月光の縁 街田灯子 瑞穂(みずほ)が目を覚ました時には、もう日が暮れていた。腕時計を見ると、十八時を過ぎていた。慌ててベンチから立ち上がる。瑞穂がいる公園には他には誰もいなかった。公園を出てすぐにバス停を見つけたが、駅に向かう最終便はもう過ぎていた。仕方なく、瑞穂は駅まで歩くことにした。しかし、四十分はかかるだろう。 交通の便が悪い場所だが、瑞穂はこの地域が好きだった。高校二年生の時に今の家に引っ越すまでは、ここに住んでいたのだ。それももう十年も前になる。当時、この辺りではよく遊んでいた。ちょうど引っ越す直前には、遅くまで遊んでいて怪我をしたこともあるほどだ。高校生にもなって散歩が趣味だったというのは、少し変わっていたかもしれない。 今でもこうして、嫌なことがあったときなどはこの街に来ていた。家からは少し遠いが、この街の綺麗な空気が、自分を癒してくれる気がするのだ。 今日は、母親と言い合いをして、家を飛び出したのだった。母親に「早く結婚しなさい」と言われたのが気に食わなかったのだ。瑞穂はまだ二十六歳だが、同じ年で未婚の女性は大勢いる。 「そういえば、瑞穂、彼氏はどうしたの」 「え、別れた」 つい最近、恋人とは別れた。瑞穂はもう吹っ切れていたが、今になってその話をするのは気が重い。 母親はため息をついて言った。 「いい人がいないなら、お見合いという手もあるのよ。親戚の人たちも心配してるから......」 「でも、お姉ちゃんもまだ結婚してないよ」 瑞穂の姉は二歳年上で、未婚である。姉は都会の優良企業に勤めており、今は家を出て一人暮らしをしている。 「お姉ちゃんはいいの。あんたももっとしっかりしてくれるっていうなら、別だけど」 瑞穂とて、ちゃんと働いているのだ。しかし姉と比べられては、かなわない。瑞穂は言い返すこともできず、家を飛び出した。こうして、むしゃくしゃして隣町までやってくることになったのだ。 瑞穂は帰り道を急いだ。家に帰って母親と顔を合わせたくはなかったが、電車の時間は限られている。 公園の近くにはちょっとした会社や民家が多かったが、十分ほど歩くと田畑が多くなってきた。初夏とはいえ、十九時を前にすると、辺りは暗かった。街灯の数が少ないせいもあるだろう。 田んぼの間の道を歩いていくと、階段が現れた。周囲は人の手の入ってなさそうな林になっている。階段を上ると、ちょっとした小山の上を通っている歩道に出た。昼間に通れば見晴らしが良さそうだが、今は足元が暗いので気を付けて歩く必要がある。ガードレールもないため、歩道の脇の坂から林に落ちると危ない。 しかし、それだけではなく、瑞穂はなんとなくこの歩道を怖いと思った。昔ここを通ったことがあるかもしれないが、よく思い出せない。 足元に気を付けながら、歩道を歩く。電車の時間を確認しようと、鞄からスマホを取り出した。しかし、手が滑って、地面に落としてしまった。幸いにも坂の下ではなく、ぎりぎりだったが歩道の上に落ちた。 しかし、スマホを拾い上げようとした瞬間、バランスを崩してしまった。瑞穂は悲鳴を上げた。 坂道を滑り落ちるのは一瞬だった。気が付いた時には、林の中に座り込んでいた。靴が片方、脱げて転がっていた。 落ちたときに手をついたのか、手のひらが擦り切れて痛かった。膝も擦りむいている。痛さは我慢できるほどだが、いい年して坂を転がり落ちてしまったのが情けなく、泣けてきた。 歩道に戻るには、どうしたらいいのだろう。自分が落ちて来たところを見上げると、歩道までは三メートルほどあることがわかった。この格好で坂を上るのは難しいだろう。ここから歩いて歩道に戻れる道があるかもしれない。 辺りを見渡すと、小さなお社のようなものがあった。ここは神社の境内なのだろうか。 ぼんやりと考えていると、ふと草を踏む音が聞こえた。 顔を上げると、目の前に影が立っていた。大きな獣に見えて、瑞穂は悲鳴を上げて後退った。熊ではない。大きな耳と尖った鼻が見える。それが狐だと理解したとき、瑞穂は混乱した。狐は、人を捕食するのだったろうか? しかし狐は瑞穂に近づくこともなく、踵を返して歩き出した。そのゆっくりとした足取りに、瑞穂は目を奪われた。熊ほどではないが、明らかに普通の狐よりも大きい。その毛並みは月光に照らされて白く輝いていた。 狐が歩いて行ったのは、ここから唯一出られそうな小径だった。なんとなく、狐が案内をしてくれているような気がした。瑞穂も立ち上がって狐について行った。 ほとんど獣道のようなところだった。足元が整備されているはずもなく、木の根や草につまずきそうになる。