青い薔薇

加江理無


 大嫌い。大好き。
 止めて。止めたくない。
 許せない。許してくれ。
 愛してる。愛している。
 警告。どうか、
 警告。祝福を。

 警告警告警告警告警告警告警告、

 警告。

※ ※ ※


 どうしても、息の根を止めてやりたい男がいる。
 そいつは呆れた人間だ。いつだって周りの目を気にしている。あの人はこう言っていた、この人の機嫌は悪い。雰囲気に合わせて、その場を凌げば良いと思っている。八方美人で調子のいい男。自身に意欲なんてないから、周りの目がないと何も始められない。他人にとって評価に値することだけを、正しく評価される時にだけ進んで取り組む。それでいて、評価されることを望みながらも、お前なんかに評価されたくはないと吐き捨てる。人を物差しで測ることでしか生きられない人間だなんて可哀想な奴だ、なんて軽蔑する。ああ、なんて自分勝手な奴。勝手に愛想を振りまいて、勝手に値踏みしているのはお前の方だろうに。自分が見下している人間に見下されていることに気づけない哀れな男。
 それでも、そんな人間はあいつ以外にも多く存在するだろう。自分は幸せなのだと評価されたい、恵まれた人間だと思われたい。そんな思いを否定する気は毛頭ない。あいつだけが悪い訳でもないし、極悪人であるなんて、微塵も思っていない。
 でも。
 それでも、お前では駄目だ。
 お前のような人間では駄目なのだ。
 何故、お前が選ばれたのか。
 何故、お前はそれをよしとしたのか。
 何故、お前はそこで澄ました顔をしていられるのか。 


 かつて彼女の幸せを祈ると誓ったお前だからこそ、俺は許すことは出来ない。

「ちょっと、」
 腕を掴まれた。その感覚を枠切りに、狭まっていた視界がスッと広がっていく。明るさを取り戻した視界が、カラフルな色彩で飽和した。眩暈がして、ぐらりと世界が傾く。反射的に、眉間を指で押さえると、掴まれていた腕を引き寄せられた。辺りを包んだ甘い香りにつられるように目を向ける。視界に映ったのは、キャンディみたいな美味しそうな瞳。眉よりも上で切り揃えられた前髪はよりはっきりとその輝きを見せつけた。人よりも茶色の瞳は主である女性によって、心配そうに細められた。
「大丈夫?」
 丁寧にまとめ上げられた、艶やかな黒髪。そこから残された髪の束が顔横で僅かに揺れた。自然と目が行くのは、黒と対比するかのように赤く塗られた唇。言葉を紡ぐためのそれが、やけに魅力的に見えて、訳もなく指先が震えた。
 もう一度、催促するかのように数回引かれた腕に、ようやく思考が戻ってくる。さり気なく、目を彼女から引き?がしながら、なんのことだろうと考える。何か彼女を不安にさせるようなことをしただろうか。分からないままに、口元を引き上げてみる。
「どうして?」
 尋ねた俺に、彼女は少し呆れたように、それでも未だ少しの不安を残して顔をしかめた。
「顔、真っ青よ」
 緊張してるの?
 そう続けられた言葉に首を傾げる。緊張? 俺が? 純粋に疑問に思った。緊張なら、式の主役である彼女の方がよっぽど感じるはずなのに。俺には何も心配事なんて存在しないし、この式でも仕事という仕事は大して任されていない。せいぜい、友人の前でスピーチをするぐらいだ。原因さえ思い当たらない。それでも、彼女には俺が緊張しているように見えたらしい。
 少しばかり腑に落ちない感覚を覚えながら、俺は首を緩やかに縦へと振った。ちょっとだけ疲れているのかもしれない、そう伝えれば彼女は納得したように頷いた。
「そうだったわ。貴方、案外こういう場所好きじゃないものね」
 そう言って、俺の背中にカツを入れるように叩いた。思いのほか大きな音が鳴ったそれに思わず、痛い、と呻いた。彼女は俺の反応に勝気に笑った。
「しっかりしなさい。貴方には大事な仕事が待ってるんだから」
 その言葉にもう一度、首肯し、彼女の前を立ち去る。ドレスの白が焼き付いたように、目の端に残像を残した。
 大事な仕事、その言葉が頭の中を反芻する。ああ、成程。確かに、俺は緊張しているのかもしれない。脳内で繰り返しシュミレーションした状況。成功させなければならないこと。俺はうっそりと、背後にいるはずの美しい彼女に微笑んだ。
 今日、俺は君の花婿を殺すよ。
 隣に立つのに、あの男では役不足。君にはもっと、相応しい男がいるはずだ。あいつよりも背が高くて、優しくて、頼りがいがある、誰よりも幸せにしてやれる人が。
 先程の、いたずらっぽく笑う彼女の姿が浮かぶ。彼女はきっと怒るだろう。どんな男であれ、彼女が認め、愛した人だ。怒って、憎んで、そして悲しむだろう。でも、きっとこれは誰かがやらなくてはいけないことだ。みんなは優しいからあの男の勝手を許した。彼女に惚れていた男達もたくさんの友人達も、皆、彼女の幸せのためならと身を引いた。だから、これは優しくない俺が成し遂げるべきだ。
 首を傾けて、花婿が映る方を見た。花婿は、俺と目を合わせるように、その濁った目で見つめ返してきた。彼女には似つかわしくない、澱んだ目。
 やっぱり彼女にお前は相応しくないよ。お前だって本当はそう思ってるんだろう? 心の中で呟いた言葉に、花婿は何も返さなかった。ただ、俺のことを責めるような目でこちらを見返していた。
※ ※ ※

