのだ。どうしようか、ひきつけている間にキールカが逃げてくれたらいいのだけれど。その意味をこめてキールカを見詰めたミランは、息を詰めた。
「あ、」
 キールカが、呆然とこちらをみていた。
「あかい」
 ミランの瞳からは少しずれた......丁度耳のあたりと、ミランの背後の地面を交互に見ている。目線だけを向けると、点々と雪に染みを作り、耳朶が落ちていた。
「キールカ?だいじょ」
「血が」
 いや、と彼女が小さく呟いて、耳を塞いだ。完全に動けなくなっている。
「少女を撃たれたくなかったらおとなしくしろ」
 二人がキールカに銃口を向け、もう三人がミランを囲う。キールカが狙われている以上、ひとまず抵抗はしない。銃から剣に持ち替えた男が、切っ先をミランの首筋にのせた。鋭利な刃先が肌一枚を削る。
「お前が、近頃ここらで殺人を繰り返している犯人だな」
 酷薄な男の顔を睨みあげる。
「そうだって言ったら?」
 にやり、吊り上がる口元。
「処分する」
 鋭い刃の先が肌に食い込む。常人より柔軟で膂力のある体は、それでも刃を防ぐほどではない。切っ先を掴み、刃を折る。そのシミュレーションを頭の中で済ませた時だった。
 ゆらり、視界の端で立ち上がった白い陽炎。その瞳はまるで、この間彼女が口に運んだのと同じくらい、生々しい赤。
「いや......」
 いや、いや。
 駄々を捏ねるように、癇癪を起すように、細い喉から迸った絶叫。その瞬間、視界に現れた、これは。
「氷......?」
 小さな氷が目の前の宙に浮かんでいた。そして、その内側が青く光り、殻を突き破るかのように、幾本も棘が伸びてくる。
「ッッ!!?」
 咄嗟に首を捻る。頬を掠めたそれに、鮮血が散った。動かした先にも刺さった棘に、身動きをやめる。目の前に、あまりにも先の鋭利な玉房があった。いや、玉房というより、不器用が創った氷の結晶のようだ。均等な模様を形作ることをあきらめた、歪な結晶。その先端はしかし、器用に、男達の頸や心臓を貫いていた。頭がやけに冷たいと手を当てると、上に男がぶらさがっていた。その血がポツポツと、まるで雨みたいに降り注いでいたのだ。
「あ、ああ......」
 弱々しい声に、我に返る。まるで檻のように己を縫い留めていた氷柱を叩き折って立ち上がる。
「キールカ!」
 キールカの周りの男も、長く伸びた棘に刺し貫かれている。ぱちぱちと、かわいらしい雪が彼女のまわりに浮かんでは消えていた。
「ミラン、ミラン、ごめんね、わたし」
 酷く怯えた薄紫に赤の混じる瞳。自分がやったことの理解ができていないような彼女の手を握る。
「大丈夫だよ、キールカ。とりあえずここから逃げよう」
「うん」
 だいじょうぶ。もう一度、にっこり微笑んでそう言うと、彼女はやっとぎこちなく笑ってミランの手を握り返した。
 