月の光がなければ、ろくに歩けなかっただろう。 もとの歩道に出るには、しばらく歩く必要がありそうだ。歩道のほうを見上げると、空に満月が見えた。 「今宵はよい月だ」 突然声がしたので跳び上がった。辺りを見回したが、人間の姿はない。 「ここだ」 振り返ると、先ほどまで狐がいたところに人間の姿があった。若い男のようだった。一瞬女かと思ったが、声は男のものだ。 瑞穂はあまり驚いたので、再び尻もちをついていた。男はくすくす笑っている。 「そんなに驚くな。怪我に障るぞ」 男は瑞穂が見たことのないような服装をしている。神社の巫女のものが近いだろうか。白を基調とした衣装だが、死に装束ではなく、もっと華やかだ。 目を引くのは、男の長く艶やかな髪だった。銀髪というのだろうそれは月の光のもとで輝いている。髪の下から覗く目は金色だ。 「なにも取って食いはしない」 男は言った。 「ただ、話がしてみたかっただけだ。この境内を離れられないのは暇でな」 瑞穂は尻もちをついたまま黙っていたが、奇妙な感覚を覚えた。彼の姿を見たことがある気がしたのだ。 男が右手を差し出した。立ち上がるのを手伝ってくれようとしているのだ。瑞穂は一瞬ためらったが、その手を掴んで立ち上がった。 その男の見た目があまりにも整っているので、瑞穂は自分が恥ずかしかった。自分はといえば、先ほど坂道を転がり落ちたせいで砂にまみれているし、髪も乱れている。 「あれ?」 手を怪我していたのを思い出したが、男の手を掴んだときに痛みはなかった。見ると、手のひらの傷は綺麗に治っていた。 「歩道まで案内するから、ついてきなさい」 男はそう言うと、歩き出した。瑞穂は慌てて後を追う。しかし、男が背を向けたので、その腰のあたりに人間らしからぬものが見えた。幻覚かもしれない、と瑞穂は思った。 「し、尻尾?」 銀色の尻尾だった。犬や猫のものとは違って、長い毛でふかふかとしている。装束の衣装の中に納まりきらないように見えた。 瑞穂の声が聞こえたのか、男は振り返った。自分の尻尾を見て、「ああ」と呟いた。 「隠すのを忘れていた」 次の瞬間、その尻尾は跡形もなく消えた。 「えっ」 男は瑞穂の表情を見て、笑っている。 「見ての通り、俺は人間ではない。狐だ」 「狐?」 瑞穂は男の言葉を繰り返して言うしかできなかった。 男はまた笑い、歩き出した。 「狐に会うのは初めてか?」 「えっと......あっ、動物のほうの狐なら見たことありますけど」 「動物のほうの狐、ねえ」 男はおかしそうに喉を鳴らした。確かに、狐に対して動物もなにもないだろう。 男が笑っているのを見て、瑞穂は合点がいった。先程自分を案内してくれた狐が、この男なのだ。 道のせいで歩きにくかったが、男はことのほかゆっくりと歩いてくれていた。並んで立つと、男は瑞穂よりも頭一つ分背が高かった。 男に、月の光が降りかかっているように見える。その光は、男を神々しく見せていた。同時に、瑞穂は懐かしいような感覚を覚えた。 「何か言いたそうな顔をしているな」 男が言った。瑞穂はおずおずと言った。 「あの......あなたは、神様なんですか?」 「たいした神ではないがな。さっきの小さな社を見ただろう。あそこに祀られている」 「やっぱり、そうなんですね」 「この境内の本社はもう少し歩いたところにある。そこには、俺なんかよりもっと偉い神様が祀られているよ。今宵は出掛けているが」 少し歩くと、草むらが揺れていた。風かと思ったが、中から小さな狐が三匹、顔を出した。瑞穂と男が通るのを大人しく眺めていて、可愛らしい。 二人が通り過ぎると、子狐たちは再び草むらに姿を消した。 「俺もそれなりに慕われているようだな」 男が言った。 「さっきの狐たちは、あなたの子供?」 瑞穂は尋ねたが、男は首を振った。 「いや。俺に子供はいない」 その口調は普通だったが、瑞穂は自分の質問を恥じた。少し不躾だったと思ったのだ。結婚のことで母親と口論になったばかりではないか。 しかし、男は気分を害した様子はなく、言った。 「番(つが)いもいない。昔はいたこともあったが、ここしばらくはいないな」 この男がもし人間だったら、恋人なんてより取り見取りだっただろう、と瑞穂は思った。 「十年前に、ある女人と約束をしたんだがな。その女人が忘れられない」 「め......相手は狐ですか?」 「雌」という言葉を使うのがはばかられたので、瑞穂は言葉を濁した。しかし、男は「人間の雌だ」と言った。 「しかし、何百年も生きてると、人間とは時間の感覚が違ってくるものだ。俺にはもう待つことは気にならない。......どうした?」 