原典回帰

蒔原通流



 講師の男がだれでも知っている話を続ける。子供だって知っている。もちろん、私たちも。そして正しく言うならば、私たちはそれについてもっと詳細に知っているし、そうでなければならない。このクラスのほとんどはその話に興味などないだろう。疎ましくさえ思っているかもしれない。ただ、集中して話を聞き、その話を信じているふりをしないと減点される。
 いい暮らしをするには、いい大学に行かなくては。そして、いい大学には、いい高校といい成績が必要だ。ほとんどは、だから、それを信じている。
 多くの生徒たちがそういう姿勢なのに対して、何人かは講師の男の声を一言も聞き漏らさないよう、本気で集中している。講義室の後ろに並ぶ私たちの父や母も同様である。多くはめんどくさいと思いつつ、この授業参観に参加している。社会的な立場や付き合いのためだろう。
 ただ、その奇特な何人かのクラスメイトのご両親たちは、きっと寸分たがわぬ服装をしているに違いない。彼らが揃いの衣装を身に纏い、講師の説法一つ一つを有り難がるように頷いているのが手に取るようにわかる。私自身はそんなこと馬鹿馬鹿しいとさえ思う。けれどそれは私の両親にも当てはまることだ、残念なことに。
 講師の男が導師の最も有名な教えを繰り返す。
 「神は根源へと至るものを求めている。」
 
 
 根源とは何か。そこへはどのように至るのか。
 この宗教において、もっとも重要とされてしかるべきはずだが、これらに関する記述はほかに一切ない。
 では、なぜ、この宗教が現代社会においてほぼ唯一の世界宗教として信仰されているか。
 それはあまりに危機的で困難な状況に対して信じられる宗教を求めている人が多く居たからに他ならない、と言われている。
「優秀な君たちに聞くのは気が引けるが、この場は普段信仰から縁遠い現代的生活を送るご両親もいることでしょう。全員の共通理解のため、あえて質問させてください。
 我々を脅かす現象の名称及びその実態について簡潔に説明していただけるかな。」
 クラスの全員が手を挙げる。ほとんどは無表情で機械的に手を挙げた。我々は「優秀な」生徒なのだからそれくらいのことはインプットされている、そういう雰囲気が漂っている。もちろん、熱心に聞いていた連中は、空気を読まず興奮気味に手を挙げ、自分をアピールしていた。
 講師の男は、自分の熱心な後輩となるだろう生徒の一人を当てた。
「現在、我々を脅かす現象は、導師により『青い日』と名付けられ、この名称が世界中に普及しています。
 その実態は、科学的要因なく生物の肉体が変化することです。これまでに把握されているだけで二百例以上あり、どのようなタイミングで起こるか、原因がなんなのか、詳細は全くの不明です。
 この現象の解明が進まないことについて、この現象が予兆もなく突発的で、対象が動物・植物にかかわらずランダムであること、そして対象となった生物種が全世界同時に同様に変化していくことが問題であると考えられています。
 また、何時、この変化が人類に降りかかるかという点がこの現象に関する議論で最も盛んにおこなわれる議題です。」
 簡潔かつ丁寧な説明ありがとう。講師の男はそう続け、次にこの宗教の教義について説明を始めた。それはこの高校に入学するうえで最も早く頭に叩き込んでおかなければならないことでもある。
 教義は大まかに三つ。
 一つ目は、この現象の名称が『青い日』であること。
 二つ目は、『青い日』は神の御意志によること。
 三つ目は、神は根源へと至るものを求めていること。
「この宗教に対して懐疑的な人たちから最も寄せられる疑問点は、率直に言えば、なぜこれを信じているのかということです。これに対して最も多い回答は、なぜ信じないのかということでした。」
 教団の発足時、導師は一度だけ声を発した。その声で三つの教義をもとに教団を設立することを宣言した。その後、現在に至るまで導師は一度たりとも声を発したことはない。
 その当時、SNS全盛期であったこともあり、その映像はじわりじわりと、床に零れた水がゆっくりと広がるように全世界へと拡散されていった。
 多くの人はその映像のみで信じることを決めたという。聞けばわかる。ただその一言が添えられて情報は広がっていった。
 導師の音声で何が特徴的だったかと言えば、それが当然だというような真に迫った声色であったことだ。実際に見て、聞いてきたから知っている。だから、根源に至るものを私は探す。本心からそう考えていることがありありと伝わってくる。
 当初は詐欺だとかそういう声もあった。しかし、導師は金銭を要求すること、入信を促すことなど何一つとしてしなかった。ただ普通に生活し、時に深く瞑想することがあるだけである。
 では、その動画を実際に見たことあるものがほとんどいない現代においてなぜほとんど唯一の世界宗教となっているか。
 それは教団設立後、二百七十三年となる現在でも当たり前のように、導師がその全く変化のない生活を続けているに他ならないからである。
 講師は、過去に実際に撮影された導師の瞑想などの生活風景に関する動画を示しながらそう説明した。
 動画では、導師は何一つとして変わることがないのに、周囲のお世話係のような男女が人生を五分に濃縮でもさせたかのように年を取り、やがて別の男女へと引き継がれていく。
 あまりに非常識で、あまりにも普通である導師の姿は、嘘などついていない、そう確かに思わせてしまうような説得力があった。
 常に奇跡を見せられて信じずにいられるでしょうか、男はそう締めくくり、思い出したかのように、これから長い人生の中で、根源に至る方法を探すということを忘れないようにしてくださいと付け加え、講義を終えた。


