異端少女の魔法道(3) 水原ユキル 〇前回までのあらすじ 月城琥珀は闇の想力を使う魔法少女だった。自分の力が嫌いな琥珀は人目を避けるようにずっと生きてきて、高校でも平凡な学生生活を送ろうとしていた。 しかし、ある時先輩の魔法少女であり、闇の想力使いでもある星堂永と出会う。永は琥珀の闇の想力を認め、ギルドへの加入を誘った。仮加入することになった琥珀は初めての学外試合に参加するが、そこで永の用いた闇の想力に驚かされる。ギルドに仮加入となった琥珀は先輩の永と、その幼馴染である桐谷ソラと共に魔法少女としての成長を目指と一旦は決めたものの......。 〇登場人物解説 月城琥珀 所属:飛翔学園高等部総合進学コース新一年生 ジョブ:フェンサー ランク:C 座右の銘:石の上にも三年 黒髪を肩口で切り揃えている。派手さは強くないものの、愛嬌のある顔が可愛らしい印象を醸し出している。クールそうな名前がついている割には性格が引っ込み思案。自分の想力が闇であるがために自分の能力を忌避している。特別弱いわけではないが、目立った強さがあるわけでもなく、中途半端な自分を嫌っている。総合進学コースを選んだのも、なんとなく楽そうだからという消極的な理由である。 戦闘魔装は《ヨイヤミ》。上は丈の短いトップスにハーフフィンガー型の長手袋、下はホットパンツにブーツ。首元に巻くスカーフ。特徴はどれも色が黒で統一されていることと、女性のしなやかな体躯を生かすためか軽装なデザインだということだ。軍服と忍者服を足して二つで割ったようなイメージがある。 桐谷ソラ 所属:飛翔学園高等部想力研究コース応用想力学専攻新二年生 ランク:B ジョブ:ウィザード 座右の銘:寝る子は育つ 琥珀の先輩。腰まで届くような若草色の髪ときつそうな印象を与える目元が特徴。永とは対照的に毒舌であり、先輩後輩関係なく不遜な態度を取る。居眠りをよくするなど、生活はややだらしない。永とは幼なじみ。ソラもまたトップレベルの実力を持つウィザードであり、想力研究コースの主席入学者でもある。琥珀に対して辛辣に接するが、永曰く「面倒見はいい」らしい。 星堂(せいどう)永(はるか) 所属:飛翔学園高等部想力技術者育成コース想力技術学専攻新二年生 ジョブ:フェンサー ランク:A 座右の銘:誠心誠意 琥珀の先輩。亜麻色の長い髪を後ろで三つ編みにまとめている。おっとりとした物腰で常に笑っているかのような穏やかな印象を受ける少女。ただし、バトルの時になると本気になる。これは彼女が「試合においては全力でぶつかることこそが相手への礼儀」と考えているからだ。お嬢様のような言葉遣いをするが、一人称は「ぼく」。母は定食屋「かつどん亭」を営んでおり、特別裕福というわけではない。また、味覚音痴でもある。 戦闘魔装は《シンゲツ》。琥珀の《ヨイヤミ》とそっくりなデザイン。違う所は巻いているスカーフが赤色であることと、下がスカートであることだ。 〇用語解説 想力(イマジン) 魔法少女のエネルギーであり、異能であるスキルを発動させるための源。これらに適性を示さない者は魔法少女になることは絶対に不可能である。闇の想力という、光の想力とは正反対の属性を持つ力もあるが、これは不吉の象徴とされている。 戦闘魔装(コスチュームデバイス) 対となるトランスフォンを起動させることにより、召喚できる衣装。魔法少女はこれを身に纏うことにより、変身前とは比較にならないほどの戦闘力を発揮できる。 想力援(ブースタ)具(ー) ごく一部の戦闘魔装を纏うことで召喚できる特殊武器。使いこなせれば桁外れのスキルを発動し、想力援具を持たない相手など瞬殺できるほどの力を発揮できるだろう。その分扱いも難しく、熟練には無二の才能と尋常ではない努力が不可欠となる。 トランスペン 戦闘魔装を呼び出すために必要なスマートフォン型端末。魔法少女となる者はまず、これを使いこなせるようにならなければその資格を得ることはできない 魔法少女 想力に適性を持ち、戦闘魔装を身に纏いスキルを操る特異存在。上位クラスの者になると個人固有の武装である想力援(ブースタ)具(ー)を召喚し、より高度なスキルを発動できる。 魔法戦士 魔法少女の中でも特に強い戦闘力を発揮でき、魔法少女学校を卒業した者に与えられる資格。 ランク 魔法少女としての強さを表す指標。最高はS、最低はE。大半はDランクであり、全体の七割を占める。想力援具を呼び出すには最低でもCランク以上の力が必要とされる。攻撃力、防御力、想力量、魔法力、敏捷性などのステータスも参照し総合的に判断する。 魔法少女学校 魔法少女たちを育成する学校。中高一貫制が多い。飛翔学園では適性が異なる魔法少女たちを考慮し、複数のコースを用意し、またペンシル型想力の開発にも成功した。魔法戦士だけでなく多くの想力技術者を送り出している。 ジョブ 魔法少女たちの戦闘スタイル。ウォーリア、フェンサー、シューター、ウィザードの四種類があり、それぞれのジョブごとにステータスの傾向があり、得意とするスキルや戦法にも差が見られる。戦闘魔装ごとにジョブは決められており、魔法少女たちは途中からジョブを変えることは不可能といわれている。 ウォーリア ジョブの一つ。最も多いジョブであり、魔法少女たちからの人気も高い。ギルドの攻撃役や守備役まで幅広く担える。戦法はスタンダードなものであり、直接敵を体術によって攻撃する。ステータスは攻撃力がやや高い傾向にあるが、全体的にバランスは良く、伸び代も多い。初心者から一流の魔法戦士まで広くこの役割を担っており、汎用性が高い。 フェンサー 速攻を重視したジョブ。敏捷性と攻撃力、魔法攻撃力に長けた者が多く、やられる前にやることを重視している。有利な相手にはほぼ一方的に完封できるが、敏捷性を殺されると防御力の低さが露呈する。いかに有利な状況を作り、相手への攻撃を仕掛けられるかが戦術の鍵となる。 シューター 主に遠距離攻撃が得意なジョブ。《ショット》の技術と敏捷性はジョブの中でもずば抜けている。ウォーリアの次に人気。想力援具は弓や銃飛び道具に関連する物が多い。遠距離攻撃なら無敵の強さを発揮するが、反面防御は低めで肉弾戦は苦手。得手不得手がはっきりと分かれ、いかに敵に接近されないように攻撃を仕掛けるかが鍵となる。 ウィザード 主に味方の補助や敵の妨害を行い、ギルドの潤滑剤のような役割を担う。魔法少女らしくない陰湿ともいえるようなスキルを持つ者も珍しくない。スキルの特殊さ、戦略の読みづらさは随一であり、魔法防御力も高い。反面、攻撃力には乏しく、搦め手が通用しない相手は苦手。 魔法(ジェネラル)総合戦(コンテスト) あらゆる魔法少女たちにとって誰もが一度は夢見る舞台。全世界の注目を浴びているバトルエンターテイメント。ここに出場できるほどの実力があれば魔法少女管理機構から補助金をもらえ、まして優勝の座を勝ち取った暁には一生遊んで暮らせるほどの賞金が手に入るという。決勝戦はいわば最強の魔法少女を決める戦いだ。 第三章 初めての決意 1 夢を見ていた。 成長していく少女たちに、いつか与えられる魔法の力。 周りの少女たちには小さな白い光が降ってきて、可愛らしい衣装に身を包んで羽ばたいていく。 なのに琥珀だけはどす黒い何かを与えられ、取り残された。 くすくす、くすくす、と嘲笑が響く。 それがとても耐えられなくて、琥珀はずっと隠れていた。目立たないように、じっと。 本当は怒りたかった。 どうして自分だけが闇の力なの。闇の想力に選ばれることがそんなに悪いことなの、と。 だけど、琥珀の声を聞こうとする者はいない。琥珀自身が声にしていないからだ。 だって、変な目で見られたくなかったから......。地味な子として大人しくしていれば楽だったから。 そして、何の声も発せず、ただじっとしていただけの琥珀はいつか空気のように消えていった。 目が覚めてからも、琥珀はしばらくぼんやりしていた。 嫌な夢に限って妙に記憶に残ってしまう。先ほどの夢は、もしかすると自分の本音なのかもしれないと考えていた。 ギルドの加入について迷いが消えていないといえば嘘になる。決断力が鈍いのは自覚していたが、仕方がない。実際そう考えてしまうのだから。 琥珀は体の重さを感じながら、ベッドから出た。 飛翔学園の総合進学コースでは基本的に午前中は一般科目の授業が中心であり、午後は想力の知識を学ぶ授業が多く取れるように授業が開講されている。琥珀は午前中で比較的得意な文系科目で単位を稼ぎ、午後は永に紹介してもらった授業を試そうと考えていた。 総合進学コースは幅広い進路が選択できる一方で、研究者の養成を目的としている研究コースや、魔法総合戦を目指し、その他想力の技術者を育成することを理念としている技術者育成コースに比べると専門性では劣る。とはいえ、進路がぼやけたままの琥珀には丁度いいというのが本音ではあったが。 午前は英語と国語の授業を受け、午後は想力の歴史を学ぶ授業を取った。嫌な夢を見て集中できるか不安だったが、ひとまず居眠りすることなく終えられた。 放課後になると琥珀は『フォルトゥーナ』のオフィスへと向かった。正式なギルド加入になれば、「ギルド研修」という科目として単位が付与されることが決まっていた。それが目的というわけではないが、単位がもらえるというのであれば動機はどうであれ行く必要はあると思った。 「お疲れ様です。......あれ?」 オフィスに入ってまず目についたのは机に山積みになっている紙の束。電子書籍が主流になっている飛翔学園だが、重要な書類などは今でも紙が使われている。他にも使い心地がいい、紙の方が記憶に残りやすいなどの理由から今でも紙の書籍を愛好する者は多いのだ。 すやすやと寝息を立てながらソラがソファで寝ていた。彼女の横には空間ウインドウとキーボードが浮かんでいる。その画面には難解な数式や語句の行列が連なっており、琥珀の脳は見た数秒で理解を放棄していた。 「んあ......?」 琥珀の存在に気づいたのか、ソラが目蓋を擦りながら彼女を見た。 「ソラ先輩、お疲れ様です......。あの、先輩は何を?」 「何って......論文の作成状況報告が来週なのよ。ふあ......、めんどくさ......」 そう言ってソラは紙の束を顔に被った。寝直すようだ。 「ろ、論文の作成......?」 「あたしの所属してるところはそうなのよ......」 「ソラは将来有望な想力研究者として期待されているんですよ」 振り返ると、スクールバッグを肩に提げた永と目が合った。 「研究者として、ですか?」 「はい。ソラは研究コースの首席入学者ですから」 琥珀は目を丸くしていた。研究コースというだけで優秀そうなイメージがあったが、ものぐさそうにしているソラが、その中でもトップだというのは失礼かもしれないが驚きだった。 「ソラ、起きてください。そろそろギルド活動を始めますよ」 「んー......はいはい......」 大きな欠伸とともにようやくソラは体を起こした。髪が乱れ気味だった。 「また徹夜をしたんですか?」 「しょーがないでしょ。夜の方が集中できるんだし」 苦笑がちに訊いた永に、ソラは手櫛で髪を整えながらぼやいた。 「今日の活動は大丈夫ですか? ソラにも手伝っていただきたいのですが」 「別にいいわ。気分転換になりそうだし」 半分寝惚けたような顔でのっそりと立ち上がったソラは台所へ向かった。冷蔵庫を開け、ペットボトル入りのジュースを出して口につけた。 「で、今日は何すんのよ」 「はい。名付けて『闇の想力強化プロジェクト』です」 「闇の想力強化プロジェクト......?」 訝しげに眉を寄せたソラはソファに戻ると、もたれるようにして座った。琥珀も聞き慣れない単語に首を傾げていた。 「ぼくたちは闇の想力の使い手です。だとしたら、これを伸ばさない手はありません。そしてぼくと琥珀はフェンサーですし、同じジョブであることも利用しようと思っています」 「で、そのために練習メニューを永が考えた、っていうの?」 「勿論です」 どこか誇らしげに頷く永に、ソラは大儀そうに髪をかき上げた。 「具体的には何を考えたわけ?」 「基本的にはソラの研究成果を踏まえた練習をするつもりです」 ソラの研究成果がどういうものなのか琥珀は知らない。ただ、永の口振りからするとソラの成果を永が信用していることは窺えた。 「あー......、まあ、それはいいけど、初日から琥珀にやらせるのはハードじゃないの?」 「問題ありません。初めは琥珀がどれくらいの力か見せていただくだけですから」 永がちらりとこちらを見た。