 淡々と。心の表面を撫でるような薄っぺらい感謝の言葉を放つ花婿。顔には薄っすらとした笑みを貼り付けている。僕の覚悟を後押しするかのように、やけに鮮明に見えた。言葉が生まれるたび、目の奥が燃やされるような感覚を覚える。しかし、手にしたナイフには驚くほど力が入らない。自然体で、そのまま一歩を踏み出した。どこかから、何かが焦げるような匂いがして。

 それが合図。

 たった数歩で縮まった距離。最後の一歩が地に着く前に、力を込めて、腕を前へと押し出した。空気を裂くような感覚。足が地面に触れて、さらに一歩前へ押し込むと、ずるり、と流れ落ちるかのようにあいつが倒れた。悲鳴は聞こえない。浅かったのだろうか。もう一度、今度は振り下ろすようにしてナイフを振るった。感覚は浅い。焦りからか、手汗が出てくるのを感じる。先程までの冷静さはどこへ行ったのか。愚痴りながら構え直す凶器はどうにも握りにくい。何度も、何度も、続けて振った。相変わらず明確な手ごたえはない。眩暈が酷くなる。視界も狭い。眼球に薄い膜が張り付いたような、そんな感覚。もしかしたら振り方が悪いのかもしれないが、肉を裁ちやすい振り方なんて分からない。普段から料理をしていないことがあだになった。ナイフを握りなおして、今度は横に薙ぐ。何の触感もない。もう一度。今度は、暖かかった。それが運動を繰り返したせいなのか、あいつを構成する要素が崩れ、降りかかったせいなのかは判別できない。ただ、酷く疲れていることだけは分かった。今度は振り下ろしてみよう。さっきよりは簡単なはずだ。力も最小限で抑えられる。頭が痛い。ちかちかと明滅を繰り返しているように見える。これでは、ちっとも前が見えない。ちかちか。ちかちか。明滅、明、滅、明、滅。赤白赤白赤白。

 あか。
 赤。あれ、そうだ。


 赤は止まらないと。

※ ※ ※

 ちかちか。ちかちか。
 痛いほどの光が何度も目を刺した。目の前の光景がぼやけて、しまいには白く塗りつぶされてしまう。視界が悪いことに、困ったなあ、と他人事のように感じた。困った、困った。心中でそう零しながら、でくの坊のようにそこにぼんやりと立ち尽くす。暫くそうしていると、今度は周囲から破裂音が響き渡った。ぐわり、と碌に見えやしない視界が揺れ、思わずたたらを踏んだ。額に手の甲を当てて俯いた時、顔から何かが零れだした。拭っても拭っても溢れてくるそれに、どうしようもなく立ち尽くした。それでも、周囲に人が溢れていることだけは何とか理解でき、咄嗟にそれを隠すように深く俯いた。ぼやけたカーペットが揺れては静止する。ふと、後ろから伸びてきた掌に、髪をかき混ぜられた。どこか懐かしい掌にぼんやりと、セットが崩れるのになあ、と思った。

「  君」

 右側からは、いつもより少しかすれた彼女の声が響いた。そのまま、腕が何かに触れたかのように暖かくなる。いつの間にか手にしていたマイクを見つめて、ゆっくりと顔を上げた。彼女に横恋慕していた人や友人達が音もたてずに笑っていた。瞬きの度にボロボロと涙を流して、顔を隠すように白いハンカチで覆って、それでも口元を引き上げて微笑んでいた。
 彼女は、愛されてるなあ。一番にそう思った。彼女ならもっと背が高くて、優しくて、頼りがいがあって、誰よりも幸せにできる人に愛されただろうに。そうなれば、彼女だってこんなめでたい場で泣くことだってなかっただろうになあ。
 拳の上から包み込むようにしていた彼女の手の平に、自分の手のひらを重ね合わせた。マイクは彼女と僕の間に挟まれるようにして宙にとどまった。彼女はいつもよりもどろりと濃い瞳を、俺と同じように細めた。


 ああ、それでも彼女も笑うから。
 俺は刺し殺されるまではここにいようと思うよ。



 グラスに映って歪んだ自分に、俺はそう呟いた。



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