依り糸

登校中



 夏の二十五日目。
 私が死んだ日。

『死なんて、怖くはありません
 心配事と言えば唯一、アキヒロさんのことだけです』

 遺書にそんな文を記してしまったからだろうか。私は、死んでも現世に留まった。
 落ちたはずなのに、気づいたときには崖の先端、飛び降りる前の場所に立っていた。体はどこも痛くない。血も流れていない。ただし、血の通っている感覚もしなかった。
 そっと、靴がそろえられた辺りの崖下を覗く。はるか奥底に荒い波と、自然の力によって無造作に削られた岩々が見えた。流されたのか散り散りになったのか、私の死体は見当たらなかった。
 さて、これからどうしようか。死んだあと何をしたいかなんて考えていなかった。とりあえず海から目を離し、顔を上げたとき、普段人のいないこの場所に人影を見つけた。
「ナツキ......!」
「......アキくん?」
 生前の恋人が私を見つけ、そして名前を呼んだ。叫びに近かったかもしれない。悲痛のような、安堵のような、怒りのような、不思議な声色がした。
「おまえ、遺書ってどういうことだよっ」
 遺書は机の上の目立つところに置いてきた。きっと、合い鍵を持つ彼が一番に発見し、そこに書かれていたこの場所に慌ててやって来たのだろう。
「なんで、私が見えるの......?」
「はあ? 何意味わかんないこと言ってんだ」
 彼と私の間には感情の大きな温度差があるようで、高まっている彼に少しイラついた雰囲気が増した。そのままざかざかと、私のいる崖の先まで大股で近づいてくる。
「まあいい、話は俺もたくさんある。あとでゆっくり聞くから、いったんこっち来いよ。こんな危険なところさっさと離れようぜ、な?」
 真剣な表情の彼が、私に右手を差し出す。どうやら彼の目には、私がまだ生きているように映っているようだ。その手を少し見つめたあと、自分の左手をその上に乗せるよう出した。
 すう、と何の抵抗も感じずに、私の手は彼の手をすり抜けた。
「......!」
 彼は、あまりの驚きに声も発さず、ただ重なった自分たちの手と目の前の私の顔を交互に見た。私はもう一度、ゆっくりと尋ねた。
「なんで、私が、見えるの?」
「......愛?」
 数秒後、私たちは噴き出した。



 崖は、彼が通報した警察に調べられ、地と空の境目にやたら高い柵と注意を促す看板が設置された。
 初めは、霊体で色々散策しようと思ったが、どうやら私は地縛霊のようで、崖周辺から離れることはできなかった。特に面白いものもないので、ただその作業の様子を最前列で観察していた。彼のように、私が見える人間はいなかった。
 警察の話を盗み聞きした限りでは、海を探しても私の死体はあがらなかったらしい。ただ、自筆の遺書、そろえられた靴、岩肌にこびりついた血や肉片から、私がここから飛び降りたことは、客観的にも認められていた。
「よお」
 退屈そうに海を眺めていた私に声をかけ、アキくんが隣に立つ。自殺と明白だからか警察はすぐ撤収し、ちらほらいた野次馬も、他に見どころのない崖のことはとっくに忘れてしまったようだ。半年が経った今でもこの場に訪れるのは、彼くらいだった。
 自殺に関する話をしない訳でもなかったが、それよりも生前よくしていたような他愛のない会話をする方が多かった。そもそも、このようにあとで話せることを想定していなかったので、大体のことは遺書に書いていた、というのもある。
「人がいない方が落ち着くね」
「ちょっと寒いけどな」
 そう言って彼は、来る途中で買ったのだろうホットコーヒーを口に含んだ。昔彼に買ってもらったワンピースのみを身に着けている裸足の私とは対照的に、コートにマフラー、手袋と完全防備していた。そのことがなんとなくではあるが、隣にいる彼との距離を感じた。
 彼はいろんな話をしてくれたが、恋愛については何も話さなかった。私と付き合っている間も、彼に好意を寄せている人が何人かいたことを、私は知っている。ましてやその私が死んだあとだ。ここぞとばかりに狙ったり、また、彼の友人たちも慰めようと新たな子を紹介したりするだろう。それでも、彼は一切そんな話をしようとはしなかった。
「どうした?」
 少し上の空で聞いていた私の様子に、彼が顔を覗き込む。以前と何も変わらない、まっすぐの瞳だ。
「ううん、別に」
 何度も言おうとした。『もうここには来なくていいよ』と。言えなかった。彼がまだ好きだったから。
 彼が、触れることも動くこともできない死んだ彼女に、どのような感情を抱いているのかは知らない。ひょっとしたら自分しか存在を認識できないことに、責任を感じているのかもしれない。憐れみから会いに来てくれてるのかもしれない。
 それでもよかった。彼が来なくなる時まで何も考えず、ぬるま湯のように心地良い依存に浸っていたかった。
 話を続ける彼に気づかれないよう、そっと手を伸ばす。コートのポケットに突っ込まれた彼の手と触れ合うことはなかったため、私が安心感を抱くことはできなかった。