その目には期待が込められていて、嬉しいというよりは、プレッシャーの方が強く感じた。 「では皆さん、今日は第四闘技場で行いましょう。......と言いたいのですが、実は先生から急に呼び出しが入ったので、ぼくは少し遅れます。申し訳ございません」 永は本当にすまなそうな顔で謝罪を口にした。 「構わないわ。アップしてればいいんでしょ?」 「はい。すみませんがソラ、少しの間お願いします」 「ん。早く行ってきなさい」 永は小さく頭を下げると、足早に部屋を出て行き、ソラと琥珀だけが残された。 ソラはまた「ふわぁ......」と欠伸をしてソファから起き上がると、ギルトカードを琥珀にずいと寄越した。 「あ、あの、これで何を?」 「何を、じゃないでしょ。闘技場に行ってセットしてきなさい。やり方はわかるでしょ?」 「ソラ先輩は?」 「だるいけど、一応身なりを整えておくわ」 そう言ってソラは奥の部屋に引っ込んでしまった。 琥珀はむっとしていた。ソラの投げやりな態度に不満と困惑を覚えていた。とはいっても、このまま何もしないでいたら文句を言われそうだ。仕方なく琥珀は人知れず嘆息し、闘技場へと向かい始めた。 2 闘技場に入った琥珀は入り口付近に置いてある機械にギルトカードを通した。電子音が鳴り、パネルにメニューが表示される。画面の指示に従いながら、琥珀は闘技場の使用目的を「練習・試合用」に設定した。その瞬間、闘技場の壁と床がグリーンに発光した。これは障壁が準備されている合図であり、透明になった時に異能の使用が許可される。 先輩たちを待っている間、琥珀はぱしりのように扱われたことを思い出してまた気分が悪くなった。 桜希学園との試合の後、ソラは本気で魔法総合戦を目指しているように思えたが、それが嘘であったかのように今日の彼女はぞんざいだ。いや、雑にしている時の方が彼女の素なのかもしれない。頭は良いのだろうが、どうも馬が合いそうにない......と、やや消極的なことを考えていた時だった。 「あれ、月城さん、だよね?」 はっとして横を見ると、そこには同じ制服を着た三人の少女。その中心にいたピンク髪の少女がこちらに近寄ってきた。 「あたし、同じクラスの湊陽乃(みなとひなの)だけど、覚えてる?」 「うん......」 人付き合いが上手でない琥珀でも、陽乃の名は知っていた。入学式の時に新入生代表の挨拶を務め、進学コースの中でもトップレベルの成績優秀者だ。友達もたくさん作っているようで、同じ人間とは思えないくらい優れた生徒であることは疑いなかった。 「あのさ、闘技場使いたいんだけど、他のギルドで取られちゃっててさ、悪いけど代わってくれないかな?」 愛想笑いを浮かべ、手を合わせてきた陽乃。少し前の琥珀であればあっさりと承諾していたはずだ。ところが、今は素直に承知できない事情があった。 (先輩たちに迷惑がかかっちゃうよね......) 仮とはいえギルド加入中だ。ソラはともかく熱心な永は闘技場を取られたことをどう思うだろう。怒りはしないだろうけど、がっかりするとは思った。 「ね、お願い。あたしたち、次の実技試験もあるし、魔法総合戦も目指してるの!」 琥珀は言葉を詰まらせた。何でもかんでも言いなりになってきた琥珀は上手な断り方をまるで知らなかった。 「ダメなの?」 陽乃は不安そうに顔を曇らせた。胸が苦しくはなるが、いい加減断りの意思ははっきりさせておきたかった。 「うん、今はちょっと......無理かな」 結局出てきたのは、そんな歯切れの悪い返事。ただこれでも琥珀としては精一杯の拒否だった。 だが次の瞬間、陽乃の印象ががらりと変わった。化けの皮が?がれた、と表現すべきだろうか。剣呑な雰囲気を纏い、侮蔑の視線を無遠慮に投げてくる。琥珀の背筋が冷たくなった。 「月城さんって闇の想力を使うんだよね?」 「そう、だけど...(3 目立たないようにしていたつもりだったが、やはり人の噂は止められないらしい。琥珀は激しく動揺していた。 「だったら、光の魔法少女のために譲るのが当たり前じゃない?」 陽乃は明らかに苛立っていた。その苛立ちは他の少女にも伝染したようだ。 「陽乃の言う通りでしょ。まったく、闇の魔法少女なんて邪魔でしかないのに、なんでこの学校は受け入れてんだか......」 「あんた、少数派だからって調子に乗ってるんじゃないの?」 取り巻きの少女たちが中傷の言葉をぶつけてくる。 (私だって、好きで闇の想力を使ってるわけじゃないのに......!) そんな反論は擦れた息となるだけで、声にならなかった。 琥珀の鼓動が乱れ始めた。足元が震える。中学校の頃、光の魔法少女に逆らったせいでクラスから除け者にされた少女のことを思い出していた。謂れのない侮辱を浴びせ、徹底的な仲間外れを行い、とにかくその少女を排除しようとクラスが団結していた。その時の険悪な雰囲気が脳裏に蘇ってきて、琥珀の額には気持ち悪い汗が浮かんだ。 「ご、ごめんなさい。すぐ、すぐ代わるから......」 ふらつきながら琥珀は機械に近づき、ギルトカードを抜き取った。それでやっと陽乃たちが笑顔になった。ただ、琥珀にはその笑みが不気味なものにしか映らなかった。 「わかればいいの。次から気をつけてね、月城さん」 陽乃たちはおそらく罪悪感など持ってはいない。ただ致命的に琥珀と考えが相反しているだけなのだ。光の想力を与えられた彼女は、闇の想力という異質なものは最初から理解の範囲外だった。それだけのことなのだろう。 琥珀は幽霊のような足取りで闘技場を出ようとした。今はこの嘲りが込められた視線から逃げたい。琥珀の心はそれに支配されていた。その時だった。 「ごめんなさい。待たせたわね」 緊張感のない声と共に、少女が長い緑髪を靡かせながら入ってきた。 その姿を見て琥珀は息を呑む。彼女がソラだとわかるのに数秒の時間を要した。 乱れ気味だった髪はきっちりと整えられ、制服も皴一つない。ぴんとした美しい姿勢がソラのモデル顔負けの長身と体躯を際立たせており、そこにいるだけでソラがピカピカと輝いているのではないかと錯覚するようだ。 「? こいつら誰よ?」 陽乃たちに気づいたソラが胡乱げに訊いた。 「月城さんが譲ってくれたんです。あたしたち、練習場所に困ってたんで」 ソラが先輩だと見た途端、急に態度を一変させ、にこにこ顔になる陽乃。琥珀は下唇を噛んだ。昔から人によって態度を変える相手が嫌いだった。 「琥珀が?」 「はい。ね、月城さん、そうだよね?」 笑顔が琥珀に向いた。が、その裏には威圧が込められているように見えた。 「って言ってるけど、そうなの?」 ソラも琥珀の方を見る。その顔に表情はなく、特に怒っているような様子はない。だが先輩を前にするとどうしても後ろめたさが湧いてくる。 (は、早く返事しなきゃ......) 焦る琥珀だが、ソラと陽乃の視線に耐え切れなくて、下を向いてしまった。 ああもう、自分はどうしていつもこうなのだろう。 意思が弱いせいで返事を濁してしまう。それで周りに迷惑をかけることなんてわかりきっているのに......。 先輩には申し訳ないけれど、ここは引き下がるしかない。事を荒立たせたくないから。 「そうです......」と、琥珀の口から出かかった時。 「ねぇ琥珀」 と、ソラのよく通る声が耳朶を叩いた。 「あたしが前に言ったこと、覚えてる? 納得してないなら行動しなさい、って」 はっとして顔を上げる琥珀。 普段のソラとは違う、神妙な顔つきになっていた。 納得してないなら行動してみることを勧めるわよ。 そうだった......。 納得なんてできるわけがなかった。 横取りされる理由なんてない。自分たちが闇の魔法少女だからって差別を許していいわけがないのだ。 そう思っているからこそ......今こうして怒りを覚えている。 これこそが「納得していない」という気持ちなのだと今になって気づいた。 深呼吸をした。他者に歯向かおうとしている。そう自覚するだけで足が竦みそうになる。 でも、自分を変えられるかもしれないと思っていたのは誰だったのか。 変わりたいなら行動するべき時だった。 「私......譲るなんて言ってない!」 勇気を振り絞って叩きつけた言葉は、その場にいた全員の耳朶に響いた。 しん、と静まり返る。陽乃たちが呆然とする中、ソラだけが何かを納得したような顔になっている。 「生意気言わないでよ、闇の魔法少女のくせに......!」 整った顔を歪め、陽乃が怒気を露わにしてくる。怯えそうになる琥珀を庇うようにソラが前に出た。 「そういうわけだから。ここはあたしたちが使うことになってるの。下がりなさい」 「なんで先輩も闇の魔法少女を庇うんですか............って、ああ」 大げさに陽乃は頷いた。彼女は笑ったが、明らかにその顔は強張っている。 「先輩も闇の魔法少女なんですか。よく途中で退学になりませんでしたね」 「へえ」 後輩からの嘲りにも顔色一つ変えず、冷めた顔で髪の先をいじる。 「弱い犬ほどよく吠えるって言うけど、まさにあんたみたいな女にぴったりね」 「なんですって......!」 陽乃の額に血管が浮いた。一瞬にして緊迫した空気に包まれ、琥珀はおろおろとする。 一方でソラは、相手を挑発しつつもじっくりと相手の力量を探っていた。プライドの高そうな人間ほど挑発には弱い。しかも光の想力に思い入れのある少女は闇の想力を嘲っていることが多く、それの使い手である少女が逆らってくるのは彼女たちの沽券に関わるのだろう。案の定、陽乃は簡単に冷静さを失わせていた。 「文句があるなら戦う? 一度でもあたしに攻撃を当てることができたらあんたの勝ちでいいわ」 「はぁ......?」 耳を疑った、というような陽乃の顔。 「いくらなんでも舐めすぎじゃないですか?」 「舐めてなんかないわ。勝負を公平するために配慮してあげる、って言ってるの」 「それを舐めてるって言うんでしょ。馬鹿にして......!」 「んで? 戦うの? 戦わないの?」 軽蔑を込めた声を出すと、陽乃の顔がさらに歪んだ。 「いいですよ。後悔させてあげます」 「決まりね。じゃ、アップ含めて十分後に」 「ちょっと!」 何か言いたげにしていた陽乃と、その仲間たちの抗議めいた視線をソラは華麗に無視。くるりと背を向け、控室へと歩き出した。 「せ、先輩!」 控室まで入ったところであたふたと琥珀は声をかけた。 「何よ慌てちゃって」 「だ、だって勝負だなんて......!」 「あたしがやるんだからあんたは問題ないでしょ。それとも何? あたしがあんな奴に負けると思ってるの?」 「いや、そうじゃないですけど......」 実を言うと、ソラの力はまだよく知らないから不安もないわけではないのだが、それは黙っておいた。 「さすがにきつく言い過ぎたんじゃ......」 ソラは大きく吐息をついた。出来の悪い生徒を前にした教師のような顔だ。 「あんたほんと何もわかってないのね。少しは自分で考えるっていう習慣をつけなさいよ」 「え......」 突然の辛辣な物言いに困惑する琥珀。 「わからないなら黙って見てなさい。説明は後よ」 不機嫌そうな顔からは真意は読み取れなかった。ただソラから自分が負けることはありえないという確証めいたものは感じられた。 3 「すみません、私のせいでこんなことになっちゃって......」 「気にすることはありません。相手の方々が失礼過ぎただけです」 観客席のソラ側には琥珀と、少し遅れて来た永。事情を話してみて怒られるかと思ったが、永は琥珀を叱るどころか思いやってくれた。 「むしろぼくは琥珀が相手の方々に場所を譲った方が心配になってしまいます。納得していないのであれば、その意思をはっきり示したことを褒めてみてください」 「はい......」 口は悪かったけどソラは確かに助けてくれた。そのことは感謝したいが、今はどちらかといえば申し訳なさの方が大きかった。 「ソラの戦いを見られるのですから今は彼女の戦いを見て勉強してください。むしろ、いい機会になったとも言えます」 それは琥珀もまあ同意できた。こんな形にはなったが、ソラの戦いを実際に学べる機会ではある。 「ソラ先輩って......めちゃくちゃ強いんですか?」 「はい。油断していれば......いえ、今のソラは本気を出してもぼくは勝てるかどうかわかりません」 フィールドの開始線上に立つソラの後ろ姿を見る永は、もう笑っていなかった。 それは友達に確固たる信頼を寄せている証のようにも見えたが、もっと相応しい表現がある。 