マイナス270度の世界で

蒼空夕



 流れる銀河をぼうっと眺めていた。地球からはずいぶんと離れたところに来たようだが、現在地を把握する術なんて持ち合わせているわけがなかった。
 ただ、地球から離れることができているという点においてのみ、俺たちは幸運だ。あんな惑星になんて居られるわけがない。あんな、争いで全てが構築された星なんかには  。


 ◆◆◆

 21XX年、地球は資源の枯渇と人口爆発に悩まされていた。化石燃料は完全に底を尽き、生活必需品など全ての商品が高騰した。定職に就くのもままならない時代だ、明日朝食にするパンすらも買えなかった。
 人々はとある決断をした。彼らは食料も住処も武器も、全て奪い合うことで自分たちの家族や恋人を守ることにしたのだ。世界各地に争いが広がり、力の無い者は次々と倒されていった。
 強者が弱者を淘汰する。この関係性こそが、終末の地球では絶対であった。

 混沌を極める時代は数年続いた。ところがある日、世界の科学者たちはこんなことを言い出した。

『この地球上で不必要なのは人間のみである。地球を救うには我々が消えるしかない』

 禍々しい機械を手にして、確かにそう言った。
 各国の指導者は我先にと逃げ出した。国民が日々誰かを犠牲にしなければ生きることができない、という現状を知りながら、自分たちはぬくぬくと生き延びていた指導者たちだ。もはや自分の安全と利益しか見えていなかったのである。
 彼らは非常用に確保されていた空軍の宇宙船に駆け寄った。しかし、それを阻む者たちがいた。今までの圧政に不満を持った者たちだ。どうせ全員死ぬのなら道連れにしてやろうと考えたのだ。彼らは憎き指導者たちを宇宙船から引きずり下ろし、暴力の雨を浴びせた。カオス状態になったその場に、宇宙船のことなど気に留める者などいるはずがなかった。

   いや、たった二人だけ。二人の軍人が混乱に乗じて宇宙船に乗り込んだ。彼らは恋愛禁止の軍隊に身を置いている関係上、結ばれることが許されなかった恋人同士であった。最後の最後に規律を破ったのだ。
 二人を乗せた宇宙船が飛び立った。この段階になって初めて、その場に居た者たちは唯一の脱出手段が奪われたことに気付いた。怒号を浴びせる者、号泣し出す者、奇声を発する者、いるはずのない神に祈りを捧げる者......。文字通り、この世の終わりだった。
 しかし、彼らの耳にそんな声は入らない。真空状態に耐えられる分厚い窓硝子のおかげか、いや、地球のことなどどうでもいいと判断した二人の脳みそのせいか。
 いつの間にか宇宙船は大気圏を突破し、二人の眼下には美しいとは言えない青が広がった。

 これは、全人類を犠牲にした逃避行だ。

 ◆◆◆


「ねぇ」

 不意に聞こえた彼女の声に思考が遮られた。彼女は俺の隣で膝を抱えて座り込んでいる。その表情は長い前髪に隠れて見ることはできない。
「......どうした?」
「......私たち、いつまでこうしてればいいの」
 彼女の声は少し震えていた。俺は最も恐れていた質問が飛んできたとこで、一瞬息が詰まるのを感じた。ヒュッと、窒息の感覚をコンマ一秒味わった。
「い、いつまでって......」
「あと何日? 何か月? 何年? 何十年? それとも......」
 そこまで言った彼女は不意に顔を上げ、俺を見上げた。今日初めて確認した彼女の顔は、涙で濡れていた。
「ずっと......このままなのかな......」

 時が止まったようだった。彼女の発する嗚咽だけが船内に響いた。肩を震わせて涙を零す彼女がいたたまれなくなり、俺は口を開いた。
「......ごめん。俺が強引に連れてきたから......」
「ち、違う! そういう訳じゃないよ......! あの時私も賛成したから、その点では私も共犯だよ。ただ......」
 そこまで言うと、彼女は再び俯いた。
「ただ......?」
「......私たち、いつ死ねるんだろうって考えちゃっただけ」
 彼女の言葉を聞いた瞬間、心臓に鋭い痛みが走った。彼女の顔から目を背けるように、下を向いた。
 彼女が言うことももっともだ。この宇宙船には生命維持装置が備わっている。人体に悪影響を及ぼさないような室温、重力を保つようにプログラミングされている。さらには食料、水の備蓄もかなりあることが分かっている。この宇宙船は死ねないように設計された監獄なのだ。
 いつ死ねるのかなんて、分かるはずがない。

「......子どもの頃ね、宇宙を旅するのが夢だった」
 唐突に語りだした彼女の声にハッとした。急いで顔を上げると、彼女は窓際に移動し、流れる星々を眺めていた。いつの間にか、彼女は泣き止んでいた。
「いつか私にも好きな人ができて、結婚することになって。そしたら新婚旅行には宇宙に行きたいなって思ってた」
 窓に反射する彼女の表情は、どことなく寂しげだった。宇宙空間から目を逸らすことなく、彼女は続ける。
「私が空軍に入ったのも、大体そんな理由だった。地球で一番宇宙に近い場所だって、そう考えたから入隊した。ただそれだけなんだよ」
 そこまで言うと、彼女はくるっと体を反転させ、俺の方に向き直った。ゆっくりと俺に歩み寄り、目の前で止まった。
「でもその夢、もう叶っちゃった」
 彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、そう言った。その表情は、どこか清々しい。思わず心臓が跳ねあがり、顔を背ける。すぐに、ちゃんとこっち見て、という彼女の声と小さめの手によって強制的に前を向かされる。彼女は続けた。
「今度は貴方が話す番だよ。ねぇ、どうしてあの時私を連れ出してくれたの?」
 真っ直ぐに俺の目を見つめる。彼女の目元は赤くはれているのが確認できた。すぅ、と浅く息を吸い、俺は口を開いた。
「......一緒にいきたかった。規律違反になろうと、あの場にいた人間を全員見殺しにしたとしても、お前だけは......」
 彼女は俺から目を離さないまま、うんうんと何度も頷いた。数拍置いて、ありがとうという声が聞こえた。
「すごく嬉しいよ、話してくれてありがとね」
 彼女は照れくさそうに頬を掻いた。しかしすぐに、ところでさ、と続けた。
「『いきたい』ってどういう意味で?」
「......お前の好きなように解釈してもらって構わない」
 そっか、と彼女はそれっきり黙り込んでしまった。