瑞穂が俯いていたせいだろう、男は言った。瑞穂ははっとした。 「何かあったんだな」 男の言葉に、瑞穂はどきりとした。気遣うような声の調子をしていたからだ。 「母と......口論になって」 「なぜ?」 「早く結婚しろって言われて」 瑞穂は、母親と交わした会話について話した。 男は頷いて言った。 「そうか、それは大変だったな」 「いえ......私も悪いので」 「そんなことはない。焦ってもいいことはないからな」 男は真面目な顔をして言う。 「先日別れた男とやらも、縁がなかっただけだ。深い縁に導かれて、お前の好(い)い人がいずれ現れるだろう」 「......なんか、神様らしいことを言いますね」 「神様だからな」 瑞穂はこのところうまくいっていなかったので、優しく励まされるだけで涙が出そうだ。 歩いているうちに、水の流れる音が聞こえ始めた。小さな川に出たのだ。男が言う。 「俺は大した力のない農業の神だが、お前に良い縁があることを願っているよ」 男が左手を振り上げた。すると、辺り一面に小さな光が漂い始めた。 「わあ......っ」 瑞穂は感嘆の声を上げた。 光の正体は、蛍だった。蛍はそれぞれ小さな光を帯びながら、自由に飛び回っている。瑞穂が今住んでいるところでは、蛍なんて見れない。 「暇つぶしに付き合ってくれた礼だ」 と、男が言った。 「綺麗......」 「今の時期が一番見ごろだからな」 「......なんだか、この景色を見たことがある気がする」 瑞穂は頭が痛むのを感じた。昔、事故で頭を打ったことがあるせいか、たまに痛むことがあるのだ。 「小さい頃にこの街にいたときに、見たのかもしれないな」 「誰かが、同じ景色を見せてくれた......」 昔のことを思い出せそうな気がした。瑞穂には、どうしても思い出せないことがある。それは、この街のことだ。 この街にいたときのことが、どうもあまり思い出せないのだ。学校のことは覚えているが、なにか大切なことを忘れている気がする。瑞穂がたびたびこの街を訪れるのも、忘れたことを思い出すためだったのかもしれない。 街灯の光が見えてきた。林の出口が近づいて来たようだ。 「これは昔話だが......」 と、男が言った。 「俺は十年前、ある女人と契りを交わしていた。その時はまだ少女といってもよかったかな」 男はお伽噺を読み聞かせるような調子で話し出した。瑞穂は耳を澄ませて聞いていた。 「ある日、その少女は事故に遭った。ちょうど、さっきお前が坂を落ちて来た、その歩道でな。自転車を避けようとして、お前と同じく坂を落ちた。だが少女は運悪く頭を打ち、気絶していた。近くにいた俺は当然すぐ駆けつけ、手当をした。しかし、少女はそれ以上に、別のことに苦しんでいた」 「別のこと?」 「その少女は、もう俺と会えなくなることに苦しんでいた。家を引っ越すというのでな。少女は言わなかったが、俺にはわかった......」 男は暗闇を眺めながら言った。 「俺との契りが少女を縛るのであれば、契りをまるごとなかったことにしようと俺は思った」 瑞穂は頭を押さえた。蛍の光のせいだろうか、目が回りそうだったのだ。 「時間がなかった。すぐに自転車に乗っていた人間が探しに来るだろうからな。俺は少女の傷を治した。そして」 男は瑞穂の目を見て言った。 「少女の記憶を消した」 瑞穂は涙を流していた。思い出したのだ。 あの日、自分は大切な人に伝えようとしていた。もう会えなくなるということを。 しかし、途中で事故に遭ったのだ。気が付いた時には病院にいた。そのときには、もう自分が誰に会おうとしていたのか、忘れていた。 「瑞穂」 男が言った。穏やかな表情だった。 「縁があれば、また会えると信じていた」 その表情に、瑞穂は胸が締め付けられた。 「わ、私......あなたのことを忘れてたなんて......」 瑞穂は男にしがみついた。そのまま、しばらく少女のように泣いていた。男は瑞穂を抱き締め、頭を撫でてくれていた。 瑞穂が泣き止んだ頃、男が言った。 「また来るといい。だが、もう坂から転げ落ちないようにな」 「はい」 瑞穂はもう子供ではない。自分で考え、選択すべき時なのだろう。 歩道への階段はもう目の前だった。 「ありがとうございました。案内してくれて......」 「ああ。気を付けて」 名残惜しかったが、階段を上って歩道へ戻った。 振り返った時には、そこにはもう誰もいなかった。たくさん漂っていた蛍も姿を消していた。 瑞穂は涙を拭い、彼女は歩き出した。
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