それは強敵にまみえ、武者震いをしている時の戦士の目。 ソラの力を認め、信じ、そして畏れている。永はそんな目をしていた。 想力が急速に練り上げられる気配を察し、琥珀の意識はフィールドに向けられた。 「あたしの声に応えなさい。《アルラウネ》」 さして声を張り上げることなく起動コードを唱え、戦闘魔装を呼ぶ。 足元に展開したエメラルドグリーンの魔法陣から翡翠の光の砂が粉雪のごとく舞う。 眠るように瞑目したソラを彩るように、光の砂が蔓のごとく曲線を描く。 祈るように両手を合わせたソラが静かに浮かんだ刹那、光の蔓が彼女の長躯を包んだ。 華麗な舞いを踊るかのごとく、体を回した瞬間、戦闘魔装との接続が完了した。 戦闘魔装《アルラウネ》。 一言でその姿を言い表すなら、植物の妖精だ。 元々美麗だったソラの緑髪は、さらに鮮やかな若草色へと変わり、その髪に花びらを模した髪飾りが載っていた。 ライトグリーンのミニのワンピースに身を包み、下は限りなく黒に近い濃い緑の靴が太股まで覆っていた。スカートの部分は花びらをかたどったデザイン。両腕は靴に近い緑の長い手袋。 魔法少女というよりはファンタジー映画に登場するような妖精に近い。半透明の翅が二枚ついていることからもその印象が一層強まる。 対する陽乃は、異端派とも言えるようなソラの服にやや面食らいつつも、相手の力は大したことなさそうだと推測していた。 陽乃は学生服をアレンジしたような、ピンクを基調にした衣装を身に纏っていた。 ソラのジョブはウィザードであり、陽乃はウォーリアだった。 複数戦ならともかく一対一での戦いでウィザードに負ける気はしなかった。 ウィザードは味方の補助や敵の妨害には長ける反面、攻め手には欠ける。バトルの潤滑剤のような役割としては適しているかもしれないが、一対一の戦いなら小細工は通用しにくい。いくら特殊なスキルがあるといっても、相手のペースにならないうちに叩き潰せばいい。それは対ウィザード戦でのセオリーだ。 それがソラにも通用するかどうかは別問題だが......陽乃は不敵に笑んだ。 陽乃だって、光の想力を物にするために励んできた。 陰湿な異能を使うウィザードは嫌いであったし、まして邪道な闇の想力を使う少女は陽乃にとって目の敵だ。 だから、ソラの暴言は頭に来た。力をもってわからせてやるしかない。 ぶっ倒してやる 眼前の妖精じみた少女を睨みつけた。しかし、ソラは彼女の敵意を乗せた視線などどこ吹く風で、髪をいじっている。その余裕ぶった仕草が一層陽乃を刺激した。 「桐谷先輩......ルール、覚えてますよね?」 「一度でもあたしを攻撃できたらあんたの勝ちでいい、でしょ? 構わないわ」 「一瞬で終わらせてあげます」 「圧倒的な力の差ってものを見せてあげるわ」 両者は短い舌戦の後に身構え、試合開始を待った。 甲高いアラーム音の後、陽乃はソラに飛びかかった。 「うりゃあああああ!」 陽乃は一瞬で間合いを詰め、ソラの胸元を狙って掌打を繰り出した。荒っぽいように見えて、その実角度、タイミング共に洗練された一撃だった。小細工ごとぶち抜く攻撃は敵を一瞬でスタンさせる はずだった。 「は?」 命中はした。が、陽乃の手はソラの姿をすり抜けた。水面に映ったソラを殴ったのかと錯覚するような光景だった。先程までソラだと思っていた幻影は水に溶けるようにして消えた。 (幻惑魔法の一種ね......まあ、これくらいしてもらわなきゃ歯応えがないわ) 発動の早さには驚いたが、陽乃も伊達にバトルを潜り抜けてきたわけではない。今までの知識を引っ張り出して、次の一手を計算する。 (そこね!) 三秒の判断で、ソラの場所を察知した陽乃は即座に身を翻し、後方に潜んでいたソラを狙って駆けた。ソラが驚愕の顔を見せる。スキル発動までに仕掛けることに成功し、陽乃はほくそ笑む。これで相手は戦術を中止せざるをえないはずだ。 「せぇああああっ!」 裂帛の気合いと共に放たれた飛び蹴りは、直前でジャンプによって回避される。 陽乃は着地と同時に、ソラの降り立つ位置を狙って蹴りを放つべく構える。が 「っ!」 上から聞こえてきた羽音を感じた瞬間、陽乃の中で危険信号が点滅した。 見ると、中空には翅を広げてホバリングするソラ。細かな羽ばたきを見せる翅からは薄緑に発光する粉が撒かれていた。 本能が警告を発し、これを吸い込むべきではないと命じるが、遅かった。 「《シルフィードブロウ》」 ガラス製のベルを鳴らした時を思わせる透明感のある声が陽乃の脳に届いた直後、肺に猛烈な痛みを感じた。粉に含まれた毒の効果だ。 「かっ......!」 陽乃は倒れそうになるのを寸前で堪えるが、ソラの魔法技術の凄まじさを侮っていたことを思い知らされる。脂汗がどっと噴き出し、息が苦しくなる。 (でも、まだまだ......! そっちがスキルを使うならあたしも!) 光の想力を総動員し、足へと集中させる。燃えるような熱を感じた瞬間、足を大きく後ろに引き 「《ブラストシュート》! 吹っ飛べぇええ!」 渾身のハイキックを繰り出した刹那、エネルギーの塊が光の波濤となってソラに押し寄せた。耳がおかしくなりそうな轟音を置き去りする勢いで迫る激烈な光の波は一人の少女など一瞬で飲み込んでしまう。 という陽乃の目論見をソラは陽乃が技を出した直後コンマ数秒の世界で見抜いた。 (随分と力に自信があんのね。そういう態度は嫌いじゃないけど......) だが、見抜いたところでどうする? 陽乃は正面から戦いを挑む正統派のスタイルだ。言葉だけなら容易いが、それを本気で極めた者は意外に多くなく、またその戦法は実はウィザードにとって厄介なのだ。 なぜなら、ウィザードは相手の弱点を抉り、いかにこちらのペースに巻き込むかが鍵となる。単純な一方で、戦法に隙を見出しにくいウォーリアが苦手というウィザードは少なくない。 なら、どうする? 弱点の少ない相手に対抗するには? (......あたしを倒すには、まだ足りてないわ!) 答えは単純だった。 弱点が少ないのであれば、その数少ない弱点を突けばいい。突けそうにないならそれが出るように仕向ければいい。 そう 本人でも気づいていない、精神の乱れこそが最大の弱点となるのだ。 そして、ソラはウィザードとしての力を極めた異端派。相手の力を乱すことでは右に出る者はいなかった。 「来なさい!」 ソラが右腕を突き出した時、彼女を中心に六角形を描く形で閃光がちらりと瞬いた。 刹那、風を切る音が鳴り、光の矢が 否、植物を変化させたような鳥が光に包まれながらエネルギーの津波に特攻した。 六羽の植物の鳥が波に呑まれた直後、猛烈な爆発。目も眩むまばゆい光が弾け、陽乃の視界は突然のフラッシュに白く覆われ、そのまま意識ごと飛ばされそうになった。襲ってくる暴風から顔を腕で守りながら、陽乃は腰を落として踏ん張った。 (一体何が起きたっていうの......?) ソラが繰り出したのはおそらく《ショット》の応用形のはず。威力は大して高くないはず。百歩譲って必殺の《ブラストシュート》を打ち消すだけの力を持つ理由なんてあるはずがない。なのになぜ......? だがその疑問が解消されることなく、陽乃はさらなる驚愕に襲われる。 陽乃の視界を埋め尽くさんばかりに光の粉が舞っていた。 上下左右どこを見ても緑に光る粉で視界が乱される。目を凝らしてみて、フィールド上にいくつもの樹木が乱立していることに気づく。毒の粉はそこから撒かれているのだ。 ウィザードのジョブスキル《領域(エリア・)変化(ハッキング)》。 想力を戦場に充満させ、有利な地形を展開する大技だ。 効果が強力な分、発動までに時間がかかり、隙も大きい。だから一対一での戦いでは《領域変化》を許すことなく勝負をつける。それは常識のはずだ。 (まさか、全部、相手の手のうちだったの......?) いつどんな手段で嵌められたのかわからない、これまでの対ウィザード戦では小細工などさせる前に倒していたから問題なかった。高度なスキルを持つウィザードとの戦いの知識がなかった。陽乃のミスはそれだけなのだろう。 「この!」 半ば自棄になった陽乃は両手を滅茶苦茶に振って《ショット》を撃ちまくる。走り回ってソラの姿を探すが、もう気配すら感じ取れなかった。五感が完全に役立たずの状態になり、徐々に蝕んでいく毒で体がおかしくなりそうだった。 荒い息を繰り返す陽乃は涙目で叫んだ。 「何なの! さっさととどめを刺せばいいでしょ?」 「待ってれば戦闘不能になるでしょ。わざわざ相手の前に姿を出さないわ」 ソラの声は脳に直接響いてくる。距離も方向も混然とし、声から敵の位置を探ることは不可能だった。 「あたしを馬鹿にするのもいい加減にしてよ......!」 「馬鹿になんかしてないなら出ていかないのよ。あたしは肉弾戦苦手なの」 「くっ......」 「なるべく苦痛を長引かせたくはないの。降参しなさい」 毒はじわじわと陽乃の体力を削っていく。悔しいが《領域変化》を打ち破る術なんて思いつかない。どうやらいつの間にか相手の消耗戦に持ち込まれたらしい。ジリ貧は確定。 悔しいが、相手の方が一枚上手だった。 「っ......参りました......」 膝をつき、トランスペンでバトル画面を呼び出すと、陽乃は「降参」のボタンを押した。 そこでようやく、試合場を支配していた霧のごとき粉が一瞬にして消えた。陽乃を苦しめていた毒も嘘のように消える。だが、消耗した体力までは戻ってこなかった。 「お疲れ様。立てる?」 魔法少女姿のままソラは陽乃に手を伸ばすが、陽乃はその手をぱんっと払った。 きっと睨みつける陽乃の目は血走っており、泣き出す一歩手前だった。反面、ソラは敗者を嘲ることも勝利に驕ることもなく、ただポーカーフェイスを貫いていた。 「あんたの戦いは嫌いです......!」 「だから何よ。言っとくけど、あんたの力、見事だったわよ。高等部一年でそれだけの力を出せてる生徒はそうそういないと思うわ」 褒められるとは思っていなかったのか、陽乃は意外そうに瞬きをする。 「でも、考えが固そうだからそれ以上力を伸ばそうと思うなら考え方から変えた方がいいわね。闇の想力を認めろとは言わないけど、その力くらいは知るべきよ。知らないなら教えてもいいわ」 耳にかかった髪を後ろに流しながら冷静にそう言うと、陽乃は再び顔を険しくさせた。 「何でそうなるの......? 闇の想力なんて嫌いなんだから!」 「嫌いなら嫌いでいいわ。闇の想力に無知な人が増えればあたしも勝ちやすいし」 「っ!」 陽乃はソラを突き飛ばすと、闘技場を後にした。その際、涙の粒が飛び散っていた。やや遅れて陽乃の仲間達も逃げていった。その誰もがソラに攻撃的な視線を向けていた。 「せ、先輩、なんだかあの人たち怒っちゃってますけど......」 観客席から試合を見守っていた琥珀は怯えたような顔になりながら永に話した。 「まあ、初見の方にとっては強烈でしょう。魔法少女らしくない戦いの最たるものでしょうし」 永は冷静に頷いていた。ソラの戦いを見て、感心させられているといった顔だった。 「相手のペースを乱しつつ、こちらの戦術に巻き込む。口で言うのは容易いですが、ソラはそのことを極めていますね」 確かに言葉だけなら簡単だ。 問題は、ペースが乱れていると相手にぎりぎりまで気づかせなかった、ということ。 「あの......それで気になったんですけど、ソラ先輩はどんなスキルを使ってたんですか?」 琥珀が問うと、永は真剣な面持ちを向けてきた。 「スキルの問題ではありません。琥珀、確かソラはバトルの前に相手を挑発するようなことを言ったのですよね。それはなぜかわかりますか?」 「なぜって......。 あっ」 少しは自分で考えるっていう習慣をつけなさいよ。 琥珀の脳裏に、ソラの言葉が蘇ってきていた。 「もしかして......ソラ先輩は相手の調子を乱すために、わざと馬鹿にしてたんですか?」 琥珀の出した答えに永は満足げに首肯した。 「そうです。その乱れがスキルの弱点にもなりますから。そこを突けば相手の大技を崩すことも難しいことではありません」 だから、さっきの《ブラストシュート》も......と、納得しかけた。が、すぐにそれがいかに優れた技量であるかを思い知った。 ソラが相手に舌戦を仕掛けた時点で実は勝負を始めていたと言っても過言ではない。 相手に精神の乱れを気づかれないうちに消耗戦へと持ち込む。それこそがソラの戦法だったのだ。 「精神論の問題なんですか......」 「全部がそうではありませんが、重要ではあります。