 味気もないクラッカー状の野戦糧食を口に運ぶ。備蓄されていた食糧は軍時代に食べていたものと変わることはなかった。バリバリと、食事をする音がやけに大きく感じられた。
 目の前の彼女をじっと見つめる。俺よりも小さなその口で一生懸命頬張っている。可愛いな、と思っていると、急に彼女は食事を止めてしまった。
「ねぇ、さっきの話だけど」
 野戦糧食を机に置き、口を軽く拭いながらそう言う。俺も一旦食べるのを中断する。
「『いきたい』の意味、私なりに考えてた......先に謝っておく、ごめんね......」

 薄々気付いていた。彼女が俯きがちに問うてきた時も、夢はもう叶った、とどこか吹っ切れた表情をしていた時も。彼女が何を望んでいるか、分かっていた。
 優しい彼女のことだ。俺にそれを告げることで、罪悪感を抱いてしまうに違いないだろう。
 だから、俺が  。

「あのね、私と  」
「ちょっと待って。俺からも言いたいことがある」
 彼女は大きな目をぱちくりとさせ、首を傾げた。その様子が可笑しくて、でも愛しくて。俺は思わず笑みが零した。少しして、気を取り直し口を開く。

「俺と一緒に  死んでくれない?」

 彼女が目を見開いた。机に預けられた握りこぶしが小さく震えるのが見える。俺は黙って彼女の答えを待った。

「......うん。私もね、同じこと思ってた」

 数秒後に発せられた彼女の声は、予想以上にしっかりとしていた。芯のある、だけど柔らかな大好きな声だ。
 死ぬことが決定したというのに、俺も彼女も驚くほど落ち着いていた。それどころか、これからデートの予定でも立てるかのように、死に方をあれこれ話していたのだ。お互いの首を絞めるだとか、生命維持装置を壊すだとか。どうやって死のっか、と彼女は屈託もなく笑うのだった。カフェで恋人が談笑するようだった。

   そういえば、俺は目の前の彼女に恋人らしいことをしてあげられたことはあるだろうか。軍人という職業のせいで、デートすらもしたことがないのに。それに、彼女の夢はまだ叶ってないじゃないか。
 そう思った俺はガタッと席を立ち、備蓄庫へ向けて駆け出した。どうしたの? と心配そうな彼女の声が聞こえてくる。
「ごめん、すぐ戻るから」
   確か、あったはずだ。


 数分後、俺は彼女のもとへ戻った。
「さっきはどうしたの? 急に飛び出し......て......」
 彼女の声が尻すぼみになる。彼女の視線は俺が手に持っている白い布に集中していた。
「え......? それは......?」
「......ドレスじゃなくて申し訳ないけど」
 俺は持ってきたそれを彼女の頭にそっと被せた。

「さっきは一緒に死んでほしいって言ったよな。もう一つ、最後のわがままを聞いて欲しい......俺と  結婚してくれますか?」

 ぽかんとしていた彼女だが、みるみるうちにその目には涙が溜まってくる。やがて、彼女の顔には一筋の線が描かれた。
「......はい、喜んで」
 泣きながら笑う彼女は、即席のウエディングヴェールに愛おしげに触れた。


 結局俺たちは、宇宙空間に飛び出して死ぬことにした。彼女曰く、『最後まで宇宙に迷惑かけて死んだほうが、なんだかドラマチックじゃない?』だそうだ。俺にはよく分からなかったが、彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。
 昔何かの本で読んだことがある。生身の人間が宇宙に飛び出すとどうなるのか。体が爆発したり、全身の血が沸騰したりするなどと言われていることは嘘で、本当は、じわじわと窒息死するということ。
 まあ、どんな死に方をしようが俺らは俺らであることには変わりないだろう。全人類を犠牲にしてまで心中する、最低最悪のカップルなのだ。


「後悔してるか?」
「ううん......全く」
 繋いだ手には、一切の震えが伝わってこない。彼女が言っているのは本当のようだ。でも俺はもう一度、彼女の手を固く握り直した。花嫁を安心させるために、伴侶を落ち着かせるために。
 俺たちの目の前には、一つのボタンがある。これを押すと、宇宙空間へと通じる唯一の扉が開く仕組みになっている。
 ゆっくりとボタンに手を伸ばす。あと一〇センチ。

「ねぇ、私ね」

 あと七センチ。

「最後に貴方と結婚できてよかった」

 あと五センチ。

「俺もだよ......ずっと大好きだから」

 あと三センチ。

「うん......私も」

 あと一センチ。

「「じゃあ、逝こっか」」



   カチッ。


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