教室の裏側の攻防

赤ミソ汁


 1
 教授の説明を右から左に聞き流しながら、俺はひっそりと溜息を吐いた。左の席には、友達の賢人がこれまた大真面目な顔で、すでにメモまみれのレジュメになにやら書き込んでいる。同じ講義を受けているというのに、俺のレジュメは余白が目に眩しい。
 俺らが講義を受けているのは、岡香山大学のAからEまである教養のA棟の二階にある一室だ。机は五人ずつに繋がっていて、椅子でそれぞれ分けられている。それが四列。どこにでもある大学となんら変わりない。
 椅子に座り、下を向いてただレジュメを解説している教授は、話を聞く気もない俺のような学生のことなど、どうでもいいのだろう。奇遇だな、教授。俺もだよ。
 スマホが震えて、電源が付いた。LINEの着信がお知らせされる。時間をみると14時59分。次の瞬間、スマホの時間が15時に進み、チャイムが鳴り響いた。
 筆記用具を片付ける音と、教授の「では、10分休憩を取ります」という声が重なる。休憩時間特有の騒がしさにつられて、俺も隣の賢人に話しかけた。
「なあ、先週なくして学生証の再発行を申請していたの覚えてる?」
「うん、まあ」
 岡香山の学生証はただの身分証明に使えるだけではなく、申請することで一日に500円から学食で使うことができる、イートカードというサービスに加入出来たりと多機能だ。講義の出席もカードリーダーに学生証を読み取ることで済ます講義もある。つまり、なくしたら割と困る。
「それなんだけどさ、昨日新しい学生証を事務で受け取ったら、今日の朝、なくしてたの見つけた」
「なにそれ、二枚もどうすんの」
「まじそれな」
 ポケットから二枚の学生証を取り出す。それをみた賢人の声がわずかに震えて、唇の端が少し歪んだ。
「どうしよっかなーこれ」
 投げやりに言った口調は、できるだけ明るさを保っていたが、心の中ではテンションが下がったままだ。せめて笑い話にもなれば、気分は上がりそうなのに。
 賢人とは入学したばっかの四月にたまたま席が近かったことから、一緒にいるようになった。だけども何をするにしても賢人の反応が薄い。
 そもそも賢人も真面目だから、俺とはあんまり波長が合わないのだろう。
 なんで一日の大半をこいつと過ごしているんだろうな。
 そのあとも楽しくもない会話を漠然と続けていると、チャイムが鳴った。先生が前の席に手渡した、オレンジと白のカードリーダーが、机の合間を移動している。
 ふと閃いて、手に持っていた二枚の学生証のうちの一枚をひっくり返すともう一枚と重ねてみた。これで表裏に俺の写真がみえる学生証の完成だ。
 カードリーダーが、賢人より手渡される。そのカードリーダーに学生証をかざすと、

 世界が一変した。

 眼の前がゆがみ、頭が何者かにハンマーで殴られたかのような痛みで意識が遠くなる。教室にいたはずなのに、気づけば視界は暗くて何も見えない。
 椅子に座っていたはずなのに、なんで立ってる?
 どこからかサァァアと木が揺れるような音が聞こえてくることに、頭が追い付かない。さっきまで室内にいたんだぞ。目の前には、闇。上を見ても、右を見ても、吸い込まれそうな闇。俺の目が見えてないかと思ったんだ けど、目の粘膜に当たって存在を主張してくる風が、ちゃんと開いていることを教えてくれる。
 夢でも見てる気分だ。目の前で起きている全ての出来事は非現実的なのに、足の裏の地面を踏みしめる感触も、首筋をなぞる風の感触も、なにもかもがリアルすぎる。
 ここから逃げなければ、と感じたのは、理屈じゃない、本能だ。呆然とした頭はそのままに、足が一歩、体を突き動かす衝動に従って、前に踏み出される。
 足元さえもよく見えない闇の中で、進んだ先に踏みしめる地面があることにどこか安堵する。
 次の瞬間、すぐ近くでガサガサっと音がいきなりなって、心臓が飛び跳ねた。
「うわぁぁ!」
 しかも音が近づいてくる。逃げようにも、暗闇とパニックのせいで音がどこから聞こえてきているのかすらわからない。すると、肩に何かが当たって本日二度目の悲鳴が口から迸った。
「ぎぃぁあああ!」
 これは、手か? 手を肩に置かれてる? え?
「落ち着いて」
「ひぇぇぇ!」
 男の声がした! 知能があるのか? 人間か? 
「大丈夫だから、落ち着いて。君は誰?」
「何が大丈夫なんだよ! いきなりこんなとこにきて、何も見えない中でフレンドリーに話しかけられても意味わかんねえよ! まずお前が誰だよ!」
「あ、そっか。暗視スコープないから見えてないのか。驚かせてごめんね」
 ガサゴソと何かを漁る音がして、パッと周囲が明るくなった。すると、目の前の人物もはっきりと見えてくる。   そこにいたのは、ガスマスクを装着して、明らかに軍人使用の迷彩服を着こんだ人物だった。俺よりも少しだけ頭の位置が高い。そして肩にかけてあるのは、黒光りする銃。
「ぎゃああ! 殺される! 死ぬ死ぬ!」
「殺さないから! むしろ味方味方。こっちにみんないる基地があるから、おいでよ」
 空いてる手をひらひらさせて、どこかの箱庭ゲームの題名みたいに「おいでよ」なんて気楽に言っているけど、相手は迷彩服をがちがちに着込んでいる。油断はできない。
「ここどこだよ?」
「うーん、説明難しいなぁ。でも俺、多分君と同じ大学に通ってるよ」
「まじ? 銃持って大学これんの?」
「さすがに大学に銃は持ってきてないよ。でも大学からここにきただろ?」
「そうだよ! 俺、講義中に気が付いたらこんなとこにいて」
「よく見つけたよねほんと。みんなそのルート通ってここまで来てるよ。ってか、一人? 君だけ?」
「俺だけだけど」
「まじで? 一人でも来れるなんて思わんかったわ。多分君が初めてじゃない? 基本二人で来るもんだし」
「え、俺ってイレギュラーなの? もしかして、一生ここ暮らし?」
「いや、ちゃんと帰れるっしょ。まだ混乱しているだろうし、詳しい説明は基地についてからにするよ」
「...」
 ついて行って大丈夫なのか? 俺とこいつで集団幻覚みている可能性もまだあるんじゃないか。
 黙ってしまう俺を見て、めんどくさそうに迷彩服は頭をかいた。それでも立ち去ろうとはしない。
「学部なに?」
「...経済だけど」
「俺と一緒じゃん。ふうん、そうか」
 俺の気を紛らわせようとしたのか、何かを探ろうとしているのか。この唐突な質問に驚きつつも、その毒気のない話し方に、つい答えてしまう。
「ここだけの話だけど、経済理論1の田村いるでしょ? アイツの髪ヅラだよ」
「...知ってる。明らかに盛り上がってるのに、気づかないやついないでしょ」
「でも、本人バレてないと思ってるよ。なんかあれ年々高くなってくの」
「あれ年上? 俺めっちゃため口で喋っててすみません」
「や、全然いいよ。地毛と反比例して増えてくヅラにそこまで取り繕ってどうするのかって言いたいね」
「剥ぎ取って、取り繕えてない顔面に叩きこんでやりたくなるっす」
「中々言うじゃん。で、どう? 少しは俺を信じてくれた?」
「...少なくとも、同じ大学なのは嘘ついてないってわかったんで、少しだけ」
「おけおけ、じゃ、移動しよっか」
「...はい」
 俺の返事に頷いた迷彩服が歩き出す。その背中を追って、俺も歩き出した。
 明かりに照らされても尚、黒いままの葉をつけた木や草が、周りに沢山生えている。その中で草が生えていない獣道のようなとこを、迷彩服は躊躇いなく進んでいった。
「そういえば名前まだですよね。自分、江戸原俊一郎って言います」
「俺は八重田歩。経済二年。これから行くとこは、俺入れて四人いるよ」
「こんなとこで何してるんですか?」
 少しの沈黙があった。迷彩服の足が止まる。つられて俺も止まった。
「戦争だよ」
 振り返ったその表情はガスマスクで覆われてわからない。でも、声の調子が明らかに今までとは違うことは、読み取れた。笑い飛ばしたいのに、笑えない。だって、その肩には、銃が、ぶら下げられている。
 背中に冷や汗が流れるんじゃないかってぐらい、空気が冷えていくのを感じる。冷や汗だけに。例え下手すぎか。
「...ここ、日本ですよ」
「別に国同士でドンパチやってるわけじゃないよ。そもそも、多分日本とかのカテゴリーに属してないし」
「じゃあここはどこなんですか?」
 思ったよりも大きな声が出てしまった自分に驚く。くそ、できるだけ冷静になろうとしているのに。下を向いて黙ってしまった俺と迷彩服の間で沈黙が流れて落ちた。相変わらず全然前に進めない俺たちだった。
「なんていうのかな、ここ、俺たちの意識の世界とでも言えばいいのかな。楽しいとか、悲しいとかってある程度のパターンがあるみたいで。そのパターンが生まれるのが、ここなんだよね」
「意識の世界でパターンが生み出されている? は? ふざけてるんすか」
「まま、俺もよく仕組みわからないから気持ちよくわかるよ。ってか誰も解明できてはないんじゃない? でも一つ確かなことは、俺たちの感情はこの世界の支配下にあるってことだけ」
「そんなことあるはずないっすよ、だって、今の俺が感じてる恐怖も、全て、この世界に操られてるなんてこと、普通に考えてありえない」 
「江戸原君...だったよね。もちろん、江戸原君の感情は江戸原君だけのものだよ。それの元を供給しているのが、この世界。オンオフを握っているっていえばいいのかな?」
「...なんとなく、八重田先輩が嘘ついてるようには思えないっすけど」
「俺もほんと説明へただから、基地にいけばもう少しまともに説明してくれる人がいる。俺の足りない言葉であんまり変に曲解されたりしたらやだなって思ったから、説明少なめで行こうとしたんだけど、普通に混乱したよね。ごめん」
「いや、全然大丈夫です。よくわからない世界にきちゃったことはわかったんで」
「それでヨシ。じゃ、行こうか、もうちょっとだけあるくよ」
 くるりと後ろ向いて歩き出す迷彩服に、もう何かを聞く気にはなれず、ただ無言でついて行った。
 五分ぐらい歩いただろうか。突如として、目の前に無機質な鉄の色した壁があらわれた。見上げても、どこまでも、壁。この世界で、初めて人工物らしきものに出会えたが、あまりにも大きくて、あまりにも索漠としている。一言でいうと、異様すぎた。
「とうちゃーく」
 迷彩服が慣れた手つきで手袋を外して、その壁に触れる。音を立てて、壁が左右に分かれていく。壁の中から漏れる白い光が眩しい。急に入ってくる強い光に両手で目を覆って、その場で立ち止まってしまう。
 すでにガスマスクを外した迷彩服が、心配そうにみてきたのが、光にやられそうになる視界でぼんやりと確認できた。見るからに俺と同い年ぐらいの顔つきで、髪は染めた茶髪だったし、迷彩服さえきてなければどこにでもいそうな大学生だ。
 こんな大学生が戦争をしているだって? 冗談だろ。夢なら早く覚めてくれよ。
 痛む目に耐えてる中、腕を引かれてなんとか壁の中に入る。後ろで壁が閉まったのかゴゴゴとかすかに聞こえた。ようやく慣れてきた視界で、周りを見渡す。
 壁と同じ鈍い色をした、広くて丸い部屋だった。中心に丸い円卓があって、椅子が四つ。そのうち三つに人が座っている。金髪ロングと黒髪ショートヘアの女の人が二人と、ブロンドと緑色の目の外国人風の男一人。三人とも八重田先輩と同じように迷彩服を着ている光景に頭がくらくらする。三人とも、こちらをみているだけで何もしゃべらない。なんで? これ俺超アウェイってこと?
 すると、八重田先輩がびしっと敬礼した。
「花と水? 八重田歩、ただいま偵察から戻りました!  周囲に異常ナシ、一名発見し保護して参りました!」
 張り詰めた空気の中でショートヘアの人が立ち上がって、敬礼を返した。
「了解!」
 それに合わせて、座ってる二人が了解、と被せる。なんだここは、軍隊かよ。いきなりのノリについてけないけど、なんとなくショートヘアの人がリーダー格なのが察せた。
 ショートヘアの人が椅子に座りなおす。その途端に、張り詰めた空気が緩んだ。あれほど無言だった三人が矢継ぎ早に話しかけてくる。
「随分遅かったから、心配してたんだよ」
 これはショートヘアの人。大きな瞳が印象的に見える。
「おかぇりぃー、そこのひとぉわぁ?」
 やけに語尾を伸ばしたこれは、金髪ロングの人。化粧がちょっと濃い。
「一人のみ? もう一人は見つからなかったの?」
 これはブロンド髪外国人。見た目に反して意外と日本語は流暢だった。
「ここから250mぐらい離れてるとこにいたんで、連れてきた。名前は江戸原君。一人で来たんだって」
 三人とも驚いたように顔を見合わせた。そこまでぼっちが珍しいのだろうか。
「俺、あんまり詳しい説明とかしてないんで、ぶちょーよろしくお願いしますよ」
「ああ、座る椅子用意しようか」
 頷くショートヘアの人。どうやら部長らしい。部隊長の略か?
「部長なんですか?」
「そう。自己紹介がまだだったね。私は文学部三年の織山帆波っていいます。ここにいる人たちは全員岡香山大学の人たちだよ」
 ショートヘアの人が椅子に座る二人を指で示す。
「そぉー、同じくぅ、文学部三年の徳寺理沙でぇーす。よろーぴっ」
 ぴっ、のとこでピースした金髪ロングと、
「グローバル科二年のアーノルド・カーター。アメリカから来た。日本には前から住んでいたから、日本語は一通りできる。よろしく」
 丁寧に深々とお辞儀をした外国人。全員、ほんとに大学生なんだな。
「よろしくお願いします。経済学部一年の江戸原俊一郎です。あの、この世界って」
「とりまぁー、話すのはぁ、座ってからでいいでしょぉー」
「トランクあるからもってくるよ。でかいからアーニー手伝ってくんない? 江戸原君疲れてるだろうし、俺がそれ座るわ」
「ラジャー。江戸原は空いてる席に座ってていいよ」
「いや、そこまでさせてしまうわけには...」
「いいから気にしないで」
 立ち上がった外国人の身長は、椅子に座っていたからわかりにくかったけど、俺よりも頭二つ分高いんじゃないかってぐらいタッパがある。立ち上がって見下ろしてくるその彫りの深い顔と、視線に威圧される。
 結局押し切られて、部屋の隅にあるでかい、トランクと呼んでたプラの箱に向かう二人を尻目に、椅子に座る。意外と座り心地はよかった。
「ここに来た時のことは覚えてる?」
 ショートヘアの織山先輩が、説明してくれるらしい。隣に座っている金髪ロングの徳寺先輩は、口を挟む気はないようで、にこにこと黙っている。役割みたいなのがあるのだろう。
「確か、カードリーダーに学生証をかざしたとこまで覚えてんですけど」
「学生証をかざしただけ?」
「そうっす」
 織山先輩が口に手を当てて考え込む。その間に、トランクを運んできた八重田先輩とアーノルド先輩が俺の両隣に座った。気分はさながら圧迫面接の最中、といったところだろうか。
 八重田先輩が興味津々の顔で話しかけてくる。
「学生証を二枚にかさねたりしてないの?」
「あっ、しましたしました。二枚裏表にして、かざしたんですけど」
「それじゃーん、手順はぁいちおー踏んできたってわけねぇ」
「手順?」
「ここにくるには、二枚の学生証をCard readerにかざす必要があるんだ」
 アーノルド先輩のカードリーダーの発音はさすがというべきか、すごい様になってた。
「二枚の学生証? え? なんで?」
 織山先輩が顔をあげた。
「重なった二枚の学生証が、かざされるときに発生する電磁波が折り重なると、空間がわずかに歪むらしい。その僅かな歪みには、物体には影響はないんだけど、意識だけに干渉する力が働いていて、原理は不明、その歪みの中で発生した超重力に引っ張られて、私たちの意識がここまで連れてこられるって説が今のところ有力だね。ぶっちゃけ誰にも分っていない」
 織山先輩は、身振り手振りを交えて伝えようとしてくれるのは伝わったが、肝心の中身はさっぱり分からなかった。
「SFっすか...?」
「残念ながらぁ、現実でぇーすっわら」
「ちな現実の俺たちは、授業受けてるよ。ここにいるのは、えーとなんだっけ」
「意識の何割かが分離されている」
「そそアーニーそれ! なんか俺たちの体に残るのと、ここにいる俺たちで意識別れてんだって。チャイムが鳴ると、元の世界に強制的に戻されっから安心して」
「疑問に思うのは真っ当だ。だが事実ここにいるということは受け止めてほしい。本来ならば二人分の学生証を重ねないといけないから、二人で来るのが基本だったんだけども、江戸原君は例外みたいね」
「そういえば、自分の学生証ともう一枚の自分の学生証を重ねたんで、俺一人でここに来れたのかも」
「なるほど。二枚とも自分の学生証ならば、一人でここに来れるのね。理屈としてはわかるけど、学生証を二枚も持つ人がいなかったから今までそういう例はなかった、ってとこかな」
「学生証二枚持ってる人はなかなかいないしね」
 学生証が全て引き起こしているってとこまでは理解できた。原理も不明、でもなんだかこれは現実であるという実感は湧いてきた。
 それでも、まだ一番気になるところがはっきりとはしてない。そのことについてこっちから突っ込むべきかを考えていたら、徳寺先輩が察したかのように言ってくれた。
「このぉ世界でぇー、うちらがーなーにぃしてるのかーみたいなのってぇ、もおきいたぁ?」
「その説明もまだだったね」
「その、八重田先輩から、戦争しているって聞いたんですけど、ほんとなんですか?」
 疑問形ではあったけども、俺の中ではほぼ確信はしていた。この部屋の隅に高く積み上げられている、武器の山がもうそれを示していた。
「本当だよ」
 それなりの覚悟を込めた質問に、織山先輩はあっさりとうなずいた。黙ってしまった俺をみて、アーノルド先輩が口を開く。
「まずはこの世界のことから説明した方がいいんじゃない? この世界は、わかっているとは思うけど、現実世界ではない。俺たちはこの世界のことを色々皮肉込めて『冥土』と呼んでる」
「説明の順番みすっちったかなー」
「ここは無意識の世界の集合体なんだ」
「...」
「んーとぉ、私もぉわからないんだけどぉ、つまりはぁ、感情がぁ、ここで生まれる、てきなぁ。かんじょーがぁ、めいど、いんー、めいどぉー。ぎゃはは」
「...」
「ちょ、理沙さんさすがにそれはぶっ飛びすぎでしょ。江戸原君の感情は、意識的なものではなく、心の底から湧き上がってくるものっしょ? つまり無意識から来てるわけじゃん。んで、ここ、冥土は無意識の集合体なわけじゃん? つまり、感情はここで生み出されてるってこと」
「...」
「俺たちの無意識は冥土に繋がっていて、というより、むしろ冥土に、俺たちの感情は揺れ動かされてる」
「...」
「わからないのも無理はない。私も最初に理沙と一緒にこの世界に来たときは、全然分からなかった。でも、地下にあるものを見れば、ちょっとは実感できたよ」
「あーそうね、あそこいこっか」
「地下ってなんなんです?」
 俺の質問に、徳寺先輩がにやっと真っ赤な唇だけ歪ませて器用に笑った。
「このぉ、せんそぉのぉ、おおもとぉ、だよー」
 一体俺は地下で何をみせられるんだろうか。
 織山先輩が壁まで歩いていき、壁に手を付いた。そのまま、壁に顔を寄せ、ぼそぼそと何か呟いている。数秒後、地面が震え始め、織山先輩の横の地面が、四角に開き、下から競り上がった何かが高速で突き出した。同時に、ガゴン?と大きい音が発生して、この基地が粉々に割れてしまうほど揺れる。
「これが地下にいくためのエレベーター。防衛的観点から、二人までしか乗り込めない。私と行こう」
 織山先輩の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。話すときに、人の目を見て逸らさない人なのだ、と思う。
 昔から、俺に向けられる視線が苦手だった。その視線に込められている期待からも、失望からも、軽蔑からも、逃げ出したくてたまらなくなる。
 でも、この人の視線は不思議と嫌悪感が沸いてこなかった。
 頷いて、立ち上がる。
「覚悟しといたほうがいい」
「ちょいー、ぷれっしゃぁ、かけちゃぁ、だぁめぇー」
「ま、深く考えたら負け負け」
 三者各様の励ましの言葉を背に、エレベーターに乗り込んだ。
 織山先輩が、エレベーターの内部のボタンを押すと、ピンと電子音の後に扉が閉まる。体が軽くなり、確かにしたに降りていることが分かった。
 何か話しかけようと思ったが、話題が出てこない。でも、地下にはすぐ着いた。扉が開く。パッと目の前の電気が自動でつく。
「なに、これ」
 眼の前には、薄黒い液体で満たされた腕一回りぐらいある太さのガラスの筒。その中には、黒い卵の形をした物体がぷかぷかと浮かんでいた。
「人の感情は大きく、八つに分かれるという。エクスタシー、感嘆、テロ、驚き、悲しみ、嫌悪、激怒、警戒の八つだ」
「急に、なんなんですか」
「最後まで聞いてほしい。八つの基本感情は、冥土で卵として生まれ、そして私たちのそれぞれの無意識へと孵る。この卵は、悲しみを生み出す卵。八つのうち、一つはここ。もう一つ、エクスタシーの卵は発見済み。ほか六つの卵の所在は不明」
「この卵が...」
「産まれる過程も、詳しいことは何もかもが不明。卵が孵ると、またいつのまにかここにある。ただ、この卵が孵る前に割れると、次の卵が出現するまでは、私たちにその感情は生まれなくなることだけはわかっている。卵の中身の一部分を抽出して孵化させる技術も確立されているが、そのため機材はここにはない」
 その説明は淀みない。でも内容がさっぱり頭に入ってこない。卵が重要そうなのは理解できた。
「...もしかして、戦争って」
 右隣にいる織山先輩をちらっと見ると、大きく頷いていた。
「この卵を奪い合って、争いが続いている」
 そこまで言われても、俺には目の前の変な卵がそこまでの価値を持つようには思えなかった。
「友校会って知ってるよね。友達の友に、学校の校で友校会」
「名前だけなら。それがどうしたんですか」
 確か、岡山大学にあるなんかの組織だったはずだ。詳しいことは興味ないからわからないけど。
「冥土に来れるのは、私達だけじゃない。友校会の人間もここに来るためのルートがあることを知っていて、エクスタシーの卵を所持している。そして、友校会の目的は、目の前にある悲しみの卵の強奪なんだ」
「強奪って...どうして」
「さっき、卵の中身を一部分だけ抽出して孵化させる技術が確立されているといっただろ? その技術が可能なのは、友校会のみ。説明は難しいんだけど、卵は、間接的には私たちの感情を生み出しているんだけど、本当はいくつかの無意識に選択する起こりうる出来事を生み出しているにすぎないんだよ。つまり、悲しみの卵は、私たちが悲しいと思うような出来事を無意識に選ぶように働きかける。友校会は、中身を抜き出すことで、この卵が起こす出来事を回避しようとしている。私たちは、友校会から卵を守るのが目的」
「それで争ってるんですか、同じ大学内で...」
「ここでは敵同士だよ。江戸原君は、これまでの人生の中で、幾度なく悲しみを体験してきたはずだけど。それらすべてに意味がなかったと思う?」
 今までの悲しみに、意味があるかどうかだって?
 記憶を振り返って、真っ先に出てくるのは親父の顔だ。記憶の中の親父が俺を指さして、そして呆れたようにこう言うのだ。
『お前は、人一倍努力しなさい』
 俺は、親父の言う通りに頑張った。でも、成果は一向に出ず、親父の息子というだけであれほど持ち上げてきた周囲からの期待もなくなり、最後に残ったのは、たった一つ、自分への嫌悪のみだった。
 親父の声が何十にも重なって反響しあう。
『できるまでやるのが、努力だ』
 うるさいんだよ!
 俺が、どれだけ努力したと思ってる。誰よりも遅くまで居残って練習して、帰宅したら親父に怒鳴られながら深夜まで及ぶ猛特訓。遊ぶ時間すらなく、朝も昼も夜も、俺はいつか報われると縋って、必至で練習したのに。それでも、一握りの「天才」の枠には入れなかった。
「悲しみに、意味なんて求めたって、どうしようもならない」
 思考の渦に飲み込まれた俺の途切れ途切れな返事に、織山先輩は首を振る。
「これはいわば、挑戦なんだ。未来とは、操作されるものじゃなく、掴み取るものであることを誰かが、友校会に示さなければいけないんだよ」
 俺の人生は、親父が引いたレールの上を歩いているようなもんだった。そこから下りた今も、望んでいた未来なんてやってこない。
 それだけに、『未来を掴み取る』だなんて夢見ているような言葉が深く心に刺さった。この人は本気だ。大きな瞳が放つ奥の光彩は透き通ってる。
「こんな俺でも、なにか変えられるっていうんですか」
「望みに値する動機がなければ、なにも成せない。勿論、変化さえもね。人が幸せを求めるのは、不幸だからだよ。そうあるべきだ。その原動力ですら、友校会は消そうとしている。私には、それが許せない。
 江戸原君さえよければ、私たちがこの卵を友校会から守るために力を貸してほしい」
 切り揃えられた爪に塗られた透明なマニキュアで光を反射させた右手を差し出される。視線が交差する。織山先輩の背後には、黒い卵。なんでこんなことになってしまったんだろう。
 悲観する感情とは裏腹に、その手をしっかりと握り返していた。この人なら、綺麗事を現実にしてくれる。そういう、確信に近いものがあった。
「俺にできることであれば、協力します。でも、まだここに来たばっかりで、俺に何ができるのかも分かってないから教えてほしいです。この世界、冥土のことを全部」
「情報は全て共有しよう。返事は急いでないから、時間おいて考えて判断してからでも全然かまわないよ。なんなら、うちのサークルに体験で入ってみる? 私たち全員、同じサークルのメンバーで私が部長を務めてる。その部室で作戦会議とかもよくするから、もっと詳しく冥土のことがわかるようになると思うよ」
 何かを始める気も起こらなかったので、今まではサークルには加入してなかった。
 どんなサークルなんだ? 恰好からしてサバゲ―とか? どんな体育会系のサークルが来ても、耐えうるだけの体力と気力はあるつもりだから、特に何も考えずに了承した。
「俺、サークル入ってないですし、入りたいっす」
 織山先輩はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。