特に闇の想力に関しては負の感情のエネルギーがそのまま力になりますから。ちなみに、この理論を調べてより新しい成果を出そうとソラは励んでいるんです」 「ソラ先輩の研究って、すごそうですね......」 「はい。他にも闇の想力に関することなら幅広く彼女は知っていますよ」 呆気にとられる琥珀。ソラが博識であることもそうだが、闇の想力について知識を深めている魔法少女がいることにも驚きだった。 「......そろそろ、ソラの元に行きましょう」 席を立った永に続いて、琥珀も腰を上げた。 闘技場ではソラが壁にもたれて座っていた。戦闘魔装の解除は済ませていた。 「お疲れ様です、ソラ。具合は大丈夫ですか?」 「平気よ。ま、ちょっと疲れたけどね」 聞きながら琥珀は少し違和感を覚えていた。余裕そうに見えたソラだったが、意外と想力でエネルギーを消費していたのだろうか。 「医務室で休んできますか?」 「いい。あんたと琥珀で練習してなさい」 疲れたようにソラは言い、両目を閉じた。 「では、琥珀。少し予定とは変わりますが、残った時間を使ってアップをしましょう」 「はい......。あの、ソラ先輩は大丈夫なんですか?」 疲労した素振りなど見せていなかった彼女が、急にばててしまったように見える。心配もそうだが不思議に思ってしまった。 「闇の想力の効果の一種です」 「えっ」 「闇の想力に副作用があることが多い......。これは、琥珀もご存知ですよね?」 琥珀が頷くと、永はちらりとソラに視線をやった。 「ソラの闇の想力は強力な分、副作用も強いのです。といっても今は改善された方ですけどね。ソラは想力をある程度使うと、時間差を置いて疲労が来るのです」 想力の副作用。 それは想力ショックとも呼ばれる過敏反応の一種だ。一般に闇の想力の使い手ほどこの作用にかかることが多く、様々な病気の原因となる。発症する確率は微々たるものであり、特に光の想力であればほとんどゼロに等しい病気だ。 だが、琥珀は想力ショックを目の当たりにしたことがある。 かつては誰もが憧れる魔法少女であった姉を一瞬にして台無しにした想力ショック。 唐突に不快感が込み上げてきて、琥珀は下を向いた。 「あんた、なんでそんなにしょげた顔してんのよ」 びくっとしながらソラの方を向いたが、彼女に怒った様子はなかった。 「同情ならうざったいだけだからやめて。あたしの体質みたいなものだから知っておくだけでいいわ」 淡々とした口調からソラは本当に割り切っていることが窺えた。闇の想力に引け目を感じている自分とは大違いだと琥珀は痛感した。 「す、すみません......」 「謝らなくていいわよ。ったく......」 縮こまる琥珀に、ソラは小さく肩を竦めた。 その後は永と琥珀を中心に基礎練習を行い、その日は解散となった。基礎練習は他のスポーツでも行われていそうなランニング、柔軟が中心となる。 体を動かしている時、琥珀の脳を占めていたのは、永とソラの戦いぶりだった。 永はフェンサーとして。ソラはウィザードとして。 二人とも正統派の魔法少女という感じはしない。悪い言い方をすれば、永は命を削るなんて異常な気がするし、ソラも戦法が厭らしい。 だが二人とも己の力を活かして戦い、力を使いこなしていた。 それに比べて自分は......と、琥珀は考えてしまう。先輩なのだからある程度は仕方ないとはいえ、精神面でも技術面でも大きく劣っている自分に琥珀はがっくりときてしまった。 4 用があるという理由で先に帰った永を見送ってから、その日は解散となった。一度ギルドルームに戻り、琥珀が鞄を肩に提げた時だった。 「ねえ琥珀、あんた確か寮生だったわよね?」 「そうですけど......」 「寮の門限まで時間あるでしょ? 放課後、ちょっと付き合いなさい」 ソラに誘われるとは意外 本音を言えば、緊張してしまうのだが、まさかそれを口に出すわけにもいかず、琥珀は「はい」と頷いていた。 ソラに連れられて向かった先は、琥珀の住む寮への道を少し外れた先にある丘だった。 飛翔学園と市街地を一望できる公園に二人は来ていた。橙色の陽光に染まった校舎や街が綺麗で琥珀は思わず声を上げていた。 「いい場所でしょ、ここ。よく永と一緒に来てたのよ」 と、ソラは自動販売機のボタンを押しながら言った。甘味の強そうなココアを選んでいた。 「何がいい?」 「え? いや、いいですよ。私の分は」 「遠慮すんじゃないわよ。先輩がおごるって言うんだから甘えておきなさい」 「じゃあ、レモンソーダで......」 がこん、という音の後に取り出し口からソーダの缶を取ったソラは、それを琥珀に放った。 街を見下ろせる位置に設置してあったベンチにまで場所を移したソラの隣に、琥珀は人一人分ほどの間を空けて座った。 ソラがココアの缶を開け、ぐびりと飲んだ。喉は乾いていなかったが、手持ち無沙汰な上に苦手意識を拭えない先輩と一緒という慣れない空間にいる琥珀は、誤魔化すように缶を開けてソーダを口に含んだ。 「琥珀、あたしのこと嫌い?」 飲み物が器官に入りそうになった。思ってもみない質問に琥珀はけほけほこほんっ、と咳き込んだ。 「い、いや、嫌いっていうか、苦手っていうか............はっ?」 本音がだだ漏れになっている自分に気づき、琥珀は口を塞いだが、遅い。やらかしてしまったことに気がついて、さーっ、と頭から血の気が引いたのだった。 (な、何言ってんだ、私......?) しどろもどろになる琥珀を、じろじろと感情の読めない顔で眺めていたソラだが、ややあって、呆れたような顔で髪をかき上げた。 「あんたほんとわかりやすいわね。この先苦労しそうだわ」 「うぅ......」 しょんぼりと肩を落とした琥珀を見て、ソラは「ぷっ」と小さく笑った。 (あ、笑った......) いつもクールで表情をあまり顔に出さないタイプだと思っていたソラが初めて笑顔になった。できればからかわれた時以外に笑顔を見たかったのだけれど......意外と気分は悪くなかった。 「ま、いいわ。ちょっと冗談言っただけだから気にしないで」 「はい......」 ココアを口に含み、ソラはまた真顔に戻った。 「琥珀は自分の力をどう思ってるわけ?」 「ど、どうって......」 正直な話、否定的な考えしか浮かびそうにない。闇の想力の使い手であるにも関わらず、闇の想力を恐れている。そんな自分が自分の力をどう思うかを訊かれるのは億劫だった。 「琥珀のステータスと練習の様子、見させてもらったんだけど、あんたはもっと自信を持っていいはずよ」 思ってもみない言葉に、琥珀は驚きを隠せなかった。休んでいたように見えてソラは琥珀のことを観察していたのだ。だがすぐに謙遜の気持ちが湧いてくる。 「私、強くなんかないです......。湊さんたちにも言われっぱなしでしたし......」 そこまで言って、今更ながらソラに助けてもらったことへの礼を言っていないことに思い至った。 「あの......助けてくれてありがとうございました」 「あたしがむかついたから勝手に喧嘩売っただけよ。礼なんて言われる筋合いはないわ」 髪の先を指に巻きながらそう言った。 ソラの言い分は筋が通っている。口の悪い彼女のことだから、実際単に喧嘩を売っただけなのかもしれない。 だけど......本当にそれだけの理由で勝負なんて仕掛けるのだろうか? ソラの言葉を疑うわけではないが、琥珀にはどうしても何か別の意図があるのではないかと勘繰ってしまう。その根拠を言えとなると難しいが......。 「そういえば話がまだだったわね。琥珀宛にデータを送ったから確認しといて」 トランスペンを動かして飛翔学園の管理サイトを開いた。そこでは生徒のアカウントが登録されており、学校や魔法少女としてのデータのやり取りを行える。 琥珀のアカウント宛に一通のメッセージが届いていた。確認してみると、先日の練習試合も踏まえて琥珀の傾向、ステータスを分析した詳細なデータとアドバイスの載った評価表だった。 「え、これ、ソラ先輩が......?」 「そ。ま、データ分析はあたしの仕事だし」 綿密に記されているそのデータを見て、琥珀はまずぽかんとしてしまった。やや遅れて感激の意が少しずつ顔を出してきた。ここまで自分のことを見てくれる人に出会えたのは初めてで......彼女はそのことを受け止めるのに時間がかかってしまった。 「あ、ありがとうございます......!」 「勘違いすんじゃないわ。あの勝負バカに頼まれたからよ」 「勝負バカって......永先輩ですか?」 「そうよ。『琥珀も同じメンバーなのですからもっと彼女を知っておいてください』......ってね」 永らしい理由ではある。いい人なのだろうけど、世話焼きな部分があることは琥珀も知っていた。そんな永に頼まれたから。確かに理屈としては通っている。 だけど本当にそれだけの理由でここまで丁寧に仕事をしてくれるものなのだろうか? まあ、事情を考えていたって仕方がない。琥珀がソラを見直したのは本当なのだ。 「琥珀って力はそこそこあるんでしょ? なのになんでそんなに後ろ向きなのよ」 「......」 言うべきなのか迷った。 自惚れているわけではない。ただ、琥珀だって自分の力を落とさないために努力はしてきたつもりだった。それが表向きにできないというだけで。なぜかというと、ただ自分が卑怯なだけだから......。 「言いたくないなら、言わないでもいいけどね。意外と人に話したら楽になることもあるわよ。どうせあたしに友達なんていないから、言いふらすこともないわ。安心しなさい」 さらっと寂しくなることを言わないでください、と内心そう思いながら微苦笑した。 だけど。 (人に話したら楽になる、か......) 本当は誰かに理解してもらいたかったのかもしれない。苦しんでいる自分を、さらけ出してもいい人に会いたかったのかもしれない。 本音を言えば、ソラへの苦手意識は完全には消えたわけではなかった。 でも、この先輩がただの悪い人だとは思い切れなくて......話しても大丈夫かもしれない、と思えた。少なくともソラが面白半分で言っているのではないことは顔を見ればわかった。 悩んだ琥珀だったが、意を決して打ち明けることにした。いつまでも心の底でもやもやを抱える自分と別れたかった。 琥珀は空間ウインドウをタップして、画像ホルスターを表示させた。そこに映し出された一枚の画像を見て、ソラが目を見張るのがわかった。 「先輩もご存知、ですよね......」 儚げな顔でその写真を見つめる琥珀の声はほのかな寂寞に彩られていた。 写真に写っているのは、二人の姉妹と思しき少女。片方は、薄ピンクの戦闘魔装に身を包み、もう片方の小柄な少女が抱きついていた。二人とも笑顔だった。 魔法少女の方にはソラも、いや、魔法少女学校進学者なら誰でもが知っているはずだ。 なぜなら 彼女はかつて魔法総合戦優勝間違いなしとまで言われたスーパールーキー・星谷翡翠だったからだ。 5 星谷琥珀。 琥珀も、姉の病気さえなければ今もそう名乗っているはずだった。 一年前のある出来事をきっかけに、父と母は離婚し、琥珀は母方の苗字をもらった。スーパールーキーの妹というレッテルから逃れたかったので苗字が変わったのはありがたかった。 翡翠と琥珀の想力の目覚めは些細なきっかけだった。 十歳にも満たない時。公園で他愛のない追いかけっこに興じていると突然、翡翠の体がふわりと浮かび上がったのだ。 重力の法則から外れた動きでまたゆっくりと着地した時、しばらくは何が起こったのかわからず、阿呆みたいにぽかんとしていた。だがやや時間を置いて、姉妹は姉の想力の発動を確信し、喜び合った。当時から魔法少女は少女たちの憧れとして浸透し、想力に目覚めることは少女たちにとって喉から手が出るほどに望んでいたことだった。 翡翠が中学校に進む前の検査で、翡翠は抜群の光の想力への適合を示した。それだけにとどまらず、元々勉強もスポーツも優秀だった翡翠はさらに力を伸ばした。 魔法総合戦への出場枠を懸けた地区大会でも、翡翠は他を圧倒的な力で退けて優勝を果たした。当然、彼女は学校からも家族からも祝福されたし、琥珀も姉のことを誇りに思っていた。 「お姉ちゃん! 大会優勝おめでとう!」 「ありがとう琥珀! あたし、これからもっと頑張るね!」 「私も......お姉ちゃんみたいな強い魔法少女になる!」 「琥珀ならきっとなれるよ! 一緒に魔法総合戦にも出ようね」 それはまだ琥珀の検査が終わる前のやり取りだった。