 我が家には同級生と比べてとても信心深い。一家団欒の夕食の席で、母は今日の授業について、内容は初歩的過ぎて勉強になるのか不安だが、導師のお姿とその瞑想の御様子を拝見することができたため、何事にも代え難い経験です、心に刻みなさい、と仰られた。
 我が家では何か特別な用事がない限り、必ず一家三人全員で夕食を摂る。そしてそれぞれ今日あったことを話す。今日のようなイベントがない限り、それほど会話は続かないが。食事が終わると、それぞれの自室にこもる。そして時間になれば、それぞれ出社するなり、登校するなりをする。そして夜になれば、一緒に夕食を摂る。これが我が家の日常である。
 自室にいる間、父や母は瞑想している。導師と全く同じ方法で。瞑想すればするほど、根源へと近づくはずだ。だって、導師はそうしているから。そう考えているのがありありと伝わる。努力をすれば、実る。そんなことがまかり通るほど、現実は甘くないことは『青い日』に教わっているはずなのに。
 彼らは自分のことで手一杯なこともあり、私にはほとんど関心を向けていない。人によれば、育児放棄とも呼べるような環境かもしれない。でも私にはよくあっていた。
 例えば、両親は、「正当な」目的がある限り、仮に一部法律を破ることになったとしても、それを許容した。もちろん、窃盗や傷害など他人に危害の及ぶようなことはもってのほかだが、未成年の飲酒や喫煙に関してはとんと興味がなかった、それよりもそれで「何ができるか」のほうが重要そうだった。
 彼らが私に求めることなど、生まれてこの方、たった一つである。
 根源へと至ること、ただそれだけだ。
 


 二十三時三十七分。
 何時ものように家を出る。
 向かうは近場の公園。
 音はなく、しんと澄み渡った空気。
 凍り付いて、鋭くなって、
 積み重なった薄い結晶のよう。
 
 じゅっ、と火が付く。
 細い煙が立つ。
 味も臭いも好きじゃない。
 煙が立つの見たいだけ。

 積み重なった層の隙間。
 ほとんど枯れた滝のように、
 岩肌を流れ落ちる水のように、
 縫うようにして、
 上へ、天へ、と
 煙は昇る。
 導師は言った。
 根源へ、根源へ、
 根源へ至れ、と。
 方法など示さなかった。
 至るなら、それでいいから。
 
 誰も本気で探しちゃいない。
 同じでいい。
 導師と同じでいい。
 そうすれば救われると思ってる。
 
 導師は言わなかった。
 信じることで、救われるなど、
 一言たりとも言いやしない。
 ただ根源へ、
 根源へ至れ、と言った。
 
 一本の鉄筋。
 その長く無骨な棒が、
 私の額から真っ直ぐ後ろまで、
 頭蓋に突き刺さった状態をイメージする。
 鉄筋は私の位置を固定する、
 長く無骨で、
 強靭な支柱。
 目を閉じて、
 支柱を強く意識する。
 私の頭には鉄筋を通す穴がある。
 それがわかるまでイメージする。

 目を閉じたまま、
 自分の視界をイメージする。
 先ほどと同じ光景がある。
 それがわかるまでイメージする。

 鉄筋は支柱。
 私を固定する支柱。
 そう、固定する必要がある。
 
 目を開けてはいけない。
 視界を揺らす、振り子みたいに。
 徐々に、徐々に、
 左右へ揺らす。
 
 鉄筋は支柱。
 身体が糸。
 揺れるは地面。
 右へ、左へ、
 左右に揺れる。
地面は揺れる。
右へ、左へ、
ぐらり、と大きく、
地面は揺れる。
大きく、大きく、
ぐるり、と大きく、
回るように、
地面は揺れる

地面が、回る。
支柱の周りを、
ぐるん、と回る。

煙は昇る、
上へ向かって。
天へ向かって、
煙が落ちる。

煙は回る。
ぐるん、と回る。
支柱に沿って、
ぐるん、と回る。
煙は昇る。
支柱へ向かって。
 煙は回る、
 巻きつくように。
 支柱に帯が、
 煙の帯が、
 ぐるん、ぐるん、と、
 巻きつけられる。


 燃えて、燃えて、
 煙草は燃えて、
 昇る、昇る、
 煙は昇る。
 

 回る、回る、
 煙は回る、
 燃えた、燃えた、
 煙草は尽きた。
 

 回る、回る、
 煙は回る、
 回る、回る、
 煙草も回る
 身体は糸。
 暴れすぎた振り子のように、
 糸は支柱に巻き付いて、
 煙の中へと、
 巻き取られていく。
 