「ようこそ、『岡香山大学文芸ペンクラブ』へ」


2
 一限が始まる少し前、いつもならいるはずの賢人が、まだ来ない。珍しいこともあるもんだな、と思いながらも、考えるのは昨日のことだった。
 昨日のことが未だに信じられないような、でも、俺の脳内は夢じゃないと訴えかけているような、不思議な心持だった。昨日、俺が冥土にいた間に、授業受けているというよりは、椅子に座っていた記憶はある。どれが、俺なのかわからない。どっちも俺、なのか?
 それにしても流れでサークルに入るとか言ってしまったけども、文芸ペンクラブか。本とかそういう娯楽とかには全然触れてこなかったんだけど。小説なんて書けないぞ...。
 今日は部室にいく約束を昨日はしたけど、部室でいきなり小説書くのを強制させられたら、そのまま帰ろう。そうしよ。冥土とか以前にそれは無理すぎ。
「セーフ。おはよ」
「ん、おはよ。って、その人は?」
 もう授業が始まるまで秒読みだ。慌てて駆け込んできた賢人の横には、黒い長い髪の女子がいた。どことなく儚い雰囲気がある。湖のふもとにいるのが似合う感じの。
「この人は、天野文さんだよ。さっき、そこで待ち合わせして話してたから...」
「京谷さんの友達の江戸原さんだよね。天野です。よろしく」
 賢人がわたわたと早口で言っているのに対して、天野はどこまでも冷静に軽くお辞儀をした。頭を下げるときに、長い黒髪がさらりと肩から滑り落ちる。
「そこ二人仲よかったんだね、座りなよ」
「いや、昨日の放課後に初めて話したんだよ! 仲がいいとか、そんなんじゃ‥。あ、席ありがと」
 賢人が座るために端から一つ開けていた席から、もう一つ隣へと移動する。その隣に賢人がおどおどと座る。その隣には、天野が着席した。京谷はあまり女子と話したこともないのだろうな。天野もどうやらあんまり喋るタイプではないらしい。
 授業が始まり、カードリーダーが回される。今日は部室に行くと約束しているし、二日連続でいくのはやめておいた。学生証を一枚だけ取り出して、カードリーダーで読み取ると、当然のことながら何も起きない。ただピッという無機質な音がして、カードリーダーに俺の名前がカタカナで表示されるのみ。
 ふと視線を感じた。天野が俺の手元をじっと見てきていた。いつ回ってくるか気になるのだろう。さっと賢人に渡した。
 かったるい授業が今日もつつがなく進行して、予定調和に休み時間が訪れる。
「‥‥」
 周囲はがやがやと騒がしいのに、この席だけは無言だ。さっきから賢人が十秒に一回は天野に話しかけようと口を開けて、そのまま口を閉じるを繰り返している。天野は手元に視線を落とし、なにやら前の授業の振り返りをしているみたいだから、話しかけるにも話しかけられてないんだろう。
 あーもー、お前ほっんとキチンだよなぁ。見てるこっちが恥ずかしすぎて、死にそうなんですけど。しょうがねえなぁ。
「天野ってさ」
「なに?」
 天野じゃなく賢人がびくんっと肩を強張らせる。天野の単語だけでびびりすぎ。顔を上げた天野の手元を指さした。
「授業中めっちゃメモとっとんのすげーよ。さっきの授業、ここわかんなかったから、教えてくんない?」
「ぼ、僕もわかんなかったから、知りたい!」
 はい嘘。お前ちゃんと予習復習する方だろ。でも、声震わせながらもよく言えました。及第点あげちゃう。俺何様だよ、江戸原様だよ。
「そこはね‥‥」
 天野の説明は想像の十倍は、分かりやすかった。授業の範囲に加えて、プラスアルファで色々な豆知識も説明の中でぶっこんで来るから、単に聞いてて面白い。まあ、一番面白いのは、天野が言葉を区切るたびに大きく首を上下に動かしているこいつだけどな。
「天野さんが、天才って言われている理由、分かった気がする。教え方がすごくうまくて、分かりやすいよ」
「そうかな? わかりやすかったならよかった」
「ふーん、やっぱ天才はちがうなぁ」
 嫌味でもなんでもなく、口から無意識に出てきた言葉だった。天野は天才など言われ慣れているからか、ちょっと薄い唇の端を上げて笑っただけだった。
「私は別に天才でもなんでもないよ。今は、勉強しか取り柄がないからしているだけなの」
「いやっ、違うと想うよ、それはっ。努力できるのも、あ、天野さんの才能で、取り柄だよ」
「...いくら努力したって、結果がでなきゃ意味ねーじゃん。結果でてるから、天野は天才なんだよ」
 ちょーと口調が刺々しかったのは自覚ある。何を怒っているんだ俺は。冷静になれ。ただの雑談だ。別に、何も悪意あるわけじゃない。
「努力には、結果がついてくるもんだよ」
 天野が俺の顔を見る。一切の曇りなどないような目で。
「あーそ...」 
 笑え、笑い飛ばせ。何事もないかのように。それぐらいできんだろ。
「そ、そうだよなぁ...、努力して、できないことなんてないんだもんなぁ...。俺もが、頑張るよ」
 うーもはや顔の筋肉が制御不能になろうとしている。色々な感情が脳でバレエのようにくるくると繰り広げられ、顔の筋肉はついに意思を保てずに無表情だった。
 口を開きかけたタイミングで、チャイムが鳴る。ちょうどよかった。何か、ヒドイことを言ってしまいそうだった。
 心を落ち着かせようと目を閉じる。暗闇の中で親父の残響が聞こえた。
『ほんと情けない。これが、俺の息子か』
 俺も、親父の息子で良かったことなんて一度もない。