「いたくない?」
「え?」
 走って、走って。塒にしている小屋まで逃げて、息をついた。彼女の問いかけにミランは首を傾げる。
「ほっぺた、耳も」
「ああ、いたくないよ」
 本当だった。事実、耳は抉られたにも関わらず、既に血が止まって傷が塞がりつつある。この体質も、ミランの生まれついてのものだった。けれど彼女は悲しげな顔のまま、ミランの頬を見詰めている。
「わたし、ミランが死んじゃうって思って」
 息を吐くように彼女が言う。雪融けの後の湖のような穏やかな色に戻っていた瞳が、また少しずつ赤に濁る。
「そうしたらね、訳が分からなくなって、ぐちゃぐちゃになって、わたし」
「キールカ」
 その頬を優しく挟んで、ミランは笑う。
「大丈夫だよ、キールカ。助けてくれたんだよね」
「ミラン......」
 うん、と彼女が頷く。少し落ち着いたようで、ミランは内心ほっとする。キールカには笑っていてほしい。けれど、彼女はまたすぐに顔を曇らせた。
「ねぇ、ミラン。わたしたち、間違ってるのかな」
 この世界にはたくさん人がいて、みんなが仲良く生きてるのに、わたしたち、それを壊しちゃってるのかな。
 キールカは悲しげな顔でそう言った。その瞳に涙が滲んで、落ちる前に氷の雫となる。そうやって、キールカが静かに涙を流すのをみて堪らなくなった。違う、違うんだよキールカ。
 君が、君は間違いなのかと、ぼくも間違っているのかと泣くなら。ぼくは、ぜったいに、何をしてもそれを止めてあげたい。
「まちがいなんかじゃないよ」
 ミランは、キールカの手を強く、強く握りこんだ。じかに触れる熱に、キールカが目を見開く。たらりと指の隙間から水が零れ落ちるのも構わず、ミランは続ける。
 そもそもさ、正解だとかまちがいだとかって、結構適当なんだよ。
 世の中で、どっちをほんとだと思ってる人が多いとか、よく分からない研究とか、そういうので決まってるんだ。
 人を食べるスニェグラーチカ。ひとになりたい。とても強い力をもっている。それの何がまちがいだって言えるんだろう?
「ようは、世界でぼくたちのほうが正解だって思う人が増えればいいんだよ」
 キールカが薄い紫の瞳を瞬かせる。
「でも、どうやって?」
「正解か間違い化を決めてるのは、偉い人たち。みんな、そのひとたちが言うことを聞いて、正解とか間違いとかを決めてるんだ。だから、その人たちが全員いなくなって、かわりにぼくたちが偉くなれば、みんなきっと、ぼくたちが正解だってわかってくれるよ」
 ね? と首を傾げてみせる。キールカを泣き止ませるため連ねた言葉だったが、言っている内に、悪い思いつきではない気がしてきた。そうすれば、口先だけなんかじゃなくなって、キールカはもっと笑ってくれるかも!それに、そんな世界なら、きっとぼくだって、もっと楽しいよね。
「ぼくが君を正解にしてあげる」
 この国がどうなってもいい、この世界の仕組みがどうなったっていい。ミランにとっては、たったひとり、大切な女の子が泣いているっていう事実が、何より肝心だったのだ。
「だから、泣かないで、ね?」
 キールカが笑ってくれるなら、皇帝でも、悪魔でも、殺すから。
 
 
 春の近づいたその日の夜は、雪と風がいっとう強かった。キールカが起き上がる気配にミランは目を開ける。視線だけを動かして彼女を見ると、ベッドから細い足を出して、キールカはベッドから降りた。そのまま足音も立てず、扉の方へと歩いてゆく。ぱたん、と建付けの悪い扉が閉まった後、気になったミランは彼女の後を追いかけて。
 そこで、不思議な光景を見た。キールカを含め、何人かのスニェグーラチカが雪の中踊っていた。雪に沈む体重もないというように、つま先で新雪の上に立っている。吹雪でさえも彼女らの動きを遮ることはなく、ただ星のように、彼女らは控えめに輝いていた。ミランは我も忘れてその光景を眺めた。
「夢みたいだ......」
 何をしているのか、なんて一目見ればわかった。彼女らは冬を祝っているのだ。極寒のこの季節に幸あれと祈る。それが、彼女たちの本質なのかもしれなかった。
 吹雪が収まるにつれ、スニェグーラチカはひとり、またひとりと姿を消してゆく。そんな中、まわりより一際強く光を放つスニェグーラチカは、ずっと踊り続ける。
 明け方まで彼女はずっと、何かに突き動かされるように軽やかに舞っていた。息の凍るのも、手足が完全に冷えてしまうのだって構わず、ミランは彼女を見ていた。
 キールカ。心の中で声をかける。君がはんぱものなんて間違いだよ。だってこんなにきれいで、かがやいてる。
 彼女の白い髪は雪の祝福。彼女はきっと、誰より冬に愛された孫娘だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 しんしんと降り積もる雪ももうだいぶ前に止んでいた。地面は太陽のぬくもりでぐじゅりと濡れそぼり、所々、気持ち良さげに土を晒している。ミランは小屋の前のベンチにキールカを座らせ、自分も隣に腰掛けていた。
「キールカ」
「ん......」
「キールカ」
「みらん」
 うつらうつら微睡んでいるお姫様は、最近はずっとこうだった。白い睫毛を僅かに震わせながら、眠気に勝てぬようにミランの肩に形の良い頭を預けている。ふたりのあいだの手は、手袋越しにしっかりと握られていた。
「キールカ、もう眠たい?」
 聞けば、彼女は頭をつけたまま、薄紫の瞳を覗かせてこちらを見上げた。
「うん、もう熱くて、いけないわ」
「そっか。じゃあ、もう寝る?」
 スニェグーラチカは春になると溶けて消える。そして、冬まで眠っているのだという。キールカから聞いたその話が、現実になろうとしていた。
「でも......」
 やくそく、と彼女が呟く。この世界の間違いを、自分たちを正解にするという、たわいないこどもの空想。ミランはそれに、大丈夫! と笑ってみせた。
「ぼくに任せといてよ。君が寝てる間は、ぼくが頑張るから!」
 だから、ね。出会ったばかりの頃、同じようなことを言ったっけか。けれど、あの時よりよっぽどどきどきしている。
「だから、また冬が来たら、ぼくと一緒にいてくれる?」
 キールカは答えなかった。
 ただ、今までに見たこともないような極上の微笑みを残して、そして、次の瞬間には消えていた。
「......任せてよ」
 もう一回、そう呟いてから気づく。隣には何もなくなった訳ではなかった。
「......?」
 凍った肉片が、そこに沢山落ちていた。濃いピンク色の、赤い色の、黄色い色の。キールカに今まで食べさせたそれらが、彼女と一緒に還らず、置き去りにされたのだ。ミランはそれに首を傾げる。
「......まだ、足りなかったかな」
 来年は、もっと食べさせてあげなくちゃ。彼女のからだがそれでいっぱいになるくらいまで、そうすればきっと。だが、今はそんなことにあまり意識が向かない。
「うう」
 寂しさに、ミランはぎゅうと胸を抑える。いたいな。さみしいな。冬まであと何日だろう。いつもはあたたかいのも好きだから、冬が待ち遠しくなるのはまだ先なのに。キールカが冬しか居られないのなら、ずっとこの国は凍えててもいいと思うくらいに。
「だいすき、キールカ」
 やるべきことは沢山あった。来年のキールカに褒めてもらえるように、彼女を正解にするために。
「がんばらなきゃ」
 ぐし、と少しだけでた涙を拭って立ち上がる。まずは、この小屋の持ち主を殺すところから始めよう。来年も、ここにキールカが戻ってくる時、誰かが居たら安心して帰ってこられないだろうから。
 
