メルトブルー(修正版前編)

レーゴ





「なあ、あんた、どうにかしてくれ」

 

 男が、マフラーに隠れた口からもごもごと言葉を発した。
 扉を叩かれ返事をする前に開けられたのは、いつもと変わらない、薄闇に包まれた朝だった。時計は午前六時半を指している。滅多にこの家の玄関を叩く者はいないが、時々、こうして誰かが何かを頼みやってくることはあった。眉根を寄せた男は、腕をさすりながらこちらを見ていた。
 俺は座っていた椅子から腰を上げた。使い古した木製の椅子は悲鳴を上げる。椅子の背に掛けてあったマフラーを巻き、男の前に立つ。男はさらに眉をぎゅっと寄せ、こちらを見上げ、マフラーを胡散臭そうに睨んだ。
「来てくれ」
 歩き出した男の後を付いていく。家の外に足を踏み出した途端、足元で白い粉が舞い上がる。
 そっと、空を見上げた。星も雲も、何も区別がつかない真っ白の空だった。白いペンキをぶちまけたような重々しい白だ。何層も重なった粉塵が、素の空との間に大きな壁を作り上げているのだ。
 互いに言葉を交わすことなく数分歩いた。中心部に着いたあたりで、男が鼻をすすりあげながらちらりとこちらを振り返り、目線で前方を示した。その先には、人だかりができている。シンとした空気に、低い囁き声が漂う。どの声も、布越しにこもって聞こえる。人だかりに歩み寄った男と俺に気づいた数人が、すっと脇に避けた。
「これだ」
 男が親指で人だかりの中心を指した。
 まだらに白くなった地面に、黒っぽい塊が転がっていた。誰も手を触れていないのか、降り積もる粉塵で地面と同化しつつある。人垣の中心、さも得体の知れないモノのように放置されているのは、身をくの字に折った人間だった。
 近づいて、屈み込む。粉っぽく汚れてはいるものの、長い間見なかった、丈夫そうで、継ぎ接ぎのない、統一された生地で作られたコートを着ていた。頭を隠すフードのついた、ふくらはぎのあたりまで身体を覆う大きなコート。
「あんな綺麗で上等なコート、きっと地下の人間よ」
 誰かが、ぽつりと呟いた。あぁ、そうだ、きっとそうだ、そうに違いない。さざ波のように、人々の声。
 白い粉の下、腕の部分に何かが縫い付けてあるのが見えた。粉を払うと、群青色の背景に、両翼を広げた天使が幾何学的な雲と太陽とともに施された紋章が現れた。何十年も前に消失したはずの紋章だった。なぜ、ここに。
「死んでるのか?」
 ここまで連れてきた男が背後から問うてくる。
 顔を覗き込む。ゴーグルとガスマスクをつけていた。レンズ越しに微かに見える瞼は閉じられている。
「分からない」
 分厚いコートのせいで、呼吸をしているのか、体温はあるのか、ということも全く分からない。
「生きてるにせよ死んでるにせよ、後は勝手にしてくれ」
 コートの人物を抱き上げた俺に、男はそう言う。立ち去ろうと歩き出すと、人々は波が引くように遠ざかる。
「用は済んだからな」
 横をすり抜ける時、男は低く呟いた。相変わらず、険しい表情で。

 