 六限の終わりを告げるチャイムが鳴った。俺は全国大会並みの速さで荷物をまとめると、席を立った。
「じゃ、俺行くとこあっから、先行くわ。また明日な」
「また明日。明日も、天野さんと一緒でもいい?」
「俺は別に構わねえよ。天野もまたな」
「うん、またね」
 二人に見送られて、教室を出る。目指すは、文芸ペンクラブの部室だ。
 部活BOX棟という、ふざけているのかわからない名前の建物の三階の一番奥にそれはあった。
 扉には、数字のキーボードが並んでいる中々リッパなカギが取り付けられている。正しい4文字の数字を入力すれば中に入れる仕組みらしい。もう中に誰かいるのか、カギは空いていた。 
 扉の前で軽く深呼吸をしてから、細長いドアノブを回した。ガチャと音が鳴る。
「失礼します」
 頭を下げながら部屋に入る。数人からこんにちは、と返事が返ってきた。
 部屋の真ん中には、でかい炬燵がふたつ縦に並べてあり、その上にはペンだの文芸日誌だの細々なものが積もられている。炬燵の奥にはテレビがあり、そのそばに最近話題のゲーム機が置いてあるのがちらりと見えた。
 左の壁には、文芸ペンクラブであることを主張するかのように、二列の本棚の中に漫画と本がこれでもかと高く詰め込まれている。右の壁には、これまたでかい冷蔵庫がそびえたち、奥の方には画面が大きな黒いパソコンと黒いキーボード。奥の壁には薄緑のカーテンが開かれ、淡い夕日色に染められたでかい窓が、この散乱している部屋で唯一綺麗に感じられた。壁と炬燵の隙間を埋めるように、色とりどりのクッションが床に散らばっている。
 旅行直前に慌てて荷物を適当に入れただけのトランク内みたいな統一感のなさが、返ってこの部屋は本来こうであるべきかのような不思議な一体感を醸し出している。
「おっ逃げずに来たな」
 炬燵に足突っ込んで漫画呼んでた八重田先輩が顔を上げた。その正面に座る徳寺先輩がにやりと笑う。
「最初はぁー、歩ぅ、弟に引きずられてぇ、ここまで来てたぁ、もんねぇー」
「ちょ、後輩にかっこつけようとしてるのに、それ持ちだすの辞めてくださいよ!」
「今は俺を強引にここまで連れてくるのにな」
「はいはい、一旦ストップ。とりあえず、座って」
 八重田先輩の隣に座るアーノルド先輩が、からかいながら、見ていたパソコンを閉じた。場をまとめようとしている織山先輩がその正面に座っている。昨日と同じメンバーが揃っているが、一人だけ見たこともない人がいた。
 空いているところに座る。そうすると、自然とその知らない人の正面に座ることになった。黒縁眼鏡が印象的で、タッパはなさそうでひょろひょろしてるから、体育会系では明らかになさそう。
「今、江戸原君の目の前に座っているのは、松崎真先輩。院生の方だよ」
「どうも、江戸原俊一郎です」
「ご丁寧に紹介ありがと、織山。よろしくな、江戸原。俺は院生2年。俺の専門は冥土についての研究。そのためだけに院生になって居残ってる。ぶっちゃけ、冥土の説明全然わからねえだろ? 誰一人としてわかっているやついないんだよ。俺はそれを物理的な観点から研究中。冥土の俺らの状態は意識が分割されてるとか、電磁波による超重力が発生しているっつうことを解明したのは、俺。今は研究のために、みんなに冥土でデータ収集して貰ってる」
「データ収集という名の鬼の記録義務、まーじ大変すぎて困るんですけど~」
「八重田、文句言うな。仕方ないだろ、前みたいに友校会に手伝ってもらうわけにはいかないし」
「前みたいにって...」
 手伝ってもらうということは、友校会と文芸ペンクラブが手を取り合ってた時代とかがあったりするのか?
「松崎さんはぁー、友校会にいたぁ、私たちのぉ、敵だったのぉ」
「は? じゃあ、なんで文芸ペンクラブに?」
「あー、これ言っていいの?」
 ちらと織山先輩をみる松崎先輩。まだ戦うこともできないような中途半端的立ち位置の俺には話せないことでもあるのか?
 織山先輩が迷うように、松崎先輩から視線を逸らして俺の方をみた。織山先輩が発言する前に、今まで黙っていたアーノルド先輩が口を開いた。
「裏切りだよ」
「ちょちょちょ、アーニー、言い方ってもんが」
「どう言っても、変わらないだろ」
「はは、相変わらずアーニーは厳しいねえ。そう、俺は友校会で研究していたけども、今は文芸ペンクラブにいる。つまりは、寝返ったんだよ」
「その理由は聞いてもいいんですか?」
「あー、えっと」
「それは、私の方から説明しようか。長年の松崎先輩の研究の成果の一つに、私たちに冥土が及ぼす影響がある。前に話した意識が分離しているってのは松崎先輩の仮説の一部で、さらに付け加えると意識と無意識が何度も分離するのは、私たちの健康に大きく関わってくるということだ。具体的には、長くても四年。四年以上冥土に行き続けると、精神が壊れる可能性がある」
「リスクなしではいけないってことすか」
「そそ、江戸原飲み込み早いじゃん。俺の研究継いでみない?」
「いや、自分頭使うのはあんま上手くないんで。でも、四年のタイムリミットがどうかしたんですか?」
「もう全部俺が言うわ。院一年だった俺はその四年がタイムリミットであるという研究を当時所属していた友校会に提出した。事実、一年から院生まで潜っている俺の精神は今振り返ってみても、明らかに異常をきたしていた。でも友校会は、俺の研究を根拠不十分に不安を煽る研究だとして公開を禁止してきた。そうすれば当然、誰も信じちゃくれない」
「こーゆー理不尽―、理沙ぁ、あんまぁすきくないー」
「学費が払えないやつとかに、友校会に入ることで奨学金、さらに院生だとチャラになるっつうご褒美で、六年間逃さないようにしている。友校会は完全な人助けをしているから、感謝した人間は当然のように自主的に冥土にいく。友校会が止めない限りはずっと」
「ほっんと、やり方が陰湿だよ」
 暗い顔の八重田先輩から漏れでた呟きに全力で同意した。
「俺の友人も真面目でいいやつだったから、心の底から院までいく学費をどうにかしてくれたことを友校会に感謝していて、自分から行ってた。ほんと、俺も馬鹿な奴だったよ」
「じゃあその人は、まだ冥土に行っているんですか?」
「もう死んでるよ」
 突然、暗い顔になった松崎先輩が俯いた。これは、なにか踏み入れてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。
 部室が一気に静かになる。誰も松崎先輩にかける言葉が見つからないようで、沈黙は依然保たれたままだ。
 しばらくして、その沈黙を埋めるようにぼそぼそと松崎先輩が話し出した。その内容は決して明るくないことが、声音からも察してしまう。
「あいつとは冥土にいくよりもずっと前、小学生のころ一緒だった。いわば、幼馴染ってやつ。目立たない女子で、男女だったけど揶揄われることもなかった分、他に友達もゼロ。二人が一番居心地よかった。でもある日突然消えた。夜逃げしたって知ったのは、中学ぐらいのとき。親が話しているのを偶然。だから、大学で見かけたときは素直に嬉しかったよ。再会を喜び合った、あの瞬間さえ今では後悔するけどな。なんで話しかけたんだって。そう、そんで頼まれたんだよ。一緒に冥土に行ってほしいって。俺は驚いた。突飛な内容にじゃない、今までみたことないその顔にだよ。記憶の中よりも大きいのに細い肩が小さく震えていた。冥土でも地獄でもなんでも一緒に行ってやるって言ってやったら、あいつはごめんねって謝った。笑ってはくれなかった。
 冥土に行き始めても、友校会とか文芸ペンクラブもなにも興味なかった。友校会側にいたのも、頼まれたからってだけで。俺には戦う理由も目標もなんもなかった。あいつにはそれがあった。四年経っても、あいつはなに一つ変わらなかったが、俺はすっかり変わっちまった。自分が、自分ではないようだった。視界が突然真っ暗になったり、聞こえないはずの声が、どれも恨み言だ、聞こえたり、寝れなくて深夜出歩いたり。暗い世界にいると安心できた。世界が明るいと不安だった。照明も、日の光も、人間に水、草、鳥の全てが眩しくてしょうがなくて。死ねばずっと暗いまま冥土にいられることに、逃げたくてたまらない俺は縋った。もう冥土の区別すらついちゃいなかった。縄なんて簡単に手に入る。無我夢中で下宿先の天井に輪っかにした縄をつるした途端に、怖くなった。
 そう、最初に自殺しようとしたのは俺だった。あの時に死んどけば、怖がってたりしなければ、それを見たあいつに先越されることなんて、あり得なかった。ちょっと目を離した隙に、その一瞬で、あいつはぶら下がっていた。あの縄をみたあいつがどう思ったのかなんて永遠に分からない。泣きながら縄を切って床に下ろしたときにはもう死んでた。まだ温かいのに、どんどん冷たくなっていく体に改めて触れた時、急激に目が覚めた。なんてことをしてしまったんだと。分かるだろ。俺が、冥土にいくなんて言わなかったら、了承なんてしなければ、俺とあいつは未だに笑いあえてたってな。そんなことをふつふつと考えて、このまま死んでやるもんか、って気持ちが湧いてきた。ほんと勝手だよな。一人、家族よりも大事な人、殺しておいてさ...」
 松崎先輩は、手で目を押さえた。その間から、ぽたぽたと雫が炬燵に落ちていく。
「でも、その人は松崎先輩に生きてほしかったんじゃないですか。だから‥」
「都合の良い方に解釈しようが、一生この苦しみは続いていくし、それでいいんだ。長々とした話に、付き合わせて悪いな。話し出すと止まらない癖が未だ直らなくてさ。その後、俺は冥土について真面目に分析し始めた。その一年後、研究結果を友校会に否定されたら、すぐに文芸ペンクラブの部室をノックした」
「私たちは、松崎さんの研究の全面協力を申し出たよ。私たち文芸ペンクラブでは、四年以上冥土へ行くのは禁止している。これを言ったうえで、冥土に行く上でのリスクを説明したかったんだ」
「精神に影響するってのも、納得いかないことではないですし、ちゃんとそういうの話してくれて嬉しいっす。松崎先輩の話は重いっすけど、十分リスクはあること自体は分かったんで」
「ほんとぉ、帆波はぁ、想定外にー弱いよねぇー」
「返す言葉もなくて困る」
「でも、部長として尊敬できるとこ沢山ありますよ!」
「歩も見習うべきだ」
 神妙だった空気が少し持ち直す。眼鏡を外して、涙を炬燵の上にあったティッシュで拭いた松崎先輩は前を、つまりは俺をみた。
「江戸原が、冥土に、そして俺たち側に来たのは偶然だけど、これを意味ないものにしたくない。学生証を重ね合わせる向きが違うだけで、どこに行くのかがガラッと変わるのは聞いたか?」
「そうなんですか?」
「改めて説明するとな、表と表を重ね合わせると、友校会側に近いところ、表を裏を重ね合わせると、俺たち側に近いところに移動する。正と負の電磁波が互いの影響を打ち消しあったり、増長させあったりするところからこの差は生じる。俺たちに協力してくれるなら、今後も学生証は裏表を合わせてくれ」
 真剣な表情。期待が込められた目線は、俺は苦手だけど、その情熱がどこから来るのか、今は知ってしまった。無下にはしたくない。
 気づけば全員が無言で俺の方をみてきた。無言の圧力の中で、真っ直ぐに松崎先輩の顔を見つめ返す。
「俺も、覚悟決めました。体験入部、させて下さい」
「入らねーのかよ?」 
 ズガッと勢いよく立ち上がった八重田先輩が、俺の胸倉をつかみ前後に揺らそうとして...あまりにも腕の力がなくて、俺の体は全然動かなかった。
「くそっ、この筋肉だるま! 体験するぐらいなら入部しろ! これまでの話聞いて何迷うことあんだよ! 言ってみ!」
「だって、小説とか書いたことないんで、入部はちょっと...」
「えー、そこぉー?」
「HAHAHA、NOといえる日本人、素晴らしいじゃないか」
「無理強いはよくない。今は体験入部にしておこう」
「いやいや、小説とか書いたことなくたって文芸ペンクラブに入部していいって! 大歓迎だよ! 俺だって読んで感想いうだけだし! それぐらいでもいいんだよ!」
「理沙もぉ、読み専だよぉー。帆波とぉ、アーニーはぁ、ちゃんとぉ、書いてるけどねー」
「俺も院生2年で文ペンに入ってからだけど、文章を書くのは意外とよかったぞ。自分の世界を表現できるし、何より八重田や徳寺とか、割と沢山の奴から感想、アドバイス貰えるしな。自分の作品をほかの人から通すとどうみえるのか分かるってのは素直に楽しいし、新たな発見がある」
「俺は日本語の練習で詩をしたためるだけだが、織山先輩とか松崎先輩は、ちゃんとした小説を書いている。織山先輩のは意外とコミカルな作品だ。前回は、『僕オカピ』から始まるギャグ小説だった」
「それは、ちょっと読んでみたくなるっす」
「でしょぉ? 作品はぁ、季節ごとにぃ、発行してるぅ、『さわらび』っつぅー作品集にぃ、載せてるからぁ、いつでもみれんよぉ。Twitter『岡香大文芸ペンクラブ(文芸部)』の垢でもぉ、作品紹介とかぁ、日々の活動報告とかぁしてるしぃ、サイトもあんよぉー」」
「あとでチェックしときます」
「私はあれをギャグ小説として書いたつもりはないんだけどね。世界三大珍獣と呼ばれるオカピからみる動物園の日常を想像して書いてみたんだ」
「これだけ聞くと真面目な動物小説っぽいじゃん? 騙されんなよ中身ギャグだからな。『僕オカピ。突如として動物園に自我が目覚めた存在として降臨した。』のとこまで読んで、即爆笑したもん」
「状況説明だよ」
「まったくぅ、意識しないでぇ、あそこまで笑えるのかけるのー、ほぉんとぉすごいー」
「もう笑いすぎて真顔で読めるけどな、僕オカピ。他の作品もどれ読んでも面白い。今年卒業が惜しいぐらいだよ」
「OBの方もいつでも部室大歓迎ですよ」
「おう、ありがとなアーニー」
「松崎先輩もすっげえよ。理系だからよ、説得力が半端じゃねえのなんの。前の作品の、リップを食べた末路にはゾッとした」
「体の内側から唇にアプローチしようとした女の話書いたんだよ。よくできてただろお?」
「それは体験入部でも読めなくはないですよね?」
「誰でもぉ、よめんよー」
 それまで耳元で叫んでいた八重田先輩が、パッと僕の胸倉から手を離した。
「意志は変わんねーの?」
 立ち上がって、見下ろしてくる。普段チャラい人間が真剣に言うと迫力あんなぁと思うけど、生憎、親父の罵声に慣れ切った俺には、そよ風のようにしか感じない。
「はい」
「そ、ならいいわ」
 くるりと背を向けて、定位置に座りなおす。そのまま読みかけの漫画を手に取って読みだした。
「まったく、気分にムラがあるのが悪い癖だ...」
 アーノルド先輩が呆れて言う。
「すみません、俺のせいで」
「周りに流されずに意思を貫くのだって、大事なことだ。部長の私から体験入部として受理しておこう」
「体験入部中だとしても、いつでも来ていいかんな」
 漫画読んでた八重田先輩がぼそりと呟いた。
 それに大きく頷く。よかった、嫌われたわけじゃなさそうだ。
「じゃあ、俺もう帰りますね。今日課題残ってんで」
「俺も帰る」
 そういってパソコンをリュックにしまい立ち上がったのはアーノルド先輩だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 二人分の退室の言葉に、お疲れ、と四人分の返事がきちんと返ってきた。
 すっかり夜になったいちょう並木通りを、アーノルド先輩と自転車を押して歩いていた。所々ある電灯が、オレンジに道を明るく照らしている。先輩がさっさと自転車に乗らずに歩いていくもんだから、俺もそれに続く形になった。
 それにしても、でけえなぁ。俺の身長が188㎝だから、2mは超えているんだろうなこれは。冥土であったときよりもどこか身長は小さくみえるけど、それでも十分ある。
「なんかスポーツやってたんすか?」
「いや、特に何も。小さいころに日本にきて、周りと合わせることに必死でそういうことをやる余裕はなかった。江戸原は?」
「俺は小さい時からバレーしてました。今は、してませんけど」
「そうか」
 そして無言。必要以上に喋らない聞かないアーノルド先輩との会話は途切れてもどこか辛くはなかった。
「今日は、すまなかった。あいつが」
「あーいや、別に。決められなかった俺も悪いんで」
「俺たちも決断を急がせすぎた。すまない」
「ほんと、全然大丈夫ですって。謝らないでください。そういや、アーノルド先輩って、八重田先輩と仲良いんすよね?」
「今年の春までは他人同士だったがな。仲は良好だと思ってる」
「二人で学生証の表裏あわせたんすか?」
「歩が、春のある日にいきなり話しかけてきてな。すごい迫力で喋るから、よくわからずに了解して学生証を貸したら、次の瞬間には冥土」
「うわお...八重田先輩には、冥土に行く方法が分かってたってことですよね?」
「そう、歩は一年の頃に同学年だった弟と一緒に冥土へいく方法を見つけたらしい。しかし春には弟が入院中らしくて、冥土へはいけなかったらしい。今となれば、例外はいたみたいだけど」
「俺がどれだけ特別なのかってのはもう十分理解しました...」
「よく見つけたよ。まあ、歩は本当に真剣に冥土での友校会との闘いに一生懸命で。俺も手を貸したいと思った。だから、こうしてここにいる」
「いきなり戦争とか言われて怖くなかったんですか?」
「怖いとかはなかった。俺の最古の記憶は、銃弾が飛び交う中を必死で走っていた記憶だ」
「え、それはどういう...?」
「俺は難民だ。六歳かそこらで、住んでた町が内戦に巻き込まれて崩壊した。そこからアメリカに逃げて、日本に来た」
「......」
 この日本では当たり前だが、俺は戦争など体験したこともない。だから、どんなことを言えばいいのか咄嗟には分からなかった。
「今までは過去の記憶は思い出すことさえも辛かった。だけども友校会との戦争では、寧ろ本場の戦争を経験している俺が有利になる。それなら自分の過去を受け入れられるような気がした。だから歩に協力しているのも、自分のためでもある。江戸原も、きっといつか見つかるよ」
「何を、みつけられるんです?」
「戦う理由」
 さらっと言って、軽く頬をあげるその横顔は、きりっとしていて綺麗だった。でも、その目は笑っていない。
「先輩は友校会のことをどう思っているんですか?」
 単なる興味だった。思い返せば、アーランド先輩が友校会に対してどうのこうの言ってた記憶はない。
「どう思ってるか、とは?」
「えっと、友校会のしていることは許せない、みたいに思ってるのかってことです」
 隣の足音が消えると同時に、耳をつんざくような笑い声が聞こえた。
「ハーハッハハハッハッハッハハ?」
 夜の冷たい空気を震わすかのように響き渡るそれは、もはや悲鳴にも近かった。
 目を丸くしながら振り返ると、先輩は顔を押さえながら地面に蹲っていた。両手の間から見える唇はつり上がっていて、確かに先輩が笑っていることを示している。
 ガチャンと支えを失った先輩の自転車が横に倒れる。それには少しも目にくれず、先輩は笑い続けていた。俺は動けない。突如として笑い出した先輩をただ見ていることしかできなかった。
「江戸原ァ?」
 寝ている鳥さえも目が覚めるような大声で名前を呼ばれて、反射的に背筋が伸びる。
 先輩が顔を上げた。目の瞳孔は限界まで開き、尖った鼻の先は赤く、はくはくと口が小刻みに動いている。直観的に思った。理屈も何もわからないけど、先輩は湧き上がる衝動のままに、笑うしかないから笑っているのだと。なにかに憑りつかれたように。
「どんなに友校会が? 運命を捻じ曲げようとも? 俺は俺だ?」
 その周囲にこだまする叫びに、普段は声を抑えていたんだなと、筋違いのことを一瞬考えた。内容は頭にまるで入ってこない。まるで頭が鈍った老人にでもなってしまった気分だ。
「友校会も? 文芸ペンクラブも? 俺には理解できない? どうせ死んだら等しく土に還るというのに? 何故求める?」
 道行く人たちが、蹲りながらも叫び続ける先輩を見ない振りしてさっさと通り抜ける。その周囲の人間さえも、違う世界の存在のように感じた。ここは舞台の上で、俺たちを照らす電灯はスポットライト、登場人物は俺と先輩の二人。
「俺はいつか友校会に聞いてみたい? 彼らの耳元で、火薬の匂いと叫び声が聞こえる煙の町を走り抜けたことを? 銃を持つと、どれだけ丸腰の人間を無残に殺せるかを? 足が止まった者から死んでいったことを? 手を握った友達が腕だけになるまで気づかなかったことを? 足に張り付く血と蛆虫を踏み潰す感触を? 死体で埋まり、水面が見えない川のことを? 俺が経験したすべてのことを?」
 地面を這いながらも、開いた目はギラギラと輝き、口を動かすたびに白い歯が反射して光って見えるその姿は、まるでライオンのようだ。獲物に対して牙をむく直前の威嚇のようにも、わが子を谷から突き落とす直前の期待の笑みを浮かべているようにもみえる。その表情は、俺に本能的な恐怖を抱かせるのには十分だった。
「江戸原にも問うてもいいかい? 答えてくれ? 知りたくてたまらない? どうしようもない衝動が胸に湧き上がる?」 
 ああ、だめだ。言わせてはいけない。この腹をすかせた獣を止めなければ。何を言われるのかなんて、分からない。でも、これ以上先輩の口を開かせたくない。
「もっ、やめ―」
「どうして君はいっそうの幸せを願うのかい? 世の中生きたいはずの人々がうんと死んでいくのに? 生きているということだけで奇跡だろうに! この上ない幸せではないのかね?」
 俺の制止の言葉は、先輩の声にかき消された。
 恐らくこれは、先輩の本音なのだろう。生か死かの状況で生き延びてきたからこそ、たどり着ける境地。
 そんなことを聞いて、どうしたいんだ。戦争もない平和な国で生まれ、明日来ることが当たり前のように思っている俺に。悪い予感はドンピシャ当たっていた。
 幕は降りたかのように、肩で息をして背を丸める先輩は、それでも大きく見えた。答えられない俺の沈黙を埋めるように、途切れ途切れの声がブロンドの後頭部から聞こえてくる。
「ペンクラブには、全員に聞いた。それぞれ、違う答えが返ってくるのは、興味深かったよ」
「なんて、言って、たんですか」
 カラカラの喉から絞り出した声は所々掠れていた。
 顔を上げた先輩は、そんな俺を笑うこともなく、今までとは一転して優しい表情を浮かべていた。
「知りたければ、答えを聞いた後に教えよう」
 何が何でも俺に答えさせたいらしい。
 俺が幸せを求める理由。幸せを求めて何が悪いと開き直るのは簡単だ。でも、それでは友校会と同じになってしまう気がした。
「俺は、小さいころから、ずっと、バレーしていて」
 まとまってもない思考のまま、口が勝手に開く。無意識に一歩前にでていた。ガチャと自転車が倒れる音すらも雑音に紛れて消えていく。
「バレーすんのが、当たり前で。でも、体全然動かないし、毎日、辛くて」
 靴の先が地面についてる先輩の膝につきそうなぐらい距離が縮まる。先輩はじっと俺の顔を見ているだけで、微動だにもしなかった。
「バレー辞めたら、なにかがきっと変わるって思ってて。でも、なんも俺は変わらなくて。ほんとに、あんな辛かったバレーしか、俺にはないの、が、悲しくて」
 先輩の頬に、自分の目から垂れた涙がぽつぽつと落ちて滑っていく。目頭の熱ささえもどこかに置き忘れた俺は、泣いているんだな、と他人事のように思った。
「頑張ってきたから、その分だけ、幸せが欲しかった...」
 絞り出した声は小さかったから、先輩に聞こえたかどうか一瞬不安になった。
 でも、次の瞬間に、立ち上がった先輩に抱きしめられて、そんな不安などすぐに消えることとなる。
「辛かったな?」
「うええ?」
 顔が、すぐ上に! 見上げた先輩は真剣だった。感情が行動に直結するタイプなんだろう。
「進もう。俺たちと。幸せかどうかなんて保障できないけど、もっと前に進もう」
「...ははは」
 こんな銀杏並木のど真ん中で、抱きしめてきた、すぐ目の前の先輩の言葉が、こんなにも、嬉しい、だなんて。
 こうやって俺はずっと誰かに本音を言いたかったし、背中を押して欲しかったのかもしれない。
「そうやって笑っていこう。生者に許された特権だ。HAHA」
「はは、アーノルド先輩、俺」
「アーニーでいい。俺も呼びやすくエドと呼ぼう」
「アーニー、先輩」
「なにか」
「ありがとうございます」
「おう」
 気恥ずかしくて、顔は見れなかったが、雰囲気からアーニーさんが笑ったのは分かった。
 