 根源、根源、
 根源へと、
 糸は中へ、
 身体は中へ、と、
 巻き取られていく。



 導師は知っていた。
 あれが『青い日』ということを。
 神の御業によることを。
 見て、聞いた、から知っていた。
 
 導師は言った。
 根源へ、根源へ、
 根源へ至れ、と。
 至ればわかる、
 全て至ればわかるから。
 全てが『青色』。
 眼に映る光景、全てがフィルターでも通したみたいに『青色』をしている。均一な『青色』ではない。ぼやけたような濃淡がある。ものの輪郭を際立てるような濃淡がある。厳密には、この濃淡は青色とは呼ばないかもしれない。けれども、私の脳にはこの風景を『青色』と呼ぶ以外の選択肢がない。何を考えようとしても『青色』以外浮かびやしない。
 全ては『青色』だが、見慣れたいつもの風景。眼に映るのはありふれた『青色』の住宅街。
 そこに神は御座した。
「ここが根源である。すべての源となる場所である。よくぞ、ここまで至った。」
 神はそう仰りながら、辺りにもやり、もやり、と漂う『青色』を右手でむんずと掴む。
 ここからではご尊顔を窺うことができない。
 前へ、前へ、回りこまなければ。
「そこから動いてはならない。よく見るといい。ここがどのような場所で、自分はだれなのか。」
 ここは根源で、全てはここにある。私も、私以外も全てここにある。ありふれた住宅街は全て『青色』で出来ている。木も、土も、枝にとまるスズメも、すべからく『青色』で出来ている。ここでは、全てが『青色』。
 私以外、そして私も、全て、『青色』。
 神は掴んだ『青色』を左手に持ったなにかにぐいぐいと押し込んでいく。それが何かは神の背に隠れて見えない。
「生き物は直接、根源を見ることはできない。生き物にはそれだけの容量が無いからだ。だから、根源を原典として翻訳することで、世界を見る。より分かりやすい平易なものへと変化する。その際に翻訳しきれなかったものは抜け落ちる。ひとの場合はそれが『青色』だ。」
 神に『青色』を押し込まれたせいか、それよりも薄いぼやけた『青色』がずるりと押し出される。
「随分と長い間、待っていた。根源へ至るものが現れると信じて、待っていた。長い時間をかけて生物は種からまた別の種へと進化を繰り返していた。長い階段を一歩ずつではあるが進んでいるような実感があった。ひとという種が生まれたとき、その階段を一息に飛ばして進むのがわかった。確かに生物はいつか根源に至る、それがはっきりと分かった。
 ひとという生物種が生まれてから、生き物の進化の仕方は変化した。違う種に進化するのではなく、同じ種の中で発展し、進化する。それによりひとは想像する能力を少しずつ伸ばしていった。
 だが、それでは足りない。階段の昇り方が変わるのはいいが、段差に張り付いてよじ登るようでは足りない。根源へ至るのがずるずると先延ばしになってしまう。
 『青い日』はそのためにできた。進化が足りないなら、進化させてやればいい。外側、つまり肉の進化が止まったなら、また外側が進化できるようにしてやればいい。」
 進化や変化。形態が変化すれば、機能は変化する。いつかの授業で、がん細胞を指しながら教師はそう言った。その時思ったことが頭によぎる。
 じゃあ、機能が変化すれば、形態は変化する?
「物にはできないが、肉にはできる。内側に合わせて、形が変わるような余裕がある。
 中身、魂を入れ替えれば、生き物はまだ進化できる。根源へと辿り着くことができる。
 これを慈悲と呼ばず、なんと言うか。」
 あいにく、魂には困らない。この『青色』そのものが魂として使えるのだろう。
 神は、また『青色』を掴み、今度は捏ねてみたりする。
「残念だが時間だ。」
 雨が降ってくる。
 雨粒が当たったところは、『青色』がはげ、現実色のテクスチャが?き出しになっていく。
 雲のように、ぼやぼやと漂っていた『青色』も穴ぼこになってしまう。
 神も、その姿が描かれたキャンパスの絵の具を洗い流すように、『青色』が少しずつ流れ落ち、見えなくなってしまう。
 根源で、見て聞いた全てが、『青色』が、消えていってしまう。
 『色』の欠けた現実に引き戻されてしまう。

「それでも良い。ここに長く居られずとも良い。
 自力で根源へ至った。
 ただそれだけで神は全てを許すとしよう。」
 『青色』は全て流れ落ちてしまった。
 今ならば、導師のこともわかる。彼は待つことにしたのだ。また、根源へと至れるよう。
 『青い日』をひたすらに待つことにしたのだ。
 『青色』が全てを許すと信じて。
 『青色』が全てを救うと信じて。
 

 反芻し、意識を染める。
 『青色』は全てを許す。
 『青色』に全てを染める。

 染まる、染まる、
 『青々』と染まる。
 ひとよ、至れと、
 世界を染める。
 『青色』に全てを染める。


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