 家に戻り、連れてきた人間をベッドに横たえる。体重は重くはなかったが、身体のサイズに合っていないコートのせいで、歳も性別も判断できない。
 これは男性用のコートだ。このサイズなら、それほど大柄な人物の持ち物ではなかったはずだ。そのコートが身体よりも大きいということは、この人物は女か、子どもか。コートを脱がせると、細い身体の線が分かるようになった。
 ガスマスクに手をかけたとき、微かに呻き声がした。軽く頭が持ち上がり、レンズ越しにまともに目が合った。短い悲鳴が上がる。
 ゆっくり後ずさった。危害を加えるつもりはないと、示したつもりだった。しかし上半身を起こした人物は、ベッドから転げ落ち、這うようにして扉に向かって逃げていく。
「待て」
 脚を掴んで動きを止める。また悲鳴。ガスマスク越しの声でも、それが少女のものだということは分かった。
「俺は何もしない、外のほうが危ないぞ」
「嘘」
「嘘じゃない、外の人間のほうが何をするか分からない」
 脚を握られたまま立ち上がれない少女は腕をのばしてドアノブを掴もうとする。やめろ、と声を上げると同時に少女の手がドアノブを掠め、勢いよく扉が開いた。
 バランスを崩した少女が地面に倒れる。宙に舞い上がる白い粉。慌てて少女を抱き起し、扉を閉める。
 腕の中で、少女はバタバタと四肢をでたらめに動かして暴れる。それでも、こちらの力に敵わないと分かったのか次第に大人しくなった。
 腕に、細かい震えが伝わってくる。離して、という弱々しい声。身体を支えていた腕を離す。それでも、少女はもう逃げようとはしなかった。ふらふらとベッドに戻り、座り込んだ。
 少女が動かなくなったのを確認し、コンロで湯を沸かす。少女が自らマスクとゴーグルを外しているのが見えた。支給品のインスタントコーヒーを淹れ、机の上に置く。脱がしたまま放り投げてあったコートを取り上げ、少女の肩にかける。
「寒いだろう」
 少女は否定も肯定もしない。
「死んでるかもしれないと思ったから」
 俯いたまま、反応を示さない。
「悪かった」
 ぴく、と肩が動いたが、それ以上の反応はなかった。
 机のマグカップを少女に差し出す。
 少女が顔を上げた。空といい勝負の白い肌のなかで、妙に目だけが印象的だった。白目に浮かぶ、どこか懐かしいような、青い虹彩。完全な青ではないが、白みがかっているわけでもない、芯の通った淡い青。ひどく緩慢に、瞬きをしたそれは、俺をじっと見た。
 さらにカップを近づけると、少女の指先がカップに触れる。薄い湯気の向こうで少女の表情が緩み、両手でカップを包んだ。
 ゆっくり口をつけた少女は、すぐに顔をしかめた。
「おいしくない」
「味がついたものを飲めるだけましだろう」
「砂糖が欲しい」
「そんなもの、今の時代には手に入らない」
 きょとんとした顔を見せた後、そうだね、と少女は少し笑った。
 砂糖。人工甘味料ではない、純粋な砂糖を見たのはどれほど前のことなのだろう。人工的に合成されていない、本当の野菜や肉を見たのはいつのことだろうか。
 約五十年前、何度目かの、そして最後の世界大戦があった。各国が数々の化学兵器と核爆弾を地上に投下した結果、地上に死の雨が降り注いだ。空から降る白濁した雨に一体何が混ざっているのか、誰にも分からなかった。いや、分からなかったわけではない。始めは、どんな成分が含まれていて、それが環境や人体にどのような影響を与えるのか、研究されていた。しかし、次から次へと含まれる成分は増えていく。謎の病気が蔓延する。雨だけではなく、乾いた雪のような粉塵まで降り始める。そして、重要な技術と頭脳を持っていると判断された研究者から順に、敵に殺害されていった。誰も、汚れた雨を調べるものはいなくなった。