 次の日の朝、いつも通り教室にいくと、既に賢人と天野が席に座っていた。挨拶しながら、隣に着席する。授業が始まってすぐに、学生証を表裏合わせて重ねた。
 それを席まで回ってきたカードリーダーに迷わずかざす。視界が暗転した瞬間には、冥土の基地内にいた。
 てっきり暗闇の中に放り出されると思っていたから、明るい室内にいて拍子抜けする。部屋の中央の丸いテーブルには、織山先輩と徳寺先輩が着席していた。
「はやかったねぇー」
「来てくれて、ありがとう」
 感心したように声をかけてきた徳寺先輩は既に迷彩服に着替えて、ガスマスクを手にしていた。隣の織山先輩も同じ格好をしている。前回は気にする余裕がなかったからか気づかなかったが、二人とも厚底のロングブーツを着用していた。昨日のアーニー先輩が冥土の時よりも少し小さく見えた理由はこれかもしれない。
「おはようございます。前回、俺は森だったんですけど、今回は基地なんですね」
「二回目以降は強くイメージした場所に転送されるらしい。ちなみに服装もね。江戸原君の分の戦闘服も用意しよう。身長は?」
「188っす。ありがとうございます」
「ちゃんとぉ、おれーいうのがぁ、体育会系っぽくってぇ、いいよねー。これ、江戸原の分のぉ、椅子ねぇー」
「ずっと体育会の縦社会の中にいたんで、もう身に染みちゃってるんすよね。椅子あざです」
 徳寺先輩が、部屋の隅の物がごちゃごちゃ重なっているところから椅子を持ってきてくれた。織山先輩も、部屋の隅をごそごそと漁っている。二人とも、その足取りには迷いがなく、年季を感じる。どこになにがあるのかは把握できているのだろう。
 椅子に座って、背もたれに体重を預ける。すると、部屋の中がちかっと光った。
 アーニーさんと八重田先輩がパッと現れる。既に迷彩服を着用しているとこから見ると、前回の服装がそのまま次回に持ち越されるという話は、本当らしい。
「ちゃんと来てんじゃん、感心感心」
「これからよろしくな、エド」
「はい、アーニー先輩」
 椅子に座るアーニー先輩に向かって軽く頭を下げる。アーニー先輩は、それをみて少し頷いた。
「ちょ、昨日の今日でめちゃ仲良くなってるじゃん。俺も歩でいいよ、俊一郎」
「名前、覚えてくれてたんですね。歩先輩にしては意外でした」
「大事な後輩の名前、忘れるわけないだろ?」
 部屋の隅から、手に迷彩服とかを抱えた織山先輩が戻ってきた。
「これでどうかな。着てみてくれる?」
 迷彩服と厚底ブーツのサイズは、俺にぴったりだった。
「いいじゃん。体格いいからやっぱ似合うわ」
「これも持っとけ。戦闘に役立つ」
 両手いっぱいに懐中電灯やらナイフやらトランシーバーやらを抱えたアーニーが、戦闘服のポケットに色々と物を詰め込んでくれた。アーニー先輩の手の中にあると、どんなものでも小さく見える
「銃どうすっよ」
「遠距離とかぁ、中距離の方がぁ、最初はいいかなぁ」
「本人に適したものを持たせるべきだ」
「初心者でも扱いやすい武器から最初はいこう」
「そうじゃなくてさ、俺らもう感覚マヒしてっけど、普通いきなり人撃てないでしょ」
「銃撃つんすか?」
 思い出したのは、昨日のアーニーが話した故郷のことだった。織山先輩が頷いた。
「ああ、人というか、友校会側の人間の侵攻に対し、私たちは銃で対抗している」
「まぁ、戻ったらぁ、全部ぅ、元通りぃだからー」
「そそ」
「なかったことに、なるんすか? 昨日、帰りにアーニー先輩から、歩先輩の弟が入院中だと聞いたんですけど、それって、てっきり冥土で怪我でもなんかしたのかと思ってたんすけど...」
 全員が俺を一斉にみた。ちょっと踏み込みすぎた?
「ここで怪我しても、現実の私たちに影響はないよ。八重田君の弟の一君は、今は入院中だが、それは事故で」
「あれは事故じゃねえ!」
 織山先輩の説明を遮って、机がバンッと揺れる。握った拳で机を叩いたのは、顔を歪めた歩先輩だった。
「警察の調べでは、事故だとされているはずだ」
 織山先輩の言う通り、歩先輩の弟の入院の原因は事故なのか? 警察が調べたのだから、説得力はある。でも、歩先輩は、納得はいってないのだろう。普段はへらへらしている顔の面影はなく、唇は真一文字に引き締められていた。
「一が車に轢かれたのが、あんな人通りの少ない道なんて偶然、ありえねえ! 友校会が仕組んだ以外なにがあるってんだよ!」
 その目は、怒りに染まっていた。その手の震えに乗って、歩先輩の熱がこっちまで感染してきそうなほど。
 それだけ剥き出しの感情に晒されても、織山先輩は眉一つ動かさない。受け止めるのでも、受け流すのでもなく、ただ無いものとして認識しているように見える。
 全員が黙ってしまった中、織山先輩の口が開く。
「しかし、現場に残された証拠では、事故としてしか判断の仕様がないと八重田君も聞いていただろ」
「目撃者も監視カメラもないってんで、まだ犯人も捕まってねえってのにか!」
「はーい、すとっぷすとっぷぅ。ここでーそれぇ、話してもぉ、意味はぁ、なっしんぐぅー」
 徳寺先輩が、パンパンと手を叩く。その声と音にハッとした歩先輩が、立ち上がりかけた姿勢を正した。
 歩先輩に弟の話題を持ち出すのは、今後やめておこうそうしよう。何やら複雑な事情がありそうだ。
「はぁー。...すみません。ちょっと熱くなりすぎました」
「意見のぶつかり合いは結構だが、場所は考えてほしい」
「こちらこそ、申し訳ない。ずっと二人で暮らしてきた兄弟だからこそ、私が無遠慮に物を言うべきではなかった」
「いや、部長のは正論っすよ。だから俺頭に血昇っちゃったんで」
 歩先輩が申し訳なさそうに頭をかく。それと同時に基地内にでかいアラーム音が響き渡った。
 ビビビビビビ?
 その音を区切りにさっと全員の顔色が変わり、一斉に立ち上がった。
「戦闘用意!」
 織山先輩の声を合図に、各々が素早く動き出す。
 何が起きている? これは、警報か?
 混乱している俺を気遣って、壁に立てかけてあった背丈ほどある大きなトランクを開きながら織山先輩が説明してくれた。
「今のは友校会が攻めてきたことを知らせる合図だ。武器を見繕うのが遅くなってすまない。でもまだ友校会は江戸原君の存在を知らないだろうから、私たちの切り札になってくれることを期待している。だからこそ、ここで顔がばれてしまうのは避けたい。大人しく待っていてくれるか」
「は、はい」
「よろしくね」
 俺が頷くのを確認すると、織山先輩は銃身がめっちゃ長い狙撃銃を持ち直して笑った。
「留守を頼む」
 その背後で短い銃身の突撃銃であるアサルトライフルを手にしたアーニー先輩が、そう言い残して扉の向こうに飛び出していく。
「すぐ片付けてくるから待ってろよ!」
 持ち運びに特化した軽機関銃であるM246を持った歩先輩が、いつになく真剣な顔をしてその後を追う。
「外でぇ、どんな音してもぉ、開けちゃだめだよぉ」
 重機関銃を手にした徳寺先輩と、狙撃銃を手にした織山先輩が扉の外に消えると、扉も消えた。どうやらこの扉は壁に触れると出現し、人が通ったら消えるらしい。試しに壁に触れてみると、機械音を出しながら壁が轟いて扉が現れた。
 少しだけ躊躇って、覚悟を決めた俺はガスマスクを装着すると扉の外にでた。この壁の先で先輩たちが戦っていると思うと、ここでじっとしていることなんてできない。
 壁の外は相変わらず暗闇だ。ガスマスクには暗視スコープがついているから、暗闇の中でも歩くには支障がない。
 ただ、人影もみえない。心が示すままに走り出した。
 ...いくら走っても、視界に木以外が入ることはなかった。さっきから同じところをぐるぐると回っているような気がするけど、気のせいであってほしい。
 すると、暗闇の中でちかっと光るものが見えた。文芸ペンクラブのメンバーは全員とも暗視スコープ付きのガスマスクを着用しているはずだから、光はいらないはず。つまり、あそこにいるのは友校会。
 足音を消して、姿勢を低くする。俺と同じ迷彩服の二人組がいるのが視認できる距離までそっと近づいた。どうやら銃は所持していないみたいだが、偶然来てしまって森を彷徨っているのではないようだ。まだ見つかってはいない。俺に背を向け、隠れるように木の根元でしゃがみ、何やら話している声も聞こえてくる。女と男っぽい?
「京谷くん。もう戻ろうよ。私たちは待機を命じられていたでしょ」
「ちょっと確かめたいことがあるってだけだから、先に戻ってていいよ、天野さん」
 ん~? まさかの、賢人と天野じゃね? なんでここにいんの? これ、俺のせい?
 昨日、部室での松崎先輩の話が脳内で浮かび上がる。
 二人が友校会に所属することになった経緯は分からない。でも、友校会からは抜けてほしい、と思う。特に賢人。
 二人を友校会から抜けさせるにはどうすればいいか。俺が文芸ペンクラブに所属していることが分かってしまったら、何を話しても信用してくれないだろうってのは目に見えている。だから会話以外の方法を考えなくては。
 とにかく、話せるタイミングはこの瞬間しかない。判断をためらうな。今ならまだ間に合う。
「おいおい、こんなとこでなにしてんのさ」
 二人の背中に向かって、できるだけ明るく聞こえるように、少し高いトーンの声を出す。イメージは歩先輩の話し方だ。
「っ!」
「誰!」
 俺の声に二人が勢いよく振り返る。おいおい、天野が前にでてるじゃねえか。庇われてるんじゃねえよ賢人!
 賢人の持つライトが、俺を照らした。
 うおっ、眩し。暗視スコープ越しのライトは、目を瞑っていても瞼を貫通してくる。眼球の奥まで照らしてくるような強い光に目が痛くなる。
「誰って、分かんねえの? 毎日隣に座ってるだろ?」
 即座に暗視スコープがついているガスマスクを外した。口調は余裕あるように心がけているが、ガスマスクを外しても眩しいライトのせいで既に泣きそうだ。
「う、そ。まさか...」
 俺の顔をみた賢人が絶望気味に呟く。全く同じ気持ちだよこんやろ。
 天野がやっぱり...と呟いたのを俺は聞き逃さなかった。初めから天野は友校会側で、冥土に渡った俺に近づくためか、情報を集めるためか、賢人の友達として接触しようとしてきた、という感じなのかもしれない。でもここでの邂逅は想定外で、俺の姿を確認しようとした賢人の暴走の結果ってとこか? まあいい。賢人にも俺以外の友達はいた方がいい。
「二人まとめてぶっつぶしてやるよ」
 人が心折れるのは、どういう瞬間か俺は知っている。それは才能の差を見せつけられたときだ。俺がまさにそうだったように。
 俺に戦闘の才能があるかないかでいうと、ないだろう。でも、体の動かし方は二人よりも知っているはず。そして昨日まで賢人は冥土に行ったこともないのを、隣の席にいつもいた俺はちゃんと分かっている。
 覚悟が決まっている方が強いのは、バレーも殴り合いも変わらない。今、ここで徹底的にぶちのめす。そして二度と俺に勝てないという印象を植え付けさせて、冥土に立ち入れなくさせる。
 間違っているかもしれない。でも、これしか思いつかない以上は自分を信じるしかない。
「なんで、そっち側にいるんだよ...!」
 賢人がふらりと立ち上がった。その顔はもう絶望はない。でも戦う気もないみたいで、ライトを持たない手はぶらんと揺れている。
「全て俺の意思だよ」
 これは、本心だった。
「そんなわけない! 文芸ペンクラブは人を不幸にする卵を守っているんだぞ!」
「だから、なに?」
 圧力をかけるように、首をゆっくりと横に倒す。天野は俺が動いたらいつでも迎え撃てるように戦闘態勢を取っているが、賢人はどこまでも無防備だった。ほんと甘い。そんなんだから天野に付け込まれるんだ。
「友校会ならば楽しみをいくらでも生み出せるように、人を不幸にする卵を消し去ることができる! だから、考え直してくれよ...」
 まあそりゃ、できるだろうな。卵をどういう使い方をするのかは友校会が左右することになるが、賢人が言っていることは本質的には大差ない。だからこそ、訂正する気もなかった。
「ごちゃごちゃ言ってねーでさ」
「もう、江戸原君と喋らない方が―」
「で、でも...ひっ」
 懐からアーニー先輩から渡されたナイフを取り出す。でかい刃が照らされて、きらりと光った。天野の顔に緊張が走り、賢人の顔が引きつった。それとは対照的に俺は今、笑っている。
「かかってこいよォォ!」
 不安も恐怖も、吹き飛ばすように叫ぶ。どこか遠くで銃声が聞こえだした。みんな、戦っているのだ。
「戻るよ!」
 天野が振り返って、賢人に叫ぶ。その隙に距離を詰めて、横から天野の腹を思いっきり蹴り飛ばした。素早さでバレー経験者に勝てると思うなよ!
「ぅあ!」
「天野さん! やめて、やめてよ!」
 人を蹴るなんて初めてだから、うまく力加減が分からない。想像よりも軽かった天野は、ボールのように吹っ飛んだ。離れた木に衝突し、土煙がもあっと上がる中で力なく首を垂れて動かなくなる。やべ、やりすぎだろこれ。絶対はちゃめちゃ痛い。ごめんな!
 授業終われば、本当に元通りなんだろうな?
「戦いたくねえなら、もうくんな!」
 動揺を隠したくて目の前の半泣きの賢人にまた叫ぶ。叫んでばっか。ビビりすぎなんだよ、俺。
「はぁ、はぁ...」
 肩で息する賢人の手から、ライトが落ちた。やっと視界が眩しいものから解放された。ライトは地面を少し転がるとやがて止まる。それでも賢人の姿を確認できるほどの光源にはなった。
 賢人の額から汗が流れる。確実に怯えていた。
 一歩、俺が進むたびに、賢人は一歩下がる。
「雑魚のくせして、ここになんでいるんだよ? 負けて逃げ帰るだけしかできねえくせによ!」
 また叫ぶと、賢人の足が止まった。お?
「俺は! 江戸原君にだけは、負けるわけには、いかないんだよっ」
 賢人は叫ぶと目を瞑って頭を振った。隙だらけだったが、俺は動かずにその様子をじっと見ていた。
 次に目を開いたその顔は闘志に満ちていた。ようやく覚悟を決めたらしい。
 それでいい。本気の力を潰すことに意味がある。
「来いよ、賢人!」
「うぉぉお!」
 賢人の足が地面を蹴って、俺に向かって突進してくる。振りかざされた拳を上半身を逸らして避ける。あぶね、結構スレスレだったから当たりそうだった。ヒヤヒヤしながらも、体勢が崩れたがら空きな腹を、手加減せずに殴る。まずは一発。
「ごはっ」
 拳が腹に埋まり、賢人がよろけた。正直、腹のどこを狙えばいいのかも知らないから、一番柔らかそうなとこを殴ったつもりだがダメージはちゃんと入っているっぽい。
「これで終わりかよ!」
 思ったよりもいい感触にビビって立ち止まる俺に、賢人が腹を抑えながら叫んだ。
 これで終わりにしてくれ! こんなとこで根性だしてくんな! くそっ。
「は? マゾかよ」
 胸倉を掴んで、地面に乱暴に押し倒す。腹の上に乗って、足で肩を押さえつけてマウントを綺麗に取った。今のところ想像通りに体が動いているが、賢人が全然抵抗してこないのが大きい。いや、抵抗もできねえのか。
 二発目、右手で頬を殴る。うわっ、鼻血でた。痛そ...。
「これで分かっただろ?」
 呻く賢人に、俺の声が聞こえているかどうか。
「何やっても、無駄なんだって」
 今まで俺が陰で言われてきた言葉。過去に俺を傷つけた言葉をもってして、賢人を傷つけようとしていた。
 これっきりでいいんだ。二度と賢人と関わることがなくなろうとも賢人がもう冥土に来なければそれでいい。
「...はぁ、はぁ」
 賢人の口が、空気をもとめて大きく動いている。
「言い返せねーの?」
 もう喋るだけで辛いだろうけど。そろそろ頃合いかも。
 首に手をかけて締める。殴るよりは、痛みを感じなさそうと思ったが、意外と苦しいようで賢人の手が俺の手を引っ掻いた。そんな抵抗じゃ、無駄。俺も今更、後に引けねえ。
 暫く力を込めていると、賢人の手が動かなくなる。そこでようやく立ち上がり、賢人を見下ろした。苦しそうなまま気を失った青白い顔は、死人のようにもみえる。
 本当に元通りになるんだろうか。不安は拭えない。
 さっきから、銃声はやんでいた。友校会は既に撤退したのかもしれない。ライトを拾って消し、ガスマスクを被り直して、音がしていた方に向かって走り出す。
 そこそこ走っただろうか。鼻につく異臭で足を止めた。木だけだった森に、何かが転がっている。しゃがんでよくみると、それは死体だった。手には銃が握られているが、ガスマスクをしていない顔には見覚えがない。友校会の連中だろう。どうやら胸に弾が貫通したようで、迷彩服の胸の部分が赤く染まり、地面に血だまりを作っていた。周囲を見渡すと同じように転がっている死体がいくつかある。腕だったり、顔だったり、血が噴き出ているところは死体によって異なっているけど、ピクリとも動かずに横たわっていることだけは共通していた。
 見ていられなくて地面から眼を逸らす。ふと、先輩たちが心配になった。
 見渡すと、明らかに床に転がっているのとは違う長い足が、地面に投げ出されているのを見つけた。上半身は枝のせいでよく見えないけど、木に寄りかかっているみたいなのはかろうじて確認できる。足元に転がっているガスマスクが、アーニー先輩であることを知らせてくれていた。近寄って枝をかき分ける。その姿をみて、息を飲んだ。悲惨な死に様だった。
 顔の半分はふっとび、ピンクの肉片が断面から血と共に垂れている。腹には磔にするかのように何本も刀が刺さっていた。足だけ綺麗なのがもはや異質に見える。
 腹に刺さる刀で木に固定されて、頭半分を吹っ飛ばされた想像が頭を駆け巡る。気持ち悪い。平衡感覚がおかしくて視界がぐにゃりと歪む。きっとアーニー先輩は、騒がず泣かず、振り下ろされる刀を受け入れたに違いない。
 その隣には、不自然な体勢で下半身が腹から分離した歩先輩が転がっていた。切れ目から飛び出るそれは、腸の形をしている。手が潰れて指の関節から骨が飛び出ていた。伸びた手の先には、アーニー先輩がいる。助けようとしたのかも知れないし、助けを求めたのかもしれない。
 なんだよ、これ。恐ろしかった。死体も、戦争も。
 正直に言おう。戦争という言葉をどこかで俺は舐めていた。どこまでいっても俺は平和な国のただの大学生で。想像できることは貧相で。こうやって、血を流す死体をみるとただ震えることしか出来ない。これもいつか賢人は目にすることになるのだろうか。
 どこかから小さく物音がする。まだだれかいるのだ。震える足に力を込めて踏ん張って、必死に音がした方に走った。
 基地の壁がみえても、戻ってこれた安心感は全くなかった。壁のすぐそばで徳寺先輩が倒れている。左腕は変な方向に曲がり、右足の膝から先がない。でも、薄く開いたその口は息をしていることが確認できた。
 生きている。まだ生きている! 近寄って徳寺先輩の上半身を必死で揺さぶった。
「徳寺先輩! 大丈夫ですか?」
「んー、江戸原ぁー? なんでー、ここにぃ、いんのぉー? つかぁ、しーずかにぃー」
 目を開いた先輩の右手が緩やかに動いて、唇の前で人差し指を立てる。その口から血が一筋垂れる。苦しそうだけども、まだ喋れる様子の先輩に物凄く安堵した。
 基地の中から、ぐあんと何かを打ち付けるような音が聞こえた。誰かいるのか?
「なかにぃ、ゆーこぉーかいとぉ、ほなみがぁーいるからぁ、じゃぁまぁ、しないで、ねぇ」
「え、それ、助けないと!」
 中に、友校会と織山先輩がいる? ならこれは、争っている音なのか? でも、あの細い織山先輩が、友校会相手に立ち回れているかどうかはものっそい微妙だ。地下に侵入されるまで秒読みかもしれない。
「おちぃつけぇー。まだぁ、地下の道がぁ、ひらくぅ、音はぁ、してないからぁ、卵はぁ守られてるよぉ」
「でも!」
「いったとこでぇ、なんにもぉできないでしょぉ? 理沙とぉ、同じでぇー」
 徳寺先輩の言う通りだ。俺がいったところで何も変わらないだろう。でも、
「ここにいても、何も変わらない!」
 できることだって、あるはずだ。
 徳寺先輩の手が、そばに落ちていた銃を握って振りかぶった。
「あぁーもぉー」
「え」
 避ける間もなく振り下ろされたその銃が頭に当たり、意識が急速に遠くなる。不思議と痛みはなかった。感覚がどこかマヒしているのかもしれない。体が後ろに倒れるのを微かに感じ取った後、俺の意識は完全にブラックアウトした。

