フィクション~焼肉回避~

おち



 一九九七年、僕の物語は始まる。
 母親の体から生まれでた時、おそらく僕は多くの人々と同じように大きな泣き声をあげていただろう。出産の際、赤ん坊には大きなストレスがかかるそうだ。母親の体との物理的なつながりを断ち切り、生き物として一人立ちするその始まりが苦痛とは、神様は悪魔なのだろう。
 
 誕生の瞬間はおそらく最悪の気分だっただろうがそれからの数年はおそらく楽しく過ごしていただろう。物置のダンボールの中で埃を被っているであろうアルバムがその証拠だ。そこには酸素や水素、炭素、窒素、カルシウムなどで構成された一七〇センチほどの存在と触れ合って幸せそうな表情をしている僕や数センチの炭素や酸素、水素などで構成された塊を積み重ねたり並べたりして大喜びしている僕の姿があったはずだ。
 その程度のことで幸せに生きられる僕を僕はうらやましく感じる。当時のどこかの国のサラリーマンは炭素や酸素、水素などで構成された数センチの塊に喜びや幸せを見出すことは難しかったに違いない。当時の私の親でさえそうだろう。数センチの塊に注意を払うよりも非常に悪化している経済や不安定な政治情勢、そして上に住んでいる家族のやかましい足音に注意を向け、日々ストレスを溜めていたようだ。
 ある時、大好きな父親との散歩から手を繋いで帰ってくると家が荒らされていた。床に散乱した日常用品、倒れたクローゼット、びりびりに引き裂かれた障子。そして部屋の真ん中で放心状態になって座り込む母親の姿があった。
 この状況を作りだした犯人は母親自身だった。不況のために父親が会社をリストラされたことや慣れない土地での子育てといった状況が重なりヒステリーになったようだ。主なストレスが「手カエルができない」であった当時の僕にも、この家族には何か問題があると感じることができた。同じものを見て、幸せを共有していると思っていた集団に大きな綻びがあったことにショックを受けた。母親も僕と同じように数センチの塊に大きな喜びを感じるべきだったのだ。

 数ヵ月後、母親と父親は別れることとなり、僕は母親と共に、母親の実家で田舎暮らしをすることとなった。父親のことは好きだったが、それ以上に母親のことが好きだったようだ。
 祖父母との新しい生活は新鮮で、友達にも恵まれた。祖父母はこれでもかと世話を焼いてくれる。家庭内の不穏な空気に気づくことなく、僕は幸福のみを貪っていたようだ。

 祖父母と母親との生活が1年ほど経ったある日、僕に新しい父親ができることとなった。それに伴い、生活環境も大きく変わることとなった。当初、新しい父親は優しく接してくれていたはずだが私は新しい父親を好きになれなかったのを覚えている。酸素や水素、炭素、窒素、カルシウムなどがほとんど同じ割合で構成されているにも関わらず、二人の父親に対する僕の感情の違いはなんだろうか。
 
 新しい生活は新しい出会いをもたらしてくれた。良い友人や仲間に恵まれた。そしてキミと出会うこととなる。いつから彼女に好意を持ったかは定かではないがおそらく一目惚れだろう。
 好意を持った理由は可愛かったから、だけではなかった。何事もポジティブに、そして全力で取り組むその明るさに大きく惹かれたのだ。

 新しい父親との生活が数年程たち、父親との溝は埋まることなく、大きく開いていった。母親と父親の関係もまた悪化していき、次第に喧嘩が増え、怒鳴り合いに変わり、暴力へと変わっていった。
 すでに数センチの塊に大きな喜びを見出さなくなった僕にとってその変化に気づくことは容易だった。
 目の前で暴力を振るわれる惨めな母親を見るたびに怒り、父親を殴ろうとする度に、暴力の矛先が自分に向くことを想像し恐怖した。
 日々の生活は大きな苦痛となっていくとともに、恐怖で何もできないくせに苦痛だけは立派に感じている自分を嫌悪するようになった。暴力を振るわれていない自分が何に苦痛を感じるというのだろうか。父親の暴力で苦痛を感じているのは母親だけのはずだ。僕が苦痛を感じることが許されるのは、恐怖に打勝ち父親からの暴力の矛先を自分に向けさせることができた時だけのはずだ。
 あれがいわゆる、「被害妄想」というものだろう。
 卑怯な苦痛を感じる日々の中でも、彼女の存在は僕に大きな希望を与え続けてくれた。何事にも恐れず行動する、僕にない強さに大きな憧れを抱いていた。
 卑怯な苦痛の正体のひとつが自分の情けない惨めさに起因するものだと気づき始める中で、偉大なキミが僕に向け続けてくれた好意は大きな心の支えとなっていった。

 ある日の深夜、キッチンで暴力が行われようとしていた。僕は寝室の入り口に敷いてある布団の中でいつものように様子を伺っていた。
 父親の怒鳴り声。母親の反論。そして父親の怒鳴り声。
 深夜の静まり返った世界で、父親の怒鳴り声はよく響きわたりその場を支配していた。
 怒鳴り声がよりいっそうヒートアップしていく。そろそろ暴力へと移る頃合だろう。
 突然静寂が訪れた。あまりに大きな存在感をもつ静寂だった。
 何かがゴトッという音を立てた。