まさかこの時は自分が闇の想力に選ばれるなんて夢にも思っていなかった。 あの日、自分の想力が闇だと知った瞬間。 人生の歯車が大きく狂い始めた。 闇の想力。 一般的に光の想力の劣化と見なされる、人間の負の感情を源とするエネルギーだ。 人間の精神は必ずしも良い部分ばかりとは限らない。むしろ、醜い部分の方が多いとすら言える。 集団の中で卓越した才能を持つ者が現れれば、それを潰したくなる。 逆に、自分より劣る者に遜られると気持ちがいい。 そんな醜さが、人間にはある。そして魔法少女も人間である以上、その黒い感情と向き合わなければならない。 だけど、誰もがそんな苦労ができるわけではないし、誰だって自分の醜い部分を知るのは嫌だ。 闇の想力を使うというのは負の感情を引き出すことと等しい。だから、闇の想力に選ばれるのは不吉という他ない。 「確か星谷さんって......闇の魔法少女なんだっけ」 「怖い......これで想力ショックとか感染しなきゃいいけど」 「翡翠さんの妹なんだっけ? お姉さんも苦労しそうだね」 中学校に入ってからは無根拠な噂が琥珀を苦しめた。 特に想力ショックとの関連が琥珀を不安にさせた。 闇の想力は使いようによっては光の想力と同等か、時にはそれを凌駕するほどのパワーを発揮するという説もあるが、例外中の例外だ。闇の想力の副作用として、体の不調を起こしやすいということが恐れられている。想力ショックと見なされるほど重症化する例はさすがに宝くじを引くような確率になるが、それでも闇の想力に関して誤った噂は星の数ほど流れた。 幸いなことに、琥珀の闇の想力は悪性ではなく、おそらく競技に参加しても害を起こす可能性はまずないとの診断を受けた。 別にその結果に驚きはしなかったし、救われた気分になったわけでもなかった。 理屈の上では闇の想力が病気の原因になるとはあまりに一方的な意見であることなんてちょっと考えればわかることだ。 だが正しいかどうかはどうでもよかったのかもしれない。要は、光の魔法少女が闇の魔法少女を排除していいだけの理由になれば良かったのだった。少数派である闇の想力適合者への理解を勧める者なんていなかったし、理解をする必要性も特になかった。 琥珀は自分を守るために、極力目立たないように心がけた。それが幸いして、あからさまな差別を受けることは少なかった。幽霊みたいにいない者として振る舞えば何の問題もなかった。入学当初は憤慨するような怒りを覚えたが、次第に自分でもびっくりするほど冷めた考えへと変わっていった。 どうして自分はこんなにも窮屈な思いをしなければならないのだろう 理不尽への怒りは、やがて姉への妬みへと変化していった。それがとんでもない八つ当たりであることはわかっていたが、その気持ちは消し去れなかった。単に恨みをぶつける対象が欲しかっただけ。自分の弱さは棚に上げて人のせいにするのは楽だった。 姉さんさえいなければ、こんなに比較されることもなかったのに......。 姉さんばっかり注目されて、私は......。 そんなどろどろとした感情はまるで黒いインクが白い布に染みるかのように彼女の心に広がっていった。 翡翠は琥珀のことをよく心配してくれた。だが琥珀は姉の好意を素直に受け取れず、疑ってしまった。疑心暗鬼は次第に姉への拒絶へと変貌。話しかけられても無反応を貫き、顔を合わせることも少なくした。それがどう作用したのかは知らないが、翡翠も琥珀を無視するようになった。姉妹の間で温かみは消えていった。 だが琥珀としては姉に自分のことを忘れて欲しかった。落ちこぼれの妹を持つのは迷惑だろうし、優秀な姉と比べられると惨めになるのは自分だったから......。 家族からも、クラスメイトからも、忘れられて......いつか本当に消えてしまうのではないかと思った。 姉さんが悪い。 もう何の根拠もない言いがかりだ。それでも琥珀は心の奥底で翡翠への嫉妬 いや、嫉妬よりもさらにたちの悪い感情をこびりつかせていた。 だが。 本当に突然のことだった。 翡翠が想力ショックを起こし、試合中に倒れたのは。 両親に連れられて病院に駆け込んだ時は、何が何やらわからない状態だった。だが、治療室で呼吸器と大量のチューブに繋がれた、翡翠の変わり果てた姿を見せられるとそれが夢の中ではないということを生々しく実感させられた。 医者の話によると、翡翠の想力ショックは極めて稀な例らしく、原因もほとんどわかっていない。想力が何らかの形で不具合を起こし、急激な障害を発症した おそらくはそんな話をしていたのだろうけど、医者の話はトンネルのようになった琥珀の耳を虚しく通過してくだけだった。 私の、せい ? 私が、姉さんのことを悪く思ったから ? そんなわけがない。誰も琥珀のせいだなんて思わない。 笑えよ、ほら、琥珀 。 これで目障りな比較対象はなくなった。しかも琥珀への被害が最も少ない形で。 選手への復帰は絶望的。最高ではないか。 笑え、琥珀。笑え、笑えよ 。 「う、うあぁああああああっ!」 魂が抜けたような顔で帰宅した琥珀は、部屋に引きこもって泣き叫んだ。 6 「......全部、私が悪いんです。姉さんを心配させたから、姉さんをずっと無視してて......もっと私が姉さんのこと見てたら、想力ショックにも気づけたかもしれないのに......!」 周囲からも、姉からも目を背けて、琥珀は隠れ続けた。 けれど他人に染まるようにして生きてきて......その手には何も残っていなかった。 闇の想力に選ばれて。 そんな力、要らなかったのに。 あらゆる不幸を引き起こしてしまった闇の想力を憎んだし、何よりずっと卑屈になり続けた自分も大嫌いだった。 それなのに、闇の想力と折り合いをつけずに、結局ずるずると未練を引きずったままだ。 情けなくて、惨めで、......どうしたらいいのかわからなかった。 いつしか琥珀は感情を抑えきれなくて、涙が澎湃と頬を伝っていた。 「ん」 ソラから差し出されたハンカチを手に取り、琥珀はそれに顔を押しつけた。 「すみません、泣いちゃったりなんかして......」 「別にいい。泣くくらい迷惑でもなんでもないわ」 ソラはあくまで冷静に言うが、その横顔は悲しげだった。 琥珀の涙が治まりを見せる時を待ち、ソラはまた言葉を紡ぎ出した。 「あたしは当事者じゃないから琥珀が正しいかどうかなんて言わないけどね。琥珀、最初は魔法が好きだったんでしょ?」 「はい......」 戻れるなら戻りたい。ただ魔法への憧れを抱くだけで良かった幼い時に。 「それであんたはこの飛翔学園に入学した。それってあんたがどう見てもまだ魔法少女としての道を諦めてない証拠じゃないの?」 「......」 「覚えておくといいわ。迷った時は原点に返りなさい。最初に思ったことがあんたの本音なのよ」 琥珀ははっと顔を上げた。 原点に返る......。 確かに姉のような魔法少女になりたかった。 だが魔法少女になりたいというのは本当に姉のようになるだけだったのだろうか? 本当は......認めてもらいたかった。誰かに自分の力を見て欲しかった。それだけだったのではないか? そうでなければ、たとえ闇の想力とはいえこの飛翔学園へと入学した理由が説明できない。闇の想力を「嫌い」と言ってしまえば楽だった。表向きは。 だがそうやって他人の目を気にするだけで一体自分には何が残るというのだろう? (そっか......これこそが、私の本音......) 琥珀は涙で濡れたハンカチを握りしめ、ソラをまっすぐに見つめた。 「先輩......その、やっぱり私は魔法少女が好きで......いつか姉さんと一緒に魔法総合戦でキラキラした自分になるのが夢で......自分の力を諦めるのも嫌です。でも......怖くて、他の人に悪く言われるのが怖くて......バカにされたらどうしようって......」 呆れるくらい弱い本音。 叩かれるのは嫌。でも、認められたい。そんな自分勝手な思い。 「自己中、ですよね......私でも嫌になります」 どうせソラにも嫌われる。それでも仕方ないとすら思った。 この先輩たちはいい人だ。だから、自分には勿体ない。 そう思っているのに、 「自己中で何が悪いのよ」 返ってきたのは落ち着いた、それでいて芯の通った声だった。 「それとも、あんたの夢とやらは人に悪く言われたくらいでやめちゃうもんなの?」 琥珀は首を横に振った。かすかに涙が飛び散った。 「悪く言われるのは誰だって嫌よ。でも、そのためだけにやりたいことをやれないのは、あたしはもっと嫌なの。それに自分のことを気にかけてくれる人にも失礼だわ」 「気にかけてくれる人、ですか......」 琥珀は永の顔を思い出していた。 琥珀は永とソラと出会って確実に変わろうとしていた。それが良い変化なのか悪い変化なのかは不明だ。だが、何かが確実に変わろうとしている。 「少なくとも、永はあんたのこと見てくれるし、それから............」 そこでソラは口を閉ざした。閉じた唇をむずむずとさせ、ばつが悪そうに髪をいじり、足を組んだりするソラの頬はほんのり朱色に染まっている。その変化の意味がわからず、琥珀が顔に疑問符を浮かべていると、横を向きながらソラが言う。 「だから、その......一応あたしもメンバーなんだから、面倒くらいは見てやるわよ」 意外な言葉に、琥珀は目をぱちくりとさせた。だが数秒の間を置いて、琥珀の顔に明るさが浮かんでくる。 (なんだ、ソラ先輩も、とってもいい人なんだ......) と、琥珀が少し和んだ気分になっていると、 「一応言っとくけど 」 ソラが腕を組みながら鋭い目を向けてくる。 「あんたが悩んだままだとあたしもイライラすんのよ。それが不快だから面倒見てやってんの。あんたのためにやってるんじゃないわ」 強い口調で言葉を発するソラだが、頬がかすかに染まっている状態はそのままだった。 「ぐすんっ......それでも、嬉しいです」 目から落ちた涙を指で拭いながら琥珀が言った。 「ちょ、なんで泣くのよ......だいたいあたしはあんたのためじゃ 」 「今までこんなに一緒に話してくれる人はいなかったんです。話をしてくれるだけでも......私は嬉しいんです」 驚きと戸惑いの中間くらいの顔になるソラ。ややあって、ココアをぐびぐびと飲むと、ベンチから素早く立ち上がった。 「ったく......こんなことを話すなんてあたしも焼きが回ったのかもしれないわね......」 嘆息と共に髪をかき上げた。 「今日言ったこと、全部忘れなさい」 「忘れません。話してくれたことも聞いてくれたことも嬉しかったですから」 「......あっそ」 くるり、とソラは背を向けた。長い緑色の髪が優美な曲線を描いてその動きを追う。 「先輩、ありがとうございました」 ソラは何も返さず、そそくさとその場を立ち去って行った。 その後ろ姿を眺めながら、琥珀は密かに感謝の念を覚えていた。 ソラも永も自分を助けてくれる。単に同じ異端の魔法少女だから、などという理由ではない。同じメンバーとして、琥珀を見ているから。 そして助けてくれる人がいることに胸が温かくなるような安心と、嬉しさをひしひしと感じていた。 今はあの先輩たちに「ありがとう」を伝えられたことを覚えておこう。それでただ謝意だけではなく行動で返したい。 琥珀は......少しずつだが意志のようなものが固まりつつあるのを自覚しながら、夕陽から夜へと変わりつつある町の景観を見下ろした。 7 琥珀と別れた後、ソラは町の中では最大の総合病院へ行った。想力の研究所とも併設されており、特に想力に関わる病気の研究では日本でもトップクラスと言われている。首席入学者であるソラは何度も研究所の見学に招かれたし、学会の発表にも参加したことがある。 入口を抜け、受付カウンターへと向かった。平日の夕方ということもあり、人の姿はまばらだ。受付にいた三十代くらいの女性は、ソラは見つけると「あら」と声を出した。 「桐谷です」 「こんにちは、ソラちゃん。永ちゃんならもう少しで診察終わる頃だから」 「......はい」 高校生にもなってちゃん付けはやめろ、と言いたいところだが、この顔見知りの女性には何度言っても通用しないのでソラは諦めていた。 ぶすっとしながらソラはロビーの長椅子に座った。さっきの女性だけでなく、この病院には見知った顔が多い。それはソラが何度もここに訪れているからというのもあるし、中学生の時にここでお世話になったからでもあった。 待っていると、エレベーターの音が聞こえてきた。ちょうど永が出てくるところだった。