「ふぅー」
 後輩である江戸原を無理矢理に黙らせることに体力を使い果たした徳寺は、息を吐いた。すぐそばの壁から、ぶつかりあう鈍い音と少女の悲鳴が聞こえてくる。
 抵抗する織山を押さえつけて、扉を開かせた友校会が数人で中に入っていったのは大分前だ。残虐の限りを尽くした拷問が行われてるなど、決して織山は徳寺には漏らさないけども、徳寺には想像がついていた。
 地下にいく合言葉は、文芸ペンクラブの中でも部長の織山しか知らない。拷問なんかでどうせ聞き出せなんかできないのに、ほんと馬鹿だ。正義面した友校会も、対抗しようとしている帆波も、それをそばで見ているだけの私も。みんな馬鹿。
 もう五分でチャイムがなるだろう。友校会は焦っている。その証拠にほら、物音が大きくなった。相変わらず可哀相な悲鳴だけは、か細いけどもずっと聞こえている。
 大丈夫。チャイムが鳴れば、全部がなかったことになるから。また、笑える。
 段々と光を失っていく視界の中で、力を振り絞り銃の先をどろっとした暗闇しかない空に向けた。
「きばれぇっー、ほなみぃーぃっ」
 この応援が届くことは無いけども。応援と祈りだけは捧げ続けている。
 