 いつもとは違う異質さを感じ、僕はリビングの方に目をやった。そこからはリビングを見ることはできなかったが、目を向けざるをえなかった。
 数秒後、母親の尋常ではない声が近づいてきた。僕は寝ているふりをしながら目を見張った。
 最初に目に映ったのは、いつもと違い一言も発しない父親の姿だった。何かを引きずっている。
 引きずられていたのは母親だった。髪と襟首を掴まれ、発狂していた。
 父親は母親を寝室の入り口前にある電話機のところまで引きずっていくと、その場で組み伏せ、警察に連絡を取り始めた。
「妻が包丁で私を刺そうとしてきました。怪我はありません。今、取り押さえています。住所は......」
 僕はその光景から目を逸らすべきだと思ったができなかった。発狂し組み伏せられている姿を息子に見られていると知ったらどれほど惨めだろうか。
 父親を殴り、母親を助けるべきだと思ったができなかった。寝室の入り口を跨いだあちら側には、おぞましい、意思を持った空気感があった。その空気感に見つかることを恐れ、目を逸らすことも、指先ひとつ動かすこともできなかった。
 次第に冷静さを取り戻す母親。目が合った。
 この瞬間、僕は母親を惨めにさせる臆病者となった。
 
 警察に捕まった母親は数日後に帰ってきた。刑務所に入ることはなく裁判で離婚が成立した。
 僕は再び、母親と共に母親の実家へと帰ることとなった。
 キミとも遠く離れることとなったが彼女に新しい連絡先を教えることはなかったし、こちらから連絡することもなかった。
 彼女が僕の正体に気づくことを恐れたのだ。
 
 自分への軽蔑と共に、祖父母と一緒に過ごす新しい生活が始まった。
「僕はどの面を下げて生きているのだろうか。早く死ぬべきだろう」
 自分が死なない理由を探す日々が続いたが、はじめから答えを知っていることには気づかないふりをしていた。軽蔑すべき自分にすがる自分の存在を認めたくはなかったのだ。
 食べ物を求める自分が嫌いになった。
 空気を求める自分が嫌いになった。
 生を求める自分が嫌いになった。
 
 ある日の夕方、学校から帰り玄関を開けると重々しい空気が漏れ出てくるのがわかった。物音に苛立ちが感じられた。
 靴を脱ぎ、揃えて並べる。洗面所に向かい、しっかりと手を洗う。三度のうがいを済ませると荷物を所定の位置に置き、ゆっくりと階段を登る。階段を登ってすぐ左手にある僕の部屋に入るとしっかりとドアを閉めた。
 何にも気づいていないように振舞えていただろうか。
 数分後、扉の向こうから祖父を罵る母親の声が聞こえた。祖父は物静かな性格であるためかほとんど言い返さない。母親の罵りは勢いを増していき、そして物を叩きつける音が聞こえるようになる。
 そこに僕の知っている母親の姿はなかった。

 気が付くと僕は外を歩いていた。
 自分の何かが崩れ去る場面に立ち会い続けることはできなかった。
 母の祖父を罵る言葉からは、数十年の母と祖父との確執が伺えた。
 僕が昔幸福を貪っていたあの日々にも、苦痛はしっかりと顔をのぞかせていたのだ。
 
 僕は夜の道路を、足を引きずるように歩き続けた。夜の道路は恐ろしく静かだ。人や車が通ることも、感情すらもない。喜びも悲しみも怒りも、恐怖も。
 きっと世界はこうあるはずだ。星も生き物も砂もただの小さな点の集合体らしいじゃないか。塊はただの塊だ。意味はない。たまたま生まれた意識が意味を与えてしまっているだけだ。その意識は数十年で消え、喜びも悲しみも怒りも恐怖もない世界と再び一つになって、何兆年と続いていくだろう。
 
 僕は夜の道路を、足を引きずるように歩き続けた。
 今なら死ねるのではないだろうか。
 立ち止まり、ふと考えてみる。生にしがみついていたって、せいぜい数十年だ。
 ずっと続く一本道を見据える。どこまででも歩いて行けそうだ。目を閉じていてもゆっくり歩けば怪我をすることもないだろう。
 ゆっくりと目を閉じ、一歩を踏み出す。恐ろしい一歩だった。何か物は落ちていなかっただろうか。目の前に壁はなかっただろうか。道はしっかりとあっただろうか。一歩ずつ慎重に踏みしめ、八歩目で耐え切れずに立ち止まった。
 景色は何一つ変わってはいない。
 こんな僕では死ぬことは無理だろう。道の世界に踏み込む勇気をもってはいない。
 僕は臆病者だった。

 僕は夜の道路を、足を引きずるように歩き続けた。
 目は開いている。
 生き続けるしかない僕はどうすればいいのだろう。
 感情蔓延しない、無意味な世界を求めて僕は空を見上げた。
 目に映ったのは大きな美しい月であった。月を囲う暗闇に目が向くことはなかった。
 僕は月を見続けた。
 生きるしかない僕に、月は生き方を教えてくれるようだった。
 悲しみや怒りに目を向ける必要はなかった。僕は幸せであり喜びであるキミだけを見ていればよかった。何かに意味を与えてしまうのなら、僕にとってのすべての何かはキミになる。
 目を閉じ、僕が生きてきた二十二年間を振り返る。
 様々な出来事はただあっただけになっていく。
 キミ以外の全ては無意味になり僕の心を白紙に戻していく......。












































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































 キミがいる。キミがいる。キミがいる。
 
 僕は再び歩き始める。
 カツン、と何か小さな塊を蹴飛ばした。何かが転がっていくのがの端に移った。暗くて何かはわからない。確かめるつもりもない。
 




















 
 
 
  


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