彼女は浮かない顔をしていたが、ソラを見つけるとぱあっ、と相好を崩した。 「ソラ。来てくれたのですね。ありがとうございます」 「別に。たまたま気が向いただけよ」 永はソラの隣に腰かけた。 「......具合はどうなの?」 「はい。念のため診察してみましたが、今のところ、問題ないとのことです」 「今のところ、ね......」 用があるという時はおそらく想力関連のことだろうとソラは踏んでいた。 「ご心配をおかけしました」 「心配なんかしてないわ。あんたには約束があんの。それを果たすまであんたに倒れられたらあたしが面倒なの」 「約束、ですか......」 永は昔を懐かしむように目を細めた。 「一緒に魔法総合戦を目指す......そうでしょ?」 永は大きく頷き、さらに笑みを濃くした。 「はい。覚えていたのですね」 どこか決まりが悪そうに視線を逸らし、ソラは髪の先をいじり始めた。 「落とし前をつけるためよ。永には借りがあるし」 苦笑する永。 「借りだなんて。ぼくはむしろソラにたくさん助けられました」 「あんたが思わなくても、あたしがそう思うの。......ったく」 ソラが腰を上げ、入口へと進み始めた。当然永もそれに続く。 「どちらへ?」 「研究科よ。教授と話があんの」 病院の敷地内に設立されている研究所の最上階に、ソラが呼ばれている学会の本部がある。簡単な研究報告だけで済んだのでそれほど時間は要しなかったようだが、研究室から戻った彼女は疲れた顔をしていた。永は労うような淡い笑みでソラを迎えた。 「お疲れ様でした、ソラ」 「ん......」 半分寝惚けた顔になり、手足を引きずるようにして歩くソラに、永は軽く支えるようにして同行した。二人が敷地から出る時、空はオレンジから群青へと変わりつつある色彩で彼女たちを見下ろしていた。 帰路につく中、永がこんなことを訊いた。 「ソラ、今は確か想力ショックと闇の想力の関係も研究しているんですよね?」 「そうよ。それで新しい成果が出せたら今の根も葉もない噂なんて消せると思うし。病気の解明も進むはずだわ」 「成功したら、たくさんの闇の魔法少女と想力ショックの患者さんが救われそうです」 期待のこもった顔で笑む永からは、明るい未来への希望だけが窺えた。 「ま、うまくいけばいいんだけどね。......ところで永、琥珀のステータスを分析してって頼んでたわよね。今日永にもデータ送ったんだけど確認しといてくれた?」 「はい。これで練習や戦術が立てやすくなります。本当にありがとうございます、ソラ」 永のにこやかな顔には何も返せず、ソラはわずかに紅潮した顔をぷいっと背けた。 「一応琥珀とも話はしといたわ。どうやらあいつも、魔法が好きなことには変わりないみたいよ」 「よかったです。もし本心から嫌いだったらどうしようと思っていました」 自分のことのように微笑む永。彼女のお人好しな性格は昔からだった。 「......詳しいことは話さないわ。聞きたかったら琥珀に聞きなさい」 「はい。お優しいのですね、ソラは」 「......なんでそうなるのよ」 「闇の魔法少女の誤解を解くために研究をし、琥珀のことも見てくれて、ぼくと一緒に魔法道も歩んでくれます。ぼくは本当に嬉しいんです」 混じり気のない、純粋な笑み。 このお節介な友達に何度救われただろう、とソラは思う。 だからこそ、これほどにも尊い笑顔は自分には勿体ないとも思っていた。 数歩先を行ったソラは突然足を止めて後ろを向いた。少し驚いたように永も止まる。 「永、『ために』って言ったわよね? あたしは誰かのために行動してるんじゃないわ。あたしのためなの。あたしは病院の人にも、あんたにも迷惑をかけた。借りがあんのよ。あたしはその借りを返すために仕方なく動いているだけ。そうしないとあたしの気分が悪いのよ。勘違いしないで」 叩きつけるようにして言った後に、ソラは前を向いた。 「......優しいっていうのは、永みたいに無条件で何かを与えられる人にある言葉でしょ」 永は覚えている。 かつて永とソラは想力ショックを起こしたこと。 特にソラの想力ショックは重症化し、一時は手足が不自由になるのは避けられないとまで危惧された。 だが永と一緒に懸命なリハビリに励み、生活に支障がない程度には歩けるようになった。 永は味覚がおかしくなる、ソラは疲れやすい体になった、といった後遺症こそ残ったものの、想力ショックから今の状態まで立ち直ったのは奇跡だといえた。 「......ぼくは無条件で与えていたわけではありませんよ」 「バカ言わないで」 「本当です。だって、ソラは今こうしてぼくと頑張ってくれています。それがぼくは嬉しさという代価をもらっています。ソラもぼくに与えているではありませんか」 「......あんたがそう思いたいならそう思ってれば。借りを返さないとあたしがイラつくの。それが嫌なだけよ」 ふふっ、と永が笑う。強情な子を前にして、少々困っているといった顔だ。 「では、そういうことにしといてあげます」 「いちいち癪に障る言い方をすんのね。......いや、あんたは昔からそうだったわ」 早足で歩き始めたソラを永は追った。 ソラは永と何でもないやり取りをするのが好きだった。 気を回し過ぎるし、少々うざったいところもあるけれど......大切な友達 少なくともどうでもいい存在ではなかった。 リハビリがうまくいかなくて、周りに当たり散らしていた時も、永だけは自分と向き合ってくれた。理由を訊くと「幼馴染だから。ソラが困ってそうだから助けるんです」と当たり前のように答えた。 助けられるだけのままはかっこ悪いから、今度は自分から人を助けてみたい。 つまりソラは自分の満足のためだけに、今こうして永と協力し、琥珀にも力を貸している。本当にそれだけなのだ、とソラは偽りなく思っていた。 8 ソラの提供してくれたデータのおかげで、永はより琥珀に適した練習メニューの組み立てができた。 例えば、基礎体力にそれほど問題がない琥珀には体力作りにかける時間を削減できる。一方で、フェンサーでありながら速攻性に課題があるので、永は走り込みの練習を加えた。 勿論、試合を想定したスキルの使い方や想力援具の戦法なども丁寧にレクチャーした。実戦に乏しい琥珀は最初こそ失敗続きだったものの、永が粘り強く向き合うことで少しずつだが改善した。 ある日の休憩時間でのこと。 「琥珀、あんた最近気合い入ってるわね」 「は、はい? そうですか?」 琥珀は闘技場でのランニングを終え、タオルで汗を拭きながら小首を傾げた。 「ん。まあ、そろそろ試合も近づいてくるし、琥珀が力をつけるのに越したことはないんだけどね」 「確か......公式合同試合、なんですよね?」 「そ。悪いけど琥珀は補欠ね」 「いいです。いきなり公式試合なんて私には荷が重いですから」 学校が記録する公式試合になると生徒の成績にも反映される。ゴールデンウイーク明けに予定されている桜希学園との合同試合もその一つだ。が、高等部新一年生はまだギルド加入時期を考慮して試合の結果や不参加はそれほど問題とはされない。あくまで個人の成績上の話ではあるが。 「それなんだけど......琥珀、ギルドに正式加入でいいのね?」 汗を拭く手がぴたりと止まった。迷ったように瞳が一瞬だけ揺れた気がしたが、すぐに正面からソラの双眸を見据えた。 「はい。......正直、まだちょっと自信がないままですけど、先輩たちと一緒に頑張りたいと思いました」 「......ふうん」 俯きがちだった琥珀が、まだ完全ではないにせよ変わろうとしていた。その意思には気づいたが、かけるべき言葉が思いつかないソラは曖昧な相槌でお茶を濁した。 仮加入期間を過ぎても学校に申請すれば、ギルドの脱退は可能。ただし、相応の理由を説明する必要があるし、場合によっては成績がマイナスされることもある。 「正式加入になったら、琥珀への引き継ぎをしようと思ってるわ」 「引き継ぎ......?」 どこか深刻そうな顔で首肯するソラ。 「重要なことだから隠さずに伝えると、あたしと永はいつまで戦えるかわからないわ」 思いがけない告白に、琥珀は全身が強張るのを感じた。 「想力の劣化って聞いたことあるでしょ?」 「ありますけど......え、まさか先輩たちが?」 「まだ大丈夫だけど、いつ悪化するかはわからないわ」 年齢の経過と共に想力の質は低下し、早ければ十代後半からその傾向を見せ始める。闇の想力の場合、劣化が突然かつ著しいのだ。だからその検査には慎重になる必要がある。 「ソラ、あまり心配をかけるようなことを言うべきではないと思いますよ」 と、先程まで闘技場の倉庫で準備をしていた永が口を挟んだ。 「心配とかの話じゃないの。現状を知っておきなさい、って言いたいのよ」 「そのお心遣いには感謝しますが」 「だから心遣いの話でもない......ああ、もういいわ」 ソラは不機嫌そうに眉を歪め、そっぽを向いた。そんな彼女を苦笑がちに見やった後に、琥珀と目を合わせた。 「ソラの言ったことは本当です。ぼくは次の試合が終わったらしばらくお休みしようと思っています」 「そんな......」 愕然とする琥珀とは裏腹に永は穏やかな声音と表情だ。どうしてこんなにも平静を保てるのか琥珀は理解に苦しんだ。 「誤解しないでください。あくまで一時的に休憩して様子を見るだけです。むしろ本番である魔法総合戦のために今は休んでおくべきです」 納得しかけた琥珀だったが、すぐにまた引っかかるものを感じた。 「いや、でも......だったら、次の試合も休んだらいいと思いますけど」 即座に永は首を振って否定した。 「そうはいきません。ギルド『フォルトゥーナ』の成績に関わります」 「ギルドの?」 「はい。魔法総合戦の出場資格はギルド所属の魔法少女のみ。個人での成績は勿論のこと、ギルドを見た上での戦績も考慮されます。ぼくが出ないと次の合同試合で出場できるのがソラのみになります」 「つまり、『フォルトゥーナ』の勝ち数が減るということよ」 横からソラが補足した。 「しかもあたしは体力ある方じゃないから何戦もできないでしょ。永とあたしは想力のコンディションの問題もある。要するに、永が最高の状態で戦える機会がいつまでもあるとは限らない。だから、直近の試合は貴重だし手が抜けないわけ」 そこまで聞いてようやく琥珀は理解した。 先輩たちは一試合における重みが違うのだ。魔法総合戦を本気で目指す以上、試合は単なる成績評価の対象とはならない。むしろここでギルトとしても、個人としても強さを発揮しなければ、魔法総合戦の出場資格すら得られないだろう。学校卒業のことだけを考えていた自分との考えの隔たりを痛いほどに気づかされた。 「すみません......考えが至りませんでした」 腰を折った琥珀だが、二人は特に気にした様子はなかった。 「別にいい。むしろあたしたちの個人的な情報に巻き込んで悪かったとも思ってるわ」 「琥珀もソラも頑張ってくれますし、ぼくは頼もしく思ってますよ」 輝かんばかりの笑顔に少々気恥ずかしくなる琥珀とソラ。軽く咳払いをしてソラが話題を変える。 「......それで、永? 今日は闇の想力の特訓だっけ?」 「はい。では、ソラ。打ち合わせ通りにお願いします」 「ん」 その打ち合わせを知らされていなかったので、琥珀は何が始まろうとしているのかわからない。ドキドキとしながら琥珀は戦闘魔装を用意するためにトランスペンを手に取っていた。 「んじゃ、全員戦闘魔装とのコネクトは終わったのね?」 ソラが確認を取ると、永と琥珀は頷いた。ソラは森の妖精を模した《アルラウネ》を、永と琥珀は黒の戦闘魔装である《ヨイヤミ》と《シンゲツ》を身につけていた。 「今日はあたしの《領域変化》を想定しての練習よ。最低限の調整はするけど、本番のつもりでやってちょうだい」 ウィザードのみ許されるジョブスキル《領域変化》。 当然、琥珀も記憶に強く焼き付いていた。 ソラの使用する《領域変化》は毒の森だ。相手のあらゆる自由を奪い、戦術にはめる。まさにウィザードの特色にぴったりといえる。 そんな大技を食らって戦うなんて琥珀には恐怖でしかないが......やるしかない。 「じゃあ、行くわよ」 その声を合図にソラが翅を広げ、空中へ舞い上がった。同時に、美しくも毒々しいパープル色の粉を撒いた。その瞬間、小さな芽がフィールド上にいくつも顔を出し、常識を完全に逸脱した早さで成長を遂げた。不自然に黒い樹木が琥珀たちを囲む。 琥珀が認識できたのはそれまでだった。途端に、肺を刺す痛みが広がり、琥珀は首筋から脂汗を流した。 