 
 遠き日に交わされた他愛ない約束は、ずっとずっと、破られることはなく   。
 
 
 
 
 
 
 ◆◆
 その席は、まるで玉座のようだった。どこもかしこも黒い部屋は、この部屋の持ち主の好みだ。そんな中、中央の椅子だけがきらきらと、少女めいた様相をしている。背凭れには硝子細工の縁取り、手すりは金箔を惜しみなく施し、白の天鵞絨が張られている。部屋とはあまりにも不釣り合いなその玉座は、それもそのはず、持ち主(彼)のものではない。
「ミラン、スヴェート教会の司祭、指令通りに連れてきたぜ」
 部屋に入って開口一番そう告げると、はーい、と声をあげたのは、玉座から少し離れた鉄パイプの椅子に座った青年だった。音もなく立ちあがった彼は、黒のシャツに黒のパンツという出で立ちで、この国では見ていて心配になりそうなほどの薄着だ。彩度もあって部屋に溶け込んだように見える青年が、猫のようにしなやかな身のこなしでこちらに歩いてくる。玉座の手すりに行儀悪く腰かけたのを皮切りに、己は片手に首根っこを掴んでいた男を床に放った。腕を縛られ動きを封じられていた男は、首に青痣ができてなんとも痛々しい。まあ、そんな痛みはこれからのことを思えば前座にもなるまいが。
「レーヴァ、ありがとう」
「ああ、教会師団には中々骨が折れたが、所詮耄碌した爺の子飼い共だな」
 抵抗したので粗方殺してしまったが、まあ問題はないだろう。教会のシスターには後片付けをされてすまないが。
「こんにちは」
 床に寝転んだ男に、彼はそう声をかけた。
「わ、私をどうするつもりだ!」
 少し萎れていた司祭が、頭領が若者だと知ったせいか勢いづく。やめといた方がいいぜ。心の中で忠告した。多分その男は、世界でもっとも関わらない方がいい部類の化け物だ。
「言っておくが、わがスヴェート教会は信者を十万は抱える、方教会の中でも上位の教会で」
「うん、知ってる。だから、来てもらったんだもん」
「んじゃ、俺はこれで......」
「うん、あ、レーヴァ」
「あ?」
 とっとと退散するに限るとばかりに踵を返したが、背にかかる声。振り向けば、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような純粋な笑みで、我らが頭領は言った。
「針と糸、それから鋸が欲しいな。持ってきてくれる?」
 