 仕方がないから、何もかもひっくるめて「有害物質」と呼んだ。空を覆う灰色の靄も、地面に積もる粉も、空気中に漂う塵も、全てが有害。あっという間に人類滅亡、なんてことは起こらなかったが、それでもじわじわと、明らかに、人口は減っている。
 今では金なんてただの紙切れと金属の塊にすぎないが、終戦直後はまだそれなりに価値があった。終戦前に裕福だった人間は有害物質を遮断した地下施設へ、そうでない者は汚染された地上に取り残された。汚染された、といっても程度の差はある。比較的軽度な場所に人は住み着いた。軽度とはいえ、大戦以前は伸び続けていた平均寿命を一気に縮めるほどには、汚染は進行していたわけだが。
 俺は、街――バラックや廃墟同然の建物が身を寄せ合うように建ち並んだ雑多なものでも、今の状況では立派な街――の中心部から少し離れた場所に住んでいた。いつ測っても基準値を超える水質調査を繰り返し、変異して凶暴化した動物を街に入れないように追い払い、数十キロ離れた場所にある街との物資のやり取りなど、頼まれたことは何でもこなした。そうやって自分の存在意義を証明し、数少ない支給品を手に入れていた。地上に取り残された者は、そうやって生きていくことになる。
 それでも、生まれる赤子の数は減り、大人まで育つ子どもが減り、初老の圏内に足を踏み入れる前に死ぬ人間が増え、人口は緩やかに減少していった。そして、この街に住み着いた当初よりも街の規模は縮小し、俺が住むバラックもどんどん街の中心地へと近づいていった。
 では、早々に地下に潜ったものは?
 地下でのみ、生きていくのだ。備蓄してあった物資で命を繋ぎ、全て消費してしまう前にプラントを完成させ、自給自足をできるようにする。これで、地上よりも安全で、清潔なものに囲まれて生活していける。穏やかに、選ばれし人間は地下で暮らしていく。そんな、この時代における理想郷のような場所で、地下の人間は生きている。――真実がどうなのかは知らないが、地上の人間の間ではそう噂されていた。当然、そこには地下に対する憧憬と憎悪が含まれ、あることないこと尾ひれに背びれのついた噂であることは間違いない。
 噂のように、どの地下施設でも上手く生き延びることができたわけではないだろう。備蓄が尽きてすぐに餓死して消えたシェルターや、地上の人間に見つかって壊滅したシェルターもあったのだろう。今では、地下と地上、どちらのコミュニティが多く残っているのだろうか。そう考えると、地下への移住は大きな賭けのように思えた。
「君は、どこから来たんだ」
 少女のコートの紋章を見つめながら、俺は言った。少女は答えない。中身が殆ど減っていないマグカップを俺に渡すと、立ち上がってまた玄関の方へ向かって行く。
「待て」
「逃げないよ」
 そう言った少女はそのまま扉を開け、外へ出た。後を追うと、すぐそこで少女は立ち止まり、空を見上げていた。つられて俺も視線を上に向ける。そこには、いつもと変わらない、もったりと白い空。重い空白が広がっているだけだ。
「......白」
「え?」
「空って、いつもこんなに真っ白なの?」
「あぁ」
 無言で、少女は空を見ている。見る場所などない、延々と代わり映えのない白だけの空を。
「もうずっと、白いままさ」
 五十年前から、ずっと。死を降らす白い空は、ずっと、変わらない。
「ねえ」
 少女は顔に降ってきた粉を払い、こちらに顔を向けた。
「あなたは、青空って、見たことある?」
 少女はふふ、と笑った。
「ないよね、だってこんなことになったの、五十年も前だもの」