「琥珀、直接空気を吸わないでください」 駆け寄ってきた永が口に手を当てながら、琥珀の腕を掴んだ。 すでに琥珀の感覚は狂っていた。平衡感覚がおかしくなり、視点が定まらなくなっていた。高熱で今にも倒れそうだ。目の前のものが行ったり来たりしている。これは幻覚? 「琥珀」 永が琥珀の口を塞いだ。最低限の呼吸ができるための指の隙間はあった。 それだけでもほんの少し状態が良くなる。正常に戦えるには程遠いが。 (こんなにも強い、毒なんて......!) 覚悟はしていたが、これほどの苦痛は味わったことがなかった。改めてソラの技量に舌を巻く。確かに戦い方としては琥珀が好むものではない。だがこの強力な毒を発動させる闇の想力の凄さも圧巻だし、それを操れるソラも間違いなく強者だ。 「苦しいだろうけど、我慢して。言っとくけど、ここから本番なんだからね。......来なさい」 前方で魔法陣と思しき煌めきが見えた。遠近感は掴めなかった。直後にずしん、と震動が琥珀の足下を揺らした。前を見て、驚愕。薄いパープルの粉塵で見えづらいが、二メートルは超えるだろう人型のシルエット。それが重い足音を響かせながらこちらに近づいてくる。全身がささくれだった巨木に覆われた巨人。一言で表すなら、樹木のゴーレムだ。中心に想力を注ぎ込んだようで、顔に当たる部分は妖しげな緑の光が目の形でぎらついていた。震えあがりそうになる殺気だ。 「さすがはソラ......植物を操らせたら、彼女の右に出る者はいませんね」 油断なくゴーレムを睨みながらも、口元には薄い笑み。この状況で笑える永に、琥珀は恐れにも似た驚嘆を覚えた。 「さあ琥珀、このゴーレムを倒してみなさい」 「無理ですよ! ていうか......げほっ、ごほっ......私、もう限界です......」 脳内に響いてきたソラの声に琥珀は抗議しようとしたが、体調の限界が来たらしく、ついに膝をついた。ソラの小さな溜め息が聞こえた。 「仕方ないわね......。永、手本を見せてやりなさい」 「承知しました」 手を前に突き出し、永は想力援具 《ライトニング・ロア》を召喚した。 腰だめに刀を構えた直後、永は銃撃と共にゴーレムに突進した。頭部を狙った銃弾はゴーレムの目玉に命中し、怯む。その隙を突いて永は直角に跳んだ。袈裟懸けに振り下ろした刀は ゴーレムの肩から腹部にかけて美麗な斬線を残していた。木々の折れる音を響かせながら、ゴーレムは崩壊。ソラが《領域変化》を解除すると、フィールドを包んでいた毒気が一瞬で消えた。 楽になった琥珀だが、さっき感じた恐怖はなかなか忘れられそうになかった。 「さっきみたいにできそう?」 ソラの問いに、琥珀はすぐさま否定した。 「無理です。いくらなんでも」 「無理ってのはなんで?」 「なんでって......」 見てわからないんですか、と声を大にして言いたかった。言えなかったのは、ソラがいつになく真剣な目をしていたからだ。 「よく考えてみて。想力の発動はちゃんとやったの?」 「それは......やってません」 確かにさっきは動揺したせいで、想力の起動が不十分だった。毒などの状態異常に対抗するにはひとまず体内に想力を回して状態異常の回復あるいは処置をするのが得策だ。問題は、そんな戦術を忘れるほどにソラが惑わしたことだが 。 「ゴーレムは弱いように調整してたわ。でかさだけは無駄に大きくしたけど。あんたの力だと永のようには無理だとしても、勝つことはできたはずよ」 聞きながら琥珀は段々とソラの言わんとすることがわかってきた。 琥珀の持てる力によっては、ソラの出す課題はクリアできたはずだ。つまり、本人がそれに気づいていない、ないしは活かせていないだけ。 ソラはそのことを暗示してくれているのだ。まあ、非常事態にまだ慣れていない己の弱さも問題なのだろうけど。 「とにかくもう一回やってみなさい。今度は毒の濃度を薄くしてあげるわ」 「はい......頑張ります」 道のりは遠そうだ。ただ、ソラは厳しいけれど、彼女なりに琥珀を強くしようとしているのは伝わった。それがプレッシャーにならないと言えば嘘になるが、先輩たちの期待に応えなければ、という使命感は強くなった。 「じゃあ、永、また琥珀のバックアップをお願い......永?」 永は立ったまま、ぼうっと虚空を見つめていた。半分寝ているような顔だ。ソラに声をかけられたと数秒のタイムラグの後に悟り、夢から覚めたような顔になった。 「は、はい。では、行きましょうか」 何でもない風を装っていることは琥珀にもわかった。長年の付き合いであるソラはなおさらであり、心配するような、それでいてちょっと怒っているような顔で言う。 「永......本当に体調は大丈夫なの?」 「問題ありません。お気になさらずに」 「あんた、今日は基礎練習だけやって。琥珀の面倒はあたしがやるわ」 「でも......」 「いいから」 ソラが強く言うと、永は気落ちした顔ですごすごと引き下がった。しゅんとした永を見ると、琥珀は何ともやるせない気分になった。 その日から琥珀は永とソラの交代制で指導を受けることが多くなった。永の不調は一時的なものだったようで、見事としか言いようがない技術で琥珀を鍛えてくれた。 特に永が独学で学んだという星堂流剣術と体術は想力を最低限の行使で、最大まで技の威力を高めるという妙技だった。その伝授には時間がかかりそうなものの、物にすればまた琥珀の実力向上に貢献するのは疑いなかった。 ソラは研究が忙しいらしく、トレーニングに来れないことが増えた。ギルトルームでソファに四肢を投げ出して寝ている彼女の姿を見るのはもう当たり前になった。だがたまに練習に来てくれる時は密度の濃い指導をしてくれるのは永と同じ。永と違って物言いが優しくないのは残念だけど。 闇の想力の開発についても、大分やりようがわかってきた。 「琥珀、では想力援具を召喚してください」 戦闘魔装を着た永と琥珀。実戦い近い演習だ。 「はい。 《アブソリュート・ガン》」 琥珀の声の後、その手に馳せ参じたのは巨大なマグナムと小型のハンドガン。 太もものホルスターにマグナムとハンドガンを入れ、琥珀は身構えた。 威力は高いが、反動の大きいマグナム。 連射できるが、威力の低いハンドガン。 性能の異なる銃の二つでセットの想力援具 それこそが琥珀の《アブソリュート・ガン》だった。 拳銃型の想力援具はフェンサーにはよくある物だが、マグナムのような大型の銃を持つ魔法少女は希少だ。 「改めて見ると琥珀、本当にお強い想力援具をお持ちですね」 「でも、使いこなせてないですよ」 謙遜を示すように琥珀は困り顔で薄く笑った。 「それを使いこなせるために頑張りましょう」 永は本番の試合で使用する開始線上よりも琥珀からさらに離れる位置に立っていた。 「ぼくが逃げ回るので、琥珀はどの部位でも構わないので当ててみてください」 「はい」 永が障壁を展開。薄黄色の光がヴェールのように彼女を包む。想力を障壁に多く使っていることがわかる。フェンサーの場合、スピードにも想力を消費するのでここまで想力を使ってしまっては攻撃に使える想力が限られるが、この場合は構わない。永はただ逃げ回るだけでいいからだ。 「では、行きます」 びゅう、という風を切る音の後、黒い風となって永が消えた。慌ててその姿を追おうとするも、琥珀には永の残像をわずかに視界の端だけで捉えるだけだった。 「琥珀! 目に想力を回してください!」 「っ......」 永とソラは、自分より圧倒的に実力は上だ。だが、気後れしてしまいそうになる相手との戦いほど、闇の想力は時に力を発揮すると聞いている。 例えば圧倒的な実力差への絶望。 優れた相手への嫉妬。 劣っている自分への情けなさ。 それら全てを力へと変えるのが闇の想力。 勝ちたい。強くなりたい。そんな前向きな心ばかりでは人間の感情は描けない。 だから人の負の感情か、正の感情か、どちらを力とするかの差だった。 胸に手を当て、精神を集中させる。己の感情を理解する。 永には到底かなわない。確かにそう思っている。なら、それでいい 。 この逃げたくなるような感情こそが、琥珀の心理。なら、それをエネルギーに変えればいいだけのこと! 「!」 琥珀は闇の想力の高まり 心臓の痛みを感じると、一瞬の瞑目の後に刮眼。琥珀の右目がライトブルーに発光し、幾何学的模様が走った。 何重にもスローに映る視界。風を置き去りにして駆ける永の姿はそれでも捉えづらい。だがそれでも狙えるスピードだ。 視力に大幅に想力を割いたせいで、琥珀は隙だらけだ。視力に回した想力を一瞬で解除し、同時に射撃しなければならない。 (そんな高度な真似、できるのかな......、 いや、でもやらなきゃ) 視界の端に、永の頭の端が映った。 今! 「っ!」 琥珀は視力に回していた想力を即座に切り替え、腕と銃に総動員させる。右目から腕にかけて菫色の光が滝のごとく流れ、弾かれたように琥珀の腕が動いた。ホルスターからマグナムを出し、照準。引き金を引くと、轟音の後に銃弾が光の尾を直線に描きながら疾駆。 がきぃん! と金属音が派手に鳴り響いたかと思うと、永が刀を振り切った姿勢で止まっていた。 (当たった......) しばらく呆然とする琥珀。遠目に見ても、永が微笑みかけているのが見えた。 永が彼我の距離を一瞬で消し、琥珀に迫った。目を輝かせて両肩を掴んできた。 「お見事です、琥珀!」 「せ、先輩......ありがとうございます」 ぎこちなく琥珀も笑いながらも、自分がさっき成功したことに驚いていた。 「琥珀、勝負においてはどんな心積もりになろうと構いません。大切なのは自分がどう思っているかを向き合って、それを受け止めてください」 「はい」 前の琥珀だったら、永の言ったことは半分も理解していなかっただろう。 勝負においてどんな相手にも立ち向かう勇気。なるほど、確かにそれも力になるかもしれない。 だが、全員がそんな 有り体に言ってしまうと、聞こえのいいことばかりを思えるのか? 答えは否だ。臆病な人、否定的になりやすい人 そんな後ろ向きな人が無理に気張っても想力は力とならない。己の本意から目を背けているからだ。 だが闇の想力ならば。その力を使えるならば。 たとえ後ろ向きな想いであろうと、それは力となる。 永は長い時間をかけて、そのことを教えてくれたのだ。 「永先輩、本当に強いんですね」 「ぼくもこの力は一人だけでは無理でした。琥珀と一緒に強くなれること、嬉しく思いますよ」 二人は頷き合った後に、休憩をとることにした。 闘技場の隅に置いていてスポーツドリンクを飲んでいると、永が棒立ちになっているのを見た。心なしか顔が疲れているように見えた。 ここ最近、永がぼんやりしていることが増えた気がする。練習中ではいつものように熱心に取り組んでいるのだが、休憩時には今みたいにぼうっとしていることが多い。想力の行使で体力を消費するのは常識だが、それにしても頻度が高い気がする。これも想力の劣化が関係しているのか、と思うと胸騒ぎがする。とはいえ、琥珀にできることは思いつかなかった。 「永先輩......あの、もしかして疲れてるんですか?」 「平気です。想力が回復するまでじっとしていただけです」 まるで心配など無用と言うように快活な笑みを見せる永。琥珀は安心しかけるが、何か引っかかるものを感じてしまった。 練習が再開すると、永はやはり琥珀を厳しくも丁寧に訓練してくれる。少しずつだが、実力を高められることに琥珀は高揚を覚えた。 だがやはり永の様子だけは気になって......胸の中でかすかにすっきりしない感情が残っていた。とはいえ、永を心配できるほどの知識も力もないままだったので、適切な言葉は思いつかなかった。 9 ある日の昼休み。何となく気紛れでギルトルームに入ってみると、またソラがソファで寝息を立てていた。彼女の周りにいくつもの紙が散らばっているのもいつものことだ。今日は眠りが浅いようで、琥珀が近づくと、「ん......?」と欠伸を漏らしながら体を起こした。 「ああ、来てたのね、琥珀」 「はい、お疲れ様です」 ソラのだらしなさは慣れたので、琥珀は特に気にかけたりはしない。何よりこの先輩にもたくさんお世話になって、今では信用している先輩になった。 「あんたと永、最近調子はどうなの?」 「永先輩のおかげで少しずつですが、うまくなっている気がします」 弁当箱の蓋を開けながら琥珀は言った。 「それは何よりだけどね、永は? あいつ、無理してない?」 「無理はしてないと思いますけど......