 
 腕と足をきつく縛らせたのは、ひょっとしてこのためだったのかとも思った。
 玉座が汚れては困る、と主に拷問用に使う部屋の台の上に乗せられた男は、もう言葉を放つことも出来ず、ひぃひぃと喘ぐのみだ。その四肢は、鉈で切り落とされ、縛り上げていなければ絶命していただろう。傷口からいくつも血管や筋が飛び出ている。何本かが特に突出しているのは、ミランが形状を見る為無理やり引っ張ったからだ。
「へぇ、血管にけっこう脂肪がついてるよ。いい暮らししてるんだねえ」
 今思えば、神経にまだ繋がっているそれを引きずり出されたのが余程の激痛だったのかもしれない。ぐい、と無造作に引っ張られた瞬間、司祭の身体は陸に打ち上げられた魚の様にぐんにゃりと反った。目は血走ったまま閉じられず、涙と鼻水、涎を垂れ流しているのが哀れだ。
「よーし、けっこう上手に切れたな!じゃあ、今度は、面白いことしよっか!」
 器用に針に糸を通したミランが、司祭にわざわざ目を合わせてにっこりと微笑む。きっと彼には、死神に見えているだろう。何も見えなくなっていなければの話だが。
「じゃーん!ぼく、裁縫練習してみたかったんだ。手伝ってよ」
 右肩には左足、左肩には右足、右腰には左腕、左腰には右腕。それぞれ切り落としたパーツをくっつけるように、ミランが配置していく。
「でも、はじめてだからへただったらごめんね?」
 そういう問題じゃない、なんて、口に出すだけ無駄だ。か細く悲鳴の響く中、楽しげにミランは針を進めた。
 
「死んだんじゃねえか?」
「そうかも。このひと、教会の入り口に返しておいてくれる?」
「は? 戻すのか」
「だって、返してあげなきゃかわいそうだよ」
 そうだ、赤ちゃん用のおくるみがあったでしょ。あれにくるんであげて、寒くないようにね。
 手についた血を不思議そうに見やって、司祭の服の汚れていないところである程度拭き取ったミランが、時刻を見てはっとした顔をする。いつの間にか夜が明けかけていた様で、それにしても何故気にするのか、と彼の予定を思い返したところでレーヴァはああ、と得心した。
「ぼく行かなきゃ。あとはよろしくね」
「......おー」
 こんな気持ち悪い肉の塊に触れたくはないが、頭の言うことは絶対だ。頷いて、ちょうど外を通りがかった己の部下に、物置部屋まで赤子用の布を取りに行かせた。そうこうしている内に、音もなくミランの姿はなくなっていた。
「うわ、なんですかこれ」
 何も知らず部屋に入ってきた部下が、もはや一言も発しない肉を見てえずく仕草をしてみせる。
「我らがお頭のご所業だ。元の教会に戻してやれってさ」
「......これを? 信者もシスターも腰ぬかしますよ」
「だろうな。だが、返してあげないとかわいそう、だそうだ」
「へぇー......相変わらずよくわかんないな」
 そう独り言ちながらも、もう平然としてその肉を布でくるんでいる部下も、人が切り刻まれ縫い合わされる様子をただ見ていた己も、世間一般では少しずれている。普通の人間にはそれこそ「よく分からない」だろう。それでも、ミランよりはましだと間違いなく断言できる。
「ほんとにこんなことしてて、皆に受け入れてもらえるんですかね」
 僕らの目的って、革命ですよね?そう尋ねる部下に、それは少し違うと返す。いや、ある意味合ってはいるか。
「俺らは別に、他の奴らの上に立とうってわけじゃない。ただ、今までの価値観や概念を全部取っ払って、俺らに都合のいい世界にしたいだけの集団だ」
 単純に言えばテロリストだ。私腹を肥やしている貴族のパーティーや、国家と癒着し腐敗した教会を襲っては名をあげてきた。今やこの国では知らぬものはいないだろう。
「じゃあ余計、みんな僕たちが間違ってるって思うんじゃないですか?」
「いや、人の心って言うのはそんな単純じゃないからな。俺らのやったことを見て、十人中一人は口笛を吹く。顰め面をしてみせた九人の内二人は、心の中で喝采を送ってる。そういうもんさ」
 この組織の人間は、みんなどこか歪み、既存の価値観に弾かれている。ミランにはそういう人間を誘蛾灯の様に惹きつける、強い強い光があった。悪と純粋をごった煮したような、ただただ綺麗な黒。レーヴァも、そのカリスマ性に夢を見せられた人間の一人だ。
「その肝心のミランさんはどこ行かれたんです? いっつもふらっとどっか行っちゃったりしますけど」
「雪が降り始めてたから、そろそろってことだろ」
「え、なにがです?」
「......あ? お前知らねえのか」
 言ってから、そういえばこの男は近年地方自警団の密偵から戻った、本部の事情に詳しくない人間だったと思い出す。それなら仕方あるまいか。
「我らが女王様が、お目覚めになるんだとよ」
 冬にしか見かけない、それもこの組織の一部の人間にしか姿を見せない。真っ白な毛皮に真っ白な髪。深い深い紫の瞳をした彼女は、かつてこの地にごまんと存在し、今や消え去った、スニェグラーチカの最後の一人で。
「レーヴァさんは会ったことあるんです?」
「まあな、どうしてもミランが外さなきゃいけない時は、俺が護衛をやらされるし」
 一度、魔法とやらを見た身としては、本当に彼女に護衛が居るかは非常に疑問だが。スパイを的確に貫いた氷柱を思い出して苦々しい表情になる。部下はその顔を見て何を勘違いしたのか言った。
「仲いいんですねえ、すごいなあ」
「あ? 仲良いわけあるかよ。話したことはあるが、アレもミランより少しマシなだけの同類だ」
 親しくしても何もいいことがない。一歩間違えたらこっちが食料になる。彼女が食べてみたい、と一言言いでもすれば、ミランは笑顔で承諾するだろう。そんな危なっかしいものとは関わらないのが吉だ。
 一応ミランを立てている自分としては、彼がその時だけ、狂気的な純粋さでなく、年相応の照れや戸惑いを見せるのが微笑ましくもないともないのだが。
「まあ、化け物は化け物同士、勝手にやっとけってな」
 