 厳冬だったらしい冬をようやく終えたようだ。会うたびに防寒具が減っていき、あげてもいないのにホワイトデーのお菓子を供えてくれた。
 そして、彼は卒業した。卒業式の写真を見せてくれた。サークルの仲間たちが、私の遺影を持ったものもあった。
 社会人になっても、頻度は落ちたが、変わらず会いに来てくれた。大学の話から会社の話をよく聞くようになった。私はというと、空や海がどうとか、そんなものしか話せないままだった。
 大変そうだが生き生きと話をする彼を見て、彼が変わったこと、そして自分が変われないことを感じた。彼との共通の話題が無くなっていく未来が、とても怖かった。



 ある日の夕方、崖の入り口に彼以外の車が停まった。
 私には、その車に見覚えがあった。誰のものだっただろうか。思い出すよりも前に、車の所有者が中から出てきた。
 彼の両親だった。私が自殺したての頃、ごくたまに彼と共にこの車でここまで参りに来てくれていたのだ。
 また家族で来たのかと思ったが、彼はどうやら乗っていないようだ。何か意図があるのではと、見えてはいないがひっそりと近づいた。
 おそらく、最後に見かけてから一年弱しか経っていない。それにしては二人とも、あまり肌や髪の健康状態が良好ではなく、何年も歳をとったように見えた。
 彼の母親は、久々に訪れる崖をしばらくキョロキョロと見回した。そして、父親を引き連れて先の方まで行くと。
「アキヒロを放して!」
 そう海に向かって、叫んだ。彼女の頬には、大粒の涙が何度も流れていった。父親は、そんな妻の傍でじっと立っていたが、彼からも深い悲しみを感じた気がした。
 他者からの目には明らかなのだろう。私が彼を縛っていることが。私があんな遺書を残すからだ。
 死んだ、それも自殺した恋人の影を追って一年近くになる。まだ若く、将来もある息子の足を引っ張る女はどう考えたって足枷だ。
「ごめんなさい」
 ご両親にそう呟き、そのまま柵をすり抜けて、タッ、と崖を飛び降りる。頭から真っ逆さまに落ちていく。
 こんなことをしたってどうせ、気がついた時には崖の上にいる。分かってはいたが、そのまま両親の悲しみに触れているのは耐えられなかった。
 ああ、死ねたらいいのに。
 死んでいるはずなのに、そんな頭のおかしいことをぼんやりと考えながら、落ちた。



「さよなら」
 私が別れの言葉を告げると、彼はぼろぼろと泣き出した。私が死んだときよりも泣いていて、ぎょっとした。
「......いつか、言われるかもとは、予想してたけど......やばい、......堪えられねえ」
 嗚咽混じりに話す様子から、まだ私のことをこんなにも好きでいてくれていたことを知った。普段ほとんど愛情表現をしてくれない彼の言葉は、何よりも嬉しかった。でも、お互いどんなに好きでもどうしようもないことだった。
「ごめんね、中途半端に残っちゃって」
 私も泣きたかったが、霊体では泣けないみたいだった。こんな不便な状態、何のためにあるのだろう。
 零れ落ちる彼の涙をぬぐうように、彼の頬へ手を伸ばす。何にも触れず、温かさも感じず、やはりすり抜けるだけで、ぽたぽたと涙は落下していった。
「アキくんのこと、大好きだけど......私もう死んじゃったからさ。もう、触れることもできないから。だから、アキくんをこれ以上引き留められないよ。ごめんね、決断するのに、こんなに時間かかっちゃって」
「そんなん......」
 彼の言葉が途中で消えていく。彼も分かっていたのだろう、このままじゃダメなことくらい。
 しばらく沈黙が続いた。彼はずっと泣いていた。私は、涙で悲しみを発散することができず爆発しそうだったが、これは仕方のないこと、と自分の気持ちを騙していた。
「......ちょっと時間をくれないか」
 絞り出すような声に、黙って頷く。もうずいぶんと遅い時間で、闇と物体の境界が曖昧になってきていた。
「......来週、答えを出すから」
 力なく彼はそう言い残し、闇へと消えていった。見えなくなっても私はずっと、彼の去っていった方向を見つめていた。