でも、多分疲れている気がします」 無理をしている 永に限ってそんなことはないと思っていた。少し疲れているだけだ、と思い込んでいた。だが冷静に振り返ってみると......永の頑張りようはおかしかったかもしれない。 琥珀の逡巡を読み取ったのか、ソラは渋い顔で目頭を揉んだ。 「あんたに疲れているかもしれないって言われるなんて相当無理してるわね、あいつ......」 「へ......?」 「あんた、今日も練習あるんでしょ?」 「そうですけど」 「永によく言って聞かせないとね......。ったく、こんなことならあたしももっと練習に行けばよかったわ」 「でも、ソラ先輩も研究があるって聞きました」 「それはそれ。これはこれよ」 ソラは空間キーボードを呼び出し、すごいスピードで指を走らせ始めた。その顔はいつものソラには似つかわしくない、切迫した表情だった。 (私、永先輩のこと、あんまり見てなかった......) 自分のことを見てもらうばかりで、永のことは心配していなかった。何もかもを完璧にこなす先輩は、自分の助けなど必要ないと思って。 琥珀も自分のことで手一杯で永のことまで考える余裕がなかった、という理由もあるにはある。もっと永を知っておけば......という後悔が今になって頭をよぎる。 そしてこの後悔が遅すぎた、ということを今日になって思い知らされることになった。 放課後。 言いようのない憂慮を抱えたまま、琥珀は準備運動をしていた。闘技場のセットも終わったし、後はいつものように永を待つだけなのだが。 (先輩、遅い......) 後から永が来ることは少なくなかったが、今日みたいに開始時刻を過ぎることはなかった。トランスペンで連絡を取ろうとしたが、いくらメッセージを送っても無反応だ。 仕方なく琥珀は倉庫からバトルオブジェクト 一人で格闘戦などの練習を行うためのサンドバッグのようなもの を取り出し、体術の練習を始めた。 予約していた時間が半分ほど過ぎた頃だった。 トランスペンの通話アプリが起動し、呼び出し音が鳴り響いた。面食らいつつウインドウを開くと、ソラの名前が表示されていた。 「ど、どうしたんですか、ソラ先輩......」 「琥珀! 今すぐ校門まで来てちょうだい!」 思わず顔をしかめるほどの怒鳴り声だった。一体何事なの、と思う暇もなく聞こえてきたのは 「永が......永が倒れたのよ!」 悲痛なソラの叫びに、琥珀は立ったまま凍りついた。 数年前の悪夢が蘇り、眩暈を起こしそうになった。 琥珀が校門に駆けつけた時には、救急車がけたたましいサイレンを鳴り響かせて走り去っていくところだった。校門付近には人が集まっていたが、ソラの緑髪はすぐに見つかった。 「永......」 青白くなった顔で立ち尽くすソラ。普段とは別人のように弱々しいソラの姿に琥珀はたまらなく憂虞させられる。 「ソラ先輩!」 「あたしが......あんたのことを見てなかったから......」 読経のように抑揚のない口調。いくら呼びかけても反応がなかった。 琥珀の思考は次第に真っ白になっていく。思い出す。姉が突然倒れた時もそうだった。身近にいると思っていた人と二度と会えなくなる。体の震えが止まらない。またしても、またしても 何もできないまま、大切な人とお別れになるのだろうか ? 嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。 だが、自分は今まで何をしてきた? 自分を鍛えてもらうばかりで、何一つ先輩のことなど心配していなかったではないか。 全て......自分のことばかり考えていたせい? 足から力が抜けていった。視界が霞む。ぺたんと座り込んだ琥珀は、周囲の喧騒がどこか遠くで響いているように聞こえた。 永が笑顔を浮かべたまま遠くへと消え去って行く幻覚を見ていた。 (永先輩......!) 10 夜。面会可能の連絡を受けて、琥珀は病院に走った。ソラにも伝わっているはずだが、今は「一人にして」とのことだった。 面会の前に担当医から話を聞かされた。それによると、永の闇の想力が一時的な発作を起こしたらしいが、想力ショックとは診断されなかった。疲労と精神的負担が祟って今回のような症状を起こしたので十分な休養を取れば退院は遠くない。 命に別条はないということで一旦は安心したが、すぐにまた別の懸念を抱いた。試合はどうなりますか、と恐る恐る訊くと、医者は苦い顔で言葉を吐き出した。 許可が出るまで永の試合出場停止 。 琥珀は脳を激しく揺さぶられたようなショックを受け、動けなくなった。 あまりに残酷過ぎる。 人一倍面倒見のいい先輩が、自分自身の面倒を見れなくて倒れるなんて......。 ソラと一緒に魔法総合戦を目指す。ギルド『フォルトゥーナ』として出場したい。 そんな夢を台無しにしてしまったのは 琥珀自身なのだろうか? どう考えても自分のせいだ。 もっと強ければ、先輩たちに迷惑をかけることもなかったのに......。 胸が破裂するような罪悪感の痛みに、琥珀は気を失いそうになった。 気がつくと琥珀は永の病室の前に来ていた。滑稽だ。一体どんな顔をして永と会えばいいのか。帰ってしまおうかと何度も思ったけど体は勝手に動いて、結局琥珀はドアをノックしていた。 ドアを開けると、永は上体を起こして窓の外を眺めていた。 その時、永の目元が宝石のような輝きを放つのが見えた。 涙。 一体永は何を思って泣いていたのだろう。琥珀は早くもドアを開けたことを後悔しかけた。 普段は三つ編みにまとめている亜麻色の髪はほどけており、腰まで届く彼女の髪は月明かりに照らされてきらめいていた。病人だというのに永は神秘的に綺麗だった。 「あ、琥珀......」 やつれた顔をしていたが、琥珀を見つけると、指で目元を拭いながら微笑を向けてくれた。だがその笑みはとても儚く、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 「ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。体調管理もできないなんて先輩失格ですね」 違う。そんな言葉を聞きたかったのではない。むしろ謝るのは自分の方だ。なのに、少しも言葉まとまらなくて、口が動かない。 「しばらくすればまた想力も回復するそうです。少し休みが早まる形にはなりましたが、仕方がありません」 「試合、も......?」 「そうです」 確信を持ってその結末を受け入れている静かな永の声が、受け入れがたい事実を突きつけてくる。 どうしてこんなに静かなのだろう。試合に出ないと魔法総合戦への資格も得られなくなる。それは永もよく知っているはずなのに。それに永がすぐに回復するなんて保証もどこにある? 想力ショックが生じるかもしれないと思うと、琥珀は正気を保てる自信はなかった。 「試合のことはギルトに迷惑がかからないようにしますから、琥珀は安心して 」 「そうじゃない!」 自分でも驚くくらい、大きな声が出た。 声の震えが治まるまでに、しばらく時間がかかる。 その間、永は大人しく待っていた。 「どうして、そんなに落ち着いていられるんですか......? なんですか、ギルドに迷惑がかからないって......。先輩はソラ先輩と一緒に魔法総合戦を目指すんじゃなかったんですか?」 感情の暴発を止められなかった。病人を怒鳴るなんて非常識の極みだ。でも、感情がどうしてもついていかなかった。 突然の永の剣幕に、永は表情を濁らせた。笑顔を見せることの多い永が消沈している姿を見ると、琥珀の精神はさらに圧迫された。 「先輩は......先輩は、もっと先輩自身のことを大切にしてください! 先輩、いい人なのに......もし、もし本当にずっと試合に出られなくなったらどうするんですか?」 自分は助けてもらった側なのに、なんて酷いことを言っているのだろう。 だけど迫り上がってくる激情は、もう抑えがきかなかった。 同時に、気づいてもいた。自分は、この行き過ぎとも言えるくらい面倒見のいい先輩に、とても感謝している。だから、だからこそ 先輩が先輩自身を大切にしていないことが......腹立たしくて、悲しかった。 琥珀の怒声にも、永は一言も発しなかった。ただどっしりとした態度で後輩の怒りを正面から受け止めている。が、真一文字に結ばれた唇からは苦悶の色がありありと滲んでいる。 時が止まったような静寂に包まれる病室。ヒートアップしていた脳内が冷やされ、琥珀はようやくへまをやったことを悟った。今すぐにでも回れ右をして出て行こうとしたが、なぜだか足は石になったように動かなかった。 項垂れている永の表情は、亜麻色の髪に隠れて見えなかった。 「先輩......私、本当に先輩に感謝してます。いつも私のために頑張ってくれて本当に嬉しいです。......でも、だから先輩が無理してる姿を見るのはつらいんです」 「......」 「だから、その......私、まだダメダメかもしれないですけど......何か頼ってください。お話、聞くくらいならできますから」 何を言っているのだ、と琥珀は思った。 何の力も持っていないのに、「頼ってください」? 思い上がりも度が過ぎている。 姉が倒れた時は、本当に何もできなかった。だから、何かをしたかったのだけれど......まさか人の力になろうとすることがこんなにも大変で苦しいとは知らなかった。 本当に情けない。思わず頭を抱えてしまう。一瞬で姿を消す魔法があるなら今かけてほしかった。 ところが 「琥珀は、お優しいのですね......」 「え」 つうっ、と永の頬に涙が流れていた。 滅多に見ることのない、永の涙。 それはまるで降り出した雨のごとく、ぽたぽた、とシーツに染みを作り始めた。 「ぼくを、叱ってくれて、ありがとうございます......」 「先輩......?」 永の、可愛らしい目鼻立ちがくしゃりと歪んだ。 「ぼ、くは......っ!」 強くシーツを握りしめ、今まで堪えていたすべてを吐き出すように、永は全身を震わせ、大声で泣きじゃくる。永の瞳からとめどなく流れていく大粒の水滴が宝石のように光った。濡れる頬をしきりに手で拭っては、みっともなく、ぐずぐずと洟を啜る。 「ぼくはまだ、ソラに何も返せていないのに......!」 琥珀は反射的に永を抱きしめていた。 どうして、そうしたのだろう。 強いていうなら、永を抱きしめていないと今にも崩れ落ちてしまいそうなもろい存在に見えたから、だろうか。普段堂々としている先輩が、今は幼児のように泣いていた。 「やっと、琥珀と頑張れると思ったら、こんな、こんな形でダメになるなんて......!」 一体今まで、どれほどの思いを溜め込んで、必死で涙を堪えていたのだろう。もう、流れてしまった涙を止めることもできないくらい、きっと、泣いているだけで精一杯な今。 琥珀はぎゅっ、と永を抱きしめる腕に力を入れ、背中を撫でた。頼もしく思えた先輩の背も、今はか弱い少女のものにしか見えなかった。 何を言えばいい? どんな顔をすればいい? どれだけ考えても浮かんでくる言葉は薄っぺらで、本当に伝えたいことは欠片も伝わらない気がしてしまう。そもそも本当に伝えたいことがなんなのかすらよくわからない。 永の慟哭は永遠と続くように聞こえた。 胸の激しい痛みに、琥珀は耐えるだけだった。 やがて涙は独りでに治まり、琥珀がいたことを思い出したのか、永は取って付けたように微笑んだ。今までに見た中で一番不格好な笑みだった。 「ごめんなさい、琥珀。みっともなく泣いてしまって」 「......いいえ」 「今日はお帰りください。お見舞いに来てくれてありがとうございます」 先輩と出会う前だったら、多分琥珀はすぐに帰っていた。いや、実をいうとどう考えても今は黙っておくのが正しい。理性は確かにそう発している。 が。 琥珀の感情と口は理性の言うことを聞いてくれなかった。このまま帰るわけにはいかない。一つ大きな 初めての決意を永に伝えなければならない。 行動で、永とソラの恩に報いたかったのだ。 「先輩」 琥珀は一歩前に出た。深呼吸をし、真摯な目つきで永を見つめる。 「試合のことで、提案があります」 「なんですか?」 ごく短い間だけ、琥珀の唇が言葉を紡ぐのを拒否した。 だが葛藤はすぐに振り払われ、一度転がり出した言葉はもう止められなかった。 「今回の試合、私が先輩の代わりに出ます」
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