3
 昨日の夜は、眠れなかった。死体にも、血にもすべてが気を抜けば、俺を蝕んでくるような気がする。
 学校にいく支度もろくにできず、授業が始まるまであと一分しかないのに、俺はまだ教養棟にすらたどり着いていなかった。走る気も、これっぽっちとして湧いてこない。
 視界の端でちらりと、日の光を反射してきらりと光るものが見えて立ち止まる。
 A棟の外に繋がる非常用階段の四階にいるのは、徳寺先輩じゃんか。風になびく、金色の長い髪のおかげですぐに分かった。ふと、昨日の血でぬれていてごわついていた金髪が思い起こされる。
 徳寺先輩の頭上に光を纏って揺らめく煙があがり、空に消えていく。
 チャイムが遠くから響いてくる。俺は一限を完全に諦めて、A棟の非常階段を駆け上がった。
 四階まで一気の上がると、やっぱりそこに徳寺先輩はいた。
「あっれぇーさぼりぃーー?」
「...先輩こそ」
「3限からなのー。そっちもぉ?」
「俺は一限からっす」
「やっぱぁー、サボりじゃーん」
 子供のように口を大きく開けて笑う顔と、その手にある煙草は、ちぐはぐなようで、それが逆にどこか艶めかしい雰囲気を醸し出していた。
「てかぁ、そんなとこにぃ、たってないでぇ、こっちくればぁ?」
「い、いや...おれは」
 下から上がってきた階段のすぐそばで、徳寺先輩と対峙していた。日光が当たる、上への階段のすぐそばで肘を手すりにかけている徳寺先輩は、ゆっくりとした動作で手招きする。
「もしかしてぇー、嫌いー、煙草ぉ? ごめんねー」
 徳寺先輩がポケットから携帯灰皿を取り出す。
 別に煙草には嫌いもすきも無かった。ずっと体に悪いと言われていたから、避けていただけだ。煙草をここまで近くでみたこともあんまりなかった。今はもうバレーを辞めたのだから、体に悪いとかも気にする必要がない。寧ろここで嫌悪感を持つ方が徳寺先輩にも失礼だし、自分が過去に縛られている証拠だ。
「そんなこと、ないんで、吸ってて下さい。今そっち行きますんで」
 一歩、徳寺先輩の方に足を踏み出したとき、後ろでバン?と、鋭く空気を震わす音がした。振り返ると、廊下への扉が開いていた。開けたのはこの棟でよく見かける掃除のおばちゃんだった。目を上につりあげ、大学は禁煙だよっ、と金切り声でおばちゃんが叫ぶ。思わず一歩後ろに下がってしまうぐらい物凄い迫力だった。
 おばちゃんは、俺を脇へ押しやると、徳寺先輩へとずかずかと速足で歩いて行く。徳寺先輩のすぐ前に立つと、もう聞き取れないほど甲高い声で矢継ぎ早に喚き始めた。
 驚くことに、鼻が触れるほどの距離で何やら喚かれても、徳寺先輩がおばちゃんを気にする様子はなかった。表情一つ変わらず、咥えた煙草はぴくりとも動きもせず、ただ気だるげにまぶたを伏せるだけだった。
 徳寺先輩にとって、早口でミフなことを喋るおばちゃんなど、最早いないに等しいのかもしれない。真っ赤なマニキュアで光る爪で彩られた長い指がふいに動く。人差し指と中指に挟まれた煙草が、口から外される。おばちゃんは激高していて、その様子に気付くのが遅れた。
 あ、と思わず口から声が漏れた。それと同時に徳寺先輩の唇から、吐き出された小さな白い煙が空気中に広まって、眼前にいたおばちゃんの顔を覆う。
 ぎゃあああああああ、と大きく口を開かせたおばちゃんが天まで届くような絶叫を響かせた。
 そのまま数歩後ろによろめくと、徳寺先輩を罵倒しながらも、手足をばたばたさせて去っていった。
 勝者、徳寺先輩。KO。なにやらすごいものをみた。
 余韻に身を震わせながらも、徳寺先輩の隣に移動する。
「いまの、すごかったすね」
「ん? なにがぁ?」
 首をかしげながらも、徳寺先輩は俺とは逆の方向に向かって、ふぅーと煙草の煙を吐き出す。
「なにって...おばちゃんが来たじゃないっすか」
「あー、あれぇ、幻覚じゃー、なかったんだぁ」
「幻覚だと思ってたんですか?」
「つかぁ、あれー、幻覚じゃないならぁ、やばくねぇー?ぎゃはは」
 そこだけは、徳永先輩に完全同意するけど。
 煙草を咥え腹を抱えながらげらげらと笑う徳寺先輩は、本当に毎日幻覚でもみてそうではある。その独特の語尾が伸びた喋り方、大学で煙草吸う度胸、一般人とは違うところに感性がある人なのかもしれない。
「昨日はぁ、ごめんねー」
「あれは俺がまだ未熟でした。先輩こそ、あの後大丈夫だったんですか? 友校会が来てやられたり、卵が奪われたりとかは」
「すぐにぃ、チャイム鳴ったからねぇー。なんもないしぃ、奪われたりもぉしてないよー。そしてぇ、元通りぃー。いぇーい」
「意識の世界だから、痛みはないんですか?」
 太陽の光が目に当たって眩しい。徳寺先輩が煙草を口から出し、ふぅーと煙を吐き出した。煙草の香が俺の鼻を擽る。
「そこそこぉかなぁ、ヒドイぃけがはぁー、痛いなーぐらぁいー。銃でぇ殴ったけどぉー、痛くなかったぁ? 顔色もぉ悪いしぃ、けっこぉ痛かったんじゃなーい?」
「なんか痛みはありませんでした。顔色悪いのは多分、昨日全然寝れなかったせいだと思うんすけど、もう大丈夫です」
「んー、そぉかぁー、ちょっちぃグロ映画みたいなってたもんねぇー」
 徳寺先輩が喋るたびに、ピコピコと緩慢なリズムで揺れる煙草に視線が吸い寄せられる。
「いつから、煙草吸い始めたんですか?」
「えっとぉねー、中二んときかなー」
「中学生? 帆波先輩は煙草とか嫌ってそうですけど、なんか言われたりしたんですか?」
「べっつにぃ、高校ん時ぃ、『それ、違法じゃない?』って言われたぐらいかなー」
 徳寺先輩の織山先輩の真似はちょっと似ていた。織山先輩は、淡々と話す人だから、抑揚を抑えて喋れば結構寄せれる。
「高校の時からの付き合いなんすね」
「初めはぁ、全然だったけどねぇー。帆波はぁ、いじめられてたからぁ」
「...俺も聞いていい話なんですか」
「大丈夫っしょー。なんたってぇ、いじめてたのぉ、理沙だったもぉん」
「先輩かよ!」
 織山先輩をいじめていたのは、徳寺先輩だった? 思ってたよりやべえ。
 徳寺先輩はまだまだ吸い足りないのか、携帯灰皿に煙草をしまうと、もう一本取り出して火をつけた。
「いじめるつもりはぁ、なかったんだけどぉ、全然反応しないからぁ、段々とぉ、周りがヒートアップぅー的な? そしたらぁ、なんかぁ、周りがぁ、主犯はぁ、理沙だってぇ、決めつけてぇー」
「じゃ、徳寺先輩はいじめてたわけじゃなかったんですね。なんだ、俺はてっきり、いじめてたんかと」
「一番にぃ、ちょっかいかけたのはぁ、理沙だしぃ、周りを止めようとしなかったぁ、理沙もぉ、悪かったよぉ。でもぉ、帆波がぁ、ほんとヤバヤバでー」
「文芸ペンクラブの中じゃ、織山先輩ってまともにみえますけど」
「そう思うよねー。初めはぁ、真面目ないい子ちゃんにぃ、見えんだけどー、あーゆーのほどぉ、割とやばかったりぃ、するんだよねー。高校ん時さぁ、理沙ぁ、急に雨降ってきたからぁ、びしょぬれでぇ、歩いてたのー。そしたらぁ、帆波がいてぇ、傘ぁ、貸してくれてさー」
「めっちゃ優しいじゃないすか」
「んとにぃ、そー思うー? 当時はぁ、理沙ぁ、主犯だよぉ、シュハンー。ざまあみろとかがぁ、ふつーじゃん? だからぁ、聞いてみたのぉ。理沙のことー、恨んでないのぉー?ってぇ。なんていったとぉ、思うー?」
 わくわくした気持ちを隠そうともしない、ずっと誰かにみせたかったオモチャを披露した子供みたいな顔。それなのに話す内容はヘビーで、返答に困ってしまう。
「うー、誰かを助けるのに、理由はいらない、とか?」
「ぎゃはは、アニメにぃ、ありそぉー。でもぉ、違くてぇ、『行いは全て自分に返ってくるから気にしてない』だってぇー。わけわかんなくてー、ポカーンってしちゃったぁー」
「情けは人の為ならずってやつですかね?」
「それに似てるんかなー。意味聞いてみたのぉ。なんかぁ、ヒドイことしてる理沙はぁ、その分だけぇ、悪いことが起こっちゃうしぃ、ここでいいことしたらぁ、いつかぁ、いいことがぁ、返ってくるのがぁ、当たり前ぇー、みたいなのぉ、言われてぇ、面白くなっちゃってぇー。
 まぁー、帆波とぉ、付き合い初めてぇ、分かったんだけどぉ、なんにもぉ、興味ないのよー。なにかをぉ、すきぃ、みたいなのもぉ、言われたこともないしねー。だからぁ、友達ってぇ、あっちは思っているかはぁ、謎ぉ、なんだけどねー」
「でも織山先輩って、文芸ペンクラブの部長じゃないですか。それって、少なからず興味あるってことじゃないんですか?」
「ちゃうよぉ、帆波ってー、さっきいったんだけどぉ、因果応報が絶対だってぇ、信じ込んでるのぉ。それだけがぁ、唯一のぉ、心の拠り所っぽくてぇー。友校会がぁ、そのぉ、当たり前をー、壊すことがぁ、帆波的にはぁ、怖いんだってぇー。理沙はぁ、帆波のぉ、手伝いができればぁ、それでいいんだけどぉ、帆波はぁ、今までのぉ、人生かかってるからぁ、本気なんだよねー」
「そんなの...」
「ここまでぇ、くるとぉ、だいぶ歪んでるよねー。ぎゃはは」
「お、俺は、歪んでるなんて、思いませんよ!」
「そぉー? 一番タチ悪い人間ってぇー、狂信者だとぉ、理沙はぁ、思うけどねぇ」
 意外と、人をよくみていると一瞬思ってしまった。言い返せなくなった俺は、微かに聞こえたチャイムの音で顔をあげた。
「じゃ、俺、二限はでるつもりなんで。話、聞かせてくれてありがとう、ございました」
 どうせなら、今日は授業サボっちまうかとか思ってたけど。これは、逃げじゃ、ないし。
「もー、そんな時間かぁ。付き合ってくれてぇ、ありがとうねぇー。できればぁ、このままぁ、帆波のそばにぃ、いてくれたらぁ、嬉しいってかぁ、ある程度のぉ、心構えできただろうしー、何があってもぉー、ドン引いてもぉー、できればぁ、受け入れてほしいっつうかー」
 それは徳寺先輩には珍しくタジタジな話し方だったけど、その頬が少しだけ赤らめているのをみて、俺に織山先輩の話をした理由が分かったような気がした。
 頬がにやけそう。ちょっと怖そうな先輩の意外な可愛い一面を見つけてしまった。
「織山先輩のこと、聞きにここにきますね! じゃあ、また!」