 次に彼が来るまで、とても長く感じた。もうこのまま来ないんじゃないかという考えがふと頭によぎっては、それを否定する根拠がどこにもなく、不安な時間を過ごした。
 話をした段階でとっくに覚悟は決めているはずなのに、彼が去ったあとの孤独な時間に恐怖を感じ、勝手にすがっているのだ。なんとも矛盾した言動だと自分で呆れる。
 それでも、そんな不安は取り越し苦労で、別れを切り出してからちょうど一週間後、彼は崖に訪れた。
「よお」
 相変わらずの様子に見えるが、少しやつれたような、不健康そうな影を背負っていた。しかし、その顔はどこかすっきりとした晴れやかなもので、彼も決断したんだと察することができた。
 いつもは隣り合って話すが、自然と向かい合う形になった。まるで、相手のことをしっかり記憶しておくためかのように、お互い何も言わずじっと見つめていた。
「ありがとうな」
 だいぶ時間が経ってから、彼が呟いた。スーツの内側に手を入れて封筒を出し、それを二人の間の地面に置く。それは、私の書いた遺書そっくりの、彼の遺書だった。
「  え」
 予想だにしていない事柄に、封筒から慌てて顔を上げると、もう彼は柵の側にいた。覚悟を決めたような、そんな背中をしていた。
 高めの柵といっても、乗り越えようという意志の成人男性をも止めるような代物ではない。そして、彼の行動を制御できるような、彼に触れられる人物はここには誰もいなかった。
 彼の靴と、ひとつの霊体だけが残された。



 夏の二十五日目。
 私が死んだ日。もう彼はいない。

『死なんて、怖くはありません
 心配事と言えば唯一、ナツキのことだけです』

 彼の遺書の一部分らしい。警察が言っていた、「美しい自殺だなあ」と。
 後追い自殺として、私の時よりも野次馬が長い期間やってきていたが、やはりすぐに飽きられた。まあ、そんな輩どうでもいい。私が待っていたのは一人だけだ。
 彼がいなくなった世界でも、私は成仏できないでいた。何のためにか分からないまま、誰も来ない崖に縛られ、ずっと座って海を眺めていた。
「アキくん......」
 もう会えない人の名を、今でも時々口にしてしまう。まったく、未練がましい女だと思う。それでも、彼の名を呼んだ時だけ、わずかにあたたかい風が吹いてくれるような気がした。

 ****

 ざざあ、と下の方で波が崖に体当たりする音が聞こえる。体感はないが、なかなか風の強い天候らしい。
 今日もナツキは、崖先近くに腰を下ろして海を眺めている。生前はあげたワンピースが汚れるのをひどく嫌がっていたが、霊となった今、その気遣いはもう必要ない。
 そっと、彼女の横に座る。そのまましばらく、無言で海を見つめ続けた。
「アキくん......」
 不意に彼女が呟いた。愛しそうな、哀しそうな、絶望のような、複雑な響きで。俺は彼女の頭に手を伸ばす。
 すう、と俺の手は彼女の頭をすり抜けた。
「......」
 俺は黙って、手を引っ込める。なんとなくだが、霊体の彼女に手を伸ばした時のことを思い出した。
「ナツキ......」
 彼女は反応しない。こちらを見ようともしない。
「なあ、返事してくれよ......」
 俺の消え入りそうな声にも、まったく気づかない。いや、気づけないのだ。俺から彼女は見えても、彼女から俺は一切見えない、聴こえない。彼女の世界に俺は存在していなかった。
「死んだら、一緒になれるんじゃなかったのかよ......」
 自分の顔を両手で覆う。死んだ場所から動けない。誰にも、最愛の人にも気づいてもらえない。おまけに成仏の仕方も分からない。地獄だ。
「アキくん......」
 また、彼女が俺の名前を呼ぶ。彼女は傍に俺がいることを永遠に知らない。愛する人に気づかない世界と、愛する人に気づいてもらえない世界。果たしてどっちが辛いのだろう。
 どちらも地獄か。罪深い死人が落ちるという場所なんだ、自殺する奴なんて地獄行きで当然だ。
 意味のないこととは分かりながらも、彼女の頭を撫でる動作をする。ほんの一瞬だけ、彼女の表情が少し和らいだような、そんな気がした。


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