 雪原を駆ける。足を取る雪も、吸い込む度に肺が凍りそうになるのも気にならない。ただ、遠くに見える祭壇に向かって走る。かつて、彼女を見送った小屋の跡地に立てたそれ。
 はあ、と軽く息を整えて、見上げた先。そこに光の粒子が舞い始めているのを見て、目を輝かせる。ちょうどかち合ったようだった。
 光の粒子が糸をなし、天から降り込む雪をはらみながら編まれてゆく。胸がどきどきして、今にも破裂しそうだ。
 機械の更なる発達や、膨れ上がった富と傲慢にこの地の幻想は薄れた。教会は皇帝こそが真の神だと嘯き、かつてあちこちに見られた神秘は、もう欠片ほどしか残っていない。その中でも、恐らく最も大きな欠片が彼女だ。
 ざ、と一際強く雪が吹く。思わず目を閉じてしまいそうなその中で、ひとりの少女の輪郭が形作られたのを、ミランははっきりと捉えた。ふわりと地面に降り立った、真っ白の毛皮を纏った、ぼくの。
「キールカ、おかえり!」
「っきゃ......ミラン」
 勢いよく抱きつくと、勢いが良すぎて小さな祭壇の中で二人して転がった。咄嗟にぎゅっと抱きしめた体は柔らかくて、小さくて、やっぱり守ってあげなくちゃ。白の髪が雪に混じるように散らばって、ミランはそれを愛おしげに梳いた。キールカの頬を撫でて、肩を触って、背中にもう一度優しく手を回して、彼女が一欠片だって失われていないことを確認する。
「っはは、ごめんね、痛くなかった?」
「うん、ミランが抱きしめててくれたから」
 また、大きくなったのね。
 ミランの顔をまじまじとみて微笑むキールカに、さっきとは違う胸の高鳴りがやってくる。
「キールカも、また少し瞳の色が濃くなったね」
 年を重ねる事に、彼女の極淡だった瞳は、春に咲くサフランのように綺麗な紫に染まっていた。
「そうなの、自分じゃ見えないから」
「塒に帰ったら鏡を見たらいいよ」
 さ、行こうか。
 先に起き上がり、恭しくキールカに手を差し出してみせる。
「お手をどうぞ?お姫様」
「ふふ、ミランったら」
 くすくすと笑う彼女は、やっぱり出会った時より余程笑うようになった。綺麗で、かわいい、ぼくのキールカ。
「ね、キールカ、聞いてくれる? 僕が、君が眠っている間、頑張ってたこととか......」
「うん、もちろんよ」
 キールカと手を繋ぐと、不思議と雪に足を取られなくなる。二人は魔法みたいに、二人は手を繋いで歩いた。
 また冬になる。キールカに褒めてもらって、それで、また仲間を増やさなくちゃ。約束をした時から、だいぶキールカは正解になったかな。もっともっと、キールカを世界でいちばん正しくしてあげたい。ぎゅっと手を握ると、「どうしたの」とキールカが笑って、それだけでミランは誰より幸せになってしまえるのだ。今年も冬が来て、キールカに会えた。それだけで、本当は十分なのかもしれなかったけれど。
 「んーん、何でもない!」
 


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