振り向けば。

白内十色



 悲しい夢を見たな、と目を覚ました私は醜い虫になるでもなく怪物になるでもなく、ただ人間のままで今日もベッドで天井を見つめている。
 寒い朝だ。扉を叩く人はなく、窓を叩くのは冷たい風の音だけ。こんな風の強い日は自転車がドミノのように倒れていくのだ。そんなドミノの引き金を引くのはいつだって自分の自転車と相場が決まっていて、いくら立て直しても、また倒れるだろうとも知っている。
 食パンをトースターに入れ、冷蔵庫から取り出した蜜柑を剥く。蜜柑は良く冷えている。どうして蜜柑が冷蔵庫に入っているのか、と訊くと、何も考えていなかったんだ、と自分が答える。蜜柑は常温で保存できるはずだ、と自分を叱る。鳴らないベルに、トースターを起動していなかったことに気付く。溜息を一つ。
 ようやく昨日の出来事に思いが届く。思い出さなければいいのに、と自分に言う。自分はいつだって不器用で、相手から拒絶されたのか、自分が拒絶していたのかなんて、本当のところは分からないのだ。お互いの間の隔壁を、確かめるように手を伸ばして。なんだ、結局一人が落ち着くじゃないか。自分のことも信じられないのに、他人の何を信じればいいのか。一人なら裏切られることもない、と考えている。きっと自分は正直で、だからこそ生きにくい。
 家に帰り、ハンガーに服を掛けた後、電気を消して静かに泣いた。そのまま目を閉じて、眠ろうとした。背後で服の落ちる音がする。不思議と冴えた頭で考えた。自分は間違えたのだろうか? 間違えたのだ、と薄笑い。何故なら自分が苦しいのだから。自分を苦しめるモノは、みな間違いなのだ。そうして意識を失って、今に至る。
 私はきっと、川の内部にあって流れを遮る、岩のような存在だった。集団の中にありながら、混ざろうとせず、しかし何をするでもなく、ただ乱している。左右から水が躰を削る。流されるほどに小さくなれたら。もしくは、独りでもあれるほどに大きくあれたら。その方が、お互いにとって、どれほど良かったことか。
 きっと私が居なくなって向こうは楽になっているのだろう。思考は有限だから。私のことよりも優先度の高い課題があるし、それを考えていた方が彼らは幸せになれる。余計な悩みを抱えていては、綺麗な世界が目に入らない。そう、例えば今の私のように。つまるところ私だって、かつては輝いていたはずなのだ。
 ふと考える。思考を有限とするならば、果たして幸福は有限か? 私の悲しみは誰かの喜びを知らずのうちに生んでいるのか? 仮にそうだとして、それは救いであるのか、呪いであるのか? それでは幸福になどなれないではないか。不幸を抱えたまま私が消えてしまえば、皆が幸福、という理屈なわけだ。奪わなければ得られない。知っていたはずなのに。
 そうとも限らないだろう、と自分が言う。幸福の真実など知る者は居ない。何を語ろうと、可能性にすぎない、と。
 風が窓を叩くように、内側から思考が躰を叩く。いつだってそう、外部に敵を設定しなければ、自分が敵に回るものだ。私は人を憎む弱さを持たなかったが、自分に勝つための強さをも、ついぞ手にしないままでいる。かつて幸福へと手を伸ばしたころの自分が、今は呪いを吐き出し始める。
 考えるな、と叫ぶ自分も居る。しかし、思考を止めることはすなわち死ぬこと。泳ぎを止めぬ魚のように。そうして思考は一つの仮説を提唱する。思考を続けた先であろうと、死は口を開いて待ち受ける。
 幸福が、常に減少する資源であるとしたら? ちょうど、エントロピーが常に増大するように、与えられる幸福と不幸を足した値が、常に負の数になるとしたら? 誰かと共に居ることが生む不幸は、それから得られる幸福を上回っているとしたら? 私たちは人生の最も初めの部分で間違えていて、それを未だに認められずにいるのだろう。
 生涯一度も泣かなかった者こそが真に幸福だ。彼らは気付かずに人生の最適解を選び、天から私たちを見下ろしている。思えば子供の時分こそが輝いていた。やがて憎しみを知り、嫉妬を知り、笑うことが出来なくなった。私の幸福さは常に減少し、その速度は周囲の誰よりも速い。この先も減り続ける幸福は、きっと、どこへともなく消えるのだろう。
 私の未来に、幸福は存在しない。
 なんだ、間違えたのは世界じゃないか、という結論。
 物置からロープを探す。そう、かつて幸福は得られると信じていた。今は失うばかりであると信じてしまった。まだ希望を信じている自分が居る。諦められない自分が居る。幸福を信じて努力したのだ。今更得られないと知って納得がいくものか。だが、昨日私は、残された幸福らしきものへの、僅かな階段をさえ捨ててしまったのだ。私にはもう、幸福へとつながる道が目に映らない。
 少し前に焼けていたトーストにバターを塗り、齧る。人間であるとは不幸なことだ。願わくば、私以外の人間がこれ以上幸福を取り落とさぬよう。障害物が無いに越したことはないのだから。
 馴染めなかった世界から逃げ出すのは、これで何度目だろうか。そんなことを考えている。
 そうして、部屋の中には静寂が訪れる。
 灯りのついたままの部屋の外を、風が通り過ぎてゆく。


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