 教室のドアを開く。賢人と天野が座っている席を素通りして、教室の奥の方の席に座った。なにかいいたそうに賢人が立ち上がったけども天野がそれを止めていた。眠気に襲われて顔を机に伏せる。授業始まるまで眠ってしまおう。
 目を開けたら、授業終了のチャイムがなるところだった。まじか...。熟睡してたのか、俺。
 ぞろぞろと学生が退室していく。天野と賢人の後ろ姿をその中で見つけて、二人は冥土に行ったのかな、とか考えた。今日はもう授業はない。俺も賢人も。天野はしらないけど。
 はぁぁ、と溜息を吐いて立ち上がる。
 ちらほらと髪色がピンクだったり、紫、緑、水色とピンキーな人をみかける。そういえば明後日はもう、大学祭だっけか。といっても、俺は別になにもしないけど。
 文芸ペンクラブの部室にいくか迷ったけど結局帰ることにした。ゆっくり休みたくて、いつもより長めに風呂に入る。
 髪を拭いていると、床に放りっぱなしだったスマホが震えた。織山先輩からLINEが届いてるみたいだ。その文面をみて少し考えた後、スマホに手を伸ばした。
『昨日はお疲れ様。いきなりで悪いけど、明日部室に来るなら、包丁持ってきてくれないかな』
『了解っす。法螺貝もあるんですけど、持っていきましょうか?』
『間違いなく前例はないけど。必要だと思ったら持ってくるべきだね。何に使うつもりなの?』
『友校会の前に全員が並んだ時でどうすか? 士気上がりますよ』
『説明がたりなくてすまない。カチコミするわけじゃないんだ。大学祭の準備に包丁が必要で』
『大学祭の人込みに紛れるんですね』
『発想が地平線の彼方に飛んでいくんだね。毎年大学祭は豚汁を作って売り出すのが、文芸ペンクラブの伝統で。明日試食品作るつもりだから、それの準備に包丁が必要なの』
『それ、何の肉使うんです? 切り分ける用のノコギリとか要ります?』
『なんで持ってるの? 普通に豚肉だよ』
『それただの豚汁になりません?』
『そうだよ。それじゃ明日宜しく。ついでに、大学祭の準備を夜通しですることになってるんだけど、明日の夜は空いてる?』
『全然大丈夫です』
『把握。そうそう』
『なんです?』
『そこまでしたいなら、今度冥土で友校会を一人とらえて鍋に突っ込んでみる? 食べられるように、調味料もそろえておこうか』
『や、全然大丈夫っすよ! そんな手を煩わせられないんで!』
『そう? やりたいことあったら言ってね。江戸原君が協力してくれた分、お返ししたいし』
『気にしないでください! おやすみなさい!』
『遠慮しないでね。おやすみ』
 スマホの電源を切る。どっと疲れたような気がする。
 織山先輩はいつも通りだった。昨日のことも持ち出さずに、ただ淡々と連絡事項だけを伝えるいつもの口調。友校会のことを持ち出してみたが、織山先輩は冷静に返信してきただけだった。そして最後...。
「あーこえー」
 口ではそう言いながらも、大学祭の準備を文芸ペンクラブでするという急遽舞い込んだイベントに心臓が高鳴るのを感じた。
 明日は授業はない。家から部室に直行することになるだろう。
 
4
 部室のドアを開くと、既に大勢の人で埋まっていた。見覚えのある顔は五人ともちゃんといるけど、みたこともない人がその倍いる。意外とメンバー多かったんだな。
 会計係の人に金を渡して、大学祭で使える豚汁のチケットと引き換えた。
 織山先輩がそれぞれに役割を振り分けていく。包丁持ってきた俺は調理係に任命された。料理とかあんまりしたことないけどやるしかない。
 袖をまくる。気分は、試合前のコートに並ぶあの高揚感に似ている。

 試食品を作った後は、徹夜で大学祭のために作業だ。部室ではスペースが足りない上に夜になると閉まるので、それぞれ家で作業するらしい。
 俺と、アーニー先輩、歩先輩の三人で、アーニー先輩の家で大量の食材を切ることになった。俺ら三人の担当は大根と人参。どちらも食材としては一般的ではあるが、量が多い。割と重労働になりそうだったが、仲間の家でお泊りするというシチュエーションはちょっとわくわくする。
 手に食材を抱え、三人でとりとめのない会話をしながら夜道を歩いた。ちなみに重いからという理由で歩先輩は荷物をほとんど持っていない。ま、俺とアーニー先輩でなんとか持てる量だから、別にいいんだけど。
 アーニー先輩の家は古いアパートの一室だった。ほぼ手ぶらな八重田先輩が勝手気ままに家の扉を開ける。よく遊びに来ているのかもしれない。
 荷物を床に下ろし、部屋の中心にある大きな四角のテーブルにそれぞれまな板と包丁を用意する。テーブルの中心に大きなボウルを置いた。切った食材を入れる用だ。
 包丁の音がユニットしてる間にも、話し声はずっと途切れることもなく続いた。
「文芸ペンクラブでクリスマスにイベントとかないんすか?」
「クリスマスは特にないかなぁ。帰省とかでみんな忙しいしね」
「同じ時期に忘年会はある。居酒屋で飲み会とかする」
「まじすか。忘年会って試合ばっかだったんで楽しみっす」
「そのころになると、寒いから外出たくねえんだよな」
「冬は好きだ。雪は世界を白く覆いつくしてくれる」
「ここら辺全然積もらねえのに」
「俺の地元ならめっちゃ雪積もりますよ」
 一旦作業を中断して、ポケットからスマホを取り出した。スマホの画面を二人に向ける。
「これ、俺の実家の庭です」
「へー、一面雪景色でいい感じ...庭の真ん中から生えている足みたいなのってなに?」
「それ俺の足です」
「いやそうじゃなくてね」
「犬神家でみたことある! これは冬の日本の伝統なのか?」
「あえていうなら、俺こそが伝統になるかも的なとこっす」
「上半身埋まっているくせに自尊心はちゃんとあるわけね。どうしてこうなったの?」
「その日は2月14日のバレンタインデーで」
「あ、チョコ貰えなかったとかそういう...」
「日本のバレンタインデーは戦争といって差し支えない」
「親父とバレー辞めるかどうかで喧嘩して、これ以上親父の思い通りになってたまるか、という強い意志で頭から雪に突っ込みましたね」
「バレンタインデーの日に、全然関係ない随分アグレッシブな反抗をしたんだね」
「親父とお袋は泣いてました」
「息子が成長して泣くほど嬉しかったのだろう」
「そんな牧歌的な涙なわけあるか」
 LINEからの通知が、スマホの画面の上部に現れる。文芸ペンクラブの全体LINEからだった。
「『画像が送信されました』ってなんだろ」
「送り主、理沙先輩じゃん。部長とかとで俺らみたいに食材切ってるはず」
 通知をタップしてLINEを開いた。大量のごぼうがビニール袋に入れられている写真が送られてきていた。ぶるるとスマホが震えて、さらに文面も送られてくる。
『食材完了~☆ 今からチンします☆』
「女子はやっぱはえーな」
「これは初めてみるな」
 写真をみたアーニー先輩が感嘆の表情で言い放った。
「ごぼうを見たことないんですか?」
「いやいや、アーニーは日本の生活時期長いんだから、見たことねえってのはないだろ」
「ごぼうの輪切りなんて珍しいだろう」
 アーニー先輩の長い指が、写真のビニール袋を指さした。歩先輩と二人で指の先に目を凝らす。
「んとだ...。ささがきや細切りでもなく、輪切りを敢えて選択したってのか!」
「なぜこんな常識に抗うことを...?」
「これが文芸ペンクラブの伝統といったところではないのか?」
 伝統というものに触れて満足げに頷くアーニー先輩! その言葉に衝撃が走る俺ら!
 歩先輩が机を拳で叩く。憎々しげに目の前のボウルを睨むと叫んだ。
「なんだってぇ...! ちくしょう! もう手遅れじゃねえか! 既にどれだけの人参をいちょう切りで切ったと思ってんだ! くっそ!」
「今から輪切りしようにも、切った食材は二度と元には戻らない! どうもできない!」
 無力な自分に打ちひしがれる俺と歩先輩。アーニー先輩も俺らの深刻な表情にようやく事態が察せたらしい。
「これでは我々は伝統を守らなかった異端の存在ではないか! 何か方法はないのか!」
 険しい顔で声を張り上げるアーニー先輩はまるで映画のワンシーンのようだ。もはや一刻も油断を許さない状況に顔から汗を流した歩先輩が、ゆるゆると首を振る。その目は後悔と絶望に染まっていた。
「もう無理だ...」
「いえ、まだ、まだやれます!」
 初めて経験したあの冥土での戦争で徳寺先輩に気絶させられた後、自分に誓っただろ! もう二度と足手まといにはならないって!
「エド! なにか思いついたのか!」
「切った食材は二度と元には戻りませんが、もう一度切ることはできる! つまり、いかにも輪切りしたかのように丸くさせることは可能です!」
「天才か!」
「エドの案を採用する! 異議ある者は手を挙げて申し出でよ!」
 しん、と一気に静かになる。手を挙げようとした人は一人もいなかった。それどころか、賞賛に満ちた二対の目で見つめられて気恥ずかしい。
 静寂に包まれる部屋に、ブブブとバイブ音がなる。目を血走らせた三人で噛り付くように画面を覗き込んだ。
 送信されていたのは、写真。それも細切りにされたこんにゃくが山盛りになっている写真。
『こっち送り忘れてたー(笑)』
 先程とは違う雰囲気の静寂が落ちる。光の失った無表情でアーニー先輩は呟いた。
「事実確認を先にすべきだったな...」
 死んだ目をした俺と歩先輩は力なく頷いた。

5
 そして大学祭当日。文化祭は二日間ある。俺も予定ゼロだったから売り子のシフトに組み込まれた。だが、実際に売り子になるのは二日目らしく一日目は何も入ってない。それでも俺は一日目に大学に来ていた。
 普段の大学とは、人の数が段違いだ。今までこんだけの人がどこにいたんだろう。屋台が並ぶ通りに、文学部の屋台もあった。文学誌の名称である『さわらび』の文字を掲げた看板は、知る人が見れば文学ペンクラブの店であることがわかる。
「豚汁一杯ください」
「はいかしこまりましたって、江戸原かよ。もう一杯買ってけ」
「そんなに要りませんよ」
 会計の歩先輩にチケットを一枚渡す。おいしそうな豚汁の匂いが、食欲をそそる。
「無理強いはよくないぞ」
「...織山先輩?」
「こんにちは、江戸原くん。シフトもないのに来てくれてありがとうね」
 丁寧に挨拶してくれる織山先輩は、フリルのついたメイド服みたいのと、金髪縦ロールのカツラを着用していた。思ったより似合っているのが、逆に違和感を引き立てる。道行く人にちらちら横目で見られているというのに、平気な顔でいられるその精神力は見習いたいところではあるけども、一体誰に着させられたんだろうか。
「はーい、一杯ぃーお待ちー」
 徳寺先輩に、豚汁が並々と注がれた白の発泡スチロールのお椀を渡される。昨日の努力の甲斐があってか、具は沢山入っている。もしかしたら俺相手だったから、徳寺先輩も少しサービスしてくれたのかも。そんな期待だって少しはしていいはず。
 豚汁をゆっくり飲みながら、ぶらぶらと当てもなく歩く。周りにはやっぱり友達と複数人で固まっているのが多くて寂しい気分にはなるが、こればっかりはしょうがない。
「見つけた! すみません、通してください!」
 ただでさえ騒がしい声の大渋滞を通り抜けた叫び声。賢人だとすぐに分かった。声は段々と俺の方に近づいてくる。
 聞こえた時にはすぐにでも走って逃げ出そうとした。でも手に持っている豚汁が、走ったらこぼれてしまうのは目に見えている。せいぜい早歩きぐらいのスピードしか出せない。
 後ろから伸びてきた手に、豚汁もってない方の肩を掴まれて体が揺れる。あっぶねえ、もうちょいでこぼれるとこだっただろうが!
 目だけで後ろを見ると、やっぱり賢人がすぐそこにいた。その手は俺の肩に乗せられている。息は荒いけども、肩を掴む手は強く食い込んでいる。半歩後ろには、天野もいた。
「...なんで、きた」
 ほんとになんで俺に近づいてくるわけ? 実のところ、今日賢人を見たのは今が初めてではない。文芸ペンクラブの屋台に寄る前に、大学の図書館の前で賢人の後ろ姿を見かけた。隣にいる天野と随分楽しそうに話していたから、まあ、声はかけられなかった。それが、なんで。
「少し話がしたい。あそこに座って話さないか」
 賢人の指さす先は、俺の真正面。特別に設置された、少し大きめなステージの前にあるスペースだった。そこそこの人が、地べたに座って休憩を取りつつ、ステージに立つ大学生にヤジを飛ばしたりしている。今からちょうど漫才が始まるらしい。ノリノリの司会が場を盛り上げようとしている声がここまで届いている。
 道の真ん中で立ち止まっているせいで、さっきから人が邪魔そうに俺らの脇を通り抜けていくし、俺も豚汁のせいで逃げられそうにない。
「豚汁食べる間だけな」 
「ありがとう」
 ステージの前に地面に手を付いて座る。右に視線がうるさい賢人、そのまた右に天野が座った。
 豚汁をすすると、みそ味のスープという形容がぴったりな味が口一杯に広がる。思ったよりは、悪くない。
「少し調べさせてもらった。君のことを。友校会も協力してくれて色々」
「勝手に?」
「うん。ごめん」
 申し訳なさそうに眉を下げる賢人。その後ろで天野は首を横に振っているのが見えた。大方、友校会が俺について調べた情報を賢人に流したってところだろうな、この感じは。
「それがなんだってんだよ」
「お父さん、将来有望なバレー選手だったんだってね。でも、二十歳を超えたあたりで、膝の故障が原因で引退。最後に、『若い芽を伸ばすようなことを、これからしていきたい』と答えたインタビューがネットに残っていたよ」
「ふうん」
「お父さんが若い芽として目を付けたのは、自分の息子だった。つまり江戸原君。君だよ」
「親父も江戸原で紛らわしいから名前でいいよ」
「えっと、江戸原、光汰さん...」
「そっち? 俺のこと、いい加減名前で読んだらっつう意味だったんだけど」
「冥土では敵になるのだから、そうやって慣れあってはダメよ」
 天野が敵意丸出しの目で睨みつけてきた。まだ、俺が冥土で腹を蹴ったことを根に持ってるっぽい。あれだけのことをしたし、当然だろう。
「ち、違うよ、天野さん。僕たちは、敵である以前に、友達同士だよ。でしょ、俊一郎、くん」
「い、いや、呼び捨てでいいって。俺だって、賢人って呼んでるわけ、だし」
「じゃあ、俊一郎、で...」
「お、おう」
 賢人がまだ俺のことを友達と思っていることは意外だった。俺の冥土での行為の数々をてっきり軽蔑されると思っていたのに、想定外な賢人の言葉に俺までしどろもどろになっちまう。天野が呆れた顔をしている。
「冥土でされたこと、覚えてないの?」
「でも、あれは僕を冥土から遠ざけるために、わざとそういう言動をしたんじゃないの」
 その通り、とまではわざわざ言わなかった。
「その根拠は? 騙されているとは、思わないの?」
「僕は、信用してるから。俊一郎を」
 天野の方を向いている賢人の表情は、ここからでは見ることはできない。でも、天野は後ろに尻込むような様子を見せた。俺も、言い知れない威圧感に、ゾクゾクとした悪寒が背筋を凍らせるのを感じる。
 どうして、こんなに真っ直ぐ、人を信頼できるんだ。別に、あからさまに賢人を見下してきたわけじゃない。でも、心のどこかで、賢人と俺は質が違うと思っていた。クオリティという意味での、『質』が。
 それなのに、今まで周囲からの信用に囚われていた俺の方が、賢人よりも小さな人間みたいだ。賢人の存在が、眩しくギラギラと俺を圧迫する。苦しい。
 口を挟むことを諦めたのか、天野が拗ねる子供のように、壇上に視線を向けた。その途端に、周囲から拍手が湧く。壇上に二人の大学生が、一つのマイクを分け合い立っていた。
 賢人が俺の方へ首を向ける。視線から逃げるように、手元に目線を落とし、豚汁をすすった。
「それで、俊一郎は小学校中学高校ともにトップレベルのバレー強豪校に入ったんだよね。そこに俊一郎の意思があったかは、分からないけど」
「...」
 俺の意思とは、何をもって定義されるのだろう。
「それでも、あんまりいい評判は聞かない。試合にも、出てなかったみたいだし」
 マイクを通して拡大された漫才も、笑い声もどこか別の次元にいってしまったかのように耳に入らない。遠近法がバグった絵画の中にいるみたいな奇妙な感覚だった。豚汁を含む、周りの全てが遠く感じるのに、隣にいる賢人の息づかいだけはやけにはっきりと俺の中で形作る。俺の五感の全ては、賢人に集中していた。賢人の話の意図を読み取るために。
「俊一郎のお父さんの、膝の故障の詳細は公開されていない。生まれつきの病気らしいことは確かだ。膝で発症する、選手生命を終わらせるほどの生まれつきの病気はそう多くない。そして、お父さんの膝の写真、ほかの人にはない膨らみがみえた」
 そう。お父さんの膝の関節のところは、少しだけでっぱりがある。
「『外骨腫』という、足の関節の骨が異様な方向に成長することにより骨性の腫瘍ができてしまう生まれつきの病気がある。発症しても大体の人は気づかないが、稀に膝が曲がりにくくなったり、曲がらなくなるまで症状が進行する人がいるんだって。さっき、俊一郎が地面に座るときにしゃがむのではなく、手を一旦ついてから座ったのを見た」
「白々しいんだよ。そうさせたんだろ」
「バレてた。ごめんね。確かめたかったんだ。これだと、足を深く曲げる必要はない座り方なのは一目でわかったよ。外骨腫は遺伝性らしいね。お父さんの外骨腫が、子供に遺伝したんじゃないのかな?」
 無意識に服の上から膝を撫でていた。関節のすぐそばの指の先には、固い膨らみがある。
 賢人は言葉を切って、じっと見つめてきた。透き通る目の奥には決意が灯っている。この前の俺とおんなじだ。冥土で賢人と天野と対峙したときの俺と。
 言い返したいことはいっぱいあったのに、ただ頷くことしかできなかった。口を開けばもうやめてくれ、とか情けない言葉が飛び出てしまいそうで。
「ずっと辛かったんだろう。僕には想像ができないほど、辛くて、悲しかったんだよね。両親の名声で、周囲は勝手に期待してくる。だけど両親から受け継いだモノのせいで足はうまく動かない。俊一郎のせいじゃないのに」
 いや、そうじゃない。そこじゃないんだよ、賢人。的外れだ。親父は憎く感じたこともあったけど、親父のせいで、なんて思ったことはない。俺の足は動かないわけじゃない。親父の見えないところで優しくしてくれたお袋は、ちゃんと俺を生んでくれた。
 ようやく分かったような気がする。俺と賢人は、本当に人間としての質が違う。クオリティとしての質だけではなく、性質としての『質』さえも。
 賢人にはどうせ理解されない。そのくせ理解したようなツラで、形ばかりの同情をされたくなかった。ダンマリを続行する俺の態度にお構いなしに、尋問は続いていく。
「羨ましいんだよね? 幸せな人が。だから文芸ペンクラブ側にいるんでしょ? 自分以外が幸せになるのは、許せないから。そうしないと苦しいもんね? 自分が幸せになれなかったことへの理不尽から、逃げられなくて」
「違う!」 
 あくまで優しく語りかけてくるくせして、まるで呪詛みたいな言葉に体を震わせて叫んだ。まだ半分ぐらい残っているというのに、すっかり冷めた豚汁が器ごと大きく揺れて、手に少しかかる。それを気にする心の余裕すらもうなかった。漫才をみている観客は、そもそも俺らの方を見向きもしない。
「どうして嘘をつくのよ。嫉妬しているだけじゃない。今まで辛い経験をしてきたからって、ほかの人が幸せになるのを邪魔していいと思っているの? 独りよがりで自己満足な動機で、私たちの邪魔をしないでくれない?」
「違う違う違う!」 
 天野のなじるような口調に、子供みたいに喚いた。豚汁の器が地面に落ちる。豚汁が地面に勢いよくぶちまかれると同時に、両手で頭を抱えて縮こまった。このまま時が止まってほしいと願うのに、手汗も思考も止まらない。
 幸せに立ち向かってやりたかった。立ち向かえることを自分に証明したかった。今までの人生にだって、価値があったことを認めたかった。
 目の奥が、ツンと痛くなる。掠れる声で、誰にも聞こえないような声量で呟いていた。
 