 青空なんて、遠い昔の幻影だ。最後の青空の目撃者だったはずの昔の同僚たちは、もうこの世にいないだろう。
 もう、飛ばなくていい。残った部下の前であの人はそう言い放ち、脇に抱えていた自分の制服を地面に叩きつけ、火をつけた。空を飛ぶ天使の紋章が、撃墜された戦闘機のように燃えていた。
 ほっとしたような顔を見せた十人にも満たない僅かな生き残りに微笑んだあの人の顔は炎に赤く照らされて、すぐ横に立っていた俺にとっては不気味で、燃える天使と重なった。
「そんなに見ても空は白いままだぞ」
 少女を発見してから数日経った。あの日から少女はずっと、扉を少し開け、その隙間から空を眺めていた。今も、この家に一つしかない椅子を扉の前に運び、その上で視線だけを空に向け、膝を抱えていた。
 ボロボロであちこちから隙間風の入り込むこのバラックのなかで、少女はずっとコートを纏ったまま過ごしていた。フードをかぶり、袖に腕を通さず肩にかけた姿で、白い横顔だけが黒いフードから浮き出るようにのぞいている。まるで、空に何かが現れるのを決して見逃さないために監視し続けているような青い眼が、異様に輝いていた。
 少女が地下の人間であることは間違いないだろう。地上の人間が、こうも飽きもせず毎日空を見ていられるはずがない。いつも変わらないのだから。――それに、彼女の身体も知識も、地上の人間のそれとは大きく異なっていた。
 地下だけではなく、地上にも食糧を生産する工場はまだ存在している。しかし、合成の野菜や肉などそんな複雑で種類の多いものは作られない。ひたすらコピーするように生産し続けられているのは、栄養価が高いと謳われた大戦時の携帯用レーションだ。配給品として出回っているが、それだけで地上の人々の栄養状態を保つことができているとはいえない。工場の周りの環境も、人々が生活している環境も良いものではない。ただ生きているだけで、毒素は毎日身体に入り込んでくる。そんな地上の人間の肌はくすみ、ざらざらしているし、眼球はくもり、常に咳をして鼻を啜っている。心なしか姿勢も悪く、皆背を丸めて歩く。常に身体を病んでいる状態なのだ。
 彼女は、作り物のようにつるつるした白い肌で、透き通った眼球に白く濁った空をうつしている。背を伸ばして立つ姿は、いやに眩しい。しかしいきなり地上に出てきた代償か、徐々に乾いた咳をするようになっていた。
「あまり外の空気は吸わない方が良い」
「だって、あなたがここは汚染が軽い所だって言ったじゃない」
「それは比較的、と言っただろう。人体にはここの汚染濃度でも十分有害なんだ」
 扉に歩み寄り、無理矢理閉めてしまう。
「でも、あなたはずっとマスクもせずに生活してるじゃない」
「ある程度耐性があるんだ。君はずっと、空気の綺麗な場所にいたんだろう」
 地下にいたのだろう、とにおわせたのが悪かったのか、少女は軽く俺を睨み、椅子を引きずっていってしまう。乱暴に引きずられるせいで、もともと外れかかっていた脚は今にも壊れてしまいそうな音をたてる。
「ねえ、どうしてあなたは他の人のたちから離れた場所に住んでるの」
 久しぶりに起動した暖房器具の前を陣取った少女は言った。
「ずっと外を見てたけど、ここの家の前は誰も通らないし、何の音も聞こえてこないし」
「......俺はここの住人には良く思われてないから」
「どうして」
「さあな」
 備蓄してあったレーションを渡してやると、少女は包装を不慣れな手つきで剥いで食べ始めた。水分の少ないレーションは上手く食べなければぼろぼろと口元からこぼれていく。数日でましになったとはいえ、まだ綺麗な食べ方とは言えなかった。
 地下の人間たちの暮らしがどんなものなのかは知らないが、このご時世でレーションをまともに食べられない人間というは、ずっと地上にいる自分からしたら異常だ。地上の人間にとっては命を繋ぐ貴重な栄養源であるから、味の良し悪しについて言及するものはいない。おいしい、まずいという概念も終戦から大分薄れてしまったようだ。だが、少女はコーヒーを「おいしくない」と言いこのレーションもまずそうにしかめ面で食べる。
 少女を見ていると、やはりこの世のどこかに汚染も飢えもない天国のような場所があるのではないかと思えた。それは天にあるのではなく、地面の下にあるわけなのだが。



 少女が熱を出した。やってきたばかりの時は軽い咳だったものが、一週間を過ぎると身体全体でするような激しい咳を繰り返すようになった。それから数日後に、発熱した。ベッドの上で跳ねるように咳き込む少女を見て、無意味だと分かっていても、近隣の住民に何か薬になるものはないかと尋ねに行った。
 皆、扉を全て開けることはなく、隙間から嫌な表情を覗かせ、首を横に振った。この状況でまともに薬なんて出回っていないし、持っていたとしても俺に渡すことはない。それは分かっていたが、何もしないわけにはいかなかった。
 あの朝、少女の処理を頼みにきた男の家にも行った。扉をたたくと、出てきた男はそれまでの家よりは広く扉を開けた。
 何だ、と不愛想に応じた男に、少女が体調を崩したと、何か助けになるものはないかと言った。一瞬、男は言葉を理解できなかったかのように呆けた顔をした。が、次には顔を真っ赤にして怒号をあげた。
「どうしてまだ生きているんだ、処理していなかったのか?」
「勝手にしろと言ったのはあんたじゃないか」
「だからといって家に置いているのか!」
「誰にも迷惑はかけていない。食べる物だって俺の家にあるもので賄っているんだ」
「今、ここに物乞いにきてるじゃないか!」
「それは、緊急事態だからだ。このままだとあの子は死んでしまう」
「なぜ地下の人間を庇うんだ――あぁ」
 男は、男は唇の片端だけをつり上げ、歪に笑った。
「まだ上層部の犬の精神が残っているのか」
 何も答えなかった。背中を向けた俺に、男は吐きつけた。
 ――殺せ。
 家に戻ると、少女は眠っていた。息をするたびに、喉で異物が引っかかっているような雑音がする。
 額に手をあてる。熱い。高熱といって差し支えない体温だった。
 薄く、少女の瞼が開いた。手を離そうとすると、少女の汗ばんだ手が重なった。
「いい、このままにして。あなたの手、すごく冷たいから」
「......薬も、何も貰えなかった。すまない」
 特に落胆した様子もなく、淡々と少女は呟いた。
「地上って、こんなに大変なんだね」
「......皆、生き残るだけで必死なんだ」
 だから、普通の人間よりも頑丈な俺に気を回す余裕なんてない。それは、分かっている。それが不満だとも思わない。ただ、この少女は同じ人間だ。住んでいた場所が違うだけで、同じ人間だ。脆くて壊れやすい、人間なのに。
「私、このままじゃ死んじゃうのかな」
 何と答えたらいいか分からなかった。言い淀んでいると、少女はそう、と溜息にも似た声を出した。この自分の態度が、何よりも肯定を示してしまっていた。
「ねえ、私の話、ちょっと聞いて」
 少女は重なった手の下から覗く虚ろな目で、俺を見詰める。
「......あぁ」
「私ね......分かってると思うけど、地下に住んでたの」
 俺は頷いた。それを確認して、少女は続ける。
「......人が、溶ける場所だった」
「溶ける?」
「そう」
 少女は咳き込みながら、自分のいた施設について語った。
 ――この有害物質が降り積もった、崩壊した世界に耐えられなかった人たち。外で、ガスマスク無しで深呼吸ができた旧世界を知っているからこそ絶望した人たち。あの頃の、穏やかな日々はどこに行ったのか。どうにかして、あの生活を再興できないのか。この地下から解放されることは今後ないのだろうか。あの生活は、あの日々は......。せめて、内臓を毒に侵されて苦しんで死ぬなんて、そんなことは避けたい。そんな人たちが造り出したのが、人を溶かす液体。もうこの世からおさらばしよう。次に、生まれ変わったら平和な世界へ。そう決心して、お風呂に浸かるようにその液体に入ったら、眠るように意識を手放して、夢をみているうちに全身が溶けて、身体も命も消失させることができる。
 そこまで言って、少女は一層激しく咳き込んだ。ベッドがぎしぎしと音をたてる。
「――そう、これ、この、苦しいのを、体験したくなかったの、きっと」
 薄く笑みを浮かべながら、少女はぐったりと瞼を閉じた。
 安らかに自ら死ぬための技術。
 この汚染された世界で、地上に残る人々の間でも地下に潜った人々の間でも、様々な思想や宗教のようなものが生まれた。それらの一つ一つの詳細を知っているわけではないし、知りたいとも思わない。しかし真偽は疑わしいにしても、様々な噂は流れてくる。まだ汚染がましな深海に逃げ込もうと人体を改造した者たち、戦争にとりつかれ未だに殺戮を繰り返す集団、穏やかな新世界を夢見て集団で自殺を図った者たち。そんなカルト的な思想に陥らない者、この街の住人のような者たちも多く存在するが、独自の思想を持った小規模なコミュニティが乱立したのも事実。この少女がいたのも、そういった集団の一つだったのだろう。
 そして、彼女のコミュニティは資源と技術を持ったものだった。だから、思想のその先、目指した理想を手に入れてしまえた。人を溶かす装置。眠るように、苦しむことなく溶けることができる装置を。
 ――装置の完成から四十年以上過ぎた。もとからこの汚染された世界から穏やかに離脱することを願った人たちだから、子どもを産んで先の人生を生きようとする人は当然少なかった。だんだん地下シェルターの人口は減っていって、年齢に関係なく、希望者から順に溶けていった。それでも、全くシェルター内で子どもが生まれなかったわけでもなかった。少ないけど、装置の完成後の四十年間で、あの施設で、新しい子どもは生まれていた。
「......両親は、君を置いて溶けたのか」
「......君が、その一人?」
 少女は頷く。
「私は、あの施設で最後に生まれたの。だから、何人も溶けるのを見てきた。......溶けた後の液体って、すごく綺麗な色になるの」
 少女は、死について語っているとは思えないほど平静な、憧れさえ抱いていそうな表情をした。
 地上では、小さなコミュニティに鬱々と籠り、目の前にちらつく死の影に怯えて暮らす。産まれた瞬間から死は顔を覗かせている。地上の人間にとって死は身近で、どうにかして離れて遠くにいこうともがいていた。
 少女は、いわば無菌室のようなシェルターで育ったのだ。少女には死の影は見えなかった。しかし、見えなくとも彼女にとって死は別の意味で身近なものだった。シェルターでは、死は自ら手元に引き寄せるものだった。望んだ死、救済としての死。地上の死とは、意味が違った。
 しかし今、少女は地上の死に直面している。恐怖と苦痛を伴った、重く苦しい最期。地上に出てきてしまったから、急に目の前に現れた死。
「ねえ、お願いがあるの」
 生温かい掌が、俺の手を包み込んだ。熱で湿った青色の眼球が、じっと俺を見詰める。
「なんだ」
 少女は微笑み、言った。

「私を、溶ける場所まで連れて帰って。私も、あの人たちみたいに、綺麗に溶けて、消えてしまいたいから」

 



続く



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