「無意味なものを、意味あるものにしたかったんだよ...」

 賢人だけには聞こえたらしい。
「意味ないものなんて、ないんだよ」
 お前はな。俺はもう無意味なことにこれまでの人生の大半を潰してしまった。差は埋まらないだろう。一生かけても、永遠に。
 賢人の腕が伸びてきて、頭に触れる直前に払い落とした。明らかな拒絶に顔がさらに険しくなる天野とは対照的に、賢人は悲しそうな、寂しそうな顔をしている。同情でもしてくれているのかもしれない。
 俺の中にふつふつと黒い感情が湧き上がる。
 全てを無意味にしてやればいいんだ。
 あんな卵さえ破壊してしまえば、感情がなくなれば、全てが無意味になるじゃないか。そしたら、救われる。こんな俺も。
 感情なんてもんに振り回されるのは、疲れた。解放されたい。楽になりたい。心はずっと冥土のように闇に覆われて暗いままだ。これから先も、光が差すことがどうせ無いのなら。
「天野さんは、今までの記憶がない」
「え、ちょっと、そこまで言うの?」
 織山先輩が、最初に卵をみせてくれた時には、『八つの基本感情は冥土で卵として生まれ、そして私たちのそれぞれの無意識へと孵る』『エクスタシーの卵は発見済み。ほか六つの卵の所在は不明』と説明してくれた。調べてみたら、この基本感情を八つに分ける考え方は割とポピュラーらしい。俺は知らなかったが。
「言っちゃダメだった? 僕は、俊一郎にも協力してほしいと思って」
「任せたのは私だから、京谷くんの判断に従うけど」
 よくよく考えると違和感がないか?
 基本感情が八つに分かれていることだって、どんなに賛同を得られていようが、所詮は一介の人間の見解に他ならない。
 そもそも他の六つの卵の所在は不明なのに、どうして卵が六つあることが分かっているのか。織山先輩の話し方からすると、誰かからそう聞いたことをそのまま言っているようだった。誰がそう言ったのだろうか?
「天野さんは、長い間一人で冥土の暗い森の中を彷徨っていた記憶しかない。そして、気づいたら学生証だけもって教室にいて、今は学生証の名前を名乗っている。写真からして本人の学生証らしいけど、どういうわけか岡香山大学に天野文という名前の学生はいない。これが今年の春ぐらいのことで、友校会が天野さんと知り合ったのはそのすぐ直前なんだって。友校会では天野さんはまるで冥土からの贈り物だと言われて腫物扱いされているけど、そんなことはない」
 あの基地だって不思議だ。みんな当然のような顔をして使っているけども、あれだけの基地と武器を一体誰が用意したんだ? 
 友校会と文芸ペンクラブはどちらも同じ迷彩服を着用している。これは、装備を用意した人物、もしくは機関が、同じであるという可能性が高いのでは。
「僕は天野さんに約束したんだ。必ず、僕が天野さんが普通の女の子として暮らしていける居場所を見つけてみせるって。そして、こういうことが二度と起こらないように、この不毛な戦争を終わらせたい。無意識の世界だとか関係なく、同じ大学の生徒か殺しあう今の構図は恐ろしく歪んでいる」
 この戦争の裏に、『戦争を引き起こしたい誰か』がいるんじゃないのか? 
 そいつの目的はなんだ? 卵の破壊か? ならば、目的は俺の願いと同じじゃないか。
「俊一郎。僕と一緒に天野さんの居場所を見つけ、そしてこの戦争を終わらせないか。君の力が必要なんだ。僕と俊一郎が手を組めば、きっとできないことなんてない」
 手が、賢人の右手が、ゆっくりと持ち上がり、俺の前に差し出される。縋りつきたくなってしまうような、優しい目だった。
 目的も進む方向も正反対な俺は、その手を握り返すことなんてできやしない。できるわけがない。
「友校会とは仲良くできねーよ。俺は、俺の意思で文芸ペンクラブに所属している。これからもだ。四年しかないってのに、賢人みたいなトロいのとはつるんでられねーの」
「ん、四年?」
 賢人がきょとんとした顔で聞き返してきた。そういや松崎先輩のあれは、友校会では公開禁止になっていたんだった。少し迷ったが、賢人も本当のことを知っておくべきだと思いなおして、包み隠さずに話した。
「知らないのも無理はないけど、冥土に四年以上いくと、意識の分離の影響で精神に異常がでるんだと。だから文芸ペンクラブでは大学四年以降の活動を禁止している。せいぜいタイムリミットを超えないように気をつけな」
「え? まさか本気であの松崎真の研究もどきが、真実であると思っているの?」
「は?」
 意味分からない言葉に、今度は俺が聞き返す番だった。賢人が手で顔を覆う。
「松崎真の研究、っていうか論文なら僕も読んだことあるよ。確かによくまとまっているから、理論が通っているように見えてしまうのは分かる。けれど僕にはあれは大学生が執筆したSFもどきにしか思えなかったよ」
 そこには確かに侮蔑が含まれていた。何がいいたいんだこいつは。
「友校会で公開禁止になったのに、賢人が内容を知るはずがないだろ。俺に偽情報与えて内部分裂でも狙ってんのか」
「もしそうなるなら僕の理には適ってはいるけど、残念ながら真実だよ。公開禁止になんてなってない。その論文発表直後に危険思想を理由に友校会が松崎真のことを除名したのを、そう解釈しているだけなんじゃない」
「除名? 松崎先輩は友校会を自分から抜けたんだろ」
「そう言ったの? 松崎真が、俊一郎に?」
 松崎先輩の話を思い返す。あれだけ衝撃的な話を聞き逃すわけもなかった。
「...言っては、ない」
 顔を上げた賢人が身を乗り出してくる。
「ほら、松崎真は都合の悪いことを隠して、俊一郎にデタラメ吹き込んでいるだけ。いいように文芸ペンクラブに付け込まれてるんだよ」
「そんなことねえよ。実際、松崎先輩の精神は追い込まれていた。研究自体は松崎先輩自身が実証している」
「松崎真が追い込まれていたんじゃない。逆だよ。今年の春に友校会のメンバーから自殺者がでたのは知ってる? まだ松崎真が友校会側だったころだ。自殺した死体は松崎真の自室から発見された上に、自殺に使われた紐には松崎真の指紋がべったりついていたんだってね。自殺にまで追い込んだのは松崎真であると断定するには十分だ」
「勝手なこと言ってんじゃねえ! それは」
 せわしなく口を動かす賢人の胸倉をつかむ。それでも賢人は俺の言葉を遮って、ペラペラと御託を並べ立てる。
「冥土にいくことで精神に異常をきたしただのそれらしく書くのはいいけど、元々松崎真の精神が異常だったんじゃないのかな? 誰しも成長する過程で大なり小なり心に傷を負うものだし、気づかなくてもそれにより精神が壊れてたっておかしくはない。俊一郎はそこらの人よりも心の傷が深いのに、どうしてそれが分からないんだよ!」
「っ!」
 口を止めるな。なにか、なにか言い返せ。
「研究内容だって、疑問に思わないの? いくら無意識の集合体だからって意識が分離するわけがない。スライムじゃあないんだよ。超重力だのなんだのはもはや、誰も立証できない。誰も信じてない。成立しているのは本人の頭の中でだけだ」
「あれが無意識の集合体であることだって、誰も立証できないだろ。賢人が言ってんのは水掛け論でしかねえ。それに先輩達だって松崎先輩の研究に協力している!」
「そうだよ水掛け論だよ、所詮そのレベルなんだよ、松崎真の研究なんて! 文芸ペンクラブは人数が少ないから一人の比重が大きい。変に突っぱねて文芸ペンクラブ内に亀裂が走るよりも、受け入れた方がいいと判断した結果じゃないか」
「そう思いたいなら、そう思い込んどけよ! この妄想野郎!」
「妄想じゃない。文芸ペンクラブの中に誰か一人でも、松崎真の研究を信じていると明言した人はいるの? いるわけないよ。四倍の人数を抱える友校会でさえいなかったのに!」
「明言してるかどうかってのが関係あんのか? アア? 今、松崎先輩は文芸ペンクラブにいるのが既に答えじゃねーかよ! 言うまでもねえ!」
「だからその文芸ペンクラブが、嘘にまみれた虚構でしかないって僕は言ってるんだけど!」
「てっめぇ!」 
 腕を振りかぶる。俺の体は殺意をもって、全力で賢人を殴ろうとしていた。その腕が横から伸びてきた手に掴まれて停止する。いつのまにか隣まで移動していた天野の手だった。ずっと止めるタイミングを見計らっていたのかもしれない。そのおかげか、頭がすっと冷える。賢人も我に返ったようで気まずそうに天野を見た。
「二人とも、もういい加減に、ほら、他の人も見てるし」
 広場の全員の視線が俺たち二人に集まっていたことに、今更ながら自覚する。いつのまにか壇上に立つ二人もコントを辞めていた。喧嘩始まったらそりゃ見ちゃうよな。
 暫く無言でいると、その内始まったコントに視線が吸い寄せられていった。
「...俺は、信じてる。松崎先輩も、織山先輩も、みんなも。全部が嘘じゃないって」
 あの日部室で見た松崎先輩の涙を、俺は信じると決めた。賢人になんて言われようとも、あの悲愴な面持ちが嘘だなんて思えない。それに、先輩達が持つ覚悟だってちゃんと知っている。
「僕は散々忠告したからね。松崎真が卒業した後に、そのセンパイ達が素知らぬ顔で四年までとか言い出さなくなったとしても知らないから」
「それでも、もう裏切られたとは思えねえ。背中を押してくれたし、元気づけてくれたし、なにより一緒にいて楽しかった。与えてくれたものは、俺の中にちゃんとあるから」
「そんなの...僕だって...君に色々と...ただ恩返しがしたくて...」
 ぶつぶつと聞こえないような声量で話す賢人を無視して無言で立ち上がる。顔を見ないように振り向いて歩き出した。
 俺と賢人の距離が、離れていく。
 決別した瞬間だった。
「残念だけどっ、僕は明日からも隣に座るからなっ。何度だって言ってやるっ、間違ってるって!」
「明日も大学祭だから、授業ねーよ」
 間抜けなそれに、足を止めてしまう。
「そ、そうだった...」
「でもさ、俺も留年しねえように単位欲しいし、賢人の小言ぐらいなら我慢できっから、隣に座るぐらい許してやるよ」
 言い捨てて振り向かずに走り出す。どうせ賢人の隣に天野も座ることは目に見えていた。
 文芸ペンクラブの屋台のすぐ前で足を止める。売り子の歩先輩はぎょっとした顔で俺を凝視していた。
「いらっしゃいませー、ってまた俊一郎かよ」
「織山先輩! いや、部長!」
「え、シカト?」
 俺の声に、フリルのメイド服姿の織山先輩、違った、部長が金髪のかつらを揺らして振り返る。 
「どうしたの?」 
 大きく吸い込んだ息で、胸を震わせる。

「文芸ペンクラブに入部します?」

 大声に驚いた周囲が一斉に静まる。珍しいことにあの部長でさえも目を丸くしていた。
 ぴゅう、と唇を尖らせた徳寺先輩の口笛が風に乗って空に響